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2010年4月1日

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◆今週の記事

◆昭和ひとケタの怪事件

 すでに平成も22年。昭和も遠くなりにけり、という感もある。しかしその「昭和」というのもえらく長いから、一口に「昭和」といってもピンからキリまで。「ルパン三世カリオストロの城」で銭形警部ルパン三世「さすが昭和ひとケタ、仕事熱心だこと」などと言われているが、仮に「ひとケタ」で最も遅い昭和9年(1934)生まれだとしても今年ですでに76歳である(TVスペシャルの一編では1937年生まれに設定されていたが)。ちなみに声をあてている納谷悟朗さんは昭和4年(1929)のお生まれで、これも銭形警部の年齢を考える上での参考にできる。しかし今年もまた作られているTVスペシャルの中では銭形警部は依然として40代か50代ぐらいにしか見えないのであった(ただやっぱり各キャストの声がかなり心配になってきたのはよく分かった)

 さてそんな昭和のひとケタ時代と言えば、現在同様の不景気な話が多い時代。いや、今なんかよりずっと深刻だった。昭和に入ってすぐの1927年(昭和2)には「昭和金融恐慌」が起こり、銀行がつぶれそうだということで預金者が預金をおろそうと銀行へ殺到する「取り付け騒ぎ」が起こった。政府は騒ぎをおさめるため、急遽「二百円札」を大量に発行。もともと大急ぎで事態を収拾するための「見せ金」という性格が強いもので、表には真ん中にただ「貳百圓」とデカデカと書き、裏は何もない真っ白という世にも珍しい紙幣となった(俗に「ウラシロ」という)。一部預金者の手に渡ったともされるが、騒ぎがおさまると用が済んだとばかりさっさと回収され、ほとんど世の中には出回らなかった。
 ご存じのとおり、紙幣を発行するのは日本銀行(日銀)だ。日銀が回収した紙幣はもう使用できないように廃棄処分される。ところが今年の4月1日になって公開された日銀の極秘記録によって判明したことだが、この「ウラシロ」の二百円札、廃棄処分前に東京・日本橋の日銀本店の金庫から忽然と消えていたというのである!当時の二百円といえば一枚でも確かに大金なのだが、世にも珍しい「裏が真っ白」の紙幣ということそのものに価値を見出した何者かがごっそり盗みだしたらしいのだ。

 この日銀極秘記録でもその犯人が誰かについては記されていない。騒ぎがまた大きくなることを恐れて事件自体を封印して捜査もしなかったというのだが、その犯人は「俺がやったんだぞ」ということを示すサインを現場に残していたのだ。
 東京・日本橋の日銀本店は1896年に建造された風格のある建物で、今でも日銀の象徴としてよくテレビなどでも映ることがある。筆者も2008年秋にある集まりのためにこの地を訪れ、この日銀本店を初めて目の当たりにした。この建物は上から見ると「円」の字になっているという、見えないところで面白いことをしているのだが、GoogleEarthでみればバッチリ下図のとおり。

 
 その日銀本店のすぐ脇の路上に、黄色く塗られた消火栓が立っている。それが右上の写真だ(2008年秋に筆者が携帯電話で撮影)。よく見ていただきたい。そこには「八一三」という番号が記されている。これが犯人が自分を推理させるために残したメッセージなのだ。
 「八一三」と言われて、何を思い浮かべるだろうか?このサイトのお客であればピンとくるに違いない。そう、当時よく知られたフランス人の怪盗アルセーヌ=ルパンが活躍した一編のタイトルだ。実は日本でも1923年(大正12)に溝口健二監督が同作を日本に舞台を移した翻案映画「八一三」を製作しており、日本人には漢数字でおなじみだったのだ。だから犯人もわざわざ日本人向けに漢数字で書いていったのである。
 さらに「黄色い消火栓」というところもポイント。「黄色」といえば「黄金」という言葉が連想される。実は当時の日本では「黄金仮面」と呼ばれる、その名の通り黄金の仮面をかぶった謎の怪盗が出没していたのである。黄金仮面はフランス人の可能性が高いということについては当時の探偵・明智小五郎も証言している。
 さらにさらに、日本橋からさして遠くない銀座の裏通りには右図のような店がある。知る人ぞ知る、有名な文壇バー「ルパン」である。太宰治をはじめ著名人も多く通ったこの店だが、実は開店がずばり問題の事件が起こった時期、昭和3年(1928)なのである!これはこの事件の犯人がここをアジトにしていたとしか思えないではないか!え?アジトなのに堂々と名前を出すはずがないだろうって?そこはあの怪盗である、裏の裏をかいて堂々と看板を出させることでかえって疑われないようにしていたのだ。

 ルパンなんて架空人物でしょ?と思った人は甘い。シリーズの全訳を読めばわかるが、ホームズ物語が協力者にして友人のワトソンの手になるのと同様(一部ホームズ自身が書いてるものもある)モーリス=ルブラン自身がルパンから聞きだした物語、という形式がとられている。そしてルブラン自身、晩年には「ルパンが夜な夜な私の部屋に忍び込んでくる」と言ってピストルをベッドの下に隠したり、警察を呼んで保護してもらったりしている事実があるのだ。つまり、アルセーヌ=ルパンなる怪盗は十分実在し、実は一時日本まで「出稼ぎ」に来ていた、という事実がこのたび証明されたというわけなのである。

 なお、銭形警部も生まれていたこの昭和ひとケタの時代に、ルパンは日本人との間に子供を作っていたと思われる。そのまた子供が「三世」であるわけで、ちょうどピッタリあてはまる計算なのである。



◆使節団の記念写真

 まずは右の写真をご覧いただきたい。歴史の教科書にもよく載っていておなじみの、「岩倉使節団」の記念写真である。
 明治四年(1871)、まだ出来たてのホヤホヤだった日本の明治政府は政府の最高首脳である岩倉具視を全権大使とし、副使に長州の木戸孝允伊藤博文、薩摩の大久保利通といった政府の大物たちを添えて欧米諸国へ大規模な使節団を派遣した。当時の政府首脳の半分ぐらいが2年近くも日本を留守にして出かけたわけで、まだ電話もないこの時代、ずいぶん大胆なことをしたものだと思える。使節団の目的は不平等条約の改正と欧米先進国の視察にあり、当時の生まれたばかりの「近代日本」の指導者たちがどれだけ必死な思いだったかということもうかがえる。

 さて有名な右の写真だが、太平洋を突っ切って最初の訪問国アメリカに到着した直後にサンフランシスコで撮影されたものだ。真ん中にいるのが公家出身の全権大使・岩倉具視。まだチョンマゲを結い、和服姿をしているのがよく分かる。左端にいるのが「桂小五郎」としてもおなじみの木戸孝允。右端が薩摩のリーダーの一人・大久保利通。その後ろに立っているのは長州出身ではあるが以後大久保と密着する伊藤博文だ。この写真における彼らのポジションはなんとなくこの時点での「立ち位置」を表しているようで面白い。ああ、いつもこの写真の話題をするとき「これは誰だっけ?」と言われてしまうのが、岩倉の後ろに立っている山口尚芳。この人は明治政府の一角を占めていた佐賀藩出身者だ。周りに映っているのが大物すぎるのがちと気の毒な気もする。
 
 ところでこの写真、以前から気になっていたことがあった。岩倉と伊藤の間の空間が妙に空いていて、構図としてバランスが悪いのである。さらに長州出身者が二人に対して薩摩出身者が一人というのもバランスを欠いたメンバーとも思える。もしかしてこの空白部分、本当は誰かが映っていたのではあるまいか…
 などと思っていたら、この4月1日、撮影地のサンフランシスコの古い写真館の倉庫から、この写真のオリジナル乾板が発見された。それは下のような写真だったのである!



 なるほど、気になっていた空白部分にドッカと恰幅のいい人が立っていて構図もちょうどいいアンバイである。しかもその顔は……どう見ても薩摩出身者のあの方、西郷隆盛その人としか思えない。西郷は生前に写真を一枚も残していないことで知られ、よく知られる顔も弟の西郷従道や従兄弟の大山巌の顔を元に「合成」して作った肖像画なのだが、この写真は初めて確認された西郷の顔写真ということになり、その意味でも貴重である。

 しかし西郷はこのとき使節団には同行せず、日本の「留守政府」に残っていたはずである。それがどうしてここで一緒に映っているのだろうか!?
 一つの推理としては、西郷は本当は薩長のバランス上、使節団に同行していたが、何らかの理由で途中で急遽帰国してしまったのではないかと考えられる。なんで途中で帰ったかといえば……このズバリ写真がその原因だったかもしれない。この時代の有名人としては不思議なほど写真を残していない西郷は「写真嫌い」だったとの推測がある(魂が抜かれると思っていたかどうかは知らないが)。しかしこのときは政府首脳が顔をそろえた使節団メンバーの記念撮影ということもあり、断り切れず、無理やり写真を撮られてしまったのだろう。そのせいか、その顔は少々むくれて、カメラ目線になっていない(まぁ岩倉もカメラ目線じゃないが)。そして写真で自分の顔を見て激怒、あるいはガックリ来て、サンフランシスコから日本へUターンしてしまったということではなかろうか。さらに想像を広げれば、留守政府で西郷が「征韓論」を主導して使節団組と対立して政変にいたり、西南戦争へと向かってしまうのも、案外こんな写真がきっかけだったのかもしれない。
 ところでよく知られる写真から西郷が消えているのはなぜなのか?これはやはりその後西郷が明治政府にとっての反逆者となったため、政府首脳がそろった記念写真から抹殺されたということだろう。社会主義国やナチスドイツなんかでは失脚したり粛清された者が記念写真から消されて「いなかった」ことにされた例はよくあったものだ。
 


◆殺害現場の目撃者

 「大化の改新」といえば、歴史の授業で最初の方で習う大事件であるために誰でもその名前ぐらいは覚えているはず。西暦645年、天皇家(大王家)をも凌駕する勢いを持っていた蘇我氏の打倒を中大兄皇子(のちの天智天皇)中臣鎌足とが計画し、朝鮮半島からの使者との対面が行われている宮中において蘇我入鹿を殺害。そのまま蘇我氏本流を滅ぼして、天皇を中心として唐にならった「公地公民」の体制を整える大改革を行ったとされている。これは今でも中学レベルの歴史教科書ではおおむね「公式見解」として記述されている。
 もっともこれはあくまで天皇家の立場で書かれた歴史書『日本書紀』の記述だけが頼りであり、どこまで事実に忠実であるかは学問的には疑問視もされている。中大兄皇子らが蘇我入鹿を殺害したこと自体は事実としても、それは単なる権力奪取のための「政変」であり、「大化の改新」なんて画期的大改革ではなかったんじゃないの、後世史書編纂時の「創作」なんじゃないの、という声もそこそこ有力だ。そのため最近は入鹿殺害と蘇我氏滅亡の政変については干支をとって「乙巳の変」と呼ぶことが多くなってきている。

 その正否はともかくとして、僕は前からその『日本書紀』のこの事件に関する記述ぶりが気になっていた。入鹿殺害事件の場面がそれこそ「見て来たかのように」詳細に描写されているからだ。『日本書紀』全体を見渡しても、このシーンは際立って記述が具体的なのである。
 皇極天皇の四年(645)、六月戊申(12日)の記事は現代語訳するとこんな感じである(原文は漢文)

 皇極女帝が大極殿におでましになり、古人大兄皇子がそばに控えた。中臣鎌足は入鹿が猜疑心が強く昼夜を問わず剣を帯びているのを知っていたので、俳優(道化?)に入鹿を言いくるめさせて剣をはずさせ、入鹿は剣をはずして席に着いた。蘇我倉山田石川麻呂が進み出て三韓の表文を読み始めると、中大兄は宮門を封じさせた。このとき中大兄は自ら長槍を手に宮殿の物陰に隠れ、鎌足らは弓矢を持ってこれを助け、
海犬養勝麻呂に貢物の箱の中に入れて二振りの剣を運ばせ、佐伯子麻呂葛城稚犬養網田に与えながら「しっかりやれ。その時になったら斬りかかれ」と命じた。子麻呂らは水と一緒に飯を飲み込んだが恐怖のあまり吐いてしまい、鎌足は彼らを叱りつけ励ました。
 石川麻呂は表文が読み終わろうとしているのに子麻呂らが出てこないので汗びっしょりになり、声も乱れ手も震えた。入鹿が不審に思って「なぜ震えているのか」と聞くと、石川麻呂は「みかどのおそばにいるので思わず汗が流れたのです」と答えた。中大兄は子麻呂らが入鹿の威勢を恐れて飛びだせないのを見ると「わあっ」と声をあげ、そのまま子麻呂らと共に不意に飛び出し、剣で入鹿の頭と肩を斬りつけた。入鹿が仰天して起きあがると、子麻呂がその片足を斬った。入鹿は転がって玉座に頭を叩きつけ、「わたくしに何の罪があるのですか、よくお考えください」と言った。女帝は大いに驚いて中大兄に言った。「私は何も知りません。いったいどういうことですか」中大兄は地面にひれ伏して言った。「入鹿は天皇家を滅ぼし皇位を奪い取ろうとしていました。天孫を彼にとって代わらせるわけにはいきません」女帝はただちに起き上がって奥へと入ってしまった。佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田が入鹿を斬った。この日は雨が降っていて庭には水があふれていた。席の障子で入鹿の死体を覆い隠した。

 日本の歴史の漫画などでこの場面を読んだ方も多いかもしれない。それでも原文にここまで具体的かつ詳細に書かれているとは僕だって最近まで知らなかった。まさに現場を目撃したかのような記述だが、『日本書紀』の編纂はこの事件からおよそ7,80年ほど後のことであり、当時事件を目の当たりにしていた人が生きていたとは思えない。また当然ながらこの時代に映像記録がとれるわけもなく、こんな「見て来たような」記述がなぜできたのか謎なのだ。

 しかし。今のように様々な記録メディアのない時代には、人間そのものが「記録メディア」となっていたことを忘れてはならない。手塚治虫の『火の鳥ヤマト編』でテープレコーダーのように「録音」ができる(陰口まで録音してしまう)「語り部」の人々が登場するが、多少マンガ的誇張はあるとしても、ああいう人たちは実際にいた。たとえば『古事記』の編纂に関わった
稗田阿礼(ひえだのあれ)は「目にしたものはただちに言葉にでき、耳にしたものは心にとめて忘れない」という特技を持っていたために天武天皇から歴史を記憶させられたとされている。こういう「人間ビデオカメラ」みたいな人たちがこの時代にはそこそこいたのだと思われていた。

 さてこの4月1日、そんな「人間ビデオカメラ」の一人の墓誌が発見され、話題を呼んでいる。墓誌によるとその名は入江座鼓舞(いりえのざこぶ)という人物で、蘇我氏に同情的な立場の人物であったらしい。彼は何らかの方法で中大兄皇子らの入鹿暗殺計画を知り、「入鹿を殺すなんて、なんて残酷なことを!」と憤り、その阻止自体はできなかったが、せめてその残酷な現場を「人間ビデオカメラ」の能力を使って後世に伝えようと考えた。そこでひそかに宮中の立ち入り禁止区域にもぐりこんで庭の岩に自身をカモフラージュするなどして殺害現場を「盗撮」したのだった。
 この「盗撮映像」は人間ビデオカメラ同士のコピーも可能だったようで、入江座鼓舞から他の語り部たちに伝えられ、記録・保存された。それがたまたま『日本書紀』編纂者の手に入り、文字記録とされたということのようだ。なお、左図はその記録をもとに江戸時代に絵画によって再現された入鹿殺害の模様である。首が飛び、血しぶきが飛び、いやはや目を覆いたくなるような瞬間である。
 いやぁ、日本人って残酷なことをしますねぇ。
 


◆あの日記の裏事情!

 「更級日記」といえば菅原孝標女(「たかすえのおんな」ではない。「むすめ」と読む)の手になる有名な古典。彼女は寛弘5年(1008)の生まれというから、ちょうど今から千年前の女性である。千年前といえば昨年が「千周年」ということで話題になったように、紫式部による「源氏物語」が書かれている、あるいはほぼ完成したころと見られている。「更級日記」は作者がその晩年に自身の生涯を顧みてまとめて書いた、いわば「自伝」であると見られているが、その中でも少女時代に「源氏」に夢中になってしまったというくだりには現代人の読書好きにも大いに共感を呼ぶ記述があって人気が高い。

 孝標女(本名不明なのでこう呼ぶしかない)は寛仁4年(1020)に父親の赴任先の上総から上京した。まだ満12歳、今でいう中学一年生の多感な少女であった孝標女ちゃんは慣れない京都暮らしに気がふさいでいたが、心配した母親が探し求めて来た「物語」、つまり小説に夢中になってしまう。なかでも当時リアルタイムのベストセラー小説である「源氏物語」の「若紫」のくだりを読んで続きが読みたくて仕方がなくなってしまった。なお「若紫」は「源氏物語」中でも重要な章で、18歳の光源氏が父の妃である藤壺と肉体関係を持ったあげく妊娠させてしまう一方、その藤壺と瓜二つの10歳の美少女・紫の上を見初めて、自分が恋焦がれる藤壺みたいな理想の女性に育てようと誘拐してしまう内容である。12歳の孝標女ちゃんも確かに続きが気になって仕方がなかっただろう(笑)。
 いま「ベストセラー」と書いちゃったが、印刷出版なんてありもしないこの時代、「物語」は手で筆写するほか普及の手段がなかった。しかも全巻ととのってそろっていることなどめったになかったようで、孝標女ちゃんもたまたま読めたのが「若紫」の一巻だけだった。続きが読みたくてしょうがないのだが注文するべき本屋さんも存在しないのだ。慣れない京都で人に頼むこともできず、「源氏物語を第一巻から全部読ませて下さい!」と神仏に祈ることしかできなかった。両親と一緒に太秦におこもりをした時も他のことはさしおいてこの事だけを祈り、「おこもりが終わったら全部読むのよ!」と必死になっていたというからもう中毒状態である。その中毒ぶりを見かねたのか、田舎から出て来たおばさんが「源氏物語」全50巻セットでそろえてくれた上に、「伊勢物語」(これもまた光源氏なみに禁断の愛の多い話)ほか複数の物語もまとめてドーンとプレゼントしてくれたのである。
 もう飛び上がらんばかりに喜んだ孝標女ちゃん、家に帰るや読みたくて読みたくて仕方がなかった「源氏物語」を第一巻からワクワクと読み始める(この時の気分で使われる「はしる、はしる」という表現に共感する現代人も多いはず)。もうすっかり他人もかえりみず本の世界に没入、昼間はもちろんずっと、夜も目の覚めている限り灯りをともして読みふけりつづける。「お妃の位だってこれには代えられないわ!」というぐらいの幸福感(笑)。ちょっとは自分の中毒ぶりへの反省も潜在意識にあったのか、夢の中で坊さんから「法華経の五の巻を早く覚えなさい」(勉強はしたの!?ですな)と説教されるも、聞く耳も持たず物語に没頭してしまう。
 すっかり源氏物語の世界におぼれてしまった彼女は、「今はかわいくないけど、年頃になったら外見もきれいになって、髪もとっても長くなって、夕顔や浮舟みたいになるのよ!」と夢見ていたそうである。夕顔は光源氏17歳の時の愛人でもともと友人の頭中将の側室ではかなく死んでしまうキャラであり、浮舟は終盤の「宇治十帖」のヒロインで源氏の子・(といっても実の子ではなく不義の子である)に愛されながら匂宮に人違いされて肉体関係を持ってしまい、悩んだ末に自殺未遂→失踪する女性である。源氏物語にはいろんな女性キャラが登場するが、孝標女ちゃんは「はかなげ」なキャラがお好みだったようだ。そんな少女時代の自分を後年の彼女は「なんと他愛のないこと」と恥ずかしがっているのだが…

 さて、その後も物語を読みふけり続ける孝標女ちゃんなのだが、この有名なくだり以降は「源氏物語」の話題が出てこない。あんなに夢中になっていたのにどうしたのだろうと、一つの謎とされていたのだが、今年の4月1日になってある仮説を裏付ける証拠文書が発見された。京都の治安維持と民政を担当していた検非違使(けびいし)の定めた京都限定の法令の一部で、ちょうど孝標女ちゃんが14,5歳ごろのものと推測される。
 その法令の条文は断片的にしか残っていないので判然としない部分もあるのだが、以下のような書籍類を取り締まるという部分があったのだ。

 「年齢又ハ服装、所持品、学年、背景ソノ他ノ人ノ年齢ヲ想起サセル事項ノ表示又ハ音声ニヨル描写カラ十八歳未満トシテ表現サレテヰルト認識サレルモノ(割注:以下「非実在青少年」トイフ)ヲ相手方トスル又ハ非実在青少年ニヨル性交又ハ性交類似行為ニ関ハル非実在青少年ノ姿態ヲ視覚ニヨリ認識スルコトノデキル方法デミダリニ性的対象トシテ肯定的ニ描写スルコトニヨリテ、青少年ノ性ニ関スル健全ナ判断能力ノ形成ヲ阻害シ、青少年ノ健全な成長を阻害スル恐レガアルモノ」

  さすがに1000年前の平安時代の古文。一字違いの平成時代ではまずお目にかかれない難解な文章である。ともかく読み解いてみると、なるほど「源氏物語」がアウトになるのがよく分かる。18歳未満が想起される「非実在」の男女がやたら出てきて、それらによる「性交または性交類似行為」もバンバン出てくる。もちろんそれらは「肯定的に描写」されているものだし、文章や絵巻物だから当然「視覚により認識」することになる。
 当然ながら「源氏物語」が発禁処分をくらったというわけでもなかろう(そもそも「出版」されてないが)。あくまでお子様には見せちゃダメ、ということになったと思われる。まぁ「更級日記」を読んでいても12歳の少女がどれだけ昼も夜も非道徳的な内容の書物を読みふけり、妄想にふけりまくる「不健全」な状態になっちゃったかはよく分かる。恐らくは作者は書かないものの、この法令により「源氏物語」は周囲の大人により取り上げられてしまったのではないかと思われる。あくまで京都の法令ということだが、当時こうした物語類は京都でしか出回っていなかったので、全国を規制したのと同等だったろう。

 後年「源氏物語」を熱心に研究した人物に後醍醐天皇と、その孫の長慶天皇がいる。後醍醐天皇にいたっては妻にするために少女誘拐という物語を地で行くようなことを実行しており、しかも成長するまで待っておらず、即座に既成事実を作ったというおまけつき。まぁ真言立川流に入れこんだり、日本中を大動乱に巻きこんだり、「不健全」この上ない人には違いなかったですけどね。
 

2010/4/1の記事
間違っても本気にしないように!

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