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2006年5月16日

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◆星条旗よ英語なれ

 はっきり認めておきますが、このタイトルはパクリです(笑)。どっかの新聞の見出しになっていたと思うんだけど、どこだったのかその後確認できず…
 ただしよく調べてみたら、アメリカ国歌のタイトルはあくまで「星条旗(The Star-Spangled Banner)」というのだそうで、「星条旗よ永遠なれ」は全く別の行進曲のタイトルなんだそうで。僕も含めて(その新聞見出しを作った人も)混同しているケースが多いようだ。
 「Oh, say, can you see〜」から始まる、 この「星条旗」なる歌は1812年に起こった米英戦争のさなかに生まれ、百年以上たった1931年にアメリカ国歌に正式に指定された。アメリカがらみのイベントでは何かというと聞かされるから、日本人にとっても恐らく一番なじみのある外国国歌に違いない。

 最近この「星条旗」のスペイン語版("Nuestro Himno"がイギリス人音楽プロデューサーの発案でヒスパニック系アメリカ人のポップ歌手たちによりリリースされ、アメリカ国内でちょっとした議論になっている。
 4月28日にこの歌の話題を会見でふられたブッシュ大統領は「この国の市民になりたい人は英語を習うべきだし、国歌を英語で歌うことも習うべきだ」「我々がこの問題を議論する時に重要なことは、国民の魂を失ってはならないということだ」と明言し、スペイン語版「星条旗」に対して否定的な姿勢を示した(ブッシュさん自身の英語が怪しいという話もあるんですが(笑))。このスペイン語版リリースに対しては保守系のマスコミや政治家を中心に「とんでもないことだ」という批判の声が上がっており、「フランス人が英語版「ラ・マルセイエーズ」を認めるものか」といった意見も僕はアメリカの報道で目にしている。ブッシュ大統領の発言はこうした意見を後押しする形となった。
 しかしフォローということなのだろうか、ライス国務長官は5月1日に出演したTV番組で「国歌のラップ風、カントリーミュージック風、クラシック風などをこれまで聴いたことがある。国歌の個性化が進んでいると思う」と述べて「スペイン語版」に理解の姿勢を示している。このコメントで思い出すのは、以前忌野清志郎「ロック風君が代」を作ってレコード会社から拒絶され(右翼のインネンを恐れたものと思われる)、インディーズでリリースした事件ですな。

 さてこのスペイン語版「星条旗」だが、これが大統領はじめ政府高官の意見まで呼ぶ議論になっているのは、そもそもこの企画自体が「ヒスパニック系不法移民への連帯を示すため」という、かなり政治的な動機から行われたものだからでもある。中学校の社会科でも習うことだが一応確認しておくと、「ヒスパニック」とはスペイン語を話す中南米からの移民の総称だ。
 ニュースでさんざん報じられていたが、メーデーにあたる5月1日(そもそもこの日が世界的な労働者の祭りの日になったのもアメリカから始まったもの) 、全米各地でヒスパニック系住民による大規模なストライキ、デモが行われていた。きっかけは昨年から連邦議会で進んでいる不法移民規制法案の審議で、これに危機感をもったヒスパニック系移民たちが「われわれが社会を支えているのだ!」とアピールするため「移民のいない日」を演出する全国的大イベントを企画したのだ。このスト・デモの参加者は数千万人に及んだと言わ(アメリカ国内のヒスパニック人口は4000万人以上と言われ、すでに黒人の数を抜いている)、彼らの出身地である中南米各国でもこれに呼応するデモが行われ、連帯を示していた。
 ヒスパニック移民問題を扱う民間団体の調査によるとアメリカ国内で仕事に就いている「不法移民」は720万人、実に全労働者の5%弱にあたるという。農業・建設業といった「きつい労働」業種ではとくにその率が高い。そういえば映画「ダイ・ハード」でTVリポーターが主人公の留守宅に突撃取材し、応対に出たヒスパニック系家政婦に、何も聞かないうちから「移民局に通報するぞ」とおどすくだりがあり、ごく一般的にこうした「不法移民」が存在していることをうかがわせる場面となっていた。
 「不法」とはいうが限りなく「出稼ぎ」の感覚でもあり、またアメリカ自体がその建国以来「移民」で形成されてきた歴史を持っているから合法・非合法の境目というのは限りなく曖昧という感じがする。そしてまた彼ら「不法移民」が社会の底辺を支える存在として必要とされている面も否定できない。だから連邦議会では同時平行で彼ら「不法移民」にアメリカ市民権の獲得に道を開く法案も審議されているのだが、やはり保守系を中心に強い抵抗があるようだ。
 このあたりの話、最近の日本でも同じ現象が見えてきていて、いずれ同じような問題が起こってくるんじゃないかとすでに予想されている。中国語版・ポルトガル語版はたまた東南アジアのどっかの言語版「君が代」なんかいずれ現実問題になったりするかもしれない。

 それにしても、英語でなくちゃ国民の魂がどうのと言ってるブッシュさんも先の大統領選でヒスパニックの多いフロリダではスペイン語で演説しているのを目撃してるんだがなぁ(笑)。
 フロリダといえばブッシュ大統領の実弟・ジェブ=ブッシュ氏(56歳)が州知事をつとめている。以前から「もしや」と言われているのが、いずれこのジェブ氏が大統領選に打って出て、父・兄に継ぐ世襲大統領を目指すのではないかという話。これがまんざら絵空事でもなさそうだと思わせる「観測気球」が5月10日にブッシュ大統領本人の口から出てしまった。(弟・ジェブ氏が)将来、大統領選に立候補するのを見てみたい」「偉大な大統領になる可能性がある」とフロリダ地元記者らとの会見で大統領自身が発言したのだ。いちおう「本人の気持ちは分からないけど」と断りつきだが、大統領本人もそんな感じでいつの間にか大統領になっちゃったんだから、明らかにアドバルーンを揚げてみた形。父親のブッシュ元大統領も昨年ほとんどこれと同じ発言をTVでしているそうで、けっこうマジな計画みたいだ。さすがに次回の選挙(2008)には出ないと公言しているそうだが…
 で、ブッシュ大統領自身の支持率はこのところうなぎ下がり(そんな言葉はないが)。とうとう支持率29%という数字も出たそうだが、過去にはトルーマンニクソンカーターといった面々が23%台を出したことがあるから、まだまだ下があるという驚き。こんな時に「ブッシュ王朝」のアドバルーンをあげるというのも、何を考えているんだか。
 


◆農耕はのんびり始まった?

 「歴史」はいつから始まるのか?という問題がある。つきつめると宇宙そのものの開始、ビッグバンあたりまで行ってしまうのだろうが、とりあえず「人類史」ということでまとめると「人間」と見なされるものが現れた数百万年前あたりまで近づけることができる。「現生人類」という種に限ればせいぜい数万年前。そして一般的な意味での「歴史」の開始は「文明の発生」からということになっている。
 で、この「文明」というのがどのくらいの段階からをそう呼ぶのか、また線引きが難しいのだけど、とりあえず「文明」発生の前提になっているのが農耕・牧畜の開始だ。これによって食料確保がそれ以前に比べて飛躍的に安定し、余裕が出てきたところで人間は「文明」と呼ばれるものを発生させる。したがって「歴史の始まり」は農耕・牧畜の開始から、という見方もできるわけだ。

 農耕はいつから、どのように始まったのか。この人類史上重大な問題についてどの文明も記録は残してくれていない(神話はあるけど) 。通説で言われているのが、世界最初の「農耕」は小麦・大麦の栽培であり、その場所は現在のトルコ何部からシリア北部にかけてのユーフラテス川上流域。その開始時期はちょうど今から一万年ほど前で、同時期に人類は牧畜も開始、磨製石器・土器の発明も行い、「新石器革命」といわれる大変革を進めたとされている。なぜ一万年前にこうした大変革がドドドッと起こったのかについては氷河期が終わるなど地球規模の気候変動(地質年代区分ではこれ以後現代までを「完新世」という)が背景にあったんじゃないかと言われている(メソポタミア以外の各地で麦以外の作物の初期栽培農業が行われていたという説もあるが、ここでは取り上げない)

 これまでの通説イメージでは野生の小麦・大麦を採集していたユーフラテス川流域の住人が、およそ一万年前にその「栽培」を開始し(氷河期が終わったあと一時的に寒くなった時期があるそうで、それがきっかけかと言われていた)、かなり短期間で「農耕」と呼べる段階に進んでいたとされてきた。しかし実は3500年以上の時間をかけてゆっくりと「農耕」に移行したのではないか?との研究論文が出されて注目を集めている。
 その論文とは日本は京都の総合地球環境学研究所の丹野研一上級研究員とフランスはリヨンの国立科学研究センターのジョージ=ウィルコックス博士の共同研究による「How Fast Was Wild Wheat Domesticated?(野生小麦はどれだけ早く栽培化されたか?)」でアメリカの科学雑誌「Science」3月31日号に掲載された。彼らはシリア北部・トルコ南部のこの農耕発祥地域の遺跡から見つかった小麦の穂の構造物「小穂(しょうすい)」を調査し、小麦がどれだけの時間をかけて野生から栽培へと移行したかを考察したという。
 毎日新聞ほかで見た記事の受け売りだが、なんでも野生種の小麦は熟すと小穂がはじけて飛び散る。しかし栽培化された小麦は小穂がはじけなくなり、収穫後に脱穀される時に傷がつく。この小穂の傷あとを調べることでどれだけ「栽培化」されたかが分かるというわけ。研究チームは四つの遺跡から9844点の小穂を採集し傷あとの有無が確認できる804点を選び出して遺跡ごと、時代ごとの分析をおこなったという…あ〜わたしゃダメだな、こういうマメな仕事は(笑)。

 その丹念かつ根気の要るであろう分析作業のすえ、以下のような結果が出たという。
 10200年前の段階では小麦は全て野生種、つまり栽培化率0%。それが9250年前になると栽培化率11%に上昇。7500年前になると36%。6500年前になってようやく栽培化率65%に達していたという。3500年かかってようやく65%に達するという、実にゆっくりとした「栽培化」であったということが浮かび上がってくる。3500年、と数字だけ出されるといまいちピンと来ないが、文献資料で追える「歴史」そのものがそのぐらいの長さなんだから、実に気の遠くなる長い長い時間である。
 この研究を行った丹野氏は「農耕は1万年ほど前、氷河期が終わった後に、再度一時的に寒くなった気候変動によって一気に始まったとされてきたが、実際は当時の人間が自然とのかかわり方を模索しながら時間をかけて浸透していったのだろう」とコメントしていた。確かに農業も試行錯誤の時代がかなり長かったと考えるほうが自然かもしれない。
 
 この話を聞いて連想したのが、いま日本の考古学でホットな話題となっている「弥生時代はいつからか」に関する新説だ。ご存知の通り「弥生時代」とは日本で稲作が開始され弥生式土器が出現した時代を指すが、従来の説ではせいぜい紀元前4世紀に弥生時代突入、とされていた。ところが一昨年に歴史民俗博物館が炭素14年代測定によって「弥生時代開始はさらに500年ほどさかのぼる」との新説を出し、様々な面で弥生時代観の大幅な変更を迫っている。
 その中の一つにこれまで一気に日本中に広まったとされた稲作が実はかなりゆっくりと時間をかけて広まったのではないかという見解もあり、時間のスパンはだいぶ違うが今回のニュースにそれを連想させられた。太古の「技術革新」はそうとうのんびりしたペースだったのかもしれない。



◆台湾総統も世界を飛ぶ

 前回中国の胡錦濤主席がアメリカ訪問をして『孫子』をブッシュ大統領に渡したとかいう話を書いたが、胡錦濤主席はその足でサウジアラビアへ直行していた。近ごろでは石油輸入大国になっちゃった中国はサウジアラビアとの関係が深まっており、1月にはサウジアラビアのアブドラ国王が訪中したばかりだ。サウジアラビアの次はモロッコ、ナイジェリア、ケニアといったアフリカ諸国を訪問しており、これも石油対策や国連改革におけるアフリカ票の確保など、現在の中国指導部の外交戦略をそのまんま反映した訪問先となっていた。

 負けじと?とばかり台湾の陳水扁総統も5月あたまから世界各国の歴訪に出発していた。台湾を国家として認め、外交関係を持っている国(中国とは外交関係を持っていないということ) は太平洋・アフリカ・中南米の小さな発展途上国に多い。露骨に言ってしまえば経済協力、カネで釣っているという面も否めず、中にはうまいこと中国と台湾を両天秤にかけて支援額を釣り上げるような芸当をしている国もある。バチカン市国も台湾と外交関係を持っている国の一つだが、ここはあくまで宗教的理由であるし、ケンカしつつも中国と国交を結びたがっているのは明らかだ。
 
 さて陳水扁総統の歴訪の旅だが、当初3日とされていた出発日が4日に急遽延期されていた。理由は最初の訪問国である中米コスタリカまでのルート問題だ。台湾側はこれまで中米諸国歴訪の際にはアメリカのフロリダを経由するケースが多かったことから今回もアメリカ経由、あわよくばニューヨークやサンフランシスコなどアメリカ都市の訪問をしたい意向だった。ところが直前になってアメリカから「アラスカのアンカレジに給油のために立ち寄るだけなら認める」と厳しい注文がつけられ、結局往復ともに中東経由で飛ぶことになってしまった(給油のためアラブ首長国連邦とオランダに立ち寄る)。アメリカのこの注文がつい先日胡主席が訪米した中国の要請によるものであるのは明らかで、台湾側としては憤懣やるかたない仕打ちだったようだ。陳総統も「総統は国家を代表する主権の象徴だ」と記者団に述べてアメリカの冷たい処遇に強い不満を示し、今度の歴訪では一切アメリカに立ち寄らないことを表明している。

 その「報復」ということなんだろうか、コスタリカ、パラグアイの訪問を終えた陳総統は5月10日にいきなりリビアを訪問した。もちろんリビアと台湾の間に国交はないのだが、空港にはこの国の最高指導者カダフィ大佐(今ではすっかり丸くなったが、かつてはアメリカじゃイラクのサダム=フセインとかオサマ=ビン=ラディン級の扱いだったんだよな。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」参照)の次男セイフ=イスラム=カダフィ氏が陳総統を出迎えに来て会談を行ったという。この次男坊はすでに父の後継者と見なされているのか、リビア政府の実力者として世界各国に出かけており、昨年の愛知万博で訪日もしている(そういや前回ネタにしたネパール国王のドラ息子もこの万博で訪日していた)。今年1月には台湾を訪問して陳総統と会談しており、その時にこのリビア電撃訪問の計画も決まっていたのだろう。リビアもやはり産油国であり、現在統合話も進むアフリカ諸国の中で独自の動きを見せていることもあって、いろいろ双方の思惑が一致するところがあるのだろう。
 なお、セイフ氏は「次男」ということで「長男」がどうしたのか気になるが、長男のサアディ=カダフィ氏はプロサッカー選手としてイタリアのペルージャに入団したりしてたから、政治的後継者ではないんでしょう、たぶん。

 リビアを発った陳総統は11日、今度はインドネシアを訪問した。これまた台湾とは外交関係のない国だが、昨年にもバリ島を訪れたことはあるそうで。今度の訪問もシンガポールに近いバタム島というところで、あくまで政治的・外交的意図はなく「台湾企業の投資環境の視察などが目的」と発表されている。しかし先のリビア訪問とあわせて国際的に存在感をアピールする狙いがあると見られても仕方ないだろう。またちょうどこのとき、いま核問題でアメリカと猛烈に対決しているイランのアフマディネジャド大統領がインドネシアを訪問中で、これとからめてアメリカにアピールする狙いがあったのでは?との声も台湾ではあるらしい。

 この外遊中、台湾からはこんな話題もあった。5月8日付読売新聞が報じたもの。
 台湾の与党・民進党がこの8日に「台湾人民抗日記念日」制定の検討を始めたことを表明したというのだ。「台湾人民」による日本に対する抵抗運動の記念日の候補として、1896年の「八卦山戦役」が起こった8月28日が最有力視されているという。1896年といえば日清戦争で日本が勝利し、下関条約で台湾が日本領となることが決まった翌年のこと。この年、台湾住民(いわゆる台湾原住民だけでなく漢民族系が多かった)による抗日ゲリラ運動が各地で発生し、台湾中部の彰化県で最大の犠牲者が出たのがこの「八卦山戦役」なのだそうだ。
 民進党といえば台湾の「本省人」を支持基盤に台湾独立を目指す政党で、日本撤退後に大陸からやってきた「外省人」を基盤とする国民党とは日本統治時代についての歴史観は異なるとされ、中国との対抗上どちらかといえば日本寄りと見なされることが多い。しかしこの「抗日記念日」の件では、1937年7月7日の盧溝橋事件発生日を「抗日」の原点と考える中国および外省人に対抗して「我々台湾住民のほうが抗日では先達じゃ!」とアピールしているところが面白い。読売の記事では民進党幹部のコメントとして、別に反日ってわけではなく「植民地時代の抗日運動は台湾人主体で行われた事実を示す」ことが狙いだと言ってるけど、こんなところでも中国と台湾は張り合うんだなぁ、というのがハタから見た印象である。



◆線路は続くよどこまでも

 5月14日、ついに東京・神田の交通博物館が閉館となった。幼い日からこの博物館に行くのを楽しみにしていた鉄道ファンの僕には非常に感慨深いものがある。その後パソコン機器やらDVDやら中古ゲーム屋やらで秋葉原通いが多くなった僕であったが、やはり「秋葉原」というと「鉄道の町」という幼児期の刷り込みがある。交通博物館があるからこそ秋葉原に鉄道模型屋がやたらあるという事実もあるし。あれも今後大丈夫なんだろうか。

 閉館の話は聞いていたので昨年のうちに一度、そして4月26日に最後の見納めとばかり行って来た。まだ連休前の平日ということで混雑度はそれほどでもなかったが、いつもの子供づれだけではなく年配の鉄道ファンも多く入館していて、けっこう賑やかになっていた。

 正面玄関には今となってはほぼ絶滅した「ダンゴ鼻」こと0号新幹線車両と、貨物牽引を中心に全国でやたらに稼動して「デゴイチ」の愛称で親しまれた蒸気機関車D51が鎮座している。写真に見えるように、展示されている機関車類の多くに「さようなら」のヘッドマークがつけられていた。ああ、本当に閉館になっちゃうんだな〜と寂しくなる。

 館内に入るとすぐに最上階まで吹き抜けの空間にマレー型9850とC57の蒸気機関車2両がドーンと展示されている。9850のほうは部分カットされて蒸気機関車の内部構造も見せてくれる展示で、このカットがなされたのはなんと昭和2年(1927)のこととか。当時はまだ「交通博物館」ではなく「鉄道博物館」の展示物であり、しかも現在の位置ではなく東京駅北側高架下にあったのだそうだ。
 となりのC57は現物そのままの展示だが、床に下りてこれを見るとその巨大さに圧倒される。とくに機関車を動かす動輪のデッカさ、動きを見せてはくれないけれどその動輪を動かすメカニズムの重厚さには、近くで見ているともう惚れ惚れしてしまう。こんな重厚長大な物体が蒸気の力で動くんだよなぁ…と信じられない気分にすらなる。

 写真には写っていないが、近くには「1号機関車」も展示されている。なぁんと明治5年(1872)に新橋〜横浜間を走った日本初の蒸気機関車そのもので、島原鉄道で走った後に博物館にひきとられ、近年重要文化財に指定されている。絵本「きかんしゃやえもん」(阿川 弘之・文、岡部冬彦・絵という思えば凄い組み合わせだ)のモデルになったことは有名。知ってる人は知ってると思うが、「レールバスのイチローとハナコ」が最新鋭車両として出てくるという、物凄く時代を感じさせる絵本ではあった。

 蒸気機関車だけではない。昭和40年代に活躍した修学旅行専用列車「なかよし」や通勤用国電、さらには明治・大正の天皇・皇后が乗った御料車の実物(さすがにこれは乗せてくれないが) などの実車展示は結構多い。屋内に部分カットされて置かれた「電車」に乗ったり降りたりするのが子どもの時えらく楽しかった思い出がある。当時は通勤用国電の自動ドアのシステムの実物大模型による展示があってこれも楽しかったのだが、子どもがやたらに動かして遊んだせいかいつの間にかなくなってしまい(笑)、そのポジションには電車運転台を模したシミュレーターが数個配置され人気を集めていた。「電車でGO!」なんかが出てくる以前は運転シミュレーターなんてこんなとこでもないと遊べないものだったのだぞ。

 交通博物館の魅力は実物だけではない。いやむしろこっちの方が好き、という人も多かったに違いない。そう、大量に展示されている鉄道車両の模型の数々だ。NゲージだのHOゲージだのといったみみっちいものではなく、10分の1とか30分の1とかのスケールの模型がずらりと並び、中には実際に動いて見せたりするのもあるんだからたまらなかった。山岳地帯のアプト式レールやループ線の仕組みを説明する動く模型も妙に面白く、やたらにボタンを押して回った子ども時代の思い出を持つ人は僕だけではないはずだ(笑)。
 HOゲージ(80分の1)スケールの鉄道模型パノラマレイアウトも名物だった。いつも大混雑なのですぐそばで見た記憶がとうとうなかったが…(笑)。なんでもこの博物館にHOゲージのレイアウトが出来たきっかけは1946年、進駐軍工作部隊所属のウィリアム=P=エリオット軍曹が鉄道模型運転場の開設を博物館に提案して、博物館と協力して総延長100mのHO大レイアウトを製作・提供したことに始まるそうで。「エリオットルーム」と名付けられたこの大レイアウトはその後撤去されたが(サンフランシスコ講和条約発効でアメリカ鉄道展示が撤去されたことに伴う)、日本の鉄道マニアに「鉄道模型レイアウト」というものを啓蒙する重大な役目を果たした。「エリオットルーム」のあとを受けて博物館が独自に製作したのが現在の大パノラマにつながっていったそうで、ATSまで設置している本格派だった。

 「交通博物館」と名乗るだけに展示は鉄道だけにとどまらない。2階では船(さすがに模型ばかりだが、これが楽しい)と自動車(これは実物中心)、3階は飛行機(模型やエンジン実物のほか、歴代乗務員の制服とか旅客機の室内をそっくりに再現した展示など、なかなか凝っていた)と未来・過去の交通(輿、人力車からリニアモーターカーまで)といった展示内容となっていた。ドキュメンタリー映画を上映する映画館(とうとう一本も見なかったなぁ…)とか図書館なんかもあった。まさに日本最大の交通啓蒙施設だったのだ。来年秋にさいたまに開館予定の「鉄道博物館」にこれら鉄道以外の展示物が引き継がれるのか、気になっているのだが…。

 ダラダラと書いていると「史点」にならないので、博物館そのものの歴史もちょこっと。
 交通博物館の前身はすでに文中で触れている「鉄道博物館」にあり、1921年(大正10)10月14日に「鉄道開業50周年」を記念して東京駅北側の高架下に開設された。このころは実物車両の展示を中心とした博物館だったらしい。1923年の関東大震災による火災でこの鉄道博物館も全焼してしまい、多くの展示物が失われている。その後1925年に再建され展示物も徐々に充実していった。
 現在の位置に鉄道博物館が移転してくるのは1936年(昭和11)のこと。建物もほぼこの時のまま現在に至っている(なるほど老朽化するわけだわなぁ)。何度も通っていたのに最近まで気付きもしなかったが(まぁ何度も通っていたのは子どもの頃の話だし)昭和初期としてはなかなかモダンな建物だったのではあるまいか。
 交通博物館に行ったことのある人はお分かりだろうが、交通博物館はJR中央線の線路のすぐ脇に建っている。中央線が神田から御茶ノ水の間を大カーブしていくその中央に博物館がある。で、良く見ると博物館のある部分は明らかに古い駅舎の跡になっていることが分かる(下写真参照) 。左写真はそれを横から撮ったもの、右写真は交通博物館屋上から撮ったもので、とくに右写真ではプラットホームの跡がちゃんと現存していることが良く分かると思う。なお、右写真は中央線(手前)と総武線(奥)が一画面内に収まるようにちゃんとシャッターチャンスを狙って撮っていることに注目されたい(笑)。

 

 ここにはかつて「万世橋(まんせいばし)」というターミナル駅があった。この左写真手前に写っている橋がその「万世橋」なのだが、ここにあった万世橋駅は1912年に中央線のターミナル駅(東京駅まではまだ延びてなかった)として開業し現在残っている写真によると東京駅と良く似た洋風建築のなかなか立派な駅舎で、路面電車も多く集まる交通の要衝であり、駅前広場には日露戦争の英雄、「杉野はいずこ」で知られる広瀬武夫中佐の銅像(杉野孫七の像もおまけのようについていた。戦後行方不明になったそうな)が建って東京の名所の一つとなっていたのだ。その後中央線が東京まで延び、総武線が御茶ノ水〜両国間を接続したことにより万世橋駅のターミナル性は失われ1934年に大幅に規模を縮小された。その跡地に「鉄道博物館」が移転してきたというわけである。
 万世橋駅は1943年、戦時中の経済統制の一環として廃止されているが、その遺構は今もかなり残されていて、このたび交通博物館閉館記念の一環として万世橋駅遺構見学ツアーなんてのも行われていた(要予約、一日20人程度しか参加できず僕はあきらめた)
 戦争も末期になってくるとさすがに博物館どころではないというわけで、1945年3月10日に鉄道博物館は休館となってしまう。偶然らしいのだが、この日が東京大空襲。5月24日の空襲では博物館は直接的被害はまぬがれたが焼夷弾の殻が天井を突き抜けて展示蒸気機関車9850の炭水車部分を直撃、今もその跡がかすかに残っているという。
 敗戦後、鉄道博物館は「交通文化博物館」と改称して1946年1月に再開された。経営主体も戦前の鉄道省(戦時中に運輸通信省に改組)から日本交通公社(現JTB。以前ここの話を「史点」で書いたなぁ)に移されている。占領中は「アメリカンルーム」なるアメリカ鉄道コーナーが置かれ、アメリカ軍人の鉄道マニアが押しかけていた時期もあったそうで、前述のエリオット氏のHOレイアウトもそれが縁になっている。
 1948年9月にようやく「交通博物館」に改称、経営主体は日本国有鉄道(国鉄)自身となり、日本交通公社が経営委託されているという形になる。以後、ここは事実上国鉄の宣伝施設という性格も強く持つようになり、これは分割民営化後にJR東日本に経営が引き継がれてからも一貫していた。僕が4月に博物館を訪れたら昨年末に起きたJR羽越線の事故のおわび告知が館内入口に貼られていたが、JR西日本で昨年起きた福知山線事故については何もなかった様子であるあたり(もしかするとあったのかもしれないが)も「JR東日本の施設」という性格を色濃く感じたものだ。
 歴史的経緯がこうだから、鉄道文化の大博物館とはいいつつ国鉄→JR偏重の展示であった点は欠点として指摘できる。私鉄に関する展示はこれまでまるっきりないので、これは今後の「鉄道博物館」(この名前は「先祖がえり」でもあるんだな)で実現するのかどうか気になっているところだ。

 鉄道博物館は2007年10月14日開業予定。一年以上のブランクがあり、鉄道ファンとしてはそれも含めて寂しいところだ。なお、その代わりといっては何だが、「徹夜城の多趣味の城」内コーナー「旅と鉄道の記録所」に「さよなら交通博物館」コーナーが近日中に開業予定である(笑)。

 (この記事の執筆にあたっては「Rail Magazine」(2006年5月号、272号)の特集記事「交通博物館の時代」を大いに参考にさせていただきました。鉄道雑誌各誌の中でも濃度の濃さは出色。企画・執筆された皆様に厚く御礼申し上げます。なお記事中使った写真は全て徹夜城自身の撮影によるものです。念のため)


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