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2003年5月5日

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◆イラク戦争・復習編(その1)

 「史点」もストップしてずいぶんになる。これまでも何度か執筆中断状態になったものだが、今回のは特に長くなった。なんだかんだで三ヶ月近く更新しなかったという更新記録を更新してしまった、って何を書いてるんだ、私は。
 書けなくなった理由はいろいろとある。まず他に書かなきゃいけないものがいくつかあった。まず「本職」の方で論文もどきを書かなきゃならなかったし(「俺たちゃ海賊!コーナーに入ってます)、本サイトの「ムロタイ」も完結させるべく急ピッチで作業を進めていた。ついでに「ムロタイ」の次の連載企画の史料調査も進めなければならなかったし、PCエンジンコーナーの更新作業というものも同時進行でやっていた(笑)。まぁとにかくなんだかんだで「史点」にエネルギーを注げなかったのは確かだ。
 それでも合間を縫って書けたはずではあるのだ。特に4月に入ってからすぐは春期講習のバイトが多少忙しかったとしても時間的には書くことは出来たと思う。乗っちゃえばやたらに早いってのは自分でもよく分かっているから。だがその「乗る」ことが出来なかったということなのだ。
 なんで「乗れなかった」のか…といえば、「現在進行形の歴史」があまりにもめまぐるしいものだったというのが原因の一つだろう。ここらへん、僕のニュースの捉え方があくまでジャーナリスティックでなく「歴史的」であるところだなと自分でも思ったのだが、イラク戦争前後の二ヶ月ばかりの出来事は書くそばから情勢が変転していく、実に先の読めない展開が続いた。これがために「読み」を外した人が世の中にずいぶんいたのは皆さんも覚えがあるところだろう。それでやんなっちゃったんだよね、ハッキリ言えば(笑)。
 やんなちゃった、といえば、この戦争にまつわる数々の悲喜劇の数々にもやんなっちゃっていた。戦争なんてのはつくづくしょーもないものだなぁと改めて思わされた。アフガニスタンの時にも思ったことではあったが、今度のイラク戦争はその悲喜劇ぶりがより輪をかけた形になっていて「史点」的にも書くのに苦痛を感じるほどのものだったのだ。こちとら所詮商売ではなく趣味で書いているものなので、苦痛な思いをしてまで書く気は起こらなかった。ものすごーく怒ってはいたのだが。いや、諦観に近い感じだったかも知れないなあ。

 と、言い訳めいたことを書いてきたが、ブッシュ氏も「大規模な戦闘終結宣言」をやったようだし一応の「結末」が出たところで「復習連載」という形でイラク戦争について書いていこうと思う。今になってみるとほんの二ヶ月ほど前のことで世間が忘れてることも多々ありますからね。
 忘れっぽいというのは人類の特技の一つで、だからこそ歴史を振り返るとおんなじようなことをよく繰り返しているわけだが、ちったぁ「進化」するために時々記憶を呼び覚ますべく「歴史」というやつを記述してきたわけですな。歴史屋の端くれとして、このイラク戦争の発端から振り返ってみることにしたい。


第一回「長い長い開戦前夜」

 思い返してみると今度のイラク戦争って歴史上よくあった戦争のようでいて、かなり特殊、というより変な面が多々ある。まずその最大の特徴は「開戦前夜」状態がすっごく長かったことだ。「イラクを攻撃、フセイン政権を打倒する」という姿勢はブッシュ政権発足直後からけっこうあからさまになっていたと言っていい。
 なんといってもブッシュ現大統領のお父さんがやった「湾岸戦争」以来の怨念がある。父ブッシュ大統領はクウェートに侵攻、占領したイラク軍を多国籍軍を結成して撃退したが、イラク国内で反フセイン派が蜂起することに期待してイラクへの直接侵攻は思いとどまった。そしたらフセイン大統領はしっかり体制を立て直して政権を維持、そうこうしているうちにブッシュ父の方が選挙に敗れて先に政権終了という事態になってしまった。
 8年間のクリントン政権をはさんで、前代未聞の大騒動選挙で「当選」したブッシュ・ジュニア大統領の閣僚には湾岸戦争当時国防長官だったチェイニー副大統領、やはり湾岸戦争当時総司令官であったパウエル国務長官、そのほかに父ブッシュの外交スタッフだったライス補佐官もいるし、とにかく現在のブッシュ政権ってのは濃厚に前ブッシュ政権時代の、「湾岸戦争」色に彩られている。こうしたメンツであるから政権獲得当初から「湾岸戦争の復讐戦」の姿勢はチラチラと見えていた。
 「ブッシュ当選」が確定した直後(2000年12月)にパウエル氏は早くも「フセイン政権は3年と保つまい」と発言していた(確かにその通りになった…)。そして2001年2月にはバグダッド近郊を米英軍戦闘機が空爆し(空爆自体はしょっちゅうやっていたのだが)「フセイン大統領が大量破壊兵器を開発すれば「適切な措置」をとる」とブッシュ大統領は発言している。このときすでにイギリスのブレア首相もブッシュ大統領の発言と同調し「サダム・フセインがもたらす破壊と苦しみ、死を防ぐために、今後もあらゆる必要な措置をとり続ける」と言っていたものだ。
 そして2001年9月に「9.11」テロ事件が発生する。ワシントン・ポスト紙の名物記者ウッドワード氏の著書『ブッシュの戦争』によれば、このテロ発生の翌日からラムズフェルド国防長官らから早くもテロを機会にした「イラク攻撃論」がブチ上げられていたという。結局この時はさすがにいきなりテロとイラクと結びつく明確な根拠もなかったのでアフガニスタン攻撃、タリバン勢力打倒という方向に進んだが(というか、テロとアフガニスタンの関係だって明確な「証拠」は未だに公にされないんだが)、やはりブッシュ政権が「イラク攻撃」の機会を手ぐすね引いて待っていたことがよく分かる。

 アフガン戦争もぼちぼち片が付いてきた2002年1月の一般教書演説でブッシュ大統領は「悪の枢軸」という言葉を使ってイラク・イラン・北朝鮮を名指しでひっくくった。その中でも特に筆頭の標的がイラクのフセイン政権であることは明白で、このあたりから「イラク戦争」は現実の政治日程に明白に浮上してきたと見ていい。サッチャー元英首相が「重要なのはフセインを片付けるかどうかではなく、いつ、どうやるかだ」と発言していたのがこの時。オーストラリアもこれに支持を表明し、のちのイラク戦争参戦国の足並みはこの時点でだいたいそろっていたとも思える。
 このころに噂として出てきたのが「2003年2月から3月に開戦するのが再選のためにもベストとブッシュ政権が計算している」というものだった。湾岸戦争に勝利しておきながら再選に失敗した父親の轍を踏むまいと綿密に計画を練っているというわけで、大統領選のために国際政治も利用するアメリカらしい話だなぁと思ったものだが、これまた結果的に現実のものとなってしまった。
 僕はちょうど一年前にイギリスを旅行していたが、ロンドンの国会議事堂前には「イラク攻撃反対」と書かれたプラカードや横断幕がすでに置いてあったものだ。それに対して繁華街SOHOの周辺でイスラエル支援のデモが行われてちょっとした衝突があったりもしていた(直接は目撃しなかったがその騒ぎの跡は目にした)。今にして思えばこの時点で米英によるイラク攻撃は今すぐにも行われるような雰囲気があった。僕も7月の「史点」で「これほど露骨に他国の政府打倒を目的とした戦争開始を長期にわたって明言しているケースって珍しいんじゃ無かろうか」なんて書いている。それからさらに8ヶ月ぐらい開戦までかかるんだけど。

 9.11テロから一年が経ち人々の記憶が蘇ってきた2002年秋ごろから、アメリカ・イギリス両国は「アルカイダとフセイン政権に深い関わりがある」と盛んに言い立てるようになってくる。僕の記憶ではこの件は年末ごろにはあまり言わなくなっていたはずで、結局のところ「明確な証拠」は見つかっていなかったものらしい(それを言ったら「9.11テロ」とアルカイダの関わりの証拠だって一般大衆にはまだ示されていない)。この件については戦争が実質的に終わった今もチラチラとは言ってるんだけど、あの時期あれだけ言い立てていたのは所詮「開戦の口実」にする意図でしかなかったってことなんだろうな。
 こうした情勢の中でイラク攻撃反対の運動も世界的に、特にヨーロッパを中心に高まりを見せていく。折から行われたドイツの総選挙でシュレーダー首相率いるドイツ社会民主党は「イラク攻撃反対」を政策に掲げて支持を広げ、結局選挙戦に勝利した。フランスでもシラク大統領がイラク攻撃に慎重な姿勢を示し、ブッシュ政権をいらつかせることとなる。このときブッシュ政権の高官の誰だかが「シュレーダー首相は辞任すべき」などと言ったと報じられたこともあったな(後にやはり同調しなかったカナダ首相についても同様の発言が飛び出すことになる)
 今になってみるとみんな忘れ去ってしまっているようだが、それでもこの時点では「ドイツもフランスもポーズだろう。いずれ折れるさ」と言っていた自称国際アナリストがいっぱいいたことを僕は覚えている。結果的にまったくの「読み違え」になるわけなんだけど、確かにあそこまでドイツやフランスが粘るとは多くの人は思わなかったろうな。それだけこの問題はイラクや中東問題にとどまらない21世紀の国際社会の枠組みに重大な影響を与えるものだった…ということなのかもしれない。

 「アルカイダとの関係」ネタが一段落してしまうのと入れ替わりに盛んに言い立てられるようになったのが「イラクが大量破壊兵器を所持している、だから武力でこれを排除する」という論法だった。イラクは一貫して「所有していない」と突っぱねても米英の強硬姿勢はまったく変わらず、その一方で「ウチは実は核兵器を開発している」と自分でブチ上げている北朝鮮に対してはなぜか即攻撃論が出ないという不思議な現象も起こしていた(今じゃ「所有」していると双方が認めているというさらに妙な状態になっている)
 このころになるともはやイラク攻撃は既定路線と化しており、ブッシュ大統領は「フセインはパパを殺そうとした奴だから倒す」と言いだし、戦う前から戦後のイラク統治を太平洋戦争後の日本占領をモデルに構想しているとの報道も流れた(今の状況を見ていると実際に確かに似ている点多し)

 10月にイラクでは大統領選が行われ100%の信任(笑)でフセイン大統領が「再選」された。その一方でアメリカ・イギリスの働きかけでイラクに大量破壊兵器の査察を受け入れるよう求める最後通牒的国連安保理決議が、さまざまな水面下の激しい交渉の末11月に採択された。このあたり、今思い返してもややこしい展開だったが、要は開戦したくてしょうがない米英と反対・慎重の姿勢をとっている仏露中の折り合いをつけた折衷案というべきもので、査察をイラクが受け入れなかった場合は湾岸戦争時の根拠となった国連安保理決議を「想起する」という形で武力行使容認ととればとれる(とらなければとれない)内容となっていた。
 で、イラク側は結局この査察要求を飲んだ。むろん国連の査察に全面的に協力したってわけでもなく、むしろ妨害とも言える行為すらしていたのは事実だが、曲がりなりにも査察は行われ、大量破壊兵器は発見されなかった。というより発見されない内に開戦になってしまい査察が中断してしまったというのが正確なんだが。
 そして奇怪なことに、その戦争も終わった今日になってもいまだに戦争の根拠であったはずの「大量破壊兵器」は発見されていなかったりする。

 次回は「国連安保理の攻防」を予定。



◆カプチーノの奇跡?

   ローマ法王・ヨハネ=パウロ2世さんというお方はなんだかんだで「史点」常連登場者であったりする。ひところその健康が心配され「次代法王」の話題なんかもとりあげるなんて大変失礼なことをしたこともあったが、なかなかどうして元気に世界を飛び回って話題を振りまいている。社会主義を放棄した東欧諸国をまわり、聖書のふるさと中東各地を訪問したかと思えば、中米訪問をしてインディオに初めて「福者」認定をしたり、実際に訪問したわけではないが中継映像でモスクワを訪問したこともあった。今度のイラク戦争でも平和を訴えるアピールを積極的に出して、ブッシュフセイン両大統領に対して「神の名をむやみに利用するな」と釘をさしていたことも記憶に新しい。さすがに実現しなかったが、法王自身を「人間の楯」にしようという案も一部であったんだよな。

 上の文中でも触れたが、カトリック教会というのは面白いところでオカルティックな奇跡ばなしが大好きだ。その頂点である法王だって例外ではなく、秘密とされていた「ファティマ第三の予言」の内容(自身が狙撃されたこと)を公開して神に感謝していたし、「奇跡」を起こしたとされるカトリック世界の人物の多くに「福者」「聖人」の認定を行っている。今の法王さん、かなりこうした聖者認定を乱発する傾向があるようで、「聖人」の一歩手前の「福者」だけでもすでに1310人を認定している。この数は過去400年間に認定された「福者」の合計数を上回っちゃうそうだから、その乱発ぶりがよく分かる。地動説を唱えたことで宗教裁判にかけられたガリレオ=ガリレイに謝罪するなど進歩的な側面がよく言われる一方で、こういう面でも「進歩的」なんでありますな。一部にはこの乱発ぶりを批判

 さてその法王が去る4月27日、またしても新たな「福者」を認定しバチカンはサンピエトロ寺院で「列福式」を執り行った。新たに「福者」と認定されたのは17世紀に生きたマルコ=ダビアーノ神父(1631〜1699)なる人(元ネタはCNNサイトに出ていたロイター電記事)
 当然ながら僕はこんな人全然知らなかったのだが、オスマン=トルコ帝国が第2回のウィーン包囲を行ったとき(1683)、カプチン会修道士であった彼は、ウィーンを救うべく集まってきたのにともすれば仲間割れしがちなヨーロッパ諸国の兵士達を一致団結させ、最終的にウィーンからオスマン軍を撤退させたことで「イスラムからキリスト教世界を守った英雄」と讃えられているのだそうな。こんな世界情勢のなかそんな人を評価すると物議を醸しそうな気もするのだが。

 面白いのはこの神父さん、なんとあの「カプチーノ」の生みの親としても知られているということだ。ウィーンから撤退したトルコ軍の陣営跡で、クロアチア人がコーヒー豆を手に入れた(コーヒーも元はと言えばイスラム圏が元祖なのだ)。これがウィーンのカフェのルーツらしいのだが、この豆でいれたコーヒーは苦みが強くてヨーロッパ人たちの口にはあわなかったらしく、この神父さんはこれに泡立てた牛乳と蜂蜜を加えて飲みやすくしたのだそうで。これが「カプチーノ」の原型だ、という話。ご想像の通り「カプチーノ」の名前も彼が属していたカプチン会に由来するのだが、コーヒーの色がカプチン会修道士の修道服に似ていたから、とする説明もある(画像で見たけど確かに似ていると言えば似てる)。まぁ有名人にまとわりつきがちな伝説の領域でしょうけどね。

 「福者」に認定されるには「奇跡」を起こしていることが必須条件だが、もちろんカプチーノを作ったことが「奇跡」と認定されたわけではない(笑)。なんでもダビアーノ神父、13年間も寝たきりだった修道女を回復させる、ハプスブルグ家の大公夫妻に子を授ける、ハンセン氏病の患者を治癒する、はたまた彼の説教の最中にマリア像が天を向いてから彼のほうを見た、などといった合計391件の「奇跡」を起こしたことになっているのだそうで。彼は教皇と神聖ローマ皇帝との対立の和解につとめたりもし、その死に際しては皇帝レオポルト1世夫妻がそれを看取ったほど。
 こういう人だからその死から間もなく皇帝の後押しもあって列福運動は起こっていたようだ。しかしその後の戦争やら何やらのドサクサで忘れ去られてしまい、はるかのちの1933年、ウィーン包囲250年記念で再燃する。現在ウィーンにあるダビアーノ神父の記念像は1935年に立てられたものだとのこと(時期からするとナショナリズムの高まりと連動していた可能性も感じるな)
 このときもたぶんその後の第二次世界大戦のドサクサで流れたのかな。ようやく2003年になって実現したわけなのだがウィーン包囲戦から320周年…ってことは別に何の関係も無いだろうな。



◆ハンブルク市の災難

 カプチーノの次はハンバーグ。元ネタはこれまたCNNサイトで見かけたロイター電。
 実は前から気になっていたことなんだよね、食い物の「ハンバーグ」とドイツの都市「ハンブルク」の関係。今までついつい確認していなかったのだがやっぱりこの「ハンブルグ」が「ハンバーグ」の名前の由来だったのだ。といって別にハンブルクの名物にハンバーグがあるわけでもなんでもないそうで。
 どうつながるかと言えば、もともとハンブルクは古サクソン語の「湾」を意味する「ハン」と「要塞」を意味する「ブルク」がくっついたという地名で、中世には「ハンザ同盟」の有力都市の一つであった歴史ある港町だ。ここで挽肉を固めた牛肉料理が作られるようになった理由については判然とはしないんだけど、一説には13世紀にこの地に押し寄せたモンゴル軍がミンチ料理を持ち込んだのだとも言われている(これまた判然としない俗説だが朝鮮半島の焼肉文化もモンゴルが持ち込んだことになっている)。それが19世紀にドイツからアメリカに渡った移民達がアメリカに持ち込み、いつの間にやら「ハンバーグ・ステーキ」という言い方が定着してしまった…ということらしい。

 このハンバーグの名前の由来にされてしまったハンブルク市にとんでもない災難がふりかかっている。アメリカに拠点を置く動物愛護団体「PETA」ドイツ支部が「ハンブルクという名前は死んだ牛から作る不健康な食べ物、ハンバーガーを連想させる。ハンバーガーで毎年多くの人が心臓病やがん、脳梗塞、糖尿病などの重い病気にかかっている」として、菜食主義を連想させる名前「ベジブルク」に改名せよ、と提案してきたのである。市がこれに応じるならば、市内の育児施設に1万ユーロ(約135万円)相当のベジタブル・バーガーをプレゼントするとしてくれるのだそうな。
 冗談としか思えない提案だが、どーもこの団体は本気らしい。実際、アメリカはニューヨーク州にある同名の町にも同じ提案をして蹴られているそうで。ドイツのハンブルク市当局も、「こんなことに時間を取られたくないし、無意味なことに頭をつかいたくない」とごもっともなコメントを出している(笑)。「といって我が市にユーモアのセンスがないってわけじゃないよ」ともコメントしていたが、どーもPETAの方は冗談のつもりじゃないみたいなんだよな。

 直接PETAの公式サイトにもお邪魔して調べてみたんだけど、この団体はかなり極端な活動を繰り広げる動物愛護運動として有名らしい。ベジタリアン系の流れを汲んでいるようで動物愛護のあまり動物を殺して食うことすら禁止するという徹底ぶりで(この点に関してはクジラ問題ばかりをターゲットにする某自然保護団体よりは筋が通っているとも思えるが)、最近でも各地のファッションショーで毛皮反対のデモンストレーションをしようと舞台上へ駆け上がろうとして阻止され物議を醸している。繰り返されると開催者も慣れたもので舞台上へ上がろうとする団体メンバーを毛皮でくるんで外へ追い出すという味な仕打ちをしている(笑)。
 先日、日本では「タマちゃんのことを想う会」からのつながりで「白装束集団」などと呼ばれるカルト集団(と言って差し支えないだろう)の存在が浮上して話題を呼んでいるが(それにしてもタマちゃんは実に多くの話題をふりまいてくれるものだ)、どうもこのPETAにもほとんどカルト宗教とも思えるほどの異常さを感じるんだよな。ちなみに公式サイトによるとこの五月はケンタッキーフライドチキンに対する反対運動月間だそうな。
 

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