ニュースな史点
2006年4月1日
<<<前回の記事
◆今週の記事
◆皇室の興廃この一戦に?
昨年来なにかと話題の多い皇室だが、ここに来てさらにややこしい問題が持ち上がっている。
ご存知のとおり、今国会では女系天皇を容認する皇室典範改正が審議される予定になっていた。しかし女系を認めると皇室が「断絶」するとの観点から反対論も根強く、「男系を維持せよ」と旧宮家の復活を叫ぶ勢力もあった。小泉政権は妙に熱心に女系容認の改正を進めようとしていて、これに対して反対論者が政変まで画策するのではないかとの憶測もあったが、結局は秋篠宮妃・紀子さんの懐妊という凄まじいタイミングの事態が発生し、ひとまず全てはお流れとなった。誕生まで性別は確認しないということになっており、秋までこの議論は棚上げ、その頃には小泉首相も退陣するので次期政権に話は持ち越される。
ところが、である。その判断を待たないうちに新しい事態が起こってしまった。
なんと本日四月一日に、奈良県の山奥でひそかに隠れ住んでいた南朝皇統の末裔が山から下りてきて後醍醐天皇を祀る吉野神宮に姿を現し、正式に「朕が正式の天皇である」と名乗り出たのである。この人物は自称・小倉宮仁雅親王(38)で、所持していた系図によれば応仁の乱の際に西軍の山名宗全に「南帝」として一時かつがれた後南朝の信雅王から27代目の子孫であることになっている。さらに仁雅氏は「赤松家遺臣から奪回した真の三種の神器」なるものも所持しており、「現在の北朝が所持している『神器』は後醍醐天皇が足利尊氏に降伏する際に渡した偽物そのものである」と主張しているという。まさに「神器なき戦い」というところか(笑)。
同様の主張をして敗戦直後に「自分がホンモノの天皇」と名乗り出て、一時GHQも注目した熊沢寛道(熊沢天皇) の例が想起されるところだが、この仁雅氏によれば熊沢家は後南朝に仕えていた家臣の一族の末裔で、敗戦直後ににああいう動きを見せたのは、敗戦により北朝が滅亡の危機に立ったのを見て南朝復活の可能性をさぐるべく試みにやったもので、あくまで本物の南朝皇統は紀伊山地の山奥に隠して安全圏に置いた上での偵察行動にすぎなかったのだという。北朝の当面の維持が確実になったのを見て、「時機まだ至らず」と道化役に徹して南朝皇統を守ったのだ…というのだ。同時期に他にも多くの「南朝天皇」が出現しているが、あれも全て南朝家臣の末裔たちが行った「偽装工作」であったという。
今になって突然名乗り出たのは、北朝の男系の血筋が絶えるかもしれないという情勢の中、女系が認められる事態になれば「南朝復活」が現実的になるとの判断があったようだ。
仁雅氏の主張に吉野神宮はじめ南朝関係の神社も半信半疑であるが、仁雅氏は自分が後醍醐天皇の子孫であることを証明するDNA鑑定の結果を所持しているという。後醍醐天皇の骨からでもDNAを採取したのかと思ったら、そうではなく『四天王寺縁起』や『金剛峰寺縁起』の後醍醐自筆の書の最後にある後醍醐本人の「手印」、つまり手形から採取したのだという。朱墨を両手のひらにべったりと塗って押したとされる手形なのだが、実は彼自身がハマっていた密教的呪術の仕掛けとして彼自身の血液がそこに含まれていたのだという。
そこから採取した後醍醐天皇のDNAを分析した結果、仁雅氏は間違いなく後醍醐天皇の子孫であると判定されたと彼は主張している。「後醍醐天皇のY染色体は現在の北朝天皇は持っておらず、私の家系だけが持っている。これこそ真の天皇の証しではないか!」という彼の主張には、最近男系維持論の根拠として「Y染色体」が上げられていることも考え合わせると、そうムチャな主張ではあるまい。
ともあれ正式な鑑定を待ちたいところだが、仁雅氏は「祖先に仕えた忠臣・楠木正成の銅像が待つ皇居に早く帰りたい」と意気盛んだそうである(笑)。
◆成吉思汗の秘密!
ついに、である。長い間謎とされていたチンギス=ハーンの墓が、まさに今日、四月一日に発見された。チンギス=ハーンの即位800周年にあたり、日本とモンゴル共同の反町隆史主演のチンギスハーン映画製作や日経新聞での堺屋太一の連載小説、はたまたジンギスカン料理の東京での隆盛や大相撲での朝青龍対白鵬などと見事に呼応した歴史的大発見であるといえよう(笑)。
チンギス=ハーンは西暦1227年に西夏遠征中に病死したが、その墓地までの葬列を見たものは全て殺され、その墓の位置は完全に秘密とされた。歴史上最大というべきモンゴル帝国の建設者でありながらその墓の場所はまったくの謎でありつづけ、世界史上最大の謎の一つとも言われていた。近年この墓を探す欧米学者による調査も進められかなり範囲は絞られたと言われていたが、ついに見つかっちゃったわけである。
続報によれば、この墓、予想以上にショッキングな発見が相次いでいるようだ。驚くべきことに墓からはなんと日本語で書かれた墓誌が発見され、実はチンギス=ハーンは日本出身であったことが記されていたのだという。墓には源氏の紋章である「笹竜胆(ささりんどう)」がはっきりと彫り付けられていて、中からは源氏の白旗も数本発見された。
そう、ついに明治時代以来ささやかれていた「源義経=チンギスハーン」説が証明されたのである…と思いきや、どうも様子が違うようなのだ。墓誌には全ての事情が詳細に書かれており、そこにはチンギスハーンは源義経ではなく、その兄の源頼朝であったというもっと驚くべき事実が明かされていたというのだ。
実は平家を壇ノ浦で滅亡させた後、頼朝は政治的には窮地に立たされていた。壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのはよかったが、平家が擁していた安徳天皇が海に沈んでしまったため、皇位継承の印である「三種の神器」のうち草薙剣(くさなぎのつるぎ)だけが回収できず、頼朝および義経は朝廷に対して面目を失ってしまったのだ。安徳天皇の次は後鳥羽天皇だが、彼は安徳天皇が平家とともに西方へ逃走している間に緊急措置として「神器なし」で即位しており、頼朝としては朝廷の実力者である後白河法皇に対してメンツを立てるためにも、なんとしても神器を回収しなければならない事情があった。
しかしそれが失敗し、頼朝は窮地に立たされた。おまけに妻の北条政子 も側室の家を破壊するなどかなりキツイものだから、頼朝はもう何もかも捨てて遠くへ行きたいと思うようになっていた。そこで一計を案じ、鎌倉まで戻ってきた義経を腰越で説得して彼と「入れ代わり」をしたのだという。そこは兄弟、義経の出っ歯さえ折ってしまえば顔はソックリだったので見破られる心配もなかった。その後の衣川の戦いや奥州征伐などは全て兄弟での偽装工作であったという。
頼朝は狭い日本は見捨てて蝦夷地から大陸に渡り、「天神」と名乗ってモンゴル人に潜り込み大帝国を築き上げた。その子の実朝が宋への渡航を目指して大船を作ったというのも実は父親の作った国を見たかったためだといい、逆に頼朝の孫のフビライは祖先の地見たさに日本征服を企んだ…とすればさまざまに符合する。
ところでその墓誌によれば、頼朝は大帝国の皇帝になるあたって自分が日本を捨てる動機になったことを名前の中にしのばせ恥を忘れぬようにしていたという。「神器」のために国を捨てた、神器は好きではない、神器好かん…なるほど、そういうことだったか。
◆「黒幕」が判明した!?
日本の歴史上、人気の高いミステリーの定番といえば「坂本龍馬暗殺」であろう。実際当時からその犯人をめぐってはさまざまな推理がなされ、太平洋戦争後には司馬遼太郎の小説で龍馬人気がいっそう上昇し「大物化」が進んだこともあって推理熱はますます高まり、その犯人のみならず暗殺の動機までさまざまなスケールから論じられ、すでに「本能寺の変の黒幕はだれか」と並ぶ歴史ミステリーの題材となっている。
昔から有力なのは新選組もしくは見廻組といった幕府側の刺客に殺されたというもので、特に見廻組の佐々木只三郎が実行犯であるとする説が最も強い。映画やドラマなどでもその線で描かれることが少なくないが、それでもなお根強く主張されるのが「薩摩藩陰謀説」である。
薩長同盟を成立させる事に尽力した龍馬だが、この時点では平和的な政権交代である大政奉還を画策するなど、武力による倒幕を目指す薩摩藩とは異なる方向性を見せていた。そのためこの時点では幕府勢力よりも薩摩藩のほうが龍馬を邪魔者と見ていたのではないか…という見解だ。この見方は特に龍馬を大物視する傾向の人ほど「魅力的」であるらしく、根強い。しかしこの時の龍馬がそこまでして殺されるほどの大物だったのかという点において弱い。
さてこの4月1日、これまであまり強くは言われなかった龍馬暗殺の「容疑者」についての新たな証拠と思われる文書が発見された。その容疑者とは…幕府でも薩摩でも長州ですらない、ほかならぬ龍馬の出身である土佐藩そのものだというのである。
よく知られているように龍馬は土佐藩では差別を受ける下級武士「郷士」の出身である。もっとも龍馬の家はもともとの武士ではなく商人が「武士化」したものであるのだが、そのことがいっそう土佐藩上層部にとって彼を見下す動機になった可能性は高い。そんな下っ端の男が土佐藩代表のように幕末の風雲を駆け抜け、あまつさえ藩の事実上の主である山内容堂まで動かして大政奉還などという大芝居を打ったのだから、面白かろうはずはない。大政奉還が成った時点で、龍馬および同藩の中岡慎太郎の動静を知りえてその抹殺を図ったのは土佐藩の上層部の誰かではなかったか…
そう思わせる文書が出てきたのだ。龍馬自身の未公開の手紙とされるもので、次のような内容である。
シークレット
至急扱ひで処理して欲しいんだけど、おそくても三十一日 できれば、二十九日までに○○さん宛てに三千万両を振り込むよう手配してください(前回、振り込んだ口座と同じでよろし)。
項目は、コンサルティング費で処理してね。×××××××××××、宮内の指示を仰ひで、○○には、こちらからも伝へておくので心配しないで。@龍馬
姉・乙女への手紙でくだけた口語体を駆使し、また日本初の「カンパニー」を作るなど英語にも造詣があった龍馬らしい文章であり、この手紙を発見者から仲介した研究者も「本物」と断定している。ただ、文中の「○○」や「××」部分は墨塗りで伏字になっていたとのことで、どうやらこれを入手した人物にとってかなりまずい情報が書かれていたらしい。ただ「××」の部分についてはよく鑑定したところ「問題があるようだつたら」と読めるそうで、なぜ伏字になっているのかは分からない。
文中に出てくる「宮内」とは誰か。龍馬の周辺の人物で「宮内」といえば、土佐藩の家老であった福岡宮内(ふくおか・くない)という人物がいる。龍馬を描いたドラマなどでもよく出てくるが、これは彼の妹「田鶴(たづ)」が龍馬の恋人と設定されているため。しかしこの「田鶴」は司馬遼太郎の創作した人物であって、史実では龍馬と福岡宮内が友好的関係であったという様子もない。
むしろ福岡からすれば坂本家はむかしその先祖を武士に拾い上げてやった「家来筋」に過ぎず、彼が龍馬の活躍を面白からず見ていた可能性はあろう。また福岡は土佐勤王党に暗殺された吉田東洋との関係があり、龍馬ら勤王党OBに恨みを持っていた可能性もある。そんな龍馬に手紙の中でとはいえ「宮内」と呼び捨てにされていることに、彼が激怒した可能性もあるのではないか。
もちろんこの福岡宮内が龍馬暗殺の黒幕だとこのメール、もとい手紙から断定できるわけではない。しかしどうも龍馬の経営する、当時のベンチャー企業ともいうべき「海援隊」と土佐藩との不透明な金銭のやりとりをにおわせる文章ではある。このことが龍馬暗殺の背景にあるのでは…と思わせる史料ではある。
◆お釈迦さまでもご存じない!?
昨年来、ネパールはカトマンズで、「菩提樹の中で絶食・瞑想を続ける少年」のニュースが話題となっていた。その所業から「ブッダの再来」 などと騒がれ、お参りに来る人まで出る騒ぎになっていたが、さきごろ忽然と姿を消した。実は彼にはちゃんと取り巻きがおり、50m以内には近づけさせなかったとか夜はしっかり布で覆っていたとかどう見ても安手の詐欺としか思えない話があとから明かされており、なんのことはない、ひと稼ぎしたし、そろそろ引き上げないと「鑑定」される恐れもあるし…でトンズラこいたというわけだろう。
ネパールも含めたインド世界は欧米先進国を中心に「精神世界」を求める人にはあこがれの地であるようで、またかの地自体からもこの手の怪しげな話がよく聞こえてくる。もっともそのネパールに行ってブッダの再来を称して騒ぎを起こし、その後教団ぐるみで世界を騒がす大事件を起こした人物が我が国にいたということも忘れてはなるまい。
…なんてことを考えていたら、今日この4月1日に世界各地で驚くべきニュースが次々と入ってきた。
例の少年と入れ代わりに、ネパールで別の若者が激しい断食修行を行い、骨と皮になっても悟りが開けなかったので、近所の娘がくれた某日本製コーヒーミルクを飲んだら悟りを開いてしまったというのだ。これこそまさしくブッダの再来だと騒ぎになり、参拝客は押し寄せるは某コーヒーミルクメーカーの株は上がるはの騒ぎになっているらしい。
するとこれと時を同じくして、中国は山東省で三十歳で立ち上がり四十歳で道に迷わなくなった人が出現、五十歳になったいま「天命を知った」と言い出しているという。さらにこの人になにやらいろいろ意味不明の言葉をしゃべり、そのまま青く塗装した牛の背中に乗って西のほうへ旅立った人も現れたとか。
イスラエルはエルサレムには荊の冠をかぶり十字架を背負って歩いている人が出現、ときどき穴の開いた手を見せて「指を通してみなさい」などと言って回っているという。その近くの紅海では海を真っ二つにしたり岩から水を噴出させたりする人が現れた。さらにアラビアの砂漠からはなぜか顔を完全に布で隠して背中から火が昇っている人が出現して各地の偶像をブチ壊しているとかなんとか。
ほかにも各地でどっかで聞いたようなことをやってる人々が出現し、世界はもう大混乱。「最後の審判」でも始まるのかと思ったら、「再来」した彼らは世界各地の宗教対立を解決するべく第1回の「世界信仰クラシック(WBC=World Belief Classic)」を開催して共同で布教を図るんだとか。「審判」のえこひいき誤審で新たな宗教対立が起こらないことを祈るばかりである。
2006/4/1の記事
(間違っても本気にしないように)
<<<前回の記事
「ニュースな史点」リストへ