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2005年6月13日

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◆「ディープ・スロート」名乗り出る

 とうとう名乗り出てしまった。91歳のご老人が「“ディープ・スロート”は私だ」と。そーか、このお爺ちゃんがその昔伝説のポルノ映画でナニをナニにナニして…ってナニゆーてんねん。
 まぁ確かに現代史の謎の一つがいきなり解明されてしまうという劇的な展開で、アメリカのみならず世界中で大きく報道されてしまったのは無理もないのだが…ポルノ映画のタイトルがこうも連日大々的に連呼されてるというのも何と言うか(笑)。

 今さら説明するのもくどいようだが、ここで言う「ディープ・スロート」とは、1972年に発覚しニクソン大統領を現役中の辞任に追い込んだ一大政治スキャンダル「ウォーターゲート事件」において、追及取材をしたワシントン・ポスト紙のボブ=ウッドワードカール=バーンスタインの両記者に情報提供をした政権内部のある人物を指す隠語。詳しくは映画「大統領の陰謀」 を見るのが手っ取り早いが、映画中でもこの謎の政権内部の情報提供者がスパイ映画さながらに極秘のうちにウッドワード記者と連絡をとりあい、ニクソン政権の疑惑情報を提供し取材の方向を示唆する様子が描かれている。もちろん俳優により演じられた再現映像なのだが、一貫してその顔をはっきりとは映さない。
 この情報提供者についてウッドワード、バーンスタインの両記者はもちろん正体を知っていたが、報道取材の鉄則、とくに政治関係の取材における鉄則に従って情報源をいっさい伏せ、この人物については当時(1972年)大ヒットしたポルノ映画のタイトルそのまま、「Deep Throat(深いノド)」と呼ぶことにしていたのだ。なんでこのポルノ映画が「ディープ・スロート」というタイトルであるのか、なぜ社会現象(?)になるほど大ヒットしたのかについてはお子様も見ていらっしゃる「史点」として触れにくい(汗)。ま、各自調べてくださいな。なんでその映画のタイトルが情報源の人物の隠語になったかといえば、「深く飲み込んでいる」「奥が深い」と行ったニュアンスが含まれている、とだけ説明しておく。
 なお、この映画に主演し大ポルノスターとなったリンダ=ラブレイスさんはその後ポルノ女優をやめて今度は反ポルノ運動家になったりもしたが、2002年に交通事故がもとで亡くなっている。その当時「史点」ではさすがにとりあげなかったなぁ…。

 史上初の大統領の現役辞任に発展したこの事件のキーマンとなる情報提供者「ディープ・スロート」が誰であるのか、事件当時から何度となく「正体探し」が行われてきた。2002年7月23日の「史点」(当時全然気付いてなかったが「ディープ・スロート」主演女優の死から3ヵ月後だった)でもその話題を取り上げていて、「ディープ・スロート」と名指しされた右派論客のパトリック=ブキャナン氏が激怒、なんて話を書いている。その記事でも出てくるが、ウッドワード・バーンスタイン両記者は「ディープ・スロート」の正体について「本人との約束で、存命中は公表しない」と繰り返し表明しており、少なくとも存命中の人であることは確かだった。有力候補の一人にニクソンの外交面のブレーンであった(いや、今も結構アメリカ外交に影響力がある)キッシンジャー氏も含まれており、僕なんかはこの人が一番怪しいなどと思っていたものだ(というか他の人は知らんし(笑))

 さて、ご当人が死なない限り謎のままであろうと思われていた「ディープ・スロート」の正体は、意外にも本人が存命のうちに暴露されることとなってしまった。しかも当の本人の口からだ。その当の本人とはマーク=フェルト氏、御年91歳。「ウォーターゲート事件」当時、FBI(連邦捜査局)の副長官を務めていた人物で、5月31日に発売された雑誌「バニティ・フェア」の取材記事の中ではっきりと自分が「ディープ・スロート」その人であると明言したのだ。
 30年以上もこの秘密は守られ続けたが、秘密を知っていたのはウッドワード・バーンスタインの両記者、そして当時のワシントン・ポストの編集局長、そしてウッドワード氏の妻(奥さんには明かしてたのか) および本人の5人のみということになっていた。だがどうもフェルト氏の女性の友人がこれを知っており、またフェルト氏のもとをウッドワード氏が訪れてお互いよく知っている様子であったことにフェルト氏の娘が気付いて、ここ数年、フェルト氏の家族の中では「公然の秘密」となっていたようだ。フェルト氏の娘はウッドワード記者に「父が“ディープ・スロート”であることを公表したい」と電話で問い合わせたが、ウッドワード記者はここでもシラを切りとおしたらしく、また公表にも反対していたという。当のフェルト氏も当初は公表に慎重だったようだが、「生きているうちにその功績を世に認めてもらいたい」との家族の強い意向もあって今度の公表に踏み切ったそうだ。

 当の本人が公表してしまってはしらばっくれる必要もない。31日その日のうちにワシントン・ポストとウッドワード記者らは「フェルト氏が“ディープ・スロート”であり、ウォーターゲート報道では計り知れないほど助けられた」と公式に声明を出した。ただ「情報源は彼だけではなかった」とのコメントも付け加えられてはいたが。以前にも「“ディープ・スロート”は複数の情報提供者を一人の人物に仮託した創作なのではないか」との説があったんだよね。
 素早いことにウッドワード氏は「ディープ・スロート」の正体と、彼とのやりとりを暴露した本をさっそく執筆、緊急出版する予定だそうで。こういうのはただちに売らないと売り上げが落ちちゃうしねー(笑)。かつてこの事件の取材過程を記した本「All the President's Men」とそれを映画化した「大統領の陰謀」(これは邦題)のDVDも売れまくっちゃってるらしい。もしかすると元祖の「Deep Throat」の方も売れてたりして(笑)。

 さてこのたび正体が明らかになったフェルト氏だが、以前から「ディープ・スロート」の有力候補の一人とは見なされていたそうだ。なにせFBI副長官と言えば事件の捜査の司令官クラスであり、もっとも情報を得られる立場と言える。しかも「副」という微妙な立場でもあったし。今回の公表を受けてTVで放映されていたが、ニクソン大統領の会話を録音したテープにも「情報源はフェルトじゃないのか」というニクソンの言葉が残されており、すでに当時においても当事者から疑われていたことがわかる。しかし決定的に尻尾をつかまれることはなかったようで、ニクソン辞任時にもこれまでの働きに対する感謝状がフェルト氏にも贈られていたという。
 では、なぜ政権内部の人間でありながらフェルト氏は情報提供者となったのか。それを考えるにはまず「ウォーターゲート事件」というのがどういう事件だったのか思い返さなければならない。この事件は1972年6月17日夜、ワシントン市内のウォーターゲートビル内にある民主党本部に盗聴器を仕掛けようと侵入したグループがヘマをしでかして逮捕されたことから始まる。当初は狂信的な反民主党グループによる暴走行為として片付けられそうになったが、この逮捕者の中にCIAを退職したばかりの人間がおり、なおかつ彼らの弁護士が政府関係につながる人物であったことにワシントン・ポストの例の記者達は疑惑をかぎつけて追及を始め、「ディープ・スロート」氏の示唆もあって選挙資金の流れを追いかけてゆく。その追及は最終的にニクソン大統領自身の盗聴指示があったことを明らかにし、ニクソン辞任に至るわけだが、そこにいたるまでにはワシントン・ポストの取材に対しかなりの政治圧力もあったという。
 そういう状況にも関わらず政権の「身内」であるフェルトFBI副長官がなぜ情報を流したのか。一つの大きな動機が本人も「私は義務を果たしただけだ」 と言ったように彼自身の「正義の信念」にあったことは別に否定しなくてもいいだろう。内部で情報を持ってるだけにニクソン大統領自身の関与も知っていたし、それをもみ消そうとあれこれ圧力をかけていたこともよく知っていた。そして捜査の当事者であるFBIにも妨害がかかり、フェルト氏自身も警戒され副長官から長官への出世が見込めなくなったという個人的な事情もあったと言われている。
 だが彼個人の内面の問題はともかくとして、彼がその地位を利用して得た情報を、自分もその一員である政権の目を盗んで「裏ルート」でマスコミに流し、最終的に政権を破滅に追いやったことについては公職にあるものとしていかがなものか、という議論はある。今回の公表でも一部にそうした声は確かに出たようだし、ニクソンと同じ共和党のブッシュ 大統領も「ディープ・スロート」の正体判明という歴史的ニュースに対して特にコメントしないのもそうした意見があることを背景にしている。フェルト氏の家族もそうした議論があるからこそ、フェルト氏本人が生きているうちにその「功績」を世間に認めさせ、決して「犯罪者」などではないと訴えることを目的に公表を行ったのだろう。

 まぁあれこれと問題の多いアメリカではあると思うんだけど、振り返ってみると節目節目でこの手の信念を持った良識派が正義のヒーローの如く活躍し(例えが妥当か疑問も感じたが、ラジオでたまたま聞いた某アメリカ政治研究者は「バットマンみたいなもんですよ」と例えていた)、また「不正義」に対して割合単純に(笑)怒る大衆の意識というのもあって、それがアメリカ合衆国をギリギリのところで健全に保っているとも思える。その勧善懲悪時代劇風単純さが「9.11」以降のアフガンやイラクの戦争の原動力になってる部分もあるわけだけど。
 なぜ今になって公表したのかの理由に、昨今のアメリカの報道状況に警鐘を鳴らすためではなかったか、という説もあるんですよね。



◆地名と歴史の深い関係

 国の名前はよく知っていても、その国の首都を正確に知らないケースは多い。その国の最大かつ有名な都市がその国の首都とは限らないケースが多いからだ。オーストラリアのキャンベラ、ブラジルのブラジリア、マニアックなところでスリランカのスリジャヤワルダナプラコッテなど、大都市の首都から離れたところに計画的に首都機能を移転しているところもある。日本もそういう話がなかったわけではないが、ほぼ立ち消えになっちゃったようである。
 「南アフリカ共和国の首都は?」と聞かれると「えーと、ケープタウンだったかヨハネスブルグだったか」などと言ってしまう僕だったが、正解は「プレトリア」。南アフリカの国土のかなり北方にある。ただし首都といっても「行政府の首都」ということで、立法府はケープタウン、司法府はブルームフォンテーンに置くという「首都の三権分立」になっているのだ。

 さてこの「プレトリア」の名称を変えようという動きが現実化してきたことが報じられている。去る5月26日に南アフリカの地名評議会は「プレトリア」を「ツワネ(Tshwane)に改称するというプレトリア市議会から提出された案を承認、最終的には芸術・文化・科学技術の閣僚により決定されるそうだが、まずそのまま決定されるだろうと見込まれている。
 ではなんでプレトリア市議会自身から「改称」の提案が出たのだろうか?これ、まさに「歴史認識問題」が絡んじゃっている。「プレトリア」はかつてこの南アフリカ北方にあったブーア人の独立国「トランスヴァール共和国」の首都であり、その名前はブーア人たちにとっての英雄プレトリウスにちなんだもので、これが南アフリカの多数派で現在は支配側にまわった黒人たちには不快に感じられるものだったのだ。

 一気に歴史をさかのぼると、そもそも南アフリカの地にヨーロッパ人の植民地が建設されたのは1652年にオランダ人が「ケープ植民地」を建設したことに始まる(それ以前にポルトガル人がインド航路の経由地にしていたが1510年に放棄している)。現在のケープタウンを中心とするこの植民地にはオランダ系のみならずフランスのプロテスタント移民も入り込み、その子孫達はオランダの言葉で「農民」を意味する「ブーア(Boar、ボーア・ブールなど表記いろいろ)人」と呼ばれるようになっていく。彼らは現地や海外から黒人奴隷を連れて来てその上に君臨し、その後の「アパルトヘイト(人種隔離政策)」につながる社会体制を作り上げて行った。
 紆余曲折があって1814年、ナポレオン敗北時の条約でケープ植民地はイギリスの手に渡った。その後イギリスが領内での奴隷制度廃止を決定するとブーア人たちは反発して北方に移住、19世紀の半ばに現在の南アフリカの北方に「トランスヴァール共和国」「オレンジ自由国」といった国家を建設した。そのトランスヴァール共和国の首都「プレトリア」の由来であるプレトリウスはブーア人の指導者で、1838年12月16日に現地のズールー族との「血の河の戦い」に勝利した英雄とされる。この12月16日はその後南アフリカ共和国では「誓いの日(Day of the Vow)」なる祝日とされていたほど。さすがにアパルトヘイト撤廃後は問題視され「和解の日(Day of Reconciliation)」に改められたが祝日としてはそのまま残っているそうで(なんだか「昭和の日」みたいだ)
 19世紀の末、イギリスはダイヤ・金の資源を狙ってトランスヴァール・オレンジ両国に戦争をしかけた。これが「南アフリカ戦争(ブーア戦争)」 で、ブーア人の激しい抵抗もあり、2年7ヶ月という長期戦になったが最終的にイギリスが勝利を収めて両国を併合する。この戦争に従軍し、この露骨なまでに帝国主義的な戦争を愛国的に称える小説『大ブーア戦争』を著した功績によりナイトの爵位を受けたのがシャーロック・ホームズの生みの親コナン=ドイルだといのはちょっとした世界史豆知識。
 だがイギリスはブーア人たちとの講和の際に、ブーア人たちの徹底した人種隔離政策を前提とした自治を認めるという条件を飲んだ。若き日に弁護士として南アフリカを訪れていたガンジー が白人と同じ客車に乗って放り出されたというエピソードもこのころのこと。南アフリカにおけるアパルトヘイト制度はむしろ第二次大戦後に強化されてゆき、僕が小中学生のころでも「世界にはこんなとんでもない国がある」という感じで地理の授業の定番項目として教わったものだ。ちなみに日本人は「名誉白人」扱いだったそうですがね。こんな制度が長期にわたって続いた背景にはこの国が金やダイヤの産出国で、発言力のある欧米諸国もあまり強い物言いができなかったという事情もある。
 国際的な非難の高まりを受けて1991年にようやくアパルトヘイトは撤廃された。黒人の政治参加も可能となり、反アパルトヘイト活動で27年も投獄されていた黒人運動家のマンデラが1994年の選挙で大統領に就任、アパルトヘイトは歴史の授業だけで登場する項目となっていった。だが人数のみならず政治的にも少数派に追いやられた白人住民(アフリカーナーと呼ばれる)の反発や人種間の軋轢を抱えているのも事実。

 とまぁ、長々と書いたがこういう歴史的経緯を考えれば、今や多数派として政権をとっている黒人達としてはアパルトヘイトの根源といえるブーア人の「英雄」の名に由来する地名を自国の首都名とすることに抵抗を覚えるのは無理もないとは思える。代替の名前として挙がっている「ツワネ(Tshwane)というのは、もともとこの地に最初に入った黒人たち(バンツー語系)がこの地を流れる河に命名したもので、その名前は彼らの指導者の名に由来し、「小さい猿(英語でlittle Apeとなってたのでチンパンジーみたいのを想像すると近い?)」を意味するという(ややこしいな)。だがこれには改称推進派からの異論もあり「我らは一つ」の意味だと主張する向きもあるそうで。ともかくこの「ツワネ」が白人以前この地に入った黒人たちの命名による地名であるということで、すでにプレトリア周辺の首都圏を指す地名としては使われていたという。

 日本ではあまり報道がなかったせいか僕も知らなかったが、ここ数年南アフリカでは白人の名前に由来する空港や通りの名前が次々と改称されていたという(ソ連崩壊に伴う地名変更ラッシュを連想させる) 。それがついに首都の名前にも及んだわけだが、さすがに「プレトリア」から「ツワネ」への改称はこの町に住む白人系のアフリカーナーたちの強い反発を招いている。少数派となった彼らは多数派黒人による一方的な決定を「民主主義に反する」として非難しており、5月21日には1000人規模のデモ行進も行われたという。
 また歴史的経緯はともかくとして、150年も内外に定着してきた首都名を変えるというのはどうか、という声もある。アパルトヘイトを撤廃した白人政権最後の大統領で、マンデラ元大統領とともにノーベル平和賞を受賞しているデクラーク元大統領もその線から政府に再考を促す声明を出しているとか。一応改称後も「プレトリア」は都内の一地域名としては残されるというのだが…。


 地名論争と言えば、こんな話題もあった。
 6月1日付のアラブ紙「アッシャルク・アルアウサト」が報じたところによると、イラン外務省の報道官がアラブ諸国の記者に対し「“ペルシャ湾”の名は国際的な地図にも載っている。この海域を正式な名称で呼んでほしい」と注文をつけたんだとか。日本でもあの海域については「ペルシャ湾」と呼ぶのが一般的だが、アラブ諸国ではイランの旧称「ペルシャ」の使用を嫌って「アラビア湾」と呼ぶのだそうで。日本と韓国・北朝鮮の間で揉めている「日本海」「東海」論争とソックリな話だが、双方で好きなように呼ぶってのはダメなんでしょうかね。



◆とびます、とびます!

 地理の授業で「北朝鮮は国連に加盟している」と聞いてビックリする中学生たちの顔を、ここ数年僕は見ている。北朝鮮は1991年というとうの昔に韓国と同時に国連に加盟しているし(それまで加盟しなかったのは建前では両国とも朝鮮半島唯一の国家を主張していたため) 、世界のほとんどの国が「主権国家」と認定している国で国連に加盟していないのはバチカン市国ぐらいのもんという状況なのだが、ここ数年の北朝鮮のあれこれ変な言動を見聞きしていれば「まともな国」とはまぁ思えなくもなるだろう。もっとも変な言動自体はその前からずっとあったわけで、昨今のマスコミの扇情的な騒ぎ方(それも興味本位かつお笑いネタにしていたのが多いと思う)が子どもたちのイメージを強化してるところもあるとは思う。
 先日、あのブッシュ大統領も「北朝鮮は主権国家だ」とわざわざ言い、金正日総書記に「ミスター」をつけて呼んでご機嫌を取ったりしているが(これ、実際に北朝鮮が微妙ながら好反応を示したんだよな…)、実際のところ「変な国」だとは思ってるからこその発言だろう。イラク・イランと合わせて「悪の枢軸」 と呼んだのも記憶に新しいが、結果的に絵空事とわかった「大量破壊兵器保有疑惑」を根拠に戦争しかけて潰したイラクに比べて、自分から「核保有」「核実験」を叫ぶ北朝鮮に妙に態度が甘いのは面白いところではある。考えてみるとブッシュさんも「二代目」の世襲元首だったりするし変な言動が多いところとか共通してもいるのだが(笑)。

 ところでその北朝鮮提供(?)の歴史ネタという珍しい話題。
 5月30日、朝鮮中央通信が「世界で最初のロケットは朝鮮で製造された」とする記事を配信した。それによれば(僕はなぜか日本にある朝鮮中央通信公式サイトの英文で読んだ)、「世界最初のロケット」は紀元前1世紀から7世紀まで朝鮮半島北部に栄えた王国・高句麗において1300年前に発明されたのだという。それは「クァンフィ」と呼ばれ、火薬の入った筒をつるし、そこに点火して飛ばす兵器で「現代的機能を備えたロケットとは比較できないほど単純なものだが、原理は同じだ」と主張しているそうで(ロケット花火みたいなもんか?)。661年に唐軍が高句麗に遠征して失敗した際にこれが威力を発揮したのだ、という。この兵器はその後「高麗」(918〜1392年)時代には「ファジョン」(「火箭」かな?)として知られ、その全長726mm、先端の「矢」の部分が90mmという構造で、大量生産されて国内各地の防衛施設に配置されていた。さらに15世紀の朝鮮時代にはそれまでの技術を元に多段式ロケットの元祖「シンギジョン」が開発され、これは16世紀末の「壬辰愛国戦争」(もちろん豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争のこと)で大いにその威力を発揮した……と記事は記している。
 そして「ロケットのすべての属性を備えた世界最初のロケットは、朝鮮民族の知恵と創造的才能、愛国心を示す貴重な歴史遺物だ」と結んでいるんだそうな。

 通説としては人類初の「ロケット」は1150年ごろに中国で発明されたとされてるらしい(そもそも火薬の発明が中国だ)。ユーラシアを制覇したモンゴル軍もロケット兵器の一種を使用していたとされ、14世紀には「火竜出水」という水平方向に1.6kmも飛ぶ二段式ロケット兵器とか、「神火飛鴉」と呼ばれる世界最古の有翼ロケットも存在していたという(どっかで見た「図説中国の科学と文明」からの引用によるとそういうこと)。僕が専門にしている後期倭寇時代(16世紀)の資料に出てくる明軍の装備にも「飛天噴筒」というそのまんまロケット兵器らしきものがあったようだ。もちろんこれらはあくまで原理的に「ロケット」といえるものであって、宇宙まで飛ばしちゃうような今日の意味での「ロケット」の登場は20世紀に入ってから液体燃料ロケットの登場を待たなくてはならない。

 この朝鮮中央通信の記事、「なんだこりゃ?」と注目を集めたのは確かで、日本でもいくつかの新聞で報じられた。唐突な話題だし、特に新発見があったようすもなく、記事中でも根拠となる資料はいっさい言及されていない。高麗時代以後の話については分からないでもないのだが、高句麗時代となると…。「世界最初はウチだ!」とお国自慢をして「民族の英知」「愛国精神」と叫ぶのは北朝鮮に限らず世界中で見られる現象だが、今度北朝鮮がどういう意図でこのロケット話を報じたのか、よく分からない。高句麗が現在の北朝鮮領域とほぼかぶること、なおかつこのごろ中国との関係も微妙な空気が漂っていることなどを背景に中国に対抗する歴史認識を持ち出したのか…?そういえば高句麗をめぐっては韓国が中国に激しく反発する騒ぎが昨年あったが…。



◆60年目の節目で

 日本のみならず世界でも大きく報じられ、僕も「史点ネタだなぁ」と思いつつ執筆が遅れているうちに、あっという間に「幻の話題」となってしまったのが「ミンダナオ島で生存していた旧日本兵」。いや、今も完全否定されたわけではないし実際にそういう人がいる可能性はかなり高いと思うのだが、とりあえず一時確実のように報じられた二名の元兵士については振り出しに戻ってしまった。
 ミンダナオ島に限らずフィリピン各地で元日本兵が暮らしている、という話じたいはよく聞く。「史点」でもつい最近ルソン島の話題として書いた覚えがあるし。東南アジア全域に展開してムチャクチャな状態になってしまった日本軍だから撤収にあたって混乱もあったろうし、戦闘中に逃亡してしまった兵士もいるだろう。中には日本本土が空襲や原爆で焼け野原と聞いて帰国する気をなくし、現地にとどまったケースも多いという。今度報じられたケースのように「戦死」とみなされ墓も建てられ、それこそ「靖国」に祀られちゃった兵士で実は生きていたという人(現時点では死去してるケース含む)はかなりの数にのぼっていたのではなかろうか。
 もっとも僕なんかは「旧日本兵」の第一報を聞いた時には最近の話題もあって「ついに“靖国の英霊”が化けて出たか」などと思ったもんだ(笑)。

 最近の研究でも太平洋戦争における日本軍の「戦死者」は戦闘そのものよりも飢えや病気による死者が圧倒的に多かったとされていることも考え合わせて、「実は生きていた英霊」が相当数にのぼるという予想にも現実味があるかと思う。僕の祖父もビルマ戦線で戦闘よりも飢餓で苦しめられ、仲間の人肉を食うような悲惨な状況から九死に一生を得て帰って来たと聞いていて(僕の生まれる前に亡くなってるのでまた聞きなのだが)、一歩違えば「ビルマの竪琴」状態だった可能性もある(あれは慰霊のために残る話だけどね)
 今度の騒ぎは60年という時間が経ってなお、第二次世界大戦という「歴史」が生きて目の前に現れることがある、という可能性を見せたと思うのだが、その大戦で実際に戦場で戦った兵士たちももはや生存ギリギリの年齢に達しているということも思い知らされた。60年というのは干支が一巡りし61年目を「還暦」なんて言葉もある年数だが、確かにある世代がほとんど入れ替わってしまう年数でもあると思える。10年前の「終戦50周年」もそこそこ騒いでいたと思うんだけど、なんとなく今年の「終戦60周年」というのは世界的にもまた違った、より大きな騒がれ方をしているようのも世代の入れ代わり時期ということもあるのかもしれない。


 やや旧聞に属してしまうが、5月9日にモスクワで「対ドイツ戦終結60周年記念式典」が大々的に催されていた。60年前の1945年の4月30日にヒトラーが自殺。5月2日にベルリンがソ連軍によって占領され、5月7日にドイツはついに無条件降伏した。じゃあなんで7日ではなく9日にやってるのかというと、昨年の国連総会にロシアを始めとするCIS(独立国家共同体=実質「旧ソ連」)が提案により、5月8日と9日を「追悼と和解の時」 とする決議が出ていたためだ。7日そのものにやっちゃうと「対独戦勝記念式典」という印象が強いため2日おいたこの日に、あくまで「追悼と和解」のイベントとして当時の敵味方を合わせた世界中の国々の首脳を集めて催されたというわけ。だから「旧敵国」であるところのドイツのシュレーダー首相も日本の小泉首相も出席していた。もっともイベント自体は「戦勝記念式典」としか見えないところも多かったが…
 この式典にはアメリカなどかつて「同盟国」だった国はもちろん、戦争に巻き込まれた周辺諸国の首脳も招かれていたが、ロシアが主催するこの実質「戦勝記念イベント」に招かれることに複雑な心情を持つ国も少なくない。特に第二次大戦の過程でソ連に併合されたバルト3国(エストニア・ラトビア・リトアニア)、そして開戦当初に独ソの連携で分割占領され戦後もソ連衛星国とされてしまったポーランドなどは露骨に不快感を示していた。結局エストニアとリトアニアは欠席、ラトビアとポーランドの首脳は出席はしたものの「ソ連の勝利を祝うわけではない」と釘を刺すことを忘れなかった。

 また式典に出席はしたものの、アメリカのブッシュ大統領はその直後にラトビアを訪問し、戦後の世界分割を決定したヤルタ会談(1945年2月)における協定について「歴史上最大の過ちの1つ」と明言した。当時のアメリカ大統領ルーズベルトはまだ日本との激しい戦いを抱えていることもあり、ソ連のスターリンの協力を取り付けるべくかなりの譲歩をしていて(イギリスのチャーチル首相はスターリンに対する強い警戒心を持っていたがルーズベルトはそうでもなかったらしい)、それが戦後の東欧諸国がソ連の強力な支配下におかれる結果になった、そのことを「過ち」と表現したわけだ。そのこと自体は確かにその通りだが、ロシアにしてみるとアメリカ大統領の口からそれを言われるといい気はしないだろう。
 それとこのヤルタ会談でアメリカとソ連は「ソ連の対日参戦」の密約を交わしており、それが日本降伏の8月15日以後のソ連軍の千島・南樺太占領の根拠となり、今なお未解決の日露間の「北方領土問題」につながってることも忘れちゃいけないだろう。この問題もこのところまた行き詰まっていて(ソ連崩壊時に「これで四島返還は間違いなし」と踏んで「南樺太と北千島返還」の看板を右翼の街宣車が掲げていたのが今となっては懐かしい) 、小泉さんがこのイベントにノコノコ出かけてくのも日露交渉を進めようという思惑があるんだろうけど、東アジア周辺国とドタバタしている小泉さんが「欧州戦線終戦式典」に出席しているというのには違和感を覚えなくもなかった。中国も8月以降に同種のイベントをやるんだろうけど、とてもじゃないが小泉さんが出席する事になるとは思えんのだが…

 そういえばデンマークでも5月4日に「ドイツ占領からの解放60周年記念式典」があり、同国のラスムセン首相が「歴史的過ち」について「デンマーク国家と政府を代表して謝罪したい」 と表明している。何の話かといえば、デンマークがナチス・ドイツに占領されていた1940年〜45年の間に、同国に逃れてきたドイツ出身のユダヤ人を追い返し、結果的に彼らを強制収容所での死に追いやったことを「歴史的過ち」として謝罪しているのだ。これは最近になって判明したことだそうで、少なくとも19人のユダヤ人がデンマークから追い出されていたという。
 もっともナチス占領下のことで不可抗力に感じるところもあるし、またその一方で8000人のユダヤ人を中立国スウェーデンに移送して命を救ったという事実もあるという。それでも首相直々に謝罪声明を出すというのはヨーロッパにおけるユダヤ人迫害問題とナチス協力への追及の強さを物語っているんだろう(それは一つ間違えばユダヤ人などの異分子の迫害・ナチス的なものの賛美に走りやすい側面があることと表裏一体だが)。ラスムセン首相は「謝っても歴史を変えることは出来ない」と言った上で、「歴史的な過ちを認めることで、新たな世代が将来、同じような過ちを犯さないことを望む」と述べたそうだ。


 さて繰り返し書いていることだが、今年は歴史的事件から「ウン十周年」という話題が多い。その中でやや地味な扱いをうけていたものの一つが「バンドン会議(第一回アジア・アフリカ会議)開催50周年」というやつ。1955年4月にインドネシアのバンドンで開かれたこの会議はアジア・アフリカの29カ国の代表が出席し、冷戦で対立する米ソを中心とした「二つの世界」に対して反植民地主義・平和共存を訴える「平和十原則」 を発表して「非同盟諸国」「第三世界」の台頭を印象付けた歴史的会議だ。もっとも「第三世界」はその後もちっとも一枚岩ではなかったし、冷戦が終わっちゃった今となっては「第三世界」という言葉自体が死語になってしまった。そのため最近では歴史の授業でも扱いが低い気がする。
 4月24日にこのバンドン会議50周年の記念式典がインドネシアのバンドンでアジア・アフリカ100カ国以上の首脳を招いて催されていた。「新アジア・アフリカ・パートナーシップ宣言」なるものが発表されたが、平和共存や人種問題ではなく貧困問題や貿易拡大などが主要テーマになってるあたりは半世紀という時の流れを感じさせる。

 さてこの式典に出席した日本の小泉首相は、これに先立ってジャカルタで行われた「バンドン会議50周年記念首脳会議」で講演を行い、「わが国はかつて植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」として「こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのおわびの気持ちを常に心に刻みつつ、わが国は第二次世界大戦後、一貫して経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を堅持していると表明した。1995年に当時の村山富市首相の「村山談話」で示された「日本政府公式見解」とほぼ同じ表現で目新しさはないが(それにしても当時あまり騒がれなかったが、「村山談話」って年々存在価値が上がってきてる気もする)、これを別に第二次大戦関連イベントでもない首脳会議の演説で首相自らが述べるというのは異例ではあった。実際、主催国のインドネシアのユドヨノ大統領もビックリしていたぐらいで。
 もちろんこの演説はその直前に連発していた韓国・中国との「歴史認識紛争」を受け、「日本政府の公式見解」を改めて述べてその鎮静化を図ろうと考えたもの。実際その場においては効果があったし、当初無理ではと言われていた中国の胡錦濤主席との会談だって一応実現した。お互いそこそこ直接的表現を避けつつ言うべきところは言い、まぁなんとか「手打ち」した形には持ち込んだのだ。ここまでは緊急ながら上手く立ち回ったと言っていいと思う。

 だがそれから一ヶ月もしないうちにまたこじれてしまった。で、やっぱり焦点は「靖国神社」になってくるのだ。小泉さんが首相になって以来4年間、ずっとこの問題がいろいろと話をこじらせている。小泉さん、この件と郵政改革に関してはとにかく頑固なんだよな〜。以前から「こうだと決めこむと絶対に変えない」とは言われていたし(郵政大臣の立場で「郵政改革が実現するなら野党と組む」と国会で“問題発言”をやらかしたこともあった)、その昔「軍人・凡人・変人」の一番最後のやつで呼ばれていたことなど思い起こせば尋常の神経の人ではないのは分かるんだけど…
 国家の政策のために「殺された」(と、はっきり言うべきだと僕は思うんだよね。好き好んで死んで行ったものは決して多数派ではあるまい) 戦没者を悼みたいというのはよく分かる。靖国がそういう機能も持っていることは確かだけど、あそこは戦没者を「神」として祭る、たぶんに政治的な神社であって慰霊よりも顕彰を主眼とする宗教施設。しかも70年代以降「A級戦犯」が合祀され、「8月15日参拝」にこだわりだしたあたりから政治性が高まり(それ以前は参拝もしていた昭和天皇がこれ以後行かなくなる)、日本の過去の戦争を正当化する性格を強くしてきたことは否めない。そこに参拝することに執拗にこだわるのは本人がどう説明しようと「なんか裏の意図があるんじゃないか」と思われるのは無理もないだろう。もっとも「死ねばみな仏」とか「罪を憎んで人を憎まず」とか言ってる小泉さんに仏教と神道、慰霊と顕彰といった宗教的な意味合いが理解できてるとはとても思えないんだが(笑)。
 そういや国会で「“罪を憎んで人を憎まず”は孔子の言葉なんですよ」と恐らく中国向けを意識して言っていたけど、そもそもこの場面では使い方からして間違ってるように感じるし、毎日新聞のコラムによると孔子「その意を悪(にく)んで人を悪まず」と言ったのであり、意味合いがずいぶん違うんだそうで(しかも出典は孔子の子孫が書いたという「孔叢子」というマイナーな本だそうだ)
 国会での「首相の職務として参拝しているのではない。私の信条から発する参拝について他国が干渉するべきではないと思っている」と言いつつ「『内政干渉すべきではない』とは言っていない」という発言も頭が混乱してくる。小泉さん、日本の総理大臣であるうちは日本を代表する政治的存在以外の何者でもないでしょーが。「A級戦犯に参拝しているわけではない」 とも言うが、そりゃ当人はそのつもりでも神社の神様として全部一体化している以上外見的にはまったく見分けがつかない。だから「分祀論」が出てくるんだけど、これは僕も今さらバカバカしい話だと思うし、実際靖国神社も、神社の元締めである神社本庁も完全にその可能性を否定している。
 あと観点を変えてみると小泉さんが日本の過去の侵略戦争を肯定・謝罪する政府見解を繰り返していることは靖国神社の「公式見解」とは相容れない気がするんだが…そういうチグハグなところが余計に不信を招いているところもあるんじゃないかと。

 さすがに6月に入ってから「いい加減にせんか」という声が自民党内からも上がってきた。小泉さん以前に靖国参拝で騒ぎを起こした中曽根康弘元首相までが小泉首相に慎重な対応を求め「無宗教の国立慰霊施設」の建設に言及したのにはちょっと驚いたが、思い返せばあだ名は「風見鶏」でしたな、この人は。するとその中曽根さんのお友達のナベツネ氏(そういえばいつの間にやら巨人経営陣にも復帰してる)が主筆を務め、自民党機関紙的社説を書く読売新聞までが中曽根氏と同じことを社説で書いた。さらには河野洋平衆議院議長が歴代首相経験者と会談したうえで小泉首相と会談、立法府の長が行政府の長に意見するという憲政史上異例の事態も起きた。
 小泉さんがあんまりこの件で我を通すと外交関係だけでなく「靖国」自体に致命的なダメージが出てくる可能性だってある。就任最初の年に8月15日参拝にギリギリまでこだわっていたころに僕も「それが最後の首相参拝になるかも」と書いたことがあり、「いっそのことやってみたらいい」と逆説的に思ったこともある。僕も考えるぐらいだからその危惧を抱く人は少なくないわけで、靖国的なものの最大の圧力団体というべき「日本遺族会」までが「遺族会の悲願で有り難いが、並行して英霊が静かに休まることが一番大事だ。近隣諸国に配慮し、理解してもらうことが必要だ」と、首相の靖国参拝に慎重な対応を求める異例の声明を出している。まぁその遺族会の会長・古賀誠議員は以前から反小泉・親中国的態度とされる人だし(その前の会長だった橋本龍太郎元首相も「親中派」と言われてるところが不思議)、遺族会の意向というより政治的な意向が強いのだろうけど。
 だんだん「包囲網」が出来つつあるようにも見えるが、小泉さん自身の口からは「適切な時期に」が繰り返されるだけ。かえって意固地になってる感じも受ける。それこそ8月15日に強行するんじゃないかとの噂もあり(まぁさすがに無いと思うが)いしいひさいち 氏が昨年漫画で描いたような、隙を見て神社に突入する首相をSPたちがタックルして止めるという話がギャグではなくなる可能性もある。それこそ靖国の「本土防衛」のために竹槍部隊のバリケードを作る必要があるかも(笑)。いや、それこそ靖国の英霊たちが化けて出て阻止するかもしれないし…と、そんなことを考えていたときに「旧日本兵」のニュースが飛び込んできたから「ついに化けて出たか」と思ったりしたわけで。
 読売までが社説で建設を訴えちゃった「無宗教の国立慰霊施設」だが、確か小泉さん一度は実現の方向で決めていたはず。しかし「自民党内の反対」を理由に事実上放置しているのが現状だ。遺族会も戦没者慰霊は「靖国」以外しか認めないと主張しており、なかなか話が進まない。そこで提案なのだが、両者の案をミックスして「国立青」という看板の慰霊施設を作ってはどうかと。左から読めば国立、右から読めば…で「左右両派」の顔を立てられるのではないかと(笑)。

 ところで、日韓関係の改善の一手に、としてその靖国神社に置かれている「あるもの」がクローズアップされて驚いた。
 「あるもの」とは同神社の境内に置かれている「北関大捷碑」なる石碑。16世紀末の豊臣秀吉による朝鮮半島侵攻に対して戦った地元の義兵・鄭文孚(チョン=ムンブ)の功績を称え1707年に建てられたものだという。なんでそんなものが靖国神社にあるんだと思うところだが、正確なところはもはや分からないが20世紀初頭(つまり日露戦争時か?)に日本軍の将校が勝手に持って帰って来て「戦利品」として靖国に寄贈しちゃったということらしい。
 この石碑の返還問題自体は今に始まったことではないようだが、返還するにも北朝鮮・韓国のどちらに返還するのかという問題があった。石碑自体は咸鏡道北部の吉州つまり現在の北朝鮮領にあったものだが、もちろん日本と北朝鮮には国交が無く、韓国に渡すにしてもそれには北朝鮮側が反発する、という構図があった。だが竹島騒動以来悪化した韓国の対日感情をやわらげる一手として、南北ともにかつての「抗日戦争」のシンボルであり何かと話題の「靖国」にあるこの一品を韓国に引き渡すという話が4月以降一気に具体化してきたのだ。
 韓国にとってもこの石碑返還はいったんは韓国が預かるにしても北朝鮮との交渉道具として使えるメリットがある。実際に4月末のジャカルタのバンドン会議50周年で顔をあわせた両国首脳もこの石碑の返還と保管について話し合ったと伝えられる。靖国神社もこの石碑については「北関大捷碑我々のものではなく、一時預かっているものであるだけに、必ず返すというのが神社側の立場」としており、南北間の話がついて公式に返還を求められればちゃんと返還すると表明している。
 石碑だけではなく、東京・祐天寺に保管されている朝鮮半島出身者の旧軍人・軍属の遺骨の未返還分1136柱(遺族・縁故者が確認できなかったもの。今年3月までに8835柱が返還済み) についても一括返還の方向で話が進んでるとか。またこれまで日本政府としては「関与せず」の立場をとってきた民間企業に徴用された朝鮮半島出身者の遺骨収集・返還についても調査を開始し、被爆韓国人やサハリン(樺太)残留朝鮮人についても新たな支援策を用意する姿勢を見せている。
 …こういう話ってこういうことでもないと進みださないもんなんですかねぇ。


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