ニュースな史点2006年7月19日
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※おことわり…ここ一ヶ月多忙のため、更新が遅れました。よって古いニュースもかなり混じっております。
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◆王様たちと私
早くも今年二度目のタイ国王ネタである。6月9日、タイのプミポン国王が在位60周年を迎え、国を挙げての大祝賀となっていた。
タイの国王は制度的には「神聖にして侵すべからず」の大日本帝国憲法における天皇の地位に良く似た存在で、先のタイ政界の紛争でも両派がお互いに相手を「国王に対する不敬」と攻撃していたところなど日本の「錦の御旗」にも確かに似ている(さらに言えば宗教祭祀長の役割がある点も似てるかも)。しかしふだんは政治に直接タッチはしなくてもイザとなると調停役など局面を動かす大きな役割を果たすのは過去に何度も例があったこと。そうした実績もあって、日本のあれよりは多少地上に降りてきた感じなのか、庶民レベルも含めて国王の人気はかなり高い。プミポン国王のシンボルカラーである黄色のTシャツが飛ぶように売れ、着てない者はそれこそ「非国民」みないなムードすらある熱狂ぶりらしい。
プミポン国王の60年におよぶ在位期間は全世界の現役君主中最長となる。もちろん過去にはこれを上回る君主もいる。日本では在位64年(といっても実質62年と二週間)に及んだ昭和天皇がいるし、イギリスではヴィクトリア女王の在位64年の記録がある。もっとも日本の神武天皇はじめ、世界各国の神話・伝説上の存在と考えられる君主の在位期間では百何十年とか何百年・千年(!)とかいうレベルのものが出てくるので誰が最長かというのを確定するのはちと難しい。
ともかく世界の君主の中で最長在位の王様のお祝いということで、世界中から国王・大公ら元首クラスがゾロゾロとタイにかけつけた。日本の天皇・皇后夫妻も東南アジア歴訪の一環としてこの式典に参加している。
全部で25か国(?)の元首・王族が参加との報道があったので、どんな国が集まったのか気になった。完全なデータが見つからなかったのだが(タイ語のニュースサイトとか探せばあるのかもしれないが読めないし)、とりあえず国王自身が「出席予定」になっていた国には以下のような国々があった。地域別に分けてみよう(地域ごとにアイウエオ順)。
東アジア…日本
東南アジア…カンボジア、ブルネイ、マレーシア
南アジア…ネパール
西アジア…カタール、クウェート、バーレーン、ヨルダン
アフリカ…スワジランド、レソト
ヨーロッパ…スウェーデン、モナコ、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク
なんだか国王達のワールドカップみたいである(笑)。これだけの洋の東西の王様が一同に会すること自体歴史上珍しい(初?)んじゃなかろうか。国王だけではない、代理ということで元首の配偶者や皇太子が出席した国にはデンマーク、スペイン、モロッコ、トンガ、ブータン、オランダ、ノルウェー、ベルギー、アラブ首長国連邦があり、王族の出席にとどめた国にイギリス、オマーン、サウジアラビアなどがあった。実際に王族が出席した国の数は2、3カ国少なかった記憶があるので、予定をとりやめた国があるのかもしれない。これだけ集まると世界の君主国の「バンコク博覧会」のおもむきすらある(笑)。
ところでこのタイ訪問君主のなかにネパール国王がいる。つい先ごろ革命一歩手前まで行ってしまったあの国の、ギャネンドラ国王が来ていたようなのだ。タイ国民におけるプミポン国王の人気の高さにはつくづくうらやましく思えたのではなかろうか。
6月10日、ネパール議会は、それまで認められていた国王の法案拒否権など国王の政治権力を一切剥奪する法案を全会一致で可決している。これにより、ネパール国王は完全に儀礼的・象徴的存在となったわけだ。もともとそういう方向へ向かっていたのをこのギャネンドラ国王がひっくり返して専制的政治を行ってしまったことが今日の事態を招いているわけで、まぁ自業自得。革命で王制が倒されるのを阻止しただけマシだったというところか。
その王制廃止を今もなお強く主張しているのが例の「毛派」(ネパール共産党毛沢東派)である。農村を中心に国土の過半を支配下におさめているといわれるこの武装組織「毛派」をどう扱うのかもネパール政局の鍵だ。今のところ停戦に応じて交渉中で、最新の報道ではとりあえず暫定政権に参画の方向で動いているらしい。
騒動の結果、暫定首相になったが高齢が心配されていたコイララ氏が入院した、という報道もあったが…
式典参加組の中で唯一「エンペラー」になってしまう日本の天皇さんだが、このタイも含めた東南アジア歴訪の出発に当たって記者会見を行っている。最近意外と目が離せない天皇一家の記者会見だが、この中でも僕などはいささか興味を引かれた発言があった。天皇自身が日本の近現代史についてちょっとした「私見」を述べていたのだ。
質問者がどこの記者であったかは分からないが、会見に先立って用意された質問の中にちょうど国会で改正案が初めて出された(その後、継続審議になったが)教育基本法に関するものがあったのだ。教育基本法の改正にあたって「愛国心」が議論されていることからめて、「陛下がこのたび訪問されます国も含めまして近隣諸国では、そういった動きが戦前の国家主義的な教育への転換になるのではと恐れられています。陛下もそうした見解に共鳴されますか」という質問だったという。
むろん、天皇の直接的回答は「憲法上の私の立場からはその内容について述べることは控えたいと思います」というものだった。しかしそのあとにかなり長いコメントが続く。少々わずらわしいかもしれないが、興味を引いた発言部分を以下にそのまま引用してみる。
「なお、戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。その原因については歴史家に委ねられるべきことで、私が言うことは控えますが、事実としては昭和5年から11年(1930年から36年)の6年間に、要人に対する襲撃が相次ぎ、そのために内閣総理大臣あるいはその経験者4人が亡くなり、さらに内閣総理大臣1人がかろうじて襲撃から助かるという異常な事態が起こりました。
帝国議会はその後も続きましたが、政党内閣はこの時期に終わりを告げました。そのような状況下では、議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代があったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう、日本の今後の道を進めていくことを信じています」
なんだか入試問題の長文問題の模範回答を読まされている気がしなくもないが(笑)、戦前、ことに1930年代の日本の政治状況の異常さに着目する視点は「天皇の発言」としては(僕には)かなり踏み込んだもののように感じられた。吉田茂が「日本の失調」と言い、司馬遼太郎が「魔法の森」と喩えたことと、かなりの部分で重なり合うというか…考えてみりゃ天皇さん自身がこの時代に生まれ(昭和8年生まれ)育った人なんだよな。僕自身この時期の日本の状況の考察が非常に重要と思っていたところで、まさに「そのようなことが二度と起こらないよう」願いたいものだ。
式典参加組の中に「王」ではないが実質同じ扱いの「大公」が三人いる。このうちモナコ大公であるアルベール2世といえば昨年の父レーニエ3世の逝去を受けて即位したばかり、しかも独身のため大公位の今後が気になるところなのだが、この人、独身のくせにお子様はいるのだな(笑)。昨年7月にトーゴ出身の元スチュワーデスとの間に3歳になるアレクサンドルちゃんという男子がいることがスクープされている。
そして今年6月1日、さらにもう一人の隠し子がいることが公表された。アメリカに住む現在14歳のジャスミン=グレースさんという女の子で、母親は「極めて短期間の交際があった」という元ウェイトレスだとか。アルベール大公がこの子を「落としダネ」と認知したのは数週間前のことだったそうな。
アルベール大公、いつまでも独身でいるわけでもないようで、巷では南アフリカ出身の白人元陸上選手が本命の大公妃候補と噂されているそうで…ウェイトレス、スチュワーデス、陸上選手…とまぁマニアックなのか、もしかして(笑)。この調子だと「天一坊事件」がそのうち起こりそうな…。
さて、最後に「元国王」たちの話題も。
6月16日にイタリアでビットリオ=エマヌエーレ容疑者(69)が逮捕された。世界史習った方ならピンとくるお名前。そう、かつてのイタリア王国王室サヴォイア家の継承者その人である!
ビックリマークをつけたが、実は「史点」登場はこれが三度目。2001年2月12日付「史点」で、王制廃止以来の国外追放措置が解除されるかも?という話題で登場し、2002年11月6日付「史点」では入国の条件である共和国に忠誠を誓うことを承知したら王制復活を目指す勢力から総スカンを食って…という話題で登場している。その後どうしてるのかなと思っていたら、入国は認められたもののこともあろうに犯罪に関わっていたようなのだ。
エマヌエーレ容疑者の逮捕容疑はスイスとの国境にあるカンピオーネ市のカジノを舞台に暗躍した犯罪組織(売春にも手を染めていたらしい)との関与、というかなり穏やかならぬもの。関与どころかどうも「元締め」だった可能性もあり…「犯罪界のナポレオン」とかいうフレーズを思い出しますな(笑)。
この事件の捜査でエマヌエーレ容疑者とイタリア人実業家の電話の盗聴記録というのが使われたのだそうだが、この電話のやりとりの中でもう一人の「元王族」の関与が疑われて話題を呼んでいる。こちらも以前「史点」に登場した人物、元ブルガリア国王「シメオン2世」ことシメオン=サクスコブルクゴツキ氏である。ブルガリアに帰還後ひきいた政党が第一党となり昨年まで首相を務めて注目された。
ヨーロッパの王族は全部親戚関係、という話は聞いていたが、このシメオン氏(面倒だからこう書く)とビットリオ=エマヌエーレ氏も実は「いとこ」どうし。エマヌエーレ容疑者の父でイタリア最後の国王となったウンベルト2世の妹がシメオン2世の母なのだ。
で、くだんの電話盗聴記録によれば、そのイタリア人実業家が仲介役となって、シメオン氏がブルガリアの首都ソフィア市内の宮殿の売却相手のあっせんをエマヌエーレ容疑者に依頼、その見返りとしてエマヌエーレ側はブルガリア国内の通信会社買収や病院建設入札で便宜をはかってもらおうとした…という疑惑が浮かんだとのことだ。
シメオン氏はソフィア市内で記者会見し、「私は歴史的に責任のある家名を継承しており、行動には常に注意している」と疑惑を全面否定したというが…。
◆ドイツもコイツも…
「史点」執筆が止まっている間に、サッカーW杯ドイツ大会は終わってしまった。たかが球蹴りに世界中がああも熱狂(出場国でない中国で妙に熱狂していたな)するということ、そのものを面白がって見ていたところがあったが。最後の最後に「ジダン頭突き事件」という大騒ぎもあったし。
というわけで(どういうわけだ)集まっていたドイツネタ特集。
W杯ドイツ大会の決勝戦はベルリンで行われた。このベルリンが1936年にオリンピックの会場となり、ヒトラー率いるナチスの大宣伝の場となったというのは良く知られた話だが、今回のW杯の決勝戦会場となったのもこのベルリン五輪のときのメインスタジアムである。そのため当時に作られ、ナチスの意図に合わせた彫刻もそのまま残っているという。これをW杯中ぐらい外せないのか?という声が上がったというのだ。
議論を呼んだのは西側ゲート正面にあるヨゼフ=ワッケーレ(1880〜1959)作の彫刻。もちろんカギ十字がそのまんま残っているとかそんな分かりやすいものではなく、男性が馬のあごに手を当て動きを抑えているという彫刻で、「アーリア人が自然を支配する」という意図が込められていると分析されるものだそうだ。実際ワッケーレはヒトラーの賞賛も受けていたという。
「世界中から人が見に来るW杯会場にナチスの遺産があるのは問題だ」として撤去を求める声が上がったが、競技場の方では「彫刻は歴史を証明する負の遺産と考えている」として撤去を拒んだとのこと。その後報道を確認していないのだが、まぁそのままになったんでしょう。
似たような議論としてレニ=リーフェンシュタール監督によるベルリン五輪の記録映画「オリンピア(「民族の祭典」「美の祭典」二部作)」のことが連想される。この映画は記録映画史上の傑作として戦後も世界中で賞賛を受けた作品ではあるが、ナチスの宣伝の一翼を担ったことで特にドイツ国内で非難も受け続けていた。この人もやっぱり「史点」にご登場したことがあるが(100歳で監督作品を作ったという話題で)、こちらが「史点」を書けないでいる間に2003年9月にお亡くなりになっている。
やはりW杯を意識してのことだろうか、ベルリン市内の「ヒトラー自殺の地」に戦後初めて案内板が立てられた(むろん戦前に立てられるわけはないが)との報道もあった。
ヒトラーはソ連軍がベルリンに突入するさなかの1945年4月30日、総統本部の防空壕の執務室において前日結婚したばかりの妻エヴァ=ブラウンと共に自殺したとされる。「される」というのは本人の遺体がすぐにガソリンで焼かれてあとかたも残されなかったためで(数年前に「ヒトラーのしゃれこうべ」なるものがロシアから出てきたという話題もあったが)、戦後しばらく「ヒトラーは実は生きていた」ネタの小説や映画が作られる原因ともなった(クローンを作る話もあったな)。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』みたいに死んだには違いないけど…というパターンもある。
ヒトラーという存在はやはり戦後のドイツでは東西ともに重過ぎたのか、その「終焉の地」に何か記念物を作るというのは気がひけるところがあったかもしれない。特に終焉の地は東ドイツ地域であったため、西側より扱いがやっかいだったというところもあったかもしれない。
ともあれW杯も近づいた6月8日、総統本部執務室の真上に当たる、住宅地わきの駐車場に「ヒトラーの地下壕・伝説と歴史的証言」と題した案内板が忽然と出現することになった。案内版にはドイツ語と英語で防空壕の解説図とヒトラーの生涯の説明文が載せられているという。
一部に「ナオナチの聖地になる恐れはないか」と危惧する声もあるにはあるらしいが…思えばドイツで初めてドイツ人がドイツ語でヒトラーを演じる映画「ヒトラー〜最期の12日間〜」(原題「Der Untergang 」)が製作・公開されてちょっとした議論を呼んだことがあったが、あれもようやく一昨年のこと。ヒトラーもようやく「歴史」になりつつあるのかもしれない。
そのヒトラーのもとでユダヤ人虐殺の指揮にあたり、戦後南米に逃亡し、1960年になってイスラエルの情報機関モサドによって逮捕され結局処刑されるという波乱の人生を送ったのがナチス親衛隊幹部だったアドルフ=アイヒマン。この人物についての新事実が、CIAが秘密指定解除をして公開した文書により明らかになった。実はCIAはモサドがアイヒマンを逮捕する2年前の時点でアイヒマンの居所を突き止めていたが、ある事情によりそれをイスラエルに黙っていたというのだ。
戦後ドイツからイタリアへ、そして南米に逃亡したアイヒマンは1952年から「クレメンス」という偽名を使ってアルゼンチンに潜伏しており、様々な職業を転々としつつ、家族も呼び寄せて平和な生活を送っていた。イスラエルによる逃亡ナチス戦犯追及は凄まじいものがあったが、その中でも大物の彼が1960年まで居場所を突き止められなかったというのもちょっと驚かされる。だが今回公開されたメモによると1958年3月19日の段階でCIAは西ドイツ情報機関からアイヒマンの潜伏先の情報を知らされていたことになる。
ではなぜCIA、そして西ドイツ情報機関はこの情報をすぐにイスラエルに伝えなかったのか。それはアイヒマンを逮捕することで、当時の西ドイツ政権内にいた元ナチス幹部の存在が明るみになることを恐れてのことだったとされる。当時の西ドイツ・アデナウアー政権では閣僚までつとめたハンス=グロプケなど元ナチ関係者が数多くおり、冷戦まっさかりのアメリカの反共政策に協力し、アメリカもこれを利用するため彼らの過去を封印していたという事実があったのだ(日本だって似たような例がある)。
結局はその2年後、独自調査でアイヒマンの潜伏先を突き止めたモサドは彼を拉致してイスラエルに連行し(さすがにこれはアルゼンチンの主権を侵害する行為として批判も受けたが、「手段を選ばないイスラエル」というのは現在でも見られる)、裁判にかけた上で1962年に絞首刑にした。イスラエルは戦犯以外は死刑にしないことになっているそうで、これがイスラエルの歴史上唯一の死刑執行となっているとか。
そのアイヒマンが指揮したユダヤ人絶滅計画の象徴として有名なのが、アウシュビッツ強制収容所だ(う〜ん、報道の時系列順に並べているだけなんだが、見事に話がつながってるぞ)。その「アウシュビッツ」は歴史上の「負の遺産」としてユネスコの世界遺産に指定されているが、この収容所について「改名問題」が持ち上がっているという。
アウシュビッツといえばナチス・ドイツ、とすぐ連想が浮かぶが同収容所がポーランド国内にあることは遠く日本ではあまり認識されていないように思う。第二次世界大戦中のポーランドはナチス・ドイツの占領下にあり、同国南部のオシフィエンチム(ドイツ語でアウシュビッツ)市郊外の兵舎跡を利用してこの強制収容所が作られたのだ。
そんなわけでこのアウシュビッツ強制収容所に関して「ポーランドにある強制収容所」「ポーランドの強制収容所」といった表現がしばしば外国メディアで流されることになる。それ自体は間違いではないが、ポーランド自身がユダヤ人虐殺に関与したようにとられてはかなわん…ということで、ポーランド政府が近年この収容所の世界遺産登録上の名前について「旧ナチス・ドイツのアウシュビッツ・ビルケナウ強制・絶滅収容所」とするようにユネスコに求めているわけだ。
この改名問題については被害者側であるユダヤ人団体の間でも賛否両論らしい。ポーランドの主張に一定の理解を示す団体もあるが、「当時のポーランド人だって、そこで何が行われていたか知っていて黙ってたじゃないか。ポーランドは一切関係ないというのか」と反発する団体もあるという。絶滅的虐殺はともかくとしてポーランドに限らずユダヤ人差別がヨーロッパ各地でくすぶっていたのは事実で、ナチスの政策はそれに乗っかったものという見方もあるわけで、これはこれで聞くべきところはあろう。
またポーランド国内にいるドイツ系住民の団体からも別の観点からの反発があるという。戦後のポーランド領はソ連の思惑もあって戦前のそれから大きく西部に移動していて、かつてドイツ領であったシュレージェン地方(ポーランド語ではシロンスク。かつてプロイセンとオーストリアで争奪戦となった地方でもある)は現在ポーランド領となり今も多くのドイツ系住民が住んでいる。彼らに言わせれば戦後のポーランドではドイツ系住民に対する弾圧があり、それこそ「強制収容」もされた事実があり、「ポーランドだけ被害者ぶるな」という民族団体の声もあるそうだ。
まったく歴史をふりかえるとドイツもコイツも…
◆古代の遺跡?がゾロゾロと
この一ヶ月ばかりの間に考古学発見ネタがいくつかあったので、並べてみたい。
6月17日から18日に中国のマスコミで報じられたところによると、中国の山奥の雲南省玉渓市にある「撫仙湖」という湖の底に「古代遺跡」らしきものの調査が開始されたという。この「湖底の古代遺跡」は1992年にダイバーによって発見され、2001年に最初の調査が行われて「南北約2000m、東西約1200m」もの「都市」の遺跡であること、「底幅63m、高さ17mのピラミッド型の石組み建造物や300m以上の石畳道路」が確認されていたそうで、今回はダイバーを潜らせての本格的な調査となったわけだ。中国ではかなりの注目度で、初日の調査の模様は中国中央テレビで放映されることにもなった。
水中遺跡…というとどうも沖縄・与那国島の「海底遺跡」の件を連想してしまって胡散臭さを感じてしまうのだが、一応こちらでは紀元前3世紀ごろまで使われていた「陶釜」や、人の顔や文字らしきものが描かれた石などが回収され、「遺跡」であることはほぼ間違いないらしい。また、炭素年代測定によりおよそ1700年前後のものと推定されており、『漢書』地理志に「兪元は池が南に在り、これは橋水が出るところで…」と記されている「兪元県」の古城(紀元前106年建設)ではないかと文献的考証も行われている。この文章にある「池」を撫仙湖と解釈すればこの「湖底遺跡」は湖の東北岸にあるので矛盾しないとの主張だ(ところで日本国内の多くの報道ではこの漢書地理志の紹介が「池の南に位置する」となっていたのだが、明らかな誤訳である。原文は「池在南」と書いてあるんだが、なまじ漢字文化圏の人間で漢文学習がおろそかになった弊害が中国関係の報道には割と多いので注意してほしい)。ただしその遺跡にしては規模や作りが充実しすぎていないかとの疑問の声も上がっているという。
一方で、これは史記などに出てくる、雲南の謎の古代王国「テン[シ真]」の都の遺跡ではないかとの意見もあるという。これに関してはそれこそ資料が少ないので何ともいえないみたいだが…炭素測定からするとやはり漢代に作られた兪元県城と見るのが自然ではなかろうか。この地方は地震も多く、地殻変動によって湖底に沈んだ可能性は十分考えられる。ともあれ、今後の調査を待たないと…
同じく中国からは6月末に「始皇帝陵の陪葬墓からペルシャ系の男性の人骨確認」というニュースもあった。
現在の西安郊外にある秦の始皇帝の陵墓といえば、あのリアルきわまる陶器製大軍団「兵馬俑(へいばよう)」であまりにも有名だが、この始皇帝陵の建設に従事した人々を埋葬したのが「陪葬墓」というやつである。この陪葬墓から発掘された人骨の一部をDNA鑑定にかけたところ、一体が「遺伝子的にインドやパキスタン、イランのペルシャ系の男性」と判定されたというのだ。この発見を受けて専門家は「従来の学説でとなえられていたより一世紀早く、中国が中央アジアと交渉を持っていた事を示すもの」とコメントしているという。
まぁ結局は陸続きなんだし、中央アジア方面のいわゆるインド=ヨーロッパ語族と中国の接触はかなり早くからあったんじゃないかとは思う。また、現在イメージするところの中国を最初に統一した「秦」じたいが西方民族の影響が強い、あるいは西方から来た民族そのものではなかったかという見解も前からあり、一人一人にモデルがいたとされる兵馬俑の兵士像は平均身長や顔かたちが西方民族的との指摘もあった。今度の発見は「秦」という国家の性格を考える上でも興味深いものなのだ。
話は古代エジプトに飛ぶ。
歴史上とくに何も大きなことはしなかったんだけど、お墓が見つかったことで名前はやたらに有名なのがツタンカーメン(トゥトゥアンクアメン)。紀元前14世紀の第18王朝のファラオで、少年で即位し若くして死んだ。業績(?)としては先代のファラオで唯一神信仰を行うなどユニークな行動で有名なアメンホテプ4世が作った都を放棄してテーベに戻した、というぐらいしかないのだが、約3000年後の1922年に「王家の谷」でその墓が盗掘被害をほとんど受けずに発見され、その豪華な副葬品が世界を驚かした。
このツタンカーメンの母親の墓ではないか?という地下室がその「王家の谷」で発見されたという報道が6月末にあった。ツタンカーメン王の墓からわずか10m程度のところにあったという。今年2月に見つかったんだそうだが、なんで今まで見つからなかったんだろうという気も。
発見したのはアメリカのメンフィス大学の発掘チーム。6月28日にエジプト考古最高評議会のザヒ=ハワス事務局長はこの地下室について「ツタンカーメンの母キヤの墓の可能性が高い」と発表した。その根拠は「地下室から見つかった封印・器がツタンカーメンの墓で見つかったものと同じで同じ象形文字の文章が記されていた」「棺の一つに描かれたマスクがツタンカーメンの墓で見つかったものと酷似する」というもの。まだ断定は出来ないのだろうが、3000年も前の墓の主についてあれこれ推理が出来るということだけで恐れ入ってしまう。
さて最後の一つはかなり怪しげな話。6月9日付AFP=時事で報道された話題で、「ボスニアに古代のピラミッド?」というものがあったのだ。
旧ユーゴのボスニア・ヘルツェゴビナ中部、首都サラエボから北に30Kmのビソコという町の近くにある一つの「丘」がある。これについてボスニア出身のアメリカ人、セミル=オスマナジッチ氏なる探検家兼一匹狼的考古学者が「何千年も前のピラミッド」と主張し、発掘調査をしているらしい。この人の活動についてはこのサイトが詳しかったが、要するに自称インディアナ=ジョーンズみたいな人である。彼の調査の結果、この丘からはブロック状の石や規則正しく小さな石を敷き詰めたようなあとも見つかっているという。
この「ピラミッド説」に対し、欧州考古学者協会会長でイギリスのエクセター大学のアンソニー=ハーディング教授は「人間が造ったかのように見える岩石の自然構造物がどれほど多いことか」と述べ、「ピラミッド説」をあっさりと否定した。ところが「ピラミッドの本場」エジプトの地質学者アリ=アブド=アラ=バラカット氏は、丘の斜面がきっちり東西南北を向いていること、発見された「石版」が確かに人の手で研磨されていること、接着剤と思われる白い物質が石についており、これがギザのピラミッドで見つかっているものと一致すること―などを挙げて、「ピラミッド説」を肯定したから話がややこしくなってきた。
まぁちゃんと調査するに越したことはないだろうけど、日本でも「ピラミッド説」のある山がいくつかあるし、先述の「与那国海底遺跡」のこともあって、洋の東西、似たような話は多いんじゃないかな。
◆恒例・贋作サミット・サンクトペテルブルグ編
7月のある日、ロシアの旧都サンクトペテルブルグにG8+招待国5か国の首脳が集まりましたとさ。
露「やあ、どうも皆さん、いらっしゃいませ。ついに我がロシアでのサミット開催です」
英「『サミット』といえばかつては「西側諸国」による『先進国首脳会議』だったんだけどねぇ」
仏「東側の、『先進国』かどうかも怪しい国で開催されることになるとは時代の流れを感じるねぇ」
露「(怒)…あんたの大好きな国の格闘技の技でも一つお見舞いしましょうか」
日「まぁまぁケンカしないで。これが私としては最後のサミットなんだから、気持ちよく進めましょうや」
米「プレスリーのカラオケでも用意しますか(笑)」
伊「こちらは今年からの新参です、よろしく。前任者が珍しく長期政権で」
独「私も今年から参加で、1993年以来の紅一点ですわ、ホホホ」(※文末に補注)
加「そういや昨年はこの恒例の贋作サミットはやらなかったんですよね」
英「去年はウチで自爆テロ事件が起きたりしたんで、ネタにしにくかったそうでね」
日「さて、うちの近所で飛び道具をぶっ放して騒いでる迷惑な人がいるんですが」
米「二人っきりで会おうよ〜ってしつこいんだよなぁ。まるでストーカーだ」
仏「“二代目”どうし、シンパシーでも感じてるんじゃないの」
米「こっちの記念日に狙い済ましたように一緒にロケット打ち上げたしなぁ…って、オイ」
中「まずは6人そろっての合コンで、お付き合いはそれからって手順をふめ、って忠告してるんですけどね」
露「もういいじゃないですか、彼を外した五人の合コンってことで」
中「しかし外したら外したで逆ギレしそうで怖いしねぇ。ミサイルはこっちにだって届くんだから」
印「ヘン、どうせうちは失敗しましたよ、ミサイルも人工衛星も」
日「まぁまぁ、うちだった以前はよくやってましたから」
米「うちも失敗してたけど、今度はちゃんと成功したモンね」
露「ところで大陸の反対側でもドカドカ撃ってる人たちがいるんですが」
伊「まったくどっちがテロリストだかワカラン状態になって…」
仏「ドカーン!」
伊「なんでいきなり頭突きを!」
仏「いや、つい単語に反応を」
伊「なにやってんだ、この母ちゃんや姉ちゃんが×××の」
仏「ドカーン」
伯「こらこら、そこで勝手にミサイル撃ってないで。うちなんか史上最強とか言われながら準々決勝で敗退なんだ」
南「あ、次のW杯はうちで開催するのでよろしく、と宣伝」
独「次のサミットはうちで開催しますのでよろしく、と宣伝」
中「次のオリンピックはうちで開催しますので…」
日「その年のサミットはうちでやるんだけど、ホストは俺じゃないからどーでもいーや。Love MeTender〜♪」
墨「じゃあまた来年〜って、俺のセリフはこれだけかよ!」
(補注)
最初のアップ時に独首相のセリフに「サッチャー以来の紅一点」と書いたのですが、サッチャー後に1993年にカナダのキム=キャンベル首相がサミットに出席した例があったとの指摘を受けましたので訂正しておきます。たった半年で辞任した首相だったので完全に忘れ去っておりました(汗)
2006/7/19の記事
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