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2005年4月29日

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◆新法王決定す

 前ローマ法王ヨハネ=パウロ2世の死去を受けて、次期法王を決定する「コンクラーベ」 がバチカンのシスティナ礼拝堂において4月18日に開始された。カトリック教会の全枢機卿が集まって投票を行い、誰か一人が3分の2より多い得票をするまで投票を繰り返す。そのつど投票用紙を燃やすのだが、その際に何か薬品を混ぜて色付けをするそうで、決定しない場合は黒い煙を、決定した場合は白い煙を煙突から上げて広場に集まっている信者達に状況を知らせることになっている。
 過去にはこれがやたら長くかかるケースもあったとかで、さまざまな改革を行ったヨハネ=パウロ2世はコンクラーベの改革にも手をつけていた。1996年にコンクラーベの手続きを定めた「使徒憲章」を改正して、12、3日以上も決着がつかない膠着状態になった場合は絶対過半数を獲得した枢機卿が法王になれるような仕組みに変えていたそうだ。
 今回のコンクラーベはその仕組みの適用の必要もなく、かなりアッサリと終わってしまった。黒い煙が上がったのは2度だけで、19日の午後(現地時間)の投票でヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(78歳)が新法王に決定した。もともと前法王の側近中の側近で有力候補の一人と噂されていた人だからアッサリ決まってしまったのも自然ななりゆきだったのだろう。後日に本人が洩らしたところでは彼自身は「私は静かで平和な晩年を暮らしたい。どうか選ばれませんように」 とコンクラーベ中も神に祈ったりしていたそうだが、神の御意思なのかどうか、ともかく彼は選ばれてしまった。決定すると伝統的儀礼に従って「法王になることを受け入れますか」と聞かれ、「受け入れる」と答えると、続いて司祭長が「では法王としての名は何としますか」と聞く。ここで新法王は自分の意思で法王としての名を決める事になるのだが(前回も書いたがこのやりとりは映画「ゴッドファーザーPART3」でバッチリ再現されている)、ラッツィンガー枢機卿は「ベネディクト」の名を選ぶと答えた。新法王ベネディクト16世の誕生である。

 ベネディクト(ベネディクトゥス、480頃〜543)といえば世界史の教科書でもおなじみのキリスト教史上の有名人だ。イタリア人修道士で、529年に中部イタリアのモンテ・カジノの山中に独自の修道院を創立し、「祈り、働け」 をスローガンに「ベネディクトゥス会則」を定めて西方における修道院運動の基礎を築いた人物だ。彼の起こしたベネディクト派修道院はその後ローマ教皇やフランク王国の支援を受けて発展しカトリック布教に大きな役割を果たしている。ベネディクト自身もいろいろ奇跡を起こしたというので聖人に列せられているが、東方では瞑想と苦行の場だった修道院を清貧と労働と伝道の場に変えて6世紀当時のニーズに柔軟に合わせたというお方でもあるらしい。
 この「ベネディクト」の名を冠するローマ教皇(法王)は今度で16世というから過去に15人に使いまわされたことになる。調べてみるとこの前のベネディクト15世(在位1914〜1922) は第一次世界大戦にバッチリかちあってしまった教皇だった。大戦が長期化した1917年に和平提案を呼びかけたが各国に無視され、同じ年にロシア革命が起こると東方正教会の滅亡を予感したか「東方教会省」「教皇庁東方委員会」なんてものを創設したりもしている。1918年にドイツ降伏で終戦になると「この戦争に負けたのはルターである」なんて「問題発言」もやらかし、ジャンヌ=ダルクを列聖してフランス国民の歓心を買うなど良くも悪くもカトリックの首長の立場に忠実な教皇だったようだ。今度の16世も過去に「共産主義諸国は現代の恥」「唯一の信仰はカトリックのみ」「トルコはEUに入るべきではない」といった発言で物議を醸したりしてるそうで、なんとなく似通うところもあるような。

 ところでベネディクト16世はドイツのバイエルン出身だ。現在78歳ということで少年時代はまさにナチス政権下であり、彼自身「ヒットラー・ユーゲント」(ナチスの少年団みたいなもの) に入っていたことが一部で物議を醸しているが、当時の状況では不可抗力だろうとは思う。神学校に入ることを理由にユーゲントからは脱退し、その後徴兵されて対空防衛に従事していたが敗色濃厚となった時期に軍を脱走、米軍の捕虜となっている。その後神学を学び順調にカトリック教会内で出世してゆきとうとう法王にまでのぼりつめたわけだが、当初とっていた進歩的姿勢から次第に保守傾向を強めていったとされ、改革派には「ノーの枢機卿」なる異名を奉られ、先代同様に「超保守派」と見なされているようだ。

 さて先代はポーランド人で今度はドイツ人の法王(教皇)となった。ドイツ人教皇の登場は実に950年ぶりのことというので、調べてみると前のドイツ人教皇とはニコラウス2世(在位1058〜1061) という人だった。出身地は現在はフランス領となっているロレーヌ地方で、毎日貧者12人の足を洗ってやることを日課にしていたというお方だったそうな。当時のローマ教皇は神聖ローマ(ドイツ)皇帝と聖職叙任権をめぐってゴチャゴチャとややこしい政治状況にあり、このニコラウス2世の即位にあたっても反対派による「対立教皇」が立てられたりしている(日本で言うと南北朝時代の天皇の立場に似てる気もする)。その「対立教皇」のお名前がベネディクト10世だったりするのはなにやら因縁めいてくるが(笑)。なお、このニコラウス2世の次の次の教皇が「カノッサの屈辱」で名高いグレゴリウス7世(在位1073〜1085)だと聞けば時代感覚がつかめるだろう。

 新法王が決定すると、バチカン法王庁は新法王ベネディクト16世のメールアドレスを発行している。6ヶ国語対応(英語・イタリア語・スペイン語・フランス語・ドイツ語・ポルトガル語) でちゃんと6つ用意しているそうで。先代ヨハネ=パウロ2世はさまざまな「史上初」を行った法王だったが、その中の一つに「電子メールを初めて使った法王」というのもある。そりゃそうでしょ、とツッコミを入れてしまうところだが(笑)、バチカンが新たな布教活動の道具としてインターネットに力を入れてるのは事実だそうで、一見俗世を離れた宗教界もまさに「世につれ」なのである。
 ところでCNN日本語版サイトに「新法王名の予想的中、ドメインを事前に登録 米男性」という見出しの記事が出ていた。このロジャース=ケイデンヘッドさんなる男性、不謹慎にも(笑)4月1日の段階で次期法王の名前を予想し「www.BenedictXVI.com」というドメインを取得しておいたら「見事的中」だったのだという。本人いわく別に悪意や悪用するつもりはなく「ポルノ業者などが法王名のドメインを取得するのを阻止したのだ」と言ったりしてるそうだが、もともと80個もドメインを取得しているいわば「ドメインマニア」であり、過去の法王名からあれこれ予想して遊び半分でドメイン取得をしてみた、ということらしい。新法王の名が「ベネディクト」と発表されると「ケンタッキー・ダービーを当てたような気分だった」とかで、ローマ教皇もその名前で遊ばれる時代になっちゃったんだなぁ、と変な感慨に浸ってしまった。
 なお、ケイデンヘッドさんは「ベネディクト16世」以外にも「クレメンス15世」「イノケンティウス14世」「レオ14世」「パウロ7世」「ピウス13世」のドメインを取得しておいたそうで…って、そりゃ「ケンタッキー・ダービー」じゃなくて「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」というやつでは。

 ところで…このコンクラーベが行われてる最中にこんな報道もあった。1982年に「法王の銀行家」として知られたロベルト=カルヴィ ・アンブロジアーノ銀行頭取がロンドンの橋で首を吊った変死体で発見された事件について、イタリア司法当局がマフィア関係者ら4人を殺人罪で正式起訴したというのだ。アンブロジアーノ銀行は当時バチカンの資金管理を担当していたが13億ドルが行方不明となって倒産し、その直後にカルヴィ氏が変死を遂げており、当時から自殺他殺をめぐり論争になっていたそうで、カルヴィ氏周辺には法王庁からマフィア、さらにはフリーメイソンまで絡んできてまさに聖俗ドロドロの背景が浮かび上がってくる。遺族の要請でイタリア司法当局は2003年にカルヴィ氏の遺体を掘り出して再検死を行い(向こうは火葬じゃないからなぁ)「自殺の可能性は低い」として20年もたってから捜査を再開していたのだという。
 あ、なるほど、この件が「ゴッドファーザーPART3」の元ネタなのか、と思いつつ読んだが、新法王決定に起訴がかち合ったのは単なる偶然なんだろうか。



◆大統領閣下のご訪問

 ブラジルという国じたいは知ってるがその大統領となると名前がなかなか浮かんでこない。ルイス=イナシオ=ルラ=ダ=シルヴァ大統領というのだそうだが、新聞記事などをあたってみると日本では「ルラ大統領」 と略すことになってるらしい。労働者階級を代表する中道左派政党を率いて2003年にブラジルとしては初の左派政権を樹立した、というのが一般的説明であるらしい。先日このルラ大統領がコンクラーベを前にして「次期法王にはブラジル人枢機卿を選んでほしい」と露骨なことを言っていた記憶もある。実はブラジルって世界最大のカトリック教徒人口を抱える国だったりするのだ。

 そのルラ大統領が4月10日から西アフリカ諸国歴訪の旅に出ていた。その最終訪問国であるセネガルの、かつて黒人奴隷積み出し基地であったゴレ島の「奴隷の家」で4月14日にルラ大統領は演説を行い、その中で「我々が黒人の人々に対して行ったことについて、セネガルそしてアフリカの人々に許しを請いたい」と述べてブラジル大統領として過去の奴隷貿易の歴史に関して公式に「謝罪」を表明した。黒人奴隷をアフリカから「輸入」した歴史を持つ国はアメリカ大陸には南北問わず多いが、公式にその歴史を国家元首が謝罪するのは恐らく初。この「謝罪演説」についてルラ大統領は「例えば黒人やユダヤ人に対して行われたこと、大きな歴史的な過ちが起こったとき、謝るのは簡単なことだと、死んだローマ法王も教えてくれた」と前法王ヨハネ=パウロ2世の数々の謝罪表明を引き合いに出していたそうだ。
 訪問に同行したジルベルト=ジル文化相はなんと人気の黒人歌手なんだそうで、この島から積み出された黒人奴隷たちを歌った「ゴレの月」をセネガルの公用語フランス語で熱唱し、聴衆の涙を誘ったとか。

 ブラジルは旧ポルトガル植民地で、1500年にポルトガル提督カブラルがこの地に漂着、1494年に結ばれスペインとポルトガルで地球二分の勢力範囲を取り決めた「トルデシリャス条約」でポルトガル側の「縄張り」にあたっていたことからポルトガル領と宣言してしまったという経緯がある。植民地ブラジルにはサトウキビやコーヒーの大農場が経営され、当初は現地の先住民(インディオ)が労働力として使われていたが酷使のあまり人口が激減し、その代わりとしてアフリカから黒人奴隷が連れてこられた。16世紀から19世紀にかけて続いた奴隷貿易でブラジル国内に「輸入」された黒人の数は総計700万人に及ぶといわれ、現在のブラジル人口の44%をアフリカ系(混血含む)が占める結果にもなっている。
 ブラジルが独立国となったのは1922年のことで何とその名は「ブラジル帝国」だった。ポルトガル王室の皇太子が在地勢力に担ぎ出されて「皇帝」になっちゃったもので、その二代目のペドロ2世の治世下末期の1888年に奴隷制度がようやく廃止されている(中南米ではもっとも遅かった)。しかしその翌年の1889年に軍部クーデタが起きて帝政は打倒され共和制に移行している。

 以前EU諸国がアフリカ諸国に対し過去の植民地支配を謝罪したことはあった。個別にもフランス大統領がアルジェリアを訪問し公式に謝罪表明したケースも最近あった。だが直接の支配ではなく黒人を奴隷として連れ出し酷使したことについて中南米の国の元首が公式に謝罪するというのはこれが初めてだろう。なお、ブラジル政府は黒人以前にインディオについても謝罪を表明している。
 過去の歴史問題について謝罪をする、というのは何も日本だけが要求されてるわけでもなく世界的な流れにもなってるんだけど、もちろんそこは国際政治の世界、なにも心情的な動機ばかりともいえなそう。この「謝罪表明」についてはブラジルが日本同様に国連安保理の常任理事国入りを目指しているため、その「票集め」の側面もあるんじゃないかと指摘されている。ルラ大統領の訪問先のうちカメルーンとギニアビサウはブラジルの常任理事国入りに賛成を表明したそうだが、安保理改革自体もなんだか雲行きが怪しくなってきたしなぁ…。


 「大統領閣下のご訪問」ネタをもう一題。
 パキスタンのムシャラフ大統領が4月16日から隣国インド政府の招待を受けてインドを訪問している。あくまで非公式な訪問でニューデリーで行われるクリケットの試合のインド・パキスタン戦観戦のため、というのが表向きだ。クリケットは日本人にはあまり馴染みが無いがイギリス生まれのスポーツで実はサッカーに次ぐ競技人口を持っており、もともとイギリスの植民地だったインド・パキスタン両国でも結構さかんなスポーツらしい(そう考えると野球が盛んな日本はアメリカの植民地なのかもなぁ、なんてね)。なお、ムシャラフ大統領はもともとインドのデリー出身でインドのシン首相は現在のパキスタン領パンジャブ州の生まれだなんて聞くと、この両国って実は「分断国家」でもあるんだよなと思い知らされる。

 現在のインド・パキスタン・バングラディシュはいずれもイギリスの植民地「インド帝国」でひとまとめにされていた。第二次大戦後の独立時にイスラム教徒がパキスタン、ヒンドゥー教徒がインドという形で分離独立することになり、ムシャラフ大統領、シン首相のようにそれぞれ生まれ故郷を離れて移動を余儀なくされた人々も多い(ちなみにシン首相はターバンを巻いてることで分かるようにシク教徒) 。その後カシミールの帰属問題やバングラディシュ独立などで何度と無く戦火を交え、最近でも双方で核実験を行うなど険悪な関係の両国だが、もともと「兄弟ゲンカ」「近親憎悪」という面があることを理解しておかなければならないだろう。昔にさかのぼれば宗教の違う者同士共存してわりと仲良くやってた時代もあったんだから、この両国をあまり単純に不倶戴天の敵同士のようにみなすのはやめたほうがいい。
 ともあれこの「史点」連載中にもすわ核戦争勃発というほど緊迫した事態も起こったのだが、インドの政権が変わったこともあってか、あるいはトコトンまでケンカしちゃうとそこからは仲直りするほかなかったからか、ここ1年ばかり両国はすっかり友好ムード。長年紛争地域となっているカシミールに停戦ライン直通バスが走り、離散家族の面会もあり、とうとうムシャラフ大統領自身のインド訪問が実現するところまで来た。あくまで「クリケット観戦」という非公式の訪問なんだけど、インドの首相・大統領との首脳会談もあるし与野党党首との会談もある三日間にわたるスケジュールは公式訪問そのまんまと言われている。この公式・非公式ってやつ、外交の世界ではよく使い分けられるんだけど、その違いというのは正直よく分からない。
 で、このパキスタンとの友好姿勢もインドの「常任理事国入り」への布石という見方もあるんだよね。もっともさすがにパキスタンはインドの常任理事国入りには反対している(日本には韓国、ドイツにはイタリア、ブラジルにはメキシコがそれぞれ地域内対抗意識から反対するという構図がある)。ま、なんにせよ仲良きことは美しき哉、ですが。



◆ルネサンスの文豪たち

 シェークスピア(1564〜1616) といえば名前ぐらいは誰でも知ってるイギリスの超有名文学者。しかしあまりに有名なせいもあってか、なんとなく話は知ってるけど実際に舞台を見たり戯曲を読んだりする人は実はあまり多くないのではなかろうか。映画化も数多くされているが映画ファンの僕でも思い返してみるとシェークスピア劇の忠実な映画化作品で見たことがあるのはケネス=ブラナー主演監督の『ヘンリー5世』の一本だけ。むしろ黒澤明の『蜘蛛巣城』(「マクベス」)『乱』(「リア王」)のような翻案もの映画の方が見た本数が多い。先日そうとは知らずに見たSF映画の古典『禁断の惑星』が実は「テンペスト」の翻案だったと後で知ったりもしたが。またシェークスピア劇ではないがシェークスピア本人が主人公として登場する『恋に落ちたシェークスピア』ってのも見ていたく感心した覚えもある。

 さてそのシェークスピアであるが、彼の肖像画としてたいてい同じ絵が本などで紹介されている。この肖像画は「フラワー・シェークスピア」 と呼ばれるもので、そこに描かれた広く禿げ上がった頭に後ろに長く垂らした髪、鼻の下にチョコンとついた八字ヒゲ、という顔はすっかり世界中でおなじみとなっている。これまでこの「フラワー・シェークスピア」は彼の生前に描かれたものとされ、大作家シェークスピアの素顔をよく伝えていると考えられていた。ところが。
 4月21日、イギリスの国立肖像画美術館はこの「フラワー・シェークスピア」について「19世紀前半に製作されたもの」と断定する衝撃的な分析結果を発表した。同館設立150周年を記念して開催されるシェークスピア企画展に向けて最新の技術により四ヶ月に及ぶ調査を行っていたのだが、1814年以降に使われ始めた顔料が混じっていることが判明、修復の跡も見当たらないことから「1818〜1840年ごろに製作されたもの」との判断を下したわけだ。つまりシェークスピア生前どころか彼の死後200年も経ってからの「肖像画」であることが暴露されたわけで、長年あのシェークスピア像に親しんだ人々にショックを与えているとか。
 この19世紀前半という時期はシェークスピアに対する関心が高まった時期であるそうで、この肖像画もそうしたシェークスピアブームの中で「こんな素顔だったのであろう」という想像で描かれたものだったということになるようだ。まぁこの手のことはよくあって、歴史の教科書に載っている有名な肖像画のたぐいの多くは後世想像で描かれたもの(例えば「聖徳太子像」)だったり全くの別人(「足利尊氏」とされた騎馬武者像や、「源頼朝像」も別人説が有力)だったりするものだ。


 シェークスピアがイギリスの大文豪ならスペインにおけるそれはやっぱり「ドン・キホーテ」を書いたセルバンテス(1547〜1616。シェークスピアとは同時代人で没年も一緒)。『ドン・キホーテ』は聖書の次に売れた世界的ベストセラーなどと言われるそうだが、セルバンテスも自分が書いた小説のタイトルが東洋の島国で雑貨店の名前に使われちゃうとは予想もしなかっただろうなぁ(笑)。
 その「ドン・キホーテ」の前編が出版されたのは1605年1月。そう、今年はドン・キホーテ誕生から400周年に当たるのだ。それを記念してスペインや中南米(つまりスペイン語圏)ではイベントやら現代語訳版の出版(あ、やっぱり「古文」なんですね、あれは)やらで盛り上がっているとか。
 そんな中、南米の産油国ベネズエラチャベス大統領が4月24日に国営テレビでの演説放送の中で「国民全員に読んでもらうため、政府が新たに100万部刷った」と述べて『ドン・キホーテ』の無料配布に乗り出したことが話題を読んでるそうで(26日付毎日新聞記事など)。その狙いはといえば演説中に「世界の不正義をなくし、世直しをしようとしたこの騎士の精神を我々は受け継がねばならない」 と述べられているように、なんだかんだと介入してくるアメリカと真っ向から対立しているチャベス大統領自身を「ドラゴンに立ち向かう騎士」であるところのドン・キホーテになぞらえているのだろう、と言われている。ご存知の方も多いだろうが小説でのドン・キホーテは発狂して妄想状態の中にあり、風車をドラゴンと思い込んで突っ込んで行くわけで、国内の親米派からはその妄想っぷりがチャベス大統領に似ていると揶揄する声も上がってるそうな。


 さらにもう一人ルネサンス期の文豪のネタを。
 ダンテといえば『神曲』の作者でありルネサンスのトップバッターとも言えるイタリアの大詩人だ。彼についてイギリスの科学雑誌「ネイチャー」の4月7日発行号に面白い論文が載ったとか(僕のネタ元は4月7付読売新聞)
 その記事はイタリアのトレント大学のレオナルド=リッチ研究員の研究成果なんだそうで、なんと「ダンテはガリレイより300年も前に慣性の法則を知っていた」というのがその研究テーマ。『神曲』はダンテが古代ローマの詩人ヴェルギリウスに導かれて地獄・天国めぐりをするという「大霊界」なお話(笑)だが、その「地獄編」第17歌にダンテとヴェルギリウスが翼の生えた怪物の背中に乗って地獄の奥底へ下降して行くというシーンが描かれている。そこに書かれた「ゆっくりと泳ぐように進み 旋回しながら降下する されど顔に当たる風、下から来る風によってのみ飛んでいるとわかる」という箇所にリッチさんは「慣性の法則」を見出しちゃったらしい。つまり猛スピードで下降しているのだが怪物も乗っているダンテも等速で動いているため「ゆっくり」に見え、顔に当たる風でようやく下降飛行をしていることがわかる、という表現は「物体は、外部から力を受けない限り、同じ速度で動き続ける」という慣性の法則にのっとったものだというのだ。「飛行経験はないはずのダンテが驚くべき直感で法則を理解して表現したのだ!」とリッチさんは書いてるらしいが(論文そのものを読まないとどの程度の表現なのか分からないが)、「慣性の法則」まで持ち出さんでもいいような気がするが。詩人のイマジネーションの凄さに素直に感心するべきでは。



◆週末でも中国でも反日でも

 3月末から続いた中国の「反日デモ」。日本では歴史上久々に「標的」にされたせいかエライ騒ぎになったが、「史点」的にはもうちょっと放って置いて様子を見てから書こうと「歴史屋」らしく傍観の構えを取らしていただいた。あの暴動には困ったもんだと眉をひそめつつも、とりあえずこの程度ならば「あの中国においてはまぁまぁおとなしい騒ぎなんじゃないの」 というのが中国史に首を突っ込んでいる人間としての率直な感想。中国における暴動なんてホントに起こったらあんなもんじゃすまない、人が一人も死んでないだけ「おとなしい」と思えてしまうんだよね。だいたいあの「反日デモ」の前後にも一部報道によると杭州付近の農村の公害騒動で二万人のデモがあり警官隊と衝突して数名の死亡者が出たらしいと伝えられているのだ。
 そもそも「週末にデモに行こう」という発想自体がのんびりしたもんじゃないですか(笑)。日本の安保闘争のころだって毎日国会議事堂前ほかで学生たちがデモして機動隊と激突していたんですぜ。あのデモに参加している学生たち、激しい舌鋒や破壊行動で騒いでる割に緊迫感がまるで感じられないんだよね。そんなに「軍国日本」に危機感があるならヒマな週末だけじゃなくて毎日デモをすりゃいいわけで。毎日日中にデモをする、これがホントの「半日デモ」、などとギャグを言ってもあっちには通じないか(笑)。

 彼らのデモで掲げられるプラカードや横断幕には明らかに「五・四運動」(1919年)を念頭に置いたものが多く見られた。特に「日貨排斥」つまり日本製品不買運動というのは完全に「五・四運動」で展開されたものだ。この運動はこの年に開かれていた第一次世界大戦の戦後処理を決める「パリ講和会議」で、日本が大戦中のドサクサに中国に認めさせた「二十一ヶ条の要求」 の廃棄が認められなかったことに怒った北京の学生たち3000人が5月4日にデモを起こしたことに端を発する。デモは市民も巻き込んで拡大し、当時の中国の駐日大使の屋敷に放火するなどしているが、反日は当然としてむしろ怒りの矛先が当時の中国の軍閥政府に強く向けられたところもある。この運動は全国的に広がり、当時の中国政府が6月28日のヴェルサイユ条約調印を拒否することにもなった。

 「二十一ヶ条の要求」というやつは今から見ても、いや当時においてもかなり悪質な脅迫外交と言わざるを得ない。第一次大戦に参戦した日本は敵国となるドイツが権益を持っていた中国の山東省に攻め込んでこれを占領、1915年1月に当時の中国総統・袁世凱に突きつけたのがその「二十一ヶ条」で、ドイツが持っていた権益を全部日本がいただくだけでなく、満州や内蒙古、華北を事実上日本の支配下に置き、中国内政への干渉権まで手に入れようとするものだった。後に昭和日本を国際的に孤立させる外交を展開することになる松岡洋右ですら当時この要求を正当化することについて「他人も強盗を働けることありとて、自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張する」 ものとして批判してるぐらいだ。中国側も抵抗して5ヶ月間交渉が続いたが日本は軍事力をちらつかせた「最後通牒」まで出し、他の列強が自国の戦争に忙しく口出しする余裕もなかったこともあって袁世凱政府はこれに屈服せざるを得なかった。この「二十一ヶ条」受諾の5月9日は今なお中国では「国恥記念日」となっている。
 それまで日本は日露戦争でヨーロッパ列強にアジア勢として初めて勝利し、孫文 もしばしば日本で活動し日本人の協力も得て辛亥革命を実現した経緯もあり、比較的日本に対して好意的だった中国の人々が、この「二十一か条」を境に明白に「反日」意識を強めていったわけで、その意味でこの「二十一ヶ条」は日本史のみならず東アジア現代史の大きな分岐点とみなされている。

 結局この「二十一か条要求」は日本の突出を嫌ったアメリカの意図もあってワシントン会議(1921〜1922)でその大半を無効化されることになるが、パリ講和会議とヴェルサイユ条約においてはそれが一時的とはいえ各国に認められてしまったことが問題だった。「五・四運動」に先立って3月1日にはパリ講和会議における「民族自決の原則」を信じて日本の植民地となっていた朝鮮で「三・一独立運動」が起こるが、これも各国の支持を受けられず(というかほとんど黙殺され) 日本により鎮圧されている。しょせん当時はまだまだ列強は帝国主義当たり前の時代。イギリスだって戦中に植民地のインドに戦後の自治を約束しておいて、戦後になったとたん独立運動の大弾圧に突き進んでいる。そのインドで国民会議派が展開していた「英貨排斥・国産品愛用」の運動が「五・四運動」以後の中国の反帝国主義運動にも影響しているはずだ。

 ちょっと歴史話が長くなったが、この当時の中国はまさに「半植民地状態」というやつで、国内は軍閥乱立による政治的不統一、国外からはそれにつけこむ形の日本を始めとする列強による侵略とにさらされていた。その当時の中国学生たちの危機感たるや想像を絶するものがあるだろう。そこいくと今現在、そりゃ日本企業は続々進出しているだろうが現地企業との合弁なんだし、軍隊を出して領土的に侵略してるわけでもなんでもない。それで「五・四運動」を真似して「抗日戦争の闘士の気分を味わった」なんてはしゃいでる「一人っ子政策」によって生まれたブルジョア「小皇帝」の学生どもに対しては「甘ったれんじゃない」とツッコミを入れてしまうわけだ。そもそも「日貨排斥」をやろうにも実のところ「日本製品」も多くが中国製だったりするわけで、実行すると中国の経済の方がダメージがあるんじゃないかというご時世だ。


 今度の中国各地のデモ騒動はアナン国連事務総長がつい「常任理事国の椅子の一つはもちろん日本に行く」などと口走ってしまったこと(その意味では間接的にアナンさんも責任があるとは思う)、それに加えて日本の教科書検定結果が出て何かと物議を醸す例の歴史教科書が合格となったこと(国定ではなく多くの中の一冊にすぎないし約170ヶ所もの問題部分を検定で修正・削除させられかなり骨抜きにはなってるんだが、その辺が向こうにはよく伝わってない)とが重なってネットから火がついちゃった、というところだろう。
 「史点」再開時にも書いてるが、予兆はあったんだよね。以前西安の大学で日本人留学生が変な出し物をしたことをキッカケに騒動になったことがあるし、日本とのサッカーの試合後の暴動、今年2月には「王直の墓碑破壊騒動」があった。いずれにも学生や若手教員層を中心とする「なんとなく反日がオシャレ」ムード(実のところそんな程度のものに僕には感じられる)がその背景に感じられた。もちろん単純に流行と片付けられるもんでもなく、小泉首相の靖国参拝以来の日中政府間の冷却や、日本の一部に確かにある歴史がらみのヘンな動きに反応している点も見逃しちゃいけないが。
 日本人は一連の行動の過激さに驚かされてしまうが、「みんなで渡れば怖くない」の日本人に対して「群の中でより目立とう」という傾向の強い中国人はああいうことになりがち。文化大革命の時もそうだが、世の中のムードを見て「今の潮流はこれだな」とつかむとそこへ人より先に殺到するというところがある。それでいて流れが変わるとアッサリ切り替えるところもあるんで油断が出来ない(笑)。まぁ日本人も1960年代から70年代の世相を見てると案外似ている気もしますけどね。

 そうした「反日がオシャレ」ムードに明らかに一役買ってるのがインターネットと携帯電話だ。西安の事件でも王直墓碑騒動でも火付け役はネットだった。ネット上で怪しげな話が流れて過激化してゆくその様は日本の「2ちゃんねる」なんかでも見られるが、それが実際の行動に出ちゃうところが中国らしさではある(日本人は安全圏に引きこもって悪戯を楽しんでるともいえる)。僕などはあの各地のデモと破壊発動には「2ちゃんねる」で言うところの「祭り」とよく似た空気を感じたものだ。なんかみんな楽しそうだったもんな(笑)。
 そうしたネット上の「祭り」が実際の行動にまで発展する原因の一つに中国のメディアが政府にコントロールされた文字通りの「御用メディア」でしかないこともあると思う。年中「大本営発表」をやってるようなもんだから、ネットや携帯を通した口コミに信用が置かれるし、また怪しげな話が流れて過激化を呼ぶ結果になってるんじゃないかと。経済的に裕福になっても政治的な自由は相変わらずない国なわけで、そのへんの鬱屈したエネルギーを「愛国無罪」のスローガンのもとに発散していたってな所か。「愛国無罪」って表現は明らかに文革中の「革命無罪」を念頭においたものだろうが、「革命」の政党ではなくなった中国共産党が「愛国」によって政権の正当化をはかってきたことへの痛烈な皮肉になってるとも思える。このへん、妙な例えに感じるかもしれないが、日本の明治時代の自由民権運動がかなり国権主義的に「愛国」を叫んで政府の外交政策を「軟弱」と批判し突き上げをかましていた様子に似てるようにも思う。

 「愛国」活動ならば天下御免だぜ、と暴れだすのにはさすがに中国政府も危険を感じて規制に乗り出し始めたが、考えてみると言論弾圧でもあるわけで、それに日本人がホッとしなきゃいけないというのもこれまた皮肉。また日本の文部科学大臣がこの騒動について「愛国教育は恐ろしい」などと言っていたが、だったら自分が所属する政党にそれを推進するのをやめさせてもらいたいもんなんですがね。
 さて、これを書き終えたのが4月29日。5月1日にメーデー、5月4日がまさに「五・四運動」の記念日、そして5月9日がその「国恥記念日」と騒ぎのネタにされそうな日が続く。あっちも同時期に連休になっちゃっており、あのピクニック気分のデモが起こる可能性はまだあるだろう。ゴールデンウィーク中の日本人の中国旅行のキャンセルは実際多かったらしいが、それでも総数では昨年を上回っているそうで、むしろ中国人が「日本に行くと怖い」と思って日本旅行キャンセルをしてるケースが多いなんて聞くと、こんなところにも両国の気分の差が感じられたりもする。


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