ニュースな
2002年3月17日

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 ◆今週の記事
◆核さん、やっておしまいなさい

 まずはやや旧聞に属する報道から。
 2月28日、アメリカの公文書館がニクソン大統領(在任1969〜1974)の会話を記録した録音テープを公表した。この中に彼の首席補佐官をつとめ特に外交政策における頭脳兼手足となって動いたキッシンジャー博士とニクソン大統領が1972年4月25日、当時泥沼化していたヴェトナム戦争に関して議論を戦わせた会話が記録されていたことが注目を集めた。報じられたところによると、その会話の中でニクソンは「私はむしろ核兵器を使いたいんだが」と発言、キッシンジャーが「それはちょっとやりすぎになります」と諌めると、ニクソンが「核兵器というのが気になるのか。君にはもっと大きく考えてほしいね」と核使用に乗り気な様子を見せていたと言う。しかし結局ニクソンはキッシンジャーの意見を受け入れて核兵器使用は見送り、大規模爆撃と機雷による港湾封鎖にとどめたという。この二人、決して気が合っているわけではないんだけど、お互いの長所・短所をよく理解し合っていたところがあるようで、彼らのやった大きな仕事として知られるソ連や中国との劇的な外交展開も似たようなやり取り(いつもかなり見解の相違があるが、結局どっちかが相手を認める)の結果実行に移されている。話が本筋からそれるけど、さらに何日か前にニクソンが中国に派遣する密使をブッシュ国連大使(のち大統領になる父ブッシュ)にしようかと提案したらキッシンジャーが「彼には知性が無い」と言って反対し自らがその密使になることにしたという秘話も暴露されていた(立場が無いブッシュ父(笑))

 アメリカが「抜かずの宝刀」核兵器を使用しようと考えたのはこれが最初ではない。1950年に勃発した「朝鮮戦争」で中国軍が北朝鮮に味方して乱入してきたとき、アメリカ軍(国連軍)の総司令官マッカーサーは北朝鮮から中国北部の都市に原爆を投下して形勢を逆転する案を立て、さすがに思いとどまったトルーマン大統領に解任されている。さらにホー=チ=ミン率いるヴェトナム共産党がフランスの植民地支配からの独立をめざして戦った「インドシナ戦争」の帰趨を決めたディエンビエンフーの戦い(1954年5月)の時にも、窮地に陥ったフランス軍を救うためにアメリカは原爆の使用を検討したと言われている。その後このヴェトナムにはアメリカ軍が入れ替わりに入って戦うことになるわけだが、やはりここでも核兵器の使用が検討されていたわけだ。すでにニクソン自身がこの件について語っていたのですでに周知の史実ではあったのだが、これが改めて物的に証明されたと言うわけである。
 このエピソードの主要人物であるキッシンジャー博士は相変わらず健在でアメリカの外交政策に少なからぬ影響を与える「ご意見番」的存在であるようだ。昨年の「9.11テロ」の後の「がんばれニューヨーク」キャンペーンのCMでも球場のダイヤモンドを一周してホームにすべりこんでましたしね(笑)。最近ではブッシュ大統領(もちろん息子の方)の「悪の枢軸」発言についても「ほかに言い方があるだろう」と皮肉まじりで苦言を呈していた。それでも「対テロ戦争」の方向に批判的なEU諸国にも文句を言っていたりするのであるが。

 で、そのブッシュ政権のことである。「9.11」以後ブッシュ大統領の支持率は80%台を五ヶ月間にわたって維持し歴代最長記録を樹立してしまったが(それまでの最長は第二次大戦直後のトルーマンの四ヶ月。次が湾岸戦争直後のブッシュ父で二ヶ月)、ついに3月初旬のギャラップ社世論調査で80%を切って70%台に入った。エンロン疑惑、「対テロ戦争」の無闇な強硬姿勢などで批判が多少出てきたことが原因とは言われているが… 。
 そんな中、3月9日付「ロサンゼルス・タイムズ」紙が国防総省が8年ぶりに議会に提出した「核戦略体制見直し報告」の機密部分をすっぱ抜いた。その内容は「通常兵器で破壊しきれない標的への攻撃」「核・生物・化学兵器攻撃に対する報復」「突発的な軍事情勢」の3点について核兵器使用の可能性を示し、その対象としてロシア、中国、北朝鮮、イラク、イラン、リビア、シリアの7カ国を名指ししていると言うのだ。また限定的な核攻撃を可能にするために小型の戦術用核ミサイルの開発もうながすとの部分もあるという。自国に飛んでくる核ミサイルを「ミサイル防衛システム」で完全防御する(可能かどうかは別として)だけでは飽きたらず、自国の核兵器を「抜かずの宝刀」とも言うべき抑止力としてだけではなく実際に使用できるような道を開こうとしているわけ。しかもその対象がいわゆる「ならず者国家」や「悪の枢軸」だけではなく外交的に意見の対立が起こりがちな国(とくにロシア・中国)までも含んでいるところが注目される。
 翌10日には今度は「ニューヨーク・タイムズ」が同報告書の機密部分をさらにすっぱ抜いた。それによればイラクや北朝鮮など五カ国を「テロ支援国」「大量破壊兵器開発の活発化」「長年の対米敵対関係」の3点で選び出し、特に地下深くにあると想定される生物化学兵器の貯蔵施設を攻撃するために小型核ミサイルの開発をすすめることを提言しているという。ロサンゼルス・タイムズのスクープした部分とあわせるとブッシュ政権が核兵器による先制攻撃を行う基準をかなり下げようとしている意図がうかがえる。
 これについてはアメリカの軍事専門家・核問題専門家からは核不拡散条約の精神に反すること、これが核兵器の拡散につながりかねないことなどを挙げて批判の声があがっているという。そもそもこれまでアメリカ政府は「核不拡散条約に加盟している非核国に先制核攻撃をすることはない」という基本方針を掲げていたはずなのである。核攻撃の想定相手に名指しされた国々はもちろん不快感を示したが、アメリカ国内でもそれなりに批判の声があるのは無理もない。さすがに「9.11」から間があいてアフガニスタンも一段落(?)したせいか、このところのブッシュ政権の暴走ぶりにさすがにメディアが鼻白らんできたというところなのかも。

 報道を受けてブッシュ政権は沈静化に躍起ではあったが、一方で含みをもたせた発言も見られる。報道の直後の11日にチェイニー副大統領が「我々が七つの国に先制核攻撃を準備しているというのは、言いすぎだ。アメリカはいかなる国をも、通常は核兵器で攻撃する対象とはしていない」と記者会見で述べたが「国防総省が国ごとに脅威の度合いを検討している」ことについては認めた。ブッシュ大統領などは13日にホワイトハウスで記者会見して核政策について異例の見解披露を行い、核兵器を「対アメリカ攻撃に対する抑止が最大の目的」であると位置付けながらも「すべての選択肢を持たなければならない」と述べてアメリカおよび同盟国の安全を守るためならあらゆる手段をとるとの姿勢を示し、核先制攻撃の可能性は否定しなかった。とくに例によってイラクのフセイン政権に「深い懸念」を抱いていると表明しこれに対する軍事行動を起こす意図をかなりにおわせていた。

 さすがは西部劇の国と言うべきか。「腰に下げているのは飾りじゃねえんだぜ」ってところなんだろう。核兵器だろうと拳銃だろうと人間が作り出した武器ってことではおんなじだしね、「使えなきゃ意味が無い」と思うところはあるだろう。当然腕を磨いておくために(?)射撃の訓練が必要なわけで、政権発足以来核実験を再開したくてウズウズしているのがよくわかる。とか思っていたら14日にアメリカの軍事問題研究所「グローバル・セキュリティー」が例の「核戦略見直し報告」の抜粋をウェブサイト上で公開、その中に「現在の核実験凍結は無期限に継続できないかもしれない」との指摘が含まれていることが明らかになっている。



◆ミャンマー政界で静かな動き?

 しばらく話題の無かったミャンマーからちょっと目を引く話題があった。なんと「クーデター未遂」という話なのだから穏やかではない。その割には大きいニュースになっていないけど… ?
 
 3月8日、ミャンマーの軍事政権はネ=ウィン元大統領(すでに御年90歳)の娘婿で実業家のアイ=ザウ=ウィン(もしくはエイ=ゾー=ウィン)とその3人の孫たちを「クーデターを企てた」として逮捕、ネ=ウィン元大統領の自宅もバリケードで封鎖した。さらに12日になって事件に関わっていた疑いがあるとしてソー=ウィン警察長官ら4人の高官を解任したと発表、軍事政権がこの手の話を内外に大々的に発表するのは異例のことで、ミャンマー政界内部に新たな動きが起こっているものとみられ注目されている。

 実業家がクーデターを企てるってのもよく分からないのだが、軍事政権側が発表したところによるとアイ=ゾウ=ウィン氏はこれまでネ=ウィン元大統領の娘・サンダ=ウィンさんの婿として特権を握りビジネスの手を広げていたが、このところネ=ウィン氏の影響力も弱まった(そりゃまぁお年ですしねぇ)ために特権を行使できなくなってきたことに不満を覚えて、軍の組織にはたらきかけ自らに有利な「傀儡政権」の樹立を目指したのだと言う。計画では軍事政権の意思決定機関「国家平和発展評議会(SPDC)」の議長・副議長および第1書記の自宅を襲撃して彼らの身柄を拘束し、ネ=ウィン元大統領の権威を後ろ盾に新政権を樹立するつもりだったとか。
 やはり気になるのがネ=ウィン氏本人がこの計画に関わっていたのかどうかということだが、軍事政権側では現時点では「調査中」としつつネ=ウィン氏本人は直接的には関わっておらず名前だけ利用されたものと見ているらしい。ただその娘のサンダさんについては少なくとも計画を知っていたものとみて監視下に置いているという。

 さてネ=ウィン氏といえばミャンマー(旧ビルマ)に長い間君臨した軍人独裁者である。彼は1962年にクーデターで政権を握り(この前年に吉兆の「白い象」が出現したって話題を以前書いたなぁ)、「社会主義」の看板を掲げて軍政を行った。1974年に民政に移行させたが大統領として君臨し続け、1981年に大統領を辞任した後も事実上の最高実力者の地位を保ち続けた。1988年に学生らを中心とする反体制運動が起こったことをきっかけにその支配体制はいったんは倒されたが、間もなく軍事クーデターで権力を握ったソウ=マウンによる軍政が開始される。1990年に行われた総選挙でのちにノーベル平和賞をもらうアウンサン=スー=チー率いる「全国民主運動」が大勝利したのだが、軍事政権はこれを無視して軍政を今日まで続けているわけだ。
 ミャンマーの軍政構造ってのは日本の自民党政治みたいに複雑怪奇なようで誰がどう権力を握っているんだかよく分からない。そのなかでネ=ウィン元大統領もある程度の影響力を維持していたが、さすがに彼自身の体力と共に衰えてきているということなのだろう(報じられるところによると昨年シンガポールで心臓手術を受けているとか)。そんな中でこれまで特権を握ってきた親族が焦って行動を起こした… というシナリオも考えられなくはない。
 だけどあくまで印象だが、最近やや柔軟な姿勢を見せ始めている軍事政権側が民政への移行を図って旧体制的な部分を排除にかかった動きと見た方がいいような。クーデター未遂騒ぎの直後の13日にEUの代表団がヤンゴン入りしており、15日にスーチーさんと会談、ここで今回の騒ぎのことも含めてミャンマーの政治状況について話し合った模様と伝えられる。この代表団はミャンマー出国後タイのバンコクで軍事政権側とスーチーさん側との対話を加速させる必要があるとの指摘をしており、19日からは対話プロセスを仲介している国連事務総長の特使がミャンマー入りすることになっている。こんなミャンマーをとりまく国際情勢(外圧ともいえるけど)がひょっとすると今回の騒動の背景にあるのかもしれない。



◆「ユーゴスラヴィア」の名前が消える

 僕は史学科ではいちおう東洋史専攻だが、一般教養で東欧史やロシア史の概説みたいな授業をとったことはある。そこでこの「ユーゴスラヴィア」についても習ったものだが、そこでユーゴの説明では定番のようになっていたらしい「数え歌」みたいなものを聞かされた。いわく、「一つの国家・二つの文字・三つの宗教・四つの言語・五つの民族・六つの共和国・七つの隣国」というやつだ(逆に読んでいったり多少見解が異なるケースもある)。あのころ、ちょうど東欧革命が進行しだしていたのだが、まだユーゴスラヴィアについては表立って動きが見えない状況だったはずだ。それから間もなくユーゴスラヴィア連邦はその数え歌に挙げられるような複雑な国家構成の矛盾を炸裂させてしまい、10年の時を経て解体の一途をたどっていった。そしてついに先週、「ユーゴスラヴィア」という国名自体が消滅することが決定的になったことが報じられた。

 「ユーゴスラヴィア」とは「南スラヴ人の国」という意味がある。脱線するようだが、僕が中国に旅行したときちょうどNATOによるユーゴ空爆が行われていて、NATOが「北約軍」、ユーゴが「南連軍」とちょうど対になるように訳略されていたのが印象的だったものだ。この国名の登場はそれほど昔の話ではなく、1929年のことである。ただ19世紀ごろから南スラヴ諸民族を統一する国家を建設しようという運動はあり、そこでこの「ユーゴスラヴィア」という名前が出てきたものらしい。
 ユーゴスラヴィアの位置するバルカン半島はその歴史的経緯から複雑に民族・宗教が入り乱れ、また周辺各国の野心がそこに渦巻いたために「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ第一次世界大戦の引き金ともなったのは歴史の授業でも必ず習う必須事項だ。そして第一次大戦が終結したのち、この地を支配していたオーストリア・ハンガリー帝国が解体され、1918年12月にセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人による「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」なる長ったらしい名前の独立王国が建国された。国王にはセルビア国王がそのままシフトして即位したが、この段階ですでに民族対立(特にセルビア人とクロアチア人の)が激しくなっており、早くも王国解体の恐れが出てきた。そこで国王アレクサダル1世がクーデターを起こして事実上の国王独裁制をしき、国名を「ユーゴスラヴィア王国」と改称した。これが国名としての「ユーゴスラヴィア」の初登場であるわけだが、この国名をつくることによって各民族の帰属意識を「南スラヴ」の名のもとに統合しようと考えたところがあるようだ。

 しかしそんな目論見は一向に実現せず、ユーゴスラヴィアの歴史はそのまま国家内民族間の対立・闘争の歴史を繰り広げていくことになる。第二次大戦期にはナチスによる侵略があり、これに民族間憎悪が絡み合って泥沼化。これをどうにかまとめたのがパルチザン活動でナチスに抵抗していた共産党の指導者チトーで、第二次大戦後に社会主義国としてユーゴスラヴィア連邦を建国する。チトーは社会主義国家群の親分であるソ連の支配を拒絶し、いわゆる「非同盟主義」の中心的存在になるなど独自の外交路線を展開して「ユーゴスラヴィア」の国際社会における存在感をぐんとアップさせたが、「南スラヴ民族」の統合にはさすがに成功できなかった。それでも今から考えてみるとチトーのリーダーシップってのは大変なもんだったんだと思い知らされる。チトーは1980年にこの世を去るが、その後ユーゴスラヴィアは80年代のうちはゆっくりと、90年代に入って急激に解体していく。90年代から始まるユーゴ解体の凄まじい民族紛争についてはここでは触れまい。

 この「史点」を書き出した最初の年にコソボ紛争があり、NATOによるユーゴ空爆があり、ユーゴ連邦大統領のミロシェビッチ氏は初期「史点」の常連登場人物だった。2000年秋にミロシェビッチ政権が崩壊し、2001年春にミロシェビッチ元大統領が「戦犯」として引き渡され裁判になっている。そして気がつくと「ユーゴスラヴィア連邦」を構成しているのはセルビア共和国(人口1050万人)とモンテネグロ共和国(人口68万人)のみという状況になっていた。そのモンテネグロもユーゴ連邦からの離脱を志向する動きが絶えなかったのだが(すでに法定通貨は「ユーロ」になっているのだとか)、EU諸国が無用の混乱を望まなかったこともあってモンテネグロの完全独立は押さえ込まれる形になっていた。
 そして2002年3月14日、セルビア・モンテネグロ両共和国の代表とユーゴ連邦大統領コシュトニツァが国家を枠組みに関する憲法修正の基本案で合意に達した。その内容は新国名を「セルビア・モンテネグロ」としたうえでモンテネグロが連邦国家内にとどまることを明記、連邦政府の縮小と共和国政府の権限拡大を盛り込んでいるという。言ってみれば「連合国家」というところか。連邦体制は維持されるものの「ユーゴスラヴィア」の国名はついに放棄されることになったわけである。一応正式には議会の承認を得なければならないので6月ごろ決定の見通しだとのこと。

 … とまぁ、これだけで十分一つの記事になっちゃってるんだけど、執筆作業間際になって関連ニュースが飛び込んできた。3月14日、ユーゴスラヴィア連邦軍憲兵隊がセルビア共和国のペリシッチ副首相を「スパイ容疑」で逮捕したというのである。逮捕の場はレストランだったのだが、そこに同席していたアメリカ外交官の身柄も拘束された。アメリカ外交官のほうは15時間後に解放され(当然アメリカ政府から抗議が出された)、副首相のほうも16日に釈放されているのだが、連邦軍当局者は逮捕容疑について「秘密文書をアメリカに渡そうとした」と述べている。文書ではなくミロシェビッチ政権時の会議の録音テープだという報道も出ている。このペリシッチ副首相はもともとミロシェビッチ政権に参画していた時期があり、裁判中のミロシェビッチ元大統領に不利となる証拠をアメリカ側に引き渡そうとしたのではないかと憶測が飛んでいる。
 さらにややこしいことにこれにはユーゴ連邦のコシュトニツァ大統領とセルビア共和国のジンジッチ首相との対立が背景にあるとの見方があることだ。実はミロシェビッチ以外にもNATO側が「戦犯容疑者」と名指ししている人物がまだ逮捕されずにセルビア国内にいるのだが、連邦政府および軍はこの引渡しを渋っているのだ(ミロシェビッチ引渡しだって苦汁の選択って感じだった)。で、アメリカが「容疑者を31日までに引き渡さないと経済支援は打ち切りだぞ〜」と昨年と全く同じ脅迫をしてきたため、ジンジッチ首相は共和国の警察権を利用してこれら容疑者の逮捕に前向きの姿勢とみられていた。これに焦った連邦軍関係者が先手を打って… などなど、これもあくまで推測なのだがとかくややこしい状況があるのは確か。

 なお、ユーゴスラヴィアの歴史に関しては当サイトと相互リンクさせていただいている「サイバー・ユーゴスラヴィア歴史研究省」というサイトが詳しいのでそちらを参照のこと。実はこの記事書くのにも参考にさせていただきました。



◆また細かいネタ特集

 どうも捨てがたい小ネタが多くてですねぇ。今回も特集形式で数本まとめました。

◆ローマ法王、ロシアにバーチャル訪問!?◆
 3月2日のことなのだが、ローマ法王ヨハネ=パウロ2世がバチカンから衛星回線を使ってモスクワのカトリック教会に設置された大スクリーンを通してロシアのカトリック信者3000人にメッセージを送った。法王はロシア語で「我々はいつも信仰と福音の儀式で結ばれている」と語りかけ、その模様はアテネやウィーンなど5都市へも中継されたという。文明の利器を駆使した伝道活動で、なるほど「それでも地球は回る」のガリレオさんに謝罪するわけだな、などと勝手に思ってしまうところ(笑)。
 しかしこのイベントに対しロシア正教会から猛反発が上がっている。各宗教との和解活動を積極的に進めている法王はウクライナ・カザフスタンなどにも訪問を実行しているが、「本命」のロシア訪問はロシア正教会の「宗教侵略だ!」との反発があるため実現していない。しかしバチカンは最近ロシア国内にカトリック教区を初めて設置するなど正教会側が「侵略」とみなすのも無理もない積極的な動きを見せている。今回のイベントをロシア正教会側は「バーチャル訪問である」とみなして警戒心をあおりたてている様子。

◆消されちゃったあのお方◆
 先ごろブッシュ大統領が日本・韓国を経由して中国を訪問したが、それにあわせて中国政府から「中美関係30年」をテーマとする記念写真集が発行された(さすがの日本もやりませんな、こんなこたぁ。居酒屋には連れて行ったけど)。劇的な外交転換を行ったニクソン大統領の訪中から始まって政治指導者の写真を中心に外交関係史をつづったものだという。ちなみに表紙は昨年の上海APECで撮影されたチャイナ服を着たブッシュ大統領と江沢民国家主席が握手しているツーショットだそうで。そういえば江沢民の後継者と完全に目されている胡錦涛さんをさっそく招待してましたな、アメリカは。
 北京発共同の記事で注目点になっていたのが、天安門事件で民主化要求の学生たちの立場に立ったとして失脚した趙紫陽元総書記(おおっ、MS−IMEは一発変換するぞ!政治的意図!?)の記録がこの写真集に完全に出てこなかったことだ。一時はポストトウ小平の声もあったこの人だから当然対米外交の現場に顔を出していたはずなのだが、まさに「いなかった」ことにされちゃっているわけ。今も趙紫陽さん、自宅に軟禁状態とか聞いている。今さら、とも思うのだがそれだけ警戒されるようなところがあるんだろうか?
 今回のケースはもともと彼が映っている写真そのものを排除したということらしいけど、かつての中国共産党政府は写真改造の本場として有名だった。とくに文化大革命期には「反革命分子」の烙印を押されて失脚するとその途端に毛沢東と一緒に映っている写真からその姿が消滅したりしていた(その人の代わりにその後ろの風景が書き込まれるのだ)。そういうのばっかり集めた本を読んだことがあるが、恐ろしいと同時にかなり笑えたものだ。

◆アンゴラ内戦続報◆
 二週前にアフリカネタの中で書いたアンゴラ内戦情報の続報。あの時書いたのは2月に「アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)」の指導者・ザビンビ議長が戦死したという話題だったが、結局これがキッカケになって3月15日に政府軍とUNITAの代表団がモシコ州で会談を行い、内戦終結の合意に達した。正式な停戦協定はまだ決まっていないが、1994年に一度結ばれ結局崩壊した「ルサカ和平協定」の遵守を目指すことになると言う。これでうまくまとまればいいんだけどねぇ。

◆少数民族の言語を公用語に?◆
 北アフリカのアルジェリアのお話。3月12日、アルジェリアのブーテフリカ大統領が、国営ラジオを通じた演説で同国の少数民族ベルベル人が使う「タマジット語」を公用語化するとの方針を表明した。「少数」とはいってもベルベル人はアルジェリア国民の約2割を占めると言われ、独立志向が強い。去年には大規模な反政府デモを起こして治安部隊と衝突して多数の犠牲者が出るなどの事件もあり、これをなだめるための方策と見られている。アルジェリアの多数派はアラビア語を話すためアラビア語が公用語であるわけだが、ベルベル人はタマジット語をこれと同等の公用語にすることを要求しており、これを受け入れた形だという。フランス系住民が多くて独立運動もあったりするケベック州をなだめるためにカナダがとっている政策みたい。


2002/3/17の記事

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