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2003年1月4日

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 ◆今週の記事

◆年末恒例・政界ドタバタ

 更新を空けましておめでとうございます(笑)。
 史点をなんだかんだで一ヶ月半以上放置して、とうとう年明けしてしまった(汗)。思い返すと昨年年末もほとんど書いていない。やはり8月9月と12月は執筆になかなか手がつかない時期であるらしい。それと昨年は週刊連載をもう一本持っていたから中断がやたらにあったような…隔週状態も多かったし週刊態勢に戻ると言いつつなかなか戻れなかったりと穴だらけの「史点」になってしまった。それでもやっぱり隔週にする気はないんだけどね。ま、今年も頑張ってまいりましょう。

 さてこの更新に穴を開けているうちに、日本政界は年末恒例のドタバタ・離合集散劇を繰り広げていた。年末になると政党分裂や新党結成が起こるのは「政党助成金」をもらうためには元旦までに新党が届け出られてないといけないからだったりするんだけど、確かこの「政党助成金」って選挙にカネがかかることが腐敗の温床になってるから、腐敗防止のために国からカネを配るって話だったよなぁ。その効果ってこの年末恒例のドタバタ劇しか私は知らんぞ。
 もう一つ、特に野党でドタバタが起きた背景には来年に解散総選挙があるという見方がほぼ定説化していることがあるだろう。恐らく6月以降、たぶん7月というあたりじゃないかな。この前の解散総選挙は3年前の7月だった。そのころもう史点やってたなぁ…などと回想。

 ドタバタの震源地は最大の野党である民主党だった。鳩山由紀夫代表が11月末に突然自由党小沢一郎党首と「新党構想」の話を進めていることが明らかになったのだ。小泉首相も思わず言っていたが「じゃあ“自由民主党”になるの?」とツッコミを入れてしまうところ。実際、今の自民党って由紀夫さんの祖父・鳩山一郎元首相が結成した「民主党」と当時の「自由党」が保守合同で合体してできたものなんだよな。僕もこのニュースを聞いたときは「お祖父さんの呪縛から抜けられんのか…」などと思ってしまったもんだ。だいたい由紀夫さんが新党つくったときに「民主党」って名前にした時点でそう思ったもんだが。
 マズかったのは先の代表選で代表に再選されながらも「論功行賞」的幹事長人事(旧民社党勢力で代表選立候補を取り下げ鳩山支援にまわった中野寛成氏を起用)で猛反発を買ったうえ衆院補選で事実上の敗北を喫し、鳩山さんに対する批判が強まっていて党の分裂すら噂されてる時期にこの隠密行動が発覚したことだ。別に自由党と連携を組むだの合併して新党つくるだのといったこと自体は賛成する党員も少なくなかったろうが、やはり周囲に何の相談もなくいきなりトップ会談で党の存在そのものに関わる重大事を決めちゃおうとするのはマズいだろう。

 振り返ってみれば鳩山さんという人はどうもこういう良く分からない行動をとる人だった。もともとは自民党から抜け出してその名の通り新党ブームのさきがけとなった「新党さきがけ」の結党メンバーで、細川政権で官房副長官をつとめたいていた。その後「小沢嫌い」が結集して作った「自社さ連立」の村山政権誕生、一方小沢氏のもとに野党大結集が行われた「新進党」の成立とその崩壊、といった流れの中で「政界のプリンス」と言われた鳩山さんの新党が一気に浮上してくる。これが結局「民主党」になったわけだが、どうもこの時点で鳩山さんってトップにかつぐには迫力不足で当時人気のあった菅直人氏が共同代表みたいな形になった。
 その後は代表選で鳩山さんが代表の地位を確保して「政権奪取」をやたらに叫ぶことになるのだが、タイミング悪く超高人気の小泉首相が登場してしまう。すると、今度は「同じ抵抗勢力と戦う改革派だ」ということで小泉さんに妙にエールを送ったりもしていた。恐らく小泉さんが自民党を割って出てくると期待してたんだろうな。田中真紀子外相が更迭された際にも一時期ではあるが彼女が新党旗揚げするのではとの憶測が出たときこれと連携しようという色気をみせたこともあった。いずれも全くの当て外れとなると今度は両者を口先だけ猛烈に攻撃するなど、どうもチグハグな言動が目立つ。言葉だけはやたらに美辞麗句を並べるあたりなど、やっぱり「お坊ちゃん」な甘さが多い人だなぁと思うばかりだった。
 
 代表選以後の相次ぐ不始末の連発のすえ結局小沢氏とのトップ会談はドタキャン。とうとう党員達からつるしあげられる形で鳩山氏は代表辞任を余儀なくされた。つい先日選挙で選ばれたばかりの代表を半ばクーデター的にひきずりおろしたわけで正当性に疑問がなくはないが、いずれにせよこのまんまじゃ民主党はそのまま崩壊しちゃっただろう。
 急遽の代表選挙の結果、一時ジャスコの御曹司(笑)で若手を代表する岡田克也氏の有利が報じられたが、終わってみればやっぱり菅直人の圧勝。するともともと寄り合い所帯の民主党、もともと社会党出の菅氏を嫌う保守系の議員たちが民主党を離れて新党を作るのでは、との見方が広がった。

 直接的には連動していたわけではないのだろうが、これと同時進行する形で与党の一角・保守党でもドタバタが発生した。こともあろうに党首である野田毅氏自身が12月上旬に「自民党に復党したい」と自民党に打診していたことが発覚したのである。「こともあろうに」とは書いたが実はこの打診自体はまるっきり意外なことではない。復習だけど現在の「保守党」というのは、新進党が崩壊したあと小沢一郎グループが結成した「自由党」が小渕政権で自民党と連立を組んで一時与党になれたものの自民党と公明党の連立が成ると用済みとばかりに切り捨てられた際(この「切り捨て」の心労で小渕首相が命を縮めることになった。覚えてます?)、小沢党首と運命を共にせず与党に残るために自由党から離脱したメンバーで作られた政党だ(ああ、ややこしい)。みんなもともと自民党を古巣にしている議員ばかりで当初から「すぐにも自民党復党だろう」と見られていた(そもそもその党名からして工夫がまるでない)。しかし下手に復党すると党内の一議員では立場が弱くなるとの思惑もあり、彼らは「保守党」として連立に参加し続ける道を選んだ。だから一部には「自民党の党外派閥」なんて陰口も叩かれたわけだ(笑)。
 保守党の最初の党首はご存知の通り現国土交通大臣の扇千景さん。しかし一昨年、この扇さんが入院中にクーデターを起こして党首の座に収まったのが野田さんだった。もともと保守党は「野田新党」として発足した経緯もあり、彼にしてみれば自分がトップのつもりだったのだろうがタレント議員でもある扇さんを一応看板に立てていたのだ。ところが看板のつもりの扇さんが大臣の座にありつづけ自己主張を強めてきたため野田さん一派はこれを引きずりおろしにかかり、一度は失敗したものの相手の病につけこんで党首を奪取するという、まぁ戦国時代の下克上でもそこまで露骨にやったかなというクーデターを起こしたのだった。とにかくこういう経緯をふりかえっても野田さんって人にはハッキリ言って感心しないところが多々あったのだが、ここに来て何を今さらの自民党復党打診、しかも党員達は見捨てて党首自ら単独で、という厚顔無恥ぶりには呆れるばかりだった。
 野田さんがここに来て復党を申し出たのはズバリ来年予想される総選挙に向けた自らの選挙区事情(本人がちゃんとそう言っていたはず)。比例区では弱小な「保守党」の名前では同じ選挙区の自民党候補にとても勝てない、自民党に入ることで調整を図り議員の身分を安定して確保したいという腹である。

 この党首自らの自分勝手な暴走(逃走)には保守党内から当然轟々たる非難が上がった。そしてこれは民主党の反菅派の離党の動きと連動して、新党結成構想へと結実していく。先述の政党助成金のこともあるから年末に大忙しの展開があり、12月23日に新党の結成をみることになるわけだ。ホント、師走は「センセイの走る季節」である。
 結局この新党には旧保守党12人のうち9人、民主党からの離脱組5人が合流。母体となった保守党の議席数からは5−3=2増加という、存外みみっちいパワーアップとなった。ひところは民主党から20名近くが離脱との憶測も流れたが、元党首の野田さんが参加しないなど僕から見ていてもどうも先行き不安を感じる新党に行くのは気が引けたか、結局5人にとどまった。新党の代表を誰にするかはちょっともめていたが、民主党離脱組の熊谷弘氏が代表に決まった。
 注目されたのは党名で(もしかして党名にしか関心を持たれなかったのでは!?)、あらこの人もいたの、の海部俊樹元首相が「ひらがな名がいい」などと言っていたので「新党でおくれ」とか「ひとにぎり」などと勝手に提案したりしていたのだが、けっきょく「保守新党」などという「保守党」に輪をかけて工夫のない名前に決まってしまった(「新・新党の名前は何になるか?」と騒がれて「新進党」に決まったとき以来の脱力であった)。「自公保」って連立与党略称がそのまま使えるからいい、ってな話だそうだが、だったら「保険党」とか「保身党」とか、いい名前があったのに(笑)。
 で、保守新党には合流しなかった野田さんたち三人(そういやこのところ目立っていた小池百合子議員もその中にいた)は政治団体「保守クラブ」を結成したものの直後に自民党にめでたく復党している。

 更新ストップ中も書きたくてウズウズするほど面白い年末恒例政界劇場でありました…。今年の年末もどうなっておりますことやら。



◆ケータイ天皇のご使用は…

 …他の被葬者の迷惑になりますので、お控えください、ってか。

 継体天皇 、という人がいる。下手な日本語変換をすると「携帯天皇」などと何やら便利そうな迷惑そうな言葉が出現しちゃうお方だが、レッキとした実在人物。6世紀の初めに在位した天皇で、少なくとも現在の天皇家の直結するご先祖で確実最古の人だ。「確実最古」というのは、少なくともこの人までは確実に血筋がさかのぼれるということで、裏返せばこの人以前の天皇(当時はまだ「大王」)との血のつながりはやや怪しいということなのだ。

 継体天皇の先代は武烈天皇と言う。贈り名からして激しそうな人だが、『日本書紀』によると実に凄まじい暴君であったとされており、その暴虐な行為の数々が記されている。あんまり凄いんで誇張表現、下手すると意図的な悪意をもって創作した可能性もあるのだが、それはその次の大王である継体の即位の正当化につながっているとも言える。『日本書紀』によれば暴君・武烈は跡継ぎを残さずに死に、何人かいた王族の中から新大王を選ぼうと大和の豪族達が話し合い、何人かに声をかけるがある者は逃げ、ある者は辞退して、結局越前(福井県)にいたオオドが新大王になることが決まる。これが継体天皇になるわけだが(そもそも「継体」という後世の贈り名がその事情を表している)、彼は応神天皇から七代の子孫というかなり遠い親戚であるとされる上に、越前から出てきて大和に入るまでに20年もの時間を要しているという不自然な点があり、これが「継体は実はそれまでの王族とは異なる新王朝を興したのだ」 との見方を生み出すことになっている。いわゆる「万世一系の天皇」という見方からは到底認められない見方だが、この継体が万世一系に傷をつけかねない異常な存在であることは中世においても認識はされていたようで、南北朝動乱期に北朝の上皇・皇太子が一斉に南朝に拉致された際に強引に新天皇(後光厳天皇)を立てたとき、この「継体の先例」が引かれている。
 この継体天皇という人、その在位中に九州で「磐井の乱」という大規模反乱が起こっているし、死去の際の年齢が『古事記』と『日本書紀』で大きく食い違っており、その死後の混乱の気配が見られる(継体の暗殺説、二つの王統が対立並存したとの説もある)ことなど、とにかくあれこれと想像を膨らませてしまう話題が多い。

 さてこの話題豊富な継体天皇であるが、彼の墓についても以前から注目される話題がある。この人のお墓は神武天皇以下歴代天皇と同じく「陵墓」が宮内庁によって認定されているのだが、これが誤っているのではないかとかなり以前から指摘されていたのだ。
 むろん、神武天皇から20代ぐらいは実在すら怪しい人たちばっかりで、その陵墓だって明治以後に大慌てで決定されたいい加減なものだらけなのだが、この継体天皇はさすがにその後の天皇家に確実に直結する人物だけに記紀の記述も正確と思われ、その墓の確定はそう困難なことではない。明治時代に宮内省は記紀の記述などにもとづいて現在の大阪府茨木市にある「太田茶臼山古墳」を「継体天皇陵」と指定し、これを管理してきたのである。

 ところが、考古学者の間では以前からこの宮内庁指定の「継体陵」は別人の墓であるとの見解がほぼ定説化していた。その根拠は、1986年にこの「宮内庁指定継体陵」の護岸工事の際に壕の一部が研究者らに公開されたとき、そこから見つかった埴輪の破片が継体天皇が生きた時代より80年ほど古い5世紀半ばの窯で焼かれたものだと科学的測定で確認されていたからだ。学界では、この古墳から東に1.5キロばかり離れたところにある高槻市の「今城塚古墳」こそが本物の「継体陵」であると見られるようになったのだが、宮内庁は一貫して従来指定してきた継体陵が「本物」との立場を崩さず(「否定すべき決定的な証拠はない」という姿勢だった)、また研究者達が古墳の調査を求めても、天皇家の祖先の墓だからということで許可をおろそうとはしなかった。ここらへんが一度決めたことはまず変えようとしない役人根性の表れというところだろう。
 なんでも一度指定した「天皇陵」を誤りとして指定しなおした前例は、かなり古い前例ながら明治時代に一度だけあったそうだ。1881年に天武・持統合葬陵が現・橿原市の「見瀬丸山古墳」から現・明日香村の「野口王墓」に指定し直されたことがあったそうで、この時は鎌倉時代に盗掘された際(これはこれで古い話だな)の実況見分の記録が決め手となったとか。

 さて去る11月22日、宮内庁書陵部は「継体陵」こと「太田茶臼山古墳」の発掘調査の結果を公表した。この発掘は来年予定されている護岸工事を前にその方法を調査するために行われたものだったが、公表された内容によれば1986年の調査でも見つかったものと同時代の5世紀の埴輪が発見され、、埋葬された当時の状態で並んで出土したところもあったとのこと。特に目立った新発見があったわけではないが、宮内庁自身がこの古墳が「継体陵」ではないことを改めて確認する調査結果を公表したわけで、実質的に宮内庁自身も陵墓指定が誤っていたことを認めたものだと言える。
 これと示し合わせたのかどうか知らないが、「本物」と見られる今城塚古墳のほうの発掘成果がこの発表の直後にNHKの番組で要領よくまとめてCG復元なんかまでついて放送されていた。直接的にはあまり言っていなかったような気もするが、「大王級の墓」にはまず間違いないというところらしい。とにかく巨大な家型埴輪が出土したり、多くの埴輪が整然と並んでいたスペースなどは、「謎の大王・継体」の実態を遺物面から解き明かしてくれるものになるかもしれない。

 心配なのは宮内庁が今城塚の方を陵墓に指定して「皇室の祖先の御霊をやすんずるため」とかなんとか言い出して発掘調査を禁止したりすることだが…
 


◆風雲!韓国大統領選

 大統領選挙ってやつには幸か不幸か日本人は縁が無いのだが、このたった一人の最高君主を投票で決めるお祭りはどこの国でも盛り上がるものであるらしい。2000年のアメリカの大統領選挙なんて史上まれにみるハチャメチャ選挙になったことも記憶に新しい。そういえばその選挙で全体の得票数では勝っていた民主党のゴアさんが先日次回の大統領選には出馬しないことを表明していた。出れば同情票もあるだろうからテロ事件以後異常人気の続くブッシュ大統領にひょっとしたら勝てるのではとも思えたが、大統領選に敗れた候補がもう一度出ることは稀なのも事実(確かニクソンはそうだったが)。そこでひょっとしたら…とやはり注目されてしまうのが同じ民主党のヒラリー=クリントン 議員。本人は次回には出馬しないとの姿勢を示しているものの、先日アメリカのマスコミが行った「最も信頼できる人物」の2位につけるなど人気はやはり高い。しかしこの調査も一位がダントツでブッシュさんなんだよな。アメリカ人の単純さとミーハーぶりが出ている結果とも思えるが。

 いかん、本題は韓国の大統領選だった。こちらもまたずいぶんドラマチックな展開になったものである。
 ほとんど一党独裁の状態を長く続けている擬似社会主義国日本と異なり、近ごろの韓国の政治状況はやたら複雑(この表現は韓国に住む僕の知人の日本人が使っていた)。まぁ考えてみれば軍事政権時代もあったし民主化が進んだのだってつい最近のことだし乱戦状態になるのは無理もないところもある。それと韓国の選挙はこの国ならではの地域主義が露骨に出て特に大統領選は地域対抗戦的状態になることも知られている。

 今回の選挙、当初の本命は野党ハンナラ党の党首でエリート街道を順調に進んできた李会昌(イ=ヘチャン)候補だと見られていた。任期を終える金大中大統領の与党・民主党の候補は釜山生まれの苦労人で知られる(?)盧武鉉(ノ=ムヒョン)氏。他に有力候補としては自民連の金鐘泌(キム=ジョンピル)氏、そしてにわかに新党結成し大統領選に乗り込んできたのが鄭夢準(チョン=モンジュン) 氏。そう、大財閥の御曹司であり先だって日韓共催W杯の立役者の一人であるFIFAの元副会長だった人物だ。かねてから政界入りを噂されていたこの人だがW杯4強入りの勢いを駆って一気に大統領選へと乗り込んだ。しかしさすがに今回で一挙に大統領に当選するのは無理というのが大方の見方だった。
 大統領選も近づいた11月、盧武鉉候補と鄭夢準候補は政策上の違いを横において「弱者連合」を組み、支持率調査で上になったほうが候補となり、下になったほうはそのサポートに回るという協定を結んだ。結果、氏の方が上回ったのでこちらが実際の候補となり、鄭氏は今回はひとまず諦めて次回を狙うべく氏の支援に回ることになった。

 選挙はおおむね中高年齢・保守層が李候補を、若年層や革新層が候補を支持するという構図になったと言われている。結果から見るとそれが本当に正しかったかどうか怪しい気もするんだけど。近ごろ懸案の北朝鮮政策については李候補が金大統領の「太陽政策」の見直しを訴え、候補がその持続を訴えるという構図にはなっていて、日本ではもっぱら拉致問題絡みの関心からこの大統領選を見る向きが多かった。まぁ僕などはどっちが勝っても結局その中間の外交政策を撮らざるを得なくなるだろうなと
 当初李氏優勢が伝えられたこの大統領選だったが、終盤に来て大きな影響を与える事態が発生した。秋に女子中学生二人が米軍の装甲車に轢かれ死亡するという事件が起こってその段階で反米ムードが盛り上がってきていたのだが、12月になって米軍の法廷がこの装甲車に乗っていた兵士二人に「無罪」の判決を下し、その直後にその二人が帰国してしまったことで「反米」の運動が全国規模で一気に盛り上がってしまったのだ(日本でもおなじみ、現代の治外法権「地位協定」があるためだ)。裁判の判断の是非はともかく、とにかくW杯でも良く分かることだが火がつくと一気に燃え上がってしまうお国柄だけに、その勢いは凄まじく、地位協定の改正を掲げた候補にグッと流れが傾いてしまうことになった。

 それでも直前まで「大接戦」と各マスコミが予想し、「若干李氏リードか」といった報道もあった。そこへ選挙投票日のまさに前日、12月19日に鄭夢準氏が「盧候補への支持を撤回する」などと突然表明したものだから、「これで決まったか?」というムードも流れたりしたものだ。
 誰もが口をアングリのこの支持撤回表明だが、ハッキリ言って真相は藪の中。その後ちらほら流れた報道では直前に 候補が鄭氏を次々期大統領にはしないととれる発言をしたとかで鄭氏がブチ切れたためと言うのだが、鄭氏周辺からそういう話が流れているらしき辺りにかえってそんな感情的なものではない謀略くさい匂いを感じてしまうところ。実際、韓国の有権者の多くもこの突然の事態に「不自然な何か」を感じてしまったんじゃなかろうか。こういうドタキャンを起こすからには相当切羽詰った状況があったと考えるのが自然というもので、僕自身は何か鄭氏が個人的スキャンダルでも握られてある方面から脅迫でもされたんじゃないかと感じている。

 直前まで僕の耳に入っていた報道を聞く限りでは接戦ながら李会昌氏勝利、ってな雰囲気で投票当日を迎えた。この雰囲気が出た理由のひとつには、候補の支持層が棄権率の高い若者層を多く含んでいるからということもあった。投票率が高ければ接戦になるが低ければ李候補勝利確実ってな観測を伝えていたメディアもあったように記憶している。
 で、結果はご存知の通り、盧武鉉 氏が意外なほどの差をつけて当選してしまった。しかもこの国の大統領選史上最低の投票率で、だ。北朝鮮関連の報道でも痛感したことだが、とかく一大事の前ではマスコミ報道ってやつはアテにならない。この低投票率に関しては鄭夢準氏支持層が棄権してしまい、その票が李氏に流れなかったようだと分析されていたが、じゃあ「ドタキャン」が無かった場合、はじめから盧氏の圧勝だったということになるんだろうか。とするとこの結果はドンデン返しでもなんでもなく単なるメディアの読み違いということになるのか?どうもドタキャン騒動も含めて腑に落ちない点がいくつかあるのは確かだ。

 さて武鉉当選でますます立場がなくなった鄭夢準氏。台風の目が自ら台風に吹っ飛ばされてしまった形になり、自ら作ったばかりの新党「国民統合」はドタキャン騒動の直後から大量の離党者が出てしまいほとんど空中分解状態とか。いずれは大統領!との野望はほとんどついえちゃったんじゃないかと思われる。鄭氏にとっては天国から地獄への生涯忘れられない一年となったことであろう。

 ところで韓国大統領選の名物・露骨な地域主義だが、古い政治体制からの打破をとなえる清新イメージの武鉉氏当選という結果を生みながらも、やはり依然として根強くそれが残っていることを見せ付ける数字が出ていた。
 金現大統領と盧武鉉氏の所属する「新千年民主党」の地盤は全羅道や光州、だいたい旧百済地域(話が古すぎるが)なのだが今回の選挙でもこの地域の候補の得票率は91〜95%とまさに驚異的な高さを誇っている。ただし氏自身は韓国第二の都市でありハンナラ党の地盤である釜山の出身で、その釜山では29%程度の得票率。ただしこれはハンナラ党の地盤での得票としてはまさしく大善戦なのだ(ちなみに釜山での李氏の得票率は66%)
 そして勝負を決定的にしたのが首都ソウルでの得票だったと言われている。なんせ韓国の首都集中傾向は日本の比ではなく、全人口の47%がソウルとその周辺に住んでいるのだ。全国の出身者が集まるソウルでは地域主義の影響はほとんど無いから李・の得票は烈しいデッドヒートとなったが、最終的に氏が李氏に5〜6ポイント程度の差をつけていたと言われている。

 しかしソウルの票で次期大統領に決まったとも言われるさん、実は首都機能移転計画を打ち出している人でもあるんだよな。それもあってソウルでは不利って観測もあったような気がするが…ああ、世の中けっこういい加減です(笑)。



◆おくやみ記事つながり

 新年早々お悔やみネタ特集、しかも古い話題ばかり…とお思いの方も多いだろうが、中断中にためこんで、しかもどうしても書いておきたいと思ったものだからボツにするのも惜しかったもので。

 昨年の11月15日、ソウル市内の病院に緊急入院していた孫基禎(ソン・ギジョン)さんが亡くなった。享年90歳。1936年のベルリンオリンピックのマラソン優勝者(タイムは2時間29分19秒)で、確か当「史点」にも一回登場したことがある。単なるスポーツ選手にとどまらず存在自体が「歴史的」といっていい人だ。
 ベルリン・オリンピックといえばナチスの宣伝・国威高揚に大いに利用されたことで有名だが、その記録映画「民族の祭典」はナチスの宣伝媒体という側面も否定できないが記録映画の傑作として名高い。その映画の中に当然ながらマラソン優勝者の孫選手も映っている。もちろん当時の朝鮮半島は日本の領土とされており、彼も「日本代表」として出場している。孫選手が日本代表選手となるまでにもいろいろと経緯があったらしいが、ご本人は後年「心の中では日本のためではなく韓国のために走った」と述懐している。だが優勝した彼の胸には日の丸がデザインされていたし、ベルリン五輪の記念碑、およびオリンピックの公式記録にも「SON、JAPAN」としてその名が刻まれている。
 孫選手のマラソン優勝は当時の朝鮮半島の人々の民族意識を大いに高揚することになり、当時の植民地朝鮮の新聞「東亜日報」がその写真の日の丸を消して掲載、発禁処分を受けたことは有名だ。それなら、と孫選手の走る写真の足だけを掲載して「これが我等の息子・孫基禎の足」などとキャプションをつけた新聞もあったそうだが(笑)。連想だけど、日本のアニメ「キャプテン翼」も国旗をさしかえ韓国の設定に変えてあちらでも放映されており、見ていた世代とは話があったりするんだよね、って脱線ですね。
 孫選手はその後明治大学に入るが、彼の活躍じたいが朝鮮半島の民族運動高揚につながりかねないとして競技会への出場も停止させられるなどしらため、結局陸上競技からは身を引いていくことになった。その後独立した韓国で事業を営む一方、スポーツ界の指導者の地位を歴任している。彼が再びオリンピックの舞台で走ったのは、そう、あの1988年のソウルオリンピックで聖火リレーの最終ランナーをつとめたときだ。とにかく存在自体が歴史的、と言われることが良く分かると思う。
 晩年糖尿病を患い、合併症のために壊疽の進んだ足の切断を医者がすすめたことがあったが、孫さんは「せっかく金メダルをとった足なのだから切りたくない」と拒否したという。まさに激動の20世紀を走り抜けた長距離ランナーであったのだ。


 日本と朝鮮半島のつながりをまた別の観点から眺めて終戦直後の歴史学界に衝撃を与えた歴史家・江上波夫氏の死去が伝えられたのはその直後だった。実際に亡くなったのは11月11日のことで15日になって公式に発表されたのだ。こちらは享年96歳。
 江上波夫さんといえば何と言っても「騎馬民族征服王朝説」だ。敗戦まもない1948年5月、東大教授だった江上氏は岡正雄、八幡一郎、石田英一郎の三氏と「日本民族・文化の源流と国家の形成」という座談会を持ち、ここでその「騎馬民族説」を提起してかなりセンセーショナルな注目を浴びた。今さら説明の要もないとは思うが、「騎馬民族説」とは大陸の騎馬民族(江上氏はこれを仮に「天孫族」と呼ぶ)がまず朝鮮半島南部(加羅・任那と呼ばれる地方) に定着し、そこから日本を征服して大和朝廷による古代日本の国家形成をなした、と推理するものだ。江上さんはどこからこれを思いついたのかというと、もともと江上氏の専攻は古代中国を北方から脅かした騎馬民族「匈奴」の研究で、戦前に中国にわたって現地の遺跡調査などをしており、その研究の過程で日本の古代王朝と騎馬民族の文化的類似性に思い至った、ということであったらしい。
 この説の衝撃度というのは、たぶんその当時に生きた日本人でないと分からないものだと思う。つい三年前まで「日本は万世一系の天皇が治める神の国」と信じ込まされ(まぁ実際どれほどの人が信じていたかは疑問もあるが) 大戦争までやっちゃっていた国民である。その天皇が他国からやってきた可能性があると言われちゃービックリするのも無理はない。この説は日本人の多くに天皇制の根源について客観的な新しい見方ができることを示し、と同時に敗戦ショックで「島国根性」「農耕民族」と自信喪失気味だった日本人に、壮大なスケールの大陸との雄大なミッシングリンクを感じさせて気分を奮い立たせたところがあったと思う。手塚治虫が「火の鳥・黎明編」でこの説をそのまんま導入しているし、モンゴル語学科卒の司馬遼太郎などこの説のファンだった著名人は多い。また江上さんって人自身がなかなか魅力的な人だったこともファンが増えた理由ではあったようだ。

 ただ、発表当初から学界の批判は多かった。別に戦前のような皇国史観的な観点からではなく(戦前だって歴史学者にゴリゴリの皇国史観論者はほとんどいなかった) 、江上さんの大胆な推理に実際多くの穴があったためだ。江上さんが根拠の一つとした朝鮮半島と日本の文化の共通点は確かに認められるが、これを一気に「騎馬民族」にまで広げるのにはかなりの無理がある。その後の大和朝廷、皇室に騎馬民族の名残を感じさせるものが江上さんの主張するほど見当たらないどころか否定的根拠となるものが多かったのも痛かった(端的なものとして東アジア各地にみられ、もともと遊牧民の発想である「宦官」が日本では完全に忌まれていたというものがある)。それらの批判を受けて江上さんは自説に修正を加えつつも一貫してこの説を主張し続けたが、ここ30年ぐらいは全く省みられない説となってしまっている。
  この説について戦前の皇国史観から解放された終戦直後ならではの奇説とみる人が多いが、むしろ戦前の日本人が良かれ悪しかれ持っていた「アジアとの一体感」をくすぐったところがあるんじゃないかとは僕は以前から感じている。日本人は明治以来日清・日露、韓国併合、満州事変、日中戦争と大陸進出(受け手に言わせれば侵略) を展開していく過程で自民族の歴史と大陸の歴史をリンクさせることを好んだ傾向がある。例えば「義経=ジンギスカン説」。あるいは「日鮮同祖論」。日本人と満州族とのつながりまで論じたものだってある。そりゃトンデモ系でしょ、と特に義経の件では思われる方も多いだろうけど、一般レベルの気分的なところで根っこは一緒だと思っている。
 などと思いつつ江上さん自身の著『騎馬民族国家』(中公新書)を読んでいたら「しかしこのような私の見解は、従来まったくなかったというのではなく、なかでも早く大正十五年に喜田貞吉氏が発表された『日鮮民族同源論』に、大筋のところはすこぶる一致しているのである。というよりむしろ、私の見解は喜田説の現代版といってよいかもしれない」(新書改訂版147ページ)という文をみつけて「あ、やっぱり」と思ったりもしたのだった。
 最終的にはその「騎馬民族征服王朝」という推理自体は否定されたものの、この説の提起が古代日本と朝鮮半島との結びつきに関する学術的な研究が進んだことも事実だ。「騎馬民族」でこそないが任那・加羅地方に「大王家」のルーツがあるのではないか、記紀の神武東征神話はそれを物語るのではといった古代史推理の流れの中に、江上氏の投げかけた提議は生き続けている。


 両氏のことだけでいろいろ書けるな、と思っているうちに、その朝鮮半島から来たかもしれない天皇家の一員であり戦後初めて韓国に入った皇族である高円宮憲仁(たかまどのみや・のりひと)さんが11月21日、テニスのスカッシュをプレイ中に倒れ、そのまま47歳の若さで急逝してしまい日本中に大きな衝撃を与えた。僕も皇室の系図には疎かったのだがこの報道でようやく関係を整理できた。この高円宮は昭和天皇の弟の三笠宮(この人はオリエント史学を専攻する人で、やはり歴史を専攻した皇太子と並んで史学科人としてはちょこっと親近感がある)の三男で、現在の天皇の従兄弟にあたる。皇位継承順位は第七位だった。
 現在の皇室の中ではほぼ末席にいるといっていい人だったがそのぶん気楽でもあったようで各種スポーツ団体の名誉総裁などもつとめて「スポーツの宮様」として知られていた。皇族として初めて韓国に渡ることになったのも日本サッカー協会の名誉総裁としてサッカーワールドカップの開会式に出席するためだった(意地悪く見ればそれにかこつけて懸案の天皇の韓国訪問を避けたとも言えるが)。そういう人だっただけにこの急逝にはただただビックリ。上のお二人は90過ぎまで生きていたが、人間、いつ急に人生が終わるか分からないものである。


 やや強引なお悔やみ記事つながりで書いてきたこの文だが、12月1日にもう一人歴史関係でつながりを持つ有名人の訃報が伝えられた。歴史学者の家永三郎さんが11月29日に89歳で死去していたのである。孫基・江上波夫両氏とは同世代とも言える年齢だ。専攻は日本史で仏教史、大和絵の研究をしている。
 しかし家永三郎さんといえばその専攻研究もさることながらやはり「教科書検定訴訟」を起こしたことで最も良く知られている。きっかけは1962年度の検定で家永三郎さん自身が執筆した高校の日本史教科書『新日本史』が323箇所にものぼる記述を「不適当」と意見されて不合格とされ、一部修正の末翌年度に合格になったという一件にあった。これには1960年代当時、義務教育用教科書の国による無償提供が法的に定められる一方で文部省による検定の強化、つまり執筆内容への介入が強く推し進められていたという背景がある。社会科教科書、とくに歴史教科書というのは歴史観および政治的思惑と直結するところが多く、戦後を通じて何度となく政治家や官僚の介入のターゲットとされてきている(古くは明治末年の「南北朝正閏論争」にまでさかのぼれる)。家永さんはこうしたかなり政治的な文部省検定のあり方に疑問をもち(たぶんに憤りを感じ)「検定は教育や表現の自由に反し違憲、違法である」として1965年に国に損害賠償を求める訴えを起こしたのだった。検定制度は憲法が禁じている、国家が表現の自由を犯す「検閲」であると主張したわけだ。

 その後家永さんは67年、少し間をおいて84年にもそれぞれの時期の検定の不当性を主張して都合三度にわたる訴訟を起こし、その後半生の大半を教科書裁判に費やしている。その裁判の結果はといえば地方裁レベルではある程度の勝訴を得たものの最高裁まで来ると敗訴確定という展開だった。ただし第3次訴訟に関しては1997年に検定制度自体は「合憲」と認定したものの教科書記述の削除を求める検定意見のいくつかについては「裁量権の逸脱」と認めるという最高裁判決で一応の最終決着をみることになった。
 裁判自体の結果としてはこんなもんだが、この裁判を起こしたことによる歴史教育問題全般に対する影響は大きなものだったと言わざるを得ないだろう。文部省の検定自体が何かと注目されてしまいあまりに露骨な政治的介入が出来なくなってきたのは事実だし(80年代以降の中国や韓国からの外圧があったことも大きいが、それもきっかけは教科書裁判にあったと思える)。数年前あたりから起こった右派系の歴史教科書運動騒ぎなんかもこの状況に焦った中から生まれてきたとも言える。今度はそれまで彼らの味方とも言えた検定制度自体が彼らの教科書の内容に注文をつけ邪魔をするという皮肉な展開になってきてるんだけど、やっぱりこの人たち文句を言いつつ検定制度自体の否定は絶対にしないんだよな。


 たまたま同じ二週間以内に亡くなった有名人の話題をとりあげてみただけなんだけど、妙に「歴史」というキーワードでつながるというところが不思議。


2003/1/4の記事

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