ニュースな
2004年7月4日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事


◆主権移譲はフライング

 4月に武装勢力やらシーア派やらの反米勢力の蜂起があって以来、「無事に迎えられるのか」とささやかれていた6月30日のイラクへの主権移譲。「予定通り行われる!」ブッシュ 米大統領もしつっこく繰り返し言っていたものだが、まさか前倒しのフライングになるとは思わなかった(笑)。6月に入ってから主権移譲に向けて圧力をかけようと反米勢力が次々と奇襲攻撃やら自爆テロやらを集中的に行い治安の悪化を加速していて、30日当日か前日にもおおごとが起きるのではないか…とも言われていたのだが、不意を突いて28日にいきなりの主権移譲実行で「あらら」と拍子抜け・肩透かしの感覚を覚えた人は少なくないだろう。イラク国民の大半も「知らぬ間の主権回復」に実感がわかずピンときていない、という状態のようだ。

 まぁピンと来ないのは主権移譲を実行した当人たちも同じかもしれない。一週間前から極秘に計画を進めていたそうだが、CPA(連合国暫定当局)からイラク暫定政府への主権移譲の「式典」に参加した重要人物はたったの6人(一応米英の外交官らがわずかながら立ち会ったらしい)。CPA側からはブレマー行政官ら2人、暫定政府からはアラウィ首相ら4人が出席したのみで、主権を移譲する旨の文書を渡す程度でわずか五分でさっさと終わり、直後にブレマー行政官は米軍輸送機に乗り込んで文字通り「逃げるように」アメリカへ帰国してしまった。
 かなり本気で大掛かりなテロがあるのでは…とおびえたからこそこんな慌しい移譲(異常?)式典になっちゃったのだろう。時として歴史は重要な場面が爆笑コントのように展開するもんだな、と改めて思ったものだ。

 慌しさもさることながら、「主権回復」と言ったって全面的に回復できたわけではない。治安維持関係は依然として米英など多国籍軍に仕切られてるし(一応暫定政府の要請に基づくということで) 、暫定政権じたい選挙を経ていない、あくまで「暫定」であるからして長期にわたって国を縛る立法や外国との条約締結などは認められていない。そしてその政権の人選はどうみてもアメリカ・イギリス主導で行われた性格が強いうえ(アラウィ首相なんて元CIA工作員とか言われてるもんな) 、アメリカなんか湾岸戦争以来21年ぶりの復活となる在イラク大使館になんと1000人もの職員を派遣してイラク政策にテコ入れすることにしている。そういや旧大統領宮殿をアメリカ大使館にするとかで暫定政府とモメていたが、あれはどうなったんだろう…あんまり露骨なことはするもんじゃないぞ、と思うのだが今のブッシュ政権にはアドバイスする気にもなれませんな(いや、こんなとこ見ちゃいないだろうけどさ)
 まぁナンと言うか、表面的にはなんにも変わっていない気もする。結局その後もテロは起きてイラク人もアメリカ兵も死んでるし。反米勢力側からしても表面的にはなんも変わってないんですよね。主権回復といってもあくまで占領状態だと。ま、主権回復をとっくの昔にしたはずなのに国民に相談する前にアメリカの大統領に「多国籍軍参加」などという重大問題を勝手に約束しちゃう首相がいたりする「独立国」もあったりしますからね(笑)。

 移譲といえばサダム=フセイン元大統領ら旧政権高官の身柄の「法的管轄権」も30日付でアメリカ軍からイラク側へ引き渡されている。しかし「安全上の理由」からその身柄じたいは依然としてアメリカ軍の管理下におかれ続けている。これからイラク政府によって訴追・裁判という展開になるわけだが、裁判で問われるのはまさに「人道に対する犯罪」で以前から予想されたようにまさに「イラク版東京裁判」になるものと思われる。久々に顔を見せたフセイン元大統領も「裁判は茶番だ!真の犯罪人はブッシュだ!」 と吠えていたが、フセイン氏個人の独裁時代の弾圧行為などを裁くのは当然として、ブッシュ大統領とアメリカの犯罪行為も一緒に裁かなけりゃならないのは確かだろう。そしてそういった数々の非人道行為をしたとされるフセイン政権のバックアップをしていたのが他ならぬアメリカ政府であったことも問われなけりゃならないはず。
 実際、そのイラクのフセイン政権と戦った過去を持つイランのラフサンジャニ最高評議会議長(前大統領)は、フセイン政権の「罪状」の中にイラン・イラク戦争(1980〜1988)時におけるイランへの化学兵器使用が含まれていない事に不満を表明している。「数か月のクウェート占領について告発されたのに、どうして8年にわたるイラン・イラク戦争では告発されないのか」とも言い、「イラクの法廷はサダムのイランに対する犯罪を再調査すべきだ。それをしないなら、米国の命令としか考えられない」と、この裁判がアメリカによる茶番であると痛烈に皮肉っている。
 なお、この裁判ではフセイン元大統領に20名ほどの「国際弁護団」がついて弁護人を務めることになっている。その中の一人にリビアのカダフィ大佐の娘で法律学教授のアイシャ氏が加わっていることが報じられている。カダフィ大佐といえば最近はかなり欧米寄りに態度を変えてまた注目の存在になっているが、ここでその娘さんが出てくるというのも面白い。そういや息子さんもセリエAの選手になったりしていたような…



◆「御神体」の動座

 1991年放送のNHK大河ドラマ「太平記」にこんなシーンがある。鎌倉幕府打倒に燃える後醍醐天皇(片岡孝夫=現:仁左衛門)が自らの逮捕が迫ったのを悟り、都を脱出して比叡山へ逃れることを表明する場面で、「動座じゃ!」 と天皇が言い放つと公家たちが「おおお…」と涙を流して驚き嘆くのだ。もちろんこの場合の「動座」とは天皇自身の移動であり、それだけ昔は天皇の皇居からの移動というのは異例中の異例の事態だったのだ、ということを示すシーンだ。だいたい「動座」という表現も人間の移動というよりは神社仏閣のご本尊を移動させるような響きがある。動座にあたっては天皇の地位の証しである「三種の神器」も携帯していくことになるが、このドラマでもそのあと後醍醐天皇と妃の阿野廉子(原田美枝子)が剣など神器と思しきものを運び出す様子が描かれていた。南北朝〜室町時代はそれをめぐっての争奪戦が繰り広げられた時代でもあったのだ(以上について詳しくは本サイトの「太平記大全」コーナーを参照のこと)

 「動座」という表現を新聞記事で見て、まず思い出したのがこのドラマの1シーンだった。ただしこのたび「動座」になったのは天皇ではなくご神体のほう。皇居内にある「宮中三殿」の耐震検査をするとかで、三殿に納められているご神体を一時的に隣接する仮殿に移す「動座」の儀式が去る6月18日に執り行われたというのだ。
 「宮中三殿」とはその名のとおり皇居内に置かれている神殿で、一つは天皇家の祖先神天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭る「賢所(かしこどころ)」、もう一つは歴代天皇及び皇族の霊を祭る「皇霊殿(こうれいでん)」、そして最後の一つが日本にいる数多くの神々、いわゆる「八百万(やおよろず)の神」を祭る「神殿(しんでん。そのまんまやがな)」の三つを指す。賢所にはご神体として「三種の神器」の一つである「八咫(やた)の鏡」があるとされている。ただし公式(?)には「八咫の鏡」のホンモノは伊勢神宮にあることになっていて、賢所にあるものはそのレプリカということになっている(他に草薙(くさなぎ)の剣についてもそういうことになっているらしい)

 現在あるヒノキづくりの「宮中三殿」が作られたのは1888年(明治21年)。その後関東大震災の折に少し壊れたため修繕が行われていて、今回の耐震検査はそれ以来の作業となる。今回はあくまで実測やX線による検査で、その結果を受けて実際に修繕するかどうかを決めるとのこと。なお、「動座」じたいは太平洋戦争末期の1944年11月から翌年の敗戦直後の8月末まで、空襲による焼失を避けるため地下庫にご神体を移動させたケースがあるそうだ。さすがにご神体だけによくよくの場合でないと「動座」するものではないということだ。
 調査は約一ヶ月間行われ、ご神体がもとの三殿に戻れるのは7月の27日とか。調査費と仮殿関連の整備費でかかった費用は約5600万円とか。宮内庁は「三殿は公的色彩を持つもの」として公費である宮廷費から支出するそうだが、特定の宗教行事という見方もあり現憲法の定める「政教分離」の問題と微妙に絡んでくる問題でもある。この行事じたい現憲法下では初めてのことになるのだがなんかあっさりスルーしているようにも思える。
 記事によると三殿から仮殿までは「隣接」と言っていいほどの距離らしいのだが、白装束に烏帽子姿の宮内庁職員80人が行列を組んで15分がかりでゆっくり歩き、神体を輿や籠に乗せて運んだそうで。たった三つのものを運ぶのに80人…ってあたりがイカニモ宮内庁的ではある。先日の皇太子の「人格否定」関連発言でもにおわされていたけど、この役所は相当に澱んでいるような…



◆米騒動発祥の蔵

 富山県の魚津という町は、「米騒動」発生の地として、たぶんほとんどそれだけによって全国的に知られている。「米騒動」とは1918年に魚津から始まって日本全国に広がった大暴動で、最終的に当時の内閣を総辞職に追い込み、代わりに原敬による初の本格的政党内閣を生み出す結果になり、歴史の授業ではいわゆる「大正デモクラシー」の流れの中で語られることが多い。
 米騒動発生のプロセスというのは「風が吹くと桶屋が儲かる」的な連鎖反応の結果でもある。そもそも1914年に第一次世界大戦が勃発、それに参戦してるうちに経済が疲弊したロシアで革命が起こって社会主義政権が樹立され、それに対して各国が干渉出兵を行う中で日本も「シベリア出兵」を実行、これに便乗して軍に米を出荷してひと儲けをしようたくらんだ米屋が売り惜しみをして米価を吊り上げ、これに怒った魚津の主婦達(大半は貧しい漁師の妻)が米屋を襲った、という展開だ。当時の新聞で「越中の女一揆」 などと呼ばれたこの騒動が局地的なものにとどまらず全国的に広がりを見せた背景には、当時の日本が戦争による一時的好景気の一方で抱えていたさまざまな矛盾が挙げられているが、当時の新聞を見ていると一種の「流行現象」という側面もあったような気もしてくる(笑)。発生直後はともかくとして途中からは「流行」って面も強かったんじゃないかな…と個人的には思うところ。

 6月22日付の朝日新聞に、この「米騒動発祥の蔵」について保存問題が起こっていることが報じられていた。米騒動のキッカケは前述のようにシベリア出兵をする軍に米を出荷しようとする動きを察知した主婦達がそれを阻止しようと集まって騒いだことにあるが、その現場は積み出し作業を行っていた十二銀行(もともとは第十二国立銀行。その後合併を経て現在の北陸銀行になる) の米蔵だった。この建物、90年近くを経た現在も残っていて水産会社が倉庫に使ってるそうなのだが雨漏りと痛みがひどくなっていて、補修・保存作業をしなければもたない状態らしい。持ち主も「文化財として残してもらえれば」と希望しており、魚津市議会でも議論されているとのこと。魚津市としても「歴史的事件の象徴」として文化庁が進めている「近代遺跡調査」の対象になるよう申請しているところだそうだ。本音のところ市の予算では補修作業の負担が大変だ…というところみたい。

 この記事で「おおっ」と驚いてしまったのが、この米騒動発生当時、主婦達に押しかけられた米屋(何軒かあるうちの一つ)の娘さんがご存命で取材に応じていたこと。浜多きくさんという当年97歳、当時11歳だったこの女性は騒動の日に主婦達が「米を出荷しないでくれ」と押しかけてきた時の記憶を鮮明に覚えているそうで。「怖くはなかったちゃ。あの頃を思い出させるのはあの建物だけやから、ぜひ残してほしいちゃ」とのお言葉でありましたが、ふーむ、富山弁(魚津弁?)ってこういう話し方をするもんなのかな?なんにせよ歴史的事件の目撃者の生の証言というのは独特の迫力を持つものである。



◆なんだかんだで半世紀。

 なにがって、自衛隊が発足から半世紀になるんですよ、去る7月1日で。ほー、もう50年もやっていたのか…と。
 自衛隊自体の発足は1954年7月1日。1950年の朝鮮戦争を機にアメリカが日本の再軍備を指導して警察予備隊が発足、1952年に保安隊となり、1954年7月1日に「防衛庁設置法」「自衛隊法」が施行されて自衛隊が発足した。つまりこの年の11月に公開された「ゴジラ」第一作に出てくる軍隊もどきは自衛隊らしいんですな(笑)。「ゴジラ」シリーズにおいて自衛隊は時折「防衛軍」など名称がボカされつつも延々と出演しており(ほとんど「やられ役」っぽいが)、メーサー車だとかスーパーXなどといった怪獣対策専用の謎の超兵器を多々所有していた(笑)。
 1993年公開の「ゴジラVSメカゴジラ」では未来技術を元に製造したメカゴジラまで所有していたが、この映画では国連によるゴジラ対策専門軍(?)「Gフォース」なるものに組み込まれていることになっていた。これって当時も思ったのだが、さりげなくPKO活動など自衛隊が国連との関わりで「国際貢献」ということで海外に出て行くようになった世相を反映していた。2001年公開の「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」 にいたっては自衛隊ではなく完全に「日本軍」が登場しており、怪獣退治に出かける兵士達に市民達が「日本の兵隊さん、頑張って!」などというギャグとも本気ともつかないヘンな呼びかけをしてるシーンまであった。まさに怪獣映画も世につれ…なんであるが、「ゴジラ」シリーズも今年公開の「ゴジラ FINAL WARS」で50年の歴史に一応の幕を下ろすことになっている。ま、どうせ数年後に復活だろうけどさ(笑)。案外今後の自衛隊はハリウッド製「GODZILLA」の続編の中で「多国籍軍」「復興支援」で参加してたりするかもしれないが。

 まぁ長年の盟友であるゴジラ君も一区切りをするわけだが、今年は自衛隊にとってもあれこれと節目が多かった。いや「節目」という認識があまり無いうちにズルズルとなし崩し的に重大なことを進めて行っちゃってるあたりがかなり怖いんだが。PKOのときはあれだけモメたはずなのに、「イラク復興支援」の名の下にサマワへの派遣がアッサリ実行され、さらには首相が出先でアメリカ大統領に「多国籍軍参加」なんて大問題を勝手に約束してきちゃって、国内では事後承認状態。指揮権は日本にあるとかなんとか凄まじい言い訳をしてるけど、アメリカによるイラク戦争じたいがそうだが「やったもん勝ち」な話が続いているところが非常に気持ち悪い。
 作家の半藤一利氏も新聞に寄せた評論のなかで「今は満州事変あたり」 と警告を発していたが、まさに満州事変も「やったもん勝ち」の話で全部事後承認されてしまい、それがその後の軍部暴走、日本の破局につながっていったという過去を思い起こさせる。満州事変は現地の関東軍参謀らが軍部首脳はおろか政府首脳すらも欺いて仕掛け、結局事後承認で引きずり込んだものだったが、今度の首相自らが「やったもん勝ち」をやっちゃってるというのとどっちが悪質なんだろうか。希望的観測を言えば年金問題とともにこの「多国籍軍参加」問題が内閣支持率を大きく下げた気配もあり、選挙結果しだいでは何らかの歯止めがかかるかもしれないが…

 自衛隊半世紀ということで各マスコミで様々な角度からの記事があった。
まず複数のマスコミで報じられた話題だが、自衛隊発足直後の1955年に自衛隊と在日米軍との「制服組」(軍人・武官を指す)の間でソ連軍日本上陸を想定した共同作戦計画がひそかに策定されていたことが元自衛隊幹部複数の証言で明らかになった。まぁ軍事作戦というものは事前に仮想敵を作って具体的に練っておかねばならないものだから当然そういうことはしただろうが、ひっかかるのはそれは日米間の制服組の間でだけ進められ、自衛隊の最高指揮官であるはずの総理大臣には一切報告されないまま、防衛庁長官のみに提出する形で非公開のまま毎年改訂され続けていたという事実だ。一応防衛庁では「当時は自衛隊に対する批判も強く、法的にも未整備だったから長官への報告にとどめ公表は差し控えた」と言い訳しているが。
 どうもこの共同作戦計画、当初は自衛隊が独力でソ連軍を防ぎ(北海道を想定していると思われる) 米軍の応援を待つといったものだったが、米軍側が日本本土への直接攻撃よりも朝鮮半島での有事の可能性を高く考えるようになってそれと共に変化をしていったものらしい。1978年からいわゆる「ガイドライン」が日米間で合意され共同作戦計画はこちらの方で進められて、それまで密かに進められていたものはボツ(あるいは吸収)になったみたいだが、一応日本政府は公式には今でも日米の共同作戦計画は未完成としている…。

 自衛隊に限らず近代国家における軍隊は文民統制(シビリアン・コントロール)が常識とされている。これが全く機能していなかったのが「天皇の統帥権」をいいように解釈して振り回した旧日本軍部であったわけで、その反省もあって自衛隊では文民統制の問題がうるさく扱われていると言われる。それに関して、大幅な見直しを求める意見書が先ごろ海上自衛隊のトップである古庄幸一海上幕僚長から提出されたことがかすかに波紋を呼んでいる。
 その意見書のタイトルは「統合運用体制への移行に際しての長官補佐体制」。その主張するところは防衛庁内にあって長官を補佐し、制服組の上に立って自衛隊を統制する10人前後の文民(俗に言う「背広組」) グループ「防衛参事官」の制度の廃止要求だった。要するに武官の頭を押さえて上に立つ文民たちが邪魔だというわけで、「最優先に廃止すべし」と主張しているとかでかなり穏やかではない。廃止がムリなら次善の策として統合幕僚長、陸海空幕僚長を「参事官」とするよう要求しており、武官=制服組の発言力・主導力を増大させようという意図は明白だ。また自衛隊法の定める長官の指揮監督権、幕僚長の職務の規定についても「改正は必然」とし、昨年「有事法制」の一環で定められた内閣の「安全保障会議」(国防に関する重大決定をするための会議)に防衛庁長官だけでなく統合幕僚長を参加させるよう求める部分もあるという。
 いろいろな意見を言うのは自由であるが、ずいぶん突っ込んだことを言い出したものだな…とは思う。またこれには廃止を名指しされた背広組の参事官たちも反発しており、そう簡単には実現するものではないだろうと思うが…。

 政府は政府で自衛隊によるPKO活動などの「国際平和協力業務」を自衛隊の付随的任務ではなく「本来任務」に格上げするよう自衛隊法を改正する方針を7月3日に決定したと報じられている。来年にも国会に提出するとのことだが、なんだかウヤムヤのうちに「自衛」の組織じゃなくなってきてるよなぁ…しかもこの「国際協力」ってやつが単にアメリカ様に尻尾ふるためだったりもするわけで、もう最近は議論もほったらかしの何でもあり状態になってる。それで「現実に合いませんから」と憲法改正にもってこうということなんだろうけど、法治国家としては順序が逆ってもんだろう。何が怖いってそういうウヤムヤぶりが怖いのだ。
 今朝の読売新聞なんかじゃ1969年の宇宙開発事業団発足時に国会で決議された宇宙の「平和利用五原則」の見直しについて政府・与党が検討に入ったなどと報じられている。ミサイル防衛構想との絡みが見え隠れするんだが(実際この方針はアメリカに早速伝えることが記事中にある)、ロケット部品市場での国際競争力を得ようとする財界・産業界の要請もあるとかで、なにやら「軍産複合体」っぽい臭いもしてくる。
 冷戦が終わり、地域紛争や国際テロといった事態は深刻になってはいるが、実のところ日本がそんなに慌てて軍事政策を推し進めなきゃいけないような緊迫感は僕には感じられないんだが…半藤氏など他の昭和史研究者も書いていたが、気がつかないうちにあれよあれよとキナ臭い時代に突入していた、なんて二の轍を踏まないように歴史屋としては願いたいところだ。


2004/7/4の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

「ニュースな史点」リストへ