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2010年4月21日

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◆今週の記事

◆ひきこもり将軍の扉が

 足利尊氏といえば、源頼朝徳川家康と並んで「幕府初代将軍」なのだが、現代においては良くも悪くも印象が薄い。戦前に「大逆賊」として超がつくほどの悪役にされた反動でもあるのだろうが、南北朝時代の不人気(というより無関心かな)のせいもあって小説などメディアでの露出もすくなく、そもそもなじみがない人が大半。おまけにいろいろ調べてみたところで、怜悧な切れ者とも筋を通した律儀者とも見えず、もともと武家ナンバー2の生まれだから苦労して立身出世を遂げた人というわけでもないので、人気ヒーローにはどう考えてもなりにくい。古典『太平記』を読んでいても、戦場で何かというと弱気になり何度腹を切ろうとしたか分からない人で(もちろん一度も腹は切らなかったが)、悪役スターとしても魅力がイマイチなのである。
 そこでむしろこの人についてはいわゆる「オタク体質」の人だった、というとらえ方をしてはどうかと提案する(笑)。若いころには和歌に凝って和歌集への入選を目指して投稿を繰り返し(後醍醐天皇勅撰の和歌集に採用されたので一生頭があがらなくなったという説もある)、「和歌の道でちょっとは知られたことが生きた証だ」みたいな歌を動乱が起こる前に詠んでいる。もっとも和歌の出来自体は同時代においてもあまり高評価ではないのだが…。動乱の中では確かに武士のリーダーとなり、新時代を切り開いた面はあるのだが、建武政権に反旗を翻すにあたっては出家すると言って寺にこもってしまったり、湊川の戦いに勝利して幕府を開こうという時に「この世は夢のごとし(夢のようにはかない)」などと言って出家遁世願望をつぶやいたりする人でもあり、「ひきこもり要素」もたぶんに持った武将だった。もっともその一方でやたらに気前がよくおおらかな性格で、宴会の席では人を楽しませる工夫をせずにはいられなかったとか、結構人当たりはよく親しみやすい性格だったという逸話もあり、その落差の激しさから昔から「躁鬱質説」がささやかれる人でもある。余談ながら、最近ネット上で尊氏が側近美少年軍団「花一揆」を従えていた史実がちょいと話題になっていた(笑)。

 さて、そんな尊氏の「ひきこもり」を象徴する(?)あの門がついに開かれた、と話題になっている。京都・東寺で「不開門(あかずのもん)」とされていた「東大門」のことだ。
 建武3年(延元元、1336)5月に九州から陸海二軍で大挙東上した足利尊氏は湊川の戦いに勝利し、そのまま京都へと突入した。この戦いで「天下が決まった」という印象を持たれがちだが実際には後醍醐天皇は比叡山にたてこもって頑強に抵抗し、この年の10月まで京をめぐって双方の激しい攻防が続いている。このとき後醍醐側の総大将で尊氏とは同じ清和源氏のライバルである新田義貞は尊氏が本陣をおく東寺まで押し寄せ、「我ら二人の一騎打ちで勝負を決めようではないか!」と矢を射こんで尊氏に呼びかけた。尊氏は挑戦に応じようと一度は立ち上がったが側近に諌められてやめた、ということに古典『太平記』ではなっている。この場面、1991年の大河ドラマ『太平記』でも詳しく描かれたが、ドラマでは尊氏が義貞の挑戦に応じ、足利市に建設された大市街オープンセットで尊氏役の真田広之と義貞役の根津甚八本当に一騎打ちをしてしまうという名(迷)シーンとなっている。
 東寺の「東大門」はこのとき以来閉ざされたままになっている――という話は、大河「太平記」各回の終わりに流れる「太平記のふるさと」コーナーでも紹介されていた(第41回の放送分。なお今は定着した大河ドラマエンディングの「ゆかりの地」紹介コーナーはこれがルーツである)。今回400年ぶりの修築を行うために「不開門」を開くことにしたといい、建武3年以来だから実に674年ぶりに開かれると報じられている。「ひきこもり将軍」の尊氏らしい話にも見えるのだが、正直なところこれをきっかけに門を閉め切っちゃった、というのもにわかには信じがたい。東寺はその後も京都攻防戦の本陣とされることが多いので(この時代、「要塞」化できる大型建造物は寺院ぐらいしかなく、寺院自体が僧兵という軍事力も持っていた)、その過程で閉め切ることにしたかもしれないし、まったく別の理由がいつの間にか「太平記」の名場面と結びつけられた可能性も高いと思う。「東大門」だけに極端に狭き門にしたとか(笑)。

 そういえば、一方の当事者である新田義貞の生品神社の銅像、盗難にあったまま行方不明のまんまですね。



◆それいけインディ!

 つい先日、当サイトの「怪盗ルパンの館」内の「ジェリコ公爵」(非ルパンもののルブラン作品だが、日本ではなぜかルパン全集入りしてることが多い)のコーナーを作るために原作をよく読んでみたら、「先祖が十字軍時代に持ち帰ったキリストの十字架の破片」というアイテムが出てくることに驚いた。だいぶ前に読んだときは気にもしなかったのだが、ちょうど「トリノ聖骸布」のニュースが流れていた時でもあり、僕個人の中では妙な符合に思えてしまったのだ。

 イエスが磔刑にされた十字架だとか、その時打ちつけるのに使った「聖釘」だとか、最後の晩餐に使った「聖杯」、そして遺体をくるんだ「聖骸布」といったアイテムを「聖遺物」と呼ぶ。ローマ帝国によりキリスト教が公認された4世紀あたりからこの手のアイテムが「発見」されているようで、その後の十字軍時代(11C〜13C)にエルサレムやコンスタンティノープルに入った西欧人らによって出どころのアヤシゲな「聖遺物」がヨーロッパに持ち帰られた。もっとも「聖杯探求伝説」があるところをみると聖杯のほうはなかなか「発見」できなかったらしい。映画「インディ・ジョーンズ」シリーズの三作目がこの聖杯をめぐる冒険だったことをご記憶の方も多いだろう(この映画のタイトル「最後の聖戦」は直訳すれば「最後の十字軍」である)
 ヨーロッパ全土にある十字架の破片や聖釘を集めると一本の十字架に使う木や釘の量を大幅に上回るとの試算もあるそうで、インド以東で「増殖」しているお釈迦様の骨「仏舎利」のようなもんだと思われる。「聖骸布」も複数存在しているのだが(中にはベロニカがイエスの顔をぬぐった布というのもあった)、圧倒的に有名なのが「トリノの聖骸布」だ。

 この「トリノの聖骸布」、とりあえず確認される限りでは14世紀半ばにフランスで保管されていた。それ以前に東ローマ帝国が保管していたのを十字軍がかっぱらってきたのではないかとも言われるが、定かではない。その後紆余曲折あって現在はトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている。
 他の聖骸布を押しのけてこのトリノのものが圧倒的に有名なのは、そこにイエス=キリストその人を思わせる男性の影が浮かび上がっていることだ(ちょうど裏返しに映っている)。聖書に伝えられている通りにいばらの冠をつけ、手首のところに杭で打たれた痕まで見え、なんといってもその顔が、キリスト教美術において描かれるイエスの顔立ちとよく似ているのだ。
 まぁ冷静に考えればあまりにも聖書の通りの姿、一般的に広がっている「キリストの顔」のイメージによく似ていることそのものが「作りもの」であることを感じさせるのだが、科学的調査によってもこの聖骸布のこの「影」がどのようにして作りだされたのかは判明していない。一度炭素年代測定で12世紀か13世紀の中世のものと判定され、「偽物」と明確に打ち出されたこともあるのだが、測定方法への疑問の声もないではない。また「キリストの顔」のイメージはむしろこちらが「元祖」(?)で、東方教会のイコンがこれを参考にしたのだ、という声もあるそうで。
 
 この「トリノの聖骸布」が修復作業を経て今年4月10日から10年ぶりに公開され、五月にかけて数百万人が「拝観」に押し寄せる予定と報じられている。それに合わせて、7日発売のイタリア誌「ディバ・エ・ドンナ」で、興味深い「知られざる史実」が報じられた。あのアドルフ=ヒトラーが、「トリノの聖骸布」を手に入れようと画策していたというのだ!
 第二次世界大戦直前、ヒトラーはイタリアのムッソリーニと手を組み、ファシズム二大国としてヨーロッパに覇権を築こうとしていた。1938年にヒトラーはイタリアを訪問するが、このときすでに「聖骸布」の入手を試みて部下に調査をさせていたという。これを察したバチカンとイタリア王家は翌1939年にひそかに聖骸布を南部カンパニア州のモンテベルジネ修道院へ移送しておいた。1943年にドイツ軍が修道院を捜索したが(この年はイタリアが連合国に降伏した年でもある)、修道士らが聖骸布が収められた祭壇の前で熱心に祈るふりをしてこれをごまかした…という。聖骸布はこの修道院に戦後の1946年まで保管されていたといい、今度の話もその修道院の神父の口から語られたものだ。
 ちと出来すぎ、という気もしなくはないのだが、ヒトラーが神秘的なオカルトアイテムに興味を持ってその収集を試みていたというのはよく聞く話。そもそもインディ・ジョーンズの1作目と3作目はそれが元ネタになっているのだ。

 ついでにキリストがらみのニュース小ネタを2題。

 聖骸布の公開に合わせたわけでもあるまいが、4月16日にリオデジャネイロの名物、コルコバードの丘に建つ「巨大キリスト像」の顔や腕に黒いスプレーで落書きをした不届き者がいたことが報じられた。よくあんなところに届いたな、と最初に聞いた時思わず感心してしまったのだが(笑)、4年後のワールドカップ開催に向けての修復作業のために足場が組まれていたのだそうで。書かれていた落書きはポルトガル語で「鬼の居ぬ間に洗濯」にあたる言葉だったのだそうだが、犯人像も含めて意味不明である。

 かつて人気絶頂期にビートルズのジョン=レノン「ビートルズはキリストより人気がある」と発言、バチカンの法王庁がこれを「悪魔的」とまで言って攻撃するという騒ぎがあったそうな。このたび法王庁は機関紙に載せたビートルズ解散40周年に寄せる記事の中で、なんとビートルズを賞賛し、「キリストより〜」の発言についても「許す」と記し、これまたちょっとした話題になっていた。
 先日CNNにインタビューを受けたリンゴ=スターはこの件に関して「どうでもいい。法王庁はビートルズよりほかにもっと言うことがあるだろう」とバカにしていたそうな(笑)。
 


◆政界の車窓から

 今日は、極東の日本から東南アジアのタイ、中央アジアのキルギスタンを通って、ユーラシア大陸の向こう、イギリスまで旅をします(←石丸謙二郎の声でお読みください)

 日本の政界はこのごろ毎年のペースで繰り返される内閣支持率低下と、そしてこれまた何度目かの新党ブームの真っ最中。平沼・与謝野新党の名前は「ひらがな込み」と事前に聞いていたので、「新党みだれ髪」とか「死にたまふことなかれ党」とかバカなネタを考えていたのだが、「たちあがれ日本」とはもっとアサッテな方向のネーミングになっていた。さすがは「首都銀行東京」だの「首都大学東京」だのをつけてしまうお方の命名であるが、当の本人は煽るだけ煽って「おんみずからはいでまさぬ」なんだよな(まぁ最近この人が首を突っ込むことはだいたいロクなことにならない)
 なんだか妙に勢いが出て来た「みんなの党」と仮に連立政権つくると「みんなたちあがれ内閣」か、なんてことも思ったりして(笑)。そのほか「日本創新党」なんて漢字オンリーのも出て来たが、乱立気味な情勢に共倒れを避けるため「みんな」「たちあがれ」「創新」での統合を、なんて神奈川県知事が呼びかけていた。そういえばいきなり飛び出してしまった現首相の実弟はどうなさるおつもりなんだか。
 
 さて、タイの政界、いやもう国全体がハタ目にはほとんど内戦状態に見えてしまうほどの状況。
 2006年にタクシン元首相がクーデターで亡命を余儀なくされて以来、貧困層や農村部を中心とする「タクシン派」と、都市部の富裕層を中心とする「反タクシン派」とが、凄まじい抗争を繰り広げているのはよく知られているとおり。空港占拠やASEANサミットの妨害、最近では採取した血液をバラまくなど、もう何でもありな状況になっているのだが、タイは仏教国のせいもあるのかこれだけの対立抗争でも基本的には「非暴力的」な抗議活動がメインとなっている。だがこのたびついに日本人ジャーナリストを含む死者が十数人出てしまった。
 いい加減にせんかい、という声はタイ国内でも上がっているそうで、赤シャツを着る「タクシン派」と黄シャツを着る「反タクシン派」のどちらでもない「多色シャツ」集団もネットの呼びかけで登場したと報じられている。ただしそもそもネットを使えるのが都市部の中間層以上ということもあり、どちらかというと反タクシンの政府寄りとも言われ、タクシン派は「反タクシン派の別働隊」と警戒しているとも聞く。
 タイのクーデターや勢力間の衝突は過去にも何度かあり、そのたびにプミポン国王が登場して事態収拾を行ってきた歴史がある。その国王も82歳、昨年以降入院して健康不安もささやかれており、そのこともタイ国民にかなり影響してるんじゃないかという気もする。

 キルギスタンといえば中央アジアにある「〜スタン」シリーズの一つ。旧ソ連の一部であった中央アジアのこの地域にはカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンといった、地理の授業もする僕でも毎回地図で確認しないとどれがどれやら分からないややこしい国名が集まっている。このうちのキルギスタンでこのたび政変が起こった。
 「史点」史をふりかえってみると、ちょうど5年前の2005年4月1日の「史点」記事で「キルギス革命」をとりあげている(なお、当時はまだ「四月バカ史点」は始まってません)。このときはソ連解体以来この国を支配していたアカエフ大統領の政権が倒された「チューリップ革命」の話題だった。その後、キルギスではバキエフ大統領の政治が続いていたのだが、ここに来て野党勢力との流血も含めた衝突の末に、またもや「革命」状態で打倒されることになってしまった。しばらく国内にとどまっていたバキエフ氏もついにカザフスタンへ亡命して辞任を認め、とりあえずローザ=オトゥンバエヴァ元外相を首班とする「臨時政府」が成立、今後は総選挙を行ったうえで議院内閣制を確立する憲法を制定する方向と報じられている。
 今回の「キルギス革命」についてはいろんなことが言われている。独裁的・非民主的な傾向の強い旧ソ連諸国の中で「民主化」に期待が寄せられたとされるバキエフ前大統領もまた同じ轍を踏んでしまった、というのが大方の声だ。だがこの国をめぐる米露両国の綱引きなんじゃないの、という見方も結構有力。アメリカはアフガニスタン作戦のためにキルギスに基地を置いており(ロシア軍の基地もある)、今回政権を奪取した反バキエフ陣営は「米軍基地の撤去」を旗印の一つに掲げている。政権樹立にあたってとりあえず秋に予定される総選挙で新議会が成立するまでは、7月に期限切れ予定の米軍基地の貸与契約は自動延長すると表明されたが、この臨時政府を真っ先に承認したのがロシア政府だったこともあり、「新冷戦」の駆け引きの一つと見える部分もあるのだ。

 イギリスでは4月12日に下院が解散され、5月6日に総選挙が行われる。1997年のブレア政権誕生以来13年続いている労働党政権についに幕が下り、保守党が政権を奪回するのではと昨年あたりから言われていたのだが、ここに来て二大政党制のこの国で「第三勢力」が台風の目になってきている。その名も「自由民主党」だ。どっかの国の同名政党より元気なのは確からしい。
 議会政治、二大政党制のルーツとなっているこの国の歴史は世界史でも詳しく習うはず。その体制が確立した19世紀には「保守党」「自由党」がこの国の二大政党だった。現在政権をとっている「労働党」は1906年に誕生した、イギリス議会政治史でいえば「新参者」の政党なのだ。だがこの労働党の拡大にともない自由党はその勢力を減退させてゆく。1980年代に労働党右派が分離して「社会民主党」を結成すると自由党はこれと協力関係になり、やがて正式に合併して「自由民主党」となったのだった(日本の自民党だって自由党と民主党の合流だしね)
 このイギリス版「自民党」、支持率や得票率ではこれまでもそこそこの数字をとることはあり、数字的には決して無視できない支持層を持ってもいた。だが小選挙区制のもとでは保守党と労働党に続く第三勢力は著しく不利で、少数政党の地位に甘んじるほかはなくなっていたのだ。1997年にブレア政権を生んだ総選挙の際に打倒保守党で労働党と選挙協力して連立入りを狙ったが、かえって労働党の圧勝という結果を生んで政権入りはかなわなかった過去もある。
 それでもここ数年、自民党がじわじわと議席を伸ばしてはいたのだ。特に昨年からかなり景気のよさそうな声が聞こえて来た。なんといってもハリー・ポッター役のダニエル=ラドクリフが初めて総選挙を迎えるにあたって「投票先は自由民主党」と明言していた(調べたらこの人、王制にも反対らしいね)。彼一人の例で言うのも危なっかしいが、保守・労働の二大政党にあきたらない若者層の支持を集めてる可能性はある。
 そして4月15日に行われた三党首によるテレビ討論で自民党のクレッグ党首が他の二人を圧倒する存在感を見せて各種世論調査で労働党を抜き保守党にまで迫る支持率を見せた。「メール・オン・サンデー」の調査ではついに保守党も抜いて支持率32%の一位に躍り出てしまい、同紙は「1906年総選挙で勝利して以来の歴史的結果」とまで報じたという。
 1906年といえば労働党誕生の年でもある。一世紀目にして怨念を晴らしたかにもみえるが、同紙の調査でも保守党31%、労働党29%のほとんどダンゴ状態。選挙結果がどうなるにせよ単独過半数をとるところが出ない状態になりそうだと予想されている。



◆第二次大戦のあれやこれや

 更新が止まっていた間の少々古い話題からまとめてみた。

 去る3月19日、AP通信は「バターン死の行進」を撮影した写真としてきた有名な記録写真について、その説明文を「42年5月、死の行進で死亡した同僚の遺体を運ぶ米兵捕虜」と改めると発表した。記録写真の説明文訂正、しかも60年以上前の歴史的写真の訂正は異例のことだという。
 まず「バターン死の行進」について。これは太平洋戦争において日本軍がフィリピンを占領していた1942年4月、ルソン島バターン半島において日本軍が投降していた米軍捕虜やフィリピン人らを収容所までの100kmの道のりを炎天下歩かせた。このためにバターン、バターンと倒れる人が続出し(不謹慎ですいません)、結果的に二万人が死亡したとされる事件だ。これが重大な捕虜虐待、戦争犯罪にあたるとされて戦後の軍事法廷で司令官が死刑にされている。
 「生きて虜囚の辱めをウンヌン」なんてやってる日本軍が敵側の捕虜の扱いがよくなかったのは確かなのだが、欧米では捕虜虐待は日本で思う以上に重大な非人道行為と考えられることもあり、アメリカでは「日本軍の非道」の代表として名高い。ハリウッドで大物監督が大物スターを主演に映画化する、なんて企画も現れては消えてを繰り返している。その一方で日本では数年前に現地を歩いてみて「たいしたことはなかった」なんてお気楽な記事を書いて顰蹙を買った、なんて人もいた。
 さて、今回のニュースを見て「“死の行進”は捏造だった」とか早トチリしてはいけない。そもそもこれは「死の行進」の中にいた元兵士(87)が地元紙に載った例の写真を見て「間違い」と指摘したのが始まり。そこでAP通信は実に6ヶ月に及ぶ追跡調査を行い、他の元兵士たちの証言も集めて確認をとった。さらに写真の原板を保管している国立公文書館に問い合わせて「行進ではなく、収容所での葬儀の写真」と書かれたメモが見つかったため、このたび訂正を発表することになったのだそうだ。そう聞くとその真摯な姿勢にはむしろ感心してしまうではないか。


 3月30日にネバダ州ラスベガスの病院でモリス=ジェプソンさん(87)が亡くなった。元陸軍の電子専門家で原爆開発のマンハッタン計画にも関わり、広島に原爆を投下した「エノラ・ゲイ」の搭乗員の一人となった人物だ。原爆投下にあたっては投下の直前に原爆の「安全プラグ」を抜く作業を担当したという。
 戦後の1946年に陸軍を退役したあとは水爆開発など核関連プロジェクトにたずさわり、さらにその後は電子調理器製造の企業を創設したりもしている。2002年に自身が抜いて保管していた原爆の安全プラグを競売にかけて物議をかもしたこともあり、原爆投下については多くの死を悼みつつも「原爆を投下したのは戦争の早期終結のため」という俗に言う「ヒロシマ論理」を繰り返していた。昨年オバマ大統領が「プラハ演説」で「核兵器を実用した国の責任」に言及したことについては「あまりにもナイーブな発言」と批判している。
 この人が亡くなったことで、「エノラ・ゲイ」搭乗者は航空士だったセオドア=バン=カークさん(89)のみとなった。第二次世界大戦も着実に「歴史の彼方」へ遠ざかっているのだ。

 
 「カチンの森虐殺事件」といえば、1940年にソ連の秘密警察らが捕虜としていたポーランド将校ら二万人以上を虐殺した事件。この事件は1943年にナチス・ドイツによって暴かれ「ソ連の蛮行」として世界に宣伝されたが、ソ連はこれをナチスの仕業と主張し、戦後も一貫してその態度を崩さなかった。西側諸国は当然ソ連の仕業としていたし、当事者ポーランドも内心そうと確信していたが(歴史的にもポーランドのロシアへの不信は相当なものがある)ソ連の衛星国の立場ではそうも言えず、結局ソ連がおずおずと「真相」を認めて謝罪したのはゴルバチョフによるペレストロイカ・グラスノスチが進んだ1990年のことだ。
 そのころには東欧諸国は革命が相次いでソ連支配から離脱し(思い返せばそれはポーランドの自主労組「連帯」の行動から始まったのだ)、ソ連自体も消滅してしまったのだが、それを引き継いだロシア政府は「スターリンのやったこと」とは認めつつも、民族主義・国家意識の台頭とあいまってこの件についてはカチンときて(またまた不謹慎ですいません)素直には頭を下げない態度が続いていた。まぁこの手の話はこの国に限らず洋の東西あちこちにあるんだが。
 ただ、事件から70周年ということで「これを機会に」とロシア側はこの4月にかなり踏み込んだ「歴史的和解」演出を展開していた。4月7日にスモレンスクで行われた追悼集会ではロシアのプーチン首相と、ポーランドのトゥスク首相がそろって慰霊碑の前にひざまづき、プーチン首相は「全体主義による残虐行為は明白で、決して正当化出来ない」とこれまでから比べれば踏み込んだ発言をしている(もっとも「ロシア国民に責任をおしつけるのは間違い」との発言もし、スターリン時代のソ連に責任を押し付けた感もある)。これはこれで一歩も二歩も前進、と評価していいんじゃないかな、と思いつつ史点ネタ候補にしていたわけだが…

 4月10日、ポーランド側が主催する「カチンの森」追悼式典に参加するため再びスモレンスク入りしようとしていた、その名もカチンスキ大統領(またまた不謹慎ですいません)が乗る政府専用機が空港手前で墜落、大統領夫妻を含めて政府高官ら搭乗者全員が死亡する、というとんでもない事故が発生した。この日の追悼式典は中止となってしまい、ポーランドにとって「カチンの森」は二重の意味で忌まわしい地名となってしまった。
 カチンスキ大統領と言えば双子の兄が首相をつとめて話題になった、ということぐらいしか僕の頭の中にはなかったのだが、調べてみたら東欧革命の発端といわれる例の自主管理労組「連帯」のメンバーとしてその政治活動を開始した人物なのだった。ワルシャワ市長として人気を集め、大統領に就任したのは2005年。政治外交姿勢はやや右寄りと言われ、愛国心の高揚やアメリカのミサイル防衛受け入れに熱心になるなど、隣国ロシアやドイツと軋轢になることもしばしばだったという。人情とはいえ双子の兄が党首をつとめ、自身も党首だったことがある最大野党「法と正義」に肩入れする傾向もあり、与党の「市民プラットフォーム」を率いるトゥスク首相とは当然不仲で問題視もされていた。9月に行われる次期大統領選にも立候補の予定だったが、支持率では「市民プラットフォーム」のコモロフスキ下院議長に大きく後れをとってもいた(なお、カチンスキ大統領の死によりこの下院議長が「大統領代行」をつとめている)
 さすがにこういう劇的な死に方をされてしまうと日頃の批判も一時はおさまり絶賛状態になってしまったらしいが、現職大統領の死だからということで歴代国王や王族、国家的英雄を埋葬する旧都クラクフのバベル城に葬ることが発表されると、「それに値する人物か?」とかなり激しい反発の声もあがったという。カチンの森で父を殺され、最近「カチンの森」の映画も製作した同国を代表する映画監督アンジェイ=ワイダ氏も「この決定はポーランド人の間に深刻な亀裂を生むだろう」と新聞に載せた公開書簡で批判したと伝えられている。結局予定通りにバベル城に埋葬されたそうであるが。
 しかし最後の最後までツキがないというか…4月18日に行われた国葬には当初、アメリカのオバマ大統領(この辺もロシアとの駆け引きっぽいところ)や隣国ドイツのメルケル首相はじめ世界中から国家元首クラスが参列する壮大なものになる予定だったのだが、折からのアイスランドの火山噴火による火山灰被害で飛行機が軒並み運航中止になってしまい、オバマ大統領やメルケル首相など参列断念が相次いだ。
 そんななか、しっかり参列したロシアのメドベージェフ大統領の態度はポーランド国民の対ロシア感情を大いに好転させるという、かなりのポイント稼ぎをしたようだ。この墜落事故のニュースを聞いた直後は「ポーランドで陰謀論が起こって対露感情が悪化するんじゃないか?」と懸念したのだが、それはロシアも気にしたようで事故調査も迅速、かつオープンに進め、直後にプーチン首相やメドベージェフ大統領が黒ネクタイをつけてTVに出るなど、大いに気を使ったようだ。災い転じて福となす、ということなのか。


2010/4/21の記事

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