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2010年5月3日

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◆今週の記事

◆正直者がバカを見る

 僕も年がら年中市立図書館から本を借り出している。だいたい二週間で読み終えることができず2〜3日ほど遅れて返すケースがほとんど。まぁそれでもかなり良心的な図書館利用者と自負している。少なくとも本に書きこみをしたり、破壊したりはしたことがない。いやほんと、不思議でしょうがないのだが、図書館から本を借りると勝手に傍線を引いたり書き込みをしたりする行為には驚くほど多くお目にかかる。僕なんて自分で所有してる本にすら書き込みをしないのだが、よくまぁ公共物に…だいいち書き込みしても返すんじゃ意味ないじゃないか。

 さて去る4月18日、ニューヨーク市立図書館が驚くべき「歴史的新事実」を発表した。アメリカ初代大統領ジョージ=ワシントンが、この図書館から二冊本を借り出したまま一ヶ月の返却期限を過ぎても返さず、そのまま本を紛失してしまったらしい、というのだ!
 ワシントンが図書館から借りたのは「国際関係法(Low of Nations)」とイギリス下院の議事録の写しの2冊であったという。借りたのは1789年10月5日、返却期限は11月2日となっていたが、結局そのまんまその2冊は返却されずじまいだった。この年の2月の選挙でワシントンは初代大統領に選出されたばかり。海の向こうではフランス革命の真っ最中だ。なりたて国家のなりたて大統領であった軍人出身のワシントン氏、外交政治のお勉強でもしようとしていたのであろうか(そしてワケがわからなくなって捨てちゃったとか…)

 この2冊の本の紛失自体はそれから150年近くも経った1930年代には判明していたとい言う。現在このニューヨーク市立図書館でも記録のデジタル化が進められており、地下室に保存されていた古い貸し出し台帳をチェックしていたところ、この2冊の借主欄に「President」とあるのが確認された。1789年当時「プレジデント」であるのは大統領しかいないのでワシントンその人だ、と断定されたとのこと(まぁ社長なんかでもプレジデントと呼ぶ場合もあるそうだが)

 当時は返却を延滞した場合、一日につき2セントの延滞料を徴収していたというから、一年の延滞で7ドル30セント。それを220年間続けるとだいたい1600ドルぐらいになる。ただしインフレによる物価価値の変動を考慮して4457ドル(およそ43万円)と非公式ながら試算されたそうで(BBCの報道では30万ドルとあったんだが真相は?)。もっとも図書館の方では請求の予定はなく(その場合はホワイトハウスに請求するのか?)、ただ本が発見され戻って来ることを期待している、とのこと。
 アメリカの報道では例によって「桜の木」の逸話にひっかけて「あの正直者が」とネタにされてるようである(笑)。

<追記>
 その後まもなくこのニュースには続報があった。5月19日にワシントンの邸宅を保存する協会が「国際関係法」の当時と同じ版本(なんと世界に100部しかないそうで)を1万2000ドル=約100万円で購入し、ニューヨーク市立図書館に「返却」したのだ。図書館側は221年分の延滞金については免除という措置をとり、協会側は感謝の意を表しているそうで。今後「桜の木」並みの美談にされるかも…



◆あの人とあの人が一緒に写り

 へぇ、そんな「論争」があったんだ、というのがニュースを読んだ第一印象。
 「ゾルゲと昭和天皇が一緒に写った写真」とされてきた写真があった。別にソ連のスパイだったリヒャルト=ゾルゲ昭和天皇が並んでツーショットで写っているなんていう写真ではない(昭和天皇とのツーショット写真といえばマッカーサーぐらいじゃないか?)。構図としては昭和天皇らしき人物とドイツ駐日大使ディルクセンが握手を交わしている様子を撮影したものなのだが、その握手の奥の方に明らかにゾルゲその人と分かる人物が写っているのだ(知ってる人は分かるだろうがゾルゲはかなり目立つ顔なんだよな)。当時ゾルゲは日本通ドイツ人として重宝されドイツ大使館に出入りしていたらしく、それでたまたまドイツ大使に同行してこの場に写っちゃったのではないか、と言われていた。
 この写真は「ゾルゲと昭和天皇の写真」としてソ連で紹介され、多くの出版物に掲載されて世界的に有名になったそうだが、日本の研究者を中心に疑問の声もあがっていた。僕でも思ったのだが、当時の日本にあって天皇と外国大使がホイホイと握手する写真を気軽に撮れたとはあまり思えない。研究者からは服装や帽子などから昭和天皇ではなくその弟の秩父宮雍仁親王ではないかと指摘されていたのだそうだ。確かに弟宮ならば天皇よりは気軽に大使との握手を撮影されそうな気はする。

 報道だけでは何がどう決め手になったのか分からないが、4月26日に東京のロシア大使館で開かれたシンポジウムのなかで、この写真に写っているのはやはり秩父宮であると断定する発表がなされたそうで。この写真は1935年4月7日に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀が日本訪問した際に秩父宮が横浜港まで溥儀を出迎えにいった時に撮影されたものと見られるという。確か昭和天皇はこのとき東京駅に降り立った溥儀を自ら出迎えていたはず。余談だが、溥儀の生涯を描いた映画「ラストエンペラー」では「日本を訪問する」とのセリフがあるのみで実際の日本訪問シーンは存在しないが、撮影はされていたらしく昭和天皇役に中国系俳優と思われる名前がクレジットされていて、この東京駅の出迎えシーンの可能性が高いように思っている(先日NHK衛星で若干尺の長い「ディレクターズ・カット版」が放送されたがこのシーンはやはりなかった)

 まぁそんなわけで、ゾルゲと秩父宮が同じ写真の中におさまっていても「歴史の面白い偶然」には違いないし、それが別にビックリするような新事実につながるってわけでもないのだが…ただ昭和皇室史にちょいと首を突っ込んでいると、「秩父宮」ってところにかえって歴史ミステリ臭を感じてしまうのでありますな。
 この写真が撮影された翌年の1936年2月26日、「二・二六事件」が勃発する。「昭和維新」の名のもとに陸軍皇道派による政権奪取を狙ったクーデター事件だが、この事件にはそこはかとなく「秩父宮」の影がちらつく。秩父宮が陸軍軍人となっていたこともあって、もともと陸軍内では軍に対する態度があいまいな昭和天皇よりも秩父宮に期待する声が少なくなかった(昭和天皇に男子がなかなか誕生しなかったことも一因といわれる。現天皇の誕生はようやく1933年のこと)。「二・二六」の主謀者たちの間でも秩父宮を後ろ盾に期待する空気があったとも言われ(一部将校に秩父宮と個人的につながる者も確かにいた)、さらに一歩進めて秩父宮自身が背後にいると本気で疑う向きも当時からあったようだ。事件勃発の直後、弘前にいた秩父宮は「陛下のお見舞い」を理由に特別列車で上京するが、途中の上越線の車内で「皇国史観」で知られる平泉澄と密会していたといい、上野に到着する前に車内で実質監禁状態に置かれ、トラックに乗せられて宮中に直行するなど、当人がどう考えていたかはともかく昭和天皇の周囲では本気で秩父宮の関与を疑う声があったことはこれらの状況証拠からうかがえる。おまけに二・二六の首謀者たちの処刑に当たって「彼らが『秩父宮万歳』と叫ばなかったか」という調査もあったという話まである(「叫ばなかった」という結果だそうだが)。これらの逸話からだろう、『仁義なき戦い』『二百三高地』等で知られ、『226』の脚本も書いている脚本家の笠原和夫「二・二六は壬申の乱だった」と断定していた(さすがに映画にそれは出さなかったが…)

 その「二・二六事件」の詳細な分析をしていたのがゾルゲである。ゾルゲと秩父宮の接点はとりあえず確認できていない。だがゾルゲ以外のソ連のスパイで秩父宮と接触していた人物はいた。スウェーデン貴族出身の女流作家「エリザベート=ハンセン」と名乗って1934年以後来日していたフィンランド人アイノ=クーシネンだ。彼女は貴族という肩書を利用して日本の上流貴族階級に食い込み、その過程で秩父宮とも接触している。ちょうどゾルゲと同時期に諜報活動をしていてお互いよく知っていたのだが、1937年にソ連に召喚され帰国している(そしてスターリンの指示で逮捕される)。このときクーシネンはゾルゲにも帰国を誘ったがゾルゲはスターリンの疑念を察してかこれに応じなかったという。ゾルゲグループが一斉に検挙されるのは1941年10月のことだ。

 単に秩父宮とゾルゲが同じフレームのなかにおさまってしまった、というだけの話なんだけど、こうした微妙なつながりを思い起こすと、なかなかに「歴史的一瞬」を写した写真なのだ。
 


◆20年の刑期を終えて

 映画「ダイ・ハード4.0」が公開されたのはもう3年前のこと。前作「3」から12年も間をおいた「続編」だった。これと前後して16年ぶりの続編「ロッキー・ザ・ファイナル」や、19年ぶりの続編「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルノ王国」が公開され、何やら「80年代ヒット作リバイバルブーム」みたいになっちゃったものだ。
 さて「ダイ・ハード2」は前作(1988公開)のヒットを受けてすぐさま製作され、1990年に公開されている。基本構造が前作とほとんど同じでビルから空港にスケールアップ、筋書きも二転三転でなかなか飽きさせないなど、「2もの」としては割とよくできた映画だと思う。そして見逃せないのが、「2」ではこの手の映画にしては踏み込んだ「政治的要素」があることだ。
 二作目のテロリストは元軍人、それもゴリゴリのタカ派連中だ。彼らは中米某国の実力者で麻薬容疑で逮捕されアメリカに護送されてくる「エスペランザ将軍」を「反共の闘士」と称えてその奪取と逃亡を計画し、その手段として空港機能を乗っ取り、一般市民の犠牲者すらも平気で出す。今にして思えば冷戦終結時の製作であり、「反共」を口実に中南米支配を進めたアメリカに対する反省・批判という姿勢が強く出たのかもしれない。なお、監督したレニー=ハーリンはフィンランド出身で(エンディングが「フィンランディア」)、そのことも映画のカラーに影響しているかもしれない。

 「エスペランザ将軍」はもちろん架空の人物だが、そのモデルが誰であるかは一目瞭然。パナマの実力者マヌエル=ノリエガ将軍だ。彼はパナマ軍の最高司令官までのぼりつめた有力軍人であると同時に、麻薬組織メデジン・カルテルとの関係も深く、アメリカへの麻薬密輸にも関わっていた。それと同時に50年代からCIAと結びついて中米の左派系国家のかく乱工作に協力していたとされる。1989年に自らパナマ大統領選に出馬したが落選確実と見てクーデターを起こして政権を奪取、ところがその直後にアメリカ軍がパナマに侵攻し、ノリエガ将軍を捕縛してアメリカに連れ帰った。この侵攻を実行したアメリカ大統領はブッシュ父で、彼がかつてCIA長官をやってた時代にノリエガと関係があったのではないかと当時あれこれ言われていたものだ。映画「ダイ・ハード2」は多分にそれらの背景を意識して脚本が書かれており、当時「赤旗」の映画評がこの映画を絶賛しているのを目にしたことがある(笑)。

 アメリカで裁判を受けたノリエガは麻薬密輸で有罪とされ懲役40年を課せられ(その後30年に減刑)、フロリダ州マイアミの刑務所に服役していた。刑務所内では模範囚だったということで懲役17年と大幅に減刑され、2007年9月にその刑期を終えたのだが、今度はフランス政府がその身柄の引き渡しを要求してきた。フランス側はフランス国内の銀行を使ってノリエガがマネーロンダリングを行っていた容疑で彼を起訴しており、欠席裁判で1999年に「禁固10年」の判決を下していたのだ。
 これに対してノリエガ側は「自分は戦争捕虜であるから釈放されたらパナマに戻るのが筋であり、他国に引き渡すのはジュネーブ条約違反だ」と主張し、法廷闘争を続けていたが、複数の連邦裁判所がその主張を退け、今年になってフランスへの引き渡しを認める署名をクリントン国務長官がしたことで、4月26日にノリエガはフランス行きの飛行機に乗せられた。そして現在、パリ市内のラ・サンテ刑務所において服役中というわけである。

 おお、欠席裁判で有罪にされた末にサンテ刑務所収監なんて、アルセーヌ=ルパンと一緒じゃないか(笑)。ルパンはこの刑務所から合計三回脱獄しているのだが、うち二回は政治的判断による超法規的措置によるもの。さすがに今のノリエガ氏では脱獄の手助けをしてくれる元軍人連中もいないだろうな。



◆こちらは40年以上

 ノリエガ元将軍がフランスに身柄を引き渡されたその翌日の4月27日、そちらほど有名ではないがある有名人とかかわりのある人物がニューヨークの刑務所から仮釈放された。その人物とはトマス=ヘイガン(69)で、あのマルコムXの暗殺実行犯だ。

 マルコムXについては1992年のスパイク=リー監督、デンゼル=ワシントン主演の映画で知った人も多いはず。1960年代の「公民権運動」の時代に、非暴力主義と白人との融和を説いたキング牧師とは対照的に、イスラム教に改宗して白人に対してかなり攻撃的な姿勢をしめしたアジテーターとして知られる。
 ただし映画でも描かれるが後に所属していたブラック・ムスリム団体「ネーション・オブ・イスラム」とは袂を分かち、メッカ巡礼をして単純な人種対立構図で問題をとらえることの誤りも悟ったとされ、その早すぎる晩年にはその攻撃性はかなり方向転換してキング牧師との共闘も模索していたとも言われる。もっともその直後の1965年2月21日にニューヨーク、マンハッタンの演説会場で聴衆に紛れ込んでいた刺客に狙撃されて命を落としてしまうので、マルコムXの思想変遷がどのように発展していくところだったのかは想像力をはたらかせるほかはない。

 マルコムXを暗殺したのは、彼がもともと所属していてその拡大に寄与したがケンカ別れする形になっていた「ネーション・オブ・イスラム」のメンバーだった。実際彼は脱退直後から同団体に命を狙われており、何度か暗殺未遂事件が起きている。ただマルコム自身はその死の直前まで自分の命を狙っているのは「ネーション・オブ・イスラム」自体よりもFBIやCIAではないかと疑っていたという(例の映画でもそのことがほのめかされる演出になっている)。同様のことはケネディ大統領やキング牧師など彼と前後して暗殺された人物にもささやかれていることだ。

 マルコムXの暗殺実行者は三名でそろって現場で取り押さえられている。タルマージ=ヘイヤーノーマン3Xバトラートマス15Xジョンソンの三人だ。いずれも「ネーション・オブ・イスラム」のメンバーで、どの名前も本来の名ではなく「教団名(ムスリム名)」である。マルコムX同様に「X」がついている者がいるのは、教団では黒人の戸籍上の姓がたいてい奴隷時代の主人の姓に由来することからそれを避けて「未知の者」という意味合いを込めて「X」を名乗ることにしていたためだ。マルコムも入信前は「マルコム=アール=リトル」と名乗っていた。
 この実行犯の三人のうち「タルマージ=ヘイヤー」というのが今回仮釈放されたトマス=ヘイガンだ。現在69歳とすると、暗殺実行の時点ではまだ24歳だったことになる(ちなみにマルコムは当時39歳)。彼は三人のなかでただ一人自身の罪を認めており、その動機について「マルコムが団体を批判することに頭に来てやった。団体からの指示は受けていない」と主張し続けている(今年3月の仮釈放の審議でもこう主張したという)。残りの二人は無罪を主張し続け、結局服役して80年代に仮釈放されているが、ヘイガンについては1966年に禁固20年から終身刑という判決を受け、実に40年以上にわたる服役を続けることになった。
 ただし1992年からは「刑務所に週二日通えば、あとは自宅から刑務所外へ働きに出て良い」というこちらはなじみのない監察処分みたいな形になっていた。それでも仮釈放申請は80年代からずっと続けていたが認められず、今回ようやく15回目(17回目とする報道あり)の申請で仮釈放が認められたとのこと。

 ただやはりマルコムXの支持者(信奉者)の間からは批判の声も上がっているようだ。当人は仮釈放審査のなかで暗殺については「深く後悔している」と語ったというが…。今後は薬物中毒カウンセラーとして働きたいと語ったという。


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