ニュースな
2008年9月30日

<<<前回の記事
次回の記事>>>


◆今週の記事

◆贋作漫才・イチローさんとタローさん

太「どーもー、衆院で指名されたタローでーす!」
一「こんにちわ〜参院で指名されたイチロ−です」
太「どーせ衆院で指名されたほうが総理になるって決まってるのにわざわざ選んじゃって」
一「あ、でもね、私は昨年も指名されてるから君より総理指名回数は多いのよ」
太「俺なんか総裁選に4回も出たんだぞ、あんたなんか一度も出てない」
一「そりゃあくまで自民党の党首だろ」
太「こっちはかしこくも御名御璽をいただいてんだぞ」
一「戦後では“ナンヂ人民餓えて死ねギョメイギョジ”以来の使用例じゃないかなぁ」
太「そういえば自民党総裁で唯一総理にならなかった河野議長も引退だってね」
一「あの人、父親がイチローで息子がタローなんだよな」
太「ジュンイチローさんも引退で…」
一「しっかり息子さんに世襲したねぇ」
太「そういうアンタだって世襲議員じゃないか」
一「アンタの家のほど年季は入ってないけどね」
太「祖父が吉田茂、祖母の祖父が大久保利通、妻の父が鈴木善幸、妹は三笠宮寛仁親王妃…っと」
一「内閣も外相が中曽根康弘の息子、総務省が鳩山一郎の孫、少子化担当相が小渕恵三の娘、経済担当大臣が与謝野晶子の孫…」
太「ちょっと待て、与謝野晶子は政治家じゃないだろ」
一「どちらにしても衆議院の貴族院化はますます進行中ですなぁ」
太「他人事のように。だいたい、こんな不安定な職業、家業でもないとやらないぞ」
一「子供のころから政治家根性仕込まれるしねぇ。歌舞伎や狂言みたいな伝統芸能と思っていただければ」
太「うん、たまに官僚出身のやつが政治家になるとロクなことがないという実例を身をもって知った」
一「ああ、夫婦も息子さんもみんな大蔵・財務官僚ってあの人ね」
太「町村派を麻生支持でまとめてくれた恩義から行革担当相を打診したら、ウチは官僚一家だからそれはできないと文句言って来て」
一「で、国土交通大臣ですか〜ゴネ得ってやつですね」
「あの人、1943年生まれだから小学校上がったころはモロに戦後の民主化教育全盛の頃よ」
一「ああ、戦後教育の成果ですね、まさに。あの頃は日教組組織率ももっと高かったし」
太「大臣辞めるか辞めないかを『女房と相談する』とか言って、総理のオレとの相談は女房の後かよ、と」
一「ホント、戦後教育は“私”を捨てて“公”に尽くす人を減らしましたわなぁ」
太「そう、だから“公”明党が断固辞めさせろとうるさくて。これで公のためにはある程度自分を犠牲にしたことになるか」
一「なんせ選挙日程も総理の指名も実質あちらが決めてるもんね」
太「安倍さんときもそうだったけど、なんでウチの党は選挙間近になると足を引っ張る大臣ばっかり出るのかねぇ」
一「案外、内部から崩壊を狙った刺客なんじゃないの、ジュンイチローさんあたりが放った」
太「失言癖のオレより先に失言して自爆だもんなぁ。わざと嫌がらせでやってるとしか思えん。祖父さまに倣って“バカヤロー”!!
一「任命からわずか5日で辞任という速さだったけど、戦後最短記録は4日だって」
太「下には下があるもんだな」
一「ここで一発、総理はウサイン=ボルトよろしく新記録を狙っては?」
太「新記録って?」
一「衆院選で敗北して退陣に追い込まれれば、東久邇稔彦内閣の在任最速記録54日間を抜く日本新記録が!」
太「うぉい!」


 …また贋作対話になっちゃいました。それにしても「史点」史上7人目の総理大臣誕生ということで久々にほぼ週刊更新したら、その間に任命された大臣がもう辞任しちゃってるとは驚いた。
 いしいひさいち氏が先週夕刊紙に描いてた2コマ漫画も予見的だったな。麻生太郎新首相と、お祝い電話をかけてきた胡錦濤主席のやりとりで…「わが国でも短期間に皇帝が相次いで変わることがありました」「王朝の末期かよ!」



◆京は燃えているか

 幕末の風雲史を語る上で欠かせない宿屋が京都・伏見にある「寺田屋」。恐らく日本史上一番有名な宿屋だろう。
 文久2年(1862)4月23日に、この宿で「寺田屋事件」が発生している。このとき薩摩藩の実質君主・島津久光が軍を率いて上洛しており、尊王攘夷の志士たちはこれを蜂起の機会と期待していた。ところが久光の真意は倒幕どころか公武合体が狙いであったため薩摩藩の尊攘派は失望、一部過激派が薩摩藩が定宿にしていた伏見・寺田屋に集まって蜂起を企てた。これを知った久光は彼らに説得の使者を差し向け、説得を聞かなければ攘夷ならぬ「上意」により殺害することを許可した。結局これが凄惨な同士討ちを招き、10名の犠牲者が出る(うち説得側犠牲者が一人、宿にいた側が9人、この9人のうち二人は事後の切腹、1人は事後の斬殺)。二階にいて斬り合いに参加せず投降した尊攘派の中には西郷隆盛の弟・西郷従道やのちに日露戦争で活躍する大山巌、自由民権運動弾圧で知られる三島通庸など明治の有名人が多い。

 この寺田屋でおよそ4年後にまた事件が発生する。慶応2年(1866)1月23日、2日前に薩長同盟を実現を見とどけたばかりの坂本龍馬が幕府の捕吏の襲撃を受けたのだ。このとき龍馬の愛人・おりょうが入浴中に危機に気づいて裸のまま二階に駆け上がり急を知らせたとか、龍馬がピストルで応戦して重傷を負いつつ逃げたとか、劇的な要素が多いので幕末ものドラマでは定番で描かれる。どうしてそんなに具体的にわかるのかというと龍馬自身が手紙でその模様を詳しく書いているから。
 なお、龍馬が実際に暗殺されたのは寺田屋ではなく近江屋。たまに混同している人もいる。混同といえば近藤勇と新選組の名場面として何度となく映像化されてきた襲撃事件は池田屋で、これも結構ゴチャゴチャに覚えられていることが多い。池田屋の跡地は現在はパチンコ屋になってるって話ですな。

 さて寺田屋に話を戻すと、こちらはパチンコ屋にはならず今も旅館として「営業」を続けている。400円で見学もできるようになっていて、外見も昔の旅籠の風情を残し、内部には寺田屋事件の折の刀傷やら龍馬が撃ったと思しき銃弾が当たった跡、そして「おりょうが入っていた風呂桶」なんてものまで展示しているそうで。まさに「歴史的現場」がそのまま見れるということで多くの歴史ファンの来訪を呼ぶ名所となっていたわけだ。幕末なんてそんなに昔の話ではないから、まぁそんなものかと僕も特に疑問をもったことはなかったのだが…

 しかしここに来て「今の寺田屋は当時の寺田屋ではない」との声が強まっていた。建築様式が明治以後のものだとの指摘が以前からあり、さらにこの一帯は戊辰戦争の発端となった「鳥羽・伏見の戦い」(1868)で焼失したはずだとする研究者もいた。これが今月初めに週刊誌で報じられたこともあって京都市も調査に乗り出し、当時の瓦版に寺田屋付近が焼失地域に入ると確認されること、寺田屋の女将・お登勢が養女であるおりょうに送った手紙でも焼失後の「かり屋」に住んでいると書いていること、現在の寺田屋の東隣にある明治時代の石碑に「寺田屋の遺址(いし)に建てた」とあることなどから、「現在の寺田屋は焼失後の再建」と結論づけた。そして現在寺田屋を所有・経営している会社「冨信」に観光客に誤解を与えることのないよう、展示内容の修正を求めた。

 「冨信」の社長は市の要請に対し、「刀傷などの展示内容は前の経営者から引き継いだもの」としており(「冨信」が寺田屋を入手したのは1976年からだそうだ)、「過去の経緯と市の調査結果を精査し、わかりやすい説明ができるようにしたい」と答えてはいた。しかし一方で「焼失した直後に同じ材料を使って再建したもので、刀傷や弾痕はあくまで当時ついた本物」との主張を崩していないという。
 まぁ再建というなら金閣だって奈良の大仏だってそうだし、「墨俣一夜城」みたいに何の根拠もない建造物よりはずっと「ゆかり」のものには違いないんだからいいんじゃないの、と。刀傷だの弾痕だのといえば旧首相官邸にも「5.15事件」「2・26事件」の軍人たちの襲撃のときについたとされるものがあるのだが、これも「取材に押しかけた報道カメラマンの機材がぶつかったもの」というのが真相と言われている。


 幕末がらみの話題では、こんなのもある。
 幕末維新で薩摩と共に中心となり、明治政府以後多くの人材を輩出したのは長州藩。現在の山口県だ。山口出身の首相は戦前・戦後を通じて8人にのぼり、一番最後の例が、あの一年で投げ出しちゃった前の方の安倍晋三さんだ。その祖父である岸信介、その弟・佐藤栄作もみんな山口出身。首相以外の大臣もかなりの数にのぼり、日本近代史はほとんど長州政府史だなんて極端にまとめる声もあるし、大日本帝国憲法について「長州の作った憲法が日本を滅ぼした」と言ったのは文民で唯一A級戦犯として処刑された広田弘毅だった。
 こんな長州だから山口県は純然たる自民党王国。そんなわけで山口県の自民党議員が入閣するたびに山口県として(自民党山口県連ではない)祝賀会を開催することが習慣化していたのだそうだ。先ごろ組閣した途端に終わってしまった福田改造内閣でも参院山口選挙区選出の林芳正が防衛大臣として入閣した際にも山口県は自民党と合同で祝賀会を行い、県知事や県議が出席、県職員が会場受付などを「公務」として担当していたという。共産党議員などから「憲法・地方公務員法に違反する」との批判もあったが、山口県は「純粋にお祝いするためで政治的意図はない」と突っぱね続けていた。
 自民党だらけだから県と党との区別がなくなっちゃったというところなんだろうが、他の県ではこんな例はないとのこと。まさに「長州」だからこそ続いていた習慣なのだ。しかし総務省が「県民の誤解を受けないように」と見解をしめしたこともあり、ついに9月18日、二井関成・山口県知事も「誤解のないような形で見直すべきだ」と発言、ついに明治以来続いていた県としての「入閣祝賀会」開催は中止されることになったのだ。
 その歴史的な「県から祝賀してもらえない入閣者第一号」となったのは、麻生内閣で官房長官になった河村健夫(衆院山口3区選出)。この方、官房長官の恒例行事である閣僚名簿発表も麻生首相自身によって行われるという、これまた歴史的事件に立ち会ってしまっている(立ち会うだけで本人は何もしてないわけだが)



◆奇跡の石?

 イギリスにあるストーンヘンジという遺跡については以前にも史点ネタにしたことがある2001年1月14日「史点」。ストーンヘンジとはイギリスの南西部にある謎の巨石遺物で、巨石を組み合わせてサークル状にしたものだ。西ヨーロッパ各地にはこうした巨石遺物が各地に残されているが、そのうちもっとも規模が大きいものとして有名。紀元前3000年紀に作られたものと考えられ、古代の天文観測の遺跡じゃないかとか神殿の跡じゃないかとか、はたまたUFOの着陸地点じゃないかとか、まぁいろんな説が唱えられてきたわけだ。
 前回ネタにした7年前の史点記事によると、このストーンヘンジが現在のような姿に「再建」されたのは20世紀に入ってから、というものだった。だから実際に利用されていた当時どういう形だったかはわかったものじゃない…という、上の寺田屋の話題みたいな話になっていた。

 このたびストーンヘンジの実態について新たな説が発表された。発表したのはストーンヘンジを40年も研究しているティモシー=ダービル教授とジェフリー=ワインライト教授で、 新説というのは「ストーンヘンジは重病人が集まる治療の場、巡礼地だった」というものだ。
 遺跡の中央にある「ブルーストーン」と呼ばれる巨石がある。これは「ドロマイト」という鉱石で、遠く離れたウェールズの地から運ばれたものだと考えられるそうだ。なんでそんなものを一生懸命運んでこなきゃいけなかったかといえば、古代人はどうやらこの石に治癒能力があると信じていたらしいのだ。
 その証拠として、二人の教授は遺跡の周辺から重病人や重症者の遺骨とみられる骨が多数発見されていることを挙げている。それも、どうやって確認したかは不明だがヨーロッパ各地からやって来たものらしいというのだ。教授たちはこの地がフランスにある「ルルドの泉」のように治癒の奇跡が起こると信じて人々が巡礼する宗教的な地だったのではないかと推測しているとのこと。もちろん教授たちは古代天文観測説や神殿説を全く否定しているわけではなく、それらも同時に成り立つものと考えているようだ。あ、さすがにUFOはないようですが(笑)。

 この報道を見て、僕がどうしても連想してしまったのがアルセーヌ=ルパン・シリーズだ。またかよ、という声もあろうが(笑)、この話を連想せざるをえない一話があるんだよね。読んだ人はご存じだろうが、今年の4月の「史点」でも取り上げた「三十棺桶島」という一作だ。
 ネタばれを可能な限り避けて書くと、ブルターニュ地方にある孤島「サレック島」が舞台で、ここにはドルメン、メンヒルといった古代巨石遺物が残されていて、ドルメンの数が30であることから「三十棺桶島」という異名がついたことになっている。この島には中世には修道院も建てられていて、何やら奇跡を起こす秘密が隠されている―という設定だ。その秘密がずばり「人を生かしもし、殺しもする石」というもの。太古の昔からこの石により病気や傷の治療が行われていたが、触れた人に重大な害を及ぼす場合もあるというのだ。その正体は…という話は実際に読んでいただくとして、今度のニュースに驚くほど似ているな、と思っちゃったものだ。



◆奈良時代のドキッ!

 奈良時代にも土器はある。というか、21世紀の現在だって身の回りにある陶磁器はみんな「土器」である。
 さて、 滋賀県甲賀市宮町遺跡という遺跡がある。「甲賀」と聞くとやはり「忍者」を連想しちゃうが、これも最近多発した大合併による市名。この名前のおかげで三重県伊賀市と一緒に市長による手裏剣競技が行われるとか面白い話になっているんだが、この宮町遺跡というのは焼き物で有名なかつての信楽(しがらき)町にあり、奈良時代に聖武天皇が一時都を置いた紫香楽宮(しがらきのみや)の遺跡なのだ。このたびここから出土した奈良時代の土器(須恵器)に、和歌の語句と思われる文字が書かれていることが発表された。

 須恵器を赤外線撮影したところ、「歌一首」と書かれた墨書きが見つかり、その左上に「伊毛」「乃古」と読める文字があることが判明した。この時代、まだ仮名文字は発明されてないから日本語もすべて漢字の音で表すいわゆる「万葉仮名」が使われている。
 「伊毛」は「いも」で、「妹」とも書かれ古代日本では妻や恋人など愛する女性を指して使われる。このため「日本書紀」ではわざわざ「“妹”というのは本物の妹のことじゃありません」と注記がある(このため「日本書紀」執筆者は中国系とする有力な説がある)。もっとも「古事記」「日本書紀」の世界では本物の妹に対して恋愛感情をもつ話があるので、その辺、単なる言葉の意味の変化とは見ない方がいい。
 一方の「乃古」のほうは読みは「のこ」だが、「おのこ」すなわち「男」を意味する言葉の一部と推測されている。どういう文を書こうとしたかは不明だが、「歌一首」とあることから和歌、それも男女の恋愛歌を試作して書いたものではないかと思われる。いつの時代も結局は男と女、ってことですか。そういや日本を作った神様、イザナギイザナミの名前も、「いざ」とは異性に誘いをかける言葉との説があり、「古事記」「日本書紀」が伝える国産み神話でも「あらいい男!」「おやいい女!」とナンパみたいな声かけをしていたっけ(笑)。
 ま、それはともかく、これまで聖武天皇が居を定めて一時は大仏もこちらに作ろうとした紫香楽宮はこれまで宗教色の強い都だったのではないかとされていたが、華やかな貴族文化が花開いた都であったという見方が強まることになるのだそうだ。

 さて聖武天皇は結局紫香楽での大仏建立はあきらめて平城京に戻り、ここで改めて東大寺大仏を建立することになるのだが…
 
9月22日、その平城京の皇居、平城宮跡の朱雀門に連なる塀に文字が刻まれているのが発見された。こちらにあった文字は上記の話と一転して不吉なことに「死」だったそうで、そこには人名と思われる二文字も添えられていたという。
 おお、これは奈良時代の人の呪いの儀式を示す証拠では…なーーんて、ことはない(笑)。だいたい現在平城宮跡にたつ朱雀門と塀は1998年に完成された復元もの。悪質な落書きと思われ、今後壁を修繕して警備を強化する予定とのこと。


2008/9/30の記事

<<<前回の記事
次回の記事>>>

史激的な物見櫓のトップに戻る