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2002年3月13日

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 ◆今週の記事

◆嘘つきはナントカの始まり

 「UFO」といえば未確認飛行物体。「USA」といえばアメリカ合衆国。では「USO」といえば… そう、「ウソ」である。

 2月19日、ニューヨークタイムズ紙が国防総省内にある特殊な部局があることをスクープし、大きな話題を呼んだ。その部局とは「戦略影響局」(もしくは「戦略誘導室」)と呼ばれるものだそうで、昨年の「9.11」テロ後の11月に設置されたものだと言う。この部局の目的はいわゆる「情報戦」であって、特にイスラム諸国などの外国の世論や政府に影響を与えるような戦略的情報誘導を行うことで、そのためには「都合の良いニセ情報を報道機関に流す」ことも検討していたというのだ。これに警戒心を抱いたニューヨークタイムズ紙がスッパ抜いたものらしいが、一応その記事ではラムズフェルド国防長官は法律上の問題があるとして法律顧問と相談中で承認は与えていないということになっていた。
 ともあれ、政府機関がウソの情報を意図的に流す部局を作っていたということで騒ぎとなり、各マスコミが政府に確認を求めたところ、意外にあっさりと国務省の報道官が「その部局の存在を知っていた」と認めた。発言の正確な内容は僕は聞いていないのだが、国務省側としては「一部軍人の暴走」と批判的にとらえていたようで、この国務省報道官も「本当にニセ情報を流すつもりだったか、国防総省が説明してくれるだろう」と突き放した言い方をしていたという。
 翌日、ラムズフェルド国防長官がオリンピック開催地のソルトレークシティー訪問中にこの問題に言及した。国防長官は「アメリカ政府は自国民と外国の人々に本当のことを話す」としてニセ情報を流すことに否定的な見解を示したが、その一方で第二次大戦のノルマンディー上陸作戦時においてアメリカ軍がウソの上陸地点を示唆してドイツ軍を欺いた故事を持ち出し「戦術的に敵を欺くことは現在も将来も有効だ」と述べてニセ情報の戦術的有効性の強調も忘れなかった。

 この話の風向きが変わってきたのが25日。ブッシュ大統領自身がこの話に不快感を示し、問題の部局そのものの廃止を検討するよう指示を出したのだ。記者団の質問に対しブッシュ大統領は「われわれはアメリカ国民に真実を話す」と述べてニセ情報を流すつもりのないことを明言する(「アメリカ国民に」ってところがひっかかるんだけど)
 そして翌26日にラムズフェルド国防長官が「戦略影響局」の廃止を発表した。国防長官は「国防総省が行わない活動を戦略誘導室が行うといった不正確な推測が多い。漫画や社説の批判はまとはずれだ」と言いつつも「同局のダメージは大きく、効果的な活動はもはやできなくなった。だから閉鎖する」となにやらマスコミの報道に対するあてつけのような廃止理由の説明を行っている。
 フィライシャー大統領報道官の説明によれば、ブッシュ大統領がこの部局の存在を知ったのはニューヨークタイムズのスクープ記事そのものによってであったとのことで、国防総省からは全く報告を受けておらず、まったくの国防総省内の独り走りであったとしている。部局の存在を知ってホワイトハウスの側近たちがペンタゴン(国防総省)の勝手な計画に怒り狂ったとの報道もあり、ブッシュ政権内部の、特に国防総省の暴走ぶりの一端を示す形となった。

 … などと書いてみたんだけど、「戦略影響局の廃止」というニュースを聞いたとき、「あ、これが彼らの初仕事だな」と思ったのは僕だけだろうか(笑)。ま、何も今に始まったことじゃないけどね。


 さて、舞台はオーストラリアに移る。
 ブッシュ大統領の「悪の枢軸」発言を積極的に支持するなど、どうもこのところアメリカ追従姿勢が目立つオーストラリアのハワード首相だが、思わぬところからボロが出てちょっとした騒ぎになっている。
 昨年の後半からオーストラリアは「難民問題」で揺れている。特に「9.11」以後、アフガニスタンやイラクからオーストラリアに移住を求める難民が急増、これを受け入れるか受け入れないかで昨年後半のオーストラリア政界は大論争となっていたらしい。これら難民の多くがインドネシアを経由して密入国をしようとしてくるため、オーストラリア政府はこれらを密入国者として片っ端から収容所にぶち込んでいる。収容所内に押し込められた人たちは難民認定をしてくれと訴えているが、ハワード政権の姿勢は強硬のようで、収容所内では暴動や大規模なハンストによる抗議活動が行われている。この状況に教会関係者やNGOが批判の声を上げ、2月初旬にロビンソン国連人権高等弁務官も「人権への懸念」を表明して視察の特使の派遣をオーストラリア政府に要請した。しかしハワード首相は「すでに国連難民高等弁務官事務所が視察をしているのに、なぜ人権高等弁務官も来たがるのか」と不快感を露わにした発言をしたという。
 ハワード首相がこれだけ強硬なのも、実のところ世論の支持があるから。まぁそこはかつて「白豪主義」なんてもんをやっていた国ではあるし、不法移民の増加が社会不安を引き起こすことも事実なので難民のやたらな受け入れには反対する世論が強いようだ。ハワード首相の強硬姿勢もその世論があったればこそで、強硬姿勢を示しておいたほうが政権としても好都合という思惑もあるようだ。

 さて時間はさかのぼって昨年10月7日。イラクからの難民180人がインド洋クリスマス島沖で、オーストラリアの軍艦に追い返されるという事件があった。このとき、追い返されまいと必死になった難民が子供を海に投げ込んで抵抗したという話が出てきた。オーストラリア政府はこの一件を証拠写真(子供が救命胴衣を着て海に入っている)も示して「子供の命も犠牲にするわがまま勝手な難民たち」というイメージ作りを行い、難民受け入れ反対ムードをあおってその後の選挙戦を有利に進める結果となった。
 ところがこの「海に投げ込まれた子供」の話が全くの事実無根の作り話であったことが2月13日になって暴露された。事実がどういうものであったのか僕も正確にはつかんでいないが、とにかく「子供を故意に投げ込んだ」という事実は全く無く、事件から三日後の10月10日の段階でこの話が何の証拠もない「誤報」であることが政府機関によって確認されていた。しかしハワード政権はこの真相を故意に隠し、難民への反感を煽って選挙戦を有利にすすめたのではないか… との疑惑が起こってきたのだ。野党やメディアが「国民をだました」と批判の声を上げるのに対し、ハワード首相は「報告を受けていなかった」と弁明しているそうで。
  


◆「歴史の証人」の訃報あいつぐ

 「あいつぐ」って言っても一ヶ月もネタをためこんでりゃ、まぁいろんな方が亡くなりますよねぇ… 。

 2月11日、ドイツ・ミュンヘンの病院でトラウドゥル=ユンゲさんという女性が81歳の生涯を閉じた。このお方、何者かと言えばあのナチスの総統、アドルフ=ヒトラーの秘書を務めていたという女性なのだ。
 ユンゲさんがヒトラーの秘書になったのは1943年のこと。22歳だった彼女はヒトラーの魅力に惹かれて総統秘書に応募、見事に採用された。彼女のヒトラーに実際に会った印象はやはり「魅力的な人だった」そうである。後世の僕らから見ると「へえ」と思ってしまう話ではあるが、実際、とくに女性層に熱狂的なヒトラーファンがいたのは事実。人気という者は古今東西よく分からないものではある。なお、彼女はヒトラーのそばにあったがユダヤ人虐殺については一切耳にすることはなかったとも証言している(もちろんだから「無かった」というわけじゃないんだろうが)
 彼女はナチス・ドイツの崩壊に至るまでヒトラーのそばにあった。1945年4月、追い詰められたヒトラーが自殺を決意したときも彼女に命じて遺言の記録をさせたという。戦後、彼女は一貫して沈黙を守ってきたが、最近になって『最後の時まで』という回想録を執筆、また彼女のロングインタービューで構成された映画にも出演、歴史の証言を行った。この映画は『死の隅で・ヒトラーの秘書』というタイトル(邦題?)でベルリン映画祭にも出品された。この映画の監督によればユンゲさんはインタビューに応じるにあたって「私は語る時がきた。世界がそれ求めている」と語ったとのこと。彼女が息を引き取ったのは完成した映画がベルリン映画祭で上映された数時間後のことであったという。

 2月28日、日本の東京都杉並区の病院で館野守男さんという男性が87歳の生涯を閉じた。このお方、何者かと言えばあの太平洋戦争(当時の日本側のいう「大東亜戦争」)の開戦を知らせるラジオの臨時ニュースを読み上げた元NHKのアナウンサーである。この時代を扱ったドラマや映画などでその声を耳にしたことがある人も多いだろう。「臨時ニュースを申し上げます。大本営発表。帝国陸海軍は米英軍と戦闘状態に入れり… 」というアレだ。別のこの人が開戦したとかそういうことではないのだが、重大な歴史の一幕の出演者となったのは確か。
 単なるめぐり合わせというべきなのかアナウンサーの数がそもそもいなかったのか、この館野さんは1945年8月15日朝、正午から放送される昭和天皇の玉音放送の事前予告も担当している。「正午より重大な放送があります」というやつだったかな。これまた歴史の重大局面を担当するアナウンサーとなっちゃったわけだ(ちなみに正午の放送直前に全国民に起立をうながしたのは和田信賢さんというアナウンサー)
 しかし本当の劇的なドラマはその舞台裏にあった。玉音放送は前日の午後には録音されているが、戦争続行を叫ぶ陸軍将校の一部が反乱を起こして宮城を襲い、録音盤の奪取、放送の阻止を図った。しかし結局録音盤は見つからずいつの間にやらNHKへ運び込まれていた。あきらめきれない将校の一部がNHKに殴りこんで館野アナに銃を突きつけ「自分たちに放送をさせろ」と迫ったが、館野アナは機転を利かしてこのとき出ていた警戒警報を理由にこれを拒否した(警戒時の放送内容変更は東部軍の許可が必要だった)。命を張ったアナウンサー根性のドラマが歴史の舞台裏に確かにあったのである。
 僕は終戦の一日の舞台裏を描いた映画「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督の名作。必見!)でこのエピソードを知っていたのだが、そこでこの館野アナを演じたのは当時二枚目大人気スターだった加山雄三である。

 3月1日、日本の三鷹市の病院で池田俊彦さんという男性が87歳の生涯を閉じた。このお方、何者かと言えばあの1936に発生した陸軍青年将校らによるクーデター、「2.26事件」に参加した青年将校の一人だったのだ。
 池田さんは1935年に陸軍士官学校を卒業、陸軍歩兵第一連隊に配属された。1936年2月26日、池田さんは首謀者の一人の栗原安秀中尉らとともに下士官兵らを率いて首相官邸を襲撃、岡田啓介首相の暗殺を狙ったが間違えて首相の義弟を射殺してしまった。その後東京朝日新聞にも乱入したという。
 2.26事件は陸軍内部のいわゆる「皇道派」の青年将校たちが彼らの言う「君側の奸」を除き軍部主導の政権樹立を目指して起こしたクーデターとされるが、昭和天皇自身の激怒もあり「反乱軍」として鎮圧され首謀者たちはほとんどが銃殺刑に処された(このため首謀の青年将校たちは天皇に対する物凄い恨みを抱いて死んだとも言われる)。この池田さんは首謀者ほどはいかない下っ端とみなされたのか裁判では無期禁固刑の判決を受けたがわずか5年後に保釈されている。事件に関係した士官の最後の生き残りと言われ、1987年に事件を回想する著書も出版している。



◆「永世中立」から一歩

 大変なことである。あの「永世中立国」として有名なスイスがとうとう国際連合への加盟を決断してしまった。これが190番目の加盟国となる(ちなみに189番目の加盟国は太平洋のツバルで2000年に「史点」ネタになってます)。残る未加盟国はバチカン市国一国のみとなってしまった。法王、どうしましょう?(笑)

 スイスという国の歴史については過去何度か書いているような気もするんだけど、、まぁ一応お約束でおさらいしておくと、この山国の地域の人々がハプスブルグ家の支配に抵抗して独立運動をしていたのは13世紀なんて大昔にさかのぼる。1316年に三つの州の自治が初めて認められ、15世紀の末に13州が独立を獲得、公式にその存在が独立国としてヨーロッパ各国に認められるのは1648年に三十年戦争の終結条約として結ばれた「ウェストファリア条約」による。さらに1815年ナポレオン没落後のヨーロッパ秩序を決定した「ウィーン会議」で5州を加えた上でどこの国とも同盟を結ばずいかなる国際紛争にも中立の立場を堅持する「永世中立国」を標榜することになる。以後、21世紀にいたるまで数々のヨーロッパ激動の中でスイスは特殊な地位を守り続け、しばしば国際会議の開催地となり、金融業・観光業およびハト時計(映画「第三の男」参照)の国として知られるようになる。

 第一次大戦後、初の国際平和機関として設立された「国際連盟」はこのスイスのジュネーブに本部を置いた。しかしスイス自身はあくまで「永世中立」を国是として加盟はしなかった。そして第二次大戦後、「国際連合」が設立されたがスイスはやはり頑強に「永世中立」にこだわり国連への加盟をしてこなかった。ここ20年ばかり「さすがに国連ぐらいには入ろうよ」という政府主導の動きも起こってきたが、1986年に行われた国連加盟の是非を問う国民投票では反対75%という高い反対率(?)が示された。ちょうど一年前の3月にはEU加盟推進派が署名を集めて実施したEU加盟の是非を問う国民投票が行われているが、やはりこれも反対多数で否決されている。

 そして2002年3月3日、国連加盟の是非を問う国民投票がまた実施された。今回はそれまでとは異なり事前の世論調査で「賛成派有利」との結果が出ていたためこれまでにない注目を集めていた。果たして結果はかなりの僅差ではあるが賛成票が反対票を上回り、ついにスイスが国連に加盟することが確実となった。この歴史的な結果については「冷戦が終わった」とか「国連も普遍化が進んだ」といった認識がスイス国民の間に広がったからだとの分析が多い。
 だけど州別の動向を見るとなかなかに事情は複雑だ。スイスという国はフランス語、ドイツ語、イタリア語の三つの言語圏を抱えているが、そのうち西部のフランス語圏の州がほとんど国連加盟賛成にまわり、ドイツ語圏は都市部を除き反対優勢で、イタリア語圏は反対にまわっていた。この傾向は僕の記憶では昨年のEU加盟に関する国民投票のときとかなり似たところがある。かなり乱暴にまとめると賛成する都会派、反対する田舎派といったところなのかも。それでもEU加盟よりは国連加盟のほうが抵抗がないということではあるらしい。一部報道では「国連に加盟することでEU加盟は阻止する」という中立維持派の思惑があるとも言われる。
 「国連ぐらいいいじゃねーか」と思っちゃうところもあるが、確かに国連の決議でどこかに軍事行動を行わなきゃならないときはどうするんだとか(まぁ日本も似たような議論がありますが)、分担金など経済負担がかかってくるとか、「中立」の後退とみなされて国家産業ともいえる金融業の信用が落ちたらどうするんだとか(ゴルゴ13はどうする?)、いろいろと考えるところはあるだろう。

 とりあえずすぐ思い当たるのは国連とバチカンがケンカした場合、「中立」が維持できるのかってことかな(笑)。まぁバチカンの警備は伝統的にスイスの傭兵によって行われていたりするのであんまり問題にならないでしょうけど。



◆「宗教紛争」泥沼二題

 またこれか。パレスチナ情勢に加えて今回はインドの話も加わる。

 まずパレスチナ情勢だが、いい加減にしてくれと何度も書いているんだけど、事態は悪化の一途である。まぁ1年半前に聖地訪問を強行して騒ぎの発端を作って和平をブチ壊した「迷惑賞」の当人が一国の首相やってるんだから無理も無いけど。ここ一ヶ月が紛争再開以来最悪と言われているそうだが、「最悪と言えるうちはまだ大丈夫」なのかもしれない。おーこわ。
 前にこの話題を書いてから一ヶ月以上たっているわけだが、新たに書き加えるべき新情勢はあまり無い。相変わらず自爆テロと報復攻撃+侵攻の繰り返し。繰り返すごとにエスカレートしてきているようだが。
 ただ、ここに来てさすがにイスラエルのシャロン首相に対する内外の風当たりがいささか強くなってきたようにも感じられる。パレスチナに対して強硬な姿勢を示すことで高い支持を受けてきたシャロン首相だが、ようやくというべきか、国民のシャロン内閣への不支持率が支持率を上回ったのだ。予備役の士官クラスでの軍務拒否運動も広がりを見せているようだし、EUは言うに及ばず、アメリカもさすがにまずいとは思っているのか(自身の「対テロ戦争」の障害になるというのが最大の理由だろうけど)なんとかイスラエルの強硬姿勢にブレーキをかけようとはしている。日本もイスラエルの攻撃で日本の支援で建設された施設が破壊されたとかでイスラエル政府に抗議は行っていた。
 そんな中で近い将来のEU加盟を目指しているチェコのゼマン首相が「ヒトラーが最大のテロリストだった時代、彼と交渉しようというものはいなかった。今日、テロリストと交渉しようとするものがいないのと同じことだ」とパレスチナ自治政府のアラファト議長をヒトラーになぞらえたり「ナチ時代にチェコ国内にいたドイツ人同様、パレスチナ人も(イスラエルによる和平を受け入れないなら)国外追放されるべきだ」との発言までしてEU諸国の顰蹙を買っていたりする。アラファト議長をテロリストの親玉に仕立ててそれに責任を転嫁するのはシャロン首相のやり方だが(アラファト議長に全く責任が無いとは言わないが、もう抑えられませんってあれじゃ)、それを完全になぞったような発言である。

 このところちょっと目立った動きといえばサウジアラビアのアブドラ皇太子が提案した和平案か。これはアブドラ皇太子がニューヨークタイムズのコラムニストとの会見で述べたもので、第三次中東戦争(1967)でイスラエルが占領した地域(東エルサレムを含むヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原など)から全面撤退したらアラブ諸国はイスラエルを承認して外交関係を結ぼうというもの。アラブ諸国の大半がこれに同調する情勢だが、唯一リビアのカダフィ大佐だけは「イスラエルとアメリカを喜ばせるだけだ」と久しぶりに(?)気勢を上げているそうで。それでもレバノンなどにいるパレスチナ難民の帰還を認めるならイスラエルを承認してもいいとの独自の和平案を出してはいる。
 サウジ皇太子の和平案にシャロン首相は意外にも(?)「検討に値する提案」と評価するコメントを出している。これにはいろいろと見解が出ているが、確かにシャロンさん自身も手詰まり感があるところだから、何かうまい手はないかと模索しているのかもしれない。
 一方でパレスチナ人の間でのアラファト議長の支持率が急上昇しているとの面白い現象も報道されている。もちろん上昇といってもたかだか52%なのだが(でもあのひところ驚異的だった小泉内閣の支持率は上回った!?)、昨年10月の時点より14ポイントの上昇だと言うから驚く。シャロン首相にテロリストの親玉呼ばわりされ「相手にせず」と言われたり事実上の軟禁状態に置かれたりしたことがかえって彼への支持を呼び覚ましてしまったのかもしれない。つくづく不死鳥みたいな人ではある。その一方で2月あたまに自治政府議長およびPLO議長の後継者にアハマド=クレイ、マフムード=アッバスの二氏の名を具体的に口にするなど「アラファト後」へのシフトも見せている。これもアラファトを排除して傀儡自治政府を作りたいシャロン首相の思惑の先手を打った形であるようだが。

 3月最初の十日間はイスラエル・パレスチナ双方で150人以上が死亡する(比較するのもどうかとは思うがパレスチナ側の死者はイスラエル側の3倍以上になる)というあのインティファーダ開始以来最悪の状況を呈している。ちかごろはパレスチナ過激派のテロおよびイスラエル軍の報復攻撃だけでなくユダヤ人過激派によるパレスチナ人を標的にしたテロまで起こっているという。
 この状況の中でシャロン首相は今まで掲げていた「パレスチナ側が先に暴力行為を停止しろ。そしたらこっちもやめてやる」という姿勢を若干緩めて、「我々は軍事作戦を継続するが、同時に停戦実施の協議を始めるとアメリカ側に伝えた」と8日のTV番組で発言した。なおかつ軟禁状態に置かれているアラファト議長の行動もある程度自由にする意向まで示したのだ。まぁアメリカからかなり強くせっつかれたところが大きいのだろう。たかがこの程度のことでも大きなことのようで、シャロン政権に参画してきた極右政党が「シャロンは国民を裏切った」などと言って政権離脱を表明したりしている。だけど今のところ目に見えた変化が起こっているようには見えない。


 さて話をインドに飛ばそう。こちらはヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いである。そもそもインド世界は13世紀以来ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が混在する状態を続けてきたが、イギリスの植民地支配から独立する際に両教徒の対立が爆発、それぞれ一応の住み分けを行ったのだがそれが今にいたるまでインドとパキスタンの対立の一因となっている。それもあくまで一応の住み分けであってインド国内にまだ多くのイスラム教徒が存在していて、時折この宗教対立が火を噴いてしまう。それが噴いちゃったわけで。
 紛争が起きたのはインド西部のクジャラート州。この州にあるアヨディアという地もどうやら両教徒にとって聖地といえる場所らしく、しばしば紛争の種となっていた。1992年にこの地にあったモスクがヒンドゥー教徒たちに破壊され、インド全土で2000人が死亡する大衝突となっている。そしてその跡地にヒンドゥー寺院を建てようというヒンドゥー至上主義団体の熱烈な運動があり、イスラム教徒の反発を買っていたわけだ。
 2月27日、このアヨディアの寺院建設を求める集会から帰るヒンドゥー教徒たちの乗る列車が放火され、58人が死亡するという惨事が起きた。この放火をイスラム教徒のしわざとみたヒンドゥー教徒たちが報復としてイスラム教徒の住宅に無差別に放火、略奪、殺人を開始し、これにまた報復するイスラム教徒たちが武器を手にヒンドゥー教徒たちと衝突し、現時点で報道されている限りで700人を越える死者が出ていると伝えられている(人数的な話だけで言うとパレスチナより深刻だ)。ここでもインドのパジパイ首相がヒンドゥー至上主義者だったりするのだが、さすがにこの事態では一方につくわけにもいかず、この騒動を「国民の恥」と非難して沈静化につとめている。
 毎日新聞の記事に出ていた話だが、このクジャラート州は非暴力・不服従運動によるインド独立の父・ガンジーの出身地。ガンジーもまたヒンドゥー・イスラム両教徒の和解・共存を願って活動し、結局ヒンドゥー狂信者に射殺されたわけだが、このガンジーの思想に共鳴して異教徒間の融和に努力していた地元のイスラム教徒の元国会議員エーサン=ジャフリーさん(72)という人がやはりこの衝突の犠牲になり、地元マスコミは「無念の死」として悲しみの報道を行っていると言う。妻のナーシムさんは「ガンジー翁ゆかりの地で暴動が起き、多数の市民が犠牲になったのは、恥ずかしい」とメディアに語っているという。
 

 泥沼二題だけだと気分が滅入ってくるので、ちょっと付け足し。
 2月22日、やはり長年泥沼の宗教紛争を続けているスリランカで(こちらは多数派のシンハラ人仏教徒と少数派のタミル人ヒンドゥー教徒が戦っている構造)、どうにかこうにか停戦合意がなされ、23日から停戦が実施された。80年代から続く紛争でテロや戦闘で死んだ人は6万人にのぼるとか言われるのだが、お互い疲れ切ってしまって「もうやめよう」ということになったというところらしい。昨年12月にタミル人組織「タミル・イーラム解放の虎」が一方的に停戦をとなえ、スリランカの政権も12月の選挙でウィクラマシンハ首相の新政権に交代したこともあって停戦にこぎつけたということらしい。もちろんクマラトゥンガ大統領やスリランカ議会、そして仲介役のノルウェー(へえ)も「前途多難」と楽観視はしていないが、少しは前進をみせてもらいたいもんである。


◆溜め込み小ネタ放出(その二)

 では先週に続き一ヶ月間の溜め込み小ネタ放出パート2。

◆レーガン元大統領、歴代最長寿に!◆
 2月6日、レーガン元大統領がとうとう91歳の誕生日を迎え、歴代大統領最長寿記録を樹立してしまった。ご本人は1994年にアルツハイマー病であることを公表して自宅にこもって一切表には出ていないが、「冷戦の勝利者」ということなのか、人気は歴代大統領でもかなり高い(後世の歴史でどうなっているかは知らんが)ブッシュ大統領はこの日、レーガン元大統領が少年時代に住んだイリノイ州の家を「連邦史跡」とする法律にサインしたそうな。

◆プーチン大統領の伝記が大人気?◆
 ロシアのプーチン大統領の伝記「ウラジミール・プーチン伝」が発売され、あの「ハリー・ポッター」に次ぐ売れ行きとか。サンクトペテルブルグでの少年時代(当時は「レニングラード」だったろうけど)、「トラ小僧」と呼ばれるほどの悪ガキだったこと、中学で背が延びなくなったため大きい相手に勝つために柔道を習ったこと、成績はクラスでいつもビリだったことなどといった現在の冷たく無愛想な印象とは異なる少年時代の暴露ばなしが受けているとの話だ。その後、ソ連のスパイ映画を見たことをキッカケにKGBに入り(な、なんちゅう動機だ)、どういうわけか大ロシアの大統領にのぼりつめてしまうまでの立身出世伝。まぁ確かに面白そうですけどね。

◆バレンタインデー反対運動!◆
 他のネタでも書いたようにインドにもヒンドゥー至上主義団体や極右が存在するが、バレンタインデーを控えた2月13日、極右政党「シブ・セナ」のメンバー20人(… 少ないな)がニューデリー市内でデモ活動を行い、「バレンタインカードには男女が抱き合ったりキスしたりしている姿が描かれている」とバレンタインカードを焼いたり、カードを売る店に「欧米文化の悪影響を広げるな」と抗議を行ったりしたそうで。逆にインドでもバレンタインデーに恋人に贈り物をするという習慣が広がってきていることが知られるニュースですね。「チョコを贈る」という迷信を広めたりや「ホワイトデー」を発明するといったような菓子メーカーの陰謀はなかったようですが(笑)。

◆トウ小平結婚秘話◆
 亡くなってから5年になる中国改革開放の指導者・トウ小平(ええい、いつも思うがこの字どうにかならんか)。5年という節目もあってか伝記映画が製作されるなど(周恩来の伝記映画や長征の映画でトウ小平役を演じたソックリさんの専門俳優が演じるそうで)話題が多いようだ。そんななか、夫人の卓琳さん(86)が若き日の結婚秘話を披露、華僑向け通信社の中国新聞社がインターネット版で流した。
 なんでも二人が知り合ったのは日中戦争の最中の1939年、共産党が延安に拠点を置いていた時代。このころ卓さん(当時23歳)は共産党の公安部に務めていたが、当時八路軍第129師団政治委員のトウ小平氏(当時35歳)、戦場から帰ってくるとこの公安部にちょくちょく顔を出していたらしい。「家にこないか」などと言うから「気があるな」とは感じていたそうだが、トウ氏が卓さんの女性の友人を通して結婚を申し込むと卓さんの答えは「ノー」だった。卓さん自身がまだ若かったこと、またトウ小平が最初の妻をお産で死なせ、二人目の妻も離婚と不運続きだったことなどいろいろ理由はあったらしいが、最大の理由が「延安の共産党幹部は労働者や農民出身で、私たちはあまり結婚したくなかった。軽蔑するのではなくて、彼らは知識に欠け、話が合わなかったからです」と卓さんは語っていると言う(朝日新聞に出ていた訳)。うーん、確かに当時の共産党幹部って山賊の親分みたいなタイプも多かったんだけど(水滸伝みたいな世界をホントに展開している)そんな中でトウ小平はかなりインテリの部類だったはずなんですけどねぇ。
 ま、ともあれトウ小平の恋心はその程度ではめげなかった(後の彼の生涯を見ればわかるな)。直接会いたいと言うのでじかに会って二度ほど彼の身の上話や希望を聞くうちに、(ま、いいか。教養があるし、早晩どうせ結婚しなきゃいけないのだから、ちょうどいいチャンス)と感じた卓さんはプロポーズを受けたという。
 結婚式は毛沢東の居住する窯洞(ヤオトン。この地域の洞窟状の住居)の前で簡素にとりおこなわれたそうで。ああ、歴史、歴史ですねぇ。

◆英軍、スペインに上陸!◆
 わはははは、これには笑った。現代の軍隊でもこういう楽しいオオボケをやらかしてくれるのである。
 2月17日、迫撃砲やライフル銃で武装したイギリス軍兵士20人がスペインの保養地ラ・リネア・デラ・コンセプシオンの海岸に突然揚陸艇で乗り付け「上陸作戦」を敢行、観光客や漁師らが逃げ惑う騒ぎとなった。地元の警官から「ここはスペイン領だ」と教えられると、小声で謝りながら速攻で「撤収」していったという。上陸から撤収までわずか五分とか。
 スペインのあるイベリア半島とアフリカ大陸の間に、地中海という広い海の実に狭い入り口となる「ジブラルタル海峡」がある。この戦略上の要衝を押さえるイベリア半島の南端ジブラルタルの地は実はイギリス領。18世紀の初めに起こった「スペイン継承戦争」(1701〜1713。ルイ14世が孫をスペイン国王にねじこもうとして起こした戦争で、現在のスペイン王室がブルボン家である原因)の講和条約である「ユトレヒト条約」により、この地をイギリスが獲得することになったといういきさつがある。騒動を起こしたイギリス軍部隊はペルシャ湾へ向かう途中の演習を行ったもので、自国領のジブラルタルと間違えて近くのスペイン領内の海岸に上陸しまったものであった。
 イギリス国防省スポークスマンは「スペイン領土を取る意図、計画はむろんない。反省している」と平謝り(爆笑)。まぁ一応スペイン側にジブラルタル返還要求の動きがあるのも事実なのでヘタすると国際問題になりかねないところはあるんだけど。「英軍上陸」を受けてしまったラ・リネア・デラ・コンセプシオンの市長は「海岸線が入り組んでいるからねぇ」と同情気味だったとか(笑)。

◆台湾、ようやくモンゴル独立を承認!?◆
 台湾の内閣にあたる行政院が、これまで大陸中国とモンゴルの住民が台湾を訪問する際に特別枠での適応を義務付けていた「両岸人民関係条例」を改正し、それまで適応対象としていた「『大陸地区』の共産党が統治する地区と外蒙古」の記述から「外蒙古」部分を削除した。回りくどい書き方になったが、要するにこれまで「中華民国」の領土との見解を堅持していた外蒙古、すなわちモンゴル国についてこれが「独立国」であることを公式に認める作業に入ったということなのである。
 台湾、すなわち「中華民国」は本来辛亥革命によって清朝の領土を引き継いだ中国の正統政権との立場をとってきている。そのため台湾のみを「領土」としている今でも建前上は旧清帝国の領土全域を領土としていることになっていた。そのため1920年代にソ連の後押しを受けて成立した「モンゴル人民共和国」を承認しておらず、その後もずっと「モンゴルは中華民国領」との立場を崩してこなかった。共産党政権の中華人民共和国のほうは成立直後の1949年にモンゴル独立を承認しているが、島国国家になってしまった台湾の国民党政府はなおさら頑強にその立場を貫こうとし、教科書や地図でもそのような領土が書かれているとか聞いている。
 しかし李登輝前総統時代、そして陳水扁総統にいたる台湾出身者政権による現実路線の流れでモンゴルもようやく「外国」と扱って交流を進める気になったらしい。ただ台湾の憲法に「中華民国の領土は(憲法修正機関の)国民大会の決議をなくして変更できない」との規定があり、実際には憲法の改正が必要、との声もある。行政院の大陸委員会は「今回の改定は実務的なもので、領土や国家の定義とは無関係」として憲法改正にまでは及ばず、との構えだそうだ。



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