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2005年4月13日

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◆ローマ法王ついに逝く

 すでに一週間以上が経ってしまったが、ローマ法王ヨハネ=パウロ2世が去る4月2日(現地時間)にバチカン法王宮殿でこの世を去った。享年84歳。最期の言葉は「アーメン」であったと報じられている。
 この人が法王となったのは1978年のことだから、僕もローマ法王というとこの人しか知らないので印象の比較はできないのだが、やはり歴代の中でも存在感の大きい法王(教皇)であったと言っていいんじゃないだろうか。在位が長期にわたったこともあるが(26年の在位は歴代三位…といっても最長在位が「初代」のペテロなのでちと怪しい)、何と言っても在位期間中に合計104回、訪問国125カ国以上というおびただしい外国訪問を行って「空飛ぶ聖座」などと呼ばれ、宗教対話や歴史の見直しに積極的だったことが彼の心象を強烈なものにしている。
 それもあって当「史点」でもしばしばこの人の話題が取り上げられてきた。ただ不謹慎ながら何度か「次の法王」に関する話題が出ていたのも事実。それだけこの10年ぐらい「いつ亡くなってもおかしくない」と言われた人だったわけだが。

 ヨハネ=パウロ2世は本名をカロル=ボイチワといい、東欧ポーランドの出身だ。東欧というとギリシャ正教のイメージが強いがこのポーランドはスラブ系では珍しく古くからカトリック大国で、「地動説」のコペルニクスもポーランド人のカトリック聖職者だった。
 1920年にポーランド南部ワドビッツェで生まれたカロルさんはその青春時代に第二次世界大戦、ナチス・ドイツによるポーランド占領という激動の時代を経験している。彼が生まれ育ったワドビッツェの町はカトリック8000人、ユダヤ人2000人という構成だったそうで、ポーランドの中ではユダヤ人差別感情が薄い地域だったという(ユダヤ人差別はなにもナチスの専売特許ではない)。カロル少年自身もユダヤ人の少年とよく遊んだといい、後年このときの幼なじみがバチカンとイスラエルの国交樹立(なんと1994年のことだったんですね)の仲立ちになってくれることにもなったそうで。こうした生まれ育った町での経験が法王になって後の彼の方針に影響を与えたとする指摘は生前から多かった。
 1939年にナチス・ドイツがポーランドに侵攻・占領した後は、仕事をするかたわらクラクフの秘密神学校に通って勉学にはげみ、戦後の1946年にクラクフで司祭となって聖職者人生を歩んで行くことになる。
 
 ナチス・ドイツは崩壊したが、戦後のポーランドにはソ連の影響下に社会主義政権が樹立された。その中で唯一カトリック教育が認められたルブリンのカトリック大学にカロルは非常勤講師として勤め、やがて倫理学教授になり、1958年にはクラクフ司教、1962年にはクラクフ大司教、1968年には法王パウロ6世から枢機卿に任じられるという、はたから見る限りは順調な出世コースを進んでいるように思える。社会主義政権のポーランドだが国民のカトリック信仰がかなり根強かったせいかカトリック教会への介入はそれほど強くもなかったようだし(隣国チェコスロヴァキアなどは信仰自体が禁じられていた)、カロル=ボイチワ大司教本人も持ち前の絶妙なバランス感覚で社会主義政権との共存を図りつつ勢力拡大をしていったこともその「出世」の理由だったかもしれない。

 1978年、法王パウロ6世が死去し、次代法王としてヨハネ=パウロ1世が選出された。ところがこの新法王は在位34日で急死してしまう。これは彼がバチカン内の腐敗一掃を図ったため毒殺されたのだ――という筋書きになっているのが映画「ゴッドファーザーPART3」。実際当時も毒殺説はささやかれたらしいが、心臓発作というのが公式見解になっている。
 そのあとの「コンクラーベ」で選出されたのが455年ぶりに非イタリア人法王となったカロル=ボイチワことヨハネ=パウロ2世だったというわけだ。調べてみたところ、455年前の非イタリア人ローマ法王というのはハドリアヌス6世(在位1522〜1523)というオランダ人で、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世) の家庭教師兼摂政をしたという人物だった。ちょうどルターによる「宗教改革」が始まっていたややこしい時期に教皇になったのだが、これといった成果もあげないうちに在位1年9ヶ月で急死してしまっている。長いローマ教皇(法王)の歴史を調べて行くとこの人以前には結構非イタリア人教皇が見つかるのだが、ハドリアヌス6世以後はず〜〜〜っとイタリア人がこの地位を独占していたわけである。

 長い在位期間中とにかくいろんなことをしたヨハネ=パウロ2世だが、盛んに言われているのが出身地であるポーランド、ひいては東欧の民主化に与えた影響力だ。この法王が即位してまもない1980年にポーランドでは自主管理労組「連帯」の運動が起こり、この影響を恐れたソ連が武力介入をちらつかせるなど緊張が走った。ヨハネ=パウロ2世が「連帯」の運動に大きな精神的バックアップを与えていたことは事実のようで、これが1981年のトルコ人青年による法王銃撃事件の背景にあるのではないかとも言われる。
 亡くなる直前の2月に法王の自伝が出版され、その中でも法王自身がこの暗殺未遂事件について「犯人の背後にはしっかりした組織があった。それは20世紀に生まれた暴力的なイデオロギーの結果である」と記しているという。ちょっと遠まわしではあるが直接言っているのと変わらない表現で当時の「東側」によるものと示唆しているわけだ。そしてこれと符合するかのように3月末には「法王暗殺はKGBが計画、ブルガリア諜報機関が実行、東ドイツ秘密警察がこれに協力したとの証拠文書がみつかった」とのイタリア紙の報道があったりもした。実際当時も共犯としてブルガリア人3人がイタリア警察に逮捕されたが証拠不十分で釈放されたということはあったそうだ。まぁ、この手の話の常で真相は「歴史の藪の中」だろう。
 面白いのが法王自身がこの銃撃で命が助かった事について、いわゆる「ファティマ第三の予言」というのがこのことだったと公表していることだ2000年5月14日付「史点」 参照)。法王はこれが聖母マリアのご加護による奇跡だと信じ、何度も聖地ファティマを訪れている。なんでも彼が受けた銃弾はファティマの聖母像の冠のダイヤモンドの中に収められているそうで。
 この手の精神的な影響の評価というのは歴史学的には検証困難な話なのだが、ともあれポーランドの「連帯」運動はその後の東欧革命のさきがけとなり、さらにはソ連解体へとつながる流れになっていった。法王への追悼の言葉に「冷戦終結に貢献」というのが目に付いたが、まぁそういう見方も出来なくは無いだろう。

 僕みたいに歴史をやってる人間からすると、やはりこの人の偉大だったところはカトリック教会の「歴史問題」と真摯に向かい合ったという点だろう。法王はユダヤ教徒のシナゴーグやイスラム教のモスクで祈りを捧げた史上初のローマ教皇となった。過去のユダヤ人弾圧にカトリック教会が関係したこと、十字軍の問題、さらには中南米やアジアに対してカトリック宣教師が「侵略の手先」となったことなどについて相次いで「謝罪表明」をおこなっているし、地動説を唱えたために宗教裁判にかけられたガリレオ=ガリレイについても謝罪している(さすがに火刑に処されたジョルダーノ=ブルーノはそうもいかないらしい。この人については「しりとり人物館」参照のこと) 。さらに16世紀に離婚問題でケンカ別れになった英国国教会やもっと昔にケンカ別れした東方正教会とも和解を進めた。晩年のパレスチナ訪問でユダヤ教、イスラム教との対話と和解を熱心に進めていたことも忘れがたい。法王の葬儀にイスラム諸国の首脳がこぞって列席したことは象徴的だ。
 もちろんこれら一連の「歴史の見直し」行動にカトリック教会の再編と勢力拡大という思惑があったであろうことは否定できない。そりゃあなんだかんだ言ってもカトリック教会株式会社バチカン本社の社長さんなんですから(笑)。実際東方正教会なんて警戒していたフシすらあるし、中国への謝罪なんかも中国のカトリック信者をバチカンの影響下に取り込もうという政治的意図がミエミエだった。その一方で過去の殉教者たちに「列聖」の乱発をしたりもしているが。こういうところもこの人流の「バランス」だったのか?
 また、ヨハネ=パウロ2世はあくまでカトリック教徒としては「超保守派」とまで評された人で、避妊や妊娠中絶、安楽死や女性聖職者問題などについては絶対に認めようとせず、「進歩派」からは批判が多かったのも事実。こういう保守性が気に入ったのかアメリカのブッシュ大統領が異例の葬儀出席になったりしたわけだが、イラク戦争にはさんざ反対していた法王としてはいい気はしないんじゃなかろうか。

法王の次の訪問国  法王の遺体が一般弔問を受け付けるため公開されていたが、法王の遺体が全世界にTV中継されているという光景も今の「時代」を感じさせるものがあった。さらにその法王の遺体の前を通る弔問客の中に折りたたみ式の携帯電話をかざしてデジカメ撮影しているのが見受けられたあたりにも「時代」が(笑)。
 遺体といえば、法王の心臓だけ故国ポーランドに埋葬されるじゃないかとの報道がポーランドでは流れていた。なんでもポーランド人は異国で死んだ場合そういうことをする習慣(?)があるらしく、パリで死んだ作曲家のショパンの心臓もそうなってるらしいのだが。もっともバチカン法王庁はこの報道に対して「本人の遺志が無い限りバチカンに埋葬」としか言っておらず、「帰国」を望むポーランド国民の先走りという感じもある。

 また、早くも「ヨハネ=パウロ2世を聖人に列するべきだ」との声もあがっているそうで。葬儀の際にその主旨の横断幕が掲げられ、これもやっぱりポーランド人によるものだったようだが、イタリア国内でもその声は小さくはない。ただし「聖人」に列せられるためには「奇跡」を起こしているという証明が必要で、「病気を治してもらった」というたぐいの報告をする手紙が法王庁に送られて来ているという。
 面倒だから東西冷戦を終結させた、ってのを「奇跡」認定しちゃうというのはどうでしょうかね(笑)。



◆公室・王室・皇室

 上記のローマ法王と「どっちが先か」などという不謹慎なことを僕が言っていたのが、バチカン市国に次いで小さいモナコ公国の君主・レーニエ大公(レーニエ3世)だ。3月半ばにはすでに深刻な病状とは報じられていたが、ヨハネ=パウロ2世に遅れること4日、4月6日に81歳でこの世を去った。在位期間は55年の長期に及んだ。
 調べてみるとモナコ公国自体の独立は1861年のことだそうだが、現在のモナコ大公であるグリマルディ家がモナコの領主となったのは1297年、つまり13世紀のこと。日本で言えば鎌倉時代のことで、大名が治める「藩」がそのまんま近代独立国家になっちゃったと思えばいい。モナコ公国については以前フランスとの微妙な関係について書いたことがあり2000年11月5日付「史点」 、その時はレーニエ大公激怒という話題だったっけ。その激怒のせいかどうか、その後2002年にフランスと結んだ新条約で「跡継ぎがいなくなったらフランスに併合」という条項は削除されたそうだ。
 在位期間が長かったのは祖父ルイ2世の死去を受けて本来の公位継承者だった母親が一代飛ばして26歳の息子に即位させたため。長い在位期間にはいろんなことがあったが、何と言っても有名なのは1956年にハリウッドの人気女優グレース=ケリーを王妃に迎えたことだろう。ただしグレース王妃は1982年に自らの運転中に自動車事故で死んでしまい(自殺説もある)、娘二人も交際が派手でスキャンダル多発、そのせいか息子のアルベール王子(このたび即位してアルベール2世となった)もいまだ独身を通すなど、家庭的にはあまり幸福とはいえなかったかも。長女のカトリーヌ王女は1999年にドイツ人のハノーバー公と結婚したが、この夫もまたあれこれゴシップの多い人で…とか言ってたらレーニエ大公死去の直後に入院して下手すると危ないとも報じられている。
 家庭内の不幸の一方で、従来の名物だったカジノだけでなく、街中をコースにして走るF−1グランプリもモナコ名物に加え(レーニエ大公自身が大のカーマニアでクラシックカーの博物館も持っていた)、埋め立てによって国土を2割増しにするなど(笑)、観光地モナコの発展には寄与したといえるだろう。
 

 ちょっと時間をさかのぼって3月の末、いまだに「絶対王政」状態が続いていた南アジアのある国でようやく「立憲君主制」への第一歩が記されていた。前回のサッカーワールドカップの決勝戦の日に英領モンテセラトと「世界ビリ決定戦」を行った(笑)ヒマラヤ奥地のチベット仏教国ブータンである。
 3月末に同国初の成文憲法草案が発表された、ということなんだけど、現国王ジグメ=シンゲ=ワンチュク国王が2001年から作成を命じていたものなんだそうだ。ようやくできた憲法草案は主権在民の明記、合計100人の議員による二院制議会の設置(これまでも一院制議会はあった)、議員の国民直接投票(ただし国王任命の5人含む)、法案に国王は異議を唱えることは出来るが議会が承認すれば法律は成立する、といった議会制民主主義の内容を含むという。面白いのが国王の「定年」を65歳と定めていること、国会の決議と国民投票により国王が罷免できること、国土の60%を森林として残すことを義務付けているといった条項があること。そういや先ごろ喫煙を全面禁止したっけな、この国は。
 ただし議論を呼んでいる条項もある。ブータン国籍を取得するためには「国王や国に反抗した記録がない」「国王や国などへの忠誠を誓う」ことが必要とされており、ネパールから流入してきて過去に軋轢もあったヒンズー教徒たち(全人口の3割にも達するという)の国籍取得を事実上不可能にしているとの批判があるのだ。
 そういえばネパール…例の「王族大量殺人事件」のあと即位したギャネンドラ国王のもと事実上の「絶対王政」への逆戻りが懸念されたりしているわけだが、こちらもどうなることやら。


 もう一つ「王室」の話題。言うまでも無かろう、英国王室の話題だ。
 4月9日、あのチャールズ皇太子と「初恋の人」カミラさんがとうとうめでたくゴールインした。1970年に大学時代に最初に出会った時、カミラさんは「私の曽祖母が、あなたの曽々祖父の愛人だったんですよ」と言ったというからまさに歴史を超えた因縁なのだ。カミラさんの曾祖母アリス=ケッペルはチャールズ皇太子の曽々祖父エドワード7世の愛人だったことは有名な事実で、さらにカミラさんの家系にはチャールズ2世が愛人に生ませた子供の血統も入っているというから、つくづくイギリス王室というのはこの手の話題が豊富なところだ。
 お互い結婚していても「不倫」交際を続け、1995年にカミラさんが夫と離婚、一方のチャールズ皇太子もその翌年1996年に皇太子妃ダイアナさんと離婚、さらに翌年の1997年にダイアナさん事故死…と、こうして並べて書くと「順調」な展開で障害が消え去り(だから陰謀説が絶えないわけだが) 、このところはすっかり公の場でも二人そろって出てくるようになっていた。わざわざ結婚はしないかも…とも言われたのだが、ここに来て一挙に正式結婚へ。さすがに小ぢんまりとした地味〜な挙式だったし、懺悔もさせられたりと国民の目を気にせざるをえなかったが。おまけに挙式予定日にローマ法王の葬儀が行われたため一日延期になるなど、相変わらずのめぐり合わせの悪さを発揮してもいた。なお、太子妃の称号「プリンセス・オブ・ウェールズ」はダイアナさんが離婚後も保持していたため(息子が将来の国王になるから)、および国民感情に配慮して使用せず、皇太子の肩書きの一つにちなんだ「コーンウォール公爵夫人」の称号が使われるそうで。将来チャールズさんが国王(チャールズ3世)となってもカミラさんは「クイーン(王妃)」にはならないと言われている。
 挙式後、ウィンザー城で行われた披露宴で母親の女王エリザベス2世はのたまった。「今日は2つの最重要発表があります。第1に、グランドナショナル(イギリス最大の競馬障害レース)で勝者が決まったこと。2番目は、私の息子が幾多の障害を乗り越えゴールインしたことです。息子を誇りに思います」


 最後に皇室の話題。もちろん、現在世界で「皇室」を名乗ってるのは日本にしかない。
 4月5日、とうとう4月29日を「昭和の日」と定める「国民の祝日に関する法案」の改正案が衆議院で可決された。あとは参議院を通すだけで、今国会での成立は濃厚と言われている。これについても以前にも何度か書いたことがあるが、正直言って「ああ、とうとう決めちゃうのかい」と気分が重い。
 1989年に昭和天皇が死去した直後にそれまでの「天皇誕生日」を「みどりの日」に変更して残したわけなんだけど(ゴールデンウィークを作っている一日だったことも大きい)、実はその時点で早くも「昭和の日」を制定しようという運動は起こっていた。それは明らかに「右」系の方々によって推進されてきたことも事実で、とくに「神道政治連盟」なんかが強く運動してきたことは過去にも指摘したことがある。2000年に当時の森喜朗首相がこの「神道政治連盟」の懇親会で「神の国」発言をやらかし、参院は通過していた「昭和の日」がお流れになっちゃった経緯もある。その後もしぶとく国会に提出されては会期が終わって流れ、を繰り返してきたが(去年だったか、読売社説が異様に制定をけしかけていたのも正直不気味だった)、とうとうここにいたって成立の見込みというわけだ。
 もちろん昭和天皇個人を記念する日には表向きは出来ない。当初の案にあった「昭和をしのぶ」という表現も公明党の意見で変更され「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」という文言になっている。確かに「昭和時代」は64年(といっても実質は62年ちょっと) に及び、20年までは恐慌と戦争が連続する激動かつ異常な時代であり、敗戦後は驚異の復興を成し遂げ経済大国となって平和を謳歌した貴重な時代でもあり、いずれも後世から強く顧みられる時代であろうことは間違いない。だがその「昭和」を顧みる日が昭和天皇という個人の誕生日である必然性があるのか、という点は議論がある(実際この点は国会でも議論されたし、推進派の中にも「昭和」が始まった12月25日を推す声もあるにはあったらしい) 。さらにいえば推進した方々は昭和天皇個人の顕彰、さらには戦前・戦中期の「昭和」を称揚して戦後の「昭和」に懐疑的、という傾向がどうしても感じられる。法律自体の趣旨の文言にどう書かれていようと、そういった人たちがこの日を妙なイベントの日にしないか、かなり気になる。杞憂ならそれに越したことは無いんだが。
 一応昭和天皇とは関係ない形で出された法案なんだけど、昨年民主党が「民主党も皇室への敬意の念はあり、反対する理由が無い」などと言われもしないうちに自分から言っちゃってるあたりにも強い幻滅感を覚えたものだ。

 それこそ「直訳」されて「ヒロヒトの日」とか海外で書きたてられてまたひと騒動おきやしないか(昭和天皇個人の評価はともかくとして、欧米諸国でも「ヒロヒト・アレルギー」は結構残っている)。僕なんかはどうしても「昭和の日」を決めるんなら戦前戦後の連結点である8月15日の「敗戦の日」がいいんじゃないかと思うんですがね。それじゃ休みにする意味がないじゃないかと言うでしょうけど(笑)。
 次は11月3日の「文化の日」を「明治の日」にしようとする運動が展開されていくと思うのだが、一応この日が「文化の日」になった建前的理由は現憲法の公布日だから(もちろん意図して合わせたもの)。これも手塚治虫誕生日」ということで「文化の日」にするという提案を僕はしてるんだが(笑)。それと、ゴールデンウィーク維持のためには少なくとも5月3日の「憲法記念日」は保存しておかなきゃならんことになるわけで。



◆越えられない「壁」?

 CNN日本語サイトに出ていたもので、思わず「えっ」と言いつつ、ややあって「やっぱりそうなるか…」とつぶやいてしまったのが「「ベルリンの壁」復活を望む声、旧西独で24% 世論調査」という見出しの記事だった。ベルリン自由大学と世論調査機関FORSAが共同で、2000人を対象に行ったものだそうだ。
 「ベルリンの壁」といえば、崩壊した後の生まれであるはずの中学生でも結構知ってる、悪名高い「冷戦の象徴」だ。ドイツの首都ベルリンは敗戦後東西各国に分断占領され、東西冷戦の激化の中で東ドイツが西側への人の流出を阻止するために1961年に「壁」を西ベルリンの周囲にぐるりと築いた。これを越せば射殺可となっていたから、数多くの犠牲者も出た。そして1989年11月に東ドイツが西側への出国を自由化したため一気に市民によって破壊されてしまい、冷戦終結と社会主義諸国崩壊の象徴的事件となったわけだ。
 で、その崩壊の当時、TVに西ベルリンに入って大喜びする東側市民が映っていたのをよく覚えている。西ベルリンのお店に入ってお菓子のたぐいを口にして「こっちではこういうのがいつでも食べられるよ」と店主に言われ(明らかに無料で提供していたと思う)、はしゃいでいる若い女性の姿を見て、僕は「世の中そんなに甘くないぞ〜(お菓子だけに)」とつぶやいていたものだ。その時点でも統一後の困難はある程度予想はされていたのだが、「ドイツ統一」の歓喜の前に吹っ飛んでいたというところだ。

 それからはや16年になろうとしている。僕が仕事で社会を教えている生徒たちも「ドイツ統一後」の生まれがほとんどだ。そのドイツは今や「旧敵国」どうし日本と組んで常任理事国入りを目指したりしているほどだが(その足を引っ張るのがこれまた「旧敵国」であるイタリアであるところが面白い)、ドイツ全体でも深刻な不況になってるうえ旧東ドイツ地域の経済復興はまだまだといった状態であるようだ。それがナオナチ活動だの、ポーランドに譲った東側領土を返せだのといった声の温床になっても入るようだが。
 今さら分断状態のほうが良かったと言う人はさすがに少数派ではあるのだろうけど、この世論調査で旧東側住民の47%「旧西ドイツは旧東ドイツを植民地のように入手した」と回答し、旧西側住民の58%「旧東の住民は勝手に自分たちを哀れんでいる」と回答した、という結果に現れているように旧東西両国の住民の間に相互不信の火種があるのは確か。
 「壁」があったベルリン市民に限るとさすがに「壁が残っていたままの方がよかった」と回答した人は、旧西側で11%、旧東側で8%だったという。でも無視できない数だけいるってのは確かだ。


 「分断国家」といえばなんといってもお隣の韓国と北朝鮮があるが…こちらはもっと深刻な事態になりそう。実際韓国でも一昔まえほど「統一」に熱心でないのも確か。物凄い不良債権を抱え込んじゃうようなもんだし。
 あと、「分断国家」という面もあるのが中国と台湾。かつて内戦をした共産党と国民党の「東西冷戦」がその発端にあるわけだけど、今や国民党は台湾で政権を失い、ことはそう単純ではなくなって来ている。
 その中国共産党と中国国民党が近ごろ接近の動きを見せていて「第三次国共合作か?」と言われたりしていることはこれまでも何度か触れてきた。あまり話題を呼んでない気がするが、3月末に江丙坤・党副主席を団長とする国民党の訪中団が大陸に入っていた。これって1949年以来となる国民党代表団の正式な「大陸帰還」であるわけで、代表団は国民党の原点である孫文の「中国革命同盟会」ゆかりの広州・黄花崗七十二烈士陵園を訪れ献花・黙祷を捧げたりもしている。その後一行は北京に入り、中国共産党のナンバー4と会談、これまた実に半世紀ぶりの両党幹部による歴史的接触ということになる。
 注目はこの会談で中国共産党側が国民党のトップ・連戦主席の訪中を招請したこと。連戦主席も前向きで、どうやら5月にも訪中する方向だ。それが実現した場合、共産党のトップ・胡錦濤主席との会談すらあるかもしれない。これこそホントに歴史的大事件だとも思えるのだが、今の国民党だとどれほどの影響力があるのか…とりあえずこの話題、五月に持ち越し。



◆「人」という字は…

 最後は「ちょっといい話」の小ネタで。
   
 「人という字は、人と人とが支えあってできています」といえば、ご存知金八先生 の名セリフ。だが「人」という漢字の成り立ちの一般的な説としては「一人の立った人間が屈曲している様」を横から見た象形から派生したものとされる。それはそれとして、「人」という生物はその発生から社会的動物であり、集団で支えあいながらここまで発展してきたというのは人類学的にはほぼ事実と思われている。
 特に単独では生きられない「弱者」の仲間を助けてやる、「介護」の精神は意外に早い段階から存在していたらしい。現生人類より前に全世界に広がっていたネアンデルタール人 の化石の中には、左目を失明、右腕のひじから先を失い、右足に関節炎があるという大きなハンデを背負いながらも40歳という高齢まで生きていたことが判明しているものがあり、彼らが「弱者の介護」を行っていた証拠とされたのだ。また、6万年前の化石で歯をほぼ完全に失いながらも生きていたことがわかるものもあり、これが一応の「最古の介護」の証拠とされていたそうで。困ってる人を見たら憐れみを抱かずにはいられない、孟子の「性善説」で言うところの人間がもともと持つという「惻隠の情」というやつを思い起こす。

 4月7日、ネアンデルタール人などはるかに吹っ飛ばす大昔の「介護の証拠」が発見されたという話題が報じられた。科学雑誌「ネイチャー」に掲載されたもので、グルジアで発見された177万年前の原人の化石に下あごの左犬歯以外を全て失いながらも数年間は生きていた(歯の抜けた穴が骨で埋まっている)と思われるものがあったというのだ。歯は老化によって抜け落ちたものらしくかなりの高齢と考えられ、骨髄など柔らかいものを食べていた可能性もあるというが、「仲間が食料を与えるなど介護していた可能性がある」と研究チームは指摘しているそうだ。当時言語がどれほど発達していたかは分からないが、高齢者は知識があるから重宝されたということかもしれない。

 以上、「ちょっといい歯無し」でした。


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