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2005年6月1日

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☆おことわり☆
 前回「史点」更新から一ヶ月が経ってしまい、その間に東京湾にクジラが来るわ、謎のピアノマンは出現するわ、レッサーパンダは立ち上がるわ、世界的にいろんな大事件がありましたが(笑)、いろいろやってるもんで執筆がはかどらず…途中まで書いていたものを今ごろ完成させたりしてますので話題が少々古くなっております。次回更新を早くして今回とりこぼしたネタはそっちでやりますのでご了解くださいませ。

◆“国共”を超えた愛?

 先日、台湾の野党・国民党の代表団が国共内戦以後初めて中国大陸に入り、中国共産党幹部との歴史的な会談が行われ、その中で国民党主席・連戦氏の訪中を中国側が要請、連戦氏もこれに応じたという話題をここでもとりあげた。当初五月になるといわれていた訪中はちょっと繰り上がって4月の末から実行に移された。

 4月26日、香港経由で中国大陸に入った連戦主席はかつて国民党が「中華民国」の首都としていた南京の地に降り立った。1949年に当時の国民党主席・蒋介石が台湾に逃れて以来半世紀以上を経て国民党主席がかつての首都に入ったわけで、歴史的といえば確かに歴史的。ただし蒋介石が夢みたように「大陸奪還」の結果ではなかったわけだが…。
 翌27日に連戦氏一行は南京郊外にある孫文の墓「中山陵」を訪問した。もちろん孫文といえば中国国民党の生みの親であり中国近代革命の父ともいえる存在で、彼を英雄視するのは国民党も共産党も変わりはない。僕もこの中山陵に訪れたことがあるが(当サイトの旅コーナーを参照のこと) 、山一つをまるごとお墓にしちゃったもので長い階段を上ったその頂上に孫文の遺体を収めた棺を安置する建物がある。その棺のある部屋の天井には中華民国の国旗である「青天白日旗」が描かれ、現在の中国でおそらく唯一このデザインを公に拝める場所でもあるのだ。孫文の墓に詣でた連戦氏は「今年は孫中山先生の死去から80年、対日抗戦勝利から60年だ。我々は荘厳な気持ちだ」と語ったという。そうか、今年は孫文の没後80周年でもあったのか。
 28日、連戦氏一行は現在の中国の首都である北京に入った。そして翌29日に北京の人民大会堂で国家主席であるところの中国共産党の胡錦濤総書記との歴史的対談に臨んだわけだ。これがどのくらい歴史的なことかというと、中国国民党と中国共産党のトップ同士の対談が最後に行われたのは実に60年前の1945年秋のことであり、その時対談した両党のトップは国民党の蒋介石と共産党の毛沢東という中国現代史の巨頭同士であったのだ。


 60年前の1945年とはもちろん日本が敗北し第二次世界大戦が終結した年。話を中国大陸に絞れば「日中戦争」(もちろん中国では「抗日戦争」ということになる)の終結の年ということになる。そしてその戦いの終結はまた新たな戦いの始まりを意味してもいた。共通の敵を失った国民党と共産党が再び戦いを始めることになったのだ。
 話をさかのぼると、中国国民党と中国共産党は孫文の晩年の方針およびソ連の思惑もあって1924年に「第一次国共合作」と呼ばれる協力関係を持っていた。しかし孫文の死後その後継者として国民党を率いることになった蒋介石は財閥や諸外国の圧力もあって「上海クーデタ」(1927年4月)を起こし、共産党員の大弾圧にとりかかる。これによって共産党は各地で国民党軍の掃討を受けほとんど壊滅を余儀なくされたが、その混乱の中から毛沢東が台頭してきて共産党の強力な指導者にのしあがっていったのだ。
 蒋介石は日本の侵略に対抗するよりも共産党の撲滅を優先して攻勢を強めたが、弟分である張学良に監禁・説得され抗日優先に転換(西安事件、1936年)、国民党と共産党は再び協力関係を持つことになった。これを「第二次国共合作」と呼び、共産党の「紅軍」は「八路軍」と改称して国民党軍の指揮下に入り、その後の日中戦争を戦うことになる。

 そして1945年8月に日本は連合国に無条件降伏することになったわけだが、それ以前にもう勝負が見えたあたりから早くも共産党と国民党の戦後をにらんでの「縄張り争い」は始まっていた。このままでは内戦再開は必至で、中国の混乱を嫌うアメリカとソ連(同じ共産党なんだけど、党内のソ連派を打倒して指導者となった毛沢東にソ連は不信を抱いており、むしろ蒋介石に接近していた)の圧力もあり、8月28日から重慶において蒋介石と毛沢東は直接顔を合わせ、戦後の国家建設について交渉を行うこととなった。これが「重慶会談」で、すったもんだの交渉の末、十月十日に一応の協定が出来上がる。これを歴史用語では「双十協定」と呼ぶのだが、ここで共産党は国民党に自らの存在を合法的に認めさせ(ここまでそれすらも怪しかった)、内戦を回避することと国民党・共産党以外の政治勢力も含めた「政治協商会議」の開催が決定された。しかし結局は各地で両勢力の衝突が続発して国民党も停戦協定を破り、翌1946年7月から両者は全面戦争に突入していった。
 で、結果はご存知のとおり。当初は圧倒的と思えた国民党の優勢だったが、ジリジリと共産党側が巻き返し、気が付いたら形勢逆転、1949年には首都の南京も共産党軍の手に落ち、蒋介石ら国民党政府は海の向こうの台湾へと逃亡した。その年の10月に毛沢東は北京の天安門の上で「中華人民共和国」の成立を宣言し、それまでの「中華民国」は台湾にのみ存続するという状態になった。
 両者は互いに「自分こそが正統の中国政府」と主張し譲らず、台湾の「中華民国」が国連安保理の常任理事国の一つになっているという今にして思えばえらく非現実的な状態が続いたが、それも1971年の米中の電撃的接近、それにともなう国連総会での中国代表権の交代決議とで、国際的にはほぼ「中華人民共和国」のほうが中国政府という状態が確定する。以後、台湾を「国」と承認するのはカトリックの総本山バチカン、経済援助をあてにして国交を持つ中南米やアフリカ、太平洋などの小国ばかりとなっていく。

 国民党主席、中華民国総統の地位は蒋介石の死後その子の蒋経国が引き継ぎ、蒋経国が死去すると台湾出身の李登輝 に引き継がれた。李登輝政権はそれまで敷かれていた台湾の戒厳令を解いて民主化を進め、中国共産党についても1991年に同党を「反乱団体」 と定めた中華民国憲法付属条項を廃止して「国共内戦」の形式を事実上終わらせていた。だがこの李登輝総統が中国と台湾を「国と国との関係」と呼ぶ、いわゆる「二国論」をぶちあげて独立志向を強めたことがそれまでと違った意味での中台対立を引き起こすことにもなった。その後台湾では総統選挙で李登輝氏の後を受けて国民党の党首となった連戦氏が敗北、初めて国民党は野党に転落、いっそう独立志向の民進党の陳水扁氏が総統になった…この辺は「史点」でもリアルタイムに見てきたが…そして現在にいたる、というわけ。

 おりしも中国では台湾独立を法的に阻止する(阻止のためには武力行使も辞さない)「反国家分裂法」 が制定され、台湾はもちろん関係各国に緊張を走らせた。そんな中で実現した半世紀以上ぶりの国民党党首の「大陸上陸」は、台湾に対してソフトな印象を与えつつ台湾における独立反対派とのパイプを太くしたい共産党と、大陸との対話が出来る立場であることを示し政権奪回のため存在感をアピールしたい国民党との思惑の一致の結果と言える。「第三次国共合作」か、という話は数年前からささやかれてはいたが、さすがにトップ自らの北京入りで実行されるとは思わなかったなぁ。まぁ北京訪問については当選直後の陳水扁総統も発言していたぐらいで、連戦氏についていえばむしろ野党に転落していたからこそ可能になったという面もある。


 さて29日の午後に行われた60年ぶりの国共トップ会談終了後、両党は共同コミュニケを発表した。その中では1992年に両党間で結ばれた「“一つの中国”については中台各自に解釈する」という合意を確認、「台湾の独立には反対」という明記もされた。また中台間の「敵対関係の終結」も挙げ、具体的には「軍事信頼メカニズムの創設(最近米中間でもこれの模索がある)」が提起された。他に中台間の経済交流強化や両党間の定期的な意思疎通などの項目もある。
 また中国がこれまで頑として認めてこなかった台湾の国際活動への独自の参加、例えばWHO(世界保健機関)に台湾がオブザーバーとして参加するといったことにも柔軟な姿勢を見せる部分もある(もっとも直後のWHO会合ではやっぱりオブザーバー参加を阻止したが)。胡錦濤主席のほうも「一つの中国」の連呼や「統一」という言葉を慎重に避けていたフシもあり、それなりに国民党および台湾に気を使った形ではある。まぁあくまで野党党首との合意だからすぐ何かどうなるというものでもないんだが。
 北京での日程を終えた連戦氏は続いて自分の生まれ故郷である西安に入った。連戦氏の父親は日本領台湾の出身だが日本に抵抗して国民党の仕事をするため西安に入り、ここで連戦氏が生まれたのだという。8歳まで西安に住んだそうで、通っていた小学校にも訪問している。その小学校で連戦氏は「私の名の『戦』は父が抗日戦争での勝利を祈って付けた名。もともと中華民族意識の強い家庭だった」と生徒たちに命名の由来を語り、「両岸(中台)関係はずっと冷え込んできたが、共に黄帝の子孫にあたる我々は手を結ばねばならない」とまで言ったという。黄帝とは伝説上の最初の帝王で、日本で言えば神武天皇、韓国・朝鮮で言えば檀君といった存在で、近代以後多民族国家の中国をまとめる「中華民族」を定義する際にそのルーツとしてやたらに引き合いに出されるようになった人物(?)だ(それぞれ黄帝紀元、神武紀元、檀君紀元があるところまでソックリ)。孫文の墓に詣でた時のコメントともども、連戦氏がかなり意識してこれらの言葉を使っているのは明白。こういうところでヘンな民族主義をぶち上げるのは正直僕なんかはあまり感心しない。

 連戦氏が台湾に戻った直後、入れ代わるように今度は第二野党・親民党の党首・宋楚瑜 氏が大陸に渡り、やはり胡錦濤主席と対談して台湾独立反対の確認などをしている。親民党はもともと国民党から分裂した政党で、大陸系を支持母体に持っている政党だが、「敵の敵は味方」という発想なのか、最近与党の民進党と政策協定を組んで共闘する形になっているから複雑。だから宋氏の訪中には案外陳総統の「密使」的役割があったりするのかも…と憶測する向きもある。
 さらに話がややこしくなるのは、これまで「台湾独立」で共闘路線をとっていた独立強硬派の「台連」(李登輝前総統を精神的リーダーとする) と民進党の関係が微妙になって来ている点だ。先の議会選挙でも両者は選挙戦術をめぐって揉めてたし、民進党が親民党と政策協定を結ぶに及んで、必然的に立場が悪くなる台連は民進党を批判し始めた。とうとう李登輝さん本人の口から陳水扁総統批判が飛び出し、これに応じて陳総統も「親民党との連合はもともと李登輝氏の発案」と暴露発言をしてやり返したりしている。過去の経緯でも李登輝さんってなかなか「策士」なところもあって(「策に溺れる」ところも多々感じるが)、この件でもなかなか一筋縄でいかん人だなぁと改めて思う。

 ところで連戦氏が台湾に帰るにあたって、「おみやげ」として中国側がパンダ二頭を台湾に贈るという話が持ち上がった。その昔訪中して国交正常化を実現した田中角栄首相にカンカンランラン の二頭が贈られ日本で一大パンダブームを起こしたことがあったが、今度もパンダに中国の「親善大使」役をつとめさせてソフトイメージをふりまこうと狙ったものだろう。台湾政権側もそれは警戒し、保護動物の問題やらいろいろな理由をもうけてやんわり断ったようで、その後パンダの件の続報は聞こえてこない。
 じゃあ代わりにとレッサーパンダを贈ってみたら「独立」しちゃったりするんでしょうか(笑)。おあとがよろしいようで。
 


◆30年という節目

 今年2005年という年はなぜか近現代史の歴史的大事件からキリのいい年数になる「節目」となることが多いみたい。トラファルガー海戦やアウステルリッツ会戦から200年目、日本海海戦と日露戦争の終結から100年目、第二次世界大戦終結から60年目、そしてベトナム戦争終結から30周年だ。

 ベトナム戦争は1965年2月のアメリカ軍による北ベトナムへの爆撃、いわゆる「北爆」開始から始まり、1973年のアメリカ軍のベトナム撤退、そして1975年4月30日の南ベトナムの首都サイゴンの陥落で終結した。アメリカの歴史上ほぼ唯一の敗戦経験であり、そのトラウマは今なお続いている。イラク戦争の「勝利」でブッシュ大統領は「ベトナムの悪夢を払拭した」 などと言ったりしたそうだが…。ノーテンキなアメリカ万歳的戦争映画が目に付くハリウッド映画の中にあって、「ベトナムもの」には戦争の悲惨さや不条理な暴力性、さらにはアメリカの「加害」の問題まで取り上げたものが少なくないが、やっぱり人間、負けてみないとこういう観点が出てこないのかな、と思うところでもある(もちろん露骨なアメリカ万歳ベトナム戦争映画もあるわけど)
 一方のベトナムにとってはフランスからの独立を勝ち取った「インドシナ戦争」(1946〜1954)に続いて超大国アメリカを破り、分断されていたベトナム全土を現在も続く共産党政権のもとに統一した栄光の戦争という位置づけになる。東西冷戦時代の政治体制間の対決というだけでなく、大国の支配からの民族独立運動という側面が強いのもこの戦争の特徴だ。

 南ベトナムの首都であったサイゴンは戦後「ホーチミン」とその名を改められた。「ホーチミン」とは、もちろんベトナム共産党の創立者であり対フランス、対アメリカの戦争を指導し、その終結を見ずに1969年に死去したホー=チ=ミンに由来する。考えてみればアメリカの首都がワシントンだというのと同じようなもんか。
 そのホーチミン市で去る4月30日、ベトナム戦争終結30周年記念式典が開催されていた。式典はかつて南ベトナムの大統領官邸だった「統一記念会堂」前で行われたが、この建物に一番乗りで突入し南ベトナム最後の大統領ズオン=バン=ミンを投降させたグエン=アンさん(78)への取材記事が毎日新聞に載っていた。突入してきた北ベトナム兵に対し、もう観念していたズオン=バン=ミン大統領と側近達は落ち着き払っており、逆にグエンさんが不測の事態を恐れて静かな地下室へ移動するよううながすと、「ありがとう」と一言言って地下へ降りていったという。そのズオン=バン=ミン元大統領もすでにこの世の人ではない(2001年8月死去。「史点 」参照)
 一方で失礼ながら「まだ生きてるのか」と思っちゃったのが、この式典にしっかり出席していたボー=グエン=ザップ将軍(94歳!)。この人はベトナムではとっくに「歴史上の英雄」扱いで、先ごろハノイ地下にある彼が国防相時代の執務室が一般に公開され、観光客を集めているのだとか。このザップさん(こういう略しかたはありなのか?)、直前のインタビューで「いかなる国であれ、どれほど強国であっても、自分の意思を他民族に武力で押し付けようとすれば、最後には必ず失敗する」と述べ、暗に現在のアメリカを批判するようなコメントもしている。

 さて式典のほうはチャン=ドク=ルオン大統領(国家主席)、ノン=ドク=マイン共産党書記長、ファン=バン=カイ 首相といった政府要人もずらりと集めて盛大に執り行われた。式典自体は軍事色を極力薄め、平和ムードを強調する演出が目立ったようで、これまでこの手の式典で必ず言及したアメリカに対する戦後補償についても一切触れない形であったと伝えられている。もちろん補償要求を取り下げる気はないだろうが、6月に首相がついに初の訪米を行うこと、さらにはWTO加盟のためにアメリカとの関係を良好にせざるを得ないという判断があったものといわれている。補償といえば悪名高い「枯葉剤」の被害補償を民間レベルでアメリカの裁判所に訴えるケースも出てきていて、今後も尾を引く問題になるんじゃないかと思われる。60年経った日本だっていろいろ戦後補償問題を抱えているぐらいだから、恐らくアメリカとベトナムの間も当分この手の問題が付きまとい続けるのではないかと思う。

 そのアメリカはトンキン湾事件というあからさまな謀略工作まで行って開戦に踏み切ったんだけど、そのアメリカの戦況判断がはなはだ怪しいものだったんじゃないかという話も出て来ている。
 4月29日、終戦30周年を期にアメリカの国家情報会議(CIAなど各種情報機関で構成される)はベトナム戦争関連の174個の機密文書を公開した。読売新聞でそのいくつかについて内容が紹介されていたが、それによるとサイゴン陥落のおよそ一年前の1974年5月の時点でCIAは「74年のうちに共産勢力が攻勢をかけてくることはない」とか「75年前半にもハノイの全面攻勢はないというのが最善の判断」とか、この時点において驚くほどの楽観的な見通しの報告をしていたそうで。すでに北ベトナムの大攻勢が始まりつつあった同年12月の段階でも「全面攻勢は少なくとも76年前半まではない」と判断していたという。
 もちろんその後の歴史を知ってるから我々はそれを簡単に笑うことができるのだけど、天下のCIAも旧日本軍並みに希望的観測から甘い予測を立てることがあるのだな、と変にホッとするところもある(笑)。そういやどっかの国での戦争でも結局大量破壊兵器は見つかんなかったしねぇ。
 アメリカとベトナム戦争の関わりではこんなニュースも。ベトナム戦争時にCIAの工作でアメリカ軍に協力した山岳民族のモン族(ベトナムからラオスの山岳地帯に住む) が難民化して国際問題になっており、2003年からアメリカがタイ国内にいる1万数千人のモン族難民に限ってアメリカ国内に順次引き取るという事業を進めている。ところがこれが「全てのモン族に適用される」と勘違いしたモン族たちが昨年から続々とラオスからタイ国内に流入してきて(それも記事によるとバスに大勢乗り込んでやってくるとか)、タイ政府が扱いに困っちゃってるというのだ。タイ政府として不法移民としてラオスに送還したいんだけど、ラオス政府は彼らを「ラオス国民」とはみなしておらず(モン族の反政府武装組織があったりするため)、5月の時点で5700人もタイに入ってきた彼らは結局行き場を失っているという。30年経ってなお、アメリカがやっちゃったことは色濃くこの地域に影を落としているわけだ。


 さて、この4月30日から時をさかのぼる4月17日。ベトナムの隣国カンボジアの首都プノンペンの郊外でも「30周年」の記念式典が催されていた。同じ「記念式典」といってもこちらは「忌まわしい思い出を忘れないように」という意味での「記念」。なんの30周年かといえば、いわゆるクメール・ルージュポル=ポト派がプノンペンを制圧したのが1975年の4月17日だったのだ。間もなく戦争を終結させるベトナムと入れ代わりにカンボジアではこのあと悪夢の歴史が進行することになる。

 カンボジアの悲劇もベトナム戦争と深く関わっている。ベトナム戦争の最中の1970年3月、カンボジアでは元首のシアヌーク(気が付いたら昨年秋に引退して王位を退いていた)の留守中に親米右派のロン=ノル 将軍がクーデターを起こして政権を樹立、それを支援するため直後にアメリカ軍と南ベトナム軍がカンボジアに侵攻し、これに対してシアヌーク派ほか各勢力が抵抗、激しい内戦が始まる。そして1975年の4月になって中国の支援も受け極端な毛沢東思想を標榜するポル=ポト率いる「クメール・ルージュ」がプノンペン入りしひとまず内戦に終止符を打つことになった。
 翌1976年3月にいったんシアヌークを元首にすえた連合政権として「民主カンボジア」が建国されたが、直後の選挙により結局ポル=ポト独裁体制となってしまう。ポル=ポト政権は極端な農本主義を推し進めて知識人一掃を図り、大規模な強制移住や大量虐殺を実行した。その政権下での犠牲者数は170万から200万人に上ると見られている(この経緯のてっとり早い参考資料としては映画「キリング・フィールド」をお奨めしたい)
 1979年1月、ベトナム軍がカンボジアに侵攻してポル=ポト政権を崩壊させ、親ベトナムのヘン=サムリン政権を樹立。これに対抗してポル=ポト派・シアヌーク派・ソン=サン派が連合を組んでまたまた激しい内戦となってしまう(ポル=ポト派を支持しシアヌークを受け入れていた中国がベトナムに攻撃をかける中越戦争が起きたりもした)。これがようやく和平協定にこぎつけられたのが1991年のことで、1993年にシアヌークが国王に即位して現在の「カンボジア王国」が成立、どうにか平和を取り戻して現在に至っている。

 今年4月17日の記念行事は実際に8000人もが虐殺された「キリング・フィールド」であるプノンペン郊外のチュン・エク村で催された。ただし国家行事というわけではなく野党サム・レンシー(党首の名前そのまんまの政党) による主催で、またこの党首が強烈な政府批判を外国メディアなどので流す有名な人らしく、かなりその党独自の政治的意図を持ったイベントという性格が強そう。一応戦火は鎮まったとはいえ、カンボジアの政情はなお不安定要素を抱えているし、ポル=ポト派とかつては手を組んでいた政党もあるわけで。



◆元禄開店、平成閉店

 5月5日の「子どもの日」、その夕方の営業終了時刻をもって老舗百貨店「三越」の横浜・大阪・枚方・倉敷の4店がそろって「閉店」となった。翌日以降それっきり開かない、完全な「閉店」である。これに先立つ2月に募集した早期退職者1000人が5月末をもって退社することになっているという。
 いきなり新聞の経済面的な話題を持ち出したが、「史点」的に目を引いてしまったのがこのうち大阪店が「1691年開店で315年の歴史を持つ」と紹介されていたことだ。1691年といえば、元禄4年。「忠臣蔵」の赤穂浪士の討ち入りより前だ。調べてみたらこの元禄4年に堀部安兵衛は「高田馬場の仇討ち」に参加し、これが縁で赤穂藩士になっちゃう運命に陥っている。井原西鶴近松門左衛門松尾芭蕉といった名高い元禄文化人たちがそろって活躍していた江戸町人文化の最初の爛熟期でもある。

 その井原西鶴が代表作の経済小説「日本永代蔵」でとりあげた豪商の一人が、「三越」の前身である呉服屋「越後屋」を創立した伊勢松阪出身の三井高利だ。彼は松阪の木綿商人だったが江戸に進出、延宝元年(1673)に江戸本町一丁目に最初の「越後屋」を開店して、店頭での現金取引による低価格販売、いわゆる「現金掛け値なし」という新商法や、反物の注文に応じた切り売り販売という迅速柔軟路線で大成功を収める。天和3年(1683)に江戸駿河町(現在の三越本館の付近) に新規開店してからは雨の日に越後屋マークの入った傘を無料で貸し出すという宣伝作戦を展開したというから、なかなかのアイデアマン起業家であったようだ。当時の常識から外れた新商法に同業者からの激しい攻撃もあったというから、案外ホリエモンみたいな存在だったのかもしれない(笑)。
 三井高利は駿河町の越後屋の隣に「両替店」を開設した。これは現在の銀行にあたるもので、ここでも高利は現金輸送を為替取引に転換させるというアイデアを幕府に提案し、幕府の金銀御用達の地位も獲得している。すっかり事業を軌道に乗せた高利は元禄4年(1691)に大阪の高麗橋一丁目に呉服店と両替店を開店、これが今回閉店になってしまった三越大阪店の原点ということになる。三井高利はその3年後の元禄7年にこの世を去った。
 明治に入ってから三井の越後屋は「三井呉服店」そして「三越呉服店」とその名を改めていく。1904年に「三越呉服店」と改めたのを期に当時の社長は「デパートメントストア宣言」を行い、「三越」は日本初の本格的百貨店へと脱皮していくことになる。

 さてこの三越大阪店の衰退の始まりについてだが、毎日新聞の大阪版の記事がさすがに詳しかった。それによると三越大阪店の衰退ってのは案外早い段階から始まり、長い不運の歴史があったようなのだ。
 そもそも越後屋大阪店があった高麗橋は「堺筋」という江戸時代の繁華街。明治・大正とこの堺筋は大阪一の繁華街として発展を続け、昭和初期には高島屋・松坂屋・白木屋などの有名百貨店が軒を連ねていたそうだ。ところが都市改造計画が進んで1937年に「御堂筋」 が完成すると人の流れはそっちに移動。他の百貨店が撤退していくなか三越は高級志向のプライドもあり堺筋に居座り続ける。1968年には大阪近郊の人口急増を受けてやはりこのたび閉店となった枚方店をオープン、1974年には大阪店にも新館を開設するなど攻めの姿勢も続いていたのだが、1984年に神戸店閉店に伴いその従業員をそのまま受け入れたことから大阪店は赤字経営に転落する。

 さらに90年代に不運が続く。1995年の阪神淡路大震災で旧本館に外壁の亀裂や内部の破損箇所が出たため、取り壊して新館が建設された。ところがこの時期、旧国鉄の大阪鉄道管理局跡地(JR大阪駅北側) の獲得に三越が最有力と見られており、「どうせすぐにそっちに移転」と予想していた三越はこの堺筋の新館を地上二階建ての中途半端なものにとどめていたのだ。しかしこの跡地入札に三越はまさかの敗北、完璧に計画が狂ってしまう。2000年にも経営危機で閉店が予想された「そごう」大阪店(心斎橋)の跡地買収を計画したが、これもドタンバで「そごう」が閉店を撤回してしまった。かくして昨年秋に三越は大阪店の閉店を決断することになったわけだ。

 もっとも再建計画自体は続くようだ。そのJR西日本がJR大阪駅北口に建設する大阪駅北ビル(まんまやないか)内に2011年に「三越大阪店」を再開店する方向で交渉中、とのこと。それでも三井高利が店を開いた高麗橋からはついに離れるわけで、やはり長い長い歴史がそこで終わったとみなすべきだろう。



◆200年後に「ツケ」支払い

 上のネタと変なところでつながる歴史的話題がある。
 「三越百貨店」のシンボルとして入り口に必ず置かれているのが「ライオン像」だ。上記の記事で出てきた大阪店でも旧本館の入り口に置かれており、阪神淡路大震災の影響で取り壊した際に東京都の多摩センター店へ「お引越し」となっているそうで。
 三越の日本橋本店に最初のライオン像が置かれたのは1914年のこと。日本橋店が当時としては最初の本格的洋風建築の百貨店としてスタートした際に「商いの王者の象徴」としてこの「百獣の王・ライオン」の像が置かれたのだという。その後1972年に三井創業300年記念事業として全支店に日本橋店のものの半分のサイズのライオンが設置されることになったのだとか。
 僕も子どもの時分に三越本店のライオンにベタベタ触った記憶があるが(笑)、なんでライオンなのか、という謎はずっと持ってたんですよね。「商いの王者」と言われてようやく長年の謎が氷解した気分だったが、このライオン像のデザイン面の由来にはまた驚いた。

 「三越のライオン」のデザインはイギリスはロンドンのトラファルガー広場にある「ネルソン記念塔」の下にうずくまるライオン像を模したものなのだそうだ。ネルソンとはもちろん、あのナポレオンのフランス軍としばしばやりあったイギリス海軍の名提督。1805年10月のトラファルガー海戦においてフランス軍を撃破したが、流れ弾に当たって戦死。まぁ「西洋の李舜臣」といったところだ(東郷平八郎が「東洋のネルソン」なんぞと言われていたが、明らかに李舜臣の方がネルソンにソックリだろうし時代もこっちが前だからこの表現にした)
 彼の功績を称えてその名も「トラファルガー広場」には高さ51mの柱塔の上にネルソンの銅像が立ち、その塔の下には四頭のライオンの彫刻が置かれているわけ。僕は数年前ロンドンに旅したことがあり、とにかく町中いたるところで有名無名の人物の銅像にお目にかかる街だなぁと思わされたが(なぜかモーツァルトの銅像にもお目にかかった)、中でもネルソンは破格の扱いになっていると感じたものだ。
 ネルソンの足元にライオン像があるのはなぜか。これは国事に奔走して戦死した軍人の墓には嘆き悲しむライオンの像がデザインされるというイギリスの伝統(?)があるようなのだ。イギリスの国王・政治家・軍人・詩人まで有名人がこぞって埋葬されているウェストミンスター寺院に足を運んだら、戦死した軍人の墓にはみんなこのライオンちゃんたちがたむろしてるのですぐにそれと分かるのが面白かった。それが東洋の彼方の国の百貨店の飾り物になってるというのも面白い話だが。


 さて三越からネルソンに見事に話が繋がったところで(笑)、本題。
 別の記事でも書いたが今年はトラファルガー海戦から200周年。それでネルソンにまつわるイベントも多く企画されているようだが、その中でも変り種として奉じられていたのが「ネルソンの200年前の“つけ”が支払われた」という話題だった。
 なんでもネルソンは1802年にイギリスの高級陶器メーカー「ウースター」社に朝食・夕食・茶会用の高級食器セット一式を特注していた。当時はこういうのって注文から納品まで時間がかかるものだったようで、とりあえず朝食セットが完成して届けられた時には1806年になっていた(おいおい)。ネルソン提督はその三ヶ月前に戦死しており、遺族もドタバタしてただろうし品物届けた方も国家の英雄に代金を請求するのも気がひけたのだろう、結局代金は支払われないままとなってしまったのだ。
 去る5月19日、ネルソン記念品の製造会社がこの「つけ」の支払いをするイベントを企画、ロンドンのセントポール大聖堂でネルソンの子孫達の前で食器セットの代金+利子の合計3750ポンド(約75万円)をウースター社(200年も続いてるのか、この会社…まぁ三越のこともあるか)に支払う儀式を行ったそうで。ウースター社側はその全額を王立海軍協会に寄付するとのことである。

 「神に謝す、我は我が義務を果たせり」(ネルソンが死に際につぶやいたとされる言葉)


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