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2010年9月14日

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◆今週の記事
※あれこれと多忙だったり書く気が失せたりしていたせいで、二ヶ月以上ネタをためこんでしまいました。7月〜8月の話題をまとめて放出します。次回も同様で、なるべく早くします(^^; )


◆私の愛したスパイ大作戦をロシアより愛をこめて

 「007」シリーズが不況による資金不足で新作の製作が先送りにされてしまっているため、映画関係者が代わりに仕掛けたイベントなんじゃないか、と思ってしまったほどの冷戦時代を思わせる古典的な「スパイ大作戦」の発覚が米英マスコミをにぎわせている。明らかにみんな楽しんじゃってるよな(笑)。日本ではよその国の話ということもあってそれほど大きく取り扱われていなかったが、過去スパイネタを好んで取り扱ってきた当「史点」としてはいろんな意味で今度の事態を興味深く見守っていたのだ。

 ロシア人スパイ11人がFBIから一斉に逮捕状がされたのは6月27日のこと。同道によると容疑は「司法長官への断りなく外国政府のスパイとして活動した罪」だそうで(断りを得ればいいのだろうか?(笑))。彼らの行動は昨日今日判明したものではなく数年前から当局にマークされていて、6月末にそのうち一人が出国すると判明したため急遽逮捕に踏み切ったのだという。オバマ大統領がスパイの一斉摘発を決定したのは6月11日の段階だったそうで、その後サミットへ出席するついでにアメリカを訪問したメドベージェフ大統領とホワイトハウスで会談したり、近くのマクドナルドに入って一緒にハンバーガーをほおばったりして友好ムード演出をしていたその裏でこんな話が進んでいたというわけなのだった。もちろん公にされてないだけでひそかに両大統領の間でこの問題が話し合われた可能性はあるのだが…

 摘発された10人は素直にさっさと各地の裁判所に出頭している。キプロスに出国していた一人だけがいったん地元当局に拘束されたものの保釈された直後に逃亡している。スパイ容疑をかけられた人物の中には20年以上前からスペイン語新聞のコラムを担当している女性もいたほか、なんといっても父親は元KGB、イギリス人男性と結婚してイギリス国籍をとり(その後離婚。その男性のインタビュー記事はずばり「私を愛したスパイ」と題された)、女性実業家としてアメリカで活躍しつつフェースブックなどで写真や動画で妙に露出度が高かった「美女スパイ」ことアンナ=チャップマン(28)が大変な注目を浴びた。007最新作でメインのボンドガールがボンドと色恋沙汰ゼロだった反動か(笑)、英米ではこの「本物の美人スパイ」をめぐってえらいフィーバーになってたそうだ。英米だけではない、彼女の出身地ボルゴグラード(旧スターリングラード)では市民団体が「彼女は英雄都市ボルゴグラードに肯定的なイメージをもたらすのに貢献した」として名誉市民称号を贈ろうと提案している、なんて話題もあった(笑)。
 帰国したスパイのみなさんはプーチン首相に招待されてその「活躍」を賞賛された、という報道もあったが、なんかスパイにしてはやってることがあけっぴろげすぎるような。考えてみればそもそもプーチンさんがKGBの出身だったな。 

 発表されている限りでは、彼らスパイ団が盗み出した情報は大したものではなかったらしく、それもあってこのスパイ団摘発騒動は「007」が一番面白かったころの冷戦時代へのノスタルジーを感じさせるばかりで、みんな「ネタ」として楽しんじゃった感もある。外交的にも米露による「スパイ交換」という形での手打ちとなったことも穏やかかつ「古風」だ(「スパイ交換」という手打ち方式は早くも6月11日のオバマ大統領出席の協議で決まっていたという)。交換の地が昔からスパイ暗躍で名高いオーストリア・ウィーンであったこともその「古風さ」のとどめとなった。なお、今度のスパイたちと交換でロシアから釈放された「西側スパイ」とされる人たちは英米では「無実なのに政治的に捕まった人たち」として支援運動もあったそうだが、「交換」されてしまったことで少なくとも形の上ではスパイ活動を認めてしまったことになり、支援者たちはやや戸惑い気味らしい。まぁ「スパイ」を「情報収集・提供者」として広く定義すればどこの国でも多かれ少なかれそういう存在はいて(実際僕の友人の範囲にも「広義のスパイ」を自称していた男がいる)、とくに珍しいものでもない。「孫子の兵法」の昔からスパイの重要性は常識にされてましたしね。
 
 報道によると今回摘発されたロシアスパイ団は1990年代から活動しており、路上でのバッグ交換、資金を公園に埋める、喫茶店からノートパソコンで店の外のミニバンに情報送信といった、実に古典的なやり方で情報収集をしており、おまけにそれらがほとんどCIA・FBI側に数年前からバレていた。このくだりを読んでいてデジャブを感じたので「史点」を振り返ってみたら、2001年2月26日付「史点」で「スパイやってたFBI職員」という記事でやっぱり「公園に埋める」という古風なテクニックの件に触れていた。さらにこの直後の2001年4月1日付「史点」では「米露スパイ暴露合戦!」という記事も書いていて、まぁ10年にいっぺんぐらいお互いにやってるイベントということのようだ。

 ところで、このニュースが流れる直前の6月26日、スパイネタ好きの「史点」作者としてはついつい反応してしまうニュースがあったのだ。それはイギリスの新聞「ガーディアン」が報じたもので、イギリス国立公文書館がこのたびイギリスとアメリカの情報機関が1946年3月、つまり第二次世界大戦終結間もない時点で「情報の共有」を約束する協定を結んでいたことを示す文書を公開した、というものだ。
 イギリスとアメリカの情報機関というと007ことジェームズ=ボンドが所属する「MI6」、その友人でシリーズにしばしば協力者として登場するフェリックス=ライターが所属する「CIA」とがまず思い浮かぶが、今回協定文書が公開されたのはイギリス政府通信本部「GCHQ」とアメリカ国家安全保障局「NSA」との関係だ。この両者は主に国内の手紙や電話など通信手段を通して情報収集を行う組織で、近年ではもちろんネット上の監視も行い、さらには実態は不明ながら「エシュロン」なる大規模な情報収集のネットワークを持っているとも言われる。両者がこの時期に協定を結んだのはもちろん早くも「冷戦」を開始していたソ連への対策ということだろう。
 今回イギリス公文書館は1946年から1949年にかけてのGCHQの詳細な活動についても初めて公表した。諜報活動の大将は国内の政治家・軍人・宗教家・一市民にいたるまで多岐にわたり、地方政治家が中央政府を「ろくでもない」とののしっている会話や市民が貧困を嘆く会話の録音、手紙の内容読み取り記録などまで行っていたことが明らかとなった。それらがどれほど国家防衛に役だっていたかは知れないが…

 さて、そんなこんなで更新を二ヶ月さぼっているうちに「MI6」がらみの新たなニュースもあった。ロンドン市内の自宅でMI6に所属する男性が変死体で発見されるという事件が起こったのだ。当初スパイがらみではないような報道がなされていたが、ここにきてだんだん微妙になってきたみたいで……



◆「アンポハンタイ」から半世紀

 今からちょうど半世紀前の1960年といえば日本は「60年安保闘争」の真っ最中。今では考えられないことだが、国会議事堂を学生を中心とするデモ群衆が取り囲み、新安保条約反対と、野党議員を警官隊に排除させてまで条約承認を強行した岸信介首相の退陣を叫んだ。国会前では機動隊とデモ隊の壮絶な衝突が起こり、樺美智子という女子学生が死亡したことでも日本現代史に深く記憶されている(当時毛沢東までがその名を口にしている)。彼女のケースは恐らく政治的デモで死亡者が出た日本史上唯一の例であり、外国の例からすればずいぶん人が死なない「おとなしい」騒動だったという見方もあるが…。ほぼ三ヶ月前の今年6月15日が彼女の50年目の命日で、ささやかに話題になっていた。
 この60年安保闘争がなんであんなに「盛りあがった」のかといえば、まず新安保条約がそれまでの日米安保条約よりも日本側がより対等にアメリカに協力する内容が含まれており、まだ戦後15年しか経ってない冷戦まっさかりの頃ということもあって「日本が戦争に巻き込まれる」という危機感を感じる声が少なくなかったこと、岸信介首相が戦前の有力官僚出身(「満洲国は私の作品」と言った人である)で、東条英機内閣の閣僚として一時A級戦犯容疑者とされたことへの警戒感(もっとも岸自身は東條とはそりが合わなかったようで倒閣行動もしている)、そしてこの時の強行採決のように手段を選ばぬやり方(右翼やヤクザを動員、未遂に終わったが自衛隊の治安出動すら実行しようとした)に「民主主義の危機」を感じたこと…などなどが挙げられる。とくに安保条約そのものよりも「岸」個人への嫌悪感が強く出ていたとの指摘もあり、結局条約承認を実現した直後に岸は退陣、それでなんとなく「闘争」そのものがあっさり潮を引いてしまったところにもそれが現れているように思う。
 まぁともかく、このとき国会周辺での「安保反対」のプラカードとシュプレヒコールは日本中を席巻し、なんと岸首相の自宅の中でも「アンポ、ハンタイ!」と叫んで走り回っている人がいた。のちに首相となる当時5歳の孫・安倍晋三クンである(笑)。もちろん意味も分からず叫んでいたわけだが、身内からもこれを言われて岸首相当人も内心穏やかではなかっただろうと確か当人も言っていた。


 さて政権交代による変化の一つとして、今年から外務省では、作成より30年が経過した未公開文書を原則公開することを決定した。その適用の第一号として、7月7日にこの1960年の日米安保改定時の日米間交渉記録が公開された。そこで明らかになったことは、当時の岸首相をはじめとする日本側が日米安保の適用範囲をめぐりアメリカ相手に意外にしぶとい交渉をしていたという事実だ。
 そもそも「日米安全保障条約」とは、1951年の「サンフランシスコ平和条約」で日本がアメリカをはじめとする諸国と講和を実現して「独立」を回復した際に、「軍隊のない日本をアメリカ軍が守ってやる」という理屈で同時に結ばれた条約(結んだ吉田茂は「えさ代向こうもちの番犬」と強がったそうだが)、アメリカ軍が日本に基地を置いて駐留する根拠となった。そしてこの時点ではこの条約の適用範囲、つまりアメリカ軍が行動を起こす範囲については「極東アジア」と定めていた。前年の1950年には朝鮮戦争が勃発するなど冷戦どころか熱い戦争真っ盛りの時期ということもあり、外国の直接的侵攻だけでなく「外国の示唆による日本内乱」にもアメリカ軍が「援助」として出動するという規定もあった。
 そして10年後、「60年安保」になるわけだが、その交渉にあたってアメリカ側は日米安保の適用範囲を「極東および太平洋地域」に拡大することを強く求めた。今回公開された文書によると1958年10月の段階で日本の外務省事務方もその意向をくんで条文草案に「太平洋」を明記して岸首相に説明したが、岸は「日本としては、米国と共に渦中に投ぜられることは覚悟しなければならないが、韓国、台湾の巻き添えになることは困る」これに難色を示したことが明らかになった。この意向を受けて藤山愛一郎首相がアメリカ側と交渉、結局条文からは「太平洋」の文言は削除され、「極東」にとどめることで落ち着いた。ただし「極東」がどこまでの範囲を指すかについては譲歩し、1960年の政府統一見解では「極東とはフィリピン以北並びに日本及びその周辺地域であって、韓国及び台湾地域も含む」ことになっている。何のことはない、結局韓国と台湾は含まれているのだ。

 今回の文書公開を受けてNHKなどでも「岸も当時国会を取り巻いていたデモ隊と同じ主張をしていた」と微妙な驚きをもって報じていたが、僕はそれも少々違うんじゃないかと思う。岸の発言はあくまで「韓国・台湾の巻き添え」を恐れているのであって、「米国と共に渦中に投ぜられる」ことは覚悟している。それって「アメリカには付き合うけど韓国・台湾の巻き添えはごめんだ」ということではなかろうか?
 むろん岸は濃厚な反共的立場、右翼的立場をとっていて韓国や台湾の政治家との結び付きも強かった。だが日本国内はこの時期政治的には55年体制の安定期が始まり、経済的にも高度成長が始まっていた。この上り調子の時に近隣の戦争の巻き添えを食ってはかなわない、という官僚出身らしい自国発展優先の考え方もしたのだろう。冷戦の中でアメリカは日本を「反共の防波堤」にしようとしたとはよく言われるが、日本の指導者としては韓国・台湾こそが「最前線の防波堤」であって、自分はその後ろの安全圏にいるのが得策、と考えるのは自然なことではある。そして実際、その後の日本は基本的にそのコースを進むことにもなった。その「最前線の防波堤」にされた台湾と韓国がいずれもハッキリ言って非民主的な軍事政権下に置かれた一方で、防波堤の一層内側の日本は実質的一党独裁とはいえずっとマシな自由社会でいられたとも言える。
 
 その後、幸いにして日本が武力紛争の「巻き添え」になることもなく東西冷戦も緩和→終結へと向かって行き、それと同時並行で台湾と韓国の民主化も進んだ。そして「社会主義国」であるはずの中国が資本主義化して経済大国化してしまうという半世紀前にはちっとも予想できない展開になっている昨今。日米安保は相変わらず強固ではあるが、微妙な空気も漂わなくもない。アメリカだって基本的に自国にとって損か得かで動いてるわけで、日本もあんまり盲目的にアテにしてるとニクソンの米中接近の時みたいなことをまたやられる可能性だってある。
 またぞろちょいと騒ぎになってる尖閣諸島の件だって、つい先日共同通信の「オバマ政権が尖閣諸島を安保条約の適用対象と直接的言及しないことにした」なんて報道があったりした。直後にアメリカ国務省の広報担当がそれを否定したけど「尖閣諸島の領有権についての米国の立場は示さない」としたうえで、「尖閣諸島は日本の施政下にあり、安保条約第5条は日本の施政下にある領域に適用される」とコメントしている。とすると、「施政下」にない場合は……



◆「人権宣言」の名が泣くぞ

 …という、タイトルのような声が実際に欧州議会で発せられたとも聞く。何の話かと言えば、単純に「人権宣言」といった場合、一般に1789年のフランス革命の時に出された宣言を指すのだが、そのフランスで深刻な人権侵害問題が起こっている――という件でだ。そう、今フランスのサルコジ大統領の政権がかなり強硬に進めている「ロマの強制送還」の件だ。

 説明は不要かとも思うが、「ロマ」とは一昔前までは「ジプシー」の名で知られていたヨーロッパ各地で見られる不定住の人々の総称として近年一般的になった呼称だ。ヨーロッパの文学作品や映画などを見ていても出てくる例が多く、有名どころでシャーロック=ホームズ「まだらのひも」がある。つい最近鑑賞したオーストリアの皇后エリーザベトを描いたロミー=シュナイダー主演のオーストリア映画でもハンガリーのロマのキャンプが描かれ、エリーザベトが手相占いをされるというシーンを見た。
 ロマと言えば祭りの時などに集まってきて大道芸や手品、踊りや占いの出し物をするのが定番だったようで、アルセーヌ=ルパンシリーズの系譜に属する「綱渡りの踊り子ドロテ」(ルパンは登場しないが同じ世界観の話)では主人公の少女がまさにこの「ロマ」そのものの放浪生活を送っている(ただし実は貴族のお姫様という血統なんだが)。フランス語では彼らは「ジタン」「ボエミアン(ボヘミア人)」と呼ばれており、この物語の主人公ドロテも同様。「ボヘミアン」という呼称はロマの多くがボヘミア(現在のチェコ)をはじめとする東欧諸国から来ていることに由来するらしい。
 少なくともこの物語を読む限りではフランスでも彼らの存在はいたってポピュラーなものであることがうかがえる。ただし占いなどをする神秘的イメージと同時に手癖の悪い軽犯罪者というイメージを持たれていることも物語中からはうかがえた。例えは変だと承知の上だが日本の祭りに屋台を繰り出す「テキヤ」と多少イメージがかぶるだろうか?

 この「ロマ」だが、ヨーロッパではユダヤ人同様に迫害を受けて来た歴史もある。やはり不定住の「よそ者」ということでどこでも警戒と蔑視の対象にされやすく、その生活の不安定さから犯罪にかかわる者もいたことも否定できまい。特に近代民族国家の成立と共に彼らのような存在は国家にとって非常に厄介なものともなってきて、第二次大戦期にはナチスにより「劣等民族」とされてユダヤ人同様の絶滅政策がとられたこともある。今回のフランスでの政策に国連はじめヨーロッパ各国で敏感に批判が起こった背景には「ナチスの前例」を連想する人が少なくないということもあるだろう。

 サルコジ政権が「ロマ」に対する強硬な姿勢を見せたきっかけは、7月に起きたロマなど「非定住者」による商店略奪をふくむ暴動だった。サルコジ大統領は「パリの窃盗の5分の1はロマの仕業」としており、特に今回の強制国外退去の主な対象となったルーマニア出身のロマについては「ルーマニア人の犯罪が過去18ヶ月で2.6倍に増えた」(閣僚の発言)として今回の行動を正当化している。
 9月に入ってフランスとルーマニア政府の間で送還に関する一定の合意が成立したが、実はロマの多くの故地であるルーマニアでもロマ差別は相当のものがあるようで、ルーマニア政府は本音のところ彼らの引き取りにあまり乗り気ではない様子。フランス政府はルーマニア政府に彼らの定住・同化を求めたというが、そもそもそれは「ロマ」たちのアイデンティティーにかかわる問題で、ヨーロッパでは昔から彼らの定住化はだいたい強い抵抗を受けて失敗している。

 ロマ自体はフランスに昔から存在していたが、近年EUが東方へ拡大したことで、「域内移動自由」の原則により東欧諸国のロマの西欧への移動が増えたということは確かなようだ。だがロマだってEU市民には違いなく、彼らの「強制移動」についてはEU法による域内での居住・移転・労働の自由の保証(ただし「公共不安にとり深刻な脅威」の場合は例外とされる)と、EU憲章で定められた特定の民族・人種に対する差別の禁止に抵触するとの声も強く、欧州議会では左派系を中心にロマ強制退去の即時停止を求める決議も打ち出された。
 ただしその議決の内訳は「賛成337・反対245・棄権51」というもので、この数字に現在のヨーロッパ各国の微妙な「空気」も感じられる。議決そのものに法的拘束力はないし、EUとしても合法か違法かについての判断は先送りの状態だ。これと前後してイタリアでもロマキャンプの撤去が行われたし、他の国でも追随の動きが出る可能性が指摘されている。そしてフランス国民の世論調査でもサルコジ政権の措置に6割以上が賛成との数字も出ているように市民レベルでも建前とは別の「本音」も見え隠れし、各国の移民排斥を主張する極右勢力の拡大(もちろん数字的には少数派なのだが)もそれとリンクする。サルコジ政権の妙に強気な態度は世論の後押しを背景にしてることと、極右の主張を「先取り」することでその方面の票を奪おうという意識があるんじゃないかとの憶測もある。


 ロマの問題だけではない。フランス、さらにはEU各国で「イスラム系移民」に対する圧力も高まっているように感じられる。
 フランス国民議会(下院)は7月に「公共の場で顔を隠すような服装をすることを禁じる」という法案が「賛成335・反対1」というビックリするほどの圧倒的、というより一方的多数で可決された。法案中に明記はないが、これが一部戒律の厳しい地域のイスラム教徒女性が身につける全身を顔も含めてすっぽり覆った衣装「ブルカ」の禁止にあることは明白だ。まだごく少数ではあるようだが、フランス国内にいるイスラム系移民の中にはブルカ着用をしている人も出てきているということなのだろう(一部報道で2000人ほど、とか)
 一応「ブルカ」を名指しするのは避けてバイクのヘルメットや溶接工、外科医、サンタクロースの衣装を着る人など仕事の都合で顔を隠す必要のある人は例外とされ、あくまで治安維持上の理由から顔が見えるようにすること、としているそうだ。しかしサルコジ大統領自身が以前「ブルカは嫌い」と明言していたこともあるし、西欧諸国ではとくにブルカを「女性人権の抑圧」の象徴ととらえやすく、「フランス的価値観と合わない」というのは一つの根拠とされる。
 ブルカまで行かなくても、フランスはつい最近学校などの公共施設内で「スカーフ」をかぶることを禁じてイスラム諸国から反発を買ったこともある。ただ一応これは「政教分離原則」にうるさいフランスのお国柄事情も多少あり、キリスト教徒の十字架アクセサリーやユダヤ教徒の帽子なども一律に禁じているもので、とくにイスラム教徒をターゲットにしたものというわけでもないようだが(脱線するが長年政教分離にうるさかったトルコで現在大学などでスカーフをかぶる自由がイスラム系政権により実現しかかっていることと考え合わせるといろいろと興味深い)。ただし今回のブルカの件は学校など施設内限定の話ではないし、人のファッションにいちいち口出しするのはどうよ、という声も自然と出てくるところ。ブルカを「着せられ」抑圧されている女性たちを「解放してやる」という少々おせっかいな意識もあるんじゃないかという気もしてくる。
 さすがにこの法案については行政最高裁判所の役割をもつ国務院が「人権に対する国際的取り組みに矛盾する」と警告を出しているし、欧州評議会も各国に対して「ブルカ着用禁止は人権侵害」との勧告を出している。この法案がフランス上院を通過するかどうかは9月中に決まるのだが、ちょっと微妙かも、という話も出ている(と書いていたら、9月14日に上院の左派系議員約100名が棄権したため賛成246・反対1の圧倒的多数で通過してしまった)。その一方でベルギーやスペインでもブルカ禁止へ追随する動きがあるようで…
 
 フランスでは以前イスラム系移民の若者らによる暴動があり、当時内務大臣だったサルコジ氏が彼らを「ごろつき」呼ばわりして火に油を注いだことがあったが、それが移民嫌いの層に強くアピールし、大統領に昇りつめる結果にもなった。そもそもサルコジ大統領自身がハンガリー系移民二世で母方はユダヤ系という出自で「多様性を受け入れるフランス」を体現する存在でもあり、それだけに彼が思い描く移民像にふさわしくない者については強硬姿勢を見せるというところがあるようにも見える。先のサッカーワールドカップでのフランスチームの内紛・敗退の一因に移民系選手が多いことが挙げられていたが(もっとも同様の事情のはずのドイツは勝ってるんだが)、その件でサルコジ大統領が露骨に見せたいらだちにもそれが感じられた。
 9月に入り、サルコジ政権は今度は「フランス国籍を持つ移民が治安要員を殺害した場合、国籍を剥奪する」という方針を決定し、法案を議会に提出するという。最近もあったアラブ系の若者が関与した暴動に対応したものだが、「国籍剥奪」という強硬措置はどこの国でもよほどの重大犯罪(国家反逆罪クラス)でない限り行われないものだし、そもそも移民でないフランス国民には適用しないのは不公平との見方もできる。サルコジ政権のエスカレートぶりにはなんだか怖いものを感じてしまうが…一応一連の移民政策に反対する数万人規模の大規模デモなども行われはしたが、その直後にあった年金制度改革(要するに支給年齢を上げる)への反対デモの方は100万人以上の大大規模であったのを見ると、大多数のフランス国民はその移民政策を支持しちゃうんだろうな、というのがまた困ったところ。
 つい先日もドイツでも連邦銀行の理事がトルコ系移民やユダヤ人を攻撃する発言を堂々として物議を醸したが、そうした意見に同調する声が少なくないからこそ言っちゃえるもの。日本だって他人事ではないのだが、どうも不景気になるとどこも余裕がなくなってくるよなぁ……



◆円仁の石板発見! 

 近ごろBS民放やネット配信、レンタルビデオ店などで韓国の歴史ドラマがやたらにリリースされている(中国のも結構増えたが韓国が圧倒的)。こういうのも「韓流ドラマ」などとひとくくりにされてしまうのは歴史映像マニアとしては苦々しいのだが、リリースする側もそういうイメージに便乗してるところもあり、また僕自身目撃してるが「韓流」ということで手を出してる中年女性もいるようで。内容的には製作元によりピンからキリまでだが、相当に硬派な内容の重厚歴史ドラマも多いので僕は結構楽しんじゃっている。もっとも日本の大河ドラマに比べると異様にボリュームがでかいという傾向があり、50話以上は当たり前の世界。高麗建国ドラマ「太祖王建」なんて全200話もあって、ただ今マラソン状態で鑑賞中だ(現時点で114話)。いや、これも面白んですよ。僕はずっと以前からこの時代の面白さに注目していて、中国史の「三国志」といい勝負のドラマが出来ると思っていたから、こうして映像で見られるとやはり感涙ものだ。

 さてその「太祖王建」で主人公の王建(ワン=ゴン)を演じているのがチェ=スジョン。その彼が「王建」に続いて主役を演じたドラマに「海神(ヘシン)」というのがある。9世紀に実在した大海商にして海上勢力の主・張保皐(チャン=ボゴ)の生涯を描くドラマで、韓国大河にしては51話と短め。なお、「王建」でもこの張保皐のことはしばしば言及され、王建が張保皐の「精神的子孫」のように描かれていて(確かに王建も貿易活動を手がける海上勢力という側面がある)、主役が同じ人だけになんだか「転生」みたいに見えちゃうのである(笑)。中国各地でロケを行う国際的内容で、専門にしている倭寇にも通じる世界を扱っているので僕は大いに気に入ったが、一つ難を言えば張保皐が日本にも足を伸ばしていたことがあまり描かれなかったのが残念。「日本に行く」というセリフはあったが、日本そのものはとうとう最後まで描かれなかったのだ。なお日本側の記録では彼の名前は「張宝高」と表記されている。

 この張保皐と縁があった日本人僧侶がいる。最澄の弟子・円仁だ。円仁は師の最澄と同様に838年に遣唐使で唐に渡り、天台山で学ぼうとしたが唐政府の許可が下りず、やむなく不法滞在を続けることになるのだが、彼を支援したのが当時山東半島各地に居留地を持っていた張保皐を始めとする在唐新羅人たちだった。円仁と張保皐は直接会ってはいないようだが、円仁は張保皐が寄進した赤山浦の法華院に滞在しているし、彼の恩情に感謝する書状も書き残している(この中で張保皐にぜひ会いたいと書いている)。このころ張保皐は単なる海商という枠にとどまらず母国・新羅の王位争奪戦に巻き込まれて忙しく、こちらに寄ってるヒマはなかったのかもしれない。
 その後円仁は五台山を経て長安に入り、845年に帰国の途に就いた。この間に張保皐は閻長(ヤンジョン)という刺客に襲われ非業の最期を遂げてしまっていた(なお、「海神」ではこの閻長がドラマの最初から登場する因縁のレギュラーキャラで、後に主役も多くなるソン=イルグクが演じている)。円仁の帰国も唐政府の許可がおりず苦難の連続で、ここでも張保皐の部下ら新羅人の支援をかなり受けることになった。円仁が新羅商人たちの船に乗って無事帰国を果たしたのは847年のことで、円仁はこの9年に及んだ唐旅行の貴重な記録「入唐求法巡礼行記」を後世に残すことになった。

 さて、ようやくニュースネタになるのだが(もう報じられて2ヶ月以上も経ってます、すいません)
 中国・河南省登封市の法王寺でお堂を囲む塀にはめ込まれていた44cm× 62cmの石板が発見された。そこには当時唐で進んでいた仏教弾圧「会昌の法難」を避けて仏舎利(釈迦の骨)を地中に隠す、との内容が書かれており、その末尾に「円仁」の名と「大唐会昌五年(845)」の年号が刻まれていたのだ。円仁研究者の酒寄雅志教授が現地で確認し、当時の唐に「円仁」という同名の僧も見当たらず、当時唐でも高僧として名の知れていた円仁が寺の人々に頼まれて筆をとったのでは、との推測を披露していた。円仁の「入唐求法巡礼行記」に該当する記事はないようだが、法難の状況は彼自身も詳しく描いているところだし、ちょうどこのころ長安から帰国の途についていた時期でもあり、まず間違いないようである。遣唐使で唐に渡った日本人にかかわる物的資料としては長安で発見された井真成の墓誌に次ぐ二例目となる。
 ところで円仁は帰国後、比叡山延暦寺に「文殊楼」を建立し、ここに五台山から持ち帰った香木で作った文殊菩薩像を納めていた。残念ながらこの文殊楼は700年以上のちの織田信長の比叡山焼き討ちの際に焼失し、現在あるのは江戸時代の再建だ。そして2001年に韓国側の働きかけでこの文殊楼の脇に「青海鎮大使張保皐碑」が建立され、円仁と張保皐の縁を今日に伝えている。


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