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2003年11月26日

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 ◆今週の記事

◆「宋家」の末妹死去

 去る10月23日、宋美齢さんがニューヨークでこの世を去ったことが報じられた。その年齢については106歳とも105歳とも104歳とも伝えられている。以前からこの人の年齢は諸説あって正確なところはわからないのだ。だがいずれにしても100歳を超える長寿であったことに変わりは無い。
 宋美齢さんとは何者か…実はこの「史点」にはたびたび登場していただいていた。もっともほとんど名前だけ、で100歳前後のお年寄りが亡くなると「同時代人でこういう人がいますねぇ」とか「今も生きている歴史上の人物」といったテーマで何人か並べる時の常連だった(やはり中国現代史の重要人物である張学良とよくセットになってた)。宋美齢さん自身が何かしていた、って話題では前回の台湾総統選挙(2000年3月)で国民党の候補連戦氏を応援している、って話がチラッとあった程度だ。
 プロフィールについてはいまさら言うまでもない人…なんだけどやっぱり説明を(笑)。この女性はかつての中国国民党を率い、「中華民国総統」として現代中国史の重要人物である蒋介石の夫人なのだ。それだけではない。彼女のすぐ上の姉の宋慶齢孫文夫人であり、長姉の宋靄齢(あいれい)は孔子の末裔と言われる財閥の孔祥煕と結婚して民国期中国の経済界に影響力をもった。三人合わせて「宋王朝」とまで言われた激動の中国現代史を体現する超有名三姉妹の末っ子であったのだ。

 この三姉妹の父親は浙江の富豪でチャーリー宋(宋耀如)という。名前からして海外かぶれとも言える人物で、三人の娘たちをそろってアメリカへ送り、欧米流教育を受けさせている。美齢さんの生年は前述のように不明確なのだが、いずれにせよこの世に生まれたのはまだ19世紀末(前々世紀!)のことである(もっとも調べてみたら1901年生まれ説もあるようだ…)。中国にはまだ清朝の皇帝が君臨しており、日本は明治時代でその清と日清戦争を戦った直後…という時代だ。そんな時代にアメリカで教育を受けたんだから、当時としては大変な海外通、エリート女性であったといえる。
 それと同じ時期に世界中に亡命しまくって革命運動を進めていたのがあの孫文。1911年に一度は「辛亥革命」を成功させて帰国し初代の臨時大総統となった孫文だったが袁世凱に革命を盗み取られる形でまた亡命を余儀なくされ、そんなときに三姉妹の二番目である宋慶齢が日本で孫文の秘書となり、やがて二人は恋愛関係となって1915年に結婚することとなった。だがその10年後、孫文は「革命いまだ成らず」の遺言を残して死去してしまう。
 その孫文の後継者として中国国民党を率いることになったのが蒋介石だ。そして三姉妹の末っ子・美齢がこの蒋介石と1927年に結婚することになる。もっとも蒋介石にはすでに前妻があり、クリスチャンとなっていたために前妻を離縁してから美齢と結婚している(でも前妻は承知しなかったと記憶している)。まぁ客観的に見ると蒋介石が「孫文の義弟」の地位を得るため、また宋家側では後継指導者である蒋介石と結びついておこうという、双方の政略的狙いが強い結婚だったと思わざるを得ない。

 その後蒋介石は実質的に中国(中華民国)の指導者となっていくわけだが当時の中国は各地に軍閥が残っていたし毛沢東 率いる共産党の活動もしぶとく続いたりで統一政権とはいいがたい状態にあった。その上、というか統一をなるべく阻害して利権を得ておこうという日本の侵略も進み1931年に満州事変が勃発する。しかし蒋介石は共産党撲滅が先決だとしてこちらに力を注ぎ、日本に対しては全面対決姿勢はとろうとしなかった。ちょっと話がズレるのだが中国・香港映画「宋家の三姉妹」(メイベル=チャン監督、1997)の中のこのときの蒋介石の台詞で「明王朝は日本の海賊(倭寇)に手を焼いているうちに満州族に攻められて滅亡したのだ」(倭寇は共産党に例えられている)というのがあったのは、本当にそんなことを言ったかどうかは別として倭寇研究者としては面白かったものだ。
 しかし転機が訪れる。1936年12月、張学良(この人もつい2年前まで生きていたのだよなぁ…)が対共産党戦の監督のため西安を訪れた蒋介石を監禁、日本に対するため共産党との和解を迫る「西安事件」を起こしたのだ。南京で留守を守っていた夫人の宋美齢は西安に駆けつけ、張学良らと交渉して夫の解放に尽力したと伝えられる。結局蒋介石は共産党との和解(第二次国共合作)に応じ、翌年勃発する日中戦争で国民党・共産党は手を組んで抗戦することになる。
 1937年に始まった日中戦争は泥沼化し、日本はさらにアメリカ・イギリスまでも敵にまわして太平洋戦争へと突入していく。蒋介石夫人・宋美齢が大活躍するのはまさにこのあたりから。なにせアメリカ育ちだから英語力は抜群。アメリカやイギリスで日本への非難と対日戦の必要を訴え、1942年にはアメリカの議会でも大演説を行い、アメリカ世論の反日感情を大いに盛り上げたと言われている。「中華民国」のファーストレディーとして、同時に有能な報道官として、宋美齢がもっとも華々しく歴史の表舞台で活躍した時期だと言えるだろう。この宋美齢の大活躍は日本でもかなり報道されていて、もちろん苦々しくではあるが「たいした女だ」と思っていた日本人は少なくなかったようだ。

 そして1945年8月に日本が降伏。共通の敵がいなくなったとたんに国民党と共産党はまたもや内戦を再開、結果はご存知のとおり共産党が勝利して大陸全土を掌握、1949年に「中華人民共和国」の成立を宣言することになる。この人民共和国成立宣言の式典には、孫文夫人であるところの三姉妹の次女・宋慶齢の姿があった。蒋介石夫人となった妹の美齢に対して慶齢は共産党に接近し、最終的に国家副主席の地位にまでのぼることになる。
 その一方で大陸を追われた国民党政府は台湾に逃げ込み、宋美齢も夫ともに台湾で暮らすことになった。国民党支配下の台湾においては蒋介石が絶対的権力者であり、その妻である宋美齢は台湾のファーストレディ、さらには「国母」的ポジションを維持し続けた。しかしその後の歴史はご存知のとおりで、蒋介石の国民党政府は大陸反攻はおろかアメリカによる中華人民共和国の電撃的承認によって国連における「中国代表」の地位も失い、1975年に蒋介石は失意のまま87歳でこの世を去った。後継者は蒋介石の前妻の子である蒋経国で、もともと継母のため経国と気が合わなかったと言われる宋美齢はニューヨークに移住することになった。

 それから約30年。1981年には敵味方に分かれた姉の慶齢が亡くなり、1988年には蒋経国も亡くなって、西安事件の当事者であった張学良も2001年に亡くなった。台湾は台湾出身者である李登輝総統政権のもと民主化が進められ、現在は国民党は野党に転落している。そんな歴史の展開をニューヨークから横目で見つつ、宋美齢は台湾政治史に一定の影響力を維持してはいた。先ごろの台湾総統選挙でも国民党の連戦候補を応援するコメントを出していたものだ(そのせいか知らんが落ちちゃったけど)。しかし国民党の強圧的支配に苦しんだ台湾人には「国母」であった宋美齢に対しては怨念に近い複雑な感情もあるようだ。
 先日、ニューヨークを訪れた台湾の陳水扁総統は宋美齢宅を弔問、「中華民国」の国旗である「青天白日旗」を遺族に贈っている。出棺の日には台湾全土で半旗を掲げさせ、宋美齢さんを表彰する総統府発表も行った。ご存知のとおり陳水扁総統は台湾出身、しかも台湾独立志向の強い民進党の代表であり、外来支配者の「国母」であった宋美齢に対する感情は正直言ってよくないところだろう。でも依然として「中華民国総統」であるわけで、その立場でかつての「国母」に敬意を表した、というところだろう。もちろん台湾内に厳然としてある国民党支持者勢力への牽制という面もありそう。

 「宋美齢死去」のニュースが流れた直後の10月25日は台湾が日本の植民地支配から脱した「光復節」にあたっていて、おりから来年の総統選を控えていることもあって独立推進派・独立反対派双方によるデモが行われ、一方は「蒋王朝の時代は終わった」と唱え、一方は宋美齢の遺影を掲げて「中華民国を守れ」と叫んでいたそうである。「歴史上の人物」がこの世を去っても、歴史の進行は止まりません。



◆ウン十年後の謝罪

 歴史問題に関して「罪」を問うたりそれについて謝るってのはかなり難しい。当時は罪のつもりじゃなかった、って場合もあるし、内心分かっていても諸般の事情により公式に謝罪するのはあとまわし、というケースも多い。第二次大戦関係、あるいは欧米の植民地支配だって「謝罪」なんてのは半世紀以上たったここ十年ぐらいから盛んになってきたものだ。やはりまず「歴史」になるまでには半世紀はかかる、ということになるんだろうか。
 ってなわけでこの間集まった「謝罪」ネタを、以下に列挙。

 
 アメリカの有名紙「ニューヨーク・タイムズ」が10月23日付紙面で今から70年も前に書かれた記事、しかもピュリッツァー賞を受賞した記事について「バランスを欠き誤っていた」と自己批判を表明しピュリッツァー賞についても返上する申し入れを行った。何の記事かと言えば、1931年に書かれた当時のソ連国内状況に関するものだったのだ。
 1930年代のソ連といえば、スターリン時代。今やスターリンと来れば歴史上悪名を残す独裁者、というイメージが定着しているものだが、この当時はいわゆる「五ヵ年計画」を推進してソ連を工業国として経済発展させた人物、として「社会主義の星」といった見方が外国には少なからずあった。特に当時「世界恐慌」によって資本主義の限界が叫ばれたりしていたこともあいまって、資本主義諸国でも知識人などを中心にスターリン・ソ連を高く評価する向きがあったのだ。また実際にこうした著名人やジャーナリストなどがソ連を訪問し、そこでソ連側にとって都合のいいところだけを見せられ、ソ連の宣伝に利用されるという一面もあったりした。今回問題とされたNYタイムズの記事はウォルター=デュランティという特派員記者(1957年に死去)が書いたものだったが、これもそうした宣伝に乗っちゃった一例ではなかったかと思われる。
 この話がなんで今頃むしかえされて自己批判だ、賞返上だという話になっているのかといえば、ウクライナ系アメリカ人協会からの抗議があったからなのだそうだ。彼らによれば1932年から33年にかけてウクライナでは強制的な集団農場化政策の失敗により何百万人ともいわれる餓死者を出しており、同記事はソ連側の提供する情報だけによって書かれたため大量餓死などソ連の暗部に触れず、ピュリッツァー賞などとんでもない、というわけだ。どうやらウクライナ本国でも70周年を期に「飢餓はソ連による虐殺」とアピールするキャンペーンを行っているらしく、これと連動した抗議だったのではないかと思われる。
 抗議を受けてNYタイムズは一応専門家に調査させた上で謝罪・自己批判し、賞の返上をピュリッツァー賞委員会に申し入れたわけだが、これは11月21日の同委員会の会合で検討された結果、「賞の取り消しはしない」との結論が出された。
 もちろんこの記事が今からすれば「真実」を語っていたわけはなく問題は大いにあると誰もがいうところであろうが、とくにソ連の暗部を意図的に報じなかったわけではない(取材不足とは言えるが)。しかも当時の世界状況のなかにあっての記事であり受賞であるから、いまさらそれを取り消しても、という判断だ。また関係者がまず全員他界していることも考慮されたようだ。僕も歴史をやってるものとして、これは妥当な結論だろうと思う。


 韓国では10月31日、盧武鉉大統領が1948年に発生した「済州島4.3事件」について、「過去の国家権力の過ちに対し、大統領として遺族と島民に心からおわびする」と政府として初めて「謝罪」の声明を行った。事件発生から55年目のことである。
 済州島(チェジュド)というのは韓国の南に浮かんでいる同国としてはわりと大きな島。倭寇研究やってる者からすると対馬と並んでなかなか興味深い島だ。歴史的に見ると耽羅(たんら)国として独立王国だった時代が長く、日本で例えるなら沖縄とポジションがよく似ている。そうした歴史的経緯もあって同島出身者が韓国内において差別されがちであったこともよく似ていて、日本に移住したいわゆる「在日」の中にも少なからず同島出身の人たちがいる。在日朝鮮人を主人公にして話題となった映画「月はどっちに出ている」(崔洋一監督)でも「結婚相手にチェジュドはダメ」という台詞がチラリと出てきたものだ。まぁそういう島なのだということを念頭に。
 1948年、日本の植民地支配から「解放」された朝鮮半島だったが、米ソ対立の情勢の中で南北に分裂独立してしまい、同民族同士で激しい政治対立が起こって緊迫した状況にあった。朝鮮戦争は1950年から始まるからその前夜の状況と言うことだ。
 そんな中で南朝鮮労働党、つまり「北」系統の勢力が1948年4月3日に済州島内で数百人で武装蜂起した。韓国の軍や警察は当然ながらこれの鎮圧にあたったのだが、島の住民同士の政治対立に加えて本土の人間の済州島蔑視の感情も加わって、実に血なまぐさい虐殺事件へと発展していってしまったのだ。労働党とは関係ない人々も含めて犠牲者は増大し、朝鮮戦争を経た1954年までに15000〜30000人ほどが犠牲になったと言われている。歴代政権はこの事件については「左翼反乱に対する鎮圧行為」として正当化、というよりタブー視してきたが、ようやくここに来て歴史の見直しが進み、今回の大統領自らの「謝罪声明」にいたったわけだ。
 盧大統領は虐殺された島民の名誉回復を進める意向を示したが、やっぱり、というか保守系団体などからは「一方的な謝罪」として批判の声があがっているという。似たようなのが韓国兵がベトナム戦争でベトナムにおいて蛮行を行っていた件で金大中前大統領が軽くではあるが「謝罪」していたケースで、こちらもやはり保守系や軍部から批判されてるようなんですね。まぁどこでも似たような話を聞くものです。
 実現するかどうかは不明だが、確かこの事件は崔洋一監督で映画化の企画があるとか聞いたんだが…


 続いては南太平洋のフィジーから。なんとこちらは136年ぶりの「謝罪」。
 11月13日、フィジーのナブタウタウ村というところで、136年前の1867年にこの村で殺害され肉の一部を村人に食べられてしまったイギリス人宣教師に「謝罪」して呪いを解く儀式が行われたそうで。殺されたのはトーマス=ベーカーという宣教師とその従者で、なんでも村の争いに巻き込まれて、ということらしい。日本では江戸幕府がどんづまりになって明治維新を迎える、なんてころですな。
 事実関係は不明だが、かのキャプテン・クックがハワイ島民とトラブルになって殺され、その肉が塩漬けにされていた、という話を思い出させる。このケースでは島民たちは決してクックを憎んでいたわけではなく、むしろ彼を「神」と思ってしまい、そこらの行き違いから殺害して塩漬けにして「崇めていた」というのが真相らしい。もちろんこのフィジーのケースがそれと同じかはわからないけど…
 この儀式にはオーストラリアに住む同宣教師の子孫も招かれ、さらにはフィジーのガラセ首相(なんか覚えがあるな…と思ったら「史点」登場人物でした)まで出席していた。僕が見た記事によると村人たちは村が依然として貧しいのはその宣教師の「呪い」のせいと思っているそうで、謝罪式をすることでその呪いを解こうということらしい。しかし首相も出席しているあたり、なんとなくだが援助目当ての話題づくりに見えなくも無い…



◆なんだかんだと総選挙

 さて去る11月9日に衆議院議員を選ぶ総選挙が行われ、これにともない新たな政界地図が出来上がることとなった。「史点」をなかなか書けないうちに事態がどんどん推移してしまったが、総じてなかなか面白い総選挙になったように僕には思える。

 総選挙の時期はかなり早い段階で確定してしまっていたから、事前にも大きな動きがあった。小沢一郎率いる自由党菅直人率いる民主党と合併、というより吸収されることになったのだ。この件はもちろん急に決まったことではなく、今からちょうど一年ぐらい前に当時の民主党代表だった鳩山由紀夫が小沢一郎との「トップ密談」でこの話を進めていたものだ。もっともこの時は鳩山代表の「独断専行」との批判が党内におこり(直前の党代表選での不手際も一因だった)民主党代表の座が鳩山から菅へと交代するという結果になってしまった。その交代劇と連動するかのように与党の一角であった保守党でも分裂劇が起こって、菅民主党から離脱した熊谷弘らが保守党組と合流して「保守新党」を結成するというややこしい展開につながっていく。
 それもこれも結局はこの2003年にあることが確実になっていた解散総選挙への布石だった。鳩山前代表の「独断専行」を批判して代表の地位を奪い取った形の菅さんも結局は小沢自由党との合併という方向へ向かい、ついに9月25日に自由党は解党し民主党に合流することとなった。自由党の消滅は日本の政治史上、これが三度目(笑)。明治時代に板垣退助が作ったものは議会政治開始前に潰され、第二次大戦後に吉田茂らによって結成されたものは鳩山一郎(もちろん由紀夫氏の祖父である)の民主党と合流して現在の「自由民主党」となった。小沢一郎の「自由党」もまた「民主党」への吸収合併という形になってしまったわけで、今後「自由党」と名乗る政党は縁起が悪いから出てこないような気もするなぁ。
 ともあれ史上三度目の「自由党消滅」、および史上二度目の「自由・民主合併」という政治史的事件が起こったわけなのだが、自民党はこのときなかなか姑息…というか実に現代政治的なテクニックを使った。この民主・自由合併の日程にぶつけるかのように「安部晋三幹事長」の人事で世間を驚かせ、なおかつ「道路公団総裁解任騒動」を開始したのだ。いやー、これは傍から見ていても明らかに意識してぶつけてましたね。実際マスコミの目は一斉にこっちの方にいっちゃったし。もっとも道路公団の方はその藤井治芳総裁が予想外の抵抗をしたため結果からするとそのテクニックは逆効果になったところもあるようだけど。

 さて衆議院は10月10日午後の本会議で予定通りの解散(謎の万歳斉唱は相変わらず)。前回の解散総選挙(森首相のとき)から3年4ヶ月以上経っているからまぁまぁ長かった衆議院だろう。前回の時も3年8ヶ月という任期切れギリギリの長期で、「史点」で扱う総選挙はこれで二度目ということになる。例によって内閣がその助言と承認により天皇に解散詔勅を出させるという形の「7条解散」である。これについては前回の解散時(2000年6月4日「史点」)に詳しく書いたんでパスね。ただこの解散方法については、先ごろ引退を決めた野中広務元自民党幹事長がチクリと疑問を呈していて、小泉首相が「だって今までも散々やってたじゃない」とコメントしていたのが面白かったんで言及しておく。

 引退と言えば、今回の選挙でお二人の首相経験者がついに引導を渡され引退を余儀なくされていた。中曽根康弘(85)・宮澤喜一 (84)のお二人である。いずれも80代に達しているが、なかなかどうして、カクシャクとして政治家活動を続行している。日本が世界的長寿国であるのは事実だが、政治家のみなさんって人種は特に年齢を感じさせずいつまで経ってもエネルギッシュである。しかも日本の政治史をふりかえってみれば、この手の首相経験のある「長老」たちがなんだかんだと政治的に一定の影響力を持ってきたものなのだ。
 しかし自民党では比例区での公認単独候補の定年を「73歳」と規定している(この年齢は何を根拠に決めたのか興味あるんだけど分からない…)。元首相であるこの人たちについては「特例」としていたわけで、特に「大勲位」たる中曽根氏については橋本龍太郎 首相時代に比例区への転出の見返りに「終身一位」の座を約束していた経緯がある。以前から議論のあったこの「特例」について、小泉&安部自民党執行部は「若返り」「改革派」のイメージ戦略もあったのだろう、この長老達については総選挙公認の辞退、要するに引退を要請することにしたのだ。
 首相自らの直談判の結果、宮澤さんの方はわりあいスンナリと引退を受け入れたのだが(それでも多少の意欲はみせたようだが)、中曽根さんの方はまるっきりおさまらなかった。中曽根氏は「断じて了承できない。私は議員として一途な思いと最高の使命感でやってきた」と激しく反発し、特に長年の悲願である憲法と教育基本法の改正が目前に迫った(と本人が思う)時期に議員を辞めるわけにはいかん、と述べて、例の「終身一位」の約束も持ち出した。「突然、こういう爆弾を投げるのは政治的なテロだ」との「爆弾発言」まで飛び出し(笑)、憤懣やるかたなし、の有様であった(それにしても「9.11」以来、「テロ」という言葉も安易に使われるようになったものだ)
 しかもその後になって判明したことだが、中曽根氏、小泉首相との会談の際にひそかにその内容を録音していたそうなのだな。さすがは首相時代に「国家機密法」制定を画策したこともあるお方である(笑)。この録音の一件で小泉首相もさすがに怒り、周囲の再会談の要請も蹴って完全に引導を渡してしまった。中曽根氏は一時無所属での小選挙区からの立候補まで画策したが、さすがに観念して議員引退を表明した。もし立候補を強行していたらかつての「上州戦争」の再現で面白いことになったかもしれなかったが…
 それでもしっかり長男の中曽根弘文氏が参院議員になっていて世襲の流れは出来てるんだよな(宮澤さんも甥が地盤を引き継いでいる) 。群馬は小渕・福田と見事に首相経験者の世襲が確立しておりますなぁ…いや、ここだけでなく与党・野党も含めて日本の国会の「貴族院化」はいっそう進行してきているようだ。特に今回の選挙は各地で世襲選挙区の世代交代が多く行われており、僕の住む地元選挙区でも大臣経験のある政治家が二人引退して、それぞれ官僚出身の娘婿と長男とが地盤を世襲していた。ああいうのを見ていると、「封建制」っていうより「幕藩体制」ってな言葉がチラついてくるんだよな。
 

 さて、その選挙の結果だったが…
 いろんな意味で興味深い結果と思える。実のところ「この辺が落としどころかな」と事前にささやかれていたところに見事に落ちたような印象を受ける結果だった。自民党は議席を若干減らして選挙後の入党者を加えてなんとか「単独過半数」を確保し、、民主党は「躍進」したものの目標に掲げていた200議席には届かず、公明党は毎度ながら「負けない選挙」を展開し、社民・共産・保守新は見事にあおりを食らって議席を大きく減らした。数字から言えば小選挙区制だとなりやすいと言われる「二大政党政」の方向がとうとう見えてきた、と盛んに言われるところだが、「55年体制の再来」って風に見えなくも無い。それもこれも今後の展開しだいだが…。それにしても事前によく言われていた「安部人気」ってホントに存在したんですかねぇ?
 今回、「二大政党政」を感じさせたのが、小選挙区における自民党の大物議員の落選現象だった。落選組最大の大物はなんといっても自民党副総裁、つまり党内では一応ナンバー2の地位にあった山崎拓氏の落選だろう。先だって下半身系スキャンダルもあり(中曽根ジュニアがこの件を持ち出して党幹部批判してたっけな)民主党の新人候補に敗れ、小選挙区制の怖さが出た形ではある。スキャンダルのことはともかくとして、このお方は自作の憲法改正案に「国家の安全に寄与する義務」なんてものを盛り込んでいた物騒な人だから僕としては落ちてもらって幸いでしたがね。「サルは木から落ちてもサルだが、政治家は落ちたらただの人」という名言もあるように、山崎氏は「ただの人」となってしまい、自民党副総裁のポストは辞した。もっともこの「副総裁」ポストも安部幹事長を生み出すための苦肉の策だったところもあるし、「山崎派」の派閥会長の地位には依然として居続けるのだそうで。「反省だけならサルでもできる」という名言もありますなぁ。そういや、次郎君亡くなってましたね、合掌。
 落選組の一方で疑惑やら何やらで辞任し、当選して復活してきた「禊(みそ)ぎ組」も有名どころが目に付く。田中真紀子加藤紘一といった、この「史点」でもかつて大きくとりあげた政治劇の登場人物たちも「禊ぎ」を済まして復活してきた(「政界失楽園」と騒がれた船田元氏もいましたな)。加藤氏は自民党に復帰しかつて自分の率いていた派閥(の残存勢力)に戻ったが、派閥リーダーになるのは控えたようだ。それにしても「YKK」と呼ばれた山崎、加藤、小泉のお三方の変転を見ていると、政治家の運不運というのは誠にはかりがたいものであります。

 大物とはちと思えないが、落選組の中には熊谷弘氏の名前もあった。そう、連立与党の一角、保守新党の党首である。この熊谷氏は前述のように昨年の民主党代表交代騒動ののち民主党を割って出て保守党の何人かと一緒に新党を作ってその代表に納まったわけだが、民主党を割って出る際も思ったより仲間が集められなかったり、かつて口汚く批判していた相手を今度は一気に持ち上げたりと、どうも道化的役回りばかり演じていた感があった。それでこの落選である。
 熊谷氏が連立仲間であるはずの自民党からも完全にバカにされていたというのは、同じ選挙区に自民党新人候補が立てられてこちらが勝利してしまったという一事でよく分かる。選挙の結果、保守新党は議席を半分以下の4議席に減らし、党首自身も落選したことで党そのものの存続の危機に陥った。一時扇千景氏を代表にして建て直しを図る動きもあったが本人が拒否したため(保守党の時のイヤな思い出もあるだろうしな)、結局保守新党は解党、自民党へ合流してその中の一政策集団と化すことになった。
 この自民党入党者のなかに海部俊樹元首相の姿があった。この人も変転著しい政治家人生を送っているものだ。自民党総裁、首相になったこと自体が運命の悪戯みたいなものだったが、その後小沢一郎にかつがれて「新生党」「新進党」の党首となり(記者会見で実質的指導者の小沢氏に先に質問がいって「順番が違う」とか怒って失笑をかっていたものだ) 、新進党分裂後は小沢氏にくっついて自由党、自由党が政権を追われたときには自由党を離脱して保守党へ、そして保守党から保守新党へと、まさに流転。そしてとうとう古巣の自民党に戻ってきたわけだが、これにより自民党本部の歴代総裁肖像画の中に海部氏の肖像画も復活することになった。離党した際に「党に弓引いた」ということで歴代中唯一、肖像画が撤去されていたのだった。

 さて、今度は「自公連立」という政権体制になる。小さな存在ではあったが、保守新党が消えてしまったことで「三者連合」状態が解消し自民党と公明党が一対一で手を組むことになってしまったわけけだが、正直言ってお互いやりにくいことだろうな、と思える。なんといっても公明党ってのはかなり特殊な集団…ハッキリ言ってしまえば宗教団体・創価学会と一心同体の政治集団であるだけに、国民の見る目がけっこう厳しい。また自民党内にも公明党に対してアレルギーを持っている人も少なくはない。たぶんだけど今は盛んに公明党と創価学会に儀礼的におべっかを使っている小泉首相だって内心では嫌っていそうな気がする。
 それでいてその団体の強烈さゆえに集票力は無視できないものがあり、今度の選挙でも自民党は公明票を頼りにしなければならない場面が多々あって、実際いくつかの選挙区で「比例区は公明党へ」と演説した自民党候補者も見られたそうだ(あとで民主党候補者の中にも同様のことをした者がいたことが報じられていた)。自民と民主の二大勢力の間で一定の数を持つ第三者として、いちばん美味しいところを公明党は取ろうとしているのだろうが…
 


◆歴史人物の「着せ替え」

 最後はちょいと小ネタで。
 「今も生前の姿が拝める歴史上の人物」といえば、ロシア革命の指導者レーニンがその代表だろう。彼自身は1924年、その死に際して「故郷に埋めるように」と遺言していたが、後継者になったスターリン(レーニン自身は死の直前にスターリンを遠ざけようとしていたようだが)はソビエト連邦のまさに「偶像」としてレーニンの遺体を保存処理し、モスクワ赤の広場に「神殿」たるレーニン廟まで建設してこれを大いに利用した。この「遺体処理」は以後いくつかの模倣例を出し、孫文ホーチミン毛沢東なども同様の処理をされているという。
 ソ連が崩壊した際に「レーニン廟も壊して、遺体も本人の意思に沿って故郷に埋めては」との意見も出て、一時「外国の博物館に譲渡するらしい」などという報道もあったが(誤報だったが、当時山藤章二氏が「ブラックアングル」で「わが国には外国に“肉”を輸出する余裕は無いはずなんじゃ!」とレーニンに言わせていたのには大うけした)、結局今もなおレーニンの遺体はレーニン廟に展示されたままだ。まぁレーニンの遺志はともかくとして、ここまで来ると歴史的遺産として残しておきたい気分でもある。

 さて、そのレーニンの遺体身に着けている衣服を「着せ替え」する作業が進んでいるんだそうな。11月10日から12月29日まで、なんと一ヶ月半もかかる大掛かりな着せ替えである。何をどうするんだか全く分からんのだが…
 なんでもレーニンの遺体の衣服は過去30年間で10回目の「着せ替え」となるのだそうである。とすると、平均3年間は「着たきり雀」になっているわけであるな(笑)。この衣服も世につれ、というところがあるのだそうで、当初は軍服姿になっていたのが、第二次大戦直前に「軍国主義」のイメージを避けるため平服に変えられたということがあるんだそうな(うーん…むしろ戦意高揚で逆に軍服にしそうな気もするが)。その後の変遷は知らないが、それなりにその時期その時期の政治的意図、あるいは単純に流行ファッションを反映していたりするんだろうか(笑)。

 保存の担当研究者によればレーニンの遺体の保存状態はなかなかいいそうで、「あと100年は陳列できる」のだそうな。100年後にはロシアも世界もどうなっていることやら。レーニン遺体の受難は続く。


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