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2006年5月27日

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◆比叡のお山に山菱が

 すでに先月の話なのだが、去る4月21日、天台宗総本山・比叡山の延暦寺で、あの山口組の歴代組長の法要が営まれていたことが報じられた。方や伝教大師・最澄が788年(延暦7)に創建し、法然親鸞道元日蓮もみんなここで学んだ「日本仏教界の東大」にして織田信長に焼き討ちされたこともあるほど政治的・軍事的にも力のあった超有名な寺院。方や日本のヤクザ業界で最大の勢力(全国の暴力団構成員のおよそ半数が山口組系列)をもつ、これまた超有名な広域指定暴力団。どちらもまるっきり分野が違うが超有名という共通点があるわけだが、この両者が法要というイベントで結びついたところが興味を引いた。
 そりゃまぁヤクザといえど法要はするわけで(いや、ヤクザ業界はむしろ一般人よりこの手の儀式にはうるさい)、それをお寺でやるのは自然な成り行き。山口組クラスの大物となるとフツーのお寺ではダメなのかも、というのがこのニュースを聞いたときの第一印象だった。

 4月21日に延暦寺の阿弥陀堂で行われたのは「特別永代回向(とくべつえいだいえこう)」という最高級法要。山口組の初代〜四代までの歴代組長の供養をする法要で、直系組長ら約90人が出席、案外あっさりと午後五時からの40分程度で終わったという。滋賀県警は70人ほど動員して警備にあたったが、特に混乱もなく解散したそうで。なお、昨年山口組組長(6代目)になったばかりの司忍組長は現在服役中のため当然出席していない。
 延暦寺側の説明によると、この法要は東京の信者団体を通して3月中に申し込みがあり、この時は依頼主が「山口組」だとは分からず、あとでそれを知ったという。滋賀県警は前日になって山口組の法要を知り、「社会的影響を配慮してほしい」と中止を要請したが、延暦寺は「大規模な法要は直前には断れない」あるいは「宗教の行事だから断れない」、はたまた「あの世の命は差別できない」として法要は実施した。この寺側の釈明コメントが報道により微妙に異なり、とくに一番最後に挙げたものなど割と積極的な拒絶ととれるのだが、実際にこれ全部言ったのかもしれない。
 警察としては法要そのものがイカンというわけではなく、「香典の形で数千万円の資金集めが行われた」と見ているようだ。これも実態のほどはわからないが、政治資金集めのパーティーみたいなもんだと思えば違法性があるかどうかは微妙なのではなかろうか…
 
  さて、ここでこの法要で供養された山口組4代の組長についてまとめてみよう。
 初代組長は山口春吉(1881〜1938)という。神戸港の労務者から身を起こし、港湾人足供給の組織として1915年に「山口組」を結成した。こうした労働者・人足というのは江戸時代以来博徒(バクチ打ち)とは重なり合う関係で、はっきり言っちゃえばこの時点ですでに「やくざ」組織である。しかし山口組もまだこの時は50人程度の構成員しかいなかったと言われている。山口春吉は人足供給だけでなく浪曲の興行事業にも手を染めており、これがのちに山口組が芸能界と関わるルーツともなっている。
 二代目組長・山口登(1901〜1942)は春吉の実子。1925年に2代目組長となって次代における山口組発展の基礎を築いている。余談ながら東映実録路線ヤクザ映画「山口組三代目」では丹波哲郎がこの人を演じていた。

 そして三代目組長が田岡一雄(1913〜1981)だ。山口組のみならず日本ヤクザ史上最強の大立者。終戦直後の1946年に山口組三代目を襲名し、戦後の混乱期から高度経済成長期にかけての日本の経済成長と歩調をあわせるように組織を拡大、全国最大・最強の組織へと発展させた。神戸港の荷役や芸能興行への進出、各種経済事件への介入(ある時期経済事件に関しては「東の児玉(誉志夫)・西の田岡」と並び称せられたそうな)といった「合法的」活動で利益をあげていく。
 田岡組長のもと山口組は西日本各地に系列組織をもち、一時は全国制覇の勢いの拡大路線を突っ走り、各地で抗争事件を起こしている。抗争当事者の手記をもとに作られた傑作映画「仁義なき戦い」シリーズで描かれた「広島代理戦争」もその一例で、映画「仁義なき戦い」の中で田岡は「明石辰男」という変名で登場する(映画の主要人物は全てモデルがいるが名前を変えてある)。セリフは一切ないのだが、貫禄で演じていたのがやっぱり丹波哲郎だった(笑)。
 で、先ほど書いた「山口組三代目」は田岡自身の自伝を原作にしており、こちらは主役・田岡を高倉健が演じている。警察はさすがにこの映画に強い圧力をかけ、東映本社も取り調べられたりしたが映画は大ヒット。なんでも田岡一雄自身のお達しで山口組組員はこの映画を鑑賞し感想文を提出することを義務づけられたという(小学校の宿題みたいだ)。続編に「三代目襲名」があるが、さすがに二作目で製作は断念された。

 田岡一雄最大の失敗が後継者を決めずに死んだことだといわれる。晩年は麻薬撲滅運動に入れ込んだり「ヤクザの政治団体化」を目指したりしていたそうだが、結局のところ自分のあとのことはほったらかしという形になった。一応後継者の最有力候補として若頭の山本健一(映画「仁義なき戦い」では「岩井信一」の名で梅宮辰男に演じられ登場している)がいたが、彼が服役中に病死してしまうという不幸も重なった。田岡の死後、山口組は後継組長の座をめぐって内紛を起こすことになる。
 この内紛のなか、田岡未亡人の後ろ盾を受けて1984年に四代目組長となったのは竹中正久(1933〜1985)。一方の後継有力候補であった山本広はこれに不満をもち、「一和会」を結成して山口組から分派する。はじめのうちは一和会のほうが人数的に優勢だったが竹中の徹底的な攻勢の前に一気に切り崩され、焦った一和会はヒットマンを放って一発逆転を狙った。そして1985年1月26日、大阪吹田市の愛人宅を訪れた竹中正久は若頭とともに刺客に襲撃され命を落とす。日本最大のヤクザ組織のトップとナンバー2がいっぺんに暗殺されるというヤクザ史上でもまれな暗殺劇は、そのまま山口組対一和会の史上最大・全国規模の抗争へと発展した。この「山一戦争」当時の物騒な状況を覚えておられる読者も少なくないだろう。ドラマチックな展開ではあるのだが、さすがにヤバすぎるのでこの抗争の映画化は実現していない。

 この「山一戦争」は山口組のほとんど一方的な攻勢に終始し、一和会の解散(1989)で終結した。その直後に五代目組長になったのが渡辺芳則(1941〜)。この頃には山口組も暴力団新法の制定や警察の取り締まり強化によりかつての勢いはなく、2004年には組員が起こした事件に対する渡辺組長の「使用者責任」を認める判決が確定したこともあった。渡辺組長は昨2005年に体調不良を理由に引退を表明し、現在の司忍・六代目組長に引き継がれている、というわけだ。しかしその司組長も銃刀法違反による6年の懲役刑が昨年末に確定し、現在服役中…という状況である。

 とまぁ、長々と山口組の歴史などひもといてしまった。
 しかし今度の法要のニュースでまず思ったのは、「坊主とヤクザ」というのは実は深い関係が続いてきたという歴史的事実だ。江戸時代にバクチ打ちたちの賭場は「治外法権」地帯である寺の境内で開かれることが多く、そこから「テラ銭」という言葉も発生したぐらい。そうした賭場はお寺が秘蔵の仏像などを「御開帳」するという名目で開かれたため、今でも「賭場を開帳する」という言葉として残っている。世界的実例は余り知らないのだが、宗教界と暗黒界というのはお互いに補完作用を起こすというのは世界的にも多くあるんじゃなかろうか。映画「ゴッドファーザーPART3」はバチカンとマフィアが手を組む話だったし…



◆ボースが上手に…?

 ボーズの次はボースの話を(笑)。

 5月17日、インド政府系の調査委員会が「チャンドラ=ボースは実際には台北で事故死してはいなかった」という調査結果を発表し、ちょっとした騒ぎになっている。よくあるトンデモ歴史研究家の珍説のようなものではなく、レッキとしたインド政府の調査委員会の結論だから、アッと驚く内容ではある。日本にとってはいささか縁のある人物なのだけど今の日本人にはなじみがないので「ふ〜ん?」という反応の人が大半だろうが、インドではかなり有名な歴史人物なので衝撃度はそれなりにあるらしい。

 チャンドラ=ボース(1897〜1945←ただし今回の発表はこれを覆す?)とはインド独立運動指導者の一人。インドの独立運動といえば「非暴力・不服従」のガンディーが世界的に有名だが、このチャンドラ=ボースはいわゆる「急進派」であって、イギリスからの完全独立を勝ち取るためなら手段を選ばず、というところがあった。このためボースは国民会議派から除名されている。
 ボースの行動論理は「敵の敵は味方」ということだったようで、第二次大戦が勃発するとイギリスの敵国であるナチス・ドイツに亡命し、ここで亡命インド人による「インド旅団」を結成したり反イギリスのラジオ放送を行ったりしている。その後1943年に太平洋戦争でイギリスと戦っていた日本からの要請を受け、Uボートでインド洋まで送り届けられて日本の潜水艦に乗り換え、とうとう東京までやって来てしまう。そして亡命政府「自由インド仮政府」の首班やら亡命者や捕虜で組織された「インド国民軍」の司令官にもなり、インパール作戦など日本軍のインド侵攻(というより対イギリスの牽制というべきか)に参加するなど、「大東亜共栄圏」を唱える日本に利用される形ではあるが、彼はそれも承知の上で彼なりに戦い続けたことは確かだろう。
 東條英機を主人公にして論議を読んだ映画「プライド・運命の瞬間」でもボースが日本の唱える「大東亜共栄圏」の体現者とばかりに大きく取り上げられていたが、それと日本無罪論のパル判事の話を混ぜたりインド独立が日本のおかげかのような錯覚(サブリミナルに近かったな、あれは)を起こさせようとする内容になってたっけ。その思惑は結局シナリオ的にも無理があって失敗してたけど
 しかし1945年8月、日本は無条件降伏。「次はイギリスとソ連が対決する」と読んだ(この予測自体は正確だった)ボースは台湾から大連に飛び、そこからソ連への亡命を図ろうとしたとされている。しかし8月18日、台北の松山飛行場で乗っていた飛行機が離陸に失敗して炎上、全身大火傷を負ったボースは病院に運ばれてそこで波乱の48歳の生涯を終えた…というのが定説だ。台湾で荼毘に付されたボースの遺骨は東京の蓮光寺に保管されている。

 だが「ボースは実は死んではいない」という噂はインドでは長いこと絶えなかった。ガンディーら、イギリスと必要に応じては手も組む穏健派にあきたらないインド人の間では根強い人気があったのは確かなようで、戦中もボースが国外からインド人に呼びかけるラジオ演説に耳を傾けていた人も少なくないらしい。それが突然の事故による非業の死を遂げたということで、よくある「英雄不死伝説」が発生してしまったようなのだ。
 この「不死伝説」は相当に根強かったようで、インドの国民会議派政府は1956年と1970年の二度もこの件についての調査委員会を設置し、真相調査を行わせている。その二度とも「飛行機事故による死亡」という結論を出したというのだが、この二度の結論では飽き足らず1999年に当時のインド人民党(ヒンズー至上主義政党だった)の政権が三度目の調査委員会を設置、このたびの結論を今になって出したわけだ。

ボーズがビョーブにジョーズにボースの絵を描いた。 今度の調査委員会の報告によれば、「8月18日とその前後に台湾の空港で事故が起こったという記録がない」という。これは馬英九台北市長(国民党党首で次期総統の有力候補でもある)や台湾外交部が証言したとされているそうで。現物は見てないので詳しいことは分からないが、その他多くの「状況証拠」があるとして、同調査委員会は「(1)ボースは台北の飛行機事故で死亡しなかった(2)よって日本に保管されている遺骨はボースのものではない」との結論を出した。じゃあなんでボースが飛行機事故で死んだことになったかと言えば、「連合軍によるボースの追跡をかわすため、飛行機事故自体を日本軍が作り上げた」という推理をしているそうだ。この時点の日本軍にそんな工作をする気力も余力もなかったと思うんだが…
 では死を装って逃げたことになるボースはどうなったのか。さすがに今も生きているとは思えず(生きていれば109歳…)、報告書でも「既に死亡とみられる」としているという。しかし死亡原因について「説得力のある証拠がない」と妙にひっかかる表現もしているそうで…

 インド人民党から政権を奪取した国民会議派を主力とする現インド政府はこの調査報告書を国会に提出するにあたって「調査結果には同意しない」との意見書をつけ、政府の立場として公式に内容を否定している。今さらボースの生死の真相が政治状況を変えるとも思えないが、根強くくすぶる「ボース・ミステリー」は独立運動以来のインド政治の対立軸と案外密接に関わっているのかもしれない。



◆半世紀後の「和解」

 5月18日、在日本大韓民国民団(民団)の河丙オク[金玉](カ=ビョンオク)団長が、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の本部を訪れ、朝鮮総連の徐萬述(ソ=マンスル)議長とトップ会談を行ったことは、かなり大きなニュースとして伝えられた。日本国内に在住するコリアンの韓国系・北朝鮮系の二大団体で、朝鮮戦争以来激しい対立を続けてきた両者のトップ会談の電撃的実現、「民族的団結と統一に向かう民族史の流れに沿って、両団体間で長い間続いてきた反目と対立を和解と和合に確固として転換させる」とした共同声明の発表は、この声明自身もうたうように「歴史的」なものではあった。まぁ「今ごろなにを」と思う人が少なくなかったというのが実態だが。
 金大中韓国大統領(当時)と金正日総書記が南北首脳会談を行ったのは2000年6月のこと。それ以来、いや実のところそれ以前から民団と総連の対決構図はかなり崩れていたというのが実態だ。そもそも若い世代ではこうした団体に依存する傾向自体が薄れてしまっているし…

 もともとこの両団体は日本敗戦後、1945年に設立された「在日朝鮮人連盟」にルーツをもつ。韓国併合以来「朝鮮人」はすべて日本国籍にされていたわけだが、日本敗戦とともに彼らは「日本人」ではなくなり、こうした団体が作られた。戦前・戦中に日本国内で朝鮮独立運動に関係していた活動家達は当時日本における事実上唯一の反政府組織といえた日本共産党に属して活動していた人が多く、その流れで「連盟」も共産党的団体となってソ連と金日成(キム=イルソン)を支持する方向に流れていった。ただし分離していく過程で日本共産党とは陰でかなりの対立抗争もあったらしく、僕も在日の人からこの時の日本共産党に対する恨み節を聞かされたことがある。
 こうした「連盟」の傾向に反発した反共グループが、1946年に「連盟」から分離してつくった「在日本朝鮮居留民団」が現在の「民団」の始まりで、1948年の「大韓民国」成立にともなって「大韓民国民団」となった。一方の北朝鮮系グループは朝鮮戦争も終わった1955年に「在日本朝鮮人総連合会」として正式に民団とたもとを分かった団体を作っている。以後、両者はそれぞれの「母国」の激しい対立と連動する形で、日本国内で激しく対立を続けてきた。

 もっとも、事態はそう単純でもなかったんじゃないかな、というのが僕が漏れ聞く限りでの印象だ。少なくとも1980年代には、韓国の民主化と北朝鮮の異常化が進んだことで所属を変える人、あるいは「両属」的な立場になる人、さらには二世、三世の世代になって日本国籍を取る人も出てきていた。これにともない団体のトップレベルはともかく、一般の在日コリアンの間ではとっくに交流も進んでいた。
 各地にある「朝鮮学校」は一応「総連・北朝鮮系」ということになっていて、僕も韓国人留学生を含む友人らと一緒に実際に訪れて(地域交流のイベントがあったのだ。マッコリがうまかった(笑))あちこちに飾られた金父子の肖像画やらハングルで書かれた主体思想バリバリな標語看板に軽いカルチャーショックを受けたものだが(笑)、明らかに「形だけ」のものにしか感じられなかったのも事実。いわゆる「民族教育」はここでしかやってないので韓国籍(民団)の生徒も少なからず通っており、その面ではとっくの昔に交流は進んじゃっていたのだ。

 だからトップ会談そのものは歴史的とは思うけど、「何を今さら」という感もあるわけ。金大中元大統領が再度訪朝して会談をするのにあわせた政治的イベントでもあるんだろうけど。もちろん「和解」じたいも単純ではなく、拉致問題にからんで総連側との和解に抵抗する地方支部もあり、個人レベルは別にして団体同士の見解で見れば一致団結と呼ぶにはまだまだほど遠い。この辺もそれぞれの「母国」の関係と同じようなものだ。
 おりから韓国と北朝鮮を結ぶ南北縦断鉄道、「京義線」と「東海線」が連結され、朝鮮戦争中の1951年6月の運行停止以来の「復活」と騒がれている。これも6月の金大中氏訪朝のルートとして象徴的に使われるのでは…と噂されていたのだが、5月25日に予定されていた試運転は直前で北朝鮮側からドタキャンされた。どうも軍部が反対してつぶしたらしく、この辺もまだまだそう単純にはことは運ばない感じだ。

 南北の話と直接的に関わるわけではないが(たぶん)…5月20日に韓国最大野党・ハンナラ党の朴槿恵(パク=クネ)党首が暴漢に襲われて顔に負傷するという事件が発生、韓国政界を震撼させていた。犯人は長い服役に逆恨みして…というのだが、どうも良く分からない。選挙を控えた時期だけに、影響が注目される。何やら台湾で起きた事を連想しなくもなかったが…
 この朴槿恵さんというのは元韓国大統領・朴正熙(パク=チャンヒ)の娘である。この朴大統領は韓国現代史の暗部をいろんな面で象徴する政治家ではあるが、一方で人気も確かにあってそれがこの娘さんに支持が集まる一因でもある(そういう意味ではわが国のあの元首相の娘さんで父譲りで口の達者な政治家を連想する…)。この人の母親、つまり朴大統領の夫人である陸英修さんも文世光という在日韓国人に狙撃され殺されている。朴槿恵党首は2002年5月に一議員として訪朝しており、これもけっこう「歴史的」と騒がれたものだが、この時に金正日総書記からこの事件が北朝鮮の指示だったと明かされ謝罪を受けたという報道もあった。
 朴槿恵党首は展開しだいでは次期大統領とも目されている。世襲大統領になったらなったで北との比較でいろいろ言われそうな気もするが、そんな背景もあるもんだから今度の襲撃もただの暴漢で片付けられない空気がある。

◆補足◆
この記事書いた直後に北朝鮮がミサイル発射、核実験実施(失敗説も根強いけど)とやらかしたため、文中にある在日団体の南北和解は「ご破算」に。演出したほうも書いちゃったこちらも「勇み足」だった。まぁこの和解イベント自体あまり意味がないという見方には変わりはないですけど。


◆東欧あれやこれや

 ちかごろ大相撲の上位陣が「旧社会主義国」出身者で占められつつある。番付を見ても上位の出身地欄にカタカナがズラリと並ぶ。横綱・朝青龍ら多くのモンゴル勢、ロシア出身の露鵬白露山、グルジア出身の黒海、近ごろ人気のブルガリア出身の大関・琴欧州(ブルガリアあたりで「欧州」を代表されちゃあ…とか思ってたらちゃんとEUから化粧まわしが贈られてたな)、エストニア出身の前頭・把瑠都(ばると)などが幕内にいる。幕下以下に目を転じると、幕下47枚目にはカザフスタン出身の風斧山(かざふざん)、 三段目64枚目にいるハンガリー出身の舛東欧(ますとうおう)なんかがいて、ハンガリーがとりあえず現時点の最西端になるようだ。しかしこうして並べてみると暴走族の名前みたいだ(笑)。
 ぶっちゃけて言えば、旧社会主義国では国が豊かでないだけに出稼ぎ、良く言えば異郷で一旗あげて貧しさから脱却してやろうといった野心があるのだろう。これを舛東欧の場合「ハンガリー精神」というかどうか私は知らない(笑)。

 さてそんな東欧方面のネタをいくつか。
 5月21日、「セルビア・モンテネグロ」を構成する一国、モンテネグロ共和国の独立の是非をめぐる国民投票が行われた。「国民」といっても全部で60万人、有権者数は48万人程度で、日本人の感覚からすると「住民投票」に近い。
 そもそも「モンテネグロ」なる国家が登場したのは19世紀半ばのこと。この地域は以前オスマン帝国の支配下にあったがオスマン帝国の衰退とともにこの地域は次々と独立運動を起こし、1878年の「サン・ステファノ条約」で「モンテネグロ公国」の独立が国際的に承認された。しかし第一次世界大戦中にはオーストリア軍に占領され、それからセルビア軍に占領され、そのままセルビアに併合された形で1918年に成立した「ユーゴスラヴィア王国」の一地域となった。以来、モンテネグロが独立国家であったことはなく、あくまでユーゴスラヴィア連邦を構成する一共和国という位置づけが続いた。
 1990年代のユーゴスラヴィア連邦崩壊の過程でも、もともとセルビアとそう対立しているわけでもなかったモンテネグロは他の共和国が独立していく中で結局最後までセルビアにつきあっていた。1999年のコソボ紛争前後からセルビアとの分離独立の気運も高まってはいたが、これ以上事態がややこしくなることを恐れたEU諸国の意向もあって2002年に「ユーゴスラヴィア」を完全解体して「セルビア・モンテネグロ」という緩やかな国家連合の形が作られることが決まった(「史点」2002/3/17付でこの件書いてます)。2003年2月の国家連合発足時に「3年後に独立の是非が問える」という条件がつけられており、今回の国民投票はそれにのっとったものだ。

 今回の国民投票だが、EUとしてはモンテネグロ独立が地域の不安定化を招くことを恐れてやや高めのハードルの有効条件をつけていた。それは「投票率が50%以上あること、独立賛成が55%以上あること」だった。ソ連崩壊以後あちこちで見られた独立の是非を問う投票というやつは、たいてい住民の大半が賛成してしまうものだったのでこの「55%」というハードルはやけに低くも感じられるが、これを理解するにはモンテネグロという国の民族構成を知らなければならない。この国のわずかに約60万人の国民のうち「モンテネグロ人」とされるのが43%、「セルビア人」が32%、ほかムスリムやアルバニア人など細かい少数派が占めている、という状態なのだ。おまけにモンテネグロ人とセルビア人の違いなど、日本の関東人と関西人ほどの差もあるかどうかというレベルらしいのだ。
 今回の国民投票でもモンテネグロ人が独立賛成(独立すればEUに早く入れる!」というのが合言葉だったらしい)、セルビア人が独立反対、という傾向だったようだ。そして投票結果は有効投票率86.5%、独立賛成票55.5%というもので、EUが決めた基準をクリアはしたが、やはりそのギリギリの結果だったあたりがこの国家の実態を表している。独立反対派は投票のやり直しなどを求めたというが、とりあえず独立は承認され、第一次大戦以来88年ぶりに独立国「モンテネグロ」が出現することになる。そしてそれは「ユーゴスラヴィア」という多民族連邦の完全な終焉も意味する。

 ところで「セルビア・モンテネグロ」は間もなくドイツで開かれるサッカーW杯の出場国でもある。代表チームには一人だけミルコ=ブチニッチという選手がモンテネグロ人であとは全てセルビア人だ。母国の分離独立が決まったからといっていまさらチームを外されることはないようだが、「セルビア・モンテネグロ」としてW杯に出場するのはこれが最初で最後となる。ただし2008年のヨーロッパ選手権は今年8月から予選が始まるので組み合わせもとっくに済んでおり、これには依然として「セルビア・モンテネグロ」で出場することになる。「モンテネグロ」単独のチームは2010年W杯の予選から、ということになるようだ。
 モンテネグロのミロ=ジュカノビッチ首相は「私は常にモンテネグロを支持してきた。また、次に私は常に隣人を支持してきた。 時間があればワールドカップ観戦にドイツに行きたいと思っている」とコメントしているそうで。


 もう一つはラトビアの話題。
 ラトビアといえばあの「バルト三国」の一国で、ソ連から最初に独立していった国々として一時は社会科の暗記必須項目となっていた。この世代の受験生は「ラトビア・エストニア・リトアニア」が全て言える人が多かったはず。今じゃすっかり忘れられちゃってる感があるが…
 5月22日付の朝日新聞の記事で、「ラトビアで初の漢字学習辞典」という見出しのものが目を引いた。「漢字学習」といっても日本語専用の漢字学習辞典で、首都リガにある「日本語文化学習所」の校長・ブリギッタ=クルミニャさん(62)が多くの人の協力を得て8年がかりで作成した3万8000語収録の大作だという。題して「和良学習漢字辞典」。「和」はもちろん日本で、「良」とは「ラトビア」に「良登美野」の漢字を当てたその頭文字なんだそうだ。
 辞典を編集したこのクルミニャさんの日本語との関わりのエピソードも面白い。きっかけは1969年の大阪万博の準備でリガに来ていた日本人との出会いだったそうで、教育映画・記録映画監督という本業のかたわら、日本から本や教材をとりよせて独学で日本語を学んだという。日本語の本が続々と送られてくることにKGBが不信を抱いて中身を開けて調べ、「映画監督になぜ日本語が必要なのか?」と問いただされたこともあったという。するとクルミニャさん、ゾルゲのようなスパイになるためです」とジョーク(?)で返し、これにはKGB職員も笑って引き渡してくれたという。う〜ん、いい話だ。ゾルゲも妙なところを名前を出されて地下で苦笑していそうだ(笑)。
 その後ラトビアの独立、ソ連の崩壊もあって本業の監督の仕事が少なくなったこともあり、本格的に日本語・日本文化紹介の仕事をするようになり、とうとう日本語学校の校長にまでなってしまったという。「まだ、多くのラトビア人は日本に対して、『芸者』や『空手』といったイメージしかありません。この辞典で学習し、正しい日本の姿を理解できるようになってほしい」というコメントには、ああやっぱり、という感もあったが、考えてみりゃ日本人はラトビアそのものを知らない人が大半でイメージすらないわけで。

 なお、日本にラトビア大使館が出来たのは、なんとつい先日の今年4月20日のことだ。これに合わせてアイガルス=カルヴィーティス首相も来日して小泉首相に会ったりしているのだが、まるっきり気付かなかった…。ラトビア大使館が東京のどこにあるのかネットで調べたんだけど、いまだにわからない(汗)。調べているうちにカルヴィーティス首相の記念スピーチの内容が掲載されているサイトを見つけたが、1542年、ポルトガルの開拓者アントニオ=ダ=モタが最初の欧州人として日本に上陸以来…」という部分があって、「あ〜やっぱりヨーロッパじゃそういうことになってるのか」と再確認(詳しくは当サイトの「俺たちゃ海賊!」内「海上史事件簿」参照)。最後にちょっと東欧から離れちゃったかな。


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