ニュースな史点2002年4月23日
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三週間もストップしていた史点の執筆が再開されようが、阪神の絶好調に翳りがさそうが、ロッテの連敗が止まろうが、田村亮子の連勝が止まろうが、パレスチナの情勢の悪化だけは止まらない。とくに僕が史点執筆をサボった三週間は事態は最悪の状態に向かう一方だった。ホント、もういい加減この話題書きたくないんだけどねえ…
だいたいもうタイトルがつけにくくてしょうがない。
パレスチナネタをとりあげたのはすでに一ヶ月前のこと。その時の進展といえばサウジアラビアのアブドラ皇太子が新たな和平提案をしていたというところだった。で、結局そんなものも忘れさせてしまうほど事態は悪化の一途をたどっていった。
パレスチナ側の自爆テロとイスラエル軍の侵攻のサイクルが延々と続いていたのでもう僕もいつごろ何が起こっていたのか整理できない状態。とにかく世界的に緊張が高まったのは3月末にイスラエル軍がパレスチナ自治区の都市ラマラに大規模に侵攻し、ここに事実上の軟禁状態に置かれていたパレスチナ自治政府のアラファト議長のいる議長府に対する攻撃を開始したときだった。すでにイスラエルのシャロン首相は「アラファトを相手にせず」宣言をしたり「アラファトはテロの首謀者」と名指しして非難するなどあの手この手でアラファト議長を攻め立てていたが、そうすればするほどアラファト議長に対するパレスチナ人の支持が高まり議長の存在感を高めてしまうという逆効果を招いていた。これにいらだつ余りそれまで禁じ手にしていた議長府そのものへの攻撃を開始したことで、世界はイスラエル軍が本気で「アラファト殺害」を実行するのではないかと懸念した。議長府では一時激しい銃撃戦が行われたりもしたが、さすがに土壇場でアラファト殺害はまずいと思ったのか「議長本人に危害を加えるつもりは無い」とイスラエルのベンエリエゼル国防相(この人自身は労働党出身で穏健派とされる)が発言し議長府を完全包囲して「兵糧攻め」の体勢をとった。これに対しアラファト議長は「私は降伏するつもりはない。殉教者になるのみ」と徹底抗戦の構えを見せ、これにヨーロッパなどの平和運動家らが「アラファトを守れ」と議長府に乗り込み「人間の盾」としてイスラエル軍の攻撃の阻止をはかり、議長府内への食糧などの差し入れを実現するなどしてイスラエルとしてはさらに手が出しにくい状況となっていく。
この議長府をめぐる攻防でフッと沸いて出たような話があった。議長府を占拠した直後の31日、イスラエル軍報道官が「議長府内で大量の偽造イスラエル紙幣と、鋳型を発見した」と報じたのである。さらに4月2日にはアラファト議長の側近で警察治安組織の財政担当をしているショーバキ氏の議長府内のオフィスから大量の武器・偽札とともに「自爆テロを財政的に支援していることを証明する文書」を発見したとの発表があり、イスラエル側はこれらを「アラファトの自治政府が自爆テロに直接関与した証拠」として掲げ、軍事侵攻を正当化する重大な根拠とした。だがこの話、気のせいかイスラエル以外では第一報以後とんとマスコミの話題に上っていない。特に「偽札」うんぬんの話にはなんとなく「胡散臭い」と誰もが思っちゃうところなのだろう。
3月31日、シャロン首相は「我々はテロ戦争を強いられている。テロの基盤を破壊することに一切容赦しない」とまたしてもどっかで聞いたような趣旨の演説をし、さらなる軍事的強硬路線を突き進む。4月2日には「アラファト議長が議長府を出ることを認める。ただしそれは片道切符だ」と発言してアラファト議長のパレスチナからの「追放」まで示唆した。しかしアラファトをどうこうしたところで自爆テロがなくなるわけでないのは誰にも分かりきっているところで(実際アラファト監禁後もテロは収まっていない)、イスラエルの強硬姿勢に対する国際世論の非難が高まったためにこの追放話もいつしかお流れになっていく。
さて、ここでついにアメリカが重い腰をあげる。ことイスラエルについては一身同体とも言える姿勢を見せてきたアメリカは、このような状況においても「イスラエルの軍事行動に理解を示す」という態度を取り続け「深入りはすまい」という姿勢をみせていた。なにせ自分と同じ「対テロ戦争」の旗を掲げるシャロン政権に真っ向から「否」ととなえられるはずもなく、また父ブッシュの時代にイスラエルに妥協を求めたことでユダヤ系米国民の票を失って再選できなかったという反省もあるうえ「クリントンと同じことはしたくない」ってな気分もあるようでパレスチナ問題に介入する気はあまり無かった。しかしやりたくてしょうがないイラク攻撃のためにはアラブ諸国の協力が不可欠であり、そのためにはパレスチナ問題をなんとかまとめなければならない。
そんなわけで4月4日、ブッシュ大統領が声明を発表、「イスラエルの自衛の権利を認めるが、和平への基礎を築くためパレスチナ支配地域からの撤退を求める」という表現でイスラエル軍の全面撤退を明確に要求、また国連安保理決議に基づいて第3次中東戦争での占領地からイスラエルが全面撤退すること、占領地域へのユダヤ人入植地建設を中止すること、また将来のパレスチナ国家建設をアメリカが支持することなど、これまでのアメリカ政府の姿勢からすればかなり踏み込んだ要求をイスラエルにつきつけた。もちろんパレスチナ側にテロ抑止を求めることやイランやシリアがテロ組織に援助しているとして警告することも忘れなかったが。そしてパウエル国務長官を現地に派遣して事態の収拾にあたらせることを発表した。
かくして全世界の期待を一身に受けてパウエル長官が中東に乗り込むことになったのだが…
結果はご存知の通り。まぁ最悪では無かったかもしれないが事態がさして好転したようにも見えない。なにしろパウエル長官の姿勢はのっけから及び腰だった。エルサレムに直行せずにモロッコに行ったことで会談したモハメド・モロッコ国王から「真っ先にイスラエルに行くべきだった」と嫌味を言われ、続いて会談したサウジアラビアのアブドラ皇太子からも「イスラエルの軍事作戦はアラブのアメリカに対する信頼感を崩壊させている」と厳しく批判された。こうした流れの中でパウエル長官は「パレスチナ人の指導者」としてアラファト議長と会談することを正式に表明するが、これにはシャロン首相が反発を示し、一時はパウエル-アラファト会談の実現は危ぶまれた。なんとかここはアメリカ側が押し切ってアラファト議長と会談を行い、思い返してみるとこの会談を実現してアラファト議長のメンツを立てたことがこの中東歴訪の最大の成果だったかもしれない。要するに目に見えた成果はほとんど無かったわけで(一応イスラエル軍の一部撤退という現象がその後起きたが)、かえってアラブ諸国のアメリカ不信をさらに強めただけかもしれない。帰りがけにエジプトに寄ったらムバラク大統領が会談をキャンセルしたあたりにもそれがうかがえる。
それにしてもイスラエルはブッシュ大統領の撤退要求も無視し、パウエル長官が来ている間にも軍事作戦を続けていたあたり、ひょっとすると「世界最強の国」ってイスラエルのことなのかもしれない。あのアメリカですら言うことを聞かせられないんだから。というか特にアメリカがそういう国だってことなんだけど。実際、イスラエルへの全面的な支持を掲げるユダヤ系アメリカ人の過去最大のデモが行われ、中間選挙の近いアメリカ政界にかなりの圧力をかけているし。同様のユダヤ人の動きはヨーロッパ諸国でもあるようで、どこのユダヤ系団体の集会でも「イスラエルの軍事行動を支持する」ということでまとまってしまうらしい。もちろん「じゃああのシャロンのやり方を支持するのか」と言われるとさすがに気が引ける人もいるようだが、やはりイスラエルの軍事行動を非難するという人は少数派のようだ(というかイスラエル国内にいる人より外国にいるユダヤ人の方がより単純に支持している印象もある)。
こうしたユダヤ人たちの姿勢は、アラブ系、イスラム教徒だけでなくヨーロッパ人の間にも「反ユダヤ感情」をくすぶらせる結果となっている。実際、ヨーロッパやイスラム諸国の各地でユダヤ人の施設が襲撃されるなどの動きが出始めており、それがまたユダヤ人たちの「我々はいつも抑圧される民族だ」との被害者意識を強めてますますイスラエル支持にまわるという悪循環すら見えてきている。世界中のユダヤ教徒のみなさんに言いたいんだけど、イスラエルのやってることをもうちょっと客観的に見るようにしてもらいたい。
ざっと見渡した限り、世界中のほとんどの国がイスラエルの姿勢を非難する方向で一致しているといっていい。だいたいなんとかまとまりかけていた和平プロセスをご破算にして今日の事態を招いた張本人がシャロン首相その人であり、圧倒的な軍事力を持つイスラエルが力で弱小のパレスチナをねじ伏せるという構造がミエミエだからだ(弱い側の抵抗として自爆テロしか出来ないってことになる。もちろん無差別に一般市民を巻き込むテロは感心しないが)。EU諸国もほぼ一致してイスラエルを非難しており、そのEUの中にあって過去のいきさつもあってユダヤ人相手には腰が引ける傾向があるドイツ政府も今回ははっきりとイスラエル非難にまわった。アメリカと歩調をあわせる傾向の強いイギリスもさすがにこの状況ではイスラエル批判にまわっている。
ちなみに日本も直接的非難はしていないものの国会の衆参両院で「パレスチナ紛争の即時停止と対話の再開を求める決議」をほぼ全会一致で採択し、その中でイスラエル軍の早期撤退と軍事作戦の即時停止を求めている。日本のこの手の動きは紛争している両者にバランスよく声をかけるのが常だが、今回は国際世論の情勢をかんがみてか、かなりイスラエル側を批判する内容となっており、イスラエルの駐日大使から「テロに対する批判が無い」と抗議を受けてもいる。なお、衆院では全会一致、参院では自民党議院が一人だけイスラエル側の主張そのままの理由により反対にまわっていた。まぁなんでも全会一致てのは不気味なもんだけどね。
さてこの文を書いている時点でもまだ事態は流動的なのだが、とりあえずシャロン首相は21日に「作戦は終了した」との声明を出して軍隊の一部を各都市から撤退させ始めている。だがその間にも自治政府議長府に突入する動きをちらつかせたり、パレスチナの活動家をまた例によって武装ヘリで「暗殺」したりと、事態を収拾する気があるとはとても思えない行動も見せている。
そんななか次第ににクローズアップされてきたのが、イスラエル軍が侵攻し大規模な戦闘が行われたジェニンのパレスチナ人難民キャンプで、イスラエル軍が民間人数百人を虐殺したのではないかとの疑惑だ。4月11日にパレスチナ側から疑惑の提起がなされると、ジェニン作戦の司令官は「もしそんなことをしたのなら、作戦は1日で済んでいた」あるいは「一般市民を戦闘に巻き込む虐殺行為をするつもりならば、空爆した方がイスラエル兵の被害も少なくてすむ」と述べ(これはこれでかなり恐ろしい発想だと思うのだが)戦闘で若干の民間人を巻き込んだかもしれないがとしながらも「虐殺」は否定した。だが報道機関の動きを異様に気にし発砲までするイスラエル兵士、そしてジェニンでの遺体の埋葬をイスラエル軍が一方的に行おうとしたものだから疑惑はいっそう強まった。この埋葬についてはイスラエル最高裁が「待った」をかける一幕もあったらしいが(アラブ系のイスラエル国会議員の訴えによる)その後の情報が錯綜していて結局どうなったかはちょっと分からない。
パレスチナ側の主張によれば500人前後の難民が虐殺されたという。イスラエル側はあくまで100人程度の巻き込まれた死傷者がいるものと主張しているが、人権団体・国際アムネスティが一部の遺体を調査したところ「イスラエル軍が民間人も狙って攻撃した証拠がある」としてかなり「クロ」とみなす発表が出されている。国連もこの問題については本腰を入れて調査するつもりのようで、あの緒方貞子さんを含む調査団がこれから派遣される。これに対しイスラエル側はかなり露骨に嫌がる姿勢を見せているようで、これが余計に国連の反発を買っているようだ。ホント、世界を相手に戦争しかねないぞ、シャロン氏は。いま世界で一番の困ったチャンには違いない。
さて、現在もイエスの生誕地ベツレヘムにある聖誕教会にパレスチナ武装勢力がたてこもっているとしてイスラエル軍がこれを包囲、包囲戦が続いている。場所が場所だけにバチカンなどキリスト教会も憂慮を表明しているが、ほんと神も仏もないもんである。などと勝手なことを言ってしまうのが宗教的にアバウトな日本人の感性なんだろうが。
4月17日、この緊迫の聖誕教会にノコノコと観光旅行にやって来た日本人カップルがいた。「6ヶ月以上も旅を続けていて新聞もテレビも見ていなかった」と二人は語っているそうで呆れかえるほか無いのだが、それにしてもよくまぁそこまで旅行を続けていられたものだ。検問所でタクシーをおりて破壊された道を教会近くまで歩いていたところを報道陣に見つかって初めて事態を知ったと言うのだが…
まぁ世界に恥をさらしたともいえるが、そういう「平和ボケ」も悪いもんではないなと僕は思う。だって客観的に見てあんなドンパチを繰り広げてる方がずっと異常だって。
◆日英ロイヤルネタ対決パート2
「史点」もなんだかんだで3年以上やってるから登場人物で物故者になってしまった方も多い(歴史上の人物の話題の場合そのほとんどが物故者だけど)。「今も生きている歴史上の人物」という人を何人か扱ったものだが、昨年西安事件の主役・張学良氏が亡くなり、残るは蒋介石夫人の宋美齢さんぐらいという状況(先日誕生日を迎えていたが公式には満103歳とか)。そしてこうした人たちと同世代であり、やはり歴史の生き証人として史点で取り上げさせてもらったイギリスのエリザベス皇太后が3月30日、101歳でついにこの世を去った。僕はこのニュースの第一報を、時速250キロですっ飛ばす新幹線の車内に流れる電光掲示ニュースで知ったのだが、彼女が生きた一世紀の間に移動手段・情報伝達ともにとんでもない発展をしてしまったんだな、と変な感慨を抱いたものだ。
この人の人生については以前書いたことがあるんだけど(2000年8月6日「史点」。この回にはビン=ラディンやオマル師まで登場する)、またおさらいしておこう。エリザベスさんはスコットランド貴族の生まれで1923年に国王ジョージ5世の次男ヨーク公アルバート王子と結婚した。この人がいわゆる「国母」になっちゃったのはそれこそ運命のいたずらみたいなもんで、先々代の国王・エドワード8世がアメリカ人女性シンプソン夫人と恋に落ち、結婚のために王位を捨ててしまったいわゆる「王冠をかけた恋」のために弟のアルバート王子がジョージ6世として急遽王位に就くことになり、その妻であったエリザベスさんもいきなり王妃になっちゃったといういきさつがある。第二次大戦時にロンドンがドイツのV2ロケットによる空襲にさらされ政府から王室一家の疎開を勧められたときに「子どもたちは私なしで行けないし、私は国王を置いては行けない。そして、国王は決して逃げないでしょう」と答えてイギリス国民を鼓舞し、あのヒトラーをして「ヨーロッパで最も危険な女性」と言わしめたというエピソードが最も有名。その後はこれといったドラマは無いんだけど、昔ながらの王族の格式を保つ「浪費」を重ね批判を一部から受けつつも、ごたごた続きの王室の中で国民からかなりの支持を受けていた人でもある。ちなみにダイアナ元皇太子妃とは仲が悪かったらしいですが(わかるような気もする)。これだけの長生きであり、大往生といっていい最期だったが、直前に次女のマーガレット王女に先立たれたのが不幸ではあった。
ところで2000年に100歳を祝う式典が行われた際にBBCが式典の中継をせずに通常の連続ドラマを放映したことでとやかく言われる騒ぎがあったが、今回もBBCが皇太后死去のニュースを伝えたニュースキャスターが黒ネクタイをしめていなかったとか最期を看取った皇太后の姪にしつこく状況を聞こうとしたとかでチャールズ皇太子が「無礼」と激怒する一幕があったそうで。また4月5日に遺体が国会議事堂内のウェストミンスターホールに移送される際に、棺と共に行進する者を男性に限る伝統を破って皇太后と特に親しかった孫のアン王女が女王の許可を得て行進に参加したことなどが伝えられている。
さて日本では。あの大正天皇の実録が3月29日ようやく公開された。情報公開法に基づく新聞記者の公開要求に対し宮内庁は例によって公開を渋っていたが、情報公開審査会が実録を「歴史的資料」と認定して公開を求めたためしぶしぶ一部に限り公開することとなったわけだ。しかしそこは宮内庁、実録編纂にあたっている書陵部が昨年作成した「書陵部所蔵資料一般利用規則」により「個人情報については公開制限が出来る」として、今回の公開部分のうち141箇所、86日分が黒塗りされるという、終戦直後の国定教科書みたいな状態での公開となった。明治天皇実録なんかはとっくに公刊されているのだが、大正はまだ関係者が多く生きているから、ということなんだろうか。
それでもまぁまぁ面白い新事実がいくつか出てきた。なかでも注目だったのは「大正」という元号の出典。「明治」も「昭和」も判明しているのになぜか「大正」の出典は不明となっており(なぜか知らんが大正がらみって謎が多いような…
)、これまで『春秋』からとったという説と『易経』からとったという説とがあったのだが、今回の公開で『易経』の「大亨以正、天之道也」という文から字がとられたことが明らかとなったのだ。他にも大正天皇の日常生活やら漢詩を意外に多く作っていた事などが明らかになっている。
◆地下から遺体がゾロゾロゾロ
これまで何度かあったことだが、しばらく執筆をサボっているとその間に不思議と似たようなネタ、共通するキーワードを持つネタが集まってくることがある。これなどはまさにその典型。ちゃんと毎週連載やっていたら三週連続で「遺体ゾロゾロ」ネタが載っていた可能性がある(笑)。
昨年10月、バルト三国の一つリトアニアの首都ビリニュスのアパート建設現場で大量の白骨死体が発見された。なんとその数は1000体にものぼり、現場付近はその昔ナチス・ドイツ、さらにはソ連軍の施設があったことから「ドイツ軍かソ連軍による虐殺の跡ではないのか」との憶測を呼んだ。同地の検事局は歴史学者の助言も得て「第二次大戦中にソ連軍に殺されたポーランド人のレジスタンス」との見方を強めていた。実際そうした事例があるのでそう考えるのも無理は無いところ。
ところが今年3月に入って考古学者らも参加した本格的調査が行われたところ、ナポレオン時代のフランス軍軍服のボタンが発見され、遺体の医学鑑定からこれらの主な死因が凍死やチフスによるものと判定された。そう、これは1812年にナポレオンがロシアに遠征し、モスクワを占領したものの冬将軍と物資不足に敗れて悲惨な撤退を余儀なくされた際の犠牲者たちであったのだ。そう思うとひとしお哀れさが増す発見である。
3月11日、アメリカはケンタッキー州の州都フランクフォートの州政府ビル建設工事現場から19世紀のものとみられる「墓地」がいきなり見つかった。そこから次々と遺骨が掘り出され、とうとう一ヶ月の間に163体ぶんもの遺骨が掘り出されてしまった(僕がAP通信の報道を見た4月13日の段階で)。なおも遺体の数は増える見込だと言う。
さてこの大量の遺体は何なのか。まずそもそもその場所に墓地があったという記録も言い伝えもなく、また墓石のたぐいもないため全く遺体の身元が分からない。考古学者たちが調査にあたった結果、「墓地」は2グループに分かれており、1800年〜1850年に埋葬されたものといったことが推測されるという。この地点に以前刑務所があったことから収監されていた犯罪者の墓地ではないかとの見方もあったが、子供の遺骨が出てきたためにその可能性は薄くなった。また19世紀前半にこの地でコレラが流行したとの記録もありその線で推理する意見もあるようだが、それにしては遺体の一部はちゃんと棺に入れられあまり慌てて埋めた様子が見られないのでその線も薄いとの意見もあるという。調査グループの代表は「ともかく、ここには我々の先祖が埋葬されているという以外、何も分からない」と語っているとのこと。
と、この二つのネタで書けるなと思っていたところへ「続報」が来てしまった。今度は南米はペルーからである。
4月17日ワシントンでの記者会見で発表されたところによると、全米地理学協会の資金援助を受けてペルーの考古学者たちがリマ近郊のトゥパク・アマル地区で進めていた発掘作業でインカ帝国時代のミイラがなんと約2200体(!)も発見されちゃったという。2000ぐらいで驚いてはいけない。この地区はインカ帝国時代の「中央墓地」であったと考えられていて、全体では10000ものミイラが埋まっているものと考えられているそうだ。この墓地の存在は1956年の段階ですでに知られていたが、住宅地でもあるため生活廃水による劣化を恐れて大規模な発掘作業にとりかかることになったということらしい。
ミイラはいずれも15世紀後半〜16世紀初頭の二世代ぐらいの短い期間にわたるものと見られている。ミイラは数体ずつ木綿の布にくるんで埋められており、多いもので7体がひとまとめにくるまれていたケースもあったという。このことから恐らく家族を一緒に埋葬したり亡くなった人のミイラを先祖のミイラと「合葬」したのではないかと考えられている。副葬品も5万点を超え、当時の文化・社会を知る重大な手がかりになるものと期待されているとのこと。
ちなみに僕の住所のすぐ近くの貝塚を発掘したところ101体もの人骨がゾロゾロと出てきたことがあった(もちろん日本最高記録)。すぐ隣にお寺と墓地があるので「骨がゴッチャになっちゃったんじゃねえか?」と冗談を言っていたことがあったものだ(笑)。
◆続報・その後のアフガン
一時は全世界の目を釘付けにしたものの、タリバン政権が倒れて暫定政権が成立してあまり続報を聞かなくなったアフガニスタンだが、ここらで最近の状況などをまとめてみよう。相変わらずキナ臭い状況は続いているようで。
3月13日、アメリカ軍が地元武装勢力と協力してアフガン東部パクティア州で進めてきたアル・カーイダ残党掃討作戦「アナコンダ(大蛇)作戦」が「我々はアル・カーイダ指導部の中核を撃破した」との現地米軍報道官による勝利宣言とともに終了した。この作戦はこの州の3000m級山岳地帯にアル・カーイダとタリバンの残党が集結したとして3月2日から開始された作戦で、いつもは前線は地元勢力に任せていたアメリカ軍が自ら前線に出て戦闘を行っていた。なぜかといえば先にオサマ=ビン=ラディンの身柄確保を目指して行われたトラボラ掃討作戦において、地元武装勢力がアル・カーイダの兵士と投稿交渉を装いながら実は金銭を受け取って逃亡させていたという事実があったからだとのこと。このアナコンダ作戦でアメリカ軍もこれまでになく戦死者を出しているが、対するアル・カーイダは700人前後の死者を出したと見られている。
ところが一ヶ月ほどたった4月16日、アメリカ軍はイギリスの海兵隊やアフガン地元武装勢力などと共同で新たなタリバン・アル・カーイダ掃討作戦「ターミガン(雷鳥)作戦」を開始したとか。それにしても作戦名つけるの楽しんでないか、作戦本部は。
翌17日。カンダハル近郊に駐留していたカナダ兵に初の戦死者が出た。散発的に起こるアル・カーイダ残党などの攻撃かと思ったらさにあらず、なんとこのカナダ軍と合同演習中だったアメリカ軍のF16戦闘機による「誤爆」であった。カナダのクレティエン首相が「彼らは自由のために戦った」とかなんとか称えていたが、遺憾ながらこういうのを「無駄死に」っていうんじゃないのか、ホント。
さてこうした掃討作戦が続く一方で一向に消息不明なのがオサマ=ビン=ラディン氏(奇怪なことにオマル師も見つかってませんなぁ)。久しぶりに情報を聞いたと思ったら「やはり取り逃がしたらしい」との報道である。4月17日にワシントン・ポスト紙がアメリカ政府情報筋の話として伝えたところによると、アメリカ政府はアル・カーイダ構成員の捕虜の尋問や傍受した通信内容などを分析した結果、「ビン=ラディンはトラボラの洞窟に潜伏していたが、アメリカの地上軍が現地に入らなかったため結果的に彼の逃亡を許してしまった」との結論に達したという。そしてやはり上にも書いたように洞窟の捜索にあたっていた現地武装勢力の中にビン=ラディンらアル・カーイダメンバーの逃亡を手助けする者がいた可能性にも触れている、というかほぼそう断じているようだ。彼ら武装勢力を信用しすぎたとしてアメリカ中央軍司令官の判断ミスにも言及しているとか。どうやらビン=ラディンは12月第1週あたりにはトラボラを脱出したものとワシントン・ポスト紙は伝えている。
この話に呼応するかのようにアラブ首長国連邦のTV局が12月以降撮影とされる「最新のビン=ラディンの映像」なるものを流した。しかし実際にいつ撮影されたものであるか確実なところは分からない。ホント、どこいっちゃったんですかねぇ。
さてアフガニスタン人自身の国家再建の動きに目をやってみると、6月10日に開かれる緊急国民大会議「ロヤ・ジルカ」に向けてその会議に出席する議員の選出作業が始まっている。様々な地域・団体から合計1501人(妙にハンパな)の代表議員を選出するのだが、順調にいっているところもある一方で例によって部族・武装勢力間の紛争が起こっていたりもするようで、首都カブール近くのワルダク州というところで4月12日に武装勢力同士の衝突が起き、死傷者が出ていることなどが報じられている。
揉め事といえば、内戦状態のアフガニスタン各地で蔓延した、麻薬の原料となるケシの栽培に暫定政権が全面禁止を打ち出したことに対して、農民たちが「現金収入の機会を失う」として猛反発したりもしている。一時は農民側が幹線道路を封鎖したり暴動を起こして死者が出るなどの騒ぎになっていたが、暫定政権側が補償金を約1.5倍程度増額したことでなんとか合意が成立。4月11日から西部の州でケシ畑撲滅作戦が開始されている。
そして、4月19日。ひところやたら注目を浴びたが、その後音沙汰を聞かなくなっていたような気もするザヒル=シャー元国王がついに帰国を果たした。1973年のクーデターで国を追われてから実に29年ぶりの帰国である。87歳になった元国王、「長生きはするもんだ」と思っていることであろう。
3月頃にも「帰国する」という意思表明をしていたものの「暗殺の可能性がある」といった話が流れて延び延びになっていたのだが、「ロヤ・ジルカ」で開会宣言をしてもらおうということで「現国王」ともいえる暫定政権のカルザイ議長みずからローマまで元国王を出迎えに来るという、当初の予想以上に持ち上げられた形でのお国入りとなったわけだ。ローマ空港でカルザイ議長は「元国王を迎えられることは大きな喜びだ。新生アフガンは国民統合の象徴として歓迎する」とコメントしたというが、「国民統合の象徴」として王制を復活させる気があるともとれる発言だ。この動きにアフガニスタンのパシュトゥン人以外の民族の中には「パシュトゥン人である国王を引っ張り出して権威の強化を図るのでは」と警戒感を持つ人もいるようだ。実際カルザイさん自らお出迎えに行っちゃったあたり、政治的に利用しようという意図が無いはずはないだろう。
そうした警戒の声を意識してだろう。帰国直後のザヒル=シャー元国王はラジオで声明を発表し、「君主制を復活させるために戻ってきたのではない。再び国民のそばで、国民に仕えたい」と述べて王制復活の可能性を否定している。もちろん今後の展開次第でどうなるかは全く予測不能でアテになるものではない。
◆ベネズエラの一日天下
この見出しだけじゃ「なんのこっちゃ」というところだろうが、これは南米はベネズエラのお話である。ベネズエラという国は我々日本人にはいまいち馴染みがなくピンとこないが、地理の学習では「南米にある石油輸出国でOPECにも加盟している国」として要注意な国であったりする。いきなり話がすっ飛ぶが、サスペンス映画の古典的名作「恐怖の報酬」(アンリ=ジョルジュ=クルーゾー監督・イブ=モンタン主演・1953年製作の仏映画)はベネズエラが舞台で、油田で発生した大火災の消火のためにニトロを大量に積んだトラックで悪路を踏破していく決死行を描いている。未見の方、すぐに観なさい(笑)。
このベネズエラで政変が起こったのは4月11日のこと。チャベス大統領の経済政策と強引な政策推進を非難する大規模な反政府デモが起こり、100名以上の死傷者(死者15人と伝えられる)が出る騒ぎとなった。この騒ぎの直後に国軍の一部がチャベス大統領の身柄を拘束し、12日未明にバスケス陸軍司令官が「チャベス大統領は辞任した」と国営テレビで発表した。間もなく軍部出身で経済団体の長であるペドロ=カルモナ氏が暫定大統領となり、退役軍人や経済団体関係者を中心に暫定政権が発足した。チャベス大統領の身柄はいったんカリブ海の島の軍事基地に移されてしまう。
…
と、ここまではこうした発展途上国ではよくあるクーデターによる政権交代かと思えたのだが、事態はただちに急転する。チャベス大統領の辞任の報道を受けた大統領支持派の群衆数千人が大統領官邸付近に集まり抗議行動を起こし、支持派の人々が国営テレビ局を占拠して「チャベス支持」を訴える放送を開始。さらに国軍内のチャベス支持派が反乱を起こすという事態にまでなり、13日になってカルモナ暫定大統領はたった一日で「辞任」を表明するハメになってしまった。そして翌14日、チャベス大統領は軟禁されていた島からヘリで大統領府に戻ってきた。そして辞任からたった一日での大統領復帰という前代未聞の声明を行ったのであった。
さて。この騒動、いろいろと面白い点が多い。
まずチャベス大統領というのが何者かまとめておこう。彼もまた軍人出身で、1992年にクーデター騒動を起こして国民の人気を得た(?)という妙な経歴があったりする。1998年の大統領選で勝利した背景には貧困層の圧倒的な支持があったと言われ、その政策もかなり強引ながらどちらかというと貧困層に受け、上流・中流層には受けない経済政策をとっていたとされる。もう少し具体的に突っ込んで書くと、チャベス大統領と言うのはどういうわけか左翼的なノリの人であるらしく、地主層の反発を買う農地改革やら特権意識の強い国営石油会社の改革などに手を出していた。まぁそれらがあまり成功せず経済的苦境に陥っていたところであったらしい。
なおかつ彼は19世紀初頭に南米のスペイン植民地を次々と独立させ「大コロンビア国」(ベネズエラ、コロンビア、エクアドルを含む。1830年に解体)を建国した英雄シモン=ボリバルを尊敬し、1999年に国名を「ベネズエラ・ボリバル共和国」と改名してしまっている(僕も全然知らんかったけど…
なお、同じく南米の国「ボリビア」もボリバルが建国した国)。そういえば復帰会見の映像を見ていたら彼の後ろにはボリバルの肖像画がデンと飾られていたっけ。カルモナ暫定政権が真っ先にやったのがこの国名を変更することだったというのも面白いところ。
そうした傾向があるためにアメリカを「覇権主義」と非難し、キューバのカストロ首相に大変な親近感を見せていた。実際キューバには格安で原油を輸出するという政策もとっており、このこともあってアメリカとの繋がりが強い国営石油会社との間で激しい対立を起こしていた。このことがアメリカに石油を輸出して利益を得ている経済団体・労働団体の反発を呼びゼネストだの反政府デモだのといった騒ぎになったわけで。なんでもクーデター直後に国営石油会社幹部が「もう1バレルとして石油をキューバには送らない!」と記者会見で勝ち誇って叫んだとかで、よくよくこのあたりのことが恨みを買っていたものと見える。
…
と、ここまで書くとなんとなくにおってくるものがある。そう、「クーデターの背後にアメリカがいたのではないか?」との憶測だ。なにせアメリカは過去にも中南米ではさんざんこうした工作を行ってきた歴史がある。ベネズエラ国民のかなりの人がそう思ったようで、クーデター失敗直後から各マスコミがこの線についてあれこれ書きたてている。チャベス大統領自身が「拘束された軍事基地でアメリカの飛行機を見た」と語ったこともこの疑惑の傍証となっている。アメリカのマスコミでもこの疑惑は取り上げられており、実際「クーデター」という非民主的な政権交代が「自分の庭」ともいえる南米で起こったというのにブッシュ政権はこの騒動の間完全に沈黙していたことが「少なくとも黙認をしたのではないか?」との見方を強めた。結局追及されたブッシュ政権はクーデター直前に軍の幹部と接触していたことを認めた。ただし「クーデターを起こさないようにと注意したのだ」とかなり苦しい説明をしている。なにせそこはブッシュ政権、石油がらみとなるともう何でもやっちゃいそうな政権だから少なくとも間接的な関与、後押しぐらいはしていたはず。ただあまり深入りしなかったために失敗に終わってしまったというあたりが真相なんじゃないかな。
大統領に復帰したチャベス氏は「私にも反省しなければならない点がある。今後、いかなる報復行為もあり得ない」と演説して軍部や経済界との関係修復をはかる一方でバスケス陸軍司令官などクーデターに関与した幹部クラスを一掃、「一日大統領」をつとめたカルモナ氏も軟禁状態に置いた。また国民の和解をはかる全国評議会の初会合で、「剣を抜かせないで欲しい。永遠に手にしたくない」と発言、これまでしばしば好んで着用した軍服についても「着たくない」と宣言して強権政治・軍人政権とのイメージの払拭を狙っているらしい。ともあれ何でも経済政策失敗するとダメですよね。
ところで4月19日、首都カラカス郊外の山中に国軍のヘリが墜落、便乗していた空軍司令官ら4将軍を含む軍幹部10人が死亡するという事故があった。なんかついこないだミャンマーでも似たような話があったような気がするけど、偶然なんだろうねぇ…
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2002/4/23の記事
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