ここにはかつて「万世橋(まんせいばし)」というターミナル駅があった。この左写真手前に写っている橋がその「万世橋」なのだが、ここにあった万世橋駅は1912年に中央線のターミナル駅(東京駅まではまだ延びてなかった)として開業し現在残っている写真によると東京駅と良く似た洋風建築のなかなか立派な駅舎で、路面電車も多く集まる交通の要衝であり、駅前広場には日露戦争の英雄、「杉野はいずこ」で知られる広瀬武夫中佐の銅像(杉野孫七の像もおまけのようについていた。戦後行方不明になったそうな)が建って東京の名所の一つとなっていたのだ。その後中央線が東京まで延び、総武線が御茶ノ水〜両国間を接続したことにより万世橋駅のターミナル性は失われ1934年に大幅に規模を縮小された。その跡地に「鉄道博物館」が移転してきたというわけである。
万世橋駅は1943年、戦時中の経済統制の一環として廃止されているが、その遺構は今もかなり残されていて、このたび交通博物館閉館記念の一環として万世橋駅遺構見学ツアーなんてのも行われていた(要予約、一日20人程度しか参加できず僕はあきらめた)。
戦争も末期になってくるとさすがに博物館どころではないというわけで、1945年3月10日に鉄道博物館は休館となってしまう。偶然らしいのだが、この日が東京大空襲。5月24日の空襲では博物館は直接的被害はまぬがれたが焼夷弾の殻が天井を突き抜けて展示蒸気機関車9850の炭水車部分を直撃、今もその跡がかすかに残っているという。
敗戦後、鉄道博物館は「交通文化博物館」と改称して1946年1月に再開された。経営主体も戦前の鉄道省(戦時中に運輸通信省に改組)から日本交通公社(現JTB。以前ここの話を「史点」で書いたなぁ)に移されている。占領中は「アメリカンルーム」なるアメリカ鉄道コーナーが置かれ、アメリカ軍人の鉄道マニアが押しかけていた時期もあったそうで、前述のエリオット氏のHOレイアウトもそれが縁になっている。
1948年9月にようやく「交通博物館」に改称、経営主体は日本国有鉄道(国鉄)自身となり、日本交通公社が経営委託されているという形になる。以後、ここは事実上国鉄の宣伝施設という性格も強く持つようになり、これは分割民営化後にJR東日本に経営が引き継がれてからも一貫していた。僕が4月に博物館を訪れたら昨年末に起きたJR羽越線の事故のおわび告知が館内入口に貼られていたが、JR西日本で昨年起きた福知山線事故については何もなかった様子であるあたり(もしかするとあったのかもしれないが)も「JR東日本の施設」という性格を色濃く感じたものだ。
歴史的経緯がこうだから、鉄道文化の大博物館とはいいつつ国鉄→JR偏重の展示であった点は欠点として指摘できる。私鉄に関する展示はこれまでまるっきりないので、これは今後の「鉄道博物館」(この名前は「先祖がえり」でもあるんだな)で実現するのかどうか気になっているところだ。
鉄道博物館は2007年10月14日開業予定。一年以上のブランクがあり、鉄道ファンとしてはそれも含めて寂しいところだ。なお、その代わりといっては何だが、「徹夜城の多趣味の城」内コーナー「旅と鉄道の記録所」に「さよなら交通博物館」コーナーが近日中に開業予定である(笑)。
(この記事の執筆にあたっては「Rail Magazine」(2006年5月号、272号)の特集記事「交通博物館の時代」を大いに参考にさせていただきました。鉄道雑誌各誌の中でも濃度の濃さは出色。企画・執筆された皆様に厚く御礼申し上げます。なお記事中使った写真は全て徹夜城自身の撮影によるものです。念のため)