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2006年5月8日

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◆今週の記事


◆「世界の屋根」のその下で

 「世界の屋根」のあるあの国、どうやらとりあえず「ひと山」を越したらしい。まだこれが「第一ベースキャンプ」なんだろうけど。

 ここ数週間、ヒマラヤの麓の王国ネパールは「革命前夜」のような騒ぎになっていた。ギャネンドラ 国王が「国王によるクーデタ」で議会を解散し、国王による直接統治を強行し続けてすでに14ヶ月、民主化を求める全政党(その中には武装闘争路線で何かと事件を起こす「毛派」も含まれる)が国王統治反対で結束し、これに国民の多くが同調するという緊迫の事態になっていたのだ。

 ギャネンドラ国王といえば、その王位につく経緯をめぐって世界的に注目され「史点」の話題(2001/6/11付)になったこともある。2001年6月2日、ディベンドラ皇太子が宮殿内で銃を乱射し、父のビレンドラ 国王や王妃をはじめ多くの王室メンバーを殺害、自身も自殺してしまうというとんでもない事件が発生、わずかこの皇太子は2日間だけ存命していたので意識不明のまま「即位」して二日後に亡くなり、そのあとを継いだのがビレンドラ王の弟であるギャネンドラ現国王なのだ。当時僕も書いているが、「事件で一番得をした者が真犯人」という発想からギャネンドラ新国王には事件直後から疑惑がささやかれ(彼の息子パレス殿下が現場にいながらしっかり無傷で助かったことも疑惑を呼んだ)、このギャネンドラ国王の政治姿勢が保守的・非民主的としてもともと国民に嫌われていたことも彼への不信を招いた。

 そしてその懸念どおりギャネンドラ国王は2002年10月に「国王による政変」を起こしてデウパ首相を解任、国王寄りのチャンド 首相にすげかえた。これに主要政党が反発して毎年のように首相が交代する事態が続き、とうとう2005年2月にギャネンドラ国王は再びデウパ首相を解任して自ら直接政権を掌握する「クーデタ」を実行、「緊急事態令」を発動して基本的人権の一部制限や報道管制を行い、政党指導者を拘束するなどあからさまな「国王独裁政」を敷き始める。議会下院は2002年に解散されたまま選挙は行われず、国内のみならず国外からも批判を受けていたわけだ。
 こうした国王独裁政治が、それでなくても暴れている「ネパール共産党毛沢東派」の武装闘争を活発化させ、それに貧困層や少数民族の一定の支持が集まるという形でなおさら混乱を招いていた。この「毛派」というのは現在は同国第二勢力の政党である「ネパール統一共産党」の極左派が王制の武力打倒を主張して1995年に分離したもので、まさに毛沢東よろしく「農村から都市を包囲」の戦略に乗って、なんだかんだで国土の半分ぐらいは掌握してしまっていると言われる。

 2005年11月、国王との対立を深めた主要7政党は、これまで一線を画してきた「毛派」と初めて連携して国王主導の選挙に反対し、新憲法制定の議会選挙の実施を求めることで合意した。これに対して国王は2006年1月に政党幹部や人権活動家らを、その名も「治安維持法」に基づく「予防的拘束」で逮捕する強硬措置に出る。直後に行われた国王主導の地方選挙は政党のボイコットもあって投票率22%、約4000の議席のうちおよそ半分に候補者が出ず無投票当選が約1200議席というムチャクチャな選挙になってしまう。

 事態が一気に緊迫化してきたのは4月から。各地で民主化要求のデモやゼネストが発生、これを鎮圧しようとする治安部隊との衝突が起こって、死者が出始めたのだ。まぁ毛派のテロによる死者より少ないのは確かだが、仮にも国王の手先が民衆を死なせてしまうという事態には、これまで政治色を明確にしてこなかった市民にも「反国王」の意識を広げることになった。国王側は外出禁止令や携帯電話サービス停止などの強硬措置もとったが混乱は収まらない。
 ネパールの暦で新年(ネパール暦2063年だそうで)の始まりにあたる4月14日にギャネンドラ国王は声明を発表、「選挙を通じた複数政党制による民主主義の実践」をとなえてデモやストを批判し、来年に実施予定の総選挙までの国王直接統治維持の姿勢を示した。これは火に油を注ぐ結果になり、政党側は抗議行動をいっそう強化、20日にはデモ参加者が20万人にもふくれあがり、国王の退位、さらには共和制への移行まで強く叫ばれるようになってしまう。
 ネパールとは深いかかわりを持つ隣国インド(ここも国内に「毛派」の問題を抱えている)も事態を懸念して特使を派遣、ギャネンドラ国王に妥協を迫る一幕もあった。

 21日夜、ギャネンドラ国王はテレビに出演して「憲法の規定に基づき、行政権を国民に戻す」と表明、主要7政党には新内閣をつくるため新首相を選出するよう求め、毛派には「憲法の手続きに反する者たちは、政治の主流に戻って欲しい」と停戦と議会への参加を呼びかけた。しかし政党側は国王の権限を制限する憲法制定のための議会選挙を求めるとしてこれを拒否、25日にも首都カトマンズでの大規模デモを行うとして、まさに「革命前夜」の様相となってきた。
 こういう場合、国王の力を最終的に保障する軍隊が国民側についてしまったらそれで終わりだ。どうもこの方面で不穏な動きでもあったんじゃないかと思われる。大規模デモを翌朝に控えた24日夜、ついにギャネンドラ国王はテレビ演説で「下院議会を28日に招集する」と明言、主権が国民にあることを明確に認めて「ネパールが持続可能な平和や進歩、本格的な民主主義と挙国一致体制に向けて、前進することを確信している」と述べ、一連のデモ・衝突で亡くなった14人の犠牲者に哀悼の意も表した。ドタンバでの国王の降伏宣言(といって退位するわけではないが)と言え、主要政党はこれを受け入れると表明して、25日のデモはそのまま「勝利祝賀集会」に姿を変えた。毛派もこれを受けて26日に3ヶ月間の一方的停戦を表明している。

 27日、主要政党の推薦により最大政党・ネパール会議派の総裁であるギリジャ=プラサド=コイララ 氏(84!)が新内閣の首相に決まった。コイララ氏は過去に何度も首相を経験した政界の重鎮というお方なのだそうだが、いかんせんかなりの高齢。その不安を裏付けるかのように翌28日に四年ぶりに招集された下院議会にこの老新首相は「呼吸器疾患」のために欠席、予定されていた就任式も行われないことになってしまった。30日になってようやく王宮で就任式が執り行われたが、医師も同行してようやく王宮に入り、式後はすぐ執務に入る通例を破ってすぐに帰宅してしまっている。こういうややこしい情勢なので当たり障りのない人をかつぎ出したということなんだろうけど、各党の若手政治家たちや国民の間では不満が広がってもいるようだ。

 とりあえず今回の運動で連携した主要7政党全ての代表が参加する内閣が作られ、下院議会では国王権限の制限をふくんだ新憲法の審議に着手しているが、やはり問題は毛派。主要政党は立憲君主制維持という立場だが、毛派はあくまで王制廃止・共和制移行を主張しているわけで、話はそう簡単にはまとまらない。コイララ新首相は過去に彼らとの交渉で実績があるところを買われたらしいのだが…

 ところでこの騒がしい時期に、こんなニュースも飛び込んできた。
 ギャネンドラ国王の長男で、例の「王室乱射惨殺事件」の現場にいながら無傷だったパレス皇太子(34)が、29日にゴルフからの帰り道、カトマンズ市内で猛スピードで自動車を運転、バスに激突してそのまま「当て逃げ」したというのだ。時期が時期だけになんちゅードラ息子だと思うばかりだが、この王子様、なんと過去に2度も「ひき逃げ」事件を起こしているのだ。一度はタクシー運転手をひき殺し(時期未確認)、2000年8月には王宮近くで人気歌手をひき殺している。しかも後者の事件では王子は女性問題でその歌手から注意を受けた事を根に持っての犯行との報道もあり、当時のビレンドラ国王は「行いを改めねば王室籍を剥奪する」と警告したという。で、例の乱射事件はその翌年のことで、結果的に彼はこの事件により「皇太子」の地位を得ているわけだ。だからあれこれ憶測を呼んでいるわけで、ギャネンドラ現国王が退位した場合、このドラ息子が王位につくことになると恐れている人も少なくなさそう。
 


◆ソ連も遠くなりにけり

 先日、仕事先の倉庫から古い古い大型世界地図を引っ張り出して授業で使う機会があった。長いこと使用されてなかったそうだが世界の国々の説明に便利そうだったので引っ張り出したのだ(いつもだと黒板にチョークで一筆書きの世界地図を描くのだぞ。社会科講師はこの技を身につけなきゃイカンのである)。ある程度予想はしていたが、この地図にはデカデカと「ソビエト連邦」 が描かれており、中央アジアの「〜スタン」各国、バルト3国やウクライナなどの名前はその中に含まれるということで全く描かれていない。少なくとも15年以上前に作られた地図であることが分かる。お蔵入りになっていたのも無理がないのだが、「かつてこういう国がありました」と歴史とからめて説明できるというメリットもあるのでそのまま授業で使ってしまった。
 「ソビエト社会主義共和国連邦」が解体されたのは1991年12月25日。この年の8月に起きた保守派による三日天下クーデターがその解体を決定的にしたのだが、その直前まで「ソ連が消滅する」とまで思った人はあまりいなかった気がする。ソ連解体の11日前に公開された怪獣映画「ゴジラVSキングギドラ」の中で23世紀の未来人が「ソビエト」が自分の時代に存在していることを言うセリフもあった。まぁこのころは「ソビエト」は国家とか政治組織というより「地名」に近い感覚で使っていたような印象があるが…
 
 このソ連の末期、今となっては解体過程の象徴的事件だったかもしれないと思えるのが1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原子力発電所爆発事故 だ。今年の4月26日で発生からまる20周年を迎えた。いや〜時がたつのは早いものだ。あのとき日本にいた僕だが、学校へ通う雨に濡れるのすらちょっと怖かった覚えがある。なお、この年は1月にスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故、11月には大島三原山の噴火と「爆発」づいた年でもある。
 このときソ連はゴルバチョフ書記長が登場し、いわゆる「ペレストロイカ」(建て直し)と「グラスノスチ」 (情報公開)が始まっていた時期にあたる。行き詰まりを見せていた社会主義国家ソ連の建て直し・再生を図ったこの一連の改革は東西冷戦を終わらせたことで評価もされることになるが、ソ連そのものはこの改革を通して矛盾が噴きだし再生どころか解体になるという皮肉な結果につながっていく。
 それはともかく、それまで官僚国家ならではの体質からあらゆる面で秘密主義が目立ったソ連において「グラスノスチ」は大きな変化だった。それが始まる矢先に起こったのがこのチェルノブイリ原発事故で、当時のソ連首脳たちがこの大事故の情報をどのように公開するか激論を戦せていたことが、このたび議事録が公開されたという報道があった。この事故関連の取材を続けている女性作家アラ=ヤロシンスカヤ氏が入手したもので、事故20周年を期して出版される本に収録されるとのことだ。

 チェルノブイリ事故は26日未明に発生、ソ連当局は直後にはこれを世界に公表しなかったが翌27日には周辺住民の避難を開始している。事故によって拡散した放射性物質が27日にスウェーデンなどで確認されたことで外国から事故発生が報じられ、結局28日になってソ連も原発事故が起こったこと自体は公表した。ただしどこまで情報を出したものかソ連指導部ではまだモメていたことがこの「4月29日のもの」という議事録からうかがえるという。
 この議事録によれば、さすがにゴルバチョフ書記長は「正直に行動することが最善の道」とグラスノスチそのままの姿勢を見せたそうだが、一方で「公表の際、我が国の原発設備の名誉が傷つかないよう、原発は修理中だった、と言わなくてはならない」とソ連当局のメンツを保つための情報操作も示唆していたという。グロムイコ最高会議幹部会議長が「兄弟諸国(東欧など社会主義体制をとるソ連衛星国)には、多く情報を提供し、西側には対しては一定限度の提供にとどめるべきだ」と発言したとか、ジミャニン党書記が「爆発は起きておらず、放射能漏れが生じただけだ、と発表することが大事だ」とこの期に及んで事故そのものを隠蔽しようと提案したという記録もあるそうだ。
 
 さていわゆる「ソ連型社会主義国家」を作り上げたといっていいのがスターリンレーニンの後を引き継いでソ連の工業化・軍事大国化を推し進めて第二次世界大戦を指導したという「功」の面よりも、凄まじい個人崇拝と大粛清を行った独裁者としての「罪」の面のほうが多く言われる人なのは確か。その死後、後継者のフルシチョフによる「スターリン批判」が出た後はさすがに神格化ははばかられたが、今日に至るまでときおり「評価復権」の動きも見られる。
 そのスターリンの「神殿」を再建しようという動きがあるんだそうで。場所は東シベリアのクラスノヤルスク地方トゥルハン地区クレイカ村。革命運動家時代のスターリンがここに流刑になったことがあったという縁でスターリン時代末期の1940年代に「聖地」として整備され、高さ10m、広さ400平方mの「スターリン廟」が建設され、正面にはスターリンの銅像、内部にスターリンが流刑時代をすごした丸太小屋が再現され展示されていたという。しかしフルシチョフの「スターリン批判」が出たことで「廟」は閉鎖され、スターリン像もエニセイ川に投げ捨てられていた。
 ところがここに来ていきなりの再建計画が持ち上がり、話題を呼んでいる。それも単なる神殿の再建ではない。なんと「スターリンランド」(スターリングラードではない)なるテーマパークを建設する計画だというのだ!ブチあげたのは地元で旅行会社を経営するポノマリョフ氏という人物。ポノマリョフ氏は旅行博覧会でこの計画を発表し、高さ3mのスターリン銅像もすでに発注済みと明かしたという。例の丸太小屋も再建して8月にはオープン、その後順次施設を拡張して一大テーマパークにするおつもりなんだそうな。

 すでに地元政府の許可もとっており、地元政府の観光担当は「南国で観光客を呼ぶのは簡単だが、北国はそうはいかない」と話に乗り気なコメント。ポノマリョフ氏も「あくまでビジネスであって政治的意図はない」と言っているという。たぶんそれも事実で一種の「村おこし」なのだろうが(最近我が伝言板でも日本全国の変なテーマパークのことが話題になっていたっけ)、あのスターリンのテーマパークという企画には「悪趣味」と声が上がるのも無理はないところ。
 それにしてもスターリン像と丸太小屋以外になんのアトラクションを作るつもりなんだか、そのほうに興味があったりして(笑)。「スターリンランド」なんて聞くと、脳裏にスターリンの着ぐるみをつけた人がいっぱい園内を歩いている光景が…来るのか、客が(笑)。そういやレーニンの遺体を引き取って観光の目玉にしたいという話もあったっけな。

 ソ連といえば、4月末にウクライナで生存していることが判明した旧日本兵が63年ぶりの一時帰国をしたという話題もあった。岩手県出身の上野(うわの)石之助 さん(83)という人で、1943年に当時南部が日本領だった樺太に出征し、戦後ここがソ連領となってからも現地に残り、1958年以降は消息が途絶えていた。事情は良く分からないが2000年に「戦時死亡宣告」が出されて一族の墓にもその名が刻まれていたという。実際には現地女性と結婚し製材工場で働いていた上野さんはウクライナに移住し、一男一女をもうけて、第二次大戦後の冷戦からソ連崩壊にいたる60余年をそこで生き抜いていたのだ。
 63年ぶりに日本に帰って来た上野さんはすっかり日本語を忘れて全てロシア語で話していたが、言語学者の意見では20歳前後まで日本で育ってあそこまで完璧に忘れるというのはかなり珍しいのではないかという。全く話す機会がなかったというだけではない「何か」があったのかもしれないが、それは本人のみぞ知る、なのだろう。その間の事情を質問された上野さんは「ただ、運命だったと思う」とロシア語で答えたという。



◆なん中華ほん中華

 ロシアに続いて中国の話題をいろいろ。

 中国が一番「売り」にするのは、やはり「歴史の蓄積」だろう。古い、というだけでなく古代文明発生地がほぼそのまま文化中心地であり続けたもんだからその蓄積の度合いというのはやはり凄いといわざるを得ない。今も使ってる漢字一つとったって甲骨文字の時代から形を変えつつもほぼそのまま使っているようなもんだし。そういう国だから何かというと古い歴史に絡んだニュースが多くなる。

 4月18日、中国国営新華社通信が「1000年前のブラジャー出土」と報じた(笑)。場所は内モンゴル自治区の赤峰市の遼(916〜1125。契丹族が起こした国で南の宋を圧迫、遊牧民・農耕民の二重統治をしたことで知られる)の時代の墓から発掘されたものだという。発掘自体は2004年に済んで出土品は市内の博物館に収蔵されていたが、このたび研究の結果肩ヒモや背中の帯がついていたことから「ブラジャー」(中国語では「文胸」または 「胸罩」。最近は前者が主流らしい)と判断されたらしいのだ。遊牧民・契丹族の女性が身につけていたものと推測されている。
 けどこの話、面白かったんでいろいろ検索して調べてみたのだが、どうもまる2年前の発掘の段階で「「胸罩」が出土」って地方の記事が見つかったんだよね。この時点で判明していたんだけど2年後の今になって公式発表でもしたのか世界ニュースとして流れたものらしい。しかもどうもこの墓は盗掘にあっているらしい。墓泥棒も下着泥棒の趣味はなかったか(笑)。


 同じ18日の産経新聞web版に「『少林寺ビジネス』是か非か 仏教の聖地 商業化に論議」という記事が載った。「少林寺」といえば「拳法」と誰もが続けてしまうほど、お寺というよりも中国拳法の聖地として名高い。なお「少林寺拳法」と言った場合はこの寺とは全く無関係の日本の武道&宗教団体を指すことになるのでややこしい。
 少林寺は中国は河南省嵩山にある禅宗の本山となる名刹だ。創建は496年(太和20年)、北魏の孝文帝(一発変換するぐらいの有名人である)によるとされており、6世紀にあの達磨さんがころんだ、もとい、ここで壁に向かって座禅を組んだという伝説もある(史実とは思われていないらしい)。とにかくこれまた歴史は古い。
 ここがいつから、なぜ武術・拳法の本場になったのかは良く分からない。伝説ではその達磨さんが開祖ということになってるらしいが信用できないとしても、唐の太宗(7世紀)の身辺を少林寺の僧兵たちが守ったという逸話があるらしいから、意外に早い。ずっと時代を下って明代、16世紀半ばの「後期倭寇」の動乱の際にも少林寺僧兵がわずかながら動員されたという話もある(これは僕の専門ジャンルなので)
 しかしなんといってもここの名前を高めてしまったのは一連の「カンフー映画」だろう(笑)。ブルース=リーは「燃えよドラゴン」で少林寺の弟子ってことになってたし、ジェット=リーのデビュー作「少林寺」はそのイメージを世界的に決定してしまった。最近だとチャウ=シンチーの「少林サッカー」ですか(笑)。
 ま、とにかくそんなこんなで世界的に有名になっちゃったこのお寺。今年3月にはロシアのプーチン大統領(ご存知、元KGBにして黒帯の柔道選手でもある。中国語では「普京」と表記される)も少林寺を訪問して「武僧」たちの演武を見物したんだとか。世界中からの観光客は年間100万人とも言われ、演武などイベントもTV局とのタイアップ、海外公演なども展開して、寺の年間収入は1500万元(約2億2500万円)に達すると中国の週刊誌が試算したという。
 聞くところによると釈永信住職がかなりのビジネス才覚の持ち主のようで、「少林実業」なる子会社を経営してお茶やお菓子・薬などの「少林グッズ」の販売、出版事業や武術教室まで展開しているんだとか。またこうした商売展開のために「少林寺ブランド」を確立して「偽物」を徹底的に排除しようと躍起になっているという話も昨年あたり聞いた気がする。
 本来宗教施設、それも禅宗の本山であるはずの少林寺の露骨な商売っ気には批判の声も上がっているそうだが、釈永信住職は「少林寺の商業化は中国仏教発展の趨勢だ」と開き直ったコメントをしているそうで。まぁ日本の坊主も金にうるさいことでは定評があるが…

 
 4月20日、アメリカを訪問していた胡錦濤国家主席(英語だと「President」で大統領と同じになる)ブッシュ大統領と会談を行ったが、この際に「孫子」をプレゼントするらしい、という報道が流れた。そう、あの兵法書の「孫子」である。
 「孫子」は紀元前6世紀に生きた兵法家・孫武の書とされるもので、2500年ものあいだ兵法のバイブルとされた存在。日本の武田信玄がこの中から「風林火山」を引っ張り出して旗印にしたのはあまりにも有名だし(南北朝時代の北畠顕家の前例があるのはあまり知られていない)ナポレオン毛沢東ホー=チ=ミンなどなど洋の東西の有名人が「孫子に学んだ」とされている。とにかく世界的な超有名書籍といっていい。
 報道によると胡錦濤主席は絹製「孫子」を中国語・英語ワンセットで編さんしてプレゼントするのだという。19日の段階で報道が出ていたが、実際に渡したのかどうかはまだ確認していないが、まぁ渡したんだろう。その意図については「あなたもこれを読んで勉強しなさい」という皮肉なんじゃなかろうかという見方もある(笑)。

「百戦百勝、非善之善者也。 不戦而屈人之兵、善之善者也」
(謀攻編)
(百戦して百勝することが最善ではない。戦わずして相手の兵を屈することこそが最善である)
「知彼知己、百戰不殆」(謀攻編)
(相手を良く知り、自分自身も良く知れば、百戦しても負けることはない)
「戦勝攻取、而不修其功者凶」(火攻編)
(戦いに勝って城を奪っても、その目的を果たさなければ意味がない)

 …やっぱり皮肉なんじゃないのか、これ。


 26日には中国ゴルフ協会と故宮博物院の研究チームが、12世紀・北宋時代の中国で「捶丸」(球撃ち) なる球技があり、これが「ゴルフの元祖」ではないかという説を発表した。なんでも北宋時代ではなく後の元の時代の史料「丸経」にこの「捶丸」が北宋時代にすでに流行していたとの記述があり、元では貴族の遊びとしてルールも確定していたという。明代の宮廷画にもこの「捶丸」と思われる球技で遊んでいる光景が描かれているとかで、研究チームは「捶丸」に使うクラブやボールの再現品も公開した。
 通説ではゴルフは14〜15世紀のスコットランドで始まったとされる。それが現在のゴルフにつながっていったのは間違いないのだが、今回の説はそれをさかのぼって「中国で出来たものが向こうに伝わったのかも」という主張だ。しかしその関連を証明することはまず無理ってもんだろう。道具を見る限りむしろ「ポロ」に近いと思えたし、確か北宋ごろには北方遊牧民はポロみたいな遊びはしていたという話を聞いた覚えもあり、それの「馬を使わない版」なんじゃないかという気もした。結局は明より後の時代では中国でもやんなくなってたわけだし。
 この記事を読んだ日本人の多くが「民明書房」の「呉竜府」を思い出したはず。この記事が流れた直後、ネット上じゃみんなそればっか書いてた気がするし(笑)。なお中国語では「高爾夫」と書くのだが、これは昔北宋の時代に高爾夫という人物が棍を用いて地面に置かれた鉄球を打ち、その正確無比な打球で遠距離の敵を倒…(以下略。民明書房刊「中国武術与運動」より)


 書くのを遅らせているうちにさらに中国ネタが入ってきた。以前から国交樹立か否かであれこれ折衝が続いているバチカン市国(中国語では「梵蒂岡城国」)との関係である。
 バチカン市国といえば言わずと知れたカトリックの総本山。国としてはディズニーランドより狭いくらいの極小国だが、世界で一番多数の信者をかかえる宗教団体の元締めであり、その影響力はバカに出来ない。ここが中国と国交を結ぼうとしているという話は以前にも書いたことがあるが、なかなか実現しない状況が続いている。バチカンは世界最大の人口をもつ「布教市場」として中国が欲しい、中国も台湾との関係上バチカンと国交は結びたい、と、どちらも国交を結ぶ方向で思惑は一致しているのだが、中国がガンとして認めないのが中国国内のカトリック団体の聖職者の任命権をバチカンに認めることだ。つまり自国内に外国が干渉する要素を入れることになると抵抗しているのだが、これについてはバチカンも認めるわけにはいかず、ず〜〜っとこの問題で折衝が続いている。
 4月30日に中国政府公認のカトリック団体「愛国会」が雲南省昆明教区の新司教を任命、さらに5月3日に安徽省蕪湖教区の新司教も任命した。この人事はバチカンはあずかり知らぬことで、香港教区の陳日君枢機卿も反対したが強行され、神父たちには任命式への出席するよう当局から圧力がかけられたという。怒ったバチカンのローマ法王庁はこの二人の司教を「破門」し、「法王ベネディクト16世が深い遺憾の意を示した」とする声明を発表した。
 お互いに譲らない、という形でまた両者の関係は遠のいた…と見えはするんだけど、またくり返すのかもしれませんな。



◆愛という名のもとに?

 すでに日にちが経ってしまったが、先日竹島を巡って日韓間でひと騒動が起こっていた。直接のきっかけは韓国側が6月の国際会議で海底地形の名前を韓国語に変更して領有の既成事実化を図ろうとした(「日本海」を「東海」にしようという運動と重なるところもある) ことにあり、日本側がそれに対抗して竹島周辺の海洋調査をする姿勢を見せ、一時一触即発の情勢とも言われたが、結局双方どうにでもとれる曖昧な形の両者引き揚げで決着した。というかこういう形で決着するしか収拾しようがないのは最初から見えていて、何日目にそうなるかなと僕などは眺めていたところがある。補選の投票日当日ぐらいに決着かな、とヤマを張っていたのだが、意外にも一日前だった(笑)。

 この騒ぎの最中と終わったあとで韓国の盧武鉉(ノ=ムヒョン)大統領はこの件を靖国参拝問題や歴史教科書問題とからめて日本政府を批判する談話を出していた。どこまで分かった上で話していたかは分からないが、その内容はいささか表面的で定番表現に過ぎた嫌いもある。そりゃまぁ今の日本に右傾化してる人たちがいるのは事実だが、いわゆる「妄言」は昔からあることだし、竹島領有権主張だって最近急に出てきたわけでもない。靖国神社や歴史問題では保守系勢力とは180度ぐらい意見を異にする人々も含めて、日本国内で日本の竹島領有に異議を唱えてる人はほとんどいないということは念頭に置いたほうがいいだろう。歴史問題では自民党とは一番離れた見解をもつと言える共産党ですら竹島領有については全く譲っていない(もっともこの政党は千島列島全部の領有を主張するなど領土問題では「最右翼」だったりするが(笑))
 韓国は韓国で1905年の日露戦争の最中という微妙な時期に日本が領有していることもあってこれを「植民地化の端緒」ととらえているし、日本の竹島周辺調査は(自民党の久間章生総務会長が例えていたように)尖閣諸島に中国艦船が無断で調査に来た時に日本が感じるような感覚になるのは予想できる。双方譲らず、まさに奥歯にはさまったトゲ状態で、「歯痛的経済水域」とはよく言ったものだ、って何を言ってるんだ俺は。

 歯痛的経済水域といえば、この騒ぎでほとんどクローズアップされなかったが、日本の最南端・沖ノ鳥島について「あれは島ではなく岩だ」と台湾当局が日本政府に対して主張し始め、注目されている。
 沖ノ鳥島は満潮時にはかろうじて二箇所の「岩」が6cmだけ海面上に出る程度の珊瑚礁だが、経済水域を確保するために日本はこれを「島」と主張し岩部分を保護するために周囲をコンクリートで固めているというのは社会科授業でも必ず習う話。これを「島ではなく岩」とする主張は以前から中国が行っていて日本と対立しているが、ここに台湾が同様の意見で参入してきたわけだ。台湾自身は「別に中国の意見に影響されたわけではなく独自の判断」と言ってるそうだが、沖ノ鳥島周辺の漁場に関心があるのではないかとの見方もある。思い起こせば尖閣諸島の領有権だって台湾のほうが中国より先に言い出したことだったんだよな。

 民族雑多な海賊集団を中心に海上世界を研究テーマにしてる僕などからすると、こうした近代的な島と海洋の領有論争は正直バカバカしいという感覚なのだが、とくに韓国にとって「独島(ドクト)」は日本相手だけになおさらナショナリズムをかきたてるアイテムになっちゃっているのは確か。かつての軍事政権時代から民主化を実現していった過程でかえって「愛国心」を盛り上げる風潮がでてきたことも否めない。日本の自由民権運動にも言えることだが、得てして「民主化運動」というやつはその時の抑圧体制に対抗するために「愛国心」をエネルギー源とするものだ。しかし昨年の中国の「愛国無罪」騒ぎもそうだが、「愛国」と唱えると天下御免という状況はハッキリ言って鬱陶しいものでしかない。愛国はアイルランドだけにしてくれよ、と。

 で、こうした中、日本では教育基本法の改正案が自民・公明両党の間でまとまり、今国会に提出されることが決まった。ここでも議論になっているのが「愛国心」を入れる入れないの話で、自民党は結党以来半世紀の悲願で「国を愛する心」という文言を入れようとし、宗教政党であるところの公明党はこと「心」に関しては絶対に譲らないというせめぎ合いをやっていた。結局は「愛」はいいとして「心」はダメということのようで、合意案では「教育の目標」項目の最後に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」という、いろいろくっつけて当たり障りを少なくした、まさに「寄木細工」な文言にまとめられた。
 この部分ばかりが話題になっているが、他にも義務教育「9年」の明記を外したこと、幼児教育・生涯学習の項目や生命・自然・環境への言及だとか付け加わった点も多い。どうも気になるのが法案条文の最後に出てくる「教育振興基本計画」なるものを政府が作る義務を定めていること。文部科学省のお役人さんたちはむしろこっちを重要視してるとの話もあるが、予算獲得の道具ってことはあるまいな。

 ともかく成立以来初めて教育基本法の改正案が国会に提出されたわけだが、自民党とそれを支える保守陣営にとっては憲法改正と並んで実に半世紀に及ぶ悲願だった。しかし憲法ともども半世紀も改正案の提出すら実現しなかったというのは長い目で見ると衰退を続けてるとしか見えない自民党史からすれば意外でもある。今回は公明党と組んだからこそ実現したわけなのだが、そのために入れたがっていた多くのことを外されて「骨抜き」にされており、これがそっち系統の人々の強い不満になっているのも事実。つい先日も超党派の保守(というかこういうのは「反動」とか「原理主義」というんじゃないのか)系議員たちが「愛国心の明記」「宗教的情操の涵養の明記」「“教育は不当な支配に屈することなく”の文言の排除」 の3点を改めて求めていたが、これをあの公明党が認めるわけはないわなぁ。このあと「参議院では自民単独では過半数に届かない」と公明党が露骨に脅しをかけていたし(汗)。ただ現時点では教育基本法および国民投票法案も会期内の法案成立は微妙で継続審議になるのでは、との見方も出ている。

 ところでその超党派の保守系議員というのは昨年は郵政民営化に反対し、今年は皇室典範改正に反対した議員たちと全てではないものかなり重なり合う。女系天皇には反対、その前提となる可能性の高い敬宮愛子ちゃんの即位には反対して心を苦しめると、「アイコクシン」とはよく言ったものだ(笑)。

   おあとがよろしいようで、この話題は下の話に続く。



◆「つくる会」仁義なき戦い

 さてこの皇室典範改正論議で、旧宮家による男系維持の根拠に「Y染色体」を持ちこんで失笑を買い、三笠宮家の寛仁(ともひと)親王が男系維持論を唱えた(無理だろうとはしつつ「側室制度復活に大賛成」とまで言ってたな)のに乗じて宮内庁を「朝敵」呼ばわりしたり「このままでは南北朝になる」と14世紀にタイムスリップしたような発言を繰り返していたのが高崎経済大学助教授である八木秀次氏だ。この人、あの「新しい歴史教科書をつくる会」の三代目会長をつとめていた…つい二ヶ月前まで。3月初めにいきなり会長職を「解任」され、同じ月の末に副会長になり、4月の末にまた辞任に追い込まれて会そのものからも離脱(放逐かもしれん)という、ネパールもビックリの急展開な人生を送っていたりする。
 あまり大きく報じられてないが、この何かと話題をふりまいてきた「つくる会」、ここ数ヶ月ばかり凄まじい内部抗争を繰り広げていて、一部マニアの注目を集めている(笑)。個性的なキャラたちによって演じられる、逆転につぐ逆転、怪文書や怪FAXが飛び交い、裏切りと謀略と怨念が渦巻く大乱戦で、小説化・映画化を希望したいぐらいの息詰まる展開。関係掲示板で「仁義なき戦い」と表現している人を見かけたが、抗争の当事者が経緯を暴露している点も似てるかもしれない。

 そもそもこの「つくる会」、1997年に自由主義史観研究会の藤岡信勝氏(当時東大助教授)が西尾幹二氏ら保守言論人を結集して発足させ、ここ10年近くなんだかんだでいろいろ活動してきた団体だが、とにかく内部抗争が多いことでは定評があり(今回離脱した八木氏も「退会の辞」でそれに言及している)、発足直後に出た「つくる会」本に当時参加していた漫画家・小林よしのり氏が描いた似顔絵で並べた幹部メンバーはその後の内部抗争の過程で「櫛の歯が抜けるように」次々と消えていった。今回の抗争だけでも相当に面白いのだが、ここまでの経緯を振り返っておく必要もあるので年表風にしてみた。
 脳内で映画「仁義なき戦い」のテーマ曲(ズンズンズンズン、ズンズンズンズン、ズズズズン、チャーチャ♪)を流しつつ読んでいただくと雰囲気が出るだろう(笑)。ついでに表記もそれっぽくしてます。

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<前史>

平 8・12・2 
「つくる会」創立記者会見(この時点で出席予定になっていた人物がドタキャンして空席のままの会見に)
平 9・1・30
「つくる会」設立総会。西尾幹二会長、藤岡信勝副会長で発足。
平 10・2・某日
初代の事務局長解任、追放
(このあとのこの手の文を読むときは「仁義」の衝撃音楽を脳内演奏すること。チャ〜!チャララ〜♪
平 11・7・29
藤岡信勝・濤川栄太両副会長の対立が激化、小林よしのり氏の根回しで両者解任。濤川氏は「たかが漫画家になめられちゃたまらない」の捨てゼリフをのこし脱会。(チャ〜!チャララ〜♪)
平 11・9・某日
大月隆寛事務局長を解任。西尾会長から「思想的にこの会にいないほうがいい」と勧告されたとのこと。(チャ〜!チャララ〜♪)
平 14・2・某日
前年の 「9.11」テロ以降反米色を濃厚に見せてきた小林氏に西尾氏らが批判を浴びせ、以後対立を深める。小林氏と同調する西部邁氏と共に理事を辞任、やがて脱会にいたる。チャ〜!チャララ〜♪)

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 とまぁ、表面的に分かっている限りでこれだけ抗争の歴史がある(細かい対立ならしょっちゅうあったらしい) 。ここしばらくおとなしくしていたような気もするが、昨年の教科書採択で目的を達せられなかったことをキッカケにまた抗争を始めていたようだ。
 西尾氏のブログによると自身が執筆した歴史教科書の記述で「反米的」と思われる部分を勝手に書き換えられるようなこともあり、それ以前からギスギスとはしていたらしい。それが秋以降一気に表面化してくる。以下に挙げた秋以降のおよそ半年間の経過は基本的に西尾幹二氏自身がブログで明かしたものをもとに編集したもので、西尾氏自身がウソついてたら困っちゃうんだけど、一応複数ソース(「つくる会」HP、支部掲示板など)であたってみて間違いなさそうという範囲でまとめている。
 では、以下も「仁義なき戦い」年表風に。(緑色表記は「仁義語録」ネタじゃけん、知らない人は無視してつかぁさいや(笑))

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平17・秋
この年の採択の結果を受けて西尾名誉会長・藤岡副会長が宮崎正治事務局長の解任を提案、反対派との対立が始まる(ただしこれについては新田均氏が「西尾氏の独走」と主張している)
平17・12・12
理事会で宮崎事務局長解任に反対する内田智新田均勝岡寛治松浦光修の四理事(西尾氏ブログによれば日本会議系「四人組」)が激しい内容の「抗議声明」を出し、八木会長がこれに同調。これを見て遠藤浩一福田逸工藤美代子副会長三人が副会長職を辞任、諫止しようとする。
平17・12月
八木会長が雑誌「正論」の企画をかねて宮崎事務局長と共に中国訪問、歴史問題で中国側と議論。

平18・1・16

「つくる会」理事会で内田・新田・勝岡・松浦の「四人組」理事が事務局長解任問題で激しく突き上げ。西尾名誉会長の同席を批判。「神輿が勝手に歩ける言うんならなら歩いてみないや!」って場面ですな)
平18・1・17
西尾幹二氏、名誉会長職から辞任。「若い人たちとのやりとりでむなしくなった」と発言し以後は著述活動に専念すると表明。チャ〜!チャララ〜♪「わしぁあどっちかいうたら事業一本に絞りたいんじゃがのう」かな?)

平18・2・3

この日に西尾氏と藤岡氏の間でメールが往復、西尾氏は藤岡氏に「八木氏との権力闘争に勝て」「八木・藤岡両氏の和解を画策している鈴木尚之氏はあなたの敵である」といった内容を伝え(「狙われるもんより狙うもんのほうが強いんじゃ」って感じです)、藤岡氏がそれに反論。藤岡氏はこのメールを鈴木氏に渡す(なお、この鈴木氏はあの西村慎吾議員の秘書であり西村議員の非弁活動に絡んで証拠隠滅容疑で逮捕され保釈中の身である)
平18・2・16
藤岡氏、「正論」大賞を受賞。西尾氏がべた褒めの祝辞を贈る。 
平18・2・27
「つくる会」理事会で藤岡・八木両副会長、宮崎事務局長の「解任」がいずれも僅差の投票で決定。新会長に種子島経氏が選出されるチャ〜!チャララ〜♪)
八木氏の解任理由の一つが「会の承認なしに中国を訪問して議論したこと」だったという(八木氏にしてみれば「国際外交の時代なんじゃけぇ、頭をつかわにゃ」といいたいところだったろう)。またこの理事会で鈴木氏が事務局長代行の地位につく。
平18・2・28夜
「つくる会」の「FAX通信第165号」に< 八木会長「解任」。新会長に種子島理事を選任。> の見出しと八木氏の辞任コメントが載せられ配信される(しかしこれは翌日に全面的に差し替えられる)

平18・3・1

産経新聞社会面に『「新しい歴史教科書をつくる会」内紛#ェ木会長ら3人とも「解任」』という記事が出る。宮崎事務局長解任をめぐる八木・藤岡+西尾の対立と説明し、「西尾院政?」との見通しを伝える。
同日 午後
「つくる会」HPに『「FAX通信第165号」の全文取り消しについて』という告知掲載。本来の内容を何者かが差し替えて配信したと説明、内容の取り消し・差し替えを伝える。
平18・3・2
藤岡氏、「会長補佐」に就任。わずか2日で復権。
平18・3・5
八木氏、西尾氏と会談し、アドバイスを求める。藤岡氏、八木氏宅を訪れメールの内容について謝罪?
平18・3・6
藤岡氏、「八木さんは日本の宝です」「戦術上八木氏の名誉回復を図らねばならない」といった発言を行う。
平18・3・7
西尾氏、ブログで「つくる会顛末記」を掲載し、産経の「院政説」を否定。ここで自分の執筆した教科書の「反米的」とされる内容を無断で書き換えられた事を暴露。日本会議が「四人組」により「つくる会」人事に介入してきたと批判(「旅の風下に立ったことはいっぺんもないんで!」ってやつですか)
平18・3・8
西尾氏宅ほか各所に「警察公安情報」と題する怪文書FAXが届く。藤岡氏が平成13年まで日本共産党員であったとする内容「そがな昔のこと、誰が知るかい」ってな話ですな。実際には平成3年に離党しているらしい)
平18・3・9
産経新聞が「つくる会 北海道支部が反旗 八木会長解任白紙化要求」と題する記事を掲載(実際に北海道支部がはこのような要求をしたという事実は未確認で、意図的誤報の可能性あり)
平18・3・10
「つくる会」唯一の歴史家の伊藤隆氏が理事辞任。辞表で過去の内紛で必ず藤岡氏が「首謀者」であったことを挙げ、藤岡氏が実質リーダーとなる会の理事は務められないと表明。チャ〜!チャララ〜…「創」記事によると取材を申し込んだら伊藤氏は「つくる会については何も話したくない」と言ったとのこと。「わしらどこで道を間違えたんかのう…」
平18・3・11
「つくる会」評議会・支部長会議。伊藤氏の辞表が読み上げられ、新田理事が「袋一杯の藤岡攻撃文書」を配ったとの話あり。
平18・3・20
福地惇理事が八木・宮崎両氏から藤岡氏の共産党経歴に関する「警察公安情報」を見せられる。、「単なる噂ではない。警察公安と自分はパイプがあってこれには確かな証拠がある」と八木氏が「勝ち誇ったように言った」(西尾ブログ)という。
平18・3・24
怪文書を真に受けた西尾氏が藤岡氏に電話をかけ、「ボクは共産党員といっしょに仕事をさせられたことになる」と藤岡氏を非難。藤岡氏が事情説明して一応納得。
平18・3・25
「怪文書」の内容について種子島会長・福地理事が藤岡氏を「事情聴取」。
平18・3・28
「つくる会」理事会で八木氏が副会長に返り咲き。藤岡氏は会長補佐の地位を解かれる。チャ〜!チャララ〜♪)
「今後理事会の内紛はいっさいやめる」ことを種子島会長が確認。
この夜、素早く産経新聞web版が「つくる会、八木氏を副会長に選任 夏までに会長に復帰へ」の記事配信(翌日朝刊掲載)「同会の内紛は事実上の原状回復で収束」「西尾幹二元会長の影響力を排除を確認」「宮崎氏の事務局復帰も検討」との内容も含む。
平18・3・29
「つくる会」がFAX通信で産経新聞が報じた「西尾幹二元会長の影響力を排除を確認」「宮崎氏の事務局復帰も検討」について理事会の協議・決定内容ではないとして産経に抗議。
同日 午後
西尾氏が自身のブログに「産経新聞への私の対応」と題する文章を連続掲載開始。29日付産経記事を「捏造記事」と非難し記者の実名公表と謝罪を求める。
平18・3・30
西尾氏宅に『赤旗』のコピーが差出人不明で届けられる。共産党支援者一覧の中に藤岡氏の岳父が入っていることを拡大して指し示す内容。(「仁義」でもありましたねぇ。地図に矢印を書き込んだヤツ)
平18・3・31
西尾氏の自宅に「証拠書類」が届く。2月日に藤岡氏が西尾氏に出したメールと同じもので、「藤岡が八木に屈服した証拠」とされていた。

平18・4・1
雑誌『諸君!』に西岡秀治「つくる会内紛の一部始終」が載る。この「西岡秀治」は主要登場人物四人の一文字ずつをとった筆名と推測される。
同日 朝
西尾氏宅に「証拠書類」が再び届き、さらなる怪文書も届く。福地理事が八木派にまわった、藤岡氏も屈服した、宮崎氏の事務局復帰、自民党中枢やCIAも動いている…ウンヌンといった内容(4月1日ってところがミソかも)
平18・4・2
西尾氏ブログ、「産経新聞への私の対応(二)―種子島会長の書簡公表―」掲載。産経記事を「捏造」と非難し、この記事を書いた産経記者に情報源を詰問する。
平18・4・3
西尾氏ブログ、「産経新聞への私の対応(三)―『諸君!』なども―」掲載、「諸君!」記事の執筆者の実名を推理し、その内容を「感情的な意趣晴らしをふくむ間違いだらけの情報」にもとづくと批判。
同日
産経の担当記者が「八木氏から藤岡氏の共産党経歴文書を見せられ信じたが、ガセネタだった」と藤岡氏に謝罪(藤岡ブログによる)。その後記者は「謀略的怪文書を流しているのは八木、宮崎、新田である」と言明したという(「つくる会」が公表した4/30理事会記録の藤岡発言より。ただし新田氏はこの記者本人が「謝罪」「言明」について完全に否定しているとする)
平18・4・5
西尾氏ブログ、「産経新聞への私の対応(四)―共同謀議の可能性―」掲載。3月28日の理事会終了後、八木氏が産経記者らと密談し、記事を書かせた可能性を指摘。
平18・4・6
種子島会長の指示で「つくる会」HPから東京支部掲示板への直リンクが外される。この掲示板では藤岡支持派の書き込みが目立った。
平18・4・7
福地理事が八木氏を査問にかけるべきと種子島会長に主張。種子島会長はこれを拒否(「親のわしのやることにいちいち口出すな!」かな)
平18・4・8
西尾氏ブログ、「怪メール事件(一)」掲載。藤岡氏の共産党員経歴についての怪メールを公表(この怪文書騒動が一般に公表されたのはこれが最初)。その内容は虚偽としながらも藤岡氏の性格について厳しく批判。
雑誌『創(つくる)』に「つくる会」内紛に関する記事が載る(3月20日ごろまでの情報)
平18・4・10
西尾氏ブログ「怪メール事件(二)」掲載。怪メールの発信元を八木氏サイドと断定、「公安のイヌ」呼ばわりし「永田議員と同じ」と非難。ついでに藤岡氏に対しても悪口雑言(笑)。
この日、種子島会長が八木氏の取材対応の説明と産経記者の「詫び状」を全理事に送り決着を図る(「水に流してつかえ」ってか)
平18・4・12
藤岡・福地両理事が八木氏の行動の証拠(西尾宅に送られた「西尾・藤岡往復私信」は八木氏の手にわたったもの以外ではあり得ないとするもの)が出たとして種子島会長に査問を要求。
平18・4・13
種子島、八木、藤岡、福地、鈴木の5人の会合の場がもたれ、冒頭で会長は両名の辞任を表明「チンコロしたのはおどれらか!」の場面(笑)。ここで事実上勝負はついている?)
西尾氏ブログ、「怪メール事件(三)」掲載。第二の怪文書公表。
平18・4・18
藤岡信勝氏、ブログを開設して情報発信を始める。共産党経歴騒動に対する弁明。
平18・4・19
西尾氏ブログ、「怪メール事件(四)――八木秀次氏の犯罪の可能性を立証――」掲載。八木氏と「四人組」を怪文書謀略の犯人として告発、「悲しい物語の幕を下ろす」として「つくる会」内紛を総括。このあと支持者とのやりとりでこの内紛を「近代保守」対「神社右翼」の構図で語りだし、論争を呼ぶ。
平18・4・26
藤岡氏、「正論大賞」受賞記念講演会。翌日の産経新聞にその概要が載る。
平18・4・28
この日付で新田理事が西尾氏ブログの内容について「多くの虚偽が書かれている」として5月5日まで期限を限って応答するよう手紙を出す(「おどんれらも吐いたツバ、飲まんとけよ!」ですか)
平18・4・30
「つくる会」理事会。田久保・藤岡両氏が八木氏の謝罪を求める。内田理事が「藤岡理事の言動が会の最大の障害」して藤岡氏の解任すれば会長辞任は撤回するのかと聞くが、種子島会長は「それが筋」としつつ健康不安を理由に会長辞任の意を変えず。
藤岡氏は八木氏に「理事会と会員に対し、事実を認め、心から謝罪するなら、すべてを水に流して、大義のために、会と会員と国民のために、手を結びたい」と提案するが八木氏は応答せず。
そのまま種子島会長・八木副会長の辞任および「つくる会」そのものからの脱会が決まる。これを見て新田・内田・勝岡・松浦の4理事も辞意を表明(松浦氏は欠席のため文書を提出)、会議場を退出。
チャ〜!チャララ〜♪「(ナレーション)藤岡の造反劇は成功した。種子島は引退の声明を出し、藤岡らの新体制が華々しく発足した」)
高池勝彦会長代行・藤岡副会長の人事がきまり、新たに5人の理事を加える。この理事会の最中に種子島・八木両氏の弁明と名指しはしないが明らかに藤岡・西尾両氏らを非難する内容を含む辞任コメントを載せたFAX通信172号が一部に流されるが途中で止められ、ただちにこれを取り消しとするFAX通信が出される(結局一部会員に届いたためネット上に流出している)
同日 深夜
西尾氏ブログに理事会の結果が速報として掲示され、西尾氏が種子島・八木両氏を「不正かつ卑劣」とか「陋劣(ろうれつ)」とか激しい怒りと憐れみをこめた文を書く。
平18・5・1
「つくる会」HP、30日の理事会の結果を「種子島会長、八木副会長、新田・内田・勝岡・松浦4理事が辞任 高池会長代行、福地・藤岡両副会長体制で事態収拾へ」と速報。
平18・5・2
「つくる会」HP、「種子島会長・八木副会長辞任に至る議論の経過」を掲載。西尾氏はブログで「公正めかした美しい演説文」と藤岡氏を揶揄してその部分をカットして引用する。
平18・5・6
「四人組」とされた新田均氏が西尾氏ブログに「虚偽の内容がある」として反論書き込み(送った手紙の一部公開)。これに対し西尾氏はいずれ未公開の事実を明かして証明するとしている「タマはまだ残っとるがよぅ」?)


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 さて、現在までの動きがこんなところである。ワケわかんねーよ、という方も多いだろうが、じっくりと整理しつつ読むとなかなか面白いと思うのですよ(笑)。ホント、映画化したいぐらい。
 ま、とにかく凄かったのは西尾幹二氏が自身のブログでバシバシ内紛経過を暴露しちゃっていたことで、ついこの間まで大いに持ち上げていた人たちに対して、凄まじいばかりの怨念がこもった罵声を浴びせまくっているさまは読んでて空恐ろしいぐらいだった(汗)。名誉会長を辞めたときに「著述業に専念」と言っていたのはもしかしてこのことだったのか(笑)。この顛末を書籍にして刊行するとも言ってるようだが、現在のところ西尾氏が望んだ方向で「粛清」が行われたので、案外「院政」する気もあるんじゃないかという気もしてくる(ブログでも当初「つくる会の歴史から消える」といっていたのがいつの間にか「辞任したのは離れた立場で膿を出すためだった」とか言ってるし…「お父ちゃんは会長にカムバックできるんじゃ」ってやつか?)

 またこの内紛で今のところ最終勝利者となっている藤岡氏(つーか、過去の抗争でも終わると必ずこの人が勝ち残っている…)だが、この騒動の怪文書でも使われたように元共産党員である(これは本人も認めている)。今度新理事に入った彼の腹心と思われる何人かは過去に左翼運動家の経歴をもつ人が見えるのも面白い。「自由主義史観研究会」発足時から左翼転向組が多いことは指摘されていたが…

 現在のところ石もて追われた形の八木氏や「四人組」からの目立った反論はない(今のところ新田氏だけ動きを見せている)。しかしここまでボロクソに言われて、このまま引き下がるとは過去の経緯からするととうてい思えない。まして彼らの背景にある最大の保守団体「日本会議」が黙っているとは正直思えない(西尾氏らは日本会議と某宗教団体との深い関係を叫んで批判してるぐらいで…「つくる会」にも別の宗教団体の信者が前から多いのは有名なんだが。このため「もしかして宗教戦争?」との見方も一部にある)
 彼らと一時連携して「七月には八木会長復帰」と報じた産経新聞もその後の「大逆転」の経緯についていまだ一切報道していない。この沈黙は何を意味するのか…。あまり騒ぎになると「つくる会」のダメージが大きすぎると考えているのか、それとも一時噂があった「追放組による新会結成」を画策しているのか。それってもしかして「新しい『新しい歴史教科書をつくる会』をつくる会」でしょうか(笑)。
 
 ま〜それにしても、こういう騒ぎをやってる連中が国家だの民族だの歴史だの道徳だのエラソーに論じて、国際的にも悶着のタネを振りまいていたんだから、呆れたものだ。そもそも教科書程度で世の中変えられるという時点で勘違いもはなはだしいと、教育現場の隅っこにいる僕などは思いますがね。「間尺に合わん仕事をしたのう」ってことになるんじゃないかと。


2006/5/8の記事

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