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2004年7月26日

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◆暑い暑い暑いっ

 その言葉は聞きたくない、と言われそうなぐらい、とにかく東京近辺が暑い。「熱い」と書いたほうが適切なんじゃなかろうかと言うぐらい暑い。去年は涼しい夏だったが、そのぶん暑さが今年に移動してきたみたい。昨年記録的猛暑だったフランスは今年は涼しいそうだし…それなりに全体的にはバランスがとれているんだろうか。
 そんな暑い日にとっておきの暑い話(笑)。というかアテネオリンピック関連の歴史ネタだ。歴史ネタの新説発表というものも結構時事ネタと結びついていることが多いという一例ですな。

 オリンピックの華と言われるマラソン競技。良く知られていることだが、この競技には由来となった故事がある。紀元前490年、アケメネス朝ペルシャ帝国がギリシャ征服を図って攻め込んだ、いわゆる「ペルシャ戦争」(ペルシャ側に言わせれば「ギリシャ戦争なんだろうが)の中の一戦で「マラトンの戦い」というのが起こっている。アテネ占領を狙って上陸してきたペルシャ軍を、ミルティアデス らが率いるアテネの重装歩兵が迎え撃ちこれを撃退した一戦だ。とくにこの戦いでペルシャ軍が致命的敗北をしたというわけではないんだけど、アテネへの直接攻撃の回避が出来た一戦ということでアテネ側からは重要視されていたものらしいが、なんといってもこの戦いはマラソン競技の起源になっちゃったことが大きい。
 事実かどうかはともかく伝説では、この戦いの勝利をアテネに伝える伝令の兵士がマラトンの戦場から約40キロメートルを走り、「勝利は我が手にあり」と叫んで息絶えた、ということになっている(なお、この話は一般人が長距離を走り終える際に「急に動きを止めてはいけない」という教訓にもよく引き合いにされる)。近代オリンピックがクーベルタンの提唱によって始められた際にフランスの言語学者ミシェル=ブレアルがこの伝説を元ネタに競技を行うことを提案して、1896年の第一回近代オリンピックでも大会の最後の華としてこのマラソン競技が実施されることになる(優勝者は開催地ギリシャの羊飼いあるいは郵便局員と言われ、この時の地元の熱狂が競技定着のきっかけとなった)
 ご存知のとおり現在マラソン競技の走行距離は厳密に「42.195キロメートル」と妙にハンパな数に定められている。当たり前の話だがそのマラトンの戦いの伝説に伝令兵士の走行距離が正確に伝えられているわけはなく、近代オリンピックも当初は「だいたい40キロ」というアバウトに決めていただけだった。「正式種目なんだからそれはイカンだろう」ということで、第4回のロンドン大会で使われた「42.195キロメートル」が次の第5回パリ大会から正式な走行距離として採用されたという経緯がある。なんでこんなハンパな数になったかについてはイギリスがメートル法ではなくフィート・ヤード法だったからだとか、ゴールを王室の観覧席まの下まで延ばしたためだったとかいろいろ言われているけど「定説」はないらしい。
 
 まぁそんなこんなで100年以上も続けられてきたオリンピックのマラソン競技。間もなく始まる2004年のオリンピックは発祥の地アテネで開催される。
 それに合わせての発表、ってことなんだろうけど、この「マラトンの戦い」が行われた日時について新説が発表された。従来、マラトンの戦いの日時は19世紀にドイツの学者の計算により紀元前490年の9月12日と断定されていたのだが、このたびアメリカの天文学者らの研究により「実際には一ヶ月前の8月12日だった」とする説が出されたのだ。
 そのドイツの学者の使った計算方法は、ペルシャ戦争について詳細な記述を残した歴史家ヘロドトスの著作「歴史」中に記述されているスパルタの祭礼時期の記事をアテネの暦(太陽太陰暦)に照らし合わせ、それを現在の太陽暦に換算する、というものだった。しかし今回新説を発表したテキサス州立大のドナルド=オルソン教授によればアテネとスパルタでは一年の始まりがそれぞれ夏至と秋分の日に定められていて一致しておらず、アテネの暦ではなくスパルタの暦で計算しなおしてみたらマラトンの戦いは一ヶ月早い「8月12日」とはじき出されたそうなのである。
 8月のアテネの平均気温は31〜32度ぐらいだそうで、伝令の兵士が走り終えて絶命したという伝説も、猛暑の中を走ったがための結果で案外史実なんじゃなかろうか、と言われるわけだ。まぁそもそもそんな暑い中、重装備で戦争するほうも大変なんだが(笑)。
 


◆夏とか殷とかナスカとか

 続いても伝説領域の古代史ネタ。ちょっとオマケもついてますけど。

 このくそ暑い中「夏」という単語も聞きたくないぐらいだが、出てきちゃったものはしょーがない(笑)。中国新華社通信が7月20日に伝えたところによると、中国河南省偃師(えんし)市の「二里頭遺跡」「夏王朝」のものと思われる3600年前の「中国最古の都市」跡が発見されたというのだ。
 「夏」は、現在中国最古の王朝として公式認定されている「殷」に先立つ伝説の最古王朝で、実在しているとすれば紀元前21世紀〜紀元前16世紀ごろに存在していたと言われる。司馬遷の『史記』など古典によれば、聖君とされる舜(しゅん)から治水工事を命じられて成功した禹(う)が舜から王位を譲られ、 自身は自分の息子に跡を継がせて以後は子孫が王位を継いでいく「王朝」の形になったのだ、とされる。治水工事に成功して王位についた、ってあたりが大河文明の発祥の秘密をにおわせて興味深いところなんだけど、じゃあこの「夏」王朝が実在したのかというとそれを決定するのは結構難しい。「夏」は最後に暴君桀 (けつ) が出て有徳の人・湯(とう) に滅ぼされとされ、この湯がひらいたのが次の「殷(商)」王朝になるわけだが、こちらは先日も書いた甲骨文字と殷墟発見の経緯で実在が確認されている。だから『史記』などの伝える古代伝説も案外アテになるというわけで、殷の前の夏王朝についてもあったんじゃないかなぁ…とは言われてはいる。しかし殷のように決定的な文字資料が出るとは考えにくく、また夏王朝らしきものが実在したとしてもそれは「王朝」と呼べるようなレベルのものであったのか…という問題もある。

 さて、今回も名前が出てきた「二里頭遺跡」だけど、ここからは殷の時代よりも古く技術も未熟な青銅器が発掘されていたため以前から「夏王朝の遺跡では?」とささやかれていた遺跡ではある。昨年春から発掘調査が進められており、その結果を受けて中国社会科学院がこれを「明確な計画に基づいた中国最古の都市で、中国の古代都市制度の源流」と呼んでしまうほどの規模のものが出てきたと言う事らしい。
 発表によると「古代都市」の中央には東西約300メートル、南北約360〜370メートルの「宮殿」があり、その周囲に幅2mの城壁が確認できたという。宮殿内の四方には幅10〜20mの道路が縦横にめぐらされ大型の建物群が計画的に配置されており、祭祀に用いた青銅器や「車輪の跡」とみられるものまで発見されたという。これが確かなものだとすると確かに「夏王朝」っぽい感じではあるのだが…
 ま、とにかくいきなり結論ありきで飛びつかず、慎重に調査してほしいものである。どうもこの手の古代文明遺跡ネタには僕はかなり慎重に向き合いたいところがあり…以前「史点」ネタにした中国どころか「世界最古の都市発見!」と騒いだ「長江文明」の件もあるしね2001年11月4日「史点」。そういやこれもその後続報を聞かないが…


 このニュースの後を追うように、殷王朝に関する発見ニュースも報じられた。発掘場所はやっぱり河南省偃師にある「偃師商城」遺跡だ。殷は都をあちこちに移していたが、これはその一つであるとされる。
 7月24日までに新華社電が伝えたところに拠れば、この「偃師商城」遺跡から見つかっている巨大な人工池(長さ130m、幅20m)について「王の観賞用の池だった」との見解が有力になり、『史記』が伝える殷の最後の王・紂(ちゅう)王の「酒池肉林」の伝説を裏付けるものではないか、との声も上がっているのだそうだ。
 殷の紂王といえば先ほど出てきた夏の王と「 紂」とセットで呼ばれるほどの亡国の暴君・暗君とされる。実際にどうだったかはともかく王朝が滅びる必然性を説明するためにことさらに悪く書かれていると言われているのだが、とにかく『史記』の伝える紂王の暴君ぶりというのは凄まじく書き連ねられていて、中でも故事成語として有名なのが「酒池肉林」の件だが、『史記』の殷本紀には「以酒為池,縣肉為林,使男女裸相逐其閨C為長夜之飲(酒で池を満たし、肉を林にぶらさげ、その中で男女に裸で追いかけっこをさせ、それを眺めて夜通し飲み明かした)と割とアッサリとした記述があるのみだ。まぁ盛大かつ豪勢かつハチャメチャにハメをはずした宴会をしていた、ってことですね。
 いま話題となっている人工池は1999年にとっくに発見されていたものだが、当初は何か実用的な目的で作られたものとの見方があった。しかし近くから井戸の跡が多く発見されたためこの池が生活用水であったとは考えにくくなり、国王の観賞用の池だったんじゃないかという見解が出てきたわけだ。すると当然連想されるのが「酒池肉林」の故事だったというわけ。もっとも紂王の時代には殷の都はここからは離れた場所に移っており、この池がそのまま「酒池」だったというわけではなさそう。伝説の出どころにそうした観賞用の池があったのかも、という話だ。


 えーと、ホントは「夏とか殷とかインカとか」と韻を踏んだタイトルつけたかったんだけど、ナスカ文化はインカよりずっと前なんですよね(笑)。ま、一応古代遺跡ネタつながりということで強引に。
 ペルーにある世界遺産「ナスカの地上絵」。世界の遺跡の中でも神秘性で抜きん出ているものの一つだが、西暦500年ごろに製作されたものだと言われている。空から見ないと全体像が把握できない巨大さで、よく宇宙船の滑走路だとかオカルトSF風なことが言われたりもしているものだが(これとは別に彼らは気球で飛んで空から見下ろしたんじゃないか…との説もあるにはある)、恐らくは天の神々に向けて「絵」を見せようと考えて下絵から拡大する方法で描かれたものではないかと言われている。
 この地上絵、乾燥地域に描かれているために1500年後の今日でもクッキリと残っているわけなんだが、この上をこともあろうにトラックなど自動車が走って(!) 一部消滅の危機に陥っているとの報道が先日流れた。ペルー政府が実に30年ぶりに航空写真で詳しく遺跡の状況を調べたそうなのだが、有名な「サル」の絵の「グルグルしっぽ」部分に大きな車輪の跡が横切って、一部を消してしまっているとのこと。他の絵にも似たような損傷があり、関係者の話によると高速道路の料金の支払いを避けるためトラックの運転手などが「抜け道」として地上絵の一帯を使っちゃっているのだとか。国会議員らが早急に保護対策をするべしと騒ぎ出しているそうだが、なんといっても世界的に重大な観光資源、確かに国益に関わる問題だよな、これは。



◆神社戦争勃発?

 最近ある本を読んでいたら、日本にある宗教法人で最大の信者を抱えているのは「神社本庁」なんだそうな。その数、なんと公称9532万人!日本国民の8割近くがこの神社本庁の信者なのだそうだ!
 …って言っても、もちろんカラクリがある。あくまで「公称」であり、いわば「主催者側の発表」。神社本庁というのは全国8万の神社が伊勢神宮を頂点に組織化されてるもので、「信者」といっても実際には各地の神社が自分の周辺地域の住民を「氏子」扱いして勝手に「信者」としてカウントしちゃっているものに過ぎない。そりゃまぁ日本人は古来宗教心がいい加減ですから初詣にはみんな近くの神社に行くわけで、それらが「信者」としてカウントされちゃってるんだろう。それなら公称9000万というのも分からないではない。その大半が初詣に神社のついでにお寺に参り、クリスマスを祝い、葬式は仏式で挙げ、結婚式は教会で、ってな人たちなんだろうが。

 「神社本庁」などと国のお役所みたいな名前を名乗っているが、実態はただの一宗教団体に過ぎない。明治以後、いわゆる「国家神道」のもとに全国の神社は統括され、特に昭和前期あたりでは天皇崇拝と強く結びついて露骨な「国教化」が推し進められたわけだが、1945年の敗戦・占領の過程で「神道指令」がGHQによって出され、神道は国家と切り離されて一宗教として扱われることとなった。その際に皇典講究所・大日本神祇会・神宮奉斎会の神道の民間三団体が合体してできたのが「神社本庁」だ。「本庁」って名前を勝手に名乗ってるあたりが国家神道復活への渇望を表しているのだろうが…。
 神社本庁は公式サイトもあるので詳しくはそっちを見てもらいたいが、神社本庁の支部として各都道府県で「○○県神社庁」(これもいかにも官公庁っぽい印象を与えるよな〜)といった宗教法人が認可を受け、それぞれの範囲の神社を統括する形となっている。全国8万の神社が属しているぐらいだからほとんど全部の神社がここの統括下にあるわけなんだけど、いくつか有力神社で加わっていないものもある。例えば意外なところで靖国神社。まぁこれはそもそも設立事情が特殊だし、またいろいろと騒ぎのタネにもなるので別枠に置いておくことになってるのかもしれない。他に伏見稲荷大社日光東照宮などが神社本庁に加わっていない。この辺、まだ詳しく調べてないのだけど、一時加入していたけど離脱したらしく、いささか複雑な背景があるものらしい。徳川家康を神として祭っている東照宮なんかは深読みしちゃうところもあるんだけど…。また日本神道系でも天理教、金光教といった教団は神社本庁とは全く無縁だ。

 さて7月20日、東京都にある明治神宮が、それまで一体の宗教活動を行ってきた「神社本庁」から離脱する旨を含む法人規則改正の申し立てを、認可元である東京都に送っている。僕なんかはこの一報を見たときには「おおっ」って驚いたんだけど、なんでも5月にはすでに一部マスコミで流れてた話なんだそうで。気がつかなかったなぁ…。
 「明治神宮」。毎年正月に都民やおのぼりさんがドドドッと初詣に押しかけTVも必ず中継しちゃう「初詣のメッカ」だが(横綱の土俵入り披露をしたりもしますね)、参拝者の大半があの神社がどういう神社なのか知りもしないと思われる。ま、そこが日本人の宗教観のいい加減さでありいいところでもあるんだが…。明治神宮の祭神はほかならぬ明治天皇昭憲皇太后の夫婦。そんな近い時代の天皇・皇后が神様に祭られている神社だなんて、今じゃほとんど意識されてないんじゃないかなぁ。別に意識しなくてもいいんだけどさ。
 とにかく明治神宮は都内の一等地にあることもあって参拝者に関しては圧倒的な強さを持つ。毎年の初詣の騒ぎを見れば分かるように大変なお賽銭の稼ぎ頭でもあって、神宮球場を始めとする神宮外苑の各種施設も経営している。神社の歴史的由緒となるとイマイチの神社には違いないのだが、なんといっても天皇を祭ってしまっているため「神宮」という一等上の扱いにもなっている。その明治神宮が「神社本庁」からの離脱、だというんだからことは穏やかではない。

 現時点では一部マスコミの報道(一部週刊誌と、一般新聞では産経新聞が共同通信記事などで報じてる)しか材料が無いので背景については良く分からないんだけど、どうも人事面(全国神社の神職は一応神社本庁が任命する形らしい)と金銭面(明治神宮など有力神社から神社本庁に「上納」された金が全国の中小神社に回る仕組みがあるらしい)で神社本庁と明治神宮側が紛争を起こしているらしく、5月の段階で明治神宮側が神社本庁からの「離脱」の方針を決定、神社本庁側はなんとか思いとどまるよう説得していたがダメで、結局7月に明治神宮側が実行に踏み切った、ということみたい。
 申し立てを受けた東京都としては特に書類上に不備が無ければ二週間ぐらいで認証する見込みだそうだが、実際に離脱となると神社本庁への打撃はかなりのものと予想される。なんといっても神社本庁の事務所じたいが明治神宮に隣接して建っており、土地も明治神宮から一部借りるかたちとなっているのだ。やっぱり追い出されてしまうのであろうか…この件、今後に注目。



◆「毛沢東暗殺」

 もちろん「未遂」と続きます(笑)。「始皇帝暗殺」って邦題の中国映画もありましたしね。

 現在の中華人民共和国の建国者、毛沢東は絶対的な権力者でもあったし、また当時の中国は権力闘争も凄まじかったから暗殺計画の一件や二件ぐらいは当然あった。有名どころでは文化大革命の時期に一時毛沢東の後継者に指名されていた林彪による暗殺計画がある(1971年)。これは結局事前に漏れて未遂に終わり、林彪はソ連への逃亡中に飛行機が墜落するという謎の死を遂げている。
 今回中国外務省が公開した外交機密文書により内容が明らかになったとされる毛沢東暗殺計画は、それよりも時間を20年もさかのぼる1950年のものだ。しかもこの件には日本人が容疑者の一人として逮捕され、処刑されている点が注目される。

 1950年といえば中華人民共和国成立の翌年であり、いま日本でも公開され僕も見てきた韓国映画「ブラザーフッド」で描かれている朝鮮戦争が勃発した年だ。そしてこの暗殺計画の実行予定日は共産中国建国からちょうど一周年の「国慶節」(建国記念日) である10月1日。この月の25日に中国は北朝鮮を助けて義勇軍を朝鮮半島に派遣しアメリカ・韓国軍と戦うことになるという、まさに冷戦ならぬ熱戦に突入しようという一触即発の状況の中でのことだった。この時期に毛沢東暗殺を計画したのはアメリカの情報機関であったとされるが、状況的には十分ありえることだとは思う。
 
 報道されている内容はあくまで中国側の発表であるからどこまで事実かは判然としないけれど、一応それに沿って話をまとめると、暗殺計画の実行者はアメリカのスパイとして雇われていた日本人男性とイタリア人男性だった。日本人の方は東京出身でもともと日本の特務機関関係者で戦後にアメリカ情報機関に加わった人物とされる(実名報道もあったけど念のためここでは伏せます)
 計画では10月1日の国慶節の式典で天安門を直接迫撃砲で砲撃して破壊し、天安門の上に並んだ毛沢東ら中国共産党首脳部をまとめて暗殺する、というものだったという。逮捕時に押収された計画書によれば迫撃砲は消火器にカモフラージュし、今も天安門広場に掲げられている毛沢東肖像画を標的として砲撃するべく、放物線が書かれた図まで計画書に描かれていたそうだ。その日本人とイタリア人は同年の1月から準備を始め(つまり共産中国建国直後から計画が進められた事になる)、5月から7月に天安門を下見、9月に綿密な計画書を仕上げていたが、当初から彼らをマークしていた北京市公安局が9月26日に「武装暴動計画」の容疑で二人を逮捕、日本人男性の自宅から迫撃砲やピストル、手榴弾などを押収している。
 その後この二人は1951年8月17日に死刑判決を受け、即日執行された(この素早さは今も同じらしい)。事件自体も政治的思惑からか闇に葬られ、この件が初めて中国紙で報じられたのはなんと1990年になってからだ。
 
 今回の文書公開で明るみになったのは逮捕にいたるまでの詳細な経緯。報道だけでは良く分からないのだが、外交文書ということはこの件で何か外交的な取引でもあったのかもしれない。なお処刑された日本人の遺族は「無実」を主張しているそうだが、ことがことだけに「真相」は永遠に歴史の闇の中かも。


2004/7/26の記事

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