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2009年3月9日

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☆「史点」もおかげさまで10周年を突破しました。もっともその半分ぐらいは執筆をサボってる気がしますが。「週刊」どころか今回も一か月も遅れたので話題が若干古かったり、続報が入って長くなったりしてしまってます。


◆今週の記事

◆破門撤回の波紋

 どうもベネディクト16世というローマ法王さんは物議を醸しやすいようだ。前任者の大人気と比較するとどうも…
 先月24日、ベネディクト16世はイギリス人のリチャード=ウィリアムスン司教ら「聖ピオ10世会」所属の司教4人に出されていた「破門」処置を撤回する、と発表した。なんでもこの「聖ピオ10世会」というのは1960年代の「第2バチカン公会議」で決定されたカトリック教会の大改革に反対したルフェーブル大司教によって結成された、いわゆる「超保守派」とみなされる集団だそうで、バチカンの承認を受けずに4人の聖職者任命を行ったことを理由に1988年に当時の法王ヨハネ=パウロ2世により破門処置を受けている。今回はその破門処置を撤回して断絶状態が続く超保守派との和解をはかるもくろみがあるとみられるが…。

 しかしこの「破門撤回」は重大な波紋を呼ぶことになった。破門を解除されることになったウィリアムスン司教というのが以前から「ナチスがユダヤ人に対して行ったというホロコーストには疑問がある」と公言している人物だからだ。今回の破門解除が公表される数日前(破門解除が確定していたことを本人も知っていたはず)にもスウェーデンのテレビ番組に出演して「アドルフ=ヒトラーの意図的な政策として600万人のユダヤ人がガス室に送られたというが、それを否定する強力な歴史的証拠がある。ガス室はなかったとわたしは信じている」と発言して物議を醸している。彼はナチスによるユダヤ人虐殺があったこと自体は否定していないらしいが「犠牲者は20〜30万人ていど」とし、「ガス室はなかった」と執拗に主張しているという。
 この手の主張は日本でも雑誌「マルコポーロ」で同様のものが掲載されて廃刊に追い込まれた事件があったし、最近ではイスラエルを敵視するイランのアフマディネジャド大統領などイスラム圏で広く主張される、あえて言うと決して目新しくはない主張だ。俳優メル=ギブソンがキリスト受難の映画「パッション」を製作したとき彼がカトリック超保守派に属していることからユダヤ人団体が警戒心をあらわにしたことがあったが、メル=ギブソン当人はともかくその父親がTVのインタビューでやっぱり「ホロコーストはなかった」と主張して問題になったことがあった(メル=ギブソン自身はその後飲酒運転で逮捕された際にユダヤ人蔑視表現を口走ったとの報道はあった)
 メル=ギブソンの父親が属するというカトリック超保守派というのが聖ピオ10世会なのかどうかは確認していないのだが、どうもその主張に共通点があるのは確からしい。念のため書くと「聖ピオ10世会」の公式サイト(日本語のものがある)の見解を見る限りでは彼らは別にユダヤ人問題を教義に入れているわけではなく、あくまでカトリックの信仰・式典のあり方で従来の伝統の維持せよと主張する保守派であって、ホロコーストうんぬんはあくまでウィリアムスン司教個人の見解ということになってるらしい。

 このウィリアムスン司教の発言には、当然ながらユダヤ人団体やイスラエルが猛反発。ホロコースト問題の当事者であり、ホロコースト疑問視発言自体が犯罪として処罰されるドイツのメルケル首相も「ローマ法王とバチカンは断固として、ホロコーストを否定することはできないと明言すべきだ」と抗議を表明している。ドイツのカトリック教会の大司教もウィリアムスン司教の発言を非難し、「ウィリアムソン司教はどうしようもなく無責任だ。今カトリック教会に彼の居場所はないと思う」と、彼個人については破門解除から外すべきとの見解を示した。
 これらの批判に対して当人は、自分の発言がカトリック教会に迷惑をかけたことは謝罪しつつも、発言自体の撤回は拒んでいる。1月末でのインタビューでも「ガス室を使ったホロコーストがあったという明確な証拠が出てくれば謝るが、そうでないかぎりは撤回しない」と断言している。こういうタイプは「証拠」を見せられても認めない気がするけどね。2月末の段階でどこかの雑誌かウェブサイトで謝罪表明との報道もあったが、「事実関係」の確認については相変わらず触れずじまいだそうである。そうこうしているうちに滞在していたアルゼンチン政府から国外退去処分をくらってしまい、イギリスへの帰国を余儀なくされている。
 騒ぎが大きくなってきた2月4日、バチカンはウィリアムスン司教に対して「ガス室発言」を正式に撤回するよう命令を出したことを明らかにした。その後続報を確認していないのだが、どうなることやら。法王ベネディクト16世については過去にも何度か書いてるが、「ガリレイ裁判は(当時においては)正当」と過去に発言したことや、全体的に保守的傾向の強い人物として何かと批判を呼んでることもあり、今度の破門撤回騒動が大きくなったのもそれも理由の一つという気がする。
 なんてことを書いていたら、読売新聞でさらなる続報が出てた。このリチャードソン氏と同時期に、「ハリケーンが米南部を直撃したのは地元民が罪深いから」などと発言したオーストリア人神父を司教補佐に任命していたことが発覚、これまた騒ぎになって神父が任命辞退に追い込まれていたのだそうだ。

 ユダヤ人迫害問題では、こんなニュースもあった。
 ドイツ公共第2テレビが2月4日に報じたところによると、ナチス政権下の強制収容所でユダヤ人に対する生体実験を行った容疑で1962年以来戦犯として追われていた医師アリベルト=ハイムが、逃亡先のエジプトで17年も前の1992年8月に死亡していたことが確認されたという。同テレビではハイム医師が偽名を使ってエジプトに潜伏していたことを目撃者の証言や文書で確認、さらにハイム医師の息子にも取材して確証を得たとしているようだ。反ユダヤ活動監視団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」の関係者は「報道が事実とすればハイム容疑者が裁きを逃れたことは非常に残念」とコメントしつつ、ハイム医師が死亡したという確実な証拠はないとして証拠の確認を行いたいとしていた。なお、ハイム医師は生きていれば94歳だそうである。
  


◆お宝たちの旅路

 中国の首都・北京にはかつての皇帝の宮殿「紫禁城」がある。これがそのまんま保存されてるから明・清時代の宮廷ドラマは「本物」を使ったロケができるわけで(なぜか北朝鮮怪獣映画「プルガサリ」でもロケされてる)、この点は江戸城も使えない日本からすると羨ましい。ここは現在「故宮博物院」として見学でき、最後の皇帝・溥儀を扱った映画「ラストエンペラー」「火龍」のなかで「かつての住人」であった溥儀が見学をするシーンがあった。
 ところでこの紫禁城が「故宮博物院」になったのは、その溥儀が軍閥により紫禁城を追放された後のこと。清朝が所有していた数々の文化財・宝物がこの宮殿をそのまま使って展示されたのが始まりなのだ。しかしその後の日中戦争のときに国民党の蒋介石は故宮の宝物を南京に避難させ、そのまま首都を転々と移すに従って各地に分散させている。日本撤退後にまた故宮に戻すことになったが、共産党との内戦に敗れて台湾へ逃れる際にめぼしい所蔵品をあらかた台湾まで持って行ってしまった。現在台北にある「故宮博物院」はこのとき持ち出したものを所蔵・展示しているもので、「中華人民共和国の故宮博物院」と「中華民国の故宮博物院」の二つが並び立つ状態になっている。つまりハコは中国に、あらかたの中身は台湾にあるという形だ。
 蒋介石は自らの「中華民国」こそが中国の正統政府であるあかしとして「故宮」とその宝物の「保持者」としてふるまった。これに対して中国共産党側は台湾の「故宮」を本物とは認めず、「国の宝を戻せ」と主張してきた。このため台湾の独立運動の側ではむしろ「うちは中国じゃないんだから宝物は中国に返してしまえ」という声があったりする。

 この二つの「故宮博物院」が長年の恩讐を超えて初めてトップ交流をおこなっている。台北の「故宮博物院院長」が2月14日(奇しくも?「情人節=バレンタインデー」であった)に北京を訪問、「故宮博物院院長」の立場として1949年以来初めて「本家」を訪れることになった。そのお返しとして3月2日に今度は北京の「故宮博物院院長」が台北を訪問、「国宝」たちとようやく対面することになった。数年前から中国共産党と中国国民党が「第三次国共合作」とまでささやかれる相互交流を始めたこと、昨年から台湾では国民党が政権を奪回したことも背景にあるとみられている。
 両院長はそれぞれ相手の土地で会談を行い、毎年お互いに専門家を派遣し合うこと、10月に北京の故宮博物院から美術品を台北側に貸し出して共同展示会を開催することなどが決定された。もっとも報道によると北京側が台北側に「国立故宮博物院」の名称を名乗るなと要求してちょっとモメたともいい(なんか老舗の「本家」「元祖」闘争みたいだ)、北京から台北への美術品貸与もお互いが「うちが本物の故宮」と主張している以上直接やるのはメンツにかかわるので、民間の第三者機関を作ってそこを経由して貸与するという、なにやらどこぞの政治家のゼネコン献金みたいなやり方(笑)をすることになった。お互いメンツと建前はぶつけつつ、抜け道はちゃんと用意しておく、まさに「あうんの故宮」ってやつである。おあとがよろしいようで。
 ところでここまで両博物院の院長の名前を書いていないのは、どちらもお名前に「環境依存文字」があるため。北京側のほうの院長が鄭欣E、台湾の方が周功鑫 というのだ。どちらも最後の文字が「水が三つ」「金が三つ」という日本ではまず使わない文字であるため、表示されないパソコンも一部ある。だから新聞サイトの中には「鄭欣☆」「周功★」なんて笑っちゃうような苦肉の表記も見られた。最近のパソコンなら大丈夫と思うので僕は書いてみたんだけど、妙なところで共通点があったのだった。

 さて中国のお宝といえば、アロー戦争(1856)の時に略奪された円明園の十二支ブロンズ像がオークションにかけられた騒動もあった。
 円明園というのは清帝国の絶頂期を築いた康煕帝雍正帝乾隆帝の時代に北京郊外に建設された離宮の庭園で、とくに乾隆帝の時代にイエズス会士らの設計によるヨーロッパ風の噴水や建築が加わって世界的にも豪勢な庭園に発展した。ところが1856年にイギリス・フランスによる典型的な帝国主義的侵略戦争といえるアロー戦争(第二次アヘン戦争)が起こり、1859年に北京に進軍した英仏軍により円明園は徹底的な破壊・略奪にあってしまう。
 問題の十二支のブロンズ像は円明園の噴水時計に置かれていたもので、円明園破壊の象徴的存在とされてきた。12体のブロンズ像はその後世界各地に散ってしまい、5体が行方不明でネズミ・ウシ・トラ・ウサギ・ウマ・サル・イノシシの7体の存在が確認されている。これまでにもこれらの十二支ブロンズ像がオークションに出品されて物議を醸したことがあり、うち5体を中国企業・民間団体が落札して中国にお里帰りさせている(1体はマカオにあるとのこと)。残る2体が今回話題になった、イブ=サンローラン氏(故人)が所有していたネズミとウサギの像だったわけだ。
 それにしてもサンローラン氏ってこのブロンズ像だけじゃなくて物凄いコレクションしてたんだなぁ、と僕なんかはむしろそっちのほうに驚いたもんだ。3日間も続けて行われたオークションでの落札総額は3億7000万ユーロ(約460億円)。これまでの個人所有物オークションでの最高額は1997年の195億円だったというから、とんでもない新記録であることが分かる。ファッション・デザイナーも世界的となるともうかるんだなぁ…。世界的不況で美術品オークション業界冬の時代なんて言われていたが、このオークションは例外だったんだろうか。マティスの油絵「キズイセンと青・ピンクの敷物」が予想を大幅に上回る3200万ユーロ(約38億3000万円)で売れたって言うし。実はもっとも落札額が注目されていたのはピカソの絵画「小テーブル上の楽器」で3000万ユーロ(約37億円)との予想がついていたが、結局落札者は出ず、この辺は不況を反映した形。
 そして問題のネズミとウサギのブロンズ像。オークションにかけられると分かった直後から、中国側から「略奪品をオークションにかけるのか」と批判が上がり、パリ地裁に競売差し止めの申請を行ったが却下されていた。まぁサンローラン氏が直接略奪したわけでもないし、そもそもイギリスの大英博物館なんかが代表的だが英仏の博物館には限りなく略奪品に近いお宝がいっぱい展示されてる(返還要求も実際にある)。このオークションに関して差し止めができるとはそもそも思えず裁判所の判断は予想通りだったが、サンローラン氏と共同で銅像を所有してきた人物が「中国が人権を認めてダライ=ラマを受け入れてくれれば返還しよう」なんて明らかにイヤミとしか思えない発言をしたもんだから、これが余計に中国の怒りを買った。こういう発言見てると中国側がよくいう「人権ウンヌンを言うならアヘン戦争の頃から言ってくれ」という意見にある程度同調しちゃうな。たぶん日本の美術品について同じことが起きたら「クジラを殺すのをやめれば返還しよう」って言われるんじゃないかと思うし。
 で、ご存じのとおり、このブロンズ像は中国人によって2800万ユーロ(約34億円)で落札された。当初落札者の正体は明かされなかったが、僕は薄々中国人だろうと予想していた。これまでの例でもそうだったし、だいいちこの騒ぎになってそんな危なっかしいものを買おうと思う人はあまりいないだろう。だが「金は払わん」というとは予想外だったな〜そもそもこの落札者はこのブロンズ像オークションを早くから非難していた「中華海外流出文物救援基金」なる民間団体の代表で、当初からそのつもりで落札をしたんだろう。もちろんタダで引き渡されるはずはないのも最初から承知で、オークション自体を妨害、阻止することが目的だったと思われる。そしてその目的は一応果たされたことになる。
 さぞかし中国では「愛国者」と持ち上げられるかな、と思ったら、そうでもないみたい。手段を選ばぬやり方にネット上では批判派が称賛派をやや上回ったとの報道もある(もっともどこの国でも“ネット世論”ってあんましアテにならないからなぁ)
 

 オークション騒動はインドでも起きていた。こちらはインド独立の父・ガンディーという超大物の遺品だ。ガンディーといえばおなじみの、あの「丸眼鏡」やよく履いていたサンダル、そして懐中時計といったものだそうで、質素を旨としたガンディーだけに品物じたいは安物ばかり。ただガンディーゆかりのもの、それもトレードマークになっていたものを含むだけに注目されている。競売は3月5日にニューヨークで行われ、競売関係者の見立てでは落札価格は合計3万ドル(約300万円)ぐらいとみられている。
 上記のブロンズ像の話とは違い、こちらは略奪品というわけではなく、ガンディーが生前に友人・知人に渡していたものがめぐりめぐって収集家の手に入っていた、というもの。しかし「建国の父」の遺品だけにそれが競売にかけられるとなるとインド人としては怒るのも無理はない。「マハトマ・ガンディー財団」の理事長でガンディーのひ孫にあたるトゥシャール=ガンディー氏は競売について「由々しき侮辱」と怒りを表明し、自ら買い取るべく資金を集めたが間に合わないと判断(先祖同様清貧を旨としてるのかあまりお金はないみたいだな)、オークション側に資金が集まるまでの競売停止を求めたが拒絶されている。これが2月中旬に報じられたことでインド世論も怒りだし、インド政府も観光・文化相が「遺品が競売にかけられないようにすべく、あらゆる手をつくす」と発言、オークション側に競売中止を申し込むか政府自ら競売に参加して買い取るかすると表明した。
 ガンディーの遺品を所有していたのはアメリカ・カリフォルニア在住のコレクターで、オークションの前にインド政府と協議はすると取材に対して答えている。場合によってはインド政府に寄贈してもいいと言ってるそうだが、ひとつ交換条件を出している。「『スラムドッグ$ミリオネア』に出てくるような最貧困層に対してガンディー主義にもとづいて寛大で積極的な措置をとること」だそうで。『スラムドッグ$ミリオネア』はインドのスラムで育った少年がクイズ番組で勝ち上がっていく展開の感動ドラマで今年の米アカデミー賞作品賞を獲得したイギリス映画だが、あれもインドではスラムが描かれたことで一部に猛烈な批判があるんだが…この人もブロンズ像の所有者同様、どうも相手を見下ろすイヤミな姿勢が見えるな。まぁ当人はガンディーを敬愛していて「ガンディーだって貧民を救済するためにオークションをやったじゃないか。なんで反発するのかわからん」として、売上も寄付すると言ってはいるそうだ。だけど「売りに出す」って行為自体に嫌悪感を感じる人が少なくないこともお忘れなく。
 僕がズルズルと「史点」更新を遅らせているうちに3月5日に問題のオークションは実行された。ところがその直前になって出品していた所有者当人が突然会場に押し掛けて出品の中止を申し入れるという意外な展開に。あまりに急なことだったのでオークション側はこれを拒否して競売を実行した。そしてガンディーの遺品はインド人実業家が当初の予想価格を冗談のように上回る180万ドル(約1億7600万円)で落札、祖国に返還することになったんだが、出品者当人が直前に出品を取り消していることからしばらく法的な問題が残る模様。
 
 もう一つ。オークションではないのだが、「先祖の遺骨を返せ」と子孫が訴えを起こしたというニュースがある。舞台はアメリカ、そのご先祖とは先住民アパッチ族の勇者ジェロニモだ。その遺骨を名門イエール大学の「秘密結社」が所有しているとして、ジェロニモのひ孫が提訴したのだ。
 ジェロニモと聞くと石ノ森章太郎の「サイボーグ009」に出てくる「005」を思い出す人も多いと思うが、あれはインディアンのメンバーを作るにあたって当時すでに西部劇などで有名だった「ジェロニモ」の名前を拝借したもの。もっともこの「ジェロニモ」という名も実在のアパッチの勇者の本名ではなく、彼と戦ったメキシコ軍がつけた「あだ名」なのだそうだが。
 ジェロニモはメキシコ軍およびアメリカ軍に激しく抵抗して勇名をはせたが、1886年に投降。以後捕虜として長い余生を送り、その間に取材に応じて自身の生涯を語ってもいる。1909年2月17日にオクラホマのシル砦で肺炎により死去、アパッチ族捕虜たちの共同墓地に埋葬された。
 さてここからの話がなかなか奇奇怪怪だ。なんでもイエール大学には「スカル&ボーンズ(髑髏と骨)」なる学生の秘密結社があるんだそうで、ジョージ=W=ブッシュ前大統領の祖父(つまりブッシュ・パパ元大統領の父)プレスコット=ブッシュ氏も加盟していたことがあるという。秘密結社というと何やら物凄いものを想像しちゃうが、ちょっと変わった学生サークルの一種程度のものなんじゃないかと。そしてこの「スカル&ボーンズ」が1918年にジェロニモの墓を暴いて遺骨を盗み出した…との噂というか都市伝説があるのだ。
 この話は1980年代にも一度持ち上がっていたらしい。そのときは証拠もとくになかったためすぐに立ち消えになったのだが、2006年イエール大学の同窓会誌に「ジェロニモの頭蓋骨を掘り出して保管している」と読み取れる「スカル&ボーンズ」会員が他の会員に送った手紙の内容が掲載され、「疑惑」が再燃することになった。それから2年は経っているからとくに目立った動きはないのかもしれないが、ここにきて子孫が「遺骨を返せ」と訴えをおこしたわけである。本当にあるとすれば凄いことだが…



◆おんなじ日の生まれです

 高校生の時、社会の教師がなぜか地理の授業中にこんな実験をしてみせたことがある。
「このクラスに必ず誕生日が同じ生徒が一組はいるはずだよ。人間が40人も集まれば必ずいるんだ」
 と言って、1月生まれから順番に生徒を立たせて誕生日を言わせ、同じ日の生まれがいるかどうか確認していったのだ。なかなか同じ日の生まれが現れなくて先生もちょっと焦りを見せたのだが、9月にきたところで同じ日の生まれが3人いることが確認されて、先生ひと安心(笑)。確かこのとき11月にも誕生日が同じのが一組いたはず。その先生は全てのクラスでこの実験をやったそうだが、なんで地理の授業でやったのかいまだに不明だ(笑)。
 後年、正確にはつい昨年のことなのだが、この実験は「誕生日のパラドックス」と呼ばれる確率論では有名なものにもとづいていたことを僕は知った。「どれほどの人間が集まると誕生日が同じ人が出現するか?」と聞かれると、僕らは直感的に「300人ぐらいじゃないか?」と思うのであるが、実は確率計算をやってみると、意外にもたった23人でその可能性が50%を超える。したがってその倍の46人いればほぼ確実に誕生日の同じ人が出てくるのだ。その理屈はWikipediaのその項目に出ていたので参照されたい。高校数学の知識があれば理解できるものと思う。僕はすっかり忘れちゃってるが。

 さてまったく同じ日に生まれた有名人というと漫画業界では松本零士石ノ森章太郎が有名(1938/1/25生まれ)だが、世界史的な話になると、南北戦争時の大統領エイブラハム=リンカーンと、進化論で有名な学者チャールズ=ダーウィンの例がある。この二人は1809年2月12日に生まれている。つまり、つい先日生誕200周年だったのだ。

 リンカーンといえば、先ごろオバマ新大統領も敬愛し、宣誓式でリンカーンの使った聖書を使うなど、何かと引き合いにしている。ちょうどアメリカが国家分裂という史上最大の危機にあったときの大統領ということもあって歴代大統領の中でも評価が高く、先ごろケーブルテレビのC−SPANが8年ぶりに行った歴代大統領アンケート調査でも前回に続きまたも第1位になった。ちなみに最下位はその前任者で南北戦争の原因を作ったとされるブキャナン。これまた8年前のアンケートと同じ結果だ。なお、その時にも「史点」でとりあげているので、チェックしておきたい方はこちらへ。ちなみに今回初登場のブッシュ前大統領は36位になったそうだ。
 生誕200周年ちょうどの12日、リンカーン直筆の演説原稿がオークションにかけられている(なんか今回はオークションづいてるな)。この原稿は1864年にリンカーンが再選を決めたあとに書かれたもので、落札価格は約344万ドル(約3億1300万円)だった。アメリカにおける歴史的文書のオークションでは史上最高額とのこと。出品したのは1928年以来この原稿を保管していたニューヨークの図書館で、オークションの売り上げは図書館の改修費用に充てられる予定とのこと。もしかしてこれも大不況の現われの一つなんだろうか。
 同じく12日にはアメリカの連邦議会図書館でリンカーン関連文書・資料の展示会が始められている。こちらにもリンカーン直筆原稿や手紙などが展示されているのだが、リンカーンを暗殺したジョン=ウィルクス=ブースを指名手配するポスターだとか、リンカーンの血液がついた検視結果報告書なんてものまで展示されているという。

 
 一方同じ誕生日のダーウィンはイギリス人。生誕200周年となる2月12日にはイギリス各地で記念イベントが開かれたという。
 ダーウィンはガラパゴス諸島を調査して生物が環境に応じて多様な変化を見せることに気付き、それをきっかけに進化論とよばれることになる学説を築き上げ、『種の起源』という本にまとめて出版した。進化論は生物学のみならず社会・思想面にまで重大な影響をおよぼし、当時もとくに宗教界から猛烈な反発を受けたことがあるが、現在ではおおむね全世界で通説として受け入れられているといっていい。
 しかしよく知られているように、あの現代科学の最先端を突っ走っているようにみえるアメリカでは進化論を信じない、あるいは積極的に拒絶する人がかなり多い。ダーウィン生誕200周年にからめてCNNが報じた記事にあったが、最近の世論調査によるとアメリカで「進化論を信じている」と答えた人は39%にとどまり、「進化論などまったく信じない」と答えた人は25%にのぼったという。まだまだ信じる人が多いじゃないかと思えるが、このうち「信じない」という人の中には「学校教育で進化論を教えるな!」と猛烈に騒ぐ人たちもいて実際に学校の授業から進化論がはずされてしまった例もある。もともと清教徒など宗教的亡命者たちが開拓していった歴史があるせいか、あれでアメリカというのは濃厚な宗教国家でもあり、進化論や中絶問題などでは保守に走るととことん原理主義的な部分がある。
 まぁよその国のこともあまり言ってられないんだよな。日本でも宗教右翼のなかには進化論を否定してアメリカ仕込みのID論をふりかざす人がいるし(以前産経新聞がID論に好意的な記事を載せたことがある)、あの松下幸之助も「人間は万物の王者」とする考えから「動物から進化したなんてことになったら人間の尊厳が損なわれる」とか言ってるんだから。



◆勉強しまっせ両国の境

 まだ続いてすねぇ、麻生太郎内閣。始まった時には「史上最短の可能性」もささやかれたぐらいだったが、すでにワースト5位の日数も越える意外な“長期政権”になってきている。支持率の方は酩酊、もとい低迷を続けて戦後ワースト3位入りを果たしてしまっているけど(竹下登、森喜朗に続く)
 さんざんあちこちで取り上げられたし、時期も逸してしまったので例の中川昭一
元アル中大臣の話題は「史点」ネタにはしないことにするが、ちょっとだけ。この方、騒動の直前の2月11日に神社本庁系の「日本の建国を祝う会」の奉祝式典に参列しているのだが、「自分の命よりも日本の国のために闘った多くの先人達が沢山いらっしゃる、 そういう方々に対して、ここで日本を沈没させては本当に申し訳ない事になってしまう。 私共も闘って闘って、日本の国が良くなるよう全力を尽くして頑張ることをお誓い申し上げてご挨拶に代えさせて頂きます」なんて発言して喝采を浴びている。その数日後には見事に世界に日本を代表して「笑い」をとり自ら身を挺して沈没してしまったんだから、世話はないが。やはりお友達の安倍晋三前首相はこの式典で「子供は大人を見ている」と発言していたそうだが、中川さんのは子供たちにも大人の実態の実例としていい勉強素材になったと思いますよ。一部の中学校の期末試験の社会の時事問題で早くもネタにされてましたから(笑)。

 さて、日本国内の報道が中川騒動一色となっていた間、麻生首相はロシアとの首脳会談のためにサハリン(旧樺太)に飛んでいたんだが、こちらはほとんど注目もされなかった。僕は最近さる事情で北方史に首を突っ込んでいたこともあってサハリン訪問は結構注目していたのだが。実は日本首相のサハリン上陸は、日本が第二次大戦の敗戦により「樺太」領土を失って以来、初めてという歴史的事件でもあったのだ。
 歴史の授業でおなじみのように、サハリン=樺太の領有の歴史は複雑だ。近代以前、ここはニブフやアイヌ民族の世界であり、13世紀に元軍が攻め込んで基地を作ったこともあったが本格的な領有まではなされず、続く明・清もサハリンの存在は知ってはいたが直接支配はアムール川(黒竜江)河口までで、サハリンについてはとくに重視はしていなかった。
 ロシアがシベリアに勢力を拡大して南下を始めるとサハリンはにわかに重要な意味を持つことになり、世界地理上でもここが半島であるのか島であるのかが議論となる。日本の幕府隠密探検家・間宮林蔵が探検して島であることを確認、これを称えてシーボルトが海峡に「マミヤ・セト(間宮瀬戸)」と命名してこれが「間宮海峡」と訳されて日本人はよく知ってるのだが、実のところ世界ではそうポピュラーではないようだ。
 江戸時代、樺太や千島をめぐる日本・ロシアの領有問題は決着しなかったが、明治になって樺太・千島交換条約が結ばれて、日本は全千島列島を確保する一方で樺太はロシアに譲った。当時は樺太じたいにそれほど価値があるとは思えず、むしろ漁業権などを考えると千島の方が有利という判断があったとされているが、今日ではサハリン周辺は天然ガス・油田地帯として開発が進み、今度の麻生首相の訪問もそれが絡んでいる。噂によると現在の日本外交官の間では「明治のときに千島じゃなくて樺太をとっておくべきだったよなぁ」などと冗談半分でささやかれているそうな。
 その後日露戦争があり、1905年のポーツマス条約で日本は北緯50度以南の南樺太をロシアから割譲された。それから40年にわたり南樺太は日本の統治下にあり、現在のユジノサハリンスクには「豊原(とよはら)」という町があって「樺太庁」が置かれていた。1934年に樺太で発見された恐竜に「ニッポノサウルス」の名前がつけられたこともあった。

 そして1945年8月。アメリカとのヤルタ協定で対日参戦を密約していたソ連(このとき南樺太・千島列島の領有も確認されていたという)が日本に宣戦し、南樺太へも侵攻した。9月2日にポツダム宣言を受諾した日本が正式に降伏文書に署名すると、マッカーサーは南樺太をソ連占領地と認め、翌年1月末に南樺太における日本の行政権は正式に消滅し、2月からソ連は南サハリン州を設置して正式に領土に加えている。
 1956年のサンフランシスコ平和条約で日本は独立を回復するが、この条約では南樺太の放棄が明記されていた。日本政府はこの条約にもとづき南樺太の領有権主張はさすがにしていない。だが、日本で発行されている世界地図や地球儀をみるとたいてい南樺太と北千島は真っ白になっていて、一見どこの領土でもないような色分けがなされている。僕も子供の時からこれを不思議に思っていたものだ。
 当時のソ連はアメリカとの冷戦の真っ最中ということもあってアメリカ主導のサンフランシスコ平和条約に調印していなかった。そのため日本政府に言わせると「うちは領有権を放棄してるけど、あっちがそれを認めたことはないんだよね」ということになる。この一見妙な理屈により日本政府としては南樺太をソ連領、ひいてはロシア領とは公式には認めていないよ、あそこは未確定地だよ、ということになっている。北千島についても同様の扱いになってるらしい(もっとも日本共産党が北千島領有主張をしてたりするからなぁ)
 長々と書いてしまったが、こうした歴史をふまえると日本の首相がサハリンの地に「外国訪問」のために上陸するというのはなかなかに歴史的事件だったのだ。ま、今さらこの手のことをブチ上げる声はあまりなかったが、一部に「首相がサハリンに行くのはロシアに誤ったメッセージを伝えることになる」などという声があったのも事実。といって今さらどうしようというのか分かんないけどね。
 国会でも鳩山邦夫総務大臣に対する民主党議員の質問の中で「帰属が決まっていない南樺太に首相が行くことには疑問がある」と言及され、日帰り帰国した麻生首相が皇居で帰国の記帳(そういうのがあるんですね。外国訪問した首相が天皇にご報告するってことらしい)をしたことについて、「記帳はダメを押したのではないか。『鳩山首相』なら記帳しなかったはずだ」との発言があった。「鳩山首相」とは邦夫さんが首相なら、ということもひっかけてるんだろうが、その祖父でソ連と国交を結んだ首相・鳩山一郎を念頭においたもの(今年でちょうど没後半世紀になる)。これに対し邦夫さんは祖父の業績と自身のサハリン訪問体験を語って「正直、実に微妙な問題だなと思う」「豊原が今、ユジノサハリンスクになっている。日本国民としてはちょっと悔しい思いを常に抱いている」と発言している。

   日本とロシアの間の領土問題といえばサハリンよりも「北方四島」、つまり択捉・国後・歯舞・色丹の四つの帰属の話になる。日本はサンフランシスコ平和条約で択捉島までを領土とすることになってると主張してるのだが、今度はソ連がその条約に参加してなかったことが逆にネックになって来る。日本とソ連が国交を結んだ日ソ共同宣言において「平和条約を締結したら歯舞・色丹二島については返還する」との明記がなされているが、あくまで「四島返還」を主張する日本との間で話がつかず、今もって平和条約自体が結ばれていない。この経緯には日ソ接近を警戒するアメリカの意向がはたらいていたという見方もある。
 そういやかつてソ連が崩壊したころ、こりゃもう四島は帰って来ると早合点した右翼団体なんかが北千島・樺太返還要求を掲げていたことがあったっけな。「経済的に行き詰まったロシアなら返還に応じるだろう」なんて声もあったが、むしろソ連時代より民族・国家意識が強まったロシアではかえって領土問題では妥協しなくなってしまった。おまけにプーチン時代にロシアはエネルギー大国として経済発展してしまい、札束でひっぱたく真似も効果薄になってしまった。
 橋本龍太郎エリツィン(中川さん以前「酩酊」といえばこの方が有名だった)会談では、日本側から「ひとまず択捉島までは日本領ってことにして当面統治はロシアがするってどう?」というような「両属案」みたいなものが出されたことがあるがロシア側から拒否された。また北海道の有力政治家である鈴木宗男議員(この方が中川昭一の父で謎の自殺をした中川一郎の秘書だったという因縁あり)のように「まず歯舞・色丹の二島を返還させてあとの二島はそのあとで」という段階案も出ているのだが、これも鈴木議員の失脚(「ムネオハウス」騒動とかありましたねぇ)でひとまず流れている。
 「四島か二島かと言い合っててもらちがあかないから、真ん中とって三島返還ってことにしない?」という一見冗談みたいな案も実際にある。この案だと一番デカい択捉島はロシアに譲るけど歯舞・色丹に加えて国後は日本領にすることになる。そしてこの案のバリエーションとも言えるのが、「島の数じゃなくて、いっそのこと平等に面積で二分割しようよ」というケーキの切り分けみたいな案だ。地図でもわかるように択捉島はかなり大きい。この島の西端の旧留別村だけを日本領にして、そこから先はロシア領にするという形にするとちょうど面積二分割になるのだそうだ。
 で、この「面積二分割案」を日本側で以前から口にしているのが、ほかならぬ麻生太郎総理大臣その人なのだ。安倍内閣が発足して外務大臣になった時に
「二島でも、四島でもない道を日露トップが決断すべき」と発言、さらに国会の外務委員会でも「面積二分割案」を明言したことがある(あくまで「そういうやり方もある」というスタンスでらしいが)。当然この案には与野党で批判の声が上がり、以後はなるべく口にしないでいるのだが、今回のサハリン訪問にあたってこの案が再び浮上してるところが面白い。上で書いた「サハリン訪問は誤ったメッセージを〜」云々の声も、麻生さんが過去にそういう発言を繰り返していることを念頭に置いた牽制ともみえる。
 麻生首相と前後して小泉純一郎元首相がモスクワを訪問しているが、ここでロシアの下院議員から「面積二分割案」を紹介されて「大変に興味深い」と発言、翌日の会見でも「日本側が四島返還に固執する限りはロシアは譲歩しない。平和条約締結のためには何かしなければならない」という趣旨の発言をしているという。ロシアのメドベージェフ大統領も日露首脳会談を前に「独創的で型にはまらない新しいアプローチ」の表明をしており、どうもこれも同様の発想を暗示したものではないかと思える。明確に報じられてはいないが、麻生首相自身も会談の中でこの「面積二分割案」を遠まわしに示したとも言われている。まぁことは簡単には動かないとは思うのだが、あまり注目されないところで面白い動きが出てるのかもしれない、と思わせるものはあった。


 さてサハリンで日露首脳会談が行われていた2月18日、自民党の外交関連合同会議で妙なイチャモンがついていた。イチャモンの標的は、しばしば外国要人も利用する外務省板倉公館のレセプションホールに掲げられている、平山郁夫氏作の絵画「日本列島誕生図」だ。
 その絵の画像はまだ拝めていないのだが、記紀神話に出てくるイザナギイザナミの男女神による「国生み」をテーマにした作品だという。神話によるとイザナギとイザナミはまず最初に淡路島を産み、そのあと四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、そして最後に本州を産んだとされる。この「日本誕生」の模様を描いた絵だというんだから、しばしば「神話教育!」とか騒ぐのが大好きな人が多い自民党ではそれこそ大喜びしてるんじゃないかと思いきや、逆にイチャモンが入るとは…?
 カンのいい方はお気づきだろう。そう、「この絵には沖縄や北海道が入ってないじゃないか!外交の舞台に掲げる絵としてはけしからん!」というイチャモンだったのだ!言うまでもないが平山氏の絵は国生み神話を忠実に描いたものにすぎず、日本の領域を示す地図のつもりで書いたはずがない。だいいち「古事記」「日本書紀」が書かれた頃には沖縄や北海道を「日本領」とする発想があるわけもなく、他にも出てこない島はたくさんあるのだ。いや〜以前から国会議員のおバカな発言はいくつか見てきたが、改めてくだらないことにリキ入れてるやつっているんだな、と再認識。先日書いた韓国の新紙幣の図案に使う古地図に「独島」がないと騒ぐのとおんなじレベルですな。外務省では「経緯はわからないが、昔から飾られている、すばらしい絵だ」と困惑の声があったそうだが(読売記事より)、その会合で外務政務官はこの絵の展示を取りやめる意向を示したという。


 てなことを書いて更新をズルズル遅らせていたら、日ロ関係で新たな話題が…
 滋賀県・大津市がロシアのエカテリンブルグ市と姉妹都市提携を模索し始めた…という話題を3月4日に中日新聞が報じている。まだ具体的な話ではないそうだが調査費は予算に組まれており、NPO法人が交流を計画しているとのこと。
 はて、大津とエカテリンブルグの縁って…この二つの都市を結ぶ共通のキーワードがすぐ分かった人はエラい。答えは「ニコライ2世」、ロマノフ王朝ロシア帝国最後の皇帝その人なのだ。
 彼は皇太子時代の1891年に日本を訪問した際、大津市で警備についていた警官に斬りつけられ軽傷を負っている。当時日本では対露恐怖症ともいえるムードが漂っており、この犯人の警官もそれにおびえるあまりやっちゃったらしいのだが、西郷隆盛がロシアに生存していて、ロシア軍と共に攻めてくるというヨタ話を本気にしていたともいわれ、あまりまともな心理状態ではなかったと思われる。この「大津事件」は日本政府が犯人に死刑判決を出すよう政治的圧力をかけたが、裁判所側がそれをつっぱねた「司法権の独立」の例として何かと引き合いに出されることでも有名。
 一方のエカテリンブルグは、ロシア革命で退位した後のニコライ二世が、ボリシェヴィキ政権によって家族ともども軟禁され、結局1918年7月に家族もろとも殺害された場所。まぁ確かにどちらもニコライ2世ゆかりの地ではあるわけだが、「襲撃」「殺害」の縁っていうのもあまり気持ちのいいもんじゃないような(汗)。


2009/3/9の記事

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