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2006年4月14日

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◆今週の記事


◆「史点」常連役者たちの退場

 というわけで四月になると復活する「史点」です。まぁよろしくお願いいたします。

 この間も書こう書こうと思いつつなかなかキーボードが進まない状態が続いていて、途中まで書いたネタならずいぶんある。まとまらないうちに「旬」が過ぎてしまいボツになるというパターンを半年ばかり繰り返していた。そうしたネタの中にはなんだかんだで長く書いている「史点」の登場人物たち(当人は知ったこっちゃないだろうが)の退場の話題もあった。やはり感慨深いものがあるので、時期はずれは承知の上で書いておきたい。


 なんと言っても意外な「退場」の仕方をしたのがイスラエルのシャロン首相だ。この人の「史点」初登場は僕の間違いでなければ2000年10月3日付記事「聖地に血の雨が降る」 だ。当時イスラエルの右翼政党「リクード」の党首だったシャロン氏は、エルサレムのイスラム教聖地「ハラム・シャリーフ」に乗り込んでパレスチナ人を挑発、それなりにまとまりかけていたパレスチナ和平を見事にブチこわしてしまう。僕が「ノーベル迷惑賞授与」などと皮肉ってたのもこの時のことだ。
 そして翌2001年2月に行われた「首相公選」で、シャロン氏はイスラエルの首相に選出される。その後はどっちがテロリストだか分からない暗殺作戦や空爆を連発したり、パレスチナ人との「分離壁」を建設したり、パレスチナ自治政府のアラファト議長 を軟禁状態にしたりと強硬姿勢を続けたが、一方で「対テロ戦争」の都合上中東問題の解決を図るアメリカの圧力もあって、ガザ地区からの撤退やパレスチナ国家独立の承認など、従来の立場からすれば絶対に容認できないはずの妥協策もとってきている。大のタカ派・強硬派のシャロン氏だが、首相という立場になるとさすがに現実的・妥協的に動かざるを得なくなるあたりは、暗殺されたラビン元首相を連想させるところもあったが、さすがに殺されてはかなわないのでなんとかバランスよく渡り歩こうというのがシャロン政権のやり方であったと思う。

 そうこうしているうちに「宿敵」といえたアラファト議長が2004年11月にこの世を去った。パレスチナ側の不安定化と呼応するようにシャロン政権も足元からガタガタしてきて、ついに2005年にシャロン首相は自身が率いていたリクードを離脱、中道の新政党「カディマ」を創設してその党首となった。2006年春に行われる総選挙へ向けての布石で、右からも左からも政治家がこの新党に集まってきて、選挙でも幅広い支持を受けるものと予想された。

 ところが、2006年1月4日、シャロン首相は突然脳卒中で倒れた。間もなく「重体」「危篤」と発表されイスラエルのみならず世界が大騒ぎとなった。まぁイスラム教徒のほうでは「天罰」という声も少なくなかったようだが…
 驚くべきことに、この文章を書いている4月初旬、すなわち倒れてから4ヶ月が過ぎているのだがシャロン首相はまだ生きている。といっても実質政治家としては死んでいるに等しく、治療は続けられているもののイスラエル政界は完全に「シャロン亡き後」の前提で話が進んでいる。日本人としては2000年4月の小渕恵三首相のケースを思い出してしまう。
 シャロン首相不在の状況の中で、パレスチナ側でも評議会選挙が行われ、対イスラエル強硬姿勢を堅持する「ハマス」が過半数の議席を占めて政権を獲得して中東和平の先行きがまたも怪しくなってきた。シャロン自身が党首として選挙戦を戦うはずだった「カディマ」は一時は存在そのものが危ぶまれたが、3月末に行われた総選挙では中庸路線ということで、そこそこ幅広く票を集め一応第一党の地位を確保した(一方でシャロン氏の古巣のリクードは大きく後退した)。しかしいずれにせよ他政党との連立の必要があり、現在交渉中の段階だ。
 シャロン氏は意識が回復しないまま「首相」の地位にあり続けたが、ついに4月11日の閣議で「執務復帰は不可能」と確認され、シャロン氏に代わって「カディマ」を率い「首相代理」の地位にあるオルメルト 氏が4月14日から正式の首相となることが決まった。「執務復帰不可能」はすでに1月の段階で言われていたが、イスラエルの憲法では首相が100日間執務不能になると暫定の首相を置くことが決められているそうで、だからこの日をもってシャロン氏は正式に首相の座を降りる事になる。もはや本人は知ったこっちゃないだろうが。
 正直なところ凶悪に迷惑な政治家だったという思いは変わらないが、こういう形での退場は物寂しいものではある。


 もう一人、ひところ「史点」常連の人物であった政治家が亡くなっている。こちらもタカ派、かつて一国の大統領であったがその最期の床は拘置所の中であった。旧ユーゴスラヴィア(この国も「今は亡き」だな)の大統領、セルビアのミロシェビッチ氏である。
 この人の「史点」初登場は連載開始の直後の1999年3月26日付。おりからコソボ紛争の真っ最中で、NATO軍によるユーゴ(実質はセルビア) 空爆が実行されたのがこの時だった。これは90年代初めのユーゴスラヴィア内戦の延長戦ともいえる紛争で、アルバニア系住民の多いコソボ自治州が独立の動きを見せたことにセルビア民族主義者のミロシェビッチ政権がこれを弾圧、それに対しアメリカをはじめとするNATO諸国は「ナチスの再来」とばかりに非難し、ユーゴへの空爆を行った。のちにイラク戦争で連発され、ネット上でも用語として定着する「誤爆」が連打されたのもこの時だ。
 ひとまずミロシェビッチ政権が頭を下げる形でこの空爆は終わったが、翌2000年10月の大統領選挙の際に「革命」が起こってミロシェビッチ政権は打倒され、対立候補だったコシュトニツァ氏が大統領に。そしてNATO諸国からの期限をつけた強い圧力を背景にコシュトニツァ政権は2001年3月末にミロシェビッチ氏を逮捕し(この時は職権濫用罪だったはず)、7月には「戦犯」として身柄をオランダ・ハーグの国際法廷に引き渡した。一国の首脳クラスが「戦犯」として国際法廷で裁かれるのは東京裁判の東條英機以来だったりする。
 その後の裁判で強気の姿勢を見せていることが時おりニュースで報じられていたが、「史点」への登場もそれきりふっつりと途絶えるようになる。最後に名前が登場したのは2003年12月3日付で、しかも他の件とからめて引き合いに出されたに過ぎなかった。

 そして今年、2006年の3月11日。オランダ・ハーグの拘置所の独房内でミロシェビッチ被告が急死しているのを看守が発見した。おりから高血圧と心臓病を患っていて公判が延期されていたということもあり、心筋梗塞による病死との見方がなされたが、本国のセルビアでは国際法廷への不信から「毒殺説」が広まり、疑いを晴らすためにセルビア側の医師も立ち会った解剖が行われている。やはり「心筋梗塞」というのが公式の結論だったが、一部にミロシェビッチ被告が裁判を引き伸ばすための健康悪化を図って薬物を持ちこんでいたとか、あるいは薬などを絶った「抗議の自殺」に近い死だったのではないかとの噂もある。
 
 ミロシェビッチ氏の遺体は母国セルビアに送られて「無言の帰国」をし、3月18日にはミリヤナ夫人の実家で葬儀が執り行われた。しかし夫人自身も訴追を受けているため葬儀への参列はできずメッセージを送ったのみで、元大統領とはいえ「戦犯」でもある(裁判は決着してないが)元指導者の葬儀に出席する要人も少なく、セルビア社会党の幹部クラスがわずかばかり参列したとのこと。セルビア共和国のタディッチ大統領も「元大統領は国民に支持されていない」ことを理由に出席見合わせを公表している。なお、かつて大統領選を争い、「革命」によって政権を倒してその身柄を法廷に引き渡した当人であるコシュトニツァ首相(現在はセルビア共和国首相の地位にある)はミロシェビッチ氏の死について「今は政治的立場はひとまず置いて」と前置きして哀悼の意を表していたという。

 ミロシェビッチ元大統領に対するセルビア国民の意見もいろいろのようだ。民族主義者を中心に熱烈に葬儀や弔問に駆けつける人も少なくないようだが、一方でNATOによる空爆や国際的孤立化を招いた張本人と批判する声も多いらしい。3月17日付の同じ新聞に4分の1面を使って「あなたはセルビアを守り、真実のために戦った英雄です。安らかにお眠りください」という死亡広告がある一方で、すぐ隣に同じ大きさで「われわれの名前であなたが勝手に起こした戦争に感謝します。われわれはベオグラードの通りの戦車や流血、サラエボ、スレブレニツァ、空爆、コソボを忘れない」と皮肉った死亡広告も載っていたという。
 


◆王様とわタクシン

 年明けから二転、三転と不安定な情勢が続いていたタイ政界だが、ついに4月4日にタクシン首相が辞任を表明した。しかし今後の政権をめぐってはまだまだ先が読めない展開が続いている。
 上の記事でやってみたように、この人の「史点」初登場を調べてみた。意外にも(?)その登場は就任直後のことで、2001年2月21日付のタイ・ミャンマー国境での軍事衝突事件という物騒な話題で初登場していた。それから間もなくの4月25日付「史点」では「とらぬタイの皮算用」と題して「日本軍埋蔵金塊発見騒動」の話題に登場、この話を本気にして動いてしまうというオッチョコチョイなところを見せてくれていた。その後も時々思い出したように登場している。

 タクシン政権もなんだかんだで5年になる。偶然ながら我が国の小泉政権も同じ年に始まり5年たった同じ年に終わる(予定)。タイというと以前はよくクーデターが起こるなど政権が不安定な国というイメージが強かったが、タクシン政権はかなりの長期政権と言っていいだろう。しかも選挙にも強く、自身の率いる「愛国党」によるタイ史上初の単独政権樹立に成功してもいる。
 華僑系財閥の出身であるタクシン首相は大胆な経済政策を進める一方で風俗・麻薬取り締まりや貧困対策も強力に推し進め、現在のタイの好景気をもたらしたと一定の評価はされている。このため地方農村の貧困層を中心に支持者が多いが、一方で一族を要職につけたり不正献金の疑惑などが後を絶たず、また報道への統制も厳しいため都市部の中間層・知識人には毛嫌いされているという、その政権評価はまさに「国論二分」の状態にあった。こういうところも割と小泉さんに似ている気がする。

 1月にタクシン首相の一族が株売却で多額の利益をあげたのに脱税していた事実が発覚し、一気に反タクシン運動が盛り上がった。2月初めに首都バンコクで大規模なデモが行われたのだが、このときデモ隊はプミポン国王あてに政権交代を求める嘆願書を用意していた。これに対してタクシン首相も「国民の多数は私を支持している。私に辞めろといえるのは国王だけだ」とラジオ演説でやり返していたが、ここで「国王」の存在が政治的にクローズアップされるところがタイのお国柄である。
 タイ王国は日本と同様に立憲君主体制の民主主義国であるが、国王の地位は象徴ではなく完全な「元首」であり、しかも「神聖にして侵すべからざる存在」と憲法で定めている。軍隊の最高統帥者でもあり、タイの熱烈仏教徒たちの宗教指導者という立場も併せ持っている(このためタイ国王は仏教徒でなければならない)。「大日本帝国憲法における天皇」といってしまえば日本人には実にわかりやすい。
 思えば欧米列強がアジアを植民地にしていくなかヨーロッパに積極的に学び、王室自ら西洋風近代化を進めたあたり、確かに日本とよく似ていて、似た憲法になるのも無理はない。タイの場合はどちらかというとイギリスに積極的に学んだようでタイの近衛兵の格好はイギリスのそれとソックリだし…ラーマ4世が王子の家庭教師にイギリス人アンナ=レオノーエンズを招いたエピソードは「アンナとシャム王」「王様と私」「アンナと王様」と何度も映画化されているので知っている人も多いはず。もっともこれらの映画はタイでは王室の尊厳を損ねるということのようで上映禁止が続いているが。

 日本のように敗戦を経験せず、第二次大戦もなかなか巧みに切り抜けたタイ王室、微妙に形は変えながらもイザという時の国王の政治的権能は維持されている。これを目の当たりに出来たのが1992年の政治的危機の時だ。
 前年にスチンダ陸軍司令官がクーデタで政権を奪取、これに対して市民運動家のチャムロン氏らが市民・学生とともに民主化運動を展開、軍や警察と市民が衝突して流血の事態にまで発展した。このときプミポン国王が両者の仲裁に入り、スチンダ・チャムロン両氏を王宮に招いて「問題解決のためには争わずに向き合うように」と諭した。タイの儀礼らしいのだが、両氏が国王の前で足を伸ばして軽く身体をよじるようにして座り神妙に聞いていた映像が印象的だった。結局この国王の諭しを受けてスチンダ首相は退陣、総選挙が行われて新政権ができ、事態は見事に収拾されちゃったのである(これがホントの「王宮処置」、なんちゃって)。このときの「国王」という政治的装置の役割を果たした事例は歴史家の間でも注目され、とくに日本中世史の王権議論で引き合いに出されることがある。

 最初にデモが行われた2月の段階ではプミポン国王は「国情が不安定な今、国民の団結が大切だ」 と述べるにとどまった。ところが野党勢力が選挙のボイコットをとなえ、事態が深刻化してきた3月に入ると不思議な現象が始まる。13日から各テレビ局で、1992年危機の時の例の「国王陛下のお諭し」の映像が一斉に流されたのである。これは政府によるものではなく、国王秘書官室の指示によるものだったとされ、衝突回避を求める国王のメッセージなのではないかと取り沙汰された。
 そして4月2日、大半の野党がボイコットするなか総選挙が行われた。野党がいないんだから事実上の「信任投票」というわけで結果が注目されたが、いちおう与党・愛国党は地方で票を固めて得票率57%を確保、タクシン首相もいったんは勝利宣言をして続投を表明した。しかし首都バンコクでは首相への不信任を示す白票が与党票を上回り、予想以上に多くの選挙区で苦戦を強いられたため、反タクシン派は勢いづき、首相が示した賢人会議による和解案も蹴った。

 4月4日の夕方、タクシン首相はプミポン国王に呼び出されて会談(謁見というべきかな)を行った。そしてその直後のテレビ演説でいきなり辞任表明をしたから驚きだ。国王に何か強く「諭された」ものと思われる。
 タクシン首相は辞任表明演説の中で「今年は国王即位60周年の記念すべき年であり、6月には世界各国から王室がタイを訪問する。このような時期の混乱長期化は好ましくない」と述べ、王室への配慮から辞任を決断したとしている。それがどこまで本音かは分からないけど、タイの政治においてイザというときの国王の存在の大きさが改めて示される形になった。「私を信任してくれた1600万人の国民に申し訳ないが、今は、国民和解こそが何よりも必要だ。隣人を愛し、過去のことは忘れよう」とも述べたそうで、悔しさ一杯ではあるんだろうが…。とりあえず当面の危機は回避というだけで、「タクシン院政」の見方もあるし、今後の展開は予断を許さない。

 そういえばアジアの王国のひとつ、ネパールもどうなることやら注目中。こちらは王政そのものがもつのかどうかという段階になっている気がするが…



◆い〜いユダな♪

 アハハ〜ン♪って、ダジャレばっかりって言わないでくださいな(笑)。

 キリスト教成立史を考える上で重要な研究結果が先日発表された。アメリカの「ナショナル・ジオグラフィック協会」がエジプトで発見された3〜4世紀のコプト語パピルス文書の解読・分析をした結果、これがいわゆる「ユダの福音書」の写本の「本物」であることが断定されたのだ。

 「ユダの福音書」とはイエスとその弟子ユダの対話とされる内容が書かれていたといい、西暦180年というずいぶん早い段階でリヨン司教のイレナエウスが「異端の偽書」として批判的に言及していることで存在だけは知られていた。
 今回「本物の写本」と断定された文書は1970年代にエジプトの砂漠地帯で発見され、その後骨董商の手を転々としてからアメリカの銀行の保管庫で16年もほったらかしにされてボロボロになっていたという一品。わずか66ページという内容ながら、触れただけでも崩れてしまい1000ものピースに分かれたジグソーパズル状態で、それを組み合わせて解読できたのもようやく80%程度だったとか。
 この文書は当時のエジプトのキリスト教徒たちの間で使われていたコプト語で書かれており、分析の結果ギリシャ語の原典から翻訳されたものと判断された。放射性同位体の年代測定では西暦220〜340年のものとの結果が出され、インクの成分から画像分析・文法などなどの詳しい調査により後世の追加・修正は一切ない「『ユダの福音書』の3〜4世紀の写本」と断定されたのである。

 さてこの「ユダの福音書」、イエスとユダの対話の形式をとっているというのだが、ここでイエスの弟子ユダその人について再確認をしておこう。
 「ユダ」という名前自体はこの地方のユダヤ人の間ではありふれていたようで、聖書にもたくさんの「ユダ」が登場する。後世の作品だが、映画化で名高い「ベン・ハー」の主人公だって確か「ユダ(ジュダ)」だったはずだ。その中で、キリスト教の歴史においてもっとも有名な「ユダ」といえばイエスの弟子の一人ながらイエスを銀貨30枚で官憲に売り渡し、「裏切り者」の代名詞とされる「イスカリオテのユダ」である。
 新約聖書におさめられた複数の福音書が言及しているから、イエスの弟子に「イオカリオテのユダ」という人物がおり、彼がイエスを「裏切る」行為をして磔刑に処せられるキッカケとなったというのは史実なのだろう。ただその後のユダについては師を売ったことを悔やんで銀貨を投げ捨てた上で自殺したと「マタイによる福音書」が記述する一方で、銀貨で買った土地で墜死し、体が裂けて内臓が飛び出す悲惨な死に方をしたとする「使徒行伝」の記述があって明確なところは分からない。ただ「苦悩しての自殺説」の方がリアリティがあるのは間違いない。
 「ユダの裏切り」の動機の説明も諸説ある。イエスの弟子の中で金銭面の担当で不正をしていたことが動機になったとか、あるいはイエスの説く「神の国」にローマ帝国からの政治的独立を期待したが裏切られたと思ったからとか、イエスに「奇跡」を起こしてもらおうと試そうとしたとか(映画「キング・オブ・キングス」がこれに近い解釈だった)、まぁいろいろといわれている。動機は何であれ「救世主イエス」を死に追いやった裏切り者ということで各福音書でもかなり悪者扱いで「マタイによる福音書」では最後の晩餐の際にイエスが「この中に裏切り者がいる…その人は生まれなかったほうが彼のためによかったであろう」なんてセリフを吐いてユダを裏切り者としっかり名指ししているし、ダンテも『神曲』でユダを地獄に落としてもっともひどい苦しみを与えている。そういえばオウム真理教の幹部・村井秀夫が刺殺された時に「ユダ」と口走ったとの話もあったっけ…(いしいひさいちは「ジョーユーダ」というギャグにしていた)

 しかしよく考えてみるとキリスト教的にはイエスは人間の原罪を背負って宿命的に磔刑にされなければいけない(そして復活しなければいけない)わけで、ユダの裏切りはイエスとしても「予定どおり」のはずなのだ。実際聖書の中のイエスはユダの裏切りを事前に予知していたように描かれ、上で引いた最後の晩餐の場面でも「確かに人の子は自分について定められている通りに去っていく。しかし人の子を裏切るその人は災いである」とイエスが言うし、ユダ惨死を伝える「使徒行伝」でもペテロのセリフに「イエスをとらえた者たちの手引きになったユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言したその言葉は成就しなければならなかった。彼は私たちの仲間に加えられ、このつとめを授かっていた者であった」とあり、ユダにはユダの「つとめ」があったととれる記述をしている。つまりユダが裏切らないと「キリスト教」そのものが成立しないわけで…こうした発想は近代になると少なからぬ知識人に表明されるようになり、数年前にBBCが製作したイエスの実像に迫るTV番組でも「聖書をよく読むと、イエスは自分の逮捕・処刑という運命を事前に十分理解しており、ユダと示し合わせてやっていた可能性が高い」という“大胆推理”を再現ドラマつきで描いていた。

 そんなわけで、今回発表された「ユダの福音書」の内容自体は、僕にはそう耳新しいものではなかったりする。例のBBCの番組を作ったスタッフもパピルス文書の解読状況を聞いて作っていたのかもしれない。
 今回発表された「ユダの福音書」の内容には、まさに「イエスがユダに裏切りを指示した」ことが明記されている。実はユダはイエスの弟子の中でもっともイエスの教えを理解しており、イエス自身の指示によって彼を磔刑で死なせることによりその肉体から魂を「救済」するという重大な「善行」を行ったのだ、という内容らしいのだ。イエスがユダに「お前はあらゆることがらを越えていくだろう。なぜなら、お前はわたしを包んでいるこの男を犠牲にするからである」と諭すセリフがあるそうで、肉体は汚れていて魂が救済されなければならないとした「グノーシス思想」の影響が強いと指摘されている。

 発表した研究者達も釘を刺しているが「歴史をくつがえす衝撃の事実が明らかに!」といったたぐいのものではない。そう書いてあったからといってそれが史実とは断定できないのは「聖書正典」と同じこと。ただ、キリスト教の初期段階でこういう発想が確かにあったという重大な証拠物件には間違いない。



◆ついに?また?イチロー登板

 「史点」を休んでいるうちに民主党がまたドタバタを演じて絵に描いたような自滅、気がついたら代表選挙の結果、あの小沢一郎氏が民主党の新代表になっていた。
 この人、評価は激しく分かれるところだが90年代以降の日本政界の台風の目であり続けた政治家には違いない。今回の恒例でこの人の「史点」初登場を調べてみたら、早くも連載開始第3回目の1999年2月25日付で初めて名前が登場している。ただし都知事選にからめての過去の話題の中で、この人が自民党の幹事長をつとめていた時に当時の鈴木俊一都知事を下ろそうと元NHKキャスターを候補に立てて惨敗という不名誉なネタだったが。小沢さんが自民党内で権力の階段を駆け上がっていた時期の話だが(「海部後」の総裁選をめぐり宮澤喜一ら首相候補を「面接」したのは語り草だ)、今にして思うとこの辺がケチのつき始めだった気もする。

 その後旧竹下派内部抗争で野に下った小沢氏は細川・羽田の非自民連立政権の立役者となったが、ここで社会党を焦って斬り捨てたために村山「自社さ」連立に政権を奪取される。小沢氏は二大政党体制を実現しようと巨大野党「新進党」を作り上げたが常に自分は黒幕に回って飾り物の党首を立てるという悪癖を繰り返し、いつしか味方がドンドン減っていってやむなく自分が党首になった時には新進党が空中分解するハメになってしまった。その後「自由党」を率いて自民と連立を組んで政権参画を果たしたが、公明党と連立した自民党に2000年4月にアッサリと斬り捨てられる。この時に自由党から「保守党」が分離して自民とくっつき(その後こちらもドタバタのすえ自民に合流)、小沢さんはますます仲間を減らして「政党クラッシャー」の異名を確定することになる。だが小沢さんという人が顔同様に怖い人なのも事実のようで(汗)、上のシャロン首相のネタで引き合いにしているように、このとき「小沢切り」を決断した小渕恵三首相は心労からかその直後に脳梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。
 その後浪々の身が続いたが2003年11月の総選挙を前に民主党に合流。2004年春の「年金騒動」で菅直人代表が辞任した際にいったん暫定代表に確定したが、自身にも年金未加入時期があったことが判明して辞退している。その後岡田克也前原誠司と若手代表でドタバタをくり返した民主党は、ここでベテラン登板とWBCにちなんだわけではあるまいが「イチロー」がついに代表になったわけである。

 「史点」では以前にも「小沢一郎衰亡史」というネタを書いたことがあるのだが、それからまたまた紆余曲折が起こるお人である。誰もが思うのがこの小沢さんが「政党クラッシャー」の本領を発揮(笑)して民主党をブチ壊しちゃうんじゃなかろうか、という予測だが、一方で世論調査を見ると不思議と昔からいる「小沢信奉者」もまだ健在のようでそこそこ支持は集めているみたい。まぁ前がひどすぎたということかもしれないが。
 ただ意外にも(?)小泉首相は民主党小沢体制を警戒するような発言を続けている。どうも一番警戒しているのは小沢さんがもつ旧竹下派人脈・金脈のようで、小沢さんが民主党内の旧社会党一派を斬り捨てて自民党内および先の選挙で自民党から追われた反小泉勢力を結集する大連立を組んでくるのでは…ということのようだ。確かに「剛腕」では鳴らした小沢さんなので「やりかねない」とは思える。
 ただ、この人、過去の経緯からすると致命的に人望がないんだよねぇ…自身もいい加減くり返したから分かってはいるようで「私自身が変わらなければならない」と言ってはいる。だが多くの人が言うようにこれまでがこれまでだから、その年で急に変われるものなのかと思うところ。直後の千葉7区の補選の公布日にも党首自らは顔を出さず菅代表代行(これもよくわからん肩書きだな)を送り込んでいるあたりにもそんなところを感じるのだが…。


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