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2005年6月22日

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◆今週の記事


◆「夏」は来ぬ?

 さすがに暑くなってきた。もう六月、はっきり言って夏なのである。あ、タイトルは「きぬ」であって「こぬ」じゃないですからね。

 さて、「夏」といえば、古代中国最古の王朝の名前(このギャグ、昨年夏も使ってました)。あくまで確認はとれていない伝説上の王朝という扱いで、中学校の歴史教科書レベルでは中国最古の王朝は「殷」(前17C?〜前11C) と習うところだが、「史記」などの歴史書が「殷」の前に最古の王朝として「夏」が存在していたと記している。「殷」だって19世紀末の「殷墟」遺跡の発掘でようやく実在が確認されたぐらいだから、「夏」だって存在したものと考えるのが自然ではあった。伝説に従えば「夏」王朝は国王17代、450年ほど続いたことになっており、実在したのなら紀元前2000年ごろから前17世紀までの期間に栄えていたということになる。もちろん現在の「中国」のイメージよりはずっと小さい領域だったろうし、「王朝」といってもずいぶん牧歌的なものではなかったかと推測されるが、この「夏」の呼称が「中夏」=「中華」につながっていくわけで、その意味では確かに「元祖中国」だとは言える。
 実際「夏」王朝の痕跡ではないのか、と言われている遺跡はすでにあった。当「史点」でも以前とりあげたことがあるが、中国河南省偃師市の「二里頭遺跡」というのがそれ。殷墟よりも古い青銅器時代の遺跡であるのは確かなようで、昨年にも巨大な「宮殿」の跡だとか城壁の跡だとか車輪の跡だとかが見つかったと発表があり、「夏王朝の都に間違いなし!」 というような報じられ方だったが、「殷」に比べて決定的要素がないのも事実。決定的要素とはずばり「文字資料」の問題だ。「殷墟」が史書に伝わる殷の遺跡であると断定されたのは、遺跡から発見された甲骨文に『史記』などが伝える通りの王の名前が見つかったからなのだが、二里頭遺跡の時代では文字があったかどうかも怪しく、決め手を欠いている。学者の間からも「殷の前期の遺跡ではないのか」との声も上がっているという。

 さてその二里頭遺跡から「トルコ石の杖(つえ)」が出土したことがつい先日報じられていた。「トルコ石の杖」といってももちろん杖本体は木製もしくは竹製で、その全体が2000個もの青いトルコ石で覆い尽くされていたという豪華なもの。本体の木か竹の部分はとうの昔に腐って失われてしまい、それを覆っていたトルコ石だけが残された状態になっていたという。2002年に貴族の墓と考えられる遺跡を発掘していたところ、骨に重なる形でトルコ石の副葬品があるのが見つかり、周囲の土ごと掘り出して研究所に持ち込んで2年以上かけ慎重に土を取り除いていったところ、杖の全体像が浮かび上がってきたのだそうだ。
 掘り出された全体像を写真で見たが、杖の手に持つ部分を「頭」にして、その下に細長い胴体が続く青いヘビのような形をしていた。その頭部分が注目点で、青いトルコ石の中に白い玉(ぎょく)で一対の「目」とその間に長く出っ張った「鼻」が形作られている。記事に出ていた二里頭遺跡研究チームの研究者の見解ではこれは「竜」であるとされ、「竜は中国で特別な存在。二里頭に強大な権力の中心があり、王朝もあったとみられる」として「夏王朝の実在の可能性が高まった」とコメントしていた。確かに中国では伝統的に「竜」を天下を治める皇帝の象徴としてきたところはあるが…

怪獣?  むしろその「竜」の顔の部分の写真を見たとき、僕が連想したのは伝説の怪獣「饕餮(とうてつ)」だった(うお〜、こんな難しい字がちゃんと出るんだなぁ)。夏に続く殷の時代の青銅器に魔よけとして描かれている不気味な怪獣の顔が描かれており、これが古い本に出てくる怪獣「饕餮」を描いているのではないかということで(ってことは本当に「饕餮」なのかは分からないんじゃなかろうか?)そういう模様を「饕餮文(とうてつもん)」というのだが、強調された一対の目玉、真ん中にまっすぐに通った鼻など確かによく似ている(右図)。

 なお、この「貴族の墓」は紀元前1700年以前のものと見られているそうで、時期的には確かに「夏」王朝があったとされるころの墓ではあるようだ。そこからこんな豪華なトルコ石の遺物が出てくること自体大きな権力の存在を予想させる(トルコ石は当然西方との交易によりもたらされる貴重品)。この「顔」が竜なのか饕餮なのか分からないがいずれにしてもその後の殷以降の中国の意匠につながるものを感じさせる。



◆歴史的物件の競売2題

 去る6月16日、競売会社サザビーズがニューヨークでイスラエル建国に関する175点の文書のオークションを行った。その中で最大の「目玉」が「バルフォア宣言の手書き草案」だった。これが先月発表になった時点で50万〜80万ドルの値段がつくのでは、と言われていたが、結局88万4000ドル(約970万円)で落札された。電話参加した落札者が誰なのかは明かされていない。

 「バルフォア宣言」とは、第一次世界大戦のさなかの1917年11月2日、当時のイギリス外相アーサー=バルフォアが英国シオニスト連盟(パレスチナにユダヤ人国家建設を目指す運動を「シオニズム」、その運動家を「シオニスト」という)の会長であるロスチャイルド卿にあてた書簡で表明したもので、「国王陛下の政府は、パレスチナにユダヤ人の国家的居住地(National home)をつくることを好意的に見て(view with favour)、その目的達成のために最大限の努力をする と表明し、パレスチナに住む非ユダヤ人の保護を明記しつつも事実上パレスチナにユダヤ人国家を建設することをイギリス政府として認めたもの。もちろん資産家の多いユダヤ人の戦争協力を引き出そうとして出された政治的産物だが、これがその後のイスラエル建国の根拠となり、現在に至る中東問題のルーツになっているわけ。
 さらにこの「宣言」の悪名を高めているのが、これとほぼ同時期にイギリス政府がこれと矛盾する協定を二つも結んでいた事実だ。一つは1915年10月に当時オスマン・トルコ帝国の支配下にあったアラブ人に対し戦争協力の見返りにパレスチナを含むアラブ独立国家建設を約束した「フサイン−マクマホン協定」。もう一つは1916年5月にイギリス・フランス・ロシアの間で戦後のオスマン・トルコ領分割とパレスチナの国際管理を決めた秘密協定「サイクス−ピコ協定」だ。「サイクス-ピコ協定」のほうは1917年11月に政権をとったロシアのボリシェヴィキ政権によって暴露され、イギリスの「二枚舌外交」が明らかとなったが、それと相前後して出された「バルフォア宣言」は二枚舌を通り越しての「三枚舌外交」というわけだ。

 今回オークションに出された「バルフォア宣言の手書きの草案」だが、バルフォア外相自身によるものではなく、当時イギリスのシオニズム運動の中心人物であったレオン=シモンが、1917年7月17日にロンドンのホテルで開かれたシオニスト政治委員会でホテルの紙に書き記したメモだという。そこには「HMG(His Majesty's Governmant=国王陛下の政府)はP(パレスチナ)がJP( Jewish People=ユダヤ人)の国家的居住地(Nat home)として再建されるという原則を認める…」という文言が記されていて、草案の送り先候補に当時軍需大臣だったウィンストン=チャーチル の名が挙がっていたという。この「草案」はほぼそのまま「バルフォア宣言」に反映しているが、イギリス政府は「原則を認める」を「好意的に見る」に、草案にはなかった非ユダヤ人のパレスチナ住民や他国に住むユダヤ人に配慮する文言を加えて、表現を多少マイルドにはしている。
 このバルフォア宣言を根拠に第一次大戦後からユダヤ人は次々とパレスチナに移住、第二次大戦のなか各地で迫害されたことも手伝ってユダヤ人のパレスチナ移住には拍車がかかり、1947年のパレスチナ分割案、翌年のイスラエル建国へと突き進む。で、その一方的な行動が現在に至る中東の不安定要因(ひいては「9.11」にもつながる)になっていったわけで…そう考えると確かに重大な「歴史文書」と言えるだろう。誰が買ったか知らないけど。


 もう一点、競売ネタを。こちらは文書ではなく「地図」である。
 ロンドンの競売会社クリスティーズが6月8日に1507年に印刷された古い世界地図のオークションをおこない、54万5000ポンド(約1億600万円)で落札された。こちらも落札者の詳細は不明だ。
 この世界地図はドイツの地理学者ヴァルトゼー=ミューラーが作成したもので、縦18センチ、横35センチという世界地図にしては小さなもの。しかしそれまで形が判然としてなかった「新大陸」を北と南の二つに分け、太平洋もちゃんと描きいれた最も古い世界地図とされる。さらに重大なのは、この地図で初めて「新大陸」の名前が「アメリカ」と明記されたことだ。

 インドめざして大西洋を突っ切っていったコロンブスが到達したカリブ海の島々をインド以東のアジアと誤解し(日本に着いたと考えたり中国皇帝への使節を派遣したりもした)、「西インド諸島」「インディオ」「インディアン」の語源となってしまったことは有名だが、この島々とその近くに見つかった大陸がアジアではなく、ヨーロッパ人には未知の「新大陸」だと主張したのがイタリア人の探検家アメリゴ=ヴェスプッチだった。ミューラーの地図はその説を受け入れ、「発見者」に敬意を表して大陸に「アメリカ」と命名し地図に書き込んだわけだ。その地図が出た前年の1506年にコロンブスは貧困のうちに世を去っており、死ぬまで自分が到達したのはアジアだと信じていたといわれる。だが、リドリー=スコット監督の映画「1492コロンブス」では晩年のコロンブスがアメリゴ=ヴェスプッチの説を知り、自分が「新大陸発見」をしてしまったのだと悟るラストになっていたっけ。4回も航海を行っているの薄々コロンブスも気がついていたんじゃないかという話はある。
 大陸の名前にはなり損ねたが、コロンブスの名前は南米の国「コロンビア」、さらには2年前に爆発しちゃったスペースシャトルの名前にはなっている。



◆6800年前の「神殿」?

 「ホンマかいな?」となぜか関西弁で首をかしげてしまったニュース。正直なところにわかには信じられない気分なんだが。

 イギリスの新聞インディペンデントが6月11日に大々的に「ヨーロッパ各地で“最古の神殿”が発見された」と報じた。なんとエジプトのピラミッドや、ストーンヘンジなど巨石文化よりもずっと古い、紀元前4800〜前4600年ごろの「神殿」遺跡だというから凄い。同紙は「欧州の先史時代研究に革命をもたらす発見」と位置づけているそうだが、これが確実な話だとすれば、確かにこれまでの歴史認識をひっくり返してしまうぐらいのインパクトがある。
 発掘にあたったのはドイツのザクセンアンハルト州の考古学局だそうで、ドイツ・オーストリア・チェコ・スロヴァキアといった中部ヨーロッパの広い範囲からその「神殿」遺跡が150個も見つかったのだという。150個…というのもまた考古学の発見としては異常とも思える数なんだが…

 記事によると(この報道はインディペンデントの独占スクープであり、世界中の報道も全てそれを引き写してるだけ) 、その「神殿」というのは木と土を円形に積み上げた原始的な構造になっており、それが壁や柵で囲ってあったという。「神殿」中心部の神聖な場所はどの遺跡でも0.3ヘクタールとほぼ同じ広さだったとか。また溝を掘って出た土の量もどの遺跡もほぼ同じ。150個全てにそうした共通点があるとすると、同じ文化を持つ民族がやたらにそういうのを各地に作っていたことになるのだが…。
 どの「神殿」も数世代、100年程度しか使われておらず、そうした神殿を作る動き全体も200年程度しか続かずその後パタリと止まってしまったと見られるという。これもかなり不思議なことだ。建造した人々は集団生活を行い、牛・羊・豚などの家畜を飼っていた…と記事にはあったがその根拠についてはよく分からない。

 この発掘を行った考古学局は2003年にも7000年前の「環状遺跡」を発見、ストーンサークルについて言われているように太陽の観測や祭事に使われたのではないかとする見解を出していたという。
 まぁ日本の縄文時代の三内丸山遺跡だって5000年ぐらい前の遺跡で「神殿」みたいな遺構があるし、7000年前の新石器時代段階でそのぐらいの宗教施設は作る可能性はあるだろう。ただ発見のされ方、報道のされ方にどうもひっかかりを感じてしまう(そもそもエジプトのピラミッドよりウン年古い…という表現はセンセーショナルを狙いすぎ)。またこれら多くの遺跡を残した人々が短期間でその活動を止め、いずこかへ去っていってしまってるらしいのも気になるところだ。
 ともあれ、この話は続報と検証がないとなんとも言えませんな。「秩父原人の住居跡」みたいなことにならなきゃいいんだが。



◆究極の一手?

 いえね、先日ふと思いついたんですけどね。靖国神社をバチカン市国みたいに「独立」させちゃったらいいんじゃないかと。もちろん国名は「靖国」 (笑)。バチカン市国だってそんな経緯で出来ちゃったような「国家」なんだし、宗教施設オンリーの国家として分離独立しちゃえば、そのおかげで日本は「政教分離」がキチンと出来る。もし靖国を独立国家にすれば国土面積ではバチカンを下回るので「世界一」になることだって可能だ(ちゃんと敷地面積調べました、念のため)!志願者を募って独自に「国防」をしちゃってもいいぞ。もちろん名前は「靖国自衛隊」だ!タイムスリップでもなんでもしてください。
 とまぁ、冗談も叩きたくなるぐらい、靖国問題ははっきり言って袋小路状態になっている。日本政府・与党もつまるところ本質的論議はせずに嵐が過ぎ去るのを待っている、って観がありありだ。小泉首相はといえば「不戦の誓いをするため参拝する」 と言い張るばかりだが、それでいてアメリカにくっついて「戦場」に自衛隊送ったりしてるから信用されないわけなんだが。千鳥ヶ淵や硫黄島に行って戦没者に追悼をするのは大いに結構と思ってるんだけど、どうしても「靖国参拝のための布石」に見えちゃうところがあるんだよなぁ。


 ところでその何かと話題の靖国神社で、先日(6月14日)なかなか興味深い騒ぎがあった。太平洋戦争で徴兵されて戦死し、靖国神社に祀られている台湾先住民兵士たちの遺族ら約60人が、歌や踊りで家族や仲間の魂を呼び戻す儀式「還我祖霊」を靖国神社の境内で行おうとしたのだ。事前に知って妨害に来た右翼団体(それこそ靖国自衛隊?)とにらみ合いになり、万一の事態を恐れた神社側と協議した警察の指導で「撤退」を余儀なくされたが、この行動に加わっていた先住民のひとつタイヤル族の出身の国会議員である高・金素梅(チワスアリ)さんは「祖先の霊を私たち民族の方法で葬りたい。魂を靖国神社から解放したい。きょう足止めをくらっても私たちは必ずまたくる」と語っていたという(朝日新聞記事より)
 
 歴史の確認だが、台湾にはもともと漢民族が来る以前からオーストロネシア系の各種少数民族(日本ではかつて台湾を「高砂」と呼んでいたことから彼らを「高砂族」と呼んでいた)が居住していた。その台湾へ福建方面の漢民族(もっとも「漢民族」と言っても彼らの使う福建語は「方言」なんてもんじゃないぐらい違う言語だ)が移住してきたのは15〜16世紀、明代のことであったと言われる。僕が専門に研究している「後期倭寇」も台湾とは縁があり、それを構成していた中国人海賊もしばしば台湾に拠点を置いていた。その中国人海賊の流れを汲む日中ハーフの鄭成功が17世紀にオランダからこの台湾を奪取するのもそういう歴史を背景にしているわけだけど、先住民達にしてみればオランダも鄭成功もおんなじようなものだったかも。
 鄭成功の子孫による鄭氏台湾は1683年に清朝に降伏し、台湾はひとまず清朝の領土となる。しばし時間が飛んで1874年に琉球(現沖縄)の帰属をめぐって日本と清が揉める中、琉球の宮古島住民が台湾に漂着して台湾先住民に殺害される事件が発生し、日本は台湾に出兵を行ったりしている。その後日清戦争(1894)で日本が勝利し、下関条約で台湾は日本に割譲され、日本が太平洋戦争に敗北する1945年までおよそ半世紀にわたって台湾は日本領であり続けたわけだ。
 日本の台湾総督府は台湾先住民に対し「理蕃政策」と呼ばれる駐在警察官を通した統治政策を進めている。だが1930年に「霧社事件」と呼ばれるタイヤル族の大規模蜂起が起こり、それ以後は彼らを「高砂族」と呼んで野蛮人扱いを改め、むしろ日本人同化を目指す皇民化教育がほどこされていくようになる。この霧社事件の際に日本側についた「高砂族」の戦いぶりにヒントを得たのか太平洋戦争時には「高砂義勇軍隊」なる志願兵部隊が組織され、南方戦線に投入されて多くの戦死者を出した。当然そうした戦死者も靖国神社に自動的に合祀されてるわけで、それが今回の騒ぎにつながっている次第。

 もちろんこの手の話はなかなか単純でないわけで…今回の魂呼び戻しの儀式を行おうとした先住民達は小泉首相の靖国参拝で精神的苦痛を受けたとして日本政府に損害賠償を要求する裁判を起こしており、靖国神社に対しても合祀から外すことを要求している(神社はA級戦犯の場合と同じで神道としてはいったん合祀したものは分けられないとして拒絶している) 。その一方で「高砂義勇隊」の遺族などで靖国神社に参拝する先住民も確かに存在する。それぞれに日本の右や左の団体さまとの関わりで動いているところも無きにしも非ずで、「靖国」ってのが結局政治的な意思表明の場になってきちゃってることを改めて思い知らされる。ちょっと前にも台湾独立系の政治家たちが靖国参拝をしたのもあからさまに政治的アピールに見えたし。
 靖国に「英霊」なるものがホントに存在していて周囲の様子が聞こえたりしたらつくづく迷惑に思ってるんじゃないかなぁ。前回の記事で出てきたように「英霊が静かに休まることが一番大事」なはずなんだけど、その発言も当初報じられた「遺族会見解」というよりもやっぱり古賀誠会長個人の政治的意向が強くはたらいたものであるものが明らかにされ、かなりトーンダウンしましたがね。


 前の回で1970年代後半から「靖国」が政治的性格を強め、昭和天皇が以後参拝しなくなるという話を書いたが、国会での答弁用に政府は6月14日の閣議で昭和天皇の靖国参拝について「私人の立場でなされた」 とする見解を決定した。その記事で確認したが、昭和天皇の靖国参拝は戦後8回行われており、1975年11月21日が最後の参拝だった。「A級戦犯合祀」が行われたのは1978年だからやはりこれが引っかかりになっていたのは確かだろう。まぁ昭和天皇個人が「A級戦犯」についてどう考えてそうしたのかは微妙だが…「A級戦犯」たちって昭和天皇の代わりに「いけにえ」にされた面もあるわけで。中曽根康弘首相(当時)が総理大臣として公式参拝を行った際に昭和天皇が代わりをつとめてくれたことを褒めた、という話を聞くのだが、それだってどういうニュアンスなのか取りようによってはいろいろに取れる。
 そんな折、アメリカの公文書の中で昭和天皇が戦後史の節目節目でアメリカの外交官や軍人を相手に様々な「政治的発言」をした証拠が出てきた、という報道があった(6月1日付朝日新聞) 。全部英文だそうで昭和天皇がどういう日本語を使ったのかは不明だそうだが、朝鮮戦争、キューバ危機、ニクソン訪中といった情勢の中で常にアメリカとアメリカ軍に強い信頼…というか依存感を寄せ、彼らが日本から出て行ってしまうことに強い警戒感を持っていたことをうかがわせる内容だ。そりゃまぁ昭和天皇は立場から言って共産主義に強い恐怖を抱いていただろう(ロシア革命や中国革命でそれぞれの皇室がどうなったかリアルタイムで見てるだけに)。アメリカが日本を「裏切る」形で中国と接近した時にアメリカの駐日大使から「米政府はアジアの平和にとって日米関係ほど重要なものはないと考えている」と言われて「目に見えて感動し、感謝の意を表した」なんて記録はなかなか興味深い。キューバ危機直後の園遊会で在日米軍司令官にキューバ危機の平和的解決を称えた上で「世界平和のために米国がその力を使い続けることを希望する」なんて今の米国大統領が聞いたら大喜びしそうなコメントをしていたという話などには、それこそその米国と戦って死んだ多くの靖国の英霊達が化けて出ませんか、と思ったりして。まぁ戦後日本の「歪み」は天皇自身にも体現されていたということかもしれない。

 昭和天皇といえば…やや旧聞に属するが、5月8日のTV番組で民主党の菅直人元代表が「日本自身が、日本の負ける戦争をやった責任を何一つ問わなかった。天皇陛下は退位されたほうがよかった」「明治憲法下で基本的には天皇機関説的に動いていたから直接的な政治責任はない。しかし象徴的にはある。一つのけじめを政治的にも象徴的にもつけるべきだったと発言する、という「事件」があった。僕も以前から思っていたことであり、いたって自然な見方だと思うんだけど(戦中派である脚本家・笠原和夫なんかは晩年に「退位はもちろん、切腹してほしかった」とまで語っている。映画「大日本帝国」はそれをふまえて観ること) 、日本ではこれまで政治家レベルでこの手の発言をすると大騒ぎになるところもあったのだ。「象徴的」とはいえ昭和天皇の「責任」を問うのはうっかりすると殺されかねないぐらいの勇気が要る、という感覚がどこかにあった。昭和天皇の死から間もない1990年、「昭和天皇に戦争責任はあった」と発言したために本島等・長崎市長が右翼に銃撃され重傷を負うというテロ事件が実際にあったからだ。
 このTVでの発言はわりと大きく報じられ、僕はちょっとした騒ぎになるのではないかと注目していた。だが、この菅発言については民主党の岡田克也 代表がフォローのように同意を示した程度で、右翼はおろか与党側からの反論・批判はほとんど聞こえてこず、あっさりとスルーされた観があった。なんでだろう、と考えたんだけど、歴史問題であれこれ揺れているこのさなかに天皇に話が及ぶと厄介な事になる、という判断が右派系の人たちに働いたのではなかろうか。ま、そういう事なかれな調子でこれまで「けじめ」をつけてこなかったツケがいろいろと出てるわけですな。


 重い話題になってきたので、最後にちょこっとお笑いネタ。
 上海の新聞・青年報が17日付で報じたところによると、中国広州市内の幼稚園で園児達を迎えて毎朝流している曲が、なんと旧日本海軍の「軍艦マーチ」だったことが判明、ネット上で批判書き込みがあったりお年寄りからの抗議があったりで地元の教育局があわてて演奏をやめさせるという騒ぎがあったんだそうな。
 記事のよれば、あの一昔前のパチンコ屋ではおなじみだった威勢のいい曲は園児たちには「聴いていて、とても気持ちいい」と好評を得ていたそうで(うん、確かに妙に気分が高揚してくるんだよね〜血が騒ぐというか(笑))、取材に対し保護者の一人は「旧日本軍の曲を聴いたからといって、子どもに悪い影響を与えるわけでもあるまい」と至極まっとうな答えをしていたそうで(パチンコの曲として覚えると教育的には悪い影響があるかもしれませんが(笑))


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