ニュースな
2004年11月17日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事


◆やれやれ、あと4年…

 さてと「史点」もなんとか再開しましょうかね。「史点」開始以来の迷キャラクターとも言えるブッシュ・ジュニアが再選を決めちまったようですから。
 思い起こせば「史点」にブッシュ・ジュニアが初登場したのは1999年11月15日の記事。実に5年間にわたるおつきあいなんですよね。初登場時から「大統領候補は不勉強か?」というネタで登場している(笑)。当時テキサス州知事で次期大統領候補の有力者として名が挙がっていたブッシュ・ジュニアが各国の指導者の名前を記者に聞かれて逆ギレしたり、「私は大統領になれるだけの知性はある」「アメリカ国民は、外国の指導者が言えるか言えないかで大統領を選ぶようなことはしないはずだ」とTVでわざわざ言ったりしたというネタだった。

 翌2000年、大統領選もたけなわの9月10日の記事ではあの「アスホール!」発言事件で再登場。二週にわたるネタとなってしまう。そして11月8日にはあの「アメリカのいちばん長い日」、前代未聞の大騒動大統領選となっちゃったのだった(11月13日記事)。一ヶ月後にどうにか政治決着となった経緯については12月19日の「ブッシュの息子・G消滅作戦」というタイトルで書いている(笑)。
 さらに翌2001年、2月21日の「原子力潜水艦浮上して」(えひめ丸事件関係)の記事内では軍事的初仕事としてイギリス軍と仲良くいっしょにバグダッドを空爆。ここでブッシュ大統領、「フセイン大統領が大量破壊兵器を開発すれば『適切な措置』をとる」と早くも「大量破壊兵器」の名前を出し始めている。そして4月2日の「米露スパイ暴露合戦!」 の記事ではブッシュ政権が次々と前政権の外交方針をひっくり返していることに触れ「一、二年以内にかなり丸くなると予想」なんて書いてる自分は甘かったなぁ、と思うばかり。その直後の4月9日には米軍偵察機が中国戦闘機と衝突するという大事件が発生しているが、これは今にして思うと「大人の対応」であっさりと片付けてしまっている。5月7日の記事ではアメリカが史上初めて「国連人権委員会」のメンバーからはずされた件に関連して京都議定書離脱やミサイル防衛構想のブチ上げなど「一国独走主義」の様相がかなりハッキリと現れてきていたことを書いている。パレスチナ問題だってブッシュ政権になってからよりいっそうイスラエル寄りになってきたところもあって、事態の悪化に歯止めがかからなくなってしまった。

 そして2001年9月11日がやってくる。この「同時多発テロ」のあとの「史点」はもうブッシュ・ビンラディン の名前が出ずっぱり状態となり、10月にはアフガニスタン攻撃が開始される。11月にはアフガニスタンのタリバン政権も崩壊し、一段落したと思ったのか「対テロ」ということで一時国際協調に転換かと思えたブッシュ政権はまたぞろ一国主義傾向を見せ始めて「イラク攻撃」の影がチラつきはじめる。この年内にもビンラディン逮捕?との話もあったけどご存知のとおりいまだに捕まっていない…どころか先日の米大統領選直前に当人のビデオ声明が流れたりしたわけで、思えばかなり謎な話ではある。結果的にあれもブッシュ当選のアシストをしたとしか思えないところがあったし…いやマジでアルカイダはブッシュ再選を望んでいると言ってたって話もあるんだよね。

 翌2002年は比較的落ち着いた一年なのだが、「嵐の前の静けさ」というやつで1月20日「史点」ではあの「プレッツェルをのどにつまらせ失神事件」が発生(笑)。このあともブッシュ大統領は「セグウェイ」に乗って転んだり自転車に乗って転んだりといったポカ事件を連打してくれる。
 その直後の2月5日の記事ではイラク・イラン・北朝鮮をまとめて呼んだ「悪の枢軸」というフレーズが登場する。そのあとは散発的にCTBTの無効化・核実験再開や小型核兵器の開発とか、国際司法裁判所の無意味かを狙った策動とか、「一国主義」の暴走に拍車がかかっていく。この間、ブッシュさん自身も「十字軍」だの「偽りの信仰」だのといった問題発言を連発していたっけ。秋にはノーベル平和賞があてつけのようにカーター元大統領に贈られたが(前年は国連&アナン事務総長)、イラクの「大量破壊兵器開発疑惑」問題が一気に加熱してくる。結局イラクのフセイン大統領はじらしにじらして査察を受け入れるのだが、もうこの時点で「何が何でもイラク戦争をやる」というブッシュ政権の姿勢は明白になっていた。

 翌2003年。1月18日の「史点」を見ると開戦前だというのにもうイラク占領政策の話題が出ている(笑)。そして2月1日には「スペースシャトル・コロンビア空中分解事故」 が発生、開戦前になにやら不吉な影がチラついた。このあと「史点」が長期中断状態になってしまうので書いてないのだが、3月のイラク戦争開戦前までは国連を舞台に主にフランス・ドイツが激しく開戦に反対し、世界的にも反戦運動が高まるなど、歴史上こんなに事前に騒がれた戦争ってないんじゃないかなという情勢にはなった。しかしやっぱり開戦しちゃって、ほんの一時「苦戦?」ってな観測も流れたりもしたが結局はあっさりとバグダッド占領。5月にはブッシュ大統領が空母の上で「大規模戦闘終結宣言」をしてしまうわけだが、本当の「苦戦」がその後に待ちうけていたことはご存知のとおり。
 開戦の大義名分とされた「大量破壊兵器」は一向に見つからず、それどころかフセイン大統領すら年末までなかなか見つからず、イラク側のレジスタンス活動による米兵の犠牲者は後を立たない。慌てたブッシュ大統領がバグダッドを2時間だけ電撃訪問なんてコントみたいな一幕もあったりしたっけ。

 そして今年。イラク戦争は結局一年を越し、スペインなど派兵していた国が次々撤退するという事態も起きた。サドル師のシーア派の一部が反米闘争を開始したり、ザルカウィ 氏やらという外国人系武装勢力が人質事件や米軍を狙った自爆攻撃を起こしたり、はたまた米軍の捕虜虐待事件が発覚するなどイラク情勢はいまなお「泥沼」としか言いようのない状態になっちゃっている。気がつくとアメリカ自身も戦費その他で膨大な財政赤字を抱えてしまい、なんのために始めた戦争なのかわからない状態になってしまっている。それでもアメリカ国民のかなりの部分は「イラク戦争は対テロ戦争の一環であり、おかげでアメリカはより安全になった」というブッシュ政権の唱えるお題目を本気で信じているらしいから始末が悪い。カンヌ映画祭でパルムドールをとったマイケル=ムーア監督の「華氏911」を作るような人も見るような人もそしてそれに賞をあげるような人もアメリカにはいるわけだが(カンヌの審査員はタランティーノはじめアメリカ映画人が多かった)、それでも半数ぐらいは割と単純に自国の指導者の政治的言説を信じているようにも思える。

 そして大統領選。終わってみてから言わせてもらうと民主党のケリーさんというのは候補としてはいまいち中途半端なキャラだったと思う。実質、この選挙は「ブッシュかケリーか」ではなく「ブッシュかそれ以外か」という信任投票に近い選挙で、ケリーさん個人の資質はどうでもいい空気があった。ケリー候補自身も反戦運動の経歴をもつ割に「ベトナムの英雄」を看板にしてみたり(この件についてのブッシュ陣営側の中傷工作も凄かったが) イラク戦争については正面からの批判を避けるといった、あからさまに「リベラル」と見られるのを避ける姿勢をとっていたところがあって、終盤になって対決姿勢を明白にしてからそれなりの接戦になったのを見るともっとハッキリさせたほうが正解だったんじゃないかという気もする。

 どこぞの調査で世界各国で「ブッシュかケリーか」のアンケートをとったら圧倒的にケリーが勝つ、というデータもあった。選挙直前にニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった有力紙がそろってケリー支持を打ち出し、経済学者や科学者団体の声明、はたまた作家アンケートなどでもブッシュ批判の声は多数派だった。それでも終わってみれば接戦とは言え総得票数でもブッシュの方が多いとされ、少なくとも前回に比べれば明確な勝利をしちゃったわけだが、各州ごとの動向を見ると前回同様に中西部・南部といった田舎部がブッシュ、北東部や西海岸といった都会部がケリーという色分けがハッキリとある(アメリカの夜の衛星写真の光と影とピッタリおんなじだという興味深い指摘もある)。アメリカの「田舎の保守」というのがここ数年でかなり濃密な煮詰まり具合を見せてるようで、これがアメリカという国の世界に対する独善性を支えているわけだ。
 今度の大統領選でブッシュ大統領に投票した人の多くが「道徳的規範」とやらを基準にしていたとかいう調査結果があるが、これまでブッシュ政権が世界を相手に繰り広げてきた行動のどこにどう「道徳的」な部分があったのか非常に理解に苦しむばかり。最近話題になった本で紹介された、アメリカの学生が日本からの留学生に「広島の原爆で9.11ほど人が死んだのかい」と真顔で言ったというエピソードなんかも思い合わせ、アメリカ人のアメリカ中華思想的無知ぶりもかなりのもんなんだと改めて思う。

 ひところ通貨操作で世界的に悪名をはせ、その後なぜか「資本主義の行きすぎ」を主張して活動している投資家のジョージ=ソロス 氏が「ブッシュはアメリカ経済を破壊する」として民主党側に多額の寄付をしてサポートしたことが目を引いたが、マイクロソフトなど有名大企業はかなりブッシュ支持にまわったとかでなんだか日本の自民党みたいな支持母体だなぁと思ったところもある。あと、同時に行われた連邦議会の上下両院選挙でも共和党が勢力を伸ばし両院で安定多数をとっちゃってることもブッシュ政権には心強いところだろう。もうなんでもやれまっせ、という感じでこっちから見ているとかなり怖い。

 これから4年間、2008年まで何が起こるのか。案外なにも起こらなかったりするのかもしれないが(とりあえずその次はないわけなので) 、この政権の体質からいって何かまた大ごとを起こす可能性は高い。「悪の枢軸」呼ばわりしイラクとアフガンに挟まれたイランにちょっかいを出す可能性は高いし、シリアやヨルダンなど中東諸国で軍事行動を起こす可能性もささやかれている。ミサイル防衛計画はもちろん核実験のひとつもやるかもしれない。
 そしてあの人の持って生まれた「能力」からいって何かまたオオボケをかましたり前代未聞の事態が発生したりするんじゃないかと。これはこれでネタ提供元として楽しみではあるのだが、世界に迷惑をかけないでもらいたいものだ。




◆アラファト死して何を残す?

 あと一ヵ月半ばかり残しているが、現時点で今年最大の大物の死ではないかと思う。国内では今んとこいかりや長あたりかな。

 2004年11月11日、パレスチナ自治政府のヤセル=アラファト議長が入院先のパリの病院でついに死去した。享年75歳。ここ数年イスラエルのシャロン政権の攻勢で軟禁状態にあり、政治的にはほとんど「死んでいた」と言ってもいい状態で、11月はじめに病状悪化でパリに入院するため軟禁を解かれた時点で、もう戻って来れないのではないかという観測が流れていた。病状についても白血病説から毒殺説まで流れるほど混乱したが、自治政府関係者が10日ごろには葬儀の準備にとりかかっていたところを見ると、パリに入院した時点ですでに脳死状態で、生命維持装置によって「生きていた」ってだけのことなんじゃないかと思われる。
 遺体はただちにエジプトのカイロに運ばれ、12日午後に葬儀が行われた。世界中の60カ国ほどの国の首脳レベル要人が参列して形としては国家指導者らしい盛大な葬儀となったが、東南アジアからアフリカまでのイスラム圏は主に国家元首・首相クラス、ヨーロッパ各国は首相・外相クラス、アメリカは国務次官補程度で済ましたので日本・韓国などその子分たち(笑)は川口順子前外相・首相補佐官のような前外相クラスでお茶をにごして参列という色分けはハッキリあった。参列こそしなかったがキューバのカストロ首相みたいに「キューバ国民の親友の死」を悼んで国民に三日間の服喪を命じた人もいる。その一方、当然ながらというべきかアラファトを敵視しまくっていたシャロン首相のイスラエルは葬儀に誰も派遣していない。
 棺桶が閉じられた時その人の人生の評価が定まる…という言葉もあるんだけど、歴史上の人物の評価というのはそう簡単にはいかないもので、この人についてもなかなか難しいところ。ただ一つ言えることは、この人が病院のベッドの上で死ねたというのは奇跡的といっていい、ってことだ。
 
 アラファト氏が生まれたのは1929年8月24日。本人はエルサレム生まれを主張していたと言われるが、実際には葬儀の地ともなったカイロで生まれたとされている。少年時代にエルサレムの親類のもとで暮らしたためエルサレム育ちではあるらしいが。
 先祖の名前をどんどん並べていく方式の本名のフルネームはムハマド=アブドル=ラフマン=アブドル=ラウーフ=アラファト=アルクドワ=アルフセイニという。この中の「アラファト」が姓みたいなものとして流布しているが、「ヤセル」という名前は本人が大学時代に自分で名乗るようになったものだという。なんでも当時イギリス統治下のパレスチナで死亡したパレスチナ人の名前をとったものだとか。

 アラファト氏がまだ18歳という若き青年だった第二次世界大戦直後の1947年、国連はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する「パレスチナ分割案」を承認、翌1948年にイスラエルが建国される。これに対しアラブ諸国は一斉に反発、イスラエルに攻め込んで「第一次中東戦争」が勃発する。エルサレムからカイロに戻っていたアラファト青年も反イスラエル活動に参加したが、このころはまだイスラエル軍の武器をくすねてくるといった地味な活動をしていたらしい。
 結局この第一次中東戦争はイスラエルの勝利に終わり、イスラエルは国連の分割案よりも広大な領土を獲得する事になる。戦後、アラファト氏はカイロ大学に進学して工学を学んだが、いよいよ本腰を入れてパレスチナ解放闘争に取り組むようになり、1956年にエジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化宣言によって勃発した「第二次中東戦争」ではエジプト軍の兵士として従軍もしている。この時の軍隊経験を生かして闘争組織「ファタハ」を創設、さらに1964年にはそれを主流派とする「パレスチナ解放機構(PLO)」が結成され、1969年にアラファト氏はその議長に就任してアラブ諸国の支援を受けつつイスラエルに対する長い長いテロ・ゲリラ攻撃を展開するようになる。

 しかし軍事的にはやはりイスラエル正規軍の方が優勢になるのは無理もないところで、1967年の「第三次中東戦争」でイスラエル軍が圧勝してヨルダン川西岸やガザ地区を占領、1970年にはPLOは拠点としていたヨルダンから追い出されてレバノンのベイルートに移り、さらに1982年には当時のシャロン国防相がレバノン侵攻を実行したため、アラファト氏はチュニジアに逃亡するハメにもなった。「あの時アラファトを抹殺しておけば」とその後首相になっちゃったシャロン氏は愚痴ったりしているわけだが。実際、イスラエルは暗殺その他手段を選ばぬところがあるのは周知のところで、つくづくアラファトさんはよく生き抜いたものだと思える。
 軍事的には一見ジリ貧の展開でもあるのだが、1974年にはアラファト氏はPLO議長として国連総会で「私は平和のオリーブの枝と自由のための闘士の銃を携えて、ここにやってきた。オリーブの枝がこの手から落ちるようなことにはしないでほしい」と演説、国連がパレスチナ民族の自決権とPLOの国連オブザーバー資格を認めてその国際的な地位を確保するという前進もあった。その一方で強力な後ろ盾だったアラブの盟主・エジプトがサダト大統領のもとでイスラエルと和解し(キャンプ・デービット合意)、イスラエルを追い出してのパレスチナ解放というのは事実上不可能になっていく。

 1987年、ヨルダン西岸、ガザ地区などイスラエル占領地でパレスチナ民衆の蜂起(インティファーダ)が発生、アラファト率いるPLOはこれを支援、指導する一方で、1988年にイスラエルとの共存を想定した「パレスチナ国家樹立宣言」 を打ち出す。そしてその直後の冷戦の終結が中東情勢にも微妙に影響してきて1991年にはPLOやアラブ諸国とイスラエルとが顔をあわせたマドリードでの中東和平会議が開かれ、さらにノルウェーの仲介によるイスラエル労働党政権との秘密交渉が進められ、1993年9月にはホワイトハウスでラビン・イスラエル首相とアラファト議長がパレスチナ暫定自治協定、いわゆる「オスロ合意」に署名してパレスチナ人による自治を獲得、将来的なパレスチナ国家の建設、イスラエルとの共存という筋道が作られることになった。この合意実現によってイスラエルのラビン首相とペレス外相、そしてアラファト議長は翌年のノーベル平和賞を受賞することにもなったのだ。
 このころには少しは明るい兆しがあったのだが…。「私はパレスチナと結婚している」などとエリザベス1世みたいなことを言って独身を通していたアラファト議長がキリスト教徒パレスチナ人のスーハさんと結婚し、間もなく孫みたいなお子さんが出来ちゃって世界をあっといわせたのもこのころの話だ。一方で1990年のサダム=フセイン・イラク大統領のクウェート侵攻に端を発する湾岸戦争が勃発するとイラク側を支持してアラブ世界でヒンシュクを買うような一幕もあった。
 
 1995年、一緒に平和賞を受けたラビン首相がパレスチナ和平に反対する国内の極右によって暗殺される。その後のイスラエルは多少の揺らぎはみせつつも右傾化・強硬化の傾向が強くなっていく。対してパレスチナ側はオスロ合意に基づいてP「パレスチナ暫定自治政府」が樹立され、アラファト氏がそのままその議長にシフトしたが、イスラエルの右傾化とあいまってパレスチナ側からのテロ活動も相変わらず続き、アラファト議長の「指導力不足」に批判が集まるようにもなってくる。クリントン政権末期のアメリカがなんとか話をまとめようとしたが、特にエルサレムの帰属問題ではアラファト議長が絶対に譲らず、1999年5月にするはずだった「パレスチナ国家独立宣言」も無期延期状態になっていく(このあたりから「史点」の領域に入ってくる)

 そして2000年9月。イスラエルの極右政党リクードのシャロン党首がエルサレムのイスラム教徒聖地を強硬訪問して挑発、まんまと挑発に乗って「第2次インティファーダ」が発生し、仕掛けた張本人のシャロンが翌年の選挙でイスラエルの首相となってしまったためパレスチナ情勢はまた元の木阿弥の泥沼化に。さらにアメリカではブッシュ・ジュニア が大統領に選ばれ、よりイスラエル寄りの姿勢になって「アラファト外し」を露骨にし始め、パレスチナの政権内部でも議長の財政面・人事面での公私混同に対する批判もあってアラファト議長の政治力は大幅に低下する。それでいてシャロン政権は「全ての元凶はアラファトにあり」とアラファト議長の殺害も辞さぬ軍事行動まで起こしていたから、彼の晩年はほとんど踏んだり蹴ったり状態だったと言える。しかしさすがに殺害にまでは至らず「軟禁」にとどめざるをえなかったあたりは、アラファト個人のカリスマ的人気が無視できなかったということだろう。
 2001年の「9.11」テロ、それに続くアメリカのアフガン戦争、そしてイラク戦争と事態はどんどん悪化していくことになるが、その背景にパレスチナ問題が影を落としているのは事実。さすがのブッシュ政権もそれは分かっているからなんとか話をまとめようとシャロン政権に入植地からの撤退を飲ませたりロードマップだとかいろんなことを言ってはいるんだが、やっぱり今ひとつ腰が引けているのも確か。政治的にはほとんど「死んだ」状態だったアラファト議長、つくづく憂鬱な晩年だったんじゃなかろうか。

 カイロでの葬儀を終えたアラファト議長の遺体は、本人が希望していたエルサレムへの埋葬はさすがにイスラエル側が認めず、議長府のあったヨルダン川西岸のラマラに埋葬することで落ち着いた。ラマラにヘリでアラファト議長の棺が運ばれてくると数万もの群衆が殺到してその棺に触れようとし、「ヤセル、ヤセル」と熱狂的に連呼してその死を悼んでいた。皮肉なことに政治的には死んだと言われた男は、最後に本当に死んだことでその熱烈な人気と存在感を示すことになったわけだ。
 エルサレムへの埋葬が果たせないならせめて、とエルサレムから運ばれた土が埋葬に使われた。そして死亡診断書にも「エルサレム生まれ」と書かれることになったわけだが、これについてはイスラエル側が「事実に反する」と反対したりしている。

 PLO、そしてパレスチナ自治政府は30年以上にわたって「アラファト」という一人のカリスマによってまとまってきた。軟禁により「政治的に死んだ」状態でも後継者問題はくすぶっていたが、現実に彼が世を去ったことで一気に緊迫の度を増してきている。亡くなる直前にバタバタと情報の混乱が起きたのもこうした背景があったからだ。
 アラファト死去を受けてPLO議長の座を引き継いだのがアッバス氏。来年1月に行われることになったパレスチナ自治政府議長選挙でも最有力候補とされる人物だが、14日に彼が訪問したガザ地区の弔問会場で銃撃事件が発生、アラファトという重しがとれた後の権力闘争の激化を予感させることとなった。再選されたばかりのブッシュ政権はアラファト死去を「パレスチナ安定への好機」ととらえているフシがあるが、この状態じゃとても、とても。イラクもさらなる泥沼の様相を呈しているし、中東の歴史はまだまだ激動が続きそうだ。

追悼で一枚。




◆天皇陛下漫才!

「日本中の学校に私はね、国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます!」
「ああ、そう」
「頑張っております!(笑)」
「やはり、あの、そのですね、強制になるということは無いことをね……」
「あ、ははっ(汗)、もちろん、そう……」
「……望ましいこと…」
「(必死にさえぎるように)本当に素晴らしい言葉を頂きました、ありがとうございました!」
(10月28日、園遊会での即席漫才より)

 僕が映像で見た会話の模様を文字で再現するとこんな感じになる。僕が受けた第一印象は「ボケとツッコミ」。意識してか無意識かのボケに対してたまらずツッコミを入れてしまった、というように見える。その予想外のツッコミに泡を食って必死にごまかそうとしてさらにボケをかましている、という展開。どっちがボケでツッコミであるかは言うまでもあるまい。

 日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるのが仕事、と言っちゃったのは棋士にして東京都教育委員もつとめる米長邦雄氏。そもそも「東京都」の教育委員であるはずなのに「日本中の学校」になにやら「させる」と言ってる時点で明らかに越権なのだが。
 園遊会に出席し、天皇の目の前に立って、あたりさわりのない将棋の話から教育委員を務めている件に話題がなって、ついつい調子に乗って「お褒めにあずかる」ぐらいのつもりだったのかなぁ。いろいろと差支えがあるから天皇の前では微妙な政治的な話はしないのが原則ではあるんだけどね。たいていはどんな話でも天皇は「○○のほうはどうですか」「あ、そう、頑張ってください」などとどうでもとれるように答えて終わるのが普通。先代の昭和天皇がまさにこの調子だったが、一度戦争責任問題について質問を投げかけられた時、「私はそのような文学的なことはわかりません」などとトボケて見せたという話を聞いたことがある。まぁ最近分かってきたところでは昭和天皇って戦後もけっこういろいろ考えて立ちまわってるところがあったみたいなんだけどね。

 しかしこの時、天皇さんは米長さんに思わずツッコミを入れてしまった。「やはり、あの、そのですね」という前フリは瞬間的にどう表現したものか頭をめぐらしていたのだろう。ここで何か言えばいろいろ話題を読んでしまうということは当然分かっていただろうから表現には相当に気を使ったはず。それで出てきたのが「強制になるということは無いことを」である。「強制」という単語が天皇の口から出た瞬間、米長さんが明らかに慌てたような仕草を見せ、ほとんど天皇の言葉をさえぎらんばかりに「本当に素晴らしい言葉を!」と一気にまくしたてている。(しまった〜)という思いが顔に出ているようにも僕には見えた。
 天皇のこの発言の解釈についてはいろいろな見方があるが、素直にとれば米長氏が「させる」という強制感のある表現を使ったので「強制にならないように」とチクリと言って見せたということだろう。天皇家だって各種報道には接するわけで(週刊誌のバッシング記事で皇后の美智子さんが失語症になったこともあった) 、米長さんが教育委員をつとめる東京都で国旗・国歌をめぐって拒否する教員に対して処分・研修を命じる騒ぎが起こっていることは耳には入ってるだろう。この問題ではまさに「強制かどうか」が議論になっているわけで、その「強制」という単語をここでわざわざ使ったのはやっぱり意識してやってるんだろうと思われる。先日皇太子の「人格を否定するような動き」発言もあったが、なにげに皇室も戦略的に動いているのかもしれませんな(笑)。
 チョロッと口にしたツッコミではあるがそこは「日本国および日本国民統合の象徴」たる天皇の発言ということで、宮内庁もわざわざ解釈のコメントを出している。「陛下の主旨はあくまで自発的に掲げる、歌うということ」であるとして「国旗・国歌法制定時の『強制しようとするものではない』との首相答弁に沿っており、政策や政治に踏み込んだものではない」というもので、確かにそんなところでしょ、と思うのだが、ここにあるように「国旗・国家法」制定時に「強制しようとするものではない」ってさんざん言ったんだよね、政府は。でも実際に法制化したらこういう事態は起こるだろうな、と予想されてはいたのだが、なんといっても東京都は知事が知事ですから。

 なにかと話題だけは多い石原慎太郎都知事が着実に進めちゃったのがカラス退治と教育関係。都立大学は「首都大学東京」なんてヴェルディ東京かなにかみたいなけったいな名前になった上(「首都移転」への牽制でつけた名前だと思われるが)、大学側の改革案を都側がひっくり返して一方的かつ強引な指示を出してきて大混乱をきたしているし(僕もかつてこの大学の関係者だっただけに激しく同情する)、新設される中高一貫校の歴史教科書は都知事の選んだ教育委員によってしっかり例の「つくる会」の教科書に決定した(一人、内館牧子さんだけは以前の採択騒動の時にも言われた「女生徒が赤面する文章がある」を理由に異論を唱えたようではあるが)
 そして11月11日、その東京都教育委員会は「2007年度から都立高で奉仕体験活動を必修にする」と発表した。さぁ来ました、以前「史点」でも取り上げた、2000年に当時の森喜朗首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」で打ち出された「小中高の学生に奉仕活動を義務付ける」というアレの具現化である(「史点」2000年9月10日)。この構想は小・中学生で二週間、高校生で一ヶ月の「奉仕活動」を義務付け、将来的には「満18歳の国民に一年間の奉仕活動を義務付ける」とまで構想したものだが、東京都のこれは明らかにその路線に沿った形だ。
 「奉仕体験活動」というのが具体的に何かは指定されていないが、35時間で1単位をとることが絶対となる。老人介護など福祉施設での手伝いなんかが想定されてるらしいが、中には「地域の祭り運営への参加」という妙なものもある。ボランティア活動を単位認定する高校はすでにあるそうだが、あくまで強制による「奉仕」という言い方に都教育委員がこだわっているところに、やはり例の「国民会議」の提起と相通ずるものを感じる。その「国民会議」の提案ってのも「バーチャルリアリティーは悪であることを教える」とか「床の間を必ず作らせる」とか妙なことを言って失笑を買っていたが、「祭り運営」にもそこはかとなく似た臭いを感じたものだ。
 
 で、その言いだしっぺ(?)であり都知事のかつてのお仲間(青嵐会)でもある森前首相はといえば、その直前の11月10日に都内ホテルで行われた石川県主催の県政懇談会で「義務教育の見直し」についての私見を披露していた。その私見とは、ひとつは「(義務教育から)中学校を外したほうがいい」というもので、中高一貫校が次々できる一方で中高での不登校も深刻化していることに触れて中学校以後は自主進学にし、「奉仕をしたり体験したりして、個性に応じて伸ばしていく必要がある」とのたまったのだそうな。ほんっとに人に奉仕させるのが好きなんですね、この人は。さらにもうひとつ、保育園と幼稚園の一元化という考えに触れて「保育所か幼稚園かや、公立、私立を親が決め、それに対する費用を(国が)持てばいい。そうすれば結果的に経費も縮減される」と述べ、「三、四歳から義務教育」という構想まで口にしたとか。
 森首相に限らず昨今の政治家・官僚のみなさんは「エリート教育以外に国の金を使うのは無駄」「エリート以外大多数は無垢忠実な奴隷化」って本気で考え始めてるらしい。で、それを言ってる当人たちがどれほどの知性と公共心と奉仕意識を持ってるのかに思いを馳せると、つくづくこの国の将来が危なっかしく思えてくるばかり。




◆これドイツんだ、オラんだ
    
 とまぁ、古典的なダジャレで無理やりいくつかの話題をまとめてみたい。

 すでに旧聞に属するが、9月にドイツで「Der Untergang」(「破滅」「転落」ぐらいの意味とか)なる映画が公開され、賛否両論の議論を巻き起こしつつ、むしろその議論も手伝ってか国内ヒットチャート1位に浮上した。なんで賛否両論が巻き起こったかといえば、この「Der Untergang」はナチス・ドイツの独裁者アドルフ=ヒトラーを主役とし、その「人間くささ」を描いた映画だったからである。
 世界中の戦争映画あるいは歴史映画(ソ連の戦争映画だと凄いソックリさんなんだよな)、さらにはパロディ映画、サスペンス映画、アクション映画(「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」みたいな1シーン登場もあるし「ブラジルから来た少年」というクローン話の映画もあった) などなどで恐らく20世紀の実在人物としてはもっとも多く映画に「出演」してるんじゃないかと思うヒトラーだが、やはり悪役の最たるものとしての扱いであり、彼自身が「主演」となるとそう多くはないだろう。画学生を志していた彼の青春時代を描いたものなんかがあったような気はするが、少なくともドイツ国内ではそうした映画は作られなかった。やはりドイツ人にとっては「ナチス」「ヒトラー」は激しくタブーな存在だったのだ。

 さて、この映画だが僕自身は実際に見ていないので評価についてはなんとも言いがたい。報道によればこの映画の監督のオリバー=ヒルシュビーゲル氏は「怪物・狂人」といった単純なヒトラー像を打破したかった、と語っており、映画中でもヒトラーが優しく秘書(愛人のエヴァ=ブラウン?)に声を掛けたり、賛美歌を歌う子供たちを愛情のこもった視線で見つめるなど「人間味あるヒトラー」のシーンが入っているという。監督は「ドイツ史上最も恐ろしい出来事に心を開いて正しく向き合うことは、ドイツではまだ非常に恐ろしい」とし、「ドイツ最後のタブーを破った」とも言っているという。
 むろん監督自身はヒトラーの正当化をしようというわけでもなく、また彼に同情してもらおうというわけでもないとしている。ただヒトラーを「狂人」「怪物」として片付けることに異議を唱えているわけだ。「ヒトラーは非常に魅力的な人間だった。(だからこそ)すべての国民を巧みに操ることに成功した。怪物だったら、そんなことは成し得なかったはず」 というのが彼の主張。映画については未見なので何とも言えないが、この監督の主張に関してはほぼ同意する。少なくとも「魅力的」に当時のドイツ人たちには見えたことは確かだろうし、戦後のドイツ人がナチスとヒトラーを「あれは異常な連中で」として自分達と切り離して片付け、「逃げてきた」側面も否めない。むしろそうした人間味のある、魅力を放つ人間が恐ろしいことをするのだという主旨ならばこの映画は成功していると言えるだろう。
 ドイツ国内での公開後も賛否は真っ二つ。ヒトラー役の俳優がソックリなんだそうで、「事実を積み上げたしっかりした作り」という評価もあるが、「歴史の一面しか描いていない」「ナショナリズムの勃興の表れ」と批判する向きもあるという。似たようなケースとして最近日本で製作されて議論を呼んだ、東條英機を主役とする『プライド・運命の瞬間』 という映画があったが、これも敗戦から東京裁判の日々の東條を描き、家族との交流など東條の「人間味」を描く部分が多かった。僕もこの映画を見たが、この「人間味」部分についてはとくに異論はないんだよね。そりゃ誰だって家庭に戻ればフツーの「いい人」なんですよ、たいてい。だが国家の指導者の責任というのはそれとは別の問題だし、そもそもこの映画、チャンドラ=ボースとかパール判事らを話にからめてインド独立が日本のおかげだったみたいに描こうと無理をして話が分裂してもいた。そもそもこの手のテーマの映画は1959年に新東宝が製作した『大東亜戦争と国際裁判』という先例があって目新しさに欠けていたという面もあった。だから議論を呼んだ割に公開後はあっという間に忘れ去られてしまっている。


 さていきなりオランダに話が飛ぶのだが…もちろんつながりはちゃんとある。
 そのヒトラー率いるナチスがユダヤ人迫害を行ったことはよく知られているが、その被害者の中でもっとも有名なユダヤ人といえば、「日記」で知られるアンネ=フランクではないかと思う。余談だが僕の母親は少女時代に「アンネの日記」に触発されて今に至るまで数十年も日記を書き続けていたりする。あれも将来たいへんな「史料」になってしまうのでは、などと一家全員史学科出身の我が家では言っていたりするわけだが。
 話がそれた(笑)。ユダヤ人であるアンネだが、フランクフルトの生まれで国籍的にはドイツ人だ。だが彼女が4歳の時に一家は迫害を逃れてオランダのアムステルダムに移住、その後ナチス政府がユダヤ系ドイツ人のドイツ国籍を剥奪したため彼女は「無国籍」状態になってしまう。アムステルダムの屋根裏に隠れ住んでいたアンネたちは1944年に発見されて強制収容所送りになり、「オランダ人になるのが夢」と日記にも書いていたアンネ自身は1945年3月に強制収容所内で「無国籍」のまま15歳の短い生涯を終えることになる。
 
 戦後彼女が隠れ家で記していた日記が発見・出版され、世界的に有名になったわけだが、先ごろオランダのTV局KROが「最も偉大なオランダ人」を視聴者の投票により選出する番組企画(最近似たような企画をあちこちで聞くなぁ) を立ち上げた際に、候補者200名の中に何の疑問もなく「アンネ=フランク」の名が入れられていた。しかしここでアンネがオランダ国籍をとっていなかったことが判明、実際にアンネを選ぶ視聴者も多かったためKROはオランダ法務省に「アンネにオランダ国籍を付与できないか?」と申請し、これに賛同する声も多くちょっとした運動になったりもした。だが法務省は「同情はするが、死者に国籍を付与することは法律的にできない」とある意味ごもっともな回答でこれをつっぱねた。しかしアンネ=フランク美術館の館長のように「彼女はオランダで生活し、オランダ語で日記を書いた。多くの国民は彼女をすでにオランダ人と思っている」との意見も強く、結局KROはアンネも「オランダ人」として扱ってこのランキングを行うことになった。


 この「偉大なオランダ人」候補者の中にはやはり世界的有名人である印象派の画家ビンセント=ファン=ゴッホの名も入っていた。 このゴッホの甥の孫にあたる映画監督テオ=ファン=ゴッホ 氏(47)が殺害されるという事件が11月2日に起こり、オランダ国内を震撼させている。単に有名人の血縁者が殺されたというだけではない。このゴッホ氏、最近イスラム社会の女性差別問題を取り扱った短編映画「服従」を製作したりイスラム批判のコラムなどを発表していたためにオランダ国内のイスラム系移民内の過激派から脅迫されており、実際に彼を殺害したのもオランダ生まれのモロッコ系イスラム教徒とされ、ゴッホ氏の遺体には「服従」の原作となったソマリア系移民の女性議員に対する脅迫状まで貼ってあったのだ。
 この事件でこれまで比較的移民や異文化に寛容でイスラム系移民を多く受け入れてきたオランダ国民はショックを受け、これまでもくすぶっていた外国人移民排斥の動きが活発化して社会問題となっている。事件後、移民排斥を唱える右翼団体とイスラム過激派双方が攻撃・報復の応酬を繰り返し、各地でモスクや教会への放火・爆破騒ぎが発生している。

 こうした情勢の中で行われたKROの「最も偉大なオランダ人」企画の投票結果だが、なんと一位に輝いたのはピム=フォルトゥインだった。日本人には馴染み薄の人物だが、2002年5月に環境保護主義者により暗殺された右翼政党の党首である(僕はこの暗殺事件の時ちょうどロンドンに滞在しており、それを大見出しで報じる新聞も見かけている) 。外国人排斥をとなえ国民にも受けのいいポピュリスト政治家だった彼が一位になるあたり、どっかの都知事の人気を連想しなくはないが、やはりゴッホ殺人事件の影響を大きく受けた異常な結果との見方が強い。だが殺害されたゴッホ監督も次回作としてこのフォルトゥインをテーマとする映画を製作する気だったそうだし(彼はユダヤ人排斥ととれる発言も繰り返していたとも聞く) 、オランダ社会にとって深刻な状況が生まれつつあるのは確かだろう。移民を受け入れる側だけでなく、オランダ生まれの移民二世、三世の若い世代が最近の世界情勢の影響もあってかイスラム原理思想に魅入られていくという現象もあり、似たようなケースはオランダだけでなくフランスやドイツでも聞こえてくるところで、つくづく頭の痛い状況だ。

 なお、「偉大なオランダ人」のランキングだが、2位がオラニエ公ウィレム(1533-1584)。カトリック国・スペインの支配下にあったプロテスタント地域ネーデルラント北部をまとめて1581年に「ネーデルラント連邦共和国」の独立宣言を行い、その初代の世襲総督となった人物。つまりはオランダにとっては「建国の父」であり、上位に来るのは当然といえば当然。スペインの策謀でカトリック教徒に暗殺されるという悲劇的最期を遂げているのだが、この建国の父をおさえて一位になったフォルトゥインにその姿を重ね合わせている人も多いのかもしれない。
 3位は首相にもなった長寿政治家ウィレム=ドレース(1886-1988)。4位は微生物を研究した科学者で月のクレーターにも名前がついているアントーニ=ファン=リーウェンホーク(1632-1723)。5位にアンネ=フランクが入選しているところは少しホッとするところ。6位が英蘭戦争時の海軍提督ミシェル=デ=ロイテル(1607-1676)、7位にゴッホ(1853-1890)。8位がルネサンス期の人文主義者エラスムス(1469-1536)。9位が画家のレンブラント(1606-1669)。10位がサッカー選手のヨハン=クライフ(1947-)と一人だけ生存者としてベスト10入りとなっている。
 これらの世界史的有名人も含んだビッグネームをおしのけてフォルトゥインが一位入賞なんだから…入賞者それぞれについての番組を作ると言っていたKROも困っちゃってることだろう。


2004/11/17の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

「ニュースな史点」リストへ