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2010年9月20日

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◆今週の記事
※前回に続き、7月〜9月初頭までのネタの詰め合わせです。


◆お墓発掘ネタ大連発

 1989年といえば昭和が終わって平成になり、手塚治虫が亡くなり、中国で天安門事件が起こり、ベルリンの壁が崩壊して、東欧諸国で革命が連発して冷戦が終結したという歴史的事件の「当たり年」。その東欧諸国革命はおおむね平和裏に社会主義政権が崩壊していったのだが、その中で唯一の例外がルーマニアだった。
 ルーマニアではチャウシェスク大統領による独裁体制が四半世紀にわたって続いていたが、周辺諸国の革命連発で一気に情勢が混沌となり、12月に入ってチャウシェスク政権が一気に崩壊、チャウシェスク大統領夫妻は12月25日に即決裁判の末に速攻で銃殺刑に処された。その模様が銃殺後の遺体も含めてテレビで世界中に流され、衝撃を与えたものだ。この速攻の処刑はチャウシェスクに忠誠を誓う秘密警察らの活動を先手を打って封じるためだったとも言われるが、一方で当人にあれこれまずいことを言われないうちに「口封じ」をしたものという見方も当時からある。処刑からしばらくは「チャウシェスク」といえば「独裁者」の代名詞、最たる暴君のように使われたものだが、他の国の独裁者と比べてどうだったんだろう、という声もささやかではあるが当時からあった(独裁ウンヌンとは違うが、ロサンゼルス五輪をソ連初め東欧諸国がボイコットするなかでルーマニアだけは参加して注目を集めたことがある)

 さて、このチャウシェスク夫妻の墓が7月21日に発掘されている。なぜか今ごろになって夫妻の実子が「墓に埋められているのが本当に両親なのか確かめたい」と要望したためだという。ということは、お子さんとしては両親の死に何か強い疑問を感じている、ということなのだろうか。処刑の映像もあるぐらいだから死そのものは疑いないとしても遺体がすりかえられた疑いでも抱いているのか…?とにかく病理学者らがDNAを採取して身元特定をするそうである(それから2ヶ月近く経ってるが続報は聞いてない)
 チャウシェスク夫妻の娘婿の話によるとチャウシェスク元大統領の遺体の方は保存状態良好だが、妻の方は埋葬場所が湿気の多いところだったため損傷が激しい、とのこと。20年経ってもそんなものなのか。


 その直前、今ごろ墓を掘り返された有名人がもう一人いた。19世紀に南米諸国を独立させ「大コロンビア」を建国した英雄シモン=ボリバル(1783-1830)だ。掘らせたのはそのシモン=ボリバルを敬愛してやまず、国名まで「ベネズエラ=ボリバル共和国」に変えてしまった良くも悪くも名物男(少なくとも「キャラが立っている」には違いない)チャベス大統領である。
 シモン=ボリバルはベネズエラの大農園主の家に生まれ、当時スペイン植民地であった南米の独立・統合を夢見て戦い続けて現在のベネズエラ・コロンビア・パナマ・エクアドルを含む「大コロンビア」を建国、さらにペルーやボリビア(彼の名に由来する)の独立も達成したものの、結局内紛で大コロンビアは分裂、夢破れたボリバルは失意のうちにコロンビアの港町サンタ・マルタで腸チフスにより死去している。ボリバルの遺体はサンタ・マルタに埋葬されたが、その後ベネズエラからの要請で遺体はカラカスに改葬されている。

 さてチャベス大統領がなんでボリバルの墓を発掘するのかと言えば、彼自身が「ボリバルは暗殺された可能性が高い」と考えているためだ。まぁボリバルはまだ46歳という若さで死んでるし、当時は彼の後継候補で暗殺された者もおり、可能性自体は否定できない。しかし今さら国家として真相調査委員会を立ち上げて墓の発掘までやってしまうというのがチャベス氏らしいというか…
 ボリバルの墓の発掘と彼の遺骨が姿を現す模様は国営TVで放映された。黒い布がめくられ遺骨が姿を現す場面ではベネズエラ国歌がBGMで流され、その後画面が暗転してチャベス大統領ご自身が国歌を歌っているお姿に変わったそうな(爆)。チャベス大統領はラジオ番組を自ら持ってて延々しゃべりまくることでも有名だが、近ごろ流行りのツイッターも始めており、尊敬するボリバルの遺骨との涙の対面の感激を「つぶやいた」のだそうで。
 チャベス大統領は「ボリバルはまだ生きている。死者とみなすべきではない」と発言しており、そこには自分自身をボリバルと重ね合わせようという意図も透けて見える。地下のボリバルも変な奴に目を覚まされちまったと霊界ツイッターでつぶやいているところではなかろうか。

 
 遺体を掘り出そうか、という話が却下された有名人もいる。西部劇時代の有名ギャング、ビリー=ザ・キッド(1859-1881)だ。この人については僕もサム=ペキンパー監督の映画で見た程度の知識しかなかったのだが、21歳でギャレット保安官に殺害されるまでに21人を殺害した冷酷な殺し屋とされる。もっとも実数はその半部ぐらいで、一度逮捕され脱獄、その後射殺という劇的な展開がマスコミで報じられたために有名になってしまったものらしい。彼の墓はニューメキシコ州に現存するが、墓石を削って持って行ってしまう観光客が跡を絶たないため現在は檻に入れられているとのこと(鼠小僧次郎吉とソックリだな)
 さてなぜか最近になってこのビリー=ザ・キッドの熱狂的ファンになってしまったというのがビル=リチャードソン・ニューメキシコ州知事。CNNが報じたところによると、なんとこの知事さん、ビリー=ザ・キッドに「死後恩赦」を与えることをマジで検討中だというのである!なんでもビリー存命当時の州知事がビリーに恩赦を与えることを検討していた事実が歴史家らにより指摘されているそうで(ビリー当人が知事に恩赦を求める手紙は残っている)、それなら今から恩赦をあげてもいいんじゃないの、とビリーファンの州知事さんがノリで思いついちゃったようなのだ(あるいは観光狙いでぶち上げたか)。ビリーを射殺したギャレット保安官の子孫の方は「ビリーはただの人殺しだ」として恩赦反対の嘆願書を提出してるそうで。
 で、このビリー=ザ・キッドにも「遺体は本人ではない」説があり、墓地から遺体を掘り出してDNA鑑定しようという計画もあったが、これは裁判所の許可が下りなかったという。地下の当人は今ごろ恩赦されても、とつぶやいてるかもしれないが。


 あらこんな人まで墓を掘り返されていた、と驚いたのが元チェス世界王者・ボビー=フィッシャー。東西冷戦のさなかの1972年にチェス世界選手権でソ連選手を破ってアメリカの国民的英雄となった人物だが、世界チェス連盟と大喧嘩してタイトル剥奪の憂き目にあい、しばらく消息が途絶えた。1992年に現役復帰しユーゴスラヴィアでかつて対戦したロシア選手とチェス対戦をして勝利するが、当時ユーゴがアメリカの経済制裁対象であったためにアメリカ当局から追われる「亡命」状態となり、またまた消息不明となってしまった。2004年に日本にフィリピンへの乗り換えのために立ち寄って成田で入管法違反で拘束され、日本の女性チェス選手との結婚を宣言(入籍はしてない)をして話題を呼んだこともある。最終的に2005年にアイスランド市民権を得て、2008年にアイスランドで64歳で死去している。
 さてこのフィッシャー氏には約200万ドルもの遺産があるという(円高の昨今だと1億7000万ぐらいか)。この遺産をめぐってアメリカにいる遺族と「結婚」した日本人女性との間で紛争になっているのだが、もう一人、フィッシャー氏と交際していたというフィリピン人女性が自分の9歳の娘を「フィッシャー氏との娘」と主張し、遺産相続に名乗りを上げていたのだ。それで去る6月にフィッシャー氏の遺体が墓から掘り出され、DNA鑑定が行われたのだが、8月になって判明した結果は「その少女とは親子ではない」というものだった。とりあえずこのフィリピン人女性については「チェックメイト」ということのようで。


 墓があるのは人間とは限らない。もちろん作るのは人間なのだが、「ペットの墓」という例はある。
 9月2日に宮城県教育委員会が発表したところによると、宮城県大崎市にある北小松遺跡から、縄文晩期にあたる約2500年前の「犬の墓」が発見されたという。墓は五つで6体の犬が埋葬されていた。食料にした他の動物であれば骨がバラバラで見つかるものだが、犬たちはきちんと全身がそろっており、明らかにペットとして(あるいは猟犬として)飼われ、丁重に埋葬されたものと推測されるそうだ。


 さて最後に日本史上の結構大物の墓の話。つい先日の9月9日に奈良県明日香村教育委員会が村内にある「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」についての調査結果を発表、これが7〜8世紀の天皇陵に特徴的な「八角形墳」であったことが確認されたと明らかにした。かねてこの古墳は飛鳥時代の女性天皇、皇極・斉明天皇の真の陵墓との説が研究者の間では有力であり、今回の発表を受けて「皇極・斉明陵墓説は確定」と報じたマスコミも多かった。
 皇極=斉明とは何者かというと、「大化の改新」で名高い中大兄皇子=天智天皇、および壬申の乱の勝利者である天武天皇の母親、といえばとりあえず中学生でも理解するだろう。彼女はもともと舒明天皇の皇后で、夫の死後女帝として即位したが、645年に息子の中大兄らによる蘇我入鹿暗殺を目の前で見せられることになってしまう。そのショックからか兄弟である孝徳天皇に譲位するが、孝徳が中大兄らに見限られて寂しく死んだあとで655年に再び即位した。確認される限り日本の天皇の「重祚(ちょうそ、退位した王が再び即位すること)」はこれが史上初のことで、彼女は二度即位したために「皇極」「斉明」の二つの贈り名があるという妙なことになっている(奈良時代の孝謙=称徳女帝も同様の例)
 660年に百済が滅亡すると、百済救援の軍を送ることを決定、女帝みずから九州まで出陣するという天皇史上でもかなり異例のことをしている(いわゆる「神功皇后の三韓征伐」伝説はこれが下敷きではとの説もある)。だが出陣の軍を見送ることなく661年7月に北九州の朝倉宮で亡くなった。遺体は飛鳥まで運ばれ、越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に葬られたと『日本書紀』にはある。665年に彼女の娘で孝徳天皇の皇后であった間人皇女が亡くなると、彼女も母親の陵墓に合葬されたとも記されている。

皇極斉明陵解決策 宮内庁が明治以来歴代天皇陵を指定して管理下に置き、発掘調査のたぐいをめったに認めないことはよく知られているが、その陵墓特定作業は江戸時代末に行われたものをベースとしており、学術的には大半が疑問視されている(さかのぼっても天智・天武陵あたりまでが正しいとされる)。以前「史点」でも書いたはずだが、宮内庁指定の「継体天皇陵」とは別の古墳が「真の継体陵」であることは学界ではほぼ常識となっている。
 今回の皇極・斉明陵もその例で、宮内庁が「皇極・斉明陵」と指定しているのは牽牛子塚古墳から2.5kmほど離れた「車木ケンノウ古墳」という円墳なのだが、学界では牽牛子塚古墳の以前の調査で「石の宮殿」「ピラミッド」とまで比喩される堅固な石造り、棺の上等さや石室を二つに仕切った合葬状況、女性の臼歯の発見(間人皇女のものと見られている)などからこちらこそ皇極・斉明陵であろうと有力視されていたのだった。今回の調査によりこの古墳が天智・天武と同じ「八角形墳」であること、墳丘の外側をブロック状の石が石畳のように敷き詰められていることなどが確認され、「ほぼ間違いなし」という声が多い、ということなのだ。
 宮内庁は例によって、墓誌など断定的な物的証拠が出ない限りは天皇陵指定の見直しはしないという意向。まぁうかつに天皇陵指定されないほうが調査しやすいとも言えるのだが。



◆イスラムネタ大連発

 上のお墓の話題もそうだが、しばらく書いてないとネタだけがたまってゆき、こうして「共通テーマ」でまとめて放出、ということになりやすい。今度はこの二ヶ月間いろいろあったイスラム関係ネタだ。

   7月16日、インドネシアでイスラム教徒の宗教規範などを決定する最高権威であるウレマ評議会が宗教令(ファトワ)を発し、「今年三月のファトワで祈りの方角は『西』としたが、正しくは『北西』である。西ではアフリカ大陸に向かって祈ることになってしまう」と発表した。「祈りの方角」とはイスラム教徒が一日五回の礼拝をする方向、つまり聖地メッカの方向であってイスラム教では「キブラ」と呼ばれるものだ。それが三月以来間違っていたわけで、数ヶ月間インドネシアのイスラム教徒(実は国別では世界最大の人口を抱える)はみんな祈りの方角を間違っていた、ということになっちゃうのだ。
 この話題、日本ではCNN日本語版サイトが軽く取り上げ、検索であたってみても結構多くの人がネット上で話題に取り上げていることが分かる。おおむねみんな「そんなことにも気付かないのか?」といったお笑いネタとして扱っている感があったが、僕はCNNの記事を見て以来釈然としないところもあった。インドネシアではもう何百年もメッカに向かって毎日礼拝してるはずなのに方角を間違えるとはどういうことなのか?それに今年三月になって結果的に誤っていたとはいえ方角を指定したとはどういうわけか?

 それでネット上で調べ出してみたのだが、一口に「メッカの方角」といってもなかなか面倒な話があることも分かってきた。サウジアラビア周辺国ならさして問題にならないのだが、丸い地球上、メッカから距離があればあるほど「メッカの方角」がどちらなのかというのは面倒な話になってくる。実際北米大陸に住むイスラム教徒の間では「メッカの方角」をメルカトル図法的に考えるのか、正距方位図法的に考えるのかという論争があるようだし、メッカから見て地球の反対側にいる人はどっちを向いて祈ればいいのかという問題もある。以前「史点」ネタにしてるが、マレーシアの宇宙飛行士が宇宙で礼拝をする場合メッカはどちらかという問題が起こり、マレーシアのイスラム法学者たちがわざわざ見解を出した、なんて話題もあった。
 それと、なまじ精細な観測が可能となった昨今だからこその問題だが、大地だってプレートに乗っかって常に移動している。年間数センチ程度の話とはいえ、「メッカの方向」に正確にこだわれば無視できない話ではある。特にインドネシアでは例の大地震もあったために所によっては移動が数十センチぐらいあり、それで各地のモスクからウレマ評議会に問い合わせがあったらしく、問題の3月のファトワはそれに対する回答として発せられたものらしい。そのファトワの英訳を読んでみたら、「メッカから東に位置するインドネシアに住むイスラム教徒は西に向かって礼拝すること」という内容が書かれていた。どうもこれは「メッカの東にある我が国では西に向かってすればいい」という、あくまで漠然とした回答なのでは?という気もする。そしたらうるさい人がいるので7月になって「北西が正しい」とわざわざ訂正を出したのではないかと。ちなみにどこかの英文記事を読んでみたらイスラム法学者の見解ではプレートの移動や地震による変動ぐらいでいちいち祈る方角を変更する必要などないとのことだった。
 また調べてみると、どうも7月中にメッカのカーバ神殿の真上に太陽が来る瞬間があるようで、その時刻に昼間である国では太陽に照らされた自分の影を見れば、その影と正反対の方向がメッカの方向だと分かる仕掛けで、時々それで「調整」をするようファトワが出るものらしい。今回の7月の「訂正ファトワ」もその例なのかもしれない。どっちにしても実はそう大騒ぎする話題でもなかったような気がするのだ。まぁあれで結構イスラム教ってのもアバウトさのある宗教でもあるので。


 イスラムと言えばこのところアメリカにおけるイスラム教徒の話題が多かった。とくに注目を集めたのは「9.11テロ」の現場、ニューヨークの世界貿易センタービル跡地近くのモスク建設計画の話題と、フロリダ州のキリスト教過激派牧師による「9.11コーラン焼却イベント」の話題だった。
 ニューヨークのモスク建設計画の方は計画の立ち上げ当初(昨年12月には新聞報道されている)は大して注目もされなかったようだが、中間選挙を控えて保守系政治家がからんできたことで一気にアメリカ全国的な論争のタネになってしまった。モスク計画の中心人物はテレビのインタビューで「こんな騒ぎになるなら建てるんじゃなかった」とぼやきつつも、当初はまるで反対の声もなかったのに騒ぎになったらアメリカのどこへ行ってもこの話題が持ち上がることに恐怖感を覚えたという趣旨のことも話していた。世論調査でも反対の声の方が6〜7割程度を占めるのだが、「テロ跡地近くにモスクを建てるのに賛成ですか」と聞けばそういう答えが多くなることは容易に予想でき、「調査の聞き方に問題がある」とこの人も言っていた。また、建設地移転の可能性にも言及しつつも、こういう状況になってくるとかえって簡単に撤退するわけにもいかなくなる、というようなことも言っている。撤退をすると「アメリカはイスラムに不寛容だ」ということを世界に証明してしまう結果になり、結局イスラム社会の反米意識が高まってしまうから、というわけだ。

 これとリンクする形にもなってしまった「コーラン焼却イベント」の方は世界的な大騒ぎとなったが、結局寸前で中止となった(ちょっとドタバタしたけど)。ただこれを実行しようとした牧師さんは以前から過激な騒ぎを起こしては注目を集めようとするタイプの御方らしく、マスコミの間では彼を大きく取り上げて世界的騒ぎを招いたことへの自省の声も聞かれていた。実際、この牧師以外でコーラン焼却や破り捨てを実行したバカが何人か出たようだが、イスラム社会がとくにこれに反応したという話は聞かない。
 アメリカ以外でも似たような話題はあり、確か7月中だったと思うのだが、フランスの首都パリで右翼団体が呼びかけた「反イスラムのソーセージデモ」(豚肉がタブーのイスラム教徒をからかう意図がある)なんてものもあった。イタリアのフィレンツェでもモスク建設の是非を巡って激しい議論になっている。

 一方でこの騒ぎのなか、アメリカ初のイスラム大学がカリフォルニアに開校、なんて話題もあった(CNN日本語版より)。カリフォルニア州バークリーにある「ザイツナ大学」というのがそれで、もともとイスラム神学校として運営していたものをこのたび大学として開校するということらしい。アラビア語課程とイスラム法・神学論の課程が用意され、第1期生は女性8人に男性7人の15人のみ。今後4年間で150人ほど学生を集め、「西洋の伝統の中でイスラム聖職者や専門家を育成、アメリカの各分野に人材を送り込む」という意向だそうで。
 今のところ大した議論にはなってないが、創立者は今後ニューヨークのモスク問題のようにこの大学も批判を受けるだろうと予想し、「(今の風潮では)イスラムは許容された標的。イスラムに対して偏見を持つことは政治的に正しいとされている」とコメントしていた。またこの大学開校はイスラム保守派の反発もあると予想しつつ、「これは正しい方向に向けた一歩になる」とも言っていた。

 バランスをとるために書いてるみたいになっちゃうのだが、イスラム教徒多数派の国にだって立場を入れ替えた宗教的マイノリティ排除の動きがある。インドネシアではイスラム強硬派「イスラム防衛戦線」によるキリスト教徒への襲撃・礼拝妨害事件が多発し、とくに今年に入ってから昨年の倍のペースでエスカレートしているとの報道もある。キリスト教国でのイスラム教徒へと排除の動きが出ると、こういう活動に火を付け、さらにそれへの支持が広がるという悪循環もある。キリスト教もイスラム教も本来「寛容さ」をウリにしているはずなのだが、現実にはかえって不寛容のタネをまいてるだけに見えちゃうのが残念なところ。


 トルコでは憲法改正の是非を問う国民投票が行われ、約6割の賛成票を得て憲法改正が実現した。現在のトルコ与党であるイスラム系政党「公正発展党(AKP)」のエルドアン政権が進めていたもので、1980年の軍事クーデター後に制定された憲法を改定する狙いがあった。エルドアン首相は憲法改正確定にあたって「わが国は自由と法治を肯定し、支配者の法を否定した。クーデター政権による統治は終わった」と勝利宣言を行った。
 トルコという国は国民の9割以上がイスラム教徒という国だが、その建国者で西欧化・民族国家化をすすめたケマル=アタチュルク以来「徹底した政教分離」を国是に掲げている。西欧的観点からみるとイスラム政党というのはおおむね保守的で非民主的というイメージになるのだが、この国においてはどちらかというとアベコベで、イスラム穏健政党がリベラル的立場に立ち、政教分離の「国体護持」を使命とする軍部、そしてこれと結びついた司法界がイスラム系政党を弾圧してきた歴史がある。とうとう政権をとった公正発展党だが、一時はその党の存在自体を司法界から非合法化されるところだったし、クーデター未遂の動きも何度か報じられている。
 今回の憲法改正の最大の主眼は司法改革で、軍事法廷の権限を縮小して軍人も一般の裁判所で裁けるようにする(80年クーデターの首謀者の免責特権も廃止)、憲法裁判所の判事増員と国会から判事が送りこめるようにするといった改革が行われる。要するに政権党にとって政敵である軍や司法界の権限の縮小を狙い、国会と政府の権限を強化する狙いがあると言われる。
 欧米系のマスコミを経由すると「イスラム化懸念」みたいなことばかりが叫ばれてる感があるが、少なくとも内容的にはまさに「民主化」といっていいだろう。このほか公務員の団体交渉権の容認、両性平等の促進(これはケマルもやってたことだが)、社会的弱者への保護措置といった条項も含まれており、トルコのもう一つの国是である「EU加盟」を目指す上ではプラスに見える。
 この憲法改正には世俗主義断固維持を主張する保守勢力が反対するのは当然として、クルド系政党も「クルド人の権利が認められてない」としてボイコットを呼びかけていた。直前の世論調査では賛成51%・反対49%とほぼ拮抗していた。ただフタを開けてみるとおよそ6割の賛成票があったわけで、ボイコット分を考慮しても予想以上の賛成多数だったと見ることができそうだ。


 イスラム教国といってもピンからキリまでなのが実態だが、厳しい国ではコーランやハディースに厳格にのっとったイスラム法が行われている国もある。とくにイスラム革命以来のイランがその例で、姦通罪では「石打ち死刑」が行われることでも知られている。体を地中に埋めて動けなくした上で石を投げつけて殺すというアレである。そして現在もある女性が姦通罪で石打ち刑の判決が出され、国際的な議論を呼んでいる。
 そもそも「姦通したら石打ち刑」というのはコーランにはまったくなく、元ネタは旧約聖書。旧約聖書はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒にとって共通の聖典でもあり、別に石打ち刑がイスラム特有のものというわけでもない。ただ現在実際の処刑法として採用しているのはイスラム諸国だけということではある。なんとなく今回の件もあって「姦通罪の石打ち処刑は女性だけ」というイメージが横行してる気がするが、調べてみると男女の区別はとくになく、実際アムネスティによるとイランでは2002年以降少なくとも6人が石打ち刑に処され、男5人に女1人の内訳だそうである(ただし現在刑が確定している人の内訳は男3女7らしい)
 今回石打ち刑が確定した女性は夫以外の二人の男性との性的関係をもち、さらに夫を殺害した容疑までかけられていて、最近それを「自白」する映像がTVで流されたりもしている。ただしその取り調べには疑問も多々あり、取り調べでの「自白」も脅迫や拷問によるものとして本人が公判で撤回し、容疑を否認している(あれ、どっかで聞いたような…という話題は下の記事で)。判決でも五人の裁判官のうち2人は無罪と判断したというから(過半数が有罪と言えば有罪になるそうだ)、イラン国内でも微妙なところだったのだろう。実際、「すぐにも執行か」と何度か報じられたが今のところ動きはなく、イラン政府も国際的な反対の声一定の配慮をしている感もある(ブラジルが身柄の引き受けを申し出てもいるが、イラン側は拒否している)

 ただ建前論を言うと、法の執行はそれぞれの国の国内事情によるものであり、よその国の人間が口出しをするべきではない。僕自身は死刑には消極的反対だし、イランの現体制がいいとはちっとも思っていないが、どうも欧米でこの手の話で盛り上がるのを見ていると「イスラム」「女性」「石打ち」「イラン」というキーワードがつながって文化的・感情的な敵視気分(それは「自分たちこそは正義」と振りかざすことでもある)を感じて正直あまり感心しない。日本に対してクジラやイルカの話で盛り上がるのにかなり似たものを感じてしまうのだ。だからイラン側もよけいに態度を硬化させてしまうし、8月にこの女性の弁護士が政府の圧力に抗しかねて亡命を余儀なくされたのもその流れの結果であったようにも見える。イラン民主化問題でもそうだが、かえってイラン国内のリベラル勢力を追いつめることになってやしないだろうか。
 フランスのサルコジ大統領夫人カーラさんが、ウェブサイト上の書簡でその石打ち死刑囚の女性に向けて「私の夫があなたの言い分を確実に訴えていく。フランスはあなたを見捨てない」と呼びかけたことに対し、イラン保守系新聞が「フランスの売春婦が人道騒ぎに介入」とか見出しをつけて騒いだという。まぁカーラさんの経歴については今度暴露本も出るぐらいでそれこそ石打ち刑にされかねないものなのだが、僕などは「まず旦那さんの人権侵害をなんとかせい」と言いたくなってしまう。



◆事件は取調室で作られる

 最近韓国時代劇をいろいろ見ているという話題を前回書いたが、どの時代でもよく出てくるのが「拷問」シーンだ。日本の拷問というと「石抱き」が有名だが、韓国時代劇に出てくる拷問は古代も近世もみんな「椅子に縛りつけて棒で両脚を外側へよじらせる」という描写になっている。実際どんな風にやってるのか見ていてもよく分からないのだが、とにかく苦痛なのは確からしい。だから有罪無罪も関係なく拷問にかけられることが決まった時点で「有罪」確定である。痛さを逃れようとウソ白状するだけでなく、痛さのあまり気絶したところを事前に作成しておいた「自白状」に手印を押されてしまうというシーンもあった。

 いきなり話題が変わるが、最近ある有名漫画家が某テレビ局の密着取材ドキュメンタリー番組に取り上げられ、そのディレクターのあまりにも強引な取材方法に激怒し、製作途中で取材拒否をするという騒ぎがあった。ドキュメンタリーといっても一定の「やらせ」があることはこの漫画家さんも承知の上で許容しているのだが、そのディレクターが事前に作った「ストーリー」(しかもどうもその漫画家に対してまるっきり無知であったとしか思えない)に沿った発言や演技をするよう強引に誘導されたことに堪忍袋の緒が切れたということらしい。ご本人が漫画でその顛末を書いているのを見たが、とにかく取材対象である当人が何を言っても、そのディレクターの意に沿うことを言うまで絶対に許してくれないのかと愕然とした様子が印象的だった。

 全然無関係そうな二つの話題を並べてみたが、今回無罪判決が出た村木厚子・厚生労働省元局長の事件について僕は上記二つの話を連想したのだ。
 さんざん報じられたから細かく説明する必要はあるまいが、事の発端は障害者団体に適用される郵便割引の不正利用事件だ。その障害者団体の証明書を虚偽と分かっていて発行したとして厚生労働省の係長が逮捕されたのだが、大阪地検特捜部は「こんな大がかりなことを一係長でやれるはずがない」ということで、それが村木元局長の指示であり、それがさらに民主党の有力議員の働きかけによるものだった――という「ストーリー」を作りあげ、昨年6月に村木元局長の逮捕に踏み切った。
 だが僕も覚えているが、当時からこの逮捕の報道にはいつもに比べると微妙な空気が流れていたように思う。今回の無罪判決を受けて毎日新聞で自社の報道検証をしていたが、もともと厚生労働省を取材して村木元局長をよく知っていた記者が「そんなことをするはずがない」として検察取材記者と激論となり、結果的に逮捕された当人の主張をかなり入れた記事になったという顛末が明かされていた。検察取材記者といえば、村木元局長は無罪判決後の手記の中で、逮捕前からマスコミ記者たちが仕事先や自宅に押しかけており、どうも検察側が情報をマスコミに流しているのではという疑念を持ったと書いていた。事件記者が情報源である警察・検察の主張をそのまま流してしまう問題は大昔から指摘はされていて、今回も少なからずそうだったのだが、それでも僕は「微妙」な匂いを感じざるを得なかった。逮捕を受けて当時の上司である舛添要一厚生労働大臣(当時)がかなり慎重な物言い(むしろ彼女自身を高評価した表現をした)をしていたのも印象に残っている。その後明かされた話によると大臣はじめ省内では最初から「冤罪」という見方がかなり強かったようである。

 検察の取り調べの模様も本人の口や手記からかなり明かされた。これがまさに上記二つの「連想」をさせるものだったのだ。すでに他の事件でもさんざん指摘されているが、警察や検察の「取り調べ」なるものは取り調べにかかった段階ですでに「ストーリー」が出来ており、それにそった調書も事前にほぼ出来上がっていて、あとは当人が何を言おうと「この通りだよな」と被疑者に認めさせるだけなのだ。そしてその被疑者に認めさせるためのテクニックとして、もう手段を選ばない作戦がとられがち(当人が否定すればなおさらひどくなる)。志布志事件でも話題になったが「認めないともっとひどいことになるぞ」と脅したり、家族をダシにした精神的拷問、「他の容疑者は認めてるぞ」とそんな事実もないのに相手を絶望に落し込もうとしたり、あげくに「認めても執行猶予ですみますよ」と誘導する。これらが今回も一通り出そろっており、あれだけ批判されてても全く変化がないことがよく分かる。
 村木元局長の手記を読むと、彼女の取調官はまだおとなしいほうだったのだろうか、「調書は検察の作文」であることを取り調べ中にあっさり認めてしまったそうだが、その「作文」に本人に全く覚えのない話がズラズラあったというんだから驚く。それでいて「執行猶予で済むんだから認めてください」と泣き落としで来た日には村木さんもさすがに怒りで涙が出たという。村木元局長の指示を調書では認めた元係長もその調子で責め立てられて調書にサインしてしまっているが、それを強く公開し公判では徹底して調書の内容を否定した。つくづく日本ではいったん捕まったらそれだけでアウトなんじゃないかと恐ろしくなったものだ。今だから書くが、今年の2月13日付「史点」の「裁判ばなし三連発」の最後に「この手の話は今だって健在だし、それが今も国外や他人事とは限らないということは常に頭に入れておいた方がいい」と書いたのは、実はこの事件のことが念頭にあったのだ。

 もう一つ気になるのが、この「ストーリー」作りに政治的意図がなかったか、という点だ。結局アリバイが証明されることになるのだが、特捜部は最終ターゲットを民主党の有力議員に絞っていた節がある。アリバイにしても事前に調べることができたはずなのにわざと調べなかった可能性もあり(選挙前の段階で深入りしないようにしたとも見えるが)、あの余りにも杜撰な捜査と起訴過程は政権交代のピンチという時期に当時の政権から何か圧力があったか、あるいは勝手に功を焦った検察トップが強引な指示をしたようにも見えてしまうのだ。その少し前に問題が表面化した小沢一郎元民主党代表の疑惑にしても慌ててやった感が強く、少なくとも検察段階では彼の起訴すらできない結果となっている。
 思い返すと自公政権成立後、加藤紘一辻元清美鈴木宗男田中真紀子……とその時の政権にとって目障りになった政治家に秘書やら事務所費やら何やらで疑惑が持ち上がり、失脚に追い込まれるパターンが続いている。もちろんその全てが全くの冤罪というつもりはないが、どうも捜査する側に捜査対象を意図して選んでる姿勢が感じられるのだ。鈴木宗男との絡みで逮捕され、現在評論家として活躍中の元外務官僚・佐藤優氏は取り調べ担当の検察官から「これは国策捜査。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要」と言われたと著書で明記し、彼らに遵法精神はないとまで書いている(まぁ僕はこの人の言ってることは面白いとも思いつつ、ところどころヘンだとも感じているが)。鈴木宗男氏自身の著作でも「国策捜査と言われればその通り。こちらは権力を背景としておりますので」と開き直った検察官がいたという話しがあった。
 それ以前だと細かい個人スキャンダルの類が週刊誌ネタなどにされるのが定番だったが、どうもこのところ特捜がらみが多い気もする。有罪にならないまでも政治家としてのイメージダウンは間違いなく与えられるわけで、多少杜撰な捜査でも起訴しちゃえばこっちのもの、という気分なんだろうか。
 
 今度の判決の直後にも北九州で起きた看護師の「爪はがし事件」に逆転無罪判決が下りたが、ここでも警察により被疑者の意に沿わない調書が作られ、それにサインするよう誘導があったことが判決でも指摘されている。このところ警察・検察の調書をうのみにせずその取り調べの実態を吟味する判決が続いてるのは大いに結構なのだが、ふとこうも思うのだ。それって裁判官も「政権交代」を受けて時の政権の意向に沿おうとしてるだけなんじゃあるまいか、と……

<2010年9月21日追記>
 この記事をアップした翌日、村木元局長の捜査に当たっていた大阪地検特捜部の主任検事が、証拠品として押収したフロッピーディスクの内容(日付)を検察の「ストーリー」に沿うように改竄した疑いが一斉に報じられ、大騒ぎとなっている(当人が前日に改竄を認めた)。この証拠は結果的に裁判では証拠提出されなかったのだが、まさに「事件は作られる」ことを証明した形だ。村木元局長が報道を受けての記者会見で言ったように、「本当に彼一人の思いつきの行為なのか」を厳重に検証する必要があろう。
<同日10時の追記>
 そして夜に入り、問題の主任検事は証拠隠滅容疑で逮捕された。その異様な素早さはかえって憶測を招くような…



◆そして夏は恒例の

 夏と言えば、「戦争」関連話は風物詩のようなもの。必ずしも戦争関連ばかりではないのだが、今年の夏にあった近代史関連をまとめてみた。だいぶ遅れてしまったので、さらりと書いてしまおう。

 8月6日は広島に原爆が投下された日。今年の平和祈念式典には初めて潘基文(パン=ギムン)国連事務総長が出席したほか、初めて投下した当事国であるアメリカのルース駐日大使も出席したことが注目された(イギリスの駐日大使も初参加)。当然だが別に謝罪するとかそういったことは一切なかったが、「核兵器を使った当事国として核廃絶を目指す」と宣言したオバマ大統領の姿勢の現れであるのは間違いない。ただ9日の長崎の式典には出席せず、このあたりにアメリカにとってこの問題が結構デリケートであることがうかがえる。
 オバマ大統領自身の広島訪問も取りざたされているが、例によってその手のことではアメリカ国内で批判も根強く、今回の駐日大使の出席についてもエノラ=ゲイ号の搭乗員遺族などから批判の声があがっていた。オバマ大統領はAPEC出席で来日するのだが、一時広島訪問を模索したものの選挙もあるのでとりあえず見送りの様子。あるとしたら再選された場合のことではないかとの観測も出ている。


 8月10日には日本の菅直人総理大臣により、いわゆる「韓国併合100年談話」が発表された。かつては「日韓併合」という言葉の方が使われ、僕もそれで習った世代なのだが、最近の歴史教科書では「韓国併合」と表現されるのが一般的。当時の条約も「韓国併合に関する条約」という名前なのだが、今回の「菅談話」では「日韓併合条約」という表現が使われていた。
 僕も談話を読んでみたが、まぁ内容的には当たり障りなく、こんなものかな、という感想だった。これまでの政府見解から特に強く踏み込んだとも思わないが、総理大臣談話だけにそれなりの重みはあり、実際韓国側の受けもそう悪くなかったように思える。それでも気に入らない人は日韓双方にいるわけで、あれこれ騒いでる連中もいるにはいるが、仮に今年も自公連立政権だったとしても似たり寄ったりの文面になっただろうと僕は思っている。
 ちょっと注目したのが、「朝鮮王朝儀軌」をはじめとする日本が持って来ちゃった文化財の「お渡し」に言及した点。韓国側が「返還」と訳したことにまたあれこれ騒いでる人たちがいたが、まぁ客観的に見れば「実質的返還」だろう。しかしこんなものまで持ってきていたんだなぁ、とまず僕は思った。「朝鮮王朝実録」を持って来ちゃって関東大震災でパーにしてしまうというバカな実話があるのは知っていたのだが、幸いこれは今日も無事だったようだ。
 実はこの「儀軌」、フランスも江華島を攻撃占領した際にかなりの部分をかっぱらっており(戦闘そのものは珍しく敗れている)、ある意味では植民地化よりも乱暴な強盗行為を平然とやっていたことになる。1990年代にミッテラン大統領が一部の返還を表明して「徽慶園園所都監儀軌」の上巻を韓国に引き渡したが、フランス国立図書館が猛反発して下巻は返さなかった。しかもこの件はフランスが韓国に高速鉄道TGVを売りこむ取引材料だったとの疑惑も取りざたされている。その後シラク大統領の時代に「韓国側の同等レベルの文化財と交換」という合意がなされたこともあったが、これも両国で反対意見が出て、いまなお係争中とのこと。この手の話はフランスと韓国のみならず、ヨーロッパと旧植民地国の間ではしばしば物議を醸すが、いったん手に入れた方はなかなか返さないのが現実のようだ。このフランスの姿勢を引き合いにして菅談話を叩くという文章も見かけたが、僕としてはこういうフランスの姿勢に倣いたくはないものだ。


 そして8月15日、毎年話題になる「靖国神社」では1985年の中曽根康弘総理大臣の公式参拝で政治問題化して以来、初めて閣僚が一人も参拝しなかった。もっとも2007年の安倍晋三内閣の時にそうなるはずが、一人「抜け駆け」が出たんだよな。
 さてその前日の14日、靖国に珍しい参拝者が現れた。それもすでに「史点」に何度も登場しているキャラである。フランスの極右政党「国民戦線」の当主、ルペン氏だ。日本の新右翼団体「一水会」の招きでルペン氏はじめイギリス、オーストリア、ハンガリー、ベルギーの右翼団体の人物らが靖国参拝を行ったのだ。右翼というだけでなく外国政党党首の参拝自体が初めてだという。参拝後、ルペン氏は靖国にA級戦犯が祭られていることついては「戦犯というのは勝った側が勝手に決めること」として「重要なのは祖国防衛のために命を落とした人々の善意だ」として合祀については問題なしとし、自身の参拝については「フランスの凱旋門下の無名戦士の墓やアンバリッド(パリにある廃兵院)の礼拝堂と同じ。戦火に倒れた不幸な兵士に敬意を表したい」として問題ないとした(もっとも一般兵士はともかく、A級戦犯の人たちというのは戦争指導の罪を問われたのであって戦火に倒れたわけではないのだが)。ただ当時フランスは連合国側だったわけで、日本の行為を正当化するわけではないとも言ったようだ。

 ルペン氏、都内の講演でもやっぱりイスラム系移民の排斥を叫んでいたそうで。靖国神社側も好意的な感想を漏らしていたけど、正真正銘の外国の「極右」に参拝されるっていうのは靖国神社を持ち上げる人たちにとっても実は直後の感想と裏腹にマイナスな結果を招くような気がするなぁ(一応建前は靖国を右翼の聖地にしたくはないはずなので)。「一水会」といえば有名なインテリ右翼で、他の右翼団体と一線を画し(それどころか主張自体は共産党に近い)、今回のヨーロッパ右翼を招いたのも、「世界平和をもたらす愛国者の集い」というイベントのためで、靖国参拝は問題提起として勧めたのだと思われるが、かえってよけいに「色」をつけちゃった気がしなくもない。
 ところでフランスの極右と言えば、8月の同時期に村上隆氏のオタクアート展をベルサイユ宮殿でやることに猛反発してあれこれ活動を起こしていたが、あれは国民戦線とは無関係なんだろうか。


 日本では8月15日を「終戦の日」と認識しているが、ポツダム宣言の受諾自体は8月14日のうちに決定、通告されていて、一般への発表が15日だった。だが日本軍への停戦命令が出されたのは8月16日で、戦艦ミズーリ上で日本代表が降伏文書に調印して正式な意味で戦争が終わったのが9月2日だ。このためアメリカはじめ多くの国で9月2日を対日戦勝記念日とするのだが、面白いことにお隣中国・台湾ではその翌日の9月3日が戦勝記念日。これは当時の中華民国が降伏文書調印の翌日から戦勝記念休暇をとったことに由来するそうで、調べてみたら旧ソ連でもスターリン時代は9月3日を記念日にしていたらしい(その後形骸化しソ連崩壊後消滅)。しかし同じ社会主義国でもベトナムは9月2日をもって独立宣言を行ったため9月2日が「国慶節」とされている。
 ところで7月にロシアでは議会が9月2日を「第二次世界大戦終結の日」とすることを賛成多数で決定している。この件は日本では産経新聞がやたらはりきって(冷戦時の熱気を思い出したか…)報道していたが、これは北方領土を抱えるサハリン州の10年以上にわたるはたらきかけの結果なのだそうだ。ソ連崩壊後、当時のエリツィン大統領は日本政府と「2000年までに平和条約」という方針を示し、その前提として北方領土問題を解決するかもしれないという空気があり、サハリン州がそれを懸念して記念日復活を働きかけていたという。1998年にいったん9月3日を「対日戦勝記念日」とする法案が下院を通過したが、エリツィン大統領が署名拒否してポシャっている。その後のプーチンメドベージェフ大統領両大統領もこの件にはあまり乗り気でなかったらしく、ここまでずるずる延びていた。
 結局終戦65年目の半端な節目の今年になって制定にこぎつけたわけだが、調印日の「9月2日」となり、記念日の名前も日本関連を一切外し、また祝日でもなんでもない単なる「記念日」となった。日本での扱いが小さかったのもそのせいと思われるが、ロシア側(特にサハリン州)が「9月」を強調する背景に、ソ連軍による千島列島侵攻・占領が8月15日以後から9月初頭にかけて行われている事実の是非問題があるのも確かだろう。


 最後に今年の夏、僕の印象に深く残った新聞広告について。
 確か8月15日の日経新聞だったと思うのだが、紙面下にデカデカと「大日本帝国陸海軍・特攻隊短刀護国刀」の通信販売の広告が載っていた。もちろん本物のわけはなく模造刀なのだが、「護国に殉じ、桜華と散った英霊を偲ぶ鎮魂作品」「終戦65年、この短刀を懐に散華された6000名の英霊に捧ぐ」だとか、まぁその筋が好きな方にはたまらない宣伝文句が大きく踊っていた。ところが細かい文章を読んでみると、なんだか様子が怪しくなってくる。「一撃必殺を目的とした、一切の虚飾を廃した清冽ながら凄みのある刀姿は特攻隊員の勇姿そのものといえよう」(太字も含めて原文ママ、以下同)と書いておきながら、「しかしそれは「諸君だけを征かせはしない。自分も必ず後からつづく。」と言いながら、特攻作戦をマンネリ化させたため簡素な短刀を大量に量産せざるを得なくなったという背景による。この簡素な短刀を嬉々として抱いて出撃した特攻隊員の純粋な魂本作品からは伝わってきて、手に取るだけで涙を禁じ得ない。」と、なんだか特攻作戦批判めいた文章になっていくのだ(笑)。
 その後を読むと話しがこうなって来た意図が分かって来る。「ご尊家でいつまでも護国に殉じた特攻隊の英霊を偲べるよう菊水紋入りの刀掛をセットした銀座国文館だけの特別鎮魂作品。日本刀の刀匠により当時の実物を忠実に復刻したにもかかわらず。わずか一八、〇〇〇円での販売が可能であった。いかに当時の軍が特攻隊員の人命を軽視していたかを表すものだろう」……うわぁ、最後は完璧に特攻作戦批判になっちゃったよ(爆)。いや、書いてる側はそんな作戦に命を落とした特攻隊員はエラい、って論法のつもりなんだろうが(この妙にひねくれた悲壮感を好む日本人は結構多いよね)、その論法を「こんなに安いですよ!」という通販の殺し文句につなげるところが、ある意味特攻隊の本質を表している気もしてついつい大ウケしちゃったのである。ほんとに靖国の英霊が化けて出そうな広告だなぁ、と。


2010/9/20の記事

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