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2006年6月4日

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◆今週の記事


◆それをあんたが言いますか(笑)

 何の話かといえば、アメリカのヘンリー=キッシンジャー博士の発言である。
 キッシンジャー博士、いまだご存命であるのだが(「特撮」とはいえ、同時多発テロ後の米国民向けCMでランニングホームランを打ち、ホームベースに滑り込んだりしてた)、この「発言」はもう34年もむかし、1972年8月31日になされたものだ。このたびアメリカの国立公文書館で閲覧が解禁された公文書で明らかになったのである。
 その発言とは、「あらゆる裏切り者どもの中で、“ジャップ”が抜きんでている(Of all the treacherous sons of bitches, the Japs takethe cake.)というものだ。うーん、日本の各種報道での訳より英語原文のほうがきついな。ハリウッド製アクション映画でおなじみの「サノバビッチ」と来てますぜ。なお、「take thecake」は慣用句で「いちばん」「きわだっている」等の意味があるそうで。
 日本人ならずともちと驚かされるこの発言は、このときハワイで行われたニクソン大統領と田中角栄首相による日米首脳会談にあたって、アメリカ側スタッフの協議の中で当時大統領補佐官であったキッシンジャー氏が口走ったものとして協議メモ内に記録されていたという。

 さてキッシンジャー補佐官(当時)は日本人に対する明白な蔑称である「ジャップ」まで使って「最強の裏切り者」呼ばわりするほど、日本の何に怒っていたのだろうか。
 この発言が飛び出した日米首脳会談のおよそ一ヵ月後、日本首相・田中角栄は中国を訪問する。そして周恩来毛沢東ら中国共産党首脳と会談して「日中共同声明」を発表、それまで中国の正統政府としてつきあってきた「中華民国」たる台湾を切り捨て、「中華人民共和国」と国交を結ぶという大転換を実行するのだ。この計画は当然アメリカ側に事前に伝えられており、この8月の日米首脳会談でも話し合われたことは間違いない。
 アメリカが支持する資本主義陣営の「中華民国」を捨てて、敵対する共産主義陣営の「中華人民共和国」と結ぼうというのか、許せん!裏切り者め!と当時のアメリカ外交を一手に握るキッシンジャー氏が怒るのは当然…などと思ってはいけない。この間の事情を知る人から見れば、まさにタイトルの通り「それをあんたが言いますか!?」ってなもんなのである。

 そもそもこのキッシンジャー博士、この前年の1971年にニクソン大統領の意を受けた密使として極秘に2度中国を訪問し、同年7月に世界をアッといわせた「ニクソン訪中計画電撃発表」をしかけた張本人なのだ。
 それまでアメリカと中国は冷戦構造のなかで激しく対立していた(余談ながら、「サイボーグ009」の「移民編」では米中核戦争が将来おこることになっていた。前にも書いたか、このネタ)。ところが1960年代にソ連と中国の間の対立が激化し(そのきっかけがソ連の対米融和路線と中国の対米対決路線の対立だったところが後から見ると皮肉)、とうとう1969年には国境を巡って武力衝突まで起こるようになってしまった。これに目をつけたのがアメリカで、「敵の敵は味方」の発想で、ソ連を牽制するために中国に接近する道を選んだのだ。
 ニクソン大統領が訪中の計画をTV演説で世界に発表したのは1971年7月14日。アメリカ政府から日本政府にその内容が伝えられたのはまさにその放送直前のことで、佐藤栄作首相の耳にその衝撃の内容が入ったのは実に放送3分前のことだったと言われる。しかも台湾への援助を話し合っていた閣議の最中に(笑)。佐藤首相が驚き呆れ激怒したという話があるが無理もない。日本側に言わせればキッシンジャー、そしてニクソン政権こそが「裏切り者の最たるもの」と映ったに違いない。
 
 翌1972年2月にニクソン大統領は訪中。国交樹立こそまだだったが、事実上の「中国承認」だった。親分アメリカの方針転換に日本政府も後追いながら対応することになる。
 この時期、日本は佐藤栄作の長期政権の末期で、田中角栄と福田赳夫が派閥の跡目相続をめぐって争っていた。佐藤の意向が福田であることを察した田中は5月に「田中派」を立ち上げて佐藤派から分離独立し、激しい水面下の争い(角福戦争のはじまり)の末、7月に自民党総裁選に勝利し首相の座を手に入れる(なんだか前回の「山一戦争」の話に似てるな)。そして中国との国交樹立に向けて一気に動いていったわけだが、この時点ではまだまだ自民党内には慎重論が根強く、田中自身のかなり強引なリーダーシップで話は進められたとの話もある(この辺は小泉訪朝と似てなくもない)
 そして9月に田中首相と大平正芳外相(のちに首相)は訪中し、9月29日に「日中共同声明」を発表。この時に中国からランラン・カンカンの2頭のパンダが贈られたりしたわけだが…。
 
 表面的に見れば田中政権の中国外交は、自分たちを出し抜いたアメリカの後を追っかけて急いだもの、といえる。しかし「実はアメリカはそんな田中政権をこころよく思ってなかった」との説も以前から根強い。その後の田中退陣、ロッキード事件においてアメリカの陰謀があったのでは…という声もあったりするが、ここではそこまで深入りしないでおく。
 今度あきらかになったキッシンジャー発言は、そんなアメリカ政権内の複雑怪奇な感情をはしなくも吐露したものだと思える。日本からすると理不尽きわまる怒りであって理解しにくいのだが、どうも「アメリカ様をさしおいて勝手に中国と接近しおって!」ということらしい。そのメモでは田中内閣の慌しい動きを「品のない拙速さ」と表現しているとか、また田中首相が中国の建国記念日である「国慶節」(10月1日)に合わせて訪中することについても不快感を露わにしているという。自分は先に頭越しに仲直りしておいて…と思うばかりだが、ヤクザ映画において親分同士が同盟関係にありながら子分たちには「他の組のもんとチャラチャラすんな!」とビンタするシーン、あれを思い出した(また「仁義なき戦い」ネタでした(笑))
 アメリカのこうした外交姿勢はいまでもチラチラと垣間見られる。東アジアにおいては日中間はほどよく対立関係にさせておいて、米中間は実をとる形で仲良くしておく…ということは今でも行われてるような気がするんだよな。



◆国民党機関紙の終焉

 5月31日、台湾で一つの老舗新聞が発行を停止した。1928年の創刊以来、実に78年にわたって続いた新聞だったが、ついに経営難から発行停止に追い込まれたという。こう書くとネット時代の新聞がウンヌン…といった話に見えてくるが、その新聞の名前が「中央日報」であり、実は中国国民党の機関紙であったと聞くと、話は一気に歴史ばなしへと突入してしまう。

 中国国民党機関紙「中央日報」の創刊は1928年2月。この時点で国民党の創設者・孫文はこの世を去っており、後継者の蒋介石がその主席となっていた。蒋介石は前年の1927年に「上海クーデタ」を起こして共産党と手を切り、「南京国民政府」を樹立して本格政権を築きつつあった。この1928年には国民政府軍による「第二次北伐」が開始され、華北を支配していた軍閥・張作霖を追い込んで中国の統一を一応実現することになる(これに危機感を抱いた日本の関東軍はこの年6月に張作霖爆殺を実行する)。そういう時期の国民党機関紙発行は、国民党こそが中国の政権政党であることを内外にアピールするためでもあったのだろう。

 政権政党の機関紙であるから「中央日報」はひところ中国を代表する大新聞となっていた。しかし日本敗北後の国共内戦によって国民党が台湾に追われると、「中央日報」も党と一緒に台湾に渡ることになった。以後、台湾の主力新聞として生き残り続けたが、1988年に台湾総統(=国民党主席)の地位が蒋経国(蒋介石の子)の死により李登輝に移り、民主化が進められる中で新聞の新規発行が自由化されたため、その優位性を失うことになる。
 民主化された台湾では次々と新聞の新規発行が起こり、熾烈な販売競争が展開された。国民党も政権の座を奪われ、一応「国民党機関紙」であった「中央日報」はますます経営的に苦しくなり、今年四月時点で累積赤字が8億台湾ドル(約28億円)にも達していた。5月24日に国民党が「中央日報」への資金援助停止を決定したため、ついに5月31日付発行をもってひとまずのピリオドが打たれることになった。一説には「世界でもっとも長い歴史をもつ中国語新聞」なのだそうだが…
 調べてみたところ、「中央日報」の公式サイトはまだ残っていた。トップページでは「中華民国九十五年五月三十一日 星期三 農暦丙戌年五月五日」で更新は止まっており(この表記にも歴史を感じますな)「六月一日よりしばらく停刊します。復刊を計画中ですので期待してお待ち下さい」という読者への挨拶が掲載されている。新たな出資者が見つかれば復活の可能性もあるということだが…


 中国国民党の機関紙が「中央日報」なら、中国共産党の機関紙は「人民日報」。こちらは国共内戦のさなかの1948年6月の創刊と意外に遅い。まぁそれまでの中国共産党は機関紙を出すほどの余裕もなかったのでは、とも思う。こちらは共産党が天下をとっちゃったものだから、その後中国最大の部数を誇る新聞となった。しかしこちらも党が進める改革・開放路線によって市場原理にさらされ、各種新聞と競い合う立場に置かれている。そのインターネット版を見ると、日本の新聞サイト並みかそれ以上に各種広告が散りばめられた資本主義そのものの状態になっちゃってるところにも歴史の流れを感じてしまう。
 しかしなんだかんだ言っても「人民日報」は共産党機関紙であって政府の御用新聞。最近の中国では政府の発表に頼らない独立系新聞が出てきて人気を集め、しばしば政府とせめぎあっているニュースも聞こえてくる。5月31日に報じられたニュースでは、北京の日刊紙「新京報」の調査報道部門編集長が党中央規律検査委員会による汚職幹部の取り調べに関する内部文書をスクープしたことを理由に党の圧力で解雇されている。新聞ではないが週刊誌「氷点」が歴史問題がらみで停刊処置をくらって編集長解任で復刊という話題も最近あり、メディアと党=政府のせめぎあいがこのところ激しくなってきている。報道規制が厳しくなっているという反面、情報源の多様化で一昔前に比べると従来型の報道統制も効かなくなってきているともとれる。

 ところで我が国にも政党機関紙というものは存在する。「新聞」という形でもっとも有名なのは日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗(あかはた)」だろう。政党機関紙ではあるが一般新聞に近い体裁をとっていて日刊紙(夕刊はない)である上に日曜版まで発行しており、共産党の重要な収入源となっている。調べてみたらこちらも創刊は中国国民党機関紙「中央日報」と全く同じ1928年2月。当時は共産党は非合法化されていた時代で「赤旗」と書いて「せっき」と読ませていた。戦後に復刊して「アカハタ」となぜかカタカナ表記になり、その後「赤旗」「しんぶん赤旗」と名前を変えて現在に至っている。党勢のバロメータといわれる部数は減少傾向で、こちらも大変らしい。
 最大政党である自由民主党にも「自由民主」なる機関紙があるがこちらは週刊。公明党も「公明新聞」なる機関紙があるが、創価学会の「聖教新聞」があるせいかいまいち目立たない。民主党にはプレス「民主」なる機関紙があるそうだがこの記事のために調べていて初めて知った(笑)。社民党には社会党時代以来の機関紙「社会新報」というのがある。



◆東アジアのお宝たち

 どうも今週は東アジアネタばかりが続いてるなぁ…。以下はもっと古い時代のお話。

 5月23日、宮内庁正倉院事務所が発行する紀要の中で、正倉院の宝物のひとつ「大方広仏華厳経」について、「統一新羅時代の朝鮮半島で写経された可能性が高い」という説を発表した。調査にあたった山本信吉・元奈良国立博物館長の打ち出した説だという。
 この経典はコウゾから作った白楮紙(しろこうぞし)55枚をつなぎあわせたもので、幅26cm、長さ30.8mある。そもそも白楮紙の使用例が当時の日本に少なく、また当時の日本の官営写経所のものには見られない力強い楷書の筆致が同時期の新羅のものに似ているということ、そして巻首本文中の枚数表記「五十四張」に当時の日本では例がない「張」の字が使われていること、さらに一巻の中に数巻を書写する「一部合巻」という手法が当時の日本の華厳経にはなく新羅・高麗のものにそれがあること…などなどが決め手らしい。朝鮮半島における現存最古の写経で韓国の国宝に指定されている「新羅白紙墨書大方広仏華厳経」(755年製作)との比較で、それとほぼ同時期か、さらに古いものである可能性もあるという。
 しかしこれが新羅時代の朝鮮半島で書写されたものとして、どのような事情で日本に渡り、正倉院に収められることなったのかについては全く分からない。


 上の話で「統一新羅」という表現を使った。日本の小中学校でも習う朝鮮半島古代史では「新羅」「百済」「高句麗」が覇を競った「三国時代」があり、その後7世紀に唐との挟み撃ちで百済・高句麗が滅亡し、半島の大部分を新羅が支配して「統一新羅」になったという説明をする。しかしこの見解は韓国では通用しない。韓国では高句麗の遺民が合流した「渤海国」を韓(朝鮮)民族の国とみなし、7世紀〜10世紀はじめまでを新羅と渤海が南北に対峙した「南北国時代」ととらえる考え方が主流なのだ。
 渤海に高句麗遺民が合流したのは確かだが、建国者の大祚栄はツングース系靺鞨(まっかつ)族の出身とされる。この「靺鞨」自体が「高(句)麗の別種」ともされるが、これを現代人の感覚で「新羅と同じ民族」と考えるのはいささか無理も感じる。当時の外交関係などからすると新羅側に渤海に対して同族意識があったとはあまり思えないし、高麗時代初期に作られた歴史書『三国史記』『三国遺事』とも渤海は除外しているので、あまりに現代人的な歴史解釈なのでは…とこちらからは思えるのだが、この点については近現代において民族主義意識の強まった韓国ではまるっきり譲っていない。近年中国で高句麗研究を中国の地方史の枠内でで進めようとしたら韓国側が「歴史捏造」と非常にエキサイトした事件があったが、これもそうした意識とつながっている。

 その渤海の石碑が日本の皇居内吹上御苑にある、というのは僕も初耳だった。朝日新聞が記事にしていたのだが、それは現在の旅順市内にあった「鴻臚井碑(こうろせいひ)」という横3m、高さ1.8mの石碑で、日露戦争の際に日本軍が旅順から持ち出し、戦利品として明治天皇に献上して1908年に皇居内に置かれたといういきさつがあったのだ。石碑には713年に唐が大祚栄を「渤海郡王」に封じたことを記念する内容が書かれているという。
 この石碑について、地元の中国遼寧省の関係者や学者の間から「返還」を求める動きがあるというのがその記事の話題。今のところとくに強いアピールではないそうだが、中・韓間の「高句麗・渤海論争」がその背景にあるのでは、という記事だった。確かにその石碑の内容は「渤海は中国辺境の藩国」という中国側の主張を裏付けることにはなる。
 それはともかく、日本の渤海史研究者の方もコメントしていたが、この石碑を「国有財産」として公開すらせず(皇居内なので立ち入り規制があり、写真提供だけ応じるそうな)、皇居の奥深くにしまっているというのはやはり問題だろう。先に、やはり日露戦争時に勝手に持ち帰って靖国神社に置かれていた「北関大捷碑」が韓国経由で北朝鮮側に返還された事例があるが…


 上の話にあるように日露戦争の際に日本が文物をいろいろ持ち帰ってしまっているが、これは当時の帝国主義諸国がみんなやっていたことでもある。僕は大英博物館を見物してきたことがあるが、それこそ旧大英帝国はなやかかりし時代に世界のあちこちから「略奪」してきた文物であふれ、イギリス本国の物品はそれほど置かれていない「ブリティッシュ・ミュージアム」という名前からすると妙な博物館でもあった。実際博物館の目玉展示物はエジプトやギリシャのものが多く、それら本国から「返還要求」が行われてもいる。
 さて5月31日に東京大学とソウル大学が同時発表を行い、東大がその附属図書館に所蔵していた『朝鮮王朝実録』をソウル大に寄贈することが明らかとなった。これも実は日本が韓国を植民地にしていた時代に「略奪」(当人にその気はあまりないだろうが取られたほうからすれば)されたもので、韓国側の返還要求に東大側が「寄贈」という形式で応じたものだ。

 『朝鮮王朝実録』、以前は「李朝実録」の方が通りが良かったが最近では韓国に合わせて日本でもこの呼び方が一般化している。「実録」とは中国文化圏の歴史記録の方式の一つで、歴代皇帝・国王の日々の記録を専門の官吏がつけ続け、皇帝・国王の死後に「○○実録」として編纂するものを言う。例えば僕は中国・明代の倭寇研究をするにあたって明朝歴代皇帝の「実録」の多くにお世話になったが、とにかく「何年何月何日、どこそこからこれこれの報告があった。これに対して大臣のだれそれがこれこれと意見し、皇帝はあれこれと命令をくだした…」といった感じの、まさに日記スタイルで詳細な情報がつづられている。意見書・公文書の内容をそのまま含んでいたりするからその時代を研究する上で一級の史料となる。
 中国のいわゆる「正史」はこうした「実録」をもとに次の王朝が編纂するわけで、その過程でバッサリ編集もされている。じっさい明の歴史をつづった正史『明史』はコンパクトにまとまっていて読むには楽だが、史料としてはてんで使い物にならない。『実録』じたいもある程度割り引いて読む必要もあるが、ほぼ同時代史料に近い記録だから史料価値がグッと高い。
 こうした実録スタイルを日本でやったのが江戸幕府の『徳川実紀』。朝鮮でやったのが『朝鮮王朝実録』ということになる。僕も倭寇研究で『朝鮮王朝実録』の一部を大学の図書館の奥から引っ張り出して読んだことがあるが、もちろんこれは「影印本」という写真コピー本である。今じゃネットでハングル訳版が全部無料で見られるんだってねぇ…

 東大が所蔵していた『朝鮮王朝実録』は「五台山本」と呼ばれるもの。国家の実録だけに朝鮮王朝では紛失・焼失を避けるためあらかじめコピーを複数つくり各地の寺などに保存しており(実際に豊臣秀吉の朝鮮侵略の際にこれが役立っている)、「五台山本」もそのうちの一つだ。
 韓国併合後、朝鮮総督府は各地にあった「実録」を接収している。このうち「五台山本」を1912年に朝鮮から持ち出し東京帝大におさめたのは白鳥庫吉(1865〜1942)という、日本史・東洋史学徒には超有名な人物である(昭和天皇に歴史教育をした人物でもある)。本人にしてみれば「日本の最高学府にあったほうが保存のためによかろう」ぐらいのつもりだったかもしれないが、これが裏目に出た。1923年の関東大震災でその大半を焼失してしまうのである(苦笑)。たまたま誰かが借り出していたのか偶然残されたのは74冊だけであったという。「だけ」と書いたが、「実録」は25代の国王・472年に及ぶ膨大な記録で、全部で888冊もあるのだ!
 その後1932年に焼け残ったもののうち27冊は朝鮮の京城帝大(ソウル大の前身)に移され、残り47冊が東大に保管された。この「五台山本」以外にも「実録」のセットは3種類あると言われ、二つは韓国国内に所蔵されているが、一つは朝鮮戦争の際に北朝鮮が接収し、今も北朝鮮国内に保存していると言われる。歴史書そのものも国家の正統性の根拠に使われて争奪の対象となり、歴史に翻弄されたりするわけですな。

 韓国では当然この「朝鮮王朝実録」を国宝に指定しており、1997年にユネスコの「世界の記憶」(世界遺産の史料版みたいなものかな)に指定され、ここで紹介されている。
 ところでこの話題を報じたNHKのニュース、「『実録』にはNHKで放送中の『宮廷女官チャングムの誓い』のチャングムに関する記述もあります」としっかり言及していたのには笑ってしまった。大河ドラマがらみもそうだが、NHKは時々民放以上に露骨な宣伝をするんだよな〜。



◆最古の作物は「イチジク」?

 つい前々回に人類の小麦栽培の発祥についての話題をとりあげたが、今度は「イチジク」である。

 アメリカの科学雑誌「サイエンス」の6月2日号にハーバード大などの研究チームが発表したそうなのだが、約1万1000年前のヨルダンの遺跡から発見されたイチジクの実が、「人類最古の作物」である可能性が高いというのだ。前々回の「史点」で触れたように小麦の栽培は1万年前ごろから西アジアでぼつぼつと始まったとされており、イチジクのほうがそれより1000年は早いことになってしまう。
 この研究チームはヨルダンの新石器時代初期の遺跡から出土した9つのイチジクの実を調査し、それが野生種ではなく虫を媒介とした受粉がなくても実をつける「変種」だと突き止めた。どうやって調べたのか分からないが実が甘く落ちにくいものであることも分かったという。こうした「変種」は種をつけないため自然のままでは繁殖しないはずだが、他の遺跡からも同種のイチジクが発見されたことから、この「変種」の特性を理解した人間たちが枝を切り取り植えるなどして「栽培」していたと結論したようだ。

 これまでイチジクの栽培は6500年前から始まったと考えられていたそうだが、この調査だと大きくさかのぼり、「人類最古の作物」であった可能性が出てきたことになる。
 ここまで話が進んできて気になったのは、「人類最初の衣服はイチジクの葉」という例の件である(笑)。旧約聖書の創世記に出てくる話で、エデンの園の最初の人間であるアダムとその妻エヴァは神の意思にそむいて「知恵の木の実」を口にする。そのとたん「知恵」がついて自分たちが全裸であることを恥じ、イチジクの葉で陰部を隠した―という話だ。この件で「知恵の木の実」はリンゴにされていることが多いがそんなことは聖書には書かれておらず(そもそもこの地方にリンゴがない)、むしろイチジクの実のイメージなのではないかという説もあるようだ。もしかすると旧約聖書の話は人類史に重大な示唆をしているのだったりして。


 イチジク、といえば食うほうではなく出すほうでも気になる。え〜食事中の方は以下を読むのは後にしてください(笑)。
 
 イチジクと聞くと「浣腸」と続いてしまう日本人は少なくないはず。それほどまでに「イチジク浣腸」は浣腸薬の定番として日本人に親しまれ(?)ている。
 さっそくイチジク浣腸のホームページを調べてみた。イチジク浣腸の会社沿革によると1925年(大正14)に田村廿三郎医師が「イチジク印軽便浣腸」を考案、事業化し、翌1926年に田村を社長に合資会社「東京軽便浣腸製造所」を設立して本格的に製造を始めたようだ。それにしても「軽便」って鉄道用語だけじゃなかったんだなぁ(汗)。
 なんで「イチジク」なのか調べてみると、もともとイチジクは漢方の生薬でも利用されており、なかでも実を干したものは緩下剤として使われてきた「実績」があるそうで、それが「イチジク印」の由来らしいのだ。
 
 食物になり下着(?)になり、出すほうのお世話もするという…もしかしてイチジクは人類の「友」だったのか!?


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