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2005年7月10日

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◆今週の記事


◆41年目と61年目と

 このコーナーでも振り返ってみると、ある事件についてウン十年目にしてやっと判決が出た、という話題は何度かあった。そういうのはたいてい事件が起きた当時は諸般の事情で「事件」として扱われない、あるいは今の観点からすれば不当な判決が出て、それが今になって見直される、というパターンだ。そういった判決ニュースが6月下旬に二つ続いた。


 ひとつは6月23日にアメリカはミシシッピ州の裁判所で出された判決だ。1964年、つまり今から41年前に同州ナショバ郡で発生した殺人事件についての裁判で、主犯とされた現在80歳の男性に対し、禁固60年の判決が出されたのだ。この事件で殺害されたのは三人で、一人につき20年の量刑で合計60年の禁固というわけ。むろんこの老人がその刑期をつとめおおせるとは誰も思っていないだろうが…。
 この主犯格の老人、エドガー=レイ=キレン被告はプロテスタント・バプテスト派の元伝道師であり、アメリカ南部における白人至上主義の秘密結社として悪名高い「KKK(クー・クラックス・クラン)」のメンバーでもあった。そして彼が1964年に起こした事件というのが、同郡で黒人有権者登録活動をしていた公民権運動家の若者3名(ニューヨークから来た白人二人と地元の黒人一人)を彼自身を含むKKKメンバーがひそかに殺害、死体も埋めて隠したというものだ。公民権運動のさなか象徴的な事件として注目され(被害者が白人であったことも注目を浴びた理由ではある)、のちにアラン=パーカー監督、ジーン=ハックマン主演の映画「ミシシッピー・バーニング」(1988)の題材となった。実際、今度の判決の報道も「『ミシシッピー・バーニング』の事件に判決」といった見出しが目立った。

 そこで、と僕はまず未見だったこの映画「ミシシッピー・バーニング」を見てみることにした。揃えのいい大型レンタル店でビデオを借り出してきたが、いやぁテープが古いこと。そのせいかどうか断言は出来ないが、再生中にビデオデッキのヘッドが汚れたらしくしばしば再生不能状態に陥るようになってしまった。呪いのビデオなのか、もしかして。
 冗談はさておき、映画自体は非常に良く作られた社会派娯楽サスペンスといったところ。実話をベースにはしているが、やはり差し支えがいろいろあるため犯人像も含めてフィクション部分も多い。そもそも主役が「フレンチ・コネクション」のジーン=ハックマン演じるFBI捜査官であるから、映画は後半になるとハックマン演じる捜査官が違法スレスレ(いや、はっきり言って反則)の強行捜査で証拠を集め、犯人グループの検挙に成功するというハリウッド刑事映画らしい展開を見せていく。まぁそういう展開にでもしないと映画としては救いがない話だったということなんだろうが…。映画はラストに「1964年忘れまじ」と彫られた記念碑が半分壊されているカットで実際の事件との関係をほのめかし、クレジットタイトルの最後に「この映画は事実に取材しているが犯人などは架空のものである」という断り書きが表示されている。

 それでもこの映画、そのオープニングで描かれる殺人事件の過程の描写はかなり事実に忠実だ。1964年の6月21日、黒人参政権実現を目指して黒人の有権者登録を募る「自由の夏」運動のためニューヨークからナショバ郡にやって来ていた白人青年二人(24歳と21歳)と地元の黒人青年(21歳)の三人は黒人教会放火事件の現場へ自動車で急行中、「スピード違反」の容疑で警察に逮捕されてしまう。そのまま同郡の刑務所に一時収監され、夜になって釈放され車で走り出したところを待ち受けていたKKKのメンバーが2台の車に分乗して追跡、三人を車から引きずり出して銃で殺害した(映画でははっきりと示されているがこの経緯からは地元警察自体が犯人とグルであったとしか思えない)。当初三人は「失踪」という扱いでFBIの捜査が始まったが、44日後にようやく土手の地下5mのところにブルドーザーで埋められていた三人の遺体が発見された。映画ではこの遺体発見まで地元住民達が「事件そのものがよそ者の公民権運動家(ユダヤ人、共産主義者等とゴチャマゼにされている)による宣伝のためのでっちあげ」と言い立てる描写があるが、恐らく実際にそういう声もあったのだろう。

 事件そのものはこうして発覚し、キレン被告はじめ容疑者たちの名も浮かんだが、地元警察や州政府はこれを立件する気すらなく、連邦法でも当時は殺人罪の規定がなかったため連邦政府もこれを訴追できなかった(念のため確認しておくと、アメリカは「連邦国家」であり、州ごとの独立性は「国」なみに高く法律も異なる)。3年後の1967年にようや連邦政府がく「公民権侵害」の罪で18名の容疑者を起訴したが、有罪とされたのは7人にとどまったし刑期も6年以下どまり。指導的立場にあったとされるキレン被告については陪審員の一人が「伝道師を有罪にすることはできない」と主張したため評決不一致でお流れ、罪に問われず釈放されるという結果になっていたのだ。
 それにしても宗教者ともあろうものが…とつい思ってしまうところだが、実のところKKK自体発生の背景に宗教結社的なものを持っている(KKKの発生の心理については有名な古典無声映画「國民の創生」が分かりやすい。その発生を「肯定的」に描いているだけに…) 。映画でも出てくるが、炎の十字架なんか使ってるし、「聖書でも人種差別は肯定されている」と教会で説教したりもしていたそうで、そう考えれば伝道師自ら殺人の指揮をとったのも不自然ではなかろう。だいたい過去の歴史を振り返れば、宗教の正義の美名の下に多くの残虐行為が平然と行われたりしたものだ。

 この手の話には時効というものはないのか、事件から30年以上経ってから地元紙が元KKKメンバーの証言を報道し、これがきっかけとなって1999年に捜査が再開されて新証拠や新証人が出そろい、今年一月に大陪審が正式に起訴していた。検察側はキレン被告が被害者三人を追跡する集団を組織したとして「謀殺」の罪に問うたが、陪審は「謀議の証明が困難」として謀殺より軽い「故殺」(計画性の無い殺人)で有罪という評決を下した。なお陪審員は白人9人、黒人3人の構成だったという。40年前は当然全員白人だったんだろうから、ここにも時代の流れを感じもする。
 判決について白人青年の遺族の一人が、「この事件は公民権運動家の白人が被害者に混じっていたから注目を浴びたが、それ以外にもKKK等の犠牲者は多くいるはずだ」とコメントしていたが、まさにその通り。昨年の「史点」2004年5月16日付で取り上げた黒人少年惨殺事件も半世紀を経た今になって再捜査が開始されている。これもミシシッピ州なんだよなぁ…。


 もう一件の判決はイタリアから。なんと61年前の1944年8月に同国中部のトスカナ地方で起こった殺人事件についての裁判だ。いや「殺人事件」なんて言葉では生ぬるい。なんせ被害者は560人にも及び、「虐殺」と呼ぶほうがふさわしい事件なのだ。
 1944年8月12日の夜明け、トスカナ州サンタンナ・ディスタッツェーマ村を反ナチパルチザンの掃討作戦をしていたナチス・ドイツの親衛隊数百名が包囲襲撃、銃撃や手投げ弾による攻撃で560人の村民(多くが女性や子ども、老人であったという) をまさに皆殺しにしてしまった。どうしてそんなことになってしまったのか詳細は知らないが、戦争中、とくにゲリラ掃討作戦をしている際にはどこの国の軍隊でも起こしがちな事件ではある。戦後にアメリカ軍がこの事件を戦争犯罪として調査したものの追及は不十分に終わっていた。
 事件から半世紀が経った1994年に、別件を捜査していた検察官が偶然この事件の証言・捜査記録を収めた保管棚を発見し、10年後の2004年4月からこの事件を起こした親衛隊に属し今も生存している10名のドイツ人に対する裁判が始められていた。昨年8月に催された事件から60周年の記念式典にはドイツのシリー内相も出席し、「44年8月12日は我が国にとって恥ずべき日だ」と述べドイツ国民を代表して謝罪コメントを出してもいる。

 6月22日、イタリアの軍事裁判所は訴えられた元親衛隊員10名に対し「計画的殺人罪」により検察の求刑どおり全員に「終身刑」の判決を言い渡した。もっともこの事件についてはドイツ側でも独自に調査し法的措置をとる動きもあるので、被告ら(当然全員80歳を過ぎている)の身柄がイタリア側に引き渡されることはないと言われている。また裁判で被告人弁護士らは「パルチザン掃討作戦に参加中で、絶対服従を義務づけられ、命令に反すれば殺されると脅されていた」と主張しており判決理由次第では控訴も検討しているという。
 その存命の十名が親衛隊内でどういう立場の人間であったかは知らないが、軍隊の中で誰かの指揮下で動いている以上、兵士個々人の責任を問うのは難しいのではないか…とは思う。この裁判も80過ぎの老人達を締め上げるためというよりも事件そのものの風化を防ぐという意味合いが強いのだろう。「終身刑」との判決が出たとき事件の生存者や遺族たちは「正義が勝った」と拍手し、泣いて抱き合ったと報じられている。



◆いらんことを騒ぎおって

 6月24日、イラン大統領選挙の決選投票が行われ、テヘラン市長のマフード=アフマディネジャド氏(48歳)が前大統領のラフサンジャニ 最高評議会議長(70歳)を破り、次期大統領に決定した。この大統領選、第一回投票ではラフサンジャニ候補が第一位でアフマディネジャド氏は二位につけ、当初は穏健派で前大統領でもあるラフサンジャニ氏の勝利を予想する声も多かったが、フタを開けてみれば6:3でアフマディネジャド氏の得票が多いという圧勝状態だった。
 もっともイランの大統領選については保守派による選挙妨害が多くあると指摘されており(イランの国営放送でもその目撃情報が放送されている) 、保守強硬派と言われるアフマディネジャド氏の圧勝という結果には若干の胡散臭さがつきまとうのも無理からぬところではある。イラン・イスラム革命以後激しい対立を続け、最近でも「悪の枢軸」の一国に数えて核開発疑惑などで厳しい態度を取り続けるアメリカ政府は予想通りこの選挙自体を「非民主的」と非難し、イランが穏健派のハタミ現大統領の政権から保守強硬路線に揺れ戻すのを強く警戒している。イランの両隣、アフガニスタンとイラクで政権を倒してまだドンパチやってる状態なんだけど、あのブッシュ政権のこと、ついでとばかりにイランに手を出す可能性だって捨てきれない。

 さてそんなアメリカだからなのか…このイラン次期大統領についてある疑惑が持ち上がり、アメリカ国内だけでえらい騒ぎになってしまっていた。このアフマディネジャド氏が1979年にイランの首都テヘランで起こった「アメリカ大使館占拠事件」の指導者の一人ではなかったか、という疑惑なのだ。
 1979年1月、アメリカと強く結びついて上からの近代化政策を推し進め、その結果かえってイラン国内の矛盾を拡大した国王パフレヴィー2世が反対派を抑えきれず国外へ逃亡。2月にこれと入れ代わるようにシーア派宗教指導者のホメイニ師が亡命先のパリから帰国し、3月に原理主義的なイスラム国家を目指す「イラン・イスラム共和国」が成立する。ホメイニは激しい反米姿勢を掲げ、アメリカもまたホメイニのイランを激しく非難、これが11月の「アメリカ大使館占拠事件」につながっていく。
 この占拠事件はホメイニを強く支持する学生ら数百人によって引き起こされ、大使館にいたアメリカ人52人を人質にし、アメリカによる内政干渉の停止と前国王とその資産の引渡しを要求した。アメリカはこれを拒絶した上に翌年4月に特殊部隊による救出作戦を敢行したが、これは無残な失敗に終わり、当時のカーター米大統領(基本的には平和外交を掲げる穏健派だった)はこの失敗のために再選を阻止されたと言われる。この年の9月にフセイン大統領率いる隣国イラクがイランに侵攻して「イラン・イラク戦争」が開始されるが、これをそそのかしたのが当時はフセインと仲良しだったアメリカであったというのはもはや公然の秘密と言っていいだろう。その後の歴史の展開を考えるとそのマッチポンプぶりに呆れるしかないわけだが。
 アメリカ大使館の人質問題はアルジェリアの仲介で1981年1月にようやく解放にこぎつけ、事件自体は444日目にして解決した。しかし今に至るまでイランとアメリカは断交したままで、アメリカにとってはこの占拠事件は現代史における屈辱的事件として鮮明に記憶されることになる。

 今回、アフマディネジャド氏の大統領当選のニュースが流れると、このとき人質になっていたアメリカ人の間から「この男は占拠事件のときに実行犯の一人として参加していた」 との証言が次々と飛び出し、米マスコミをにぎわした。残忍な尋問を行っていてよく顔を覚えているから間違いない、という証言とか、当時の写真に写る一人の若者がそうではないかと現在の写真と比較したりとか、様々な報道が出ているようだ。この騒ぎにホワイトハウスの報道官までが「調査に乗り出す」と表明したほど。
 だが写真自体それほど決定的に似ているとは思えないし(僕が見たものでは輪郭やヒゲが似てるけど目と眉の位置が明白に違うように思えた)、なにせ四半世紀も前の話で記憶も怪しい。元人質の間からも「顔も名前も記憶に無い」と否定的な声も上がっている。

 一方のイランではこの疑惑報道については「話にならん」という声が大勢のようだ。アフマディネジャド氏の側近は「彼は当時、反共産主義運動に焦点を絞っており、アメリカ大使館占拠には反対だった」と関与を否定しているというし(ソ連大使館占拠計画に参加していたとの噂はある)、元イラン情報部幹部もアメリカで「似た人物」と写真で指摘された人物について「別人で、その後反体制派に転じて獄中で自殺した」と語っているという。
 そもそも当時実際に占拠事件で指揮をとった元学生たちが彼の関与を否定している。大半のアメリカ人は理解してない気がするが、このアメリカ大使館占拠事件に参加した人々は多くがその後のイランで「改革派」の人脈に連なりハタミ政権を支えた側面があり、アフマディネジャド氏のような保守強硬派は彼らにとってはむしろ敵対勢力になるのだ。以前TVで見たことがあるのだが、このときアメリカ大使館を占拠した人々はアメリカの若者たちのベトナム反戦運動などへの強いシンパシーがあり(その面においてはアメリカびいきだった)、事件を起こせばアメリカ国内で呼応する動きが出るのではと思っていたフシがある。結果は全くヤブヘビだったわけだけど…。
 そういうこともあって、今度の騒動はイランの保守派を牽制する、あるいはアメリカ国内の世論を反イランに誘導するためにブッシュ政権が仕掛けたものなんじゃないか…?という憶測も呼んでしまっているようだ。

 さらにオーストリアからもアフマディネジャド氏に関する新たな「疑惑」が報じられている。1989年7月にウィーンでイラン反体制派のクルド人指導者3人(うち一人はプラハで大学教授をしていた)が暗殺されるという事件が起こっているのだが、この事件の数日前にアフマディネジャド氏はウィーンに滞在しており、イラン大使館から犯行グループに武器を引き渡す役割を演じた…と同国の「緑の党」の政治家ビルツ氏が証言しているという。この話もどれほど具体性のあるものなのか分からないが、とりあえず同国内務省報道官はビルツ氏の告発を検察庁に送付して調査中とは発表している。


 かなり不穏な空気も漂うアメリカとイランの関係だが、CNNサイトの「こぼれ話」コーナーに妙な話題が載っていた。
 イランの国会議員ショクロラ=アッタルザデ氏が自信たっぷりにISNA通信に語ったところによると、アメリカのライス 国務長官は実は大学時代にイランから来た男子大学生に恋したが失恋し、その逆恨みからイランに厳しく当たるようになっちゃったんだとか。アッタルザデ氏はこの事実はイランの女性議員の調査で判明したというばかりで証拠は示さず、どうもいい加減なヨタ話であるようなのだが、イランではこの手の外交問題を原因に男女の恋愛沙汰をもってくる噂がよく流れるのだそうで。



◆政治と宗教と

 6月27日付東京新聞のワシントン発の記事にちょっと目を引く話題があった。「セミヌード像復活 米司法省」なんて見出しはどうしても目を引くだろう(笑)。
 
 アメリカの司法省大ホールには「司法の精神」と名付けられた女性像と「法の威厳」と名付けられた男性像のアルミ製で高さ3.6mもある二体の彫像が飾られているそうで。いずれもアメリカの彫刻家ポール=ジェニーウェイン の作で、1936年に現在の司法省庁舎が完成したときから「司法の象徴」として飾られているという。この大ホールは記者会見や大きな行事で使われる、いわば司法省の「顔」であるわけだが、そこに置かれたこの二体の男女像について以前から議論が無くも無かった。この男女像、いずれも服をちゃんと着ていない、「セミヌード」状態であったからだ(笑)。男性像は腰に布を巻いているだけで上半身は裸。両手を高々と挙げた姿勢の女性像も服を着ていて着てないようなもので(古代ローマでおなじみのトーガをひっかけている)、右側の乳房がポロリ…いや、実に堂々とさらけだしている。1986年に当時の司法長官がこの大ホールでポルノ写真取り締まりについての報告をした折にも「あんたの後ろにもポルノがあるじゃないか」という感じで議論が巻き起こったことがあるそうで。

セミヌード  2002年1月、ブッシュ政権第一期の司法長官をつとめたアシュクロフト氏はいきなりこの「司法の精神」像を紺のカーテンで覆い隠してしまうという挙に出た。理由の説明は全く無かったが、アシュクロフト長官が超保守派の清教徒(ブッシュ政権の支持基盤でもある) であるため記者会見のたびにこのセミヌード像と一緒に映らねばならないのが気に入らなかったのではないかとは推測されている。まぁ個人の気持ちの問題だからそれもアリかと思わなくも無いが、このカーテンのために8000ドルの予算が使われていたと聞くと「おいおい」と言いたくもなる。
 それが今年の6月末になって、またも詳しい説明も無くカーテンが取り払われ、「司法の精神」像は再び公の場に姿を現すことになったんだそうな。司法省の報道官はコーツ司法次官補の提言に、ゴンザレス長官が同意した結果」とだけ説明しているという。ゴンザレス現司法長官がヌードに寛大なのかどうかは定かではないが(笑)。


 同じころ、やはりアメリカで司法と宗教の関係に関する司法判断がほぼ同時に2つ出た。いずれも争点は「公共施設に“モーセの十戒”の石版を置くのは政教分離の原則に反しないのか」という問題だった。
 「モーセの十戒」とは旧約聖書の「出エジプト記」に出てくるもので、ヘブライ人を率いてエジプトを脱出したモーセ がシナイ山の山頂で神から与えられた律法だ。「ヤハウェの他に神は無し」「偶像崇拝の禁止」「神の名をいたずらに唱えない」「安息日を守る」「父母を敬う」「殺人の禁止」「姦淫の禁止」「窃盗の禁止」「偽証の禁止」「他人のものをむさぼることの禁止」の10の項目からなる。聖書によると神が十戒を刻んだ石版をかついでモーセはシナイ山を降りたが、彼の留守中にヘブライ人たちは黄金の牛の偶像を崇めて祭りをしており、怒ったモーセはその石版を投げて破壊してしまっている。その後改めて神から石版を与えられ、それがその後映画「レイダース」でおなじみの「聖櫃(アーク)」に入れられヘブライ人たちの精神的支柱となり、やがて発生するユダヤ教の根幹を為すものともなった。そのユダヤ教から派生したキリスト教やイスラム教でも基本的に「十戒」は受け継がれている。まぁ神関係の項目以外は世界のどこの文化でも社会秩序維持のために設けられているいたって常識的な禁止事項ばかりなんだが。

 この「十戒」を刻んだ石版を公共施設に置こうとする動きがキリスト教保守派を中心にアメリカでは盛んなようだ。以前にも学校に置くことを認めるという法案が連邦議会を通った、という話題を「史点」1999年7月4日付で書いたこともある。「十戒を置けばみんな良くなる」というその単純な発想には笑っちゃうしかないのだが(日本だと教育勅語で似たようなことを言ってる人たちがいますな)、そうした動きに対して「政教分離の原則に触れる」「信教の自由を侵している」として撤去を求める訴訟も起こされているわけだ。先日はそうした裁判のなかでテキサス州とケンタッキー州のケースについて連邦裁判所の判決が下された。
 テキサス州のケースでは州の庁舎の敷地内に「十戒の石版」が置かれていた。しかしこの石版は1961年の映画「十戒」(チャールトン=ヘストン主演、セシル=B=デミル監督の有名な超大作) の宣伝用に作られ宣伝団体から寄付されたものであったそうで、判決では「宗教性が薄い」として政教分離原則には抵触せず撤去の必要なしと認めた。その一方、ケンタッキー州のケースでは法廷内にこの「石版」が置かれており、これについては明白に宗教性があるとして「違憲」との判断が下されている。
 この裁判には設置賛成派と設置反対派の弁護団が激しく対立していたが、「一勝一敗」の判決にどちらも「主張が認められた」とコメントしているようだ。もっともテキサス州のケースはあくまで宣伝用アイテムとの判断であるわけで、設置賛成派が喜ぶほどの内容ではない気がするのだけど…。


 さて話はイタリアに飛ぶ。6月24日、先ごろ就任したばかりの新ローマ法王ベネディクト16世がイタリアのチャンピ大統領を公式訪問した。イタリアは実質的政治権力は首相にあるが、形式的元首として任期7年の大統領が存在している(ドイツもこのパターン)。一方のローマ法王はそのイタリアの首都の一地区ながらレッキとした独立国「バチカン市国」の元首であるわけで、隣国(?)の元首同士が直接顔を会わせた事になる。しかし小さいとはいえ、大半が保守的なカトリック教徒であるイタリア国民にバチカンが与える影響力は絶大だ。
 実はこの直前にバチカンとイタリアの間で「内政干渉」問題が起こっていた。イタリアではこの6月、不妊治療法改正の是非を問う国民投票が実施されたのだが、人工受精や中絶、同性結婚など生命倫理関係では強硬保守のバチカン法王庁が棄権を呼びかけ(前任者のヨハネ=パウロ2世もそうだったが、その側近の現法王も超保守派とされる)、結局投票率が低すぎたために投票自体が無効とされてしまうという一幕があったのだ。バチカンはカトリックの総本山とはいえ、世俗国家であるイタリアの内政に口を出すのは許されるのか、という議論が起こったのも無理はない。
 そもそも「バチカン市国」が成立したのは1929年に当時のムッソリーニ率いるファシスト政権とバチカンが交わした「ラテラン条約」 による。1870年にイタリア統一事業の過程でヴァチカン教皇領がイタリア王国内に併合されて以来、ローマ法王はイタリア王国そのものを認めず対立を続けていたが、この時の条約でイタリアはバチカンを宗教的主権国家として認め、バチカンも世俗国家としてのイタリア王国を認めるという合意がなされた。以来、両者は微妙な共存関係を続けているわけだが、時おりこうしてその対立が表面化することがあるようだ。

 会見後、チャンピ大統領は演説で「国家とカトリック教会はそれぞれの秩序に従い独立し、主権を持つ」とする憲法条項を引用して「個人の信仰と法治国家社会の間に一線を引くことが必要」と述べ、バチカンの「干渉」に釘を刺した。しかしその直後に演説したベネディクト16世は「国家の世俗性は健全なものだが、倫理面で宗教の基準を仰ぐことを除外すべきではない」と述べ、結婚と家族の重要性や、生命倫理の尊重などを「国家が避けられない課題」と訴えてやり返したそうだ。



◆ゆきゆきて、慰霊旅

 第二次大戦終結から60周年…ということで毎度先の大戦がらみの話題を書いているのだが、そんな中に報じられた奥崎謙三氏(85歳)の訃報には改めて「戦後60年」の重みに思いを馳せざるを得なかった。5月に起きた「ミンダナオ島の旧日本兵」の騒ぎとあわせて実に象徴的だ。

 奥崎謙三氏といえばなんといってもドキュメンタリー映画の傑作として知られる「ゆきゆきて、神軍」(1987年、原一男監督)の“主役”として有名だ。「華氏911」で話題になったマイケル=ムーアも影響を受けたらしいと言われる有名作なのだが、僕はいまだに見てなかったので、レンタル店に出かけて借り出してきた(上記の「ミシシッピー・バーニング」と一緒に)
 映画は冒頭から奥崎謙三(撮影当時61歳)氏の奇矯な行動を映し出していく。自宅のガレージや一見右翼風の街宣車には「人類を啓蒙する手段として田中角栄を殺す為に記す」と自著のタイトルがデカデカと書かれ、「宇宙人の聖書」だの「神軍」だの電波系としか思えない文字がビッシリと書き連ねられている。その中には戦争の責任をとろうとしない昭和天皇(もちろん当時は存命で、奥崎氏は「天皇裕仁」と呼んでいる)に対する怨念も記されており、実際に奥崎氏はこの映画撮影より前の1969年の正月一般参賀の折に昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射したり(当たったわけではないが暴行罪で1年6ヶ月の懲役刑になった)、1976年には天皇一家をコラージュしたポルノビラをデパートの上からバラまいたりしている(猥褻図画頒布罪でまた一年2ヶ月の懲役刑に服した)
 ま、はっきり言ってしまうと「狂人」以外の何者でもないと思えるのだが、僕はこの映画を見ていて黒澤明監督の映画「生きものの記録」を思い出していた。三船敏郎演じるエネルギッシュな老人が核戦争の恐怖におびえ次第に発狂していく物語だが、そこにある「狂っているのは果たして彼なのか、我々なのか」というテーマが「ゆきゆきて、神軍」にも通じるな、と感じられたのだ。

 奥崎氏は太平洋戦争時、ニューギニアへ出征し悲惨な戦場(戦闘よりも飢え・疫病による死者が多い) で辛酸を嘗め尽くしており、戦地で死んだ戦友たちの墓参りをし、遺族に声を掛けて回っている真摯な様子が映画でも描かれている。戦友の墓に奥崎氏が作った慰霊柱を立てるのだが、そこには「怨霊を慰める」の文字が。戦地で死んだ兵士たちの「英霊」なるものが実際にあるとすれば、それは間違いなく「怨霊」になってるんじゃなかろうか…と僕も思っていたところで、そうした戦友たちの死に強い悲しみと憤りをいだく奥崎氏の気持ちというのは理解できるところではあった。奥崎氏の憤りは当時の上官や戦争指導者、そしてその頂点にある昭和天皇へと向けられていくが、こうした追及姿勢が戦後の日本には欠けていたんじゃないかと思い知らされる。そこで彼がやっちゃう行動がいずれも過激で奇矯なのが問題ではあるのだけれど。

 映画のメインとなるのは奥崎氏が所属していた部隊で終戦後になって数名の兵士が上官の命令で「処刑」され、「戦傷死」として片付けられていた事件を、その兵士の遺族と奥崎氏が関係者を次々と探し出して追及していく過程だ。どうもその事件の背後には「人肉食」の問題が絡んでいるのではないか…という展開なのだがハッキリとした結論は映画の中では出ない(僕の祖父もビルマ戦線で同様の体験をしたらしいので他人事ではなく見入ってしまったが)。むしろ映画は元上官を追及する奥崎氏の舌鋒の凄さを克明に記録することに徹しており、最初はすこぶる紳士的に話をしていた奥崎氏がある瞬間に突然ブチ切れて相手に殴りかかるという場面が二度ほど出てくる。

 映画では最後に奥崎氏が以前追及した元上官(映画中にも出てくる)の自宅に押しかけ、応対した元上官の息子を拳銃で撃ち、重傷を負わせたことが語られている(撮影終了後のことだったので新聞記事などで処理されている) 。この殺人未遂の罪により懲役12年の刑を食らうことになった。映画では出てこないが奥崎氏はそれまでに参院選に二度立候補、この銃撃事件の際にも衆議院に立候補中だった。服役中に妻が亡くなり、服役を終えて出所してからは一人暮らしで比較的おとなしくしていたが「神々の愛い奴」という妙な映画を作るなど相変わらずのところもあった。昨年8月に自宅で倒れ、以後入院生活を送っていたが、今年の6月16日に死去した(報道は十日後だった)。新聞記事によると死ぬ間際まで「バカやろう」と声を上げていたそうである。合掌。


 その奥崎氏の死が報じられた翌日、彼にパチンコ玉で狙われた昭和天皇のお子さんである今上天皇美智子皇后夫妻はサイパンへ一泊二日の慰霊の旅に旅立った。天皇が国外に慰霊目的の旅に出るのは初めてのことで、まさに「異例の旅」である。
 サイパンはもともとドイツが占領した島で、第一次大戦時に日本が占領、戦後に国際連盟により日本の「委任統治領」とされた。サイパンには沖縄や東北、さらには当時日本領となっていた朝鮮半島など貧しい地方から数万人の移住者がやって来て、一時は南洋の大都会と言われるほどに繁栄した。しかし同時にサイパンには南洋の日本軍の司令部が置かれ、太平洋戦争ではこの島で日米両軍の死闘が展開され、日本軍はバンザイ突撃のすえ玉砕を遂げた。このとき多くの島民(「三等国民」扱いだった現地のチャモロ人も含む)が戦闘に巻き込まれて死んだが、中でも有名なのは島の北岸に追い詰められ米軍への投降を拒んだ日本民間人たちが「天皇陛下、万歳!」と叫んで絶壁から身を投げるなどして集団自決した事実で、その絶壁はその後「バンザイクリフ」「スーサイド(自殺)クリフ」と呼ばれるようになった。女性たちが絶壁から身を投げる様子は米軍が撮影したカラー映像が残っており、それが有名になった一因でもあるだろう。
 この時なぜ多くの民間人が集団自決したのか。やはり当時の日本人が「軍民一体」の状態で、「鬼畜米英に投降したらひどい目に遭う」という洗脳状態にあり、かつ敵の捕虜となることを潔しとしない、「生きて虜囚の辱めを受けず」と戦陣訓にも書かれたような心理状態に追い込まれていたことが大きいだろう。その戦陣訓を出し、むやみに精神論をぶち上げる戦争指導をしたのが時の首相の東條英機であることも忘れてはなるまい。このサイパン失陥によりここを基地とした米軍の日本本土への空襲が可能となり、「絶対国防圏」を破られた東條内閣はここでようやく総辞職に追い込まれることにもなった。
 このサイパンでの悲劇はその翌年の沖縄の悲劇の前奏ともなった。そしてしまいには「一億玉砕」などとほとんどの国民が思いこむほど悲壮な心理状態につながっていくのだが、なんか後世の僕らから見ると当時の大半の日本人は、亡くなった人には酷な言い方だが、集団催眠状態で悲壮ヒロイズムに自己陶酔してしまっていたんじゃなかろうかと思うところもある。その慰霊をし、その事実を忘れまいとするのことはもちろん大切だが、「なぜそうなったのか」という検証が今後も必要だろう。どうも日本における戦争ばなしって悲惨さを感情的に語るばかりでなにやら自然災害と同列になってると感じることが少なくないもので。

 ともあれ、その悲劇の地であるサイパンに、現在日本の象徴であり、当時の日本人が「現人神」と崇め自決の際にもその名を唱えた「天皇」が、慰霊に訪れるというの戦後60年の節目の行事としては意義が大きいとは思う。発案者が誰であるかは判然としないが、どうもこれまでの経緯からすると天皇自身の要望が強かったことは確かなようだ。天皇さん自身、当時10歳で日光に疎開していたから「戦争体験」のある世代(と同時に極端に価値観が変わるのを目撃した世代)であることは大きいだろう。
 当然のように天皇夫妻は「バンザイクリフ」「スーサイドクリフ」を訪れ、黙祷を捧げていた。この場で「天皇陛下、バンザイ!」とかやるブラックなやつはさすがにいなかったみたいだが(あくまで報道で見る限りだが)、そのあと訪れた米兵・チャモロ人の慰霊塔を訪問した際には「天皇陛下バンザイ!」の声が上がっていたのをTVで目撃した。誰が叫んだか知らないが、やはり場違いと感じたものだ。
 ちょっと目を引いたのが、事前予告無しの不意打ちで天皇夫妻が同島の沖縄人慰霊碑と韓国人慰霊碑を訪問し一礼を捧げて行ったことだ。まぁある程度そういうことがあるのでは…という予想はあったのだが。事前にそのスケジュールを公表しなかった件について宮内庁は「事前に発表すると訪問の妨げになる可能性があった」と言っていたが、実際そのとおりだろう。サイパンの慰霊訪問自体に現地や本国の韓国人の一部から反対の声があったと聞くし、事前に公表していたら妨害行動の一つもあったかもしれない。それを「不意打ち」でやったことでむしろ現地の韓国人会会長(事前には訪問に反対運動をしていたらしい)なんかは驚きとともに感謝の意まで示すほど効果バツグンで、これはファインプレーと言っていいんじゃなかろうか。
 しかし、これも予想されたことだったのだが…中国の一部大衆紙で天皇のサイパン訪問を小泉首相の靖国参拝に通じるもの」「全ての犠牲者に哀悼を捧げることは侵略の美化」と批判する報道があったらしい。その調子で慰霊行為を全てを否定してしまうのはいかがなものか、と思うばかりだったが、日本国内でも産経新聞など右派系の論調で「サイパンがよくてなぜ靖国がいけない」とするものがあって、両者は対立してるようで実は同じ結論に達する、「鏡写し」の関係にあるなと感じたりもした。

 ここんとこ世間的に大きな話題になっていることもあり、「史点」でも「先の大戦」がらみの話題ばかり書いている気もする。いずれもあまりいい気分の話題ではないが、少なくともこうしていろいろ考えさせる、議論を呼ぶだけでも意義はあると思う。少なくとも「そういうことがあった」ということを意識し忘れないことが、その時代を苦労して生き、あるいは無残に死んでいった人々に対する後の世代の人間の義務だと思うのだ。


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