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2009年3月25日

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◆今週の記事

◆万世一系の危機!?

 日本の天皇家が「世界最長の王朝」であることは間違いない。神武天皇が2600年以上前に始めたってのは激しく眉ツバとしても、確実なところで6世紀には直接たどれる先祖がほぼ日本全土を支配する君主となっているから、ざっと1500年近くは王家として続いていることになる。もちろんそのうちかなりの期間 、政治的実権をもたない「最高権威」であったわけだが、それゆえにこれだけ長持ちしたとも言える。
 この天皇家が「簒奪」される危機が二度あった、とされている。ひとつは室町幕府の三代将軍・足利義満の例だ。「義満は簒奪を計画していた」との説はけっこう昔から唱えられているもので、中世史研究者の今谷明氏による『室町の王権』がより確信をもって論証した一冊として有名だ。ただその可能性自体は否定できないものの直接的な証拠が一切なく、ひところよりは否定的に見る研究者が多い気がする。また「義満は簒奪を図ったがその直前に暗殺された」という説もこれまた昔からまことしやかにささやかれるが、こちらはそれこそ直接的どころかほのめかすような証拠すらなく、実のところ「単なる偶然」と片付けるのが冷静な見解のようだ。

 そしてもう一つが奈良時代の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の有名な一件。女帝・孝謙天皇(=称徳天皇)が道鏡という僧侶を寵愛して法王の地位まで与えてしまい、さらには九州の宇佐八幡宮から「道鏡を天皇の位につければ天下がおさまる」とのお告げがあって、女帝は大喜びで道鏡を皇位につけようとした。しかしさすがに反対意見も強いので、そのお告げが本物かどうか確認するために和気清麻呂が宇佐八幡宮に派遣された。ところが清麻呂は「道鏡を皇位につけてはならない」との正反対のお告げを報告してしまい、女帝は激怒して清麻呂を流刑にしたが結果的に道鏡の即位は回避される。やがて女帝が亡くなると道鏡は失脚し、下野に流されてそこで一生を終えることになった。清麻呂はこの功績により「皇国史観」が確立していく幕末以降に「忠臣」として称えられ、紙幣の顔にも選ばれたことがある。
 この「道鏡事件」は有名な割に判然としないことが多い。孝謙女帝と道鏡の関係については「男と女」の関係と後年盛んに言われたが(いわゆる「巨根伝説」のおまけもつく)、むろん確たる証拠があるわけではない。また伝えられる限りでは道鏡は非常に人望もあり謙虚な人物であったとされ、法王の地位すら半ば強制で与えられた彼自身が皇位を狙うとは考えにくい。だいいち失脚後も左遷・追放といういたって軽い処分でそれなりに余生も全うしている。このため宇佐八幡宮の神託と皇位簒奪の野望という『続日本紀』が伝えるストーリー自体を疑問視する声も根強い。あるいはこの事件における孝謙女帝の本当の狙いは当時重大問題となっていた皇位継承を自身の望む方向に持っていくことではなかったか、という見方もある。
 なお、宇佐八幡宮がなんでそんなに重要なのかという話になるが、ここは全国にある「八幡さま」を祭る八幡神社の総本社となっている。で、少々難しい話になるが、「八幡」なる日本古来の神様は仏教と結びついて「八幡大菩薩」となり、さらに天皇家の祖先の一人である応神天皇とも重ね合わせられている。応神天皇とは何者かといえば、ほぼ実在が特定できる最古の天皇であり、記紀神話では神功皇后が「三韓征伐」をする前に妊娠していたが(夫の仲哀天皇はその直前に急死)遠征中は石を腰に巻いて出産を遅らせ、遠征終了後に九州で産んだ皇子その人とされる。この話、常識的に考えると応神の父親が仲哀とはとても思えないわけで、その意味でも「王朝の初代」とみなすことができ、彼にちなむ宇佐八幡宮が伊勢神宮に次ぐ地位を認められているというのもなにやらしっくりくるのだ。

 さてその道鏡の一件を連想してしまうようなニュースがあった。その宇佐八幡宮で「お家騒動」が勃発しているのだ!
 なんでも宇佐八幡宮の宮司職は長いあいだ世襲制で、到津(いとうづ)・宮成の両家がつとめてきた。そして戦後は一貫して到津家が代々世襲してきていたという。1973年からは到津公斉氏が第78代宮司を務めていたが、2006年に体調悪化を理由に辞職。後任の第79代宮司には世襲の原則からすると意外なことに同じ大分県にあって多少ゆかりがある薦(こも)神社の宮司をしていた池永公比古氏が就任した。これは到津家の跡取りである長女の到津克子(よしこ)氏が、この時点ではまだ30代で神職経験も不足ということから「一時的な中継ぎ処置」としてとられたものだと“表向き”されている。
 だが第79代宮司池永氏が昨年8月に死去した。その後しばらく宮司職は空位となり、そのうち今年1月になってその先代の公斉氏も死去した。これを受けていよいよ克子さんが宮司に就任かと思いきや、全国の神社をたばねる宗教法人「神社本庁」は2月26日、大分県の神社庁長(県支部長)であり同県内の瀧神社の宮司をつとめる穴井伸久氏が第80代宮司に決定してしまう。穴井氏は到津家とはまったく血縁もなく、それこそ「万世一系」の歴史にピリオドを打つ大事件になったのだ。
 さてなんでこんなことになったのか。理由は明らかに天皇家の「女帝論議」と構造がほとんど一緒。神社本庁としては世襲とはいえ宇佐八幡宮史上初の「女性宮司」の出現を認めるわけにはいかなかったのだ。恐らく2006年の「中継ぎ処置」もこれが最大の原因であったと思われる。あのときはひとまずウヤムヤで済ましたが、78代目も亡くなった直後ということで強気に出て血縁者よりも男性宮司で、という方針を迫ってきたのだ。
 報道によると宇佐八幡宮ではここ何年かこの「女帝論議」で内部対立も起こっていたらしい。信者代表で神宮運営にあたる責任役員会は克子さんを宮司に推したが、一部の神職が「他の職員との信頼関係を構築していない」として反対、神社本庁に他の人物を宮司にするよう嘆願を出していたという。神社本庁はこの嘆願を受ける形で「よそ者」の穴井氏を宮司に決定したわけだが、克子さんと責任役員会側が猛反発。神社本庁の決定が下される直前の2月24日に克子さんを第80代の女性宮司にすることを神宮の方針として決定し、それと同時に神社本庁に対して脱退届を提出した。
 「神社本庁」と名前だけはお役所めかしているが、国家神道の地位を失った戦後に作られた「いち宗教団体」にすぎない。属していた神社が脱退するのも不可能というわけではなく、現に数年前にやはり人事問題で対立した東京の明治神宮が神社本庁から離脱するという事件があった(他に日光東照宮・伏見稲荷神社などが神社本庁に属していない)。参拝客動員ナンバー1の明治神宮に続き、皇室とのゆかりが伊勢神宮に次ぐとされる宇佐八幡宮が離脱となると、神社本庁の痛手は小さくはないと思われる。あるいは神社本庁の中央集権的な支配に地方の反乱が起きているとみるべきだろうか。

 朝日新聞の記事によると克子さんは「宇佐神宮の宮司には一子相伝の就任秘儀があり、私だけが受け継いでいる。それを行えない者は宮司になれない」と強調しているとのこと。なんだか「北斗の拳」みたいな話になってきたな(笑)。神社本庁が決定した穴井宮司については「業務停止のための訴訟を起こしたい」との意向もあるそうで、二人の宮司が裁判で正統性を争う前代未聞の事態もありうる。それこそ「神のお告げ」を聞いた方がいいと思うんだけど、それこそ聞く人によって180度違ってるだろうしねぇ。
  


◆人形はなぜ投げられる

 道頓堀から「ケンタッキーおじさん」ことカーネル=サンダースの人形がヘドロの中から「救出」されたことが、こんなに大きな話題になってしまうあたり、阪神タイガース関連の話は一種「社会現象」の様相を見せてしまうことを改めて思い知らされる。去年の「くいだおれ太郎」引退のニュースもそうだったから、タイガースというよりも「大阪文化圏」の話題にそもそもその傾向が強いのだろうか。
 
 今まで気にもしていなかったのだが、調べてみたらこの「カーネル」って「大佐」の「Colonel」のことだと初めて知った。あのケンタッキーおじさんは本名をハーランド=デービッド=サンダースといい、軍隊経験はあるが実際に「大佐」になったことはなく、ケンタッキー州で州に貢献した人に与えられる名誉称号をつけて「カーネル・サンダース」と名乗っていたのだそうだ。
 カーネル=サンダースは1940年にフライドチキンの独自の味付け(11種のハーブとスパイスを調合するとされる)を発明して、やがて「ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)」としてフランチャイズを拡大させ、それを世界的なものにまで広げていった。この味付けレシピはKFCのトップシークレットとされ、68年間ほとんど変えられることなく全世界で維持されているのだが、昨年秋にセキュリティのアップグレードが発表され、今年2月9日に厳重な警戒態勢のもと、本部内の24時間監視つき・スマートキーと個人識別番号がないと開けられない金庫室内にレシピが移動されたことがニュースにもなっていた。
 ところでカーネル=サンダースはKFCのフランチャイズを拡大していく上で「いかにも南部の老紳士」な自身のキャラを前面に押し出して宣伝活動を行った。このため全世界であのお顔をみんな知ってることになっちゃったのだが、実は店先に「サンダース人形」を置くのはほぼ日本だけの現象なんだそうだ。なんでも日本で初めてKFCを展開するにあたって、そもそもフライドチキン屋というもの自体になじみがない日本でどうやってイメージ戦略を進めていこうか悩んでいた時、カナダのイベントでたまたま使われていたサンダース人形がスタッフの目にとまり、これを全ての店先に置くことで知名度を上げることに成功したのだそうな。KFCをもちろんよく知ってるアメリカ人も日本で見られる面白い光景として「サンダース人形」を挙げることがあるのだとか。

 カーネル=サンダースは1980年に90歳でこの世を去ったが、その5年後の1985年10月16日に阪神タイガースが実に21年ぶりのセ・リーグ優勝を成し遂げた。狂喜した阪神ファンが大阪・道頓堀で大騒ぎし、次々と道頓堀川に飛び込むファンまで現れ(今にして思うと「優勝→飛び込み」という行動パターンはこれがルーツみたい)、そのうちに「サンダース人形」までが飛び込んでしまった、いや投げ込まれてしまったのだ。これは騒ぐファンたちが一人一人タイガースの選手たちに見立てて胴上げ・投げ込みをしているうちに、阪神優勝の立役者である史上最強の助っ人ランディ=バースの役がいないことに気付き、ちょうどそこに「外人さん」がおるやないか、ということでサンダース人形を胴上げして投げ込んでしまったものだと言われている。この「ケンタッキーおじさん受難」も当時すでに大きな話題になっていたものだ。
 で、その翌年から阪神タイガースは長期の低迷に陥り、18年後の2003年までリーグ優勝が果たせなかった。これを俗に「カーネル・サンダースの呪い」と呼ぶのは良く知られているとおり(レッドソックスがベーブ=ルースをヤンキースに「売り飛ばした」ことに始まる「バンビーノの呪い」からの連想と思われる)。関西では超有名なバラエティ番組「探偵!ナイトスクープ」が1988年の第1回放送時にこのサンダース人形捜索を試みたが(都合三回やったそうで)、結局発見に至らなかった。このため「もう海に流れて行ってしまっているのでは」との声もあがっていたのだ。
 そして2009年3月10日、道頓堀川のヘドロの中から「サンダース人形」の上半身が発見された。翌日には下半身と右手も発見され、おおむね全身がそろった形で「救出」となった。最近景気のいい話が少ないせいか、やたらと大きな話題としてとりあげられ、85年優勝時の監督・吉田義男氏も「人形が見つかったと聞き、『歴史が終わったな』と感じた」とコメントするなど、まさに「歴史的発見」のような扱いであった。
 とりあえずサンダース人形は救出した大阪市から日本KFCに引き渡されたが、阪神タイガースの本拠地・甲子園球場が引き取りを申し入れている。なんでも甲子園に阪神球団史の資料館を作ってそこに置きたいんだとか(“被害者”であるサンダース人形には迷惑な話かもしれんが)。これが本命視されているのだが、どういうわけか「某米大リーグ球団」から獲得の申し込みがあったとの報道も…って、有望選手とでも勘違いしてるんじゃあるまいな?



◆まぼろしの邪馬台国

 そんなタイトルの映画がつい昨年公開されてたけど、まるっきり話題にならなかったな。当「史点」ではチラッと名前を出したけど。
 ご存じのとおり、邪馬台国の位置をめぐっては江戸時代の昔から論争があり、畿内説と九州説をメインに激しい論争が続いてきた歴史がある。それ以外にも民間研究者あるいは好事家のたぐいで邪馬台国論争に「参戦」する人は多く、その映画の原作となった宮崎康平「まぼろしの邪馬台国」がそのきっかけであるとも言われている。なお、宮崎康平自身は邪馬台国は九州・島原にあったと主張していた。
 手塚治虫「火の鳥」の黎明編では場所の特定はしていないものの「火の山」の描写があることから九州説寄りであることがうかがえる。篠田正浩監督・岩下志麻主演の映画「卑弥呼」は、九州を意識したとしか思えない火山地帯でのロケシーンもあるが、記紀神話の神功皇后伝説を卑弥呼に重ねるなど「折衷案」の感もあった。映画のラストで昔から「卑弥呼の墓」説がある箸墓古墳が映っていたような気がするし…

 その箸墓古墳周辺が調査され、古墳のまわりに内堀・外堀の二重構造があることが確認された。それまでもほぼ最古の前方後円墳とみられていたが、さらに規模もかなりのものとなってくると、被葬者がかなり特別な人間だったのではないかと推測されてくる。これでますます畿内説有力になって「外堀が埋まった?」なんて昨年9月の「史点」で書いている。そしてここへ来てさらに重要な発見が報じられた。
 畿内説において邪馬台国中心地の最有力候補とみなされているのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡だ。箸墓古墳もすぐそばにあり、昭和50年代に調査が始められ、それが進むにつれ最近では「都市」と呼べるほどの規模があることも分かって来た。そして今年3月20日に桜井市教育委員会が発表したところによると、一辺6m以上の建物の柱穴跡、
長さ40mほどの凸字型の柵の跡が新たに発見されたという。

 今回の発見で注目されるのが、すでに確認されている建物跡と合わせると同じような規模の建物が3棟、整然と並んでいたと推測されることだ。纒向遺跡は3世紀前半と推定されており、その時期に方位をきっちり揃えて計画的に建てられた建物は珍しいという。そしてそのうち2棟を囲むように柵がめぐらされていたことから、内郭・外郭の二重構造で、かなり規模の大きい「宮殿」状のものだったのではないかという想像も膨らんでいるそうだ。発掘されている地点は100m四方の高台の西端の一角で、これを東側まで調査していけば「神殿のような中心的施設」が見つかる可能性もあると調査関係者はワクワクしてらっしゃるようだ。
 
 こうなると「すわ卑弥呼の宮殿の一角か!」とマスコミが大々的に見出しを打つのは当然というもの。邪馬台国ネタはみなさん大好きですからねぇ。もちろんもともと邪馬台国中心地の有力候補だったし、これまでの想像以上に大規模な構造物があるとなるとその可能性は十分高まるのだが、市教育委員会の公式の発表内ではあくまで「建物群が特別な施設であることは間違いない」としているように、卑弥呼と即結びつけるのは危険というもの。九州説論者など批判的な立場からは「そもそも
纒向遺跡が三世紀前半と断定できるのか?」という声もある。
 結局のところ「親魏倭王」の金印が出てくるとか、「ここが卑弥呼の宮殿」と書かれた看板が出てくるとか(笑)、文字史料がないと決定打にならないんじゃないかと。



◆たとえ火の中水の中

 人間が持つ、他の生物にはない能力として、「道具を作る」のほかに「火を使う」というものが挙げられる。一部の動物に火を積極的に利用するものがいるにはいるらしいが、とりあえず自分で火を起こしてしまう能力まで持っているのは人間だけだ。ではいつごろから火を使ったのかというと、今のところ火を利用した痕跡が確認できる最古の人間は中国で発見された北京原人だ。
 北京原人はその名の通り北京郊外の周口店で発見されたものだが、石器と共に炉の跡と思われる火を利用した痕跡が確認されている。動物の骨が周囲にあったことから動物の肉を焼いて食べていたのではないかとの推測もある。さらに言えば「共食い」をした可能性も以前から指摘されているのだが…
 北京原人が「火を利用した」としても、「火を自分で起こした」かどうかは分からない。人間が最初に火の利用を思いついた時もおそらく自分で起こしたのではなく自然発火(山火事など)した火を持ちかえって利用したのではないかと考えられている。そのうちに摩擦熱で火をおこす方法を発見したのではないかというのだが、それまでにどれだけの時間が費やされたかは想像するしかない。
 
 さて北京原人はこれまで、およそ50万年前に生息していたと考えられていた。こういう生息年代の推定は化石や石器が発見された地層から判断するほかはなく、何年か前に日本で石器を数十万年前の地層に埋めて自分で“発見”するというとんでもないことをした人がいたおかげで「秩父原人」だの「高森原人」だのが実在していたことになっちゃってたこともある。詳しい事情は知らないが、北京原人は発見された地点の地層がおよそ50万年前と判断されていたのだろう。
 ところがこのたび、中国の南京師範大学とアメリカのバーデュー大学の共同調査の結果、北京原人の生息年代は従来よりずっとさかのぼる78万年前ではないかとの新説が発表された。これは北京原人が発見された周口店の地層から採取した鉱物の石英、それと石英質の石器を調べたもので、これらの石英が大気中にさらされていた時に宇宙線の照射を受けて生じる放射性元素の含有量から「いつ地中に埋まったか」が分かるという。これに加えて過去の地磁気変化のデータと比較して年代補正をおこない、その結果「78万年前」との数値がはじき出されたのだという。

 最初の「人類」とされるアウストラロピテクスがおよそ400万年前と言われるから、生物全体の歴史の中でもごくごく短い人類の歴史の中での20万年〜30万年なんて「誤差の範囲内」という気もしちゃうのだが、人類の進化の歴史を考える上でこの差はかなり重大であるらしい。
 「原人」と呼ばれる人類はおよそ200万年前にアフリカで発生し、ここから世界に拡散していったと考えられている。「原人」で他に有名なのはインドネシア・ジャワ島から発見されたジャワ原人がいるが、こちらはおよそ100万年前と推定されていて、アフリカから東南アジアまで100万年、さらに東南アジアから北アジアの北京原人に至るまでに50万年もの時間がかかったと考えられていたわけだ。しかし北京原人の推定年代がぐっとさかのぼることになると、この拡散のシナリオも修正を余儀なくされるとみられている。
 まぁどっちにしても原人たちはその後絶滅し、われわれ現生人類はせいぜい20万年ぐらい前にアフリカに発生・拡散したものなので、直接関係があるというわけでもないんだが。

 ただ、今回の新説でひとつ目を引くことがある。この研究を行った南京師範大学の沈冠軍教授によると、78万年前は50万年前に比べて地球が寒冷化していた時期にあたり、北京原人が火を使用したのもそのような環境が影響した可能性がある、というのだ。「最近寒いなぁ」「じゃあ火でもつけるか」…なんて会話があったはずはないが(北京原人が会話をしていた可能性自体は有力視されている)、想像してみると楽しい話ではある。


 北京原人の話からすると、ずっと短い歴史の話だが、「9000年前の井戸の発見」というニュースも心躍るものがあった。
 発見されたのは、中東はシリア北東部にある新石器時代の集落の遺跡テル・セクル・アルアヘイマル。東大総合研究博物館の西秋良宏教授らのグループが発見したものだが、実際に見つかったのは昨年8月のこと。ニュースになるのが半年も後になったのは調査結果がまとまってからの発表であったためと思われる。
 その「井戸」は直径約2.5m、深さ約4m。底部には直径10〜20cmの円形の石器10数個が置かれていたといい、この石器は儀礼的な目的で使われたものと推測されているという。この「井戸」からわずか100m先にはユーフラテス川の支流があり、このことから西秋教授らはこの「井戸」が単に水を得ようとしてのものではなく、飲み水など「浄水」を求めてのものではないかと推測している。そうだとすれば浄水目的の井戸としては、これまで最古とされていたイスラエルで見つかった8000年前の遺構の例を超す、世界最古の浄水目的井戸の可能性もあるのだそうだ。
 このあたりは人類で最初に「文明」を発生させるメソポタミア地方の北部にあたり、世界でもっとも早く農耕・牧畜がおこなわれていた地域だ。共同通信記事によるとこのメソポタミア北部では9000年前には住居の床を入念に掃除した痕跡も見つかるなど衛生概念の萌芽がみられるそうで、「集落の人口が増え、疫病などを恐れ、きれいな水を入手しようとしたのではないか」との西秋教授のコメントが載っていた。


 そんな新石器時代の話からすると、ずっとずっと短い歴史の話になるが、およそ60年前に日本の総理大臣をつとめ戦後日本の歴史に決定的影響を残した吉田茂の旧宅が3月22日に全焼してしまった。一時不審火との報道も流れたが、出火元は二階で放火の痕跡はなく、どうやら漏電が原因の失火であるようだ。最初に立てたのは吉田茂の養父・吉田健三で、今回全焼した本邸は1925年(大正14)建造というからかなり古い。電気系統も古びすぎちゃってたんじゃないかなぁ。
 大磯の地は明治時代から政財界の名士の別荘地として知られ、初代内閣総理大臣・伊藤博文の別荘もここにあった。吉田邸もその一例で、終戦直後に総理となった吉田茂はこの自宅から車で東京に通う生活をしていた。なにも首相官邸に住めばいいじゃないかと思うところだが、東京と一定の距離を置いた方がいいという考えもあったとも言われている。ただ東京へ通う途中、戸塚駅付近の東海道の踏切が「開かずの踏切」となっており、ここで延々待たされることに頭に来た吉田は線路をまたぐ迂回道路を作らせた。俗にこれを「ワンマン道路」と呼ぶそうな(笑)。
 総理引退後も吉田は大磯にあって政界に影響力を保ち続け、教え子にあたる池田勇人佐藤栄作ら首相たちが「大磯詣で」をして吉田の意見を求めた。佐藤栄作が総理となって初めて大磯詣でをしたとき、吉田はいやがる佐藤を上座を据えさせ「日本国の総理大臣に敬意を表しているのだ」と言ったという逸話もある。首相たちだけでなく多くの政治家、外国の要人もここを訪ねていて、大平正芳カーター会談もここで行われるなど、戦後史の舞台そのものということもあり、多くのゆかりの品々(著名人の書も多いという)の焼失もあいまって非常に惜しまれるところだ。
 吉田茂の孫・麻生太郎総理大臣も少年時代に週末よく訪れていたそうで、吉田が組閣人事を練ってるところへ顔を出したら○や× のついた名簿の紙を「ちょっと持ってろ」と持たされ、幼くして組閣の手伝い(?)をやらされちゃったこともあるとか。麻生首相は今回の焼失に対し
「思い出のある建物であっただけに、大変残念に思います」とのコメントを出している。なお、聞くところによるとこの旧吉田邸の隣には、かつて「サザエさん」の作者・長谷川町子の母が別荘を持っており、こちらも焼失してしまっているんだとか。

 北京原人が寒さをしのごうと(?)使い始めた火。文明のルーツともいえる火であるが、貴重な歴史も火事にあってはあっけなく灰になってしまう。このところ文化財・旧宅の焼失が相次いでるだけに、火の用心、火の用心。


2009/3/25の記事

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