ニュースな史点
2003年2月2日
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◆不吉な影がチラついて…
2月1日、現地時間の朝9時、スペースシャトル「コロンビア」が帰還直前に空中分解し、七名の乗員の生命と共に散華してしまった。僕はこのニュースをたまたまネットを覗いているときにネット上で知り(この時点ではまだ単に「通信途絶」ということだった) 、急いでTVをつけてみたところ、NHKの画面には幾筋もの煙の線を描いて落ちていく「コロンビア」の姿が映っているところだった。この日はたまたまNHKのTV放送開始50周年にあたりNHKは一日中ぶっつづけで生特番を放映していて、この速報が入ったときにはそのフィナーレで盛り上げようとしていた時だった。まだ情報が少ないときでもあり番組自体はほぼ予定通り進行して終了させたが、司会アナウンサーや出演者に浮ついた感じが出てしまっていたことは否めない。古い話だがアメリカとのTV衛星中継開始の当日にケネディ大統領暗殺事件がその第一報として入ってきちゃった故事を思い起こさせる。偶然にも、このたびの速報で落ちていくコロンビアを写した映像はダラスで撮影されたものだった。
コロンビア、といえばスペースシャトルの第一号。これが打ち上げられたときのことは、ちょっとした宇宙開発史好き少年だった僕も良く覚えている。それまでの宇宙船といえば大仰なロケットで打ち上げるが宇宙船本体は小さなもので、一回限りの使い捨てが常識だった。スペースシャトルは何回でも使いまわせるという飛行機感覚に近い「宇宙連絡船」で、1981年の初打ち上げ、初帰還のときはかなり騒がれたものだ。「おかえりなさいコロンビア」なんて大きな見出しが日本の新聞にも踊っていたっけ。飛行機のように滑空して着陸するその姿には、「宇宙旅行」が本当に身近になったきたなという印象を持ったものだ。
その後次々と建造され、宇宙への行ったり来たりを繰り返すスペースシャトルは特に珍しくもない存在になっていった。それが一般の注目を集めてしまったのは皮肉にも1986年の「チャレンジャー爆発事故」によるところが大きかったと思う。打ち上げ直後に衆人環視のなかハデに爆発してしまったこの事故の衝撃はそれこそ大きなもので、直後に当時のレーガン大統領が悲しみと鼓舞の演説をやっていたのも強烈に印象に残ったものだ。この年はソ連のチェルノブイリ原発事故もあって科学技術への信頼があれこれと取りざたされることにもなった。
そして今回の帰還時の事故だ。ブッシュ大統領の国民に向けての演説はレーガンのそれを思い起こさせ、なにやらデジャブのおもむきすらあった(だいたいブッシュさん自身が父親を思い起こさせデジャブ感があるのだが) 。それにしても思う。前代未聞の大統領選挙といい、「9.11」テロといい、プレッツェル失神事件といい、今回のスペースシャトルといい…ブッシュさん、ってなんか特別な星のもとに生まれているのではなかろうか。前にも書いたことだがこの人このあとどう転んでも歴史的に記憶される大統領には違いあるまい。それもかなり不吉なめぐり合わせのある大統領として。
この事故の直前、ブッシュ大統領はイギリスのブレア首相と会談を行い、イラクへの武力攻撃への姿勢を再確認していたところだった。もっともアメリカにぴったりと追従していたブレア政権もここに来て国内世論の反発もあってちょっと慎重な姿勢も見せ始めている。ヨーロッパを中心に世界各地で反戦運動が起こっているしアメリカ国内でもひところよりは反戦の声が高まりを見せており、ブッシュ政権もちと神経質になってきているところだったと思う。それでも何がなんでもやるだろうなとは思っていたが。
そんなところへこの爆発事故である。もちろんスペースシャトルや宇宙開発とイラクとの戦争には特にこれといった接点はない。が、国威発揚という点では宇宙開発と戦争ってのは根底でつながっているところがあり、特に心理面での影響は多大だと思う。このスペースシャトル事故の余韻が冷めないうちに戦争をおっぱじめるのは心理的に避けたいと、たいていの政治家は思うところだろう。戦争ってのも気分的な要素が無視できないもので、アメリカの兵士や国民もなんとなく「不吉」なものを感じてるんじゃないかと僕は思う。どうもブッシュさんには御本人の特異なボケキャラクターもさることながら、そうした妙な運勢がつきまとうところがあるんだよなぁ。大統領選挙に「当選」したのもひょっとすると幸運ではなく不運の始まりだったのかもしれない。
今回のスペースシャトル「コロンビア」の打ち上げは大きな話題にはなっていなかったが、一つだけ注目される話題があって僕もなんとなく頭には入れていたことがある。「コロンビア」には史上初のイスラエルの宇宙飛行士イラン=ラモン 氏が乗り込んでいたのだ。それもあってテロなどの可能性を考慮して打ち上げ前から入念に警備を行い、彼がイスラエル空軍士官出身でイラクが建設を進めていた原発施設を爆撃した当時最年少のパイロットの一人という「英雄」であることも伏せるなどかなり気を使ってはいたそうだ。それだけに事故の一報が伝えられた当初「テロの可能性」が取りざたされることにもなった。まぁさすがにそれは無理だろうということになっているが…
言うだろうな、とは思ったがイラクではやっぱりこの事故を「天罰」と叫ぶ声があったそうな。
◆あわや戦争のデマ報道
タイとカンボジア。隣同士で東南アジアにおける熱烈仏教国である両国だが、この両国があわや国交断絶・戦争状態スレスレまでいってしまうという騒ぎが発生していた。仏教徒といえども血の気の濃い連中はどこにでもいるということでもあるのだが。
事の発端はタイの人気女優スワナン=コンギンさんがTV番組で「タイのものだったアンコールワットを奪ったカンボジア人は嫌い」と発言した、とカンボジアの地元紙「レスメイ・アンコール」紙が報じたことだった。この新聞、週二回出る1500部程度の新聞なのだそうだが(カンボジアではそれでもある程度有力紙なのか?)、この記事をカンボジアのフン=セン 首相が真に受けて引用してスワナンさんを非難し、彼女が出演している作品の放映を停止するなど具体的な措置に及んだから騒ぎが一気にエスカレートしてしまった。騒ぎが始まった直後にスワナンさん当人が「そんな発言はしていない」と全面否定したが、カンボジアではもはや首相自らのお墨付きもついちゃった形で、「反タイ」暴動が発生することとなってしまった。
1月29日の夜、カンボジア首都プノンペン市内のタイ大使館前に暴徒数百人が集まり、大使館を焼き討ちしてこれを全焼させてしまった。幸い大使館員らは避難して無事だったが、暴徒は各地のタイ関係施設を襲撃し、タイ資本のホテルや企業、工場など15箇所が焼き討ちされる事態となった(ホテルのタイ人従業員一名が死亡している)。
タクシン首相率いるタイ政府もさすがに放置はしておけず、軍用機を派遣してカンボジア国内のタイ人を帰国させる一方、自国の駐カンボジア大使を召還してカンボジアの駐タイ大使に退去を命じ、カンボジア政府に対し事件の説明と謝罪・損害賠償を求めてそれがなされぬ限り経済・学術分野の協力を断絶すると通告した。ハッキリ言ってこれはほとんど戦争状態に突入することを意味する。
特にタイ大使館を襲った暴徒がタイのプミポン国王の「ご真影」を踏みつけたり破壊したりしている映像は国王信仰の強いタイ国民を激怒させたようで、500人ほどのタイ人がカンボジア大使館前に集まり、騒ぎの発端となった「アンコール・ワット」の描かれているカンボジア国旗を燃やすなどの抗議行動も行われた。これも一歩間違えると暴徒化する可能性無きにしも非ずだったが、国王みずからの「悪党の行動に反応してはならない」という「お言葉」に従い沈静化した(こういうあたり、タイって国王の影響力がけっこうあるってことを感じる…中世天皇制に似てるって意見もあるよな)。
このタイ人によるカンボジア大使館への抗議行動が、カンボジア国内の一部マスコミで「襲撃」と報じられ、中には「タイ人の襲撃でカンボジア人が殺された」とのデマを流した放送局もあったと言われる。これにまた激怒した暴徒が暴れたりといろいろあったが、30日のうちには警察・軍の出動もあって騒ぎは沈静化へと向かっていった。
さすがに事態が戦争一歩手前の状態まで来てフン=セン首相も泡を食ったようで、30日夜にはタイに対して賠償をすることを表明し、TV演説で「考えられない出来事で、重要なビジネスパートナーの信頼を失った」と国民に自重を呼びかけた(そもそもあんたがガセネタをよく確かめもせず引用したのがいかんのではないか?)。その日のうちにフン=セン首相自らしたためた謝罪の手紙がタクシン首相に届けられ、タクシン首相は「迅速でよい対応だ。カンボジア政府が真剣に取り組めば事態はすぐに改善されるだろう」とコメント、いちおう事態は収拾の方向へ向かうこととなった(まぁこのタクシンさんも「日本軍財宝」の話を真に受けて大恥かいたお方だが)。
さて、そもそもの発端の問題発言報道だが、最初に報じた「レスメイ・アンコール」紙編集部は「そういう発言を聞いたという一般市民の情報」 をもとに記事を書いたとの事。同紙の編集長は政府に拘束され、この騒動の責任を追及されるようである。「カンボジア大使館襲撃」のデマを流したFM放送局の幹部も逮捕されたとのことだが、この放送局、以前フン=セン首相に反対する立場の人気番組を流して放送禁止処分をくらった過去があるらしく、一連のデマの背景に陰謀めいたものを感じられなくもない。
また一方で「火の無いところに煙はたたぬ」のたとえ、その女優さんが言ったかどうかは別にしてそうとれる発言をした人はいたのかもしれない。そしてその報道をかなりのカンボジア人が真に受け強烈な反タイ行動に出たという事実は、日ごろからカンボジア人の間に隣国タイに対する反発が水面下でふつふつと煮えたぎっていた、ということも意味しているように思える。
さてアンコール=ワットについては昨年の「史点」で江戸時代初めの日本人の落書きがあるという話でネタにしている。落書きした当人は仏教でいう「祇園精舎」と勘違いしていたらしいが、これはもともとヒンズー寺院で、12世紀に全盛期を迎えていたクメール人の「アンコール朝」(中国名で「真臘」)の国王スールヤヴァルマン2世 によって創建された。このころはクメール人の方が優勢でタイ人はその支配下に甘んじていたのだが、13世紀ごろからタイ人が自立、やがて逆にクメール人を圧倒するようになり、15世紀にはタイの「アユタヤ朝」がアンコール地方を征服するようになってしまう。その後このアユタヤ朝がビルマ(ミャンマー)の「コンバウン朝」に滅ぼされるが、現在のタイ王家である「バンコク(チャクリ)朝」が出現してビルマを撃退しカンボジアを支配した時期がある。カンボジアはタイだけでなくヴェトナムからの圧迫も受け、そうこうしているうちにフランスの植民地になってしまった。とにかく、アンコール=ワットが「もともとタイ人のもの」なんてことは全く無いのは明らか。むしろ話は逆だといえる。
フランスから独立したあともカンボジアが苦難の歴史を続けたことは良く知られる通り。インドシナ戦争、ヴェトナム戦争、それが飛び火する形でカンボジアにポル=ポト 率いるクメール・ルージュ政権が生まれ原理的共産主義を実践して大虐殺をやってしまい、やがてヴェトナムの介入を受け長い内戦が続いた。タイとて直接軍隊を送り込まないまでもカンボジア内戦に無関係ではなく、ポル=ポト派をはじめとする反ヴェトナム各派に支援して内戦を長引かせたフシがあるから、カンボジア国民のタイ人に対する不信感があるのも無理は無いだろう(むろん、ヴェトナム人に対してもそれは同程度にあるだろう)。
内戦がようやく終結し、どうにか平和になったカンボジアだが、このところ経済危機からかなり立ち直り成長している隣国タイの経済進出がかなり進んでいるらしい。過去の歴史のことも含めて、どこかカンボジア人にはタイに対する鬱屈した感情が潜んでいたということかもしれない。
◆大相撲日本場所?
横綱・貴乃花がついに引退した。特にこの力士のファンだったわけではないのだが(ひねくれ者の常、どっちかといえばアンチだった)引退となるとやはり一時代が終わったという感慨を覚えざるを得ない。いろんな面であれこれと賑やかな話題を提供してくれたこの力士だが、確かに「大横綱」と呼ばれるだけの業績を残したとは思う。
さてこの貴乃花の引退でそれでなくても退潮気味だった相撲人気がますます低調になるのは避けられないところだろう。もっとも大相撲の長い歴史を見ればそういうことはよくあったわけだし、貴乃花が急上昇したころの相撲人気の方がむしろ歴史的に見ても異常な事態だったという思いもある。
この貴乃花に代わるスターがいない、というのが今日の相撲界で盛んに言われる問題。確かに注目株がみんな大関辺りで足踏みしカド番を繰り返しているという状況である。その中で物凄いスピードで出世し、あっさりと連続優勝で横綱の地位に上り詰めてしまったのが朝青龍だ。ご存知の通り、彼はモンゴル出身。大相撲に入ったころには集団脱走騒ぎなども起こしたものだそうだが、苦労の甲斐あって頂点に上り詰めた。横綱審議委員会は満場一致で彼の横綱推挙を決めたが、一部委員から朝青龍のしばしば見せる闘争心むき出しともいえる発言について「横綱の品格」と釘を刺す声もあったりしたし、一部マスコミもほとんど嫌がらせとも思えるバッシング記事を書いていたりもする。「品格」については貴乃花だって言われたものだが(そのためにほとんど決まっていた横綱推挙が異例の先送りになったりもした)、その伝で行くと過去の横綱たちはそろいもそろってみんな大変な人格者だったということになっちます。
貴乃花が引退、朝青龍が横綱に昇格したことで、横綱の地位にあるのはハワイ出身の武蔵丸とモンゴル出身の朝青龍という外国人力士のみとなった。このあたりにも時代の変化を感じるところだが、今場所で凄かったのは大相撲の全階級のうち日本人力士が優勝したのが序二段だけであとは全部外国人力士が優勝していた、という点だ。
十両優勝が朝赤龍(モンゴル)、幕下優勝が黒海(グルジア)、三段目優勝が時天空(モンゴル)、序の口優勝が琴欧州(ブルガリア)といったぐあい。モンゴル力士三人にはもともと相撲の伝統がある地域だけに驚きは無いが、グルジアとかブルガリアとくると結構ビックリ。以前アメリカ(セントルイス)とかアルゼンチン出身の力士もいたけど、スターリンの祖国とヨーグルトでしか日本人が知らないような国から力士が来ているとはなぁ。「黒海」とはうまいネーミングだが、そのうち「北海」「地中海」「場流都海」なんてのも来たりするんだろうか…最後のはまるで暴走族ですな(笑)。
ところでモンゴル勢の躍進が目立った本場所だが、彼らの母国モンゴルが伝統的に「ブフ」と呼ばれる相撲競技の盛んな地域であることは先述の通り。僕がみたたった二本のモンゴル歴史映画「マンドハイ」「チンギスハーン」のどちらにもこのモンゴル相撲シーンが登場する。今日でも絶大な人気を誇っているそうだが、朝青龍らの日本相撲での活躍の影響ってなんかないんだろうかと思っていたら、やっぱり多少はあったらしい。
読売新聞が1月28日付で載せた記事によると、現在モンゴル相撲界は近代化改革を進めようとする相撲協会理事長とこれに反発する一部選手達との間で内紛状態になっているとのこと。ニャンボルジ現理事長が進める改革案は「試合時間の短縮化」および「取り組み決定の透明化」を柱にしているという。
モンゴルの相撲は日本のような土俵が存在しない。また、ひじやひざを地面つくと負けというルールで(映画で見たやつでは相手を持ち上げて投げても勝ち?)手が地面につくことはかまわないらしい。また日本の相撲みたいに試合開始直後にがっぷり組んで押しあいへし合い、ということではなく、お互い隙をうかがってウロウロしながらにらみ合うこともあるため、異様に時間がかかる試合もあるのだそうだ。中には三時間を越える試合もある、なんて聞くと「そりゃなんとかせい」と言いたくなるところではある。この改革には朝青龍の活躍で日本のスピーディーな相撲がファンの間に知られるようになったことも影響しているらしい。
また取り組み決定の透明化の件だが、「ブフ」の全国大会は512人の選手によるトーナメント方式で行われるが、この取り組みは上位の選手達の意向で決まるようになってるらしいのだ。そのため弱い相手に変えてもらおうと買収工作が後を絶たず(日本の大相撲でも「星を買う」八百長行為がありますね)、相撲協会としてはこれを防止するためにくじ引きによる取り組み決定を改革案の柱に掲げているわけだ。しかしこれに対しては既得権を侵されると一部選手達が反発し、120人もの選手が試合出場をボイコットするという実力行使に出たりしているそうで。どこの国でもどの分野でも長い伝統に対する改革ってのは大変です。
◆最古の「日の丸」盗難!
珍しく僕の趣味である南北朝史がらみの話題である。いや、あんまり喜んじゃいけない事件なんだけど。
1月18日奈良県西吉野村和田、国の重要文化財に指定されている「堀家住宅」と土蔵が何者かに荒らされ、南北朝時代の旗や安土桃山時代の江戸時代の掛け軸など被害にあったのはいずれもかなりの「お宝」ばかり(だから狙ったんだろうけど)。なんせこの堀家、入り口に「皇居」って看板を掲げているというとんでもなく由緒のあるお家なのだ。
戦国ほどメジャーではないが、一回ハマると抜けられないハチャメチャな面白さのある乱世・南北朝時代について今さらくどくど説明したくも無いので詳しい話は「太平記大全」コーナーあたりでも読んでいただくとして、なんでこんなところに「皇居」があるのかについて説明しておこう。
1336年。足利尊氏に敗れて建武新政を崩壊させてしまった後醍醐天皇は、一時比叡山に立てこもってこれに抵抗したもののいったん尊氏と和睦して京都に帰り、皇位の印である「三種の神器」を尊氏の立てる光明天皇に引き渡して軟禁された。しかし皇室界の脱出王(笑)後醍醐はどうやってかは不明だが軟禁場所から脱出、吉野へと逃げ込んで「引き渡した三種の神器は偽物である」と主張し、自らが真の天皇なのだと宣言して南朝を開き、「南北朝動乱」の幕を開けることになる。ちなみにこの「偽物」とされた三種の神器はのちに南朝が京都を一時奪回した際、しっかりと南朝が接収しており、やっぱり「本物」だったとみる意見が有力だ(この辺の話は「室町太平記」を参照)。
で、この話とこの堀家がどうつながるかだが、この堀家があるあたりは当時「賀名生(あのう)」と呼ばれ、何かと南朝にゆかりのある土地なのだ。後醍醐天皇も吉野へ向かう途中にこの賀名生に寄ったらしく、堀家の先祖に「日の丸」の旗を下賜している。これがなんと現存最古の「日の丸」で、縦96センチ横71センチという代物。当時から日の丸マークがあったという重要な証拠であるが、当時後醍醐も堀家の先祖も別にこれが「国旗」だなんて思っていなかったことは言うまでも無い。ともかく、このたびこの重要な「最古の日の丸」が盗み出されてしまったのである!
その後の歴史の話に戻るが、後醍醐天皇の死後、南朝は吉野を攻め落とされてこの賀名生に拠点を移し、一時期ここに「皇居」を置いていた。これが堀家の「皇居」看板の由来である。南朝は足利幕府内の内紛に乗じて何度か京都を奪回したりもしたが、やがてジリ貧状態になってゆき、1392年に足利義満のもとに「南北朝合体」、実質的には南朝は北朝に吸収されてしまう。不満を持った南朝支持派が神器を奪って後南朝運動を起こしたりなんて事件もあったが、とにかく南朝は歴史の中にうずもれその姿を消していくことになる。
しかし江戸時代に入り、水戸史学が南朝正統論・楠木正成大忠臣論を唱え、やがて幕末の尊皇の志士達がこぞって南朝崇拝者になってしまうという摩訶不思議な現象が起こる(現天皇家が北朝系であることを知ってたのか知らなかったのか…)。その傾向は明治になって全国民的に植えつけられることになるのだが…そんな先の話はともかく、幕末の勤皇の志士たちの決起行動の一つである「天誅組」がこの賀名生の堀家を訪れ決起の寄せ書き残していったのも、そうした南朝崇拝の現われだったと言えるだろう。今回の盗難事件でこの寄せ書きも盗まれちゃったんだそうで…
このところ奈良県内ではこうした文化財を狙った盗難が相次いでいるという。まさか歴史マニアが自家収集のために盗んでいるとも思えず、誰か買い取る人がいるのか、盗まれた側に買取を要求するのか…。
2003/2/2の記事
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