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2004年7月20日

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◆二つの原爆に関わって

 7月15日、アメリカでボストンの病院でチャールズ=W=スウィーニー氏という84歳の老人がこの世を去った。この人、元軍人で、太平洋戦争の末期における人類初の原子爆弾投下に直接関わった人物だったのだ。しかもこの人は8月6日の広島と8月9日の長崎の両方の原爆投下に関与した唯一の将校だったのである。

 1945年8月6日、広島に原子爆弾を投下したのはご存知B−29爆撃機「エノラ・ゲイ」号。スウィーニー氏が搭乗していたのはその機ではなくそれに同行して人類初の実戦における原爆投下の模様を調査する任務を受けていた観測機のほうだった。広島に投下されたたった一発の原子爆弾「リトルボーイ」は、その炸裂直後だけで約14万人の死者を出し、その後も原爆症などにより現在までの累計で24万人の命を奪うことになる。
 その3日後の8月9日午前2時56分(現地時間)、スウィーニー氏は自ら機長を務めるB−29「ボックス・カー」に他十二名の搭乗員とともに乗り込んでテニアン島の基地を飛び立った。任務は二発目の原子爆弾(プルトニウム爆弾)「ファットマン(でぶ)」を日本に投下すること。当初の目標は九州北部の大工業地帯である小倉(現北九州市)だった。広島の時と同様に先に天候観測機が小倉上空に飛んで天気が快晴であることを伝えてきたため、「ボックス・カー」は予定通り小倉目指して飛行を続けた。
 ところが…皮肉なことに前夜に行われた八幡地区への空襲のため、その煙が小倉上空に漂い、視界が悪くなった。原子爆弾ぐらいの破壊力だと目標を定めるための視界がどうの、というのも妙な気もするが、ともかく「ボックス・カー」は目視による小倉への原爆投下を断念(3回ぐらい試みたらしいが)、第二候補地であった長崎へ向かうこととなる…小倉市民にとっては知らぬ間の命拾いであり、長崎市民にとっては全くやりきれない運命の悪戯。そして日本時間9日11時2分、長崎に原爆は投下され、7万人以上の人命が失われることになった。
 この長崎への原爆投下の直前の8日にはソ連がヤルタ会談の密約に基づいて対日参戦、日本政府の一部が抱いていたソ連を仲介とした講和という甘い希望も打ち砕かれ、また相次ぐ原子爆弾の投下も後押しして(どの程度であったのかは判然としないが「玉音放送」にもひとこと言及はある)、日本は8月14日にポツダム宣言の受諾・無条件降伏をすることになる。

 さて予想通りのことではあるが、スウィーニー氏は一貫して原爆投下を「戦争を終わらせるために必要だった」として正当化し続けた。著書のタイトルからして「War's End: An Eyewitness Account of America's Last Atomic Mission(戦争の終結:アメリカ最後の原爆作戦の目撃者)」である。投下は不必要だったのでは、との声には「馬鹿げた意見だ」と断言したこともある。別に彼個人だけではなくアメリカ国民の大半の歴史認識なので仕方の無いところではある。また、彼自身軍人として命令を受けただけなのであるから彼個人を責めるわけにはいかないところは確かにあるだろう
 もっとも小倉投下を断念したあとそのまま引き返す、あるいは海洋投棄せず長崎に投下した件については彼自身で選択肢を判断した可能性が指摘される
。また原爆投下の一ヵ月後に長崎の被爆地を直接歩き「原爆を日本やドイツが持っていなくてよかった」と思ったとか(むろん、原爆そのものを正当化しているわけじゃなく素直な感想でもあるのだが)「私はそれを義務であったとみなしている。私はただ戦争が終わることを望んだだけであり、そして我々は愛する者のもとへ帰ることができたのだ」なんて言っているのを見ると、いささかひっかかりを覚えてしまうところはある。「エノラ・ゲイ」の機長、ポール=ティベッツなんかはこの件を聞かれると「真珠湾のことはどうした!」と筋違いな逆ギレをするらしいのだが、まぁ内心のところいろいろ思うところはあるのかもしれない。

 なお、長崎に投下した「ファットマン」が、スウィーニー氏が「敵」に投下した最初の爆弾であったという。そして後年こうも言っている。「私の任務が、空輸されるその種のものの最後であることを、私は望む」と。一応彼の目の黒いうちは幸いにしてそういうことになっているのだけれど。
 


◆幕末剣士2題

 今さらですが今年の大河ドラマ「新選組!」を6月ごろからキッチリ見始めた(笑)。ようやく「新撰組」らしい話になってきたから、ってのもあるんだけど。どうも幕末の、しかも新撰組となると妙にミーハーなファンが集ってくるというイメージがあり(新撰組じたい元祖コスプレ集団?という側面もあるしな)、マイナー、硬派好みの僕などは敬遠しがちなのだが、だんだん内容がドロドロしてきて「見ごろ」になってきた観がある(笑)。

 さて、その新撰組の代表選手といっていいのが副長の土方歳三。「ドカタ」ではない、というもはや古典的定番ギャグに使われるこの人だが、もともとは薬屋さんというずいぶん不釣合いな印象の出身を持っている。「ヒジカタ」ってぐらいだから売っていたのは凝りをほぐす湿布薬…なわけはなくて、家伝の秘薬「石田散薬」という打ち身・捻挫に効く粉薬の製造・販売をしていたそうである。実際に怪我人の多い新撰組では「常備薬」だった?…ってな話もあるそうで。
 その「石田散薬」を復元してみようというイベントが故郷の東京都・日野で先日催されたとか。大河ドラマとタイアップした「新選組フェスタin日野」というイベントの一環として行われたもので、土方家に伝わる製法(なんと1948年まで製造を続けていた)に従って復元作業が行われた。原材料は歳三の生家近くの浅川に自生するタデ科の植物「ミゾソバ」で(外見がソバに似ているためこの名がある…花言葉は「純情」だそうな)、これを乾燥させて細かく刻み、鉄板で煎た上で日本酒をふりかけ、また乾燥させて粉末にして出来上がり、という製法。なんか読んだだけだと美味しそうにも思える(笑)。


 もうお一人の剣士ばなし。こちらの主役も幕末大河では常連といっていいほど顔を出す人気者、坂本竜馬である。
 坂本竜馬が人気者になった一因に、彼がマメに手紙を姉の乙女にあてて書いており、その多くが保存されていることが挙げられる。坂本竜馬の名を一躍国民的知名度に押し上げた司馬遼太郎の歴史小説「竜馬がゆく」だって、これら竜馬自身の手紙の存在に拠るところがかなり大きい。竜馬の手紙は現代人にも読みやすい口語調で(さすがに崩し字は読みにくいが)ユーモアたっぷりの文体もあいまって彼自身の面白い性格をしのばせると同時に、幕末史の貴重な生の証言ともなっている。
 
 その竜馬直筆の手紙の一つが、このたびおよそ20年ぶりに「発見」されてオークションにかけられ、話題を呼んだ。やはり姉の乙女にあてて書かれたもので、彼の通った千葉道場のお嬢さん・千葉佐那(さな)を紹介する内容を含んでいる。これが「初発見」というわけではなくその内容はすでに小説などでも使用されていたと思うのだが、いきさつは不明ながらとにかく20年間行方が分からなかったというもの。書かれたのは文久三年(1863)8月14日と見られるという。
 この千葉佐那さんという女性は竜馬もののドラマなどで何度となく描かれたヒロインだからいまさら説明不要の気もするが、北辰一刀流を創始した千葉周作の姪にあたる。竜馬が入門したのは当時は周作の弟の定吉 が道場主で佐那はその娘だから、竜馬にとっては「恩師の娘」。しかもただのお嬢様ではなく最初のうちは竜馬よりも剣が強かったとまで言われる。そのうちに相思相愛の関係になったようで、竜馬が北辰一刀流の免許皆伝を受けた際に定吉の同意を得て許婚(いいなずけ)となったと言われる。このあたり、小説なんかでは竜馬が実際に結婚しちゃったおりょう(お竜) さんの件があるためビミョーにボカされていたりもするのだが、どうも正式に婚約をとりかわしていたもののようだ。少なくとも佐那さんの方では終生「坂本竜馬の妻」と自覚して独身を貫き、没後その墓には「坂本竜馬室」と彫り付けられてもいる。その辺りが哀れを誘うところで、世間的にはひそかに「おりょう」さん(こっちはその後再婚してる)よりも人気があったりするみたい。

 で、今回再発見された手紙には竜馬が佐那さんについて「馬によくのり剣も余程手づよく、長刀も出来、力はなみなみの男子よりつよく」といった男勝りの武芸達者ぶりや絵などの多才ぶりを紹介し、「心ばへ大丈夫(気立てが良い)」「かほかたちよし」と褒めちぎっちゃってる、お姉さんに向けてかなりの「のろけ」を発しているそうで。
 他愛ないと言えば他愛ない手紙なのだが、なんといっても坂本竜馬直筆の、そのプライベートな部分を吐露した手紙。オークションは当然高値が予想され…結局1633万円で現在開館準備中の某文化施設が競り落とした。
 他愛ない中身でももしかすると将来高値がつくかもしれませんよ…というのは昨今のメールなどではそういうこともなくなっちゃいましたな。



◆また騒ぎを起こすこのお方

 このお方、って誰かと言えば、当「史点」がそのむかし「ノーベル迷惑賞」を授与したイスラエル現首相・シャロン氏である。
 相変わらずパレスチナ人に対する暗殺作戦やら空爆作戦やら、はたまた「バカの壁」(先日VOW!で見たネタだが壁建設地にホントに「バカ・アルシャルキエ村」というのがあるのだ!)づくりに精を出して国際司法裁判所から取り壊しを勧告されたりもしているが、アメリカが後ろ盾になってるところもあって依然強気だ。それでもガザ入植地撤退には同意したので右派から突き上げを食い、今度は労働党との連立なんて話もあがっているそうだが…

 しかし今回このお方の発言が物議を醸した先はパレスチナではなくフランス。シャロン首相が7月18日にエルサレムで開かれた米国ユダヤ人協会の会合のなかで、「世界のユダヤ人は全てイスラエルに移住すべき」との持論を展開した上で、「フランスではすさまじいユダヤ人差別があり、ユダヤ人への迫害行為が相次いでいるから、フランス在住のユダヤ人は早急にイスラエルに移住すべきだ」という主旨の発言したのだ。
 これにはフランス外務省が「全く受け入れられない」と猛反発、「イスラエル政府の正式な説明を求める」と発表した。これに対しイスラエル政府のスポークスマンは、シャロン首相の発言にはフランス政府が反ユダヤ運動を取り締まっていることを評価する部分があったことを強調する一方で、「フランスでユダヤ人襲撃が相次いでいるのは、ひとつには人口分布の問題からで、ユダヤ人を敵視するイスラム人が多いことが原因だ」とフランスの国内事情について指摘を加えている。

 実際、ポツポツと聞こえてきていたのだが、とくにイラク戦争勃発以後、フランス国内ではユダヤ系住民に対するイスラム系住民の攻撃・迫害事件が多発しているという。なんせフランスは全人口6000万人のうちユダヤ系が60万人、北アフリカからの移民を中心とするイスラム系が500万人も含まれる国なのだ。徹底した政教分離を行うこの国では先ごろ公立小学校でイスラム教徒の生徒がスカーフをつけるのを禁止する件で大議論になったことも記憶に新しい。
 イスラム教徒によるユダヤ人への迫害行為−例えば話題になったのはユダヤ人の墓石にハーケンクロイツ(カギ十字)を書き付けるといったいやがらせ−は今年に入って昨年の倍のペースで発生しているという。フランス政府もこれにはかなり神経質になっていて、革命記念日の7月14日の恩赦でも性犯罪とともに人種差別犯罪が対象外とされたのにもそれが現れている。
 しかしこうした空気の中で実にイヤな事件がおきている。去る7月9日に若い女性がパリ近郊の電車内で中東・アフリカ系の男性6人に強盗にあい、「身分証明書の住所からユダヤ系であると誤認され、ナイフで身体や髪を傷つけられ、体にカギ十字を書き付けられた」という事件が報じられた。近ごろフランスで起こっている風潮と絡めて世界的にショッキングに報じられシラク大統領までが非難声明を出す事態になったが、13日になって「全てこの女性の狂言」であったことが判明、別の意味で世界的にショックを与えている。

 そういったフランス国内の情勢と絡めてのシャロン発言だったわけだが、イラク戦争ではアメリカに同調しなかったフランスであるだけに、シャロン首相のいささか挑発的な発言は中東問題へのフランス、ひいてはEU諸国の関与に対する牽制では、との見方もある。もともと「ユダヤ人迫害」はナチス・ドイツの専売特許ではなくヨーロッパ全体で「覚えがある話」で、あんまりつっつかれたくない痛い部分だ。それだけにフランスも敏感に反応しちゃったんだろうけど…。



◆「和の政治」の元首相逝く

 昨夜、もう寝ようかなと思いつつニュースサイトをぶらついていたら鈴木善幸元首相死去」の速報が目に飛び込んできた。享年93歳。歴代の首相経験者で存命している最長老だった。僕が現役時代を覚えている首相としてもほとんど最古の人だった。その前の大平正芳首相については口癖の「アーウー」がTVでさんざんパロられていたことと現役での急死だったため学校で黙祷させられたことぐらいしか覚えていない。しかし鈴木善幸さんってのもその約2年の「治世」で何をしたんだかあんまり印象のない人だったんだよな。

 鈴木善幸元首相は岩手県出身。岩手は意外に総理大臣を輩出している県で、鈴木元首相で四人目となる。次の大物は小沢一郎…と言われていたんだけど、どうなんですかねぇ(笑)。
 岩手・三陸海岸の網元(まぁ漁師の世界における「地主」みたいなもの)の家に生まれた善幸氏は農林省水産講習所(現東京海洋大)を卒業し、中央水産業会ができると職員労組の委員長として活躍、そこでの活動が政治家としての出発点となっている。戦後の1947年の総選挙に労組活動をやっていた関係で社会党から立候補し初当選した。そう、意外にも左派政党出身の首相なのでありますね。その後、社会革新党(社会党右派分派)を経て保守系の民主自由党に移籍、そのまま自民党議員(池田→大平派の「宏池会」グループに属する)として政治家人生を送っていく。出身からか「水産族のドン」として知られ、福田赳夫内閣の時には農林水産大臣として日ソ漁業交渉などにも活躍している。
 それなりに党内実力者としての道を歩んだ人ではあるんだけど、野心満々なところはほとんどなく、権力闘争よりは党内のまとめ役に徹していた(自民党総務会長を10期6年も務めている)あたりは、温厚で人当たりのいい性格だったんだろう。総理大臣になるなんて思いもよらないことだったみたいだ。

 しかし、人の運命というのはわからない。1980年5月16日、当時の大平正芳内閣に対し社会党が(まさか通るとは思わず)提出した内閣不信任案が、自民党内の反大平派の大量欠席によりなんと可決されてしまうという椿事が起きた。当時の自民党は「三角大福中」とセットで呼ばれた有力派閥リーダーがひしめく戦国時代で、ことに「角」こと田中角栄 と「福」こと福田赳夫の両派が「角福戦争」などと呼ばれる長く激しい対立を続けていた。大平内閣は田中派が福田首相をひきずりおろす形で出来た政権だったこともあって福田派がこれに反発、野党が提出した不信任案を欠席によって通過させるという行動に出たのだ。これに対し大平首相は総辞職ではなく衆議院の解散に打って出て(公民で必ず習うこの手続きだが、戦後史でもあんまり例はない)、6月22日に史上初の衆・参同日選挙が行われる事になった。このまま進めば、自民党は二つの党に分裂する、とまで予測される劇的な事態となったのだ。
 ところが実際の歴史はもっと劇的な展開を見せた。選挙戦さなかの6月12日、大平首相が急性心不全で急死してしまったのである。選挙前には高い不支持率を出していた大平内閣だったが、首相の急死により「同情票」が集まりダブル選挙は自民党の圧勝(笑)。財界のはたらきかけもあって自民党分裂は回避され、まぁなんだか終わってみると死んだ大平さんには気の毒だが自民党にはいいことづくめという結末になったのだった。
 さて、次期首相は誰にするのか。大平首相の急死後は伊藤正義が総理代行を務め、当然彼に首相登板の声もかかったが「親友の大平が死んだのに、その後任にはとてもなれん」 と固辞。また反大平派も大平死去までのいきさつ上候補者を出しにくく、結局大平派の「大番頭」と呼ばれ総務会長として選挙戦をとりしきった鈴木善幸に「お鉢が回る」ことになってしまう。おぼろげに覚えているのだが、この人事には当時誰もが「えっ!?」と驚いていた、そのぐらい意外な名前の登場であったのだ。自民党総裁に選ばれた時の挨拶で「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分承知している」って自分で言ってるぐらいだしね。首相になって掲げたのが「和の政治」というキャッチフレーズだったあたりが、自民党分裂の危機直後に登板した彼の気分をよくあらわしているように思う。
 
 なんだか首相になるまでの経緯が長くなったが、その後の首相時代2年間については実際とりたてて書くことが無い。今回の逝去でその首相時代の「功績」が挙げられているが、まとめてしまうと国鉄民営化などの行革路線の筋道を作り「大平政権のやり残しの継承」と「中曽根政権への引き継ぎ」といったところになる。首相になっちゃったのも「たまたま」という気分だったせいか、あっさりと自分から自民党総裁選への出馬を取りやめて中曽根康弘への「禅譲」を行ったことが唯一の積極的政治行動なんて言われている始末。まぁでも中曽根さんみたいに「引退」したはずなのに相変わらずコメンテーター化しているのよりはずっとスッキリ爽やかなお方でした。


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