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2005年4月1日

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◆今週の記事


◆学術調査のフン闘むなしく?

 3月28日付「読売新聞」に「虫のフンだった!…古墳石室の土粒、学者ら「まさか」」という見出しの記事が載った。なんの話だと思って読んでみると、20年ほど前から古墳石室内から時々見つかる米粒状の土の塊があり、学者の間では「五穀豊穣や子孫繁栄を願う儀式に米の代用品として使われたのでは?」との見方が出ていて、そのまんま「米粒状土製品」とか「擬似米」などと呼ばれ遺物扱いされていたものが、実は「虫のフン」だったという鑑定結果が出てズッコケ、という話題だった。

 まぁ思わず笑ってしまう話ではあるし、僕も「これこそ史点ネタだ!」などと叫んじゃったりしていたわけですが(笑)、どんなものでも発見したものはしっかりと記録し検証するという考古学者の皆さんの姿勢自体には頭が下がりもした。今度の「真相発覚」のキッカケとなったのは6年前に発掘された奈良県桜井市「カタハラ1号墳」(6世紀中ごろ)における石室内の腐葉土の下(この辺で疑ってみるべきだったかも)からの「米粒状土製品」の大量出土で、調査に当たった皆さんは一カ月がかりでこれを1949粒も数え上げ、キチンと3種類の大きさに分類したと言うんだから。「虫のフンに似てる」との研究者の指摘を受けて橿原市昆虫館(橿原市にはこんなのもあったのか…)に鑑定を依頼したら「コガネムシ科の幼虫のフン」との結果が出たわけだが、「これほど詳細なカブトムシのフンの研究は世界的にも例がないそうで、別の意味で貴重な学術データになってしまった」との桜井市教育委員会文化財課主任の苦笑まじりのコメントにあるように、決して無駄にはなってませんよね(笑)。

 このニュースを読んでいて連想したのが、一昔前に日本国内のある洞窟を調査していた考古学者が「古代人の洞窟壁画を発見した!」と発表して騒ぎになった事件だった。結局数日後に近所の人の落書きであることが判明して(発表した当人もその後「漢字」があることに気付いていたらしいが)大笑いの結末になったのだ。もちろん「米粒状土製品」の件はこのケースほどオッチョコチョイなものではないのだけれど、学術研究には時としてこういう珍事が起こるもの。考古学にとどまらず文献史学やってる僕なんかも用心したいところだ(実際こんなサイトやってるとたまに倭寇とか沈没船のお宝関係、あるいはトンデモ史学の方々から怪しげな情報が寄せられたりするし)

 ただ…ちょっと気になったのだが、ネット検索で「米粒状土製品」をあたってみると、2003年9月の「近畿民俗学会例会」で馬場寛さんという考古学研究者による「住吉大社『埴使』神事と米粒状土製品について」という発表を聞いた方の感想文が発見できる。なんでも住吉大社では年に二度、「埴使い」 なる神事があり、畝傍山(うねびやま)山中から聖なる土「埴(はに)」を採取するんだとか。畝火山口神社で祭礼が行われ「埴」が住吉大社に運ばれてくるのだが、これがその「米粒状土製品」らしいのだ。そしてこの発表の結論はその米粒状土製品の正体をまさに「虫のフン」と断定するものだったそうで、一年半以上前にこんな話題が出ていたことにちょっと驚いた。
 さてこの両者の話は結びつくのか、それとも単なる偶然か…問題になるのは古墳の中にあった「フン」の時期なんじゃないかと思うんだが。とりあえず住吉大社神事の「埴」の画像はこちら で拝めます。



◆キルギス「革命」勃発

 「キルギス」民族のいる国だから「キルギスタン」。中央アジアの旧ソ連地域にはこの手の「〜スタン」国家が入り組んで存在しているが、どれがどれやら日本人などにはほとんど分からない。国境が入り組んでいるだけでなく民族だってそれぞれの国で入り組んでおり、なかなか複雑な状態だ。先日、この地域の国々「カザフスタン」「タジキスタン」「キルギスタン」「トルクメニスタン」「ウズベキスタン」の五カ国がそろって「非核地帯」となることで話がまとまったという話に「ほう」と目を引かれたりもしたが、過去に「史点」でこの地域をとりあげたこともほとんどない。
 世界史の本で調べてみると、この「キルギス」って意外に古い時代からその名が現れている。紀元前の段階で中国・漢の記録に「堅昆」「鬲昆」の名で登場し、その後匈奴に服属していたことが知られる。南北朝時代(3〜6C)には「結骨」「契骨」の名で記録され、その後突厥、さらにはウイグルの支配を受けた。840年にウイグル帝国分裂に乗じてこれを滅ぼして自立しているが、その後も契丹、さらにはモンゴルの攻撃を受けるなど、延々苦労の多い民族ではある。ただこれだけ長い期間、消滅せずにずっと残っているところが凄いとも思える。現在のキルギスタンの地域に移住してきたのは17世紀ごろからのことのようだ。
 19世紀にはウズベク人のコーカンド=ハン国に征服され、さらにそれが19世紀末にロシア帝国に征服されたことでキルギスタンはロシア領となり、ロシア系の人々が入植してくることになる。そして20世紀に入ってロシア革命、そしてソビエト連邦の誕生によりキルギスはそれを構成する一共和国として社会主義体制下に入ることとなった。

 さてソ連崩壊まであと一年という時期(もちろん当時崩壊まで予想した人はほとんどいなかったんだが)の1990年10月、キルギスの大統領にアスカル=アカーエフ がキルギス最高会議の選出により就任する。キルギス民族はトルコ系民族という話だが彼の写真を見ると実にモンゴル的というか東アジア的というか、「その辺によくいるオジサン」な顔立ちで日本人などには親近感がわいちゃうのだが(笑)、この民族の歴史的経緯を見ればいろいろゴチャゴチャになってるのは確かなんだろう。レニングラード精密機械工業大学を卒業後、同大学で研究員、フルンゼ(現・首都ビシケク) 工業大学教員そして学部長まで務め、1980年代はキルギス科学アカデミーの副会長、会長を務めるという彼の略歴を眺めると、技術エリートながらあくまで学者肌の人物という印象を受ける。1990年にソ連共産党中央委員となってその直後にキルギス大統領と急激に政界へ転身してしまったいきさつについては知らないのだが、当時の混乱したソ連の片隅にあって「民主化の旗手」的なイメージで登場してきたのは確かなようだ。

 ソ連崩壊のキッカケとなった1991年8月の反ゴルバチョフクーデターが起こるとキルギス共和国のソ連からの離脱をさっさと宣言し、ソ連崩壊後のCIS(独立国家共同体)には参加。アカーエフ政権のもとで旧ソ連国家の中では比較的安定して民主化、経済復興に成功していたと言われ、1998年にはCIS諸国の中で最初にWTO(世界貿易機関)加盟を果たしてもいる。
 アカーエフ大統領は1991年に直接選挙で改めて選出され、1995年に再選、さらに2000年の選挙でも再選された。本来大統領の三期就任は憲法上禁止されていたらしいのだが、最初のはソ連時代のことだからと例外とされたみたい。なんだかんだで14年にわたる長期政権となり、長期政権のお約束、政治腐敗やら大統領一族の専横やらが現れてきてはいたようで、それが今回の「革命」勃発につながっていったということになる。なお、アカーエフ大統領の長男は隣国カザフスタンのナザルバエフ大統領の末娘と結婚しており(すでに離婚してるが)、なにやら戦国時代の政略結婚を思わせるところも。

 今回の「革命」のキッカケは去る2月、3月に行われたキルギス議会選挙。第一回、第二回の投票ともアカーエフ派与党の圧勝という結果になったのだが、これに不正があったと野党側が猛反発。3月14日から国内各地で大規模デモや政府系庁舎の占拠事件が相次ぎ、とうとう24日は首都ビシケクで開かれた反政府デモの参加者達がそのまま大統領府などへ乱入、占拠し、アカーエフ大統領も国外へ脱出して、予想以上にアッサリとした「革命」が実現してしまった。
 国外に脱出したアカーエフ大統領は自分から政権を奪った野党側を「違法」と非難し、依然として自分が正式な大統領であるとの姿勢をなかなか崩さなかったが、どうやらこの情勢ではいたしかたないとは思っているようで、現在キルギスの暫定政権と自らの免責と身の安全の保証を条件に交渉中との話が流れている。とりあえずは「独裁者」を倒して喜んでる諸勢力だって一枚岩ではなく下手すると混乱・内戦の可能性もささやかれており、まだしばらく目が離せそうにない。

  この「キルギス革命」、過去に「史点」でも書いてきた2003年のグルジア政変、記憶に新しい昨年のウクライナ政変に続く「旧ソ連革命」の第三弾と注目されている。なんでも地域の代表的な花にちなんでグルジアが「バラ革命」、ウクライナが「オレンジ革命」、そして今度のキルギスが「チューリップ革命」 と呼んだりするんだそうな。選挙の不正疑惑から一挙に革命になってしまうというパターンまでほとんど一緒だ。キルギス政変に触発されてベラルーシでも騒ぎがあったと聞くし、周囲のトルクメニスタン、カザフスタン、ウズベキスタンといった諸国も似たような強権体質を持つことから影響が出るんじゃないかという見方もある(特に北朝鮮並みに個人崇拝が進むトルクメニスタンがどうなるのか気になる)
 またこの地域が近年石油産出・輸送地域として重要度を増していること、さらにアフガニスタンでも見られたようにイスラム過激派活発化の動きが警戒されていることもあって、小国の革命騒動ながら世界の大国がこぞってじっと見守っている(ややこしくなるがイヤので直接介入は避けてる)といったところみたい。
 


◆去り行く現代史の役者たち

 21世紀に入ってはや五年目。第二次世界大戦終結から60年も経ち、この「史点」連載においても「現代史」の有名どころの役者たちが相次いで世を去っている。もちろんこうしている今だって何十年か後から見れば「激動の時代」になってる可能性はあるんだけど、とりあえず現時点で僕らが「歴史上の人物」だと思っていたアメリカ人の訃報がこの3月に相次いだ。


 3月6日、ノーベル物理学賞受賞者のハンス=ベーテ博士がアメリカはニューヨーク州の自宅で死去した。1906年生まれの享年98歳。

 ドイツ生まれの物理学者でナチスの支配を逃れて(母親がユダヤ系だった)イギリス、さらにアメリカに渡り、オッペンハイマー博士に声を掛けられて原子爆弾製造計画、いわゆる「マンハッタン計画」にロスアラモス研究所理論部長として参加。世界初の原子爆弾「トリニティ」の実験にも立ち会った。だが原子爆弾が実際に広島・長崎に投下されてその惨状に「想像以上の威力だった。二度と繰り返してはならないと思った」(1996年のインタビュー)とショックを受け、以後は核兵器開発に批判的な立場をとるようになる(この辺はオッペンハイマーも同様だった)トルーマン大統領の水爆開発にも関与はしつつも批判的で、1958年には核兵器開発の中止をアメリカ政府に提言、さらに1963年の部分的核実験禁止条約にも交渉団として参加するなど核軍縮・廃絶運動に積極的に携わっている。近年でもクリントン大統領に「アメリカはいかなる大量破壊兵器の開発からも手を引くと宣言すべき」と書簡を送ったり、ミサイル防衛構想にも批判声明を出し、一昨年の1月には勃発間近のイラク戦争への反対声明にも加わっている。そういやそのイラク戦争の根拠とされた「大量破壊兵器開発疑惑」の話もウヤムヤにされちゃってますな。
 本業(?)の物理学者としての業績は太陽の内部で起きている核融合反応の詳細を解き明かしたことで1967年にノーベル物理学賞を得ている。核兵器という「小さな太陽」を産み出すことに関与した科学者としての責任ウンヌンについてはいろいろ議論もあるだろうが、その後一貫して反核・反戦の姿勢を貫いたことはやはり評価していいだろう。

 つい先日TVでやっていたが、ラスベガスに原爆博物館が出来たとか。一応被害の詳細や日本側の主張も展示に含み、それなりに気を使っているそうだが、やっぱり「原爆投下は大戦終結のために必要だった」というおなじみの「ヒロシマ論理」は一貫しているようだ。売店に置かれたキノコ雲のお土産商品とか、原爆投下の「衝撃」を体験できる「グラウンド・ゼロ(爆心地)」なるアトラクションなんて日本人には理解に苦しむところなんだが(そんなので遊ぶ客には放射線と熱線も加えてやってほしい、半分マジで) 、多くのアメリカ人にとっては原爆なんざそんな程度の感覚なんだろう。「9.11」の直後、「原子爆弾で9.11ほど人が死んだのかい」とあるアメリカ人の若者が言ったというエピソードは以前にも紹介したが、そういうのを見聞きするにつけ、開発者とはいえベーテ博士の姿勢自体には敬意を表したいと思うのだ。



 続いて3月17日、元アメリカ外交官のジョージ=ケナン氏がニュージャージー州プリンストンの自宅で死去した。こちらも長命で享年101歳。正直なところ「まだ生きてたのか」と思ってしまった。

 1926年にアメリカ国務省職員となって外交官人生をスタートし、ヨーロッパ各国の大使館に赴任し、特に第二次大戦前夜のソ連やドイツの大使館で活動したことがその後の彼の世界情勢分析に影響を与えたかと思われる。終戦も近い1944年にモスクワに代理大使として赴任し、戦後の米ソ関係をにらんだソ連分析を行ってそれを戦後の1946年にトルーマン大統領へ「長文電報」として報告している。その内容は戦後のソ連が共産圏を東欧にとどまらず拡大する膨張政策を取るであろうと強く警告するもので、これを受けたトルーマンは翌1947年3月に「トルーマン・ドクトリン」を発表、「共産主義の侵略」を受けるギリシャやトルコへの援助を表明して「冷戦」への突入を宣言することになる。さらに6月にはマーシャル国務長官によるヨーロッパ経済の復興計画、いわゆる「マーシャル・プラン」が提唱され、西ヨーロッパに経済援助を行い復興させることでこれをアメリカ側に従属させ対共産圏の防壁としようと動き出す。これと時を同じくして外交問題専門誌「フォーリン・アフェアーズ」の1947年7月号に「X」の匿名で書かれた論文「ソビエト対外行動の源泉」、いわゆる「X論文」が掲載され、その中で「ソ連指導部が平和で安定した世界の利益を脅かす兆しのあるすべての地域で、しっかりと対抗することを目的とする封じ込め政策が提唱される。この「X」の正体こそが他ならぬジョージ=ケナンであり、彼がここで一連の対ソ強硬策を「封じ込め政策」という命名を行ったことになる。

 彼の「封じ込め政策」はヨーロッパにとどまらず日本戦後史にも重大な影響を与えている。太平洋戦争で敗北した日本はアメリカの占領下に置かれ非軍事化と民主化政策が進められていたが、1948年にケナンは日本を訪問、日本を「対共産圏の防壁」にすべきと判断して日本への経済援助と戦争賠償の見直しを提言している。これはほとんどそのままその後のアメリカの対日政策の基本となり、一時戦犯容疑で逮捕された戦中指導者の復権、再軍備と日米同盟体制へとつながっていくことになる。良くも悪くも戦後日本の方向を決定付けちゃったと言っていいだろう。

 ただしケナンの提唱した「封じ込め政策」は彼自身の思惑を超えてむやみに拡大解釈されていき、アメリカ政府及び国民の強烈な反ソ・反共意識を高めて冷戦激化の結果を招いたことも否めないようだ。ケナン自身、ソ連首脳部をナチスと比較するなど生理的に共産主義を嫌っていたことは間違いないだろうが(ソ連自体が早晩崩壊するだろうとも見ていた) 、あくまで相手は人間であり外交によって問題の解決を図らねばならないと考え、朝鮮戦争への介入にも反対し、アメリカ政府の主流とは対立するようになっていった。その後もベトナム戦争への介入にも反対していたし、21世紀に入った晩年においてもブッシュ政権の先制攻撃論には批判的な発言を行っていたそうだ。

 科学者と外交官、二人そろって激動の20世紀を超大国アメリカの側からまるまる一世紀見届けたことになる。その晩年に見たアメリカ政府の方向にかなり危機感を持っていたことも共通するところが興味深い。まとめて合掌。



◆長い長い対馬の話
    
 ようやく再開した「史点」でありますが、どうも今年は歴史がらみでは鬱陶しい話が多そうだなぁ…という予感があるんですよね。今年は第二次大戦終結60周年という節目(還暦)ということもあり、あれこれと先の大戦を思い起こすイベントも多い。そして日本では前回同様騒ぎになりそうな歴史教科書の検定・採択をする年でもあってすでに年明けから変な動きがチラホラ報じられてるし…などと言っていたら、2月には16世紀倭寇の首領であった王直の墓(といっても歴史的根拠はまるっきりない) が「日本を引き込んだ民族のクズ」として破壊されるという自分の専攻分野を直撃する「歴史的事件」が起こっちゃったりして、僕の憂鬱度はなおさら高まってしまった。そして今度は竹島騒動だ。こういう一連の事件を見ていてつくづく思うんだけど、単純な一国史観と愛国教育ってやつは絶対にロクな結果を生みませんな。少なくとも自分が住んでる国でそういうことはしてほしくないと思うところ。

 さて島根県が「竹島の日」条例を決めちゃったことをキッカケに韓国で猛烈な反発が起こった経緯についてここで改めて説明する気はサラサラない。またこの島がどっちのものかという歴史的検証も日韓共に数多くのサイトがやっちゃってますから、「史点」でやっても仕方なかろうと思うところもある。どうしても僕自身は前近代の国際関係や海上世界を研究しているせいもあって、この手の近代以降の島の領有問題についてはバカバカしさしか感じないもんで。
 この竹島騒動、韓国でやたら熱くなってるわりに日本では大半の人がピンと来てないらしく(確かに学校教育でも北方領土はしつこく教える割に竹島や尖閣諸島についてはまず教えない)ほとんど関心を呼んでないというのが実態だが、僕などは「韓国の釜山市あたりが“対馬の日”を制定するようなもんだと思えば分かるんじゃないか」と冗談半分で言っていた。この冗談半分のコメントには実は「いやぁ、だってある意味独島よりは歴史的根拠が無くも無いわけで」 というかなり危険な発言が続く(笑)。そしたら韓国慶尚南道・馬山(マサン)市がホントに『対馬の日』を制定しちゃったのには笑ってしまった。そう、笑っちゃいましたよ。「あー、ホントにやっちゃったか」と。別にバカにしてるわけではなく、この辺の歴史をやってる者として「くすぐられる」ものがあったんですよね。

 この馬山市の制定した「対馬の日」だが、6月19日をその日と定めている。これは1419年6月19日に当時の朝鮮王朝の軍船が倭寇根絶を図ってその根拠地である対馬を攻めるべく、馬山港を出航したことにちなんだものだ。この朝鮮軍による対馬侵攻は日本では「応永の外寇」、韓国では「己亥東征」という歴史用語で呼ばれている。
 いわゆる「倭寇」の活動の最初のピークは14世紀の後半だ。倭寇の跳梁の背景には当時の日本が南北朝動乱期で強力な中央政権が存在しなかったという事情があるが、室町幕府三代将軍・足利義満による統一事業と外交政策の過程で倭寇そのものの活動は次第に封じ込められていく(この辺の裏話は拙著『室町太平記』を参照いただきたい(笑))。また対倭寇戦で活躍した軍人である李成桂 が建国した朝鮮側も倭寇対策に心を砕き、単に軍事的に制圧するだけでなく彼らに貿易権などで「餌付け」をして手なずける懐柔策にも乗り出し、一定の成果を挙げている。当時の倭寇の拠点は主に朝鮮の目と鼻の先にある対馬だったのだが、対馬という土地は山がちのため農業には不向きで、古来より朝鮮に「寄生」しなければ生きていけない宿命を抱えていたということを理解しておいていただきたい(この「宿命」はその後の江戸時代、さらには現代に至るまで引きずられている)

 しかしピークは過ぎたとはいえちょくちょく「倭寇」の被害はあったし、貿易権で手なずけた連中だって元海賊、ともすればトラブルのタネになりやすかった。この厄介者・対馬をどうしたものかと朝鮮国内でも議論があり、第三代国王・太宗なんかは1414年の段階で「日本国王(足利義持)」が倭寇活動を制御できないことや対馬商人の起こすトラブルに腹を立て、「ちっぽけな島の連中など一挙に殲滅してもよいのだが…」と口走ってもいる。
 この5年後にこの口走りは実行に移されたわけだが、その時の国王は太宗の子の世宗(セジョン) 。ハングルの制定をするなど今日の韓国で「世宗大王」と称えられる名君だが、この時はまだ父親の太宗が「上王」として実権を握り日本で言うところの「院政」をやっていた。この対馬攻撃ももっぱら太宗が推進したことで世宗自身は気乗りがしなかったと言われている。ともあれ1414年の5月に朝鮮国内の対馬人を拘束したのち6月19日に1万7千の朝鮮軍は海を渡って対馬に侵攻、船舶の確保や住民の捕縛・殺害、そして戦闘を行って7月には巨済島に撤退している。この行動からも分かるが朝鮮側には海賊の本拠地を叩くぐらいの気はあっても対馬の本格占領までする気はあまりなかったんじゃないかと思われる。

 面白いのはこの時の日本・対馬側の対応だ。どういう情報伝達があったものか不明なのだが、この年の5月23日に京都では早くも外敵襲来の噂がたっており、それも朝鮮だけでなく明軍さらにはなぜか南蛮(東南アジアのことだが…)までが攻め込んでくるという話で「蒙古再び襲来」と一部パニックになってもいた。実際に対馬侵攻が起こった後に比較的正確な情報を得ていた室町幕府もこの侵攻が朝鮮のみではなく明も絡んでいるではないかとの疑念を捨てきれず(将軍義持が明の使者を追い返し朝貢体制から離脱を図っていたため)、直後の8月には朝鮮の真意を探るべく使者をソウルまで派遣している。この時の使者の一人が明からの亡命者で室町幕府の外交顧問となり、なぜか「ういろう」の語源となった陳外郎(ちんういろう)の子・平方吉久だったあたりが外交史の面白さだがそれは余談。
 この室町幕府の使者であるが、両国間の戦闘の起こった直後の使者だというのに表向きは「貴国の大蔵経を分けていただきたい」 と要求するものだった。大蔵経というのは高麗時代から朝鮮で大量印刷されていた「仏典大全集」で、当時の日本では大変な価値があり大名達が競って朝鮮に求めたものだったのだが、このとき幕府側が朝鮮国王に送った書簡は大蔵経のことだけで先の「武力衝突」については非難するどころか一文字も触れていないいたって友好的な内容だった。これに対する朝鮮側の返信も「我が国の民が漂流や倭寇にさらわれて貴国にいるそうだが」 とは言いつつも隣国同士の友好のために大蔵経を贈りましょう、という内容で対馬の一件には一文字も触れていない。ま、お互いことを荒立てたくないのはおんなじで、事態の収拾を図って腹の探り合いをしているわけだ。21世紀の現代の外交でもこの手のことはよくありますが、このやり取りで日本側が対馬攻撃を一切非難していないというのは気になるところであるのは確か。
 この幕府の使者の帰国に同行させる形で、返礼の使者を朝鮮側から送ることになり、これに選ばれたのが過去に明に二度外交使節として赴いたことのある宋希m 。なお、当時の東アジア外交官の第一条件は美しい漢文・詩文が書けることで、高い文学的教養がないといけない。彼、宋希mもまたその条件をしっかりと押さえており、この時の日本紀行を『老松堂日本行録』という詩文集にまとめ、外交史にとどまらず15世紀の日本を知る貴重な記録を残してくれることになる。

 で、この宋希m一行がソウルを立つわずか五日前の世宗二年(1420)閏正月十日、妙な事態が発生する。対馬の領主・宗都都熊丸(つつくままる、後の貞盛)の使者・時応界都(「辛戒道」とも表記されるが日本名はサッパリ不明)なる者がソウルにやって来て以下のようなことを都都熊丸の言葉として伝えてきたのだ。
「対馬島は土地がやせていて生活するのは困難です。そこで対馬島民を加羅山(巨済島)などの島へ移して海防に当たらせ、貴国が人民を対馬に入れて安心して開墾・耕作させ、その租税の一部を私に給わるようにしていただきたい。また私の一族が私の島主の地位を奪おうとする恐れがあり私自身が島から出ることができません。我が島を貴国国内の州郡の例にならって州名を定め、州の長官の印章を賜りますれば、ただちに臣下の礼をとり、ご命令に従いましょう(以下略)」(朝鮮・世宗実録よりかなり現代語訳)
 原文は漢文だが、この「時応界都」なる者は恐らく口頭で上のようなことを言ってきたのではないかと思う。だからその表現には多少割り引いて読まねばならない部分もあるが、大筋では「対馬島民を朝鮮の他の島に移住させ、代わりに朝鮮人民を対馬に入れて開墾してほしい」「対馬を朝鮮国内の州として扱い、宗氏をその長官として認めて欲しい」という2点が主張されている。近代国民国家の感覚からすれば売国奴なんてもんじゃすまない過激な提案だ。この申し出を朝鮮側が悪く思うわけはなく、ただちに対馬を慶尚道所属とする決定を行い、印章を都都熊丸に贈る措置をとった。

 ところが、である。宋希mがそのつもりで対馬に上陸してみると、どうも話が違う。この時応界都なるものが宗都都熊丸(貞盛)の言葉として持ってきた話は、貞盛当人は全く関知していなかったのだ。二月末に朝鮮から対馬を慶尚道に所属させるとの書簡が来て宗氏側はビックリし、「対馬は少弐氏(北九州の豪族で本来の対馬守護。宗氏はもともとその家臣の守護代だった)が代々治める地で、もしそんなことを聞いたら少弐殿は百戦百死しようと抵抗するでしょう」 と反発した。どうやら時応界都なる者は朝鮮軍の対馬侵攻によって貿易の利権を失った対馬の豪族の一人であったようで、貿易の復活を狙って宗氏とは別の意思で勝手に動いたものらしい。事情を察した宋希mは朝鮮側にしてみりゃ面倒な話だから対馬領有の意思はほとんど無いよ、と対馬側に伝えている。
 このあと、宗氏は翌年4月にソウルに使者・仇里安(これも日本名不明)を派遣して「対馬が慶尚道に属するなどとは歴史書を読んでも父老に聞いても出てこない!」と強く抗議した。これに対し朝鮮側は「いや、それは古い書籍にも明らかに書いてあるし(これ、詳細不明なのだが、どうやら朝鮮側にそういう認識があったのは事実らしい)、そもそも対馬人の方からそう言ってきたわけで、別にそちらの土地を奪おうとしたわけではない」となだめたが、仇里安が「対馬を攻めるのは日本本国を攻めるも同じですぞ」と強硬に言ったので、結局は「対馬は日本」と認めることになった。仇里安は時応界都(辛戒道)の発言を「妄言」とも言っており、なにやら先日の竹島騒動をひっくり返したようなやり取りにも見えて面白い(笑)。
 なお、宋希mはその後日本に赴き、京都で室町幕府の外交顧問達、陳外郎や魏天(倭寇にさらわれた中国人で日本・高麗・明を渡り歩き、朝鮮語ペラペラで日本に妻子がいて義満に気に入られたというグローバル極まりない人。これも拙著『室町太平記』を参照(笑))らと会談する。宋希mは対馬侵攻はあくまで倭寇討伐にあって日本本土に対する侵略の意思はないこと、明と連携した軍事行動ではないことを熱弁して幕府側の疑念を解き、また義持の父・足利義満 の十三回忌に際して日本人に合わせて魚食を絶つなどの誠意を示すなどの努力もあって、6月16日についに「日本国王」であるところの将軍・足利義持に面会。義持も朝鮮国王からの贈り物が多い事に感激して「対馬が朝鮮に寇するのを必ず禁じよう」と確約した。こうして対馬侵攻問題は外交的に見事に決着し、宋希mは無事帰国することになった次第。帰りの瀬戸内海で朝鮮語ペラペラの僧に出会って喜んでたらこれが実は海賊さんで…とちょっと怖い思いをするという一幕もあったりしますが(笑)。

 この交渉の過程を見ていくと、日本側は朝鮮の対馬侵攻に懸念は抱きつつも、あくまで「倭寇討伐」である限りはべつだん問題視していないことが分かる。義持が「対馬が朝鮮に寇するのを禁じよう」と繰り返し言ったことが一応対馬の領主である少弐氏のメンツを潰さないだろうか、と交渉役たちが懸念してるほどで、本来の責任は「対馬」の海賊行為に帰せられている。むろん対馬は日本領だという認識はあるんだろうけど(先の仇里安の発言にも出てくるが) 、中央政府としては辺境の島の連中が勝手にやってることで外国に罰せられてもしょうがない、と考えていたようだ。そういう中央政府だからこそ、対馬人の中には利益確保のためなら朝鮮領になってもいいじゃないか、という発想が出てくるんだろう(実際朝鮮朝廷から官位をもらっている対馬豪族も存在していた)。前近代における「国境」付近の住人というのは得てしてそういうものだ。

 対馬にからむ話題はその後も続く。この事件から30年後、西中国から北九州にかけて強い勢力を誇った大名・大内教弘はライバルの少弐教頼を北九州から追い出した。少弐教頼は家臣筋である宗貞盛を頼って対馬へ渡ったが、これを牽制するべく大内教弘は朝鮮に使者を派遣した。そして以下のような提案をするのだ。
「対馬島はもともと朝鮮の地であります。私は兵を興してこれを討とうと思うのですが、朝鮮からも対馬を挟み撃ちにして、これを領土となされるがよろしいでしょう」(朝鮮・文宗実録、元年8月己丑より口語訳)
 なんと外交にも深く関わる大大名であるところの大内氏がこんな発言をしているのだ。もちろんこの発言の裏には朝鮮に媚を売って軍事的に少弐氏および宗氏を追い詰めようという意図が隠されているわけで、多少割り引いて読む必要はある(実際朝鮮側も警戒して話には乗らなかった)。応永の乱(1399)で足利義満と戦い滅ぼされた大内義弘も朝鮮に使者を送り「自分の先祖は百済人であるから祖先の地に領地をいただきたい」と申し入れた事実があるように大内氏は以前から朝鮮との関係が深く、「対馬はもともとは朝鮮領だった」という認識を朝鮮側と共有していた可能性は高いのだ。
 さらに朝鮮側でも、国家事業として編纂された地誌『新増東国輿地勝覧』のなかで「対馬島」を慶尚道東萊 (トンネ)県の項目に入れ、「すなわち日本国対馬州である。もともと我が国の雞 林(慶州=新羅古都の雅名)に属していたが、いつから倭人が住み着くことになったのか未だに分からない」と記しており、日本領と認めつつももともとは…という認識が支配的だったことが知られる。

 その後も対馬は豊臣秀吉の朝鮮侵攻の先鋒を務めさせられたり、江戸幕府のもとでの戦後処理、外交と交易の窓口の役割を務めるなど、常に朝鮮と深い関わりを持ち続けていく。何らかの形で朝鮮に依存しなければ経済的にやっていけないというのは中世以来一貫していて、その意味では中国との朝貢貿易によって国家を成り立たせていた琉球王国と似た立場だった。20世紀に入って日本が韓国を植民地化して「国内」にしてしまうと、対馬と朝鮮半島の人の往来はさらに深まったようで、僕が十年ほど前に対馬に取材旅行した際に泊まった民宿のオバチャンは「戦前はすぐ行ける一番近い都会が釜山でねぇ」とか「若い人の大半が朝鮮人だったこともある」と話していたものだ。その民宿も日本本土からの客より「通信使祭り」などを見に来る韓国人客の方が多いという状態だった。サッカーW杯以後の今でこそ道案内のハングル標示は日本全国珍しくなくなったが、当時は町中にハングルがあふれる対馬の町の光景に僕はカルチャーショックを受けたものだ。「密航・密貿易を防止しよう」という警察署の大看板もインパクトがあったが…(笑)。
 日本が第二次世界大戦に敗北した直後、かつての関係を根拠に琉球の領有権を中国の蒋介石が主張したことがあるが、韓国の初代大統領・李承晩(イ=スンマン) も「対馬は韓国領」と主張したことがある。さすがにこれは通らなかったが、上に長々と書いた話のようにあくまで歴史的に振り返ってみると、実はそれほどムチャな話でもなかったりするのだ。この程度の根拠で領有主張をする、あるいは実際に領土にしちゃったケースは世界中探せばゴロゴロあるだろうし、そもそも「我が国固有の領土」なんて排他的な縄張り感覚はたかが二百年ぐらいしか伝統を持たないヨーロッパ生まれの近代国民国家の産物ですから。

 この馬山市の「対馬の日」制定に対し、韓国政府は即座に撤回を要求した。日本側が「地方自治の原則上、島根県がやってることに命令することは出来ない」と至極もっともな弁解に対し反論するため…とも見られているが、実のところ本気で「日本が反発して話がややこしくなったらどうするんだ」と慌てたところがあるようにも見える。で、どうも撤回された様子はないし、日本側もサッパリ反応してこないので「あれれ」という気分になってるのかもしれない。
 当の日本人はといえば、ニッポンの領有権よりもニッポン放送の領有権の方が大関心事だったりするわけで(笑)。


2005/4/1の記事

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