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2010年6月30日

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◆今週の記事

◆トイレにだって歴史あり

 かつて「トイレの歴史なんてものがあるか」という暴言を吐いた者がいる。聞いた時は「アホか」と思ったものだ。まぁそりゃトイレの歴史で一年間の大河ドラマをNHKが放送するとは思わないが、人類史を振り返れば当然そこには豊穣な歴史がある。歴史上のどんな有名人だって毎日トイレの用事はあったんだから。
 そして「豚に歴史がありますか」という暴言を吐いたお方もいた。発言の主はレッキとした歴史学者である。科学的分野としての豚の歴史はともかく、社会的分野としての豚の歴史はさすがにないんじゃないか、との声もあるかもしれないが、実はこの発言にはその前がある。「百姓に歴史がありますか」と言ってから追い打ちをかけるように「豚に歴史がありますか」と続いたのだ!発言の主はとうの昔に故人であり、結構有名な人なので実名を挙げておこう。その名を平泉澄という。そう、戦前に「皇国史観」の旗振り役だったことで良く知られる人物だ。この発言は彼が助教授時代に卒論指導で学生に向けて放ったものだったといい、彼にとっては民衆の歴史など「豚の歴史」同然だったというわけ。連想話をすると、誰の発言かは知らないが僕のいた東洋史畑でも「朝鮮に歴史なんかあるのかい」と言った某中国史研究者がいたそうだが。

 さて、そんな前座話をしてから、トイレと豚が絡んだ話題を。まぁ食事中の方は読むのを控えた方がいいかも(笑)。
 去る6月17日に奈良文化財研究所が発表したところによると、奈良時代の都・平城京の官庁街の推定地から、便槽(排泄物を埋めて処理した穴のあとという)の遺構が出土した。そこからは当時のトイレットペーパーである「籌木」(ちゅうぎ。細かく切った木の「へら」状のもの。紙が大変貴重な時代であり、簡単な文書には木簡が使われていたことを思い起こされたい)も発見された。で、そこには便そのものの固まりも見つかるわけで、その中身を顕微鏡で分析してみたところ、そこから牛や豚に特有の寄生虫の卵が確認されたというのだ。つまりその便を出した当人が牛肉もしくは豚肉を食っていたとしか思えない、というわけである。しかし当時の日本では「仏教国家」を標榜していたため肉食の禁止令がたびたび出されており、ここで用を足した人物は当然貴族階級と思われるのにいったいどういうこと?ということになる。

 実はこの手の発見はこれが初めてではない。九州・福岡の外国使節接待所「鴻臚館」の跡地や、秋田県秋田城の跡地からも同じようにトイレの遺構から同じ寄生虫の卵が発見されている。なお、秋田城のトイレの話は筆者はある本のコラムで読んだことがあり、なんとレッキとした水洗トイレだったことに驚かされたものである。
 ただこの福岡と秋田のケースはいずれも外国人が来訪する施設であったため、肉を食う人がいても不思議ではないと見られていた。福岡はともかく秋田に外国使節?と不思議に思う人もいるだろうが、奈良時代には日本海の対岸である渤海からの使者が6回も秋田にやって来ており、このトイレの一件もあって秋田城にも外国使節接待の為の「鴻臚館」にあたるものがあったのではないかと推測されている。ただし、僕が読んだ本でも豚肉を食べていたのは渤海使節の可能性が高いとしつつも「都から来た貴族かも」という推理は付け加えられていた。今回平城京で「肉食の証拠」が出たことで、奈良の貴族たちも案外こっそり肉を食ってたんじゃないの?という推理の一つの裏付けとなるわけだ。
 奈良時代ごろだと朝鮮半島や中国から来たいわゆる渡来系貴族もそこそこいたはずだから肉食を普通にしてた人がいたのかもしれないし、繰り返し出されたという肉食禁止令というのもそれほど徹底したものではなかったのかもしれない。そもそも繰り返し出されたこと自体が肉食の存在を示しているのかもしれないが。
 なお、ふと気になって調べてみたら、奈良の名物「鹿」も戦中期にはずいぶん食用として狩られていたそうで。まさかこの時も…?



◆日曜日には血の雨が

 「血の日曜日事件」という言葉を聞くと、誰もが真っ先に思い浮かべるのは日露戦争の最中の1905年にロシアで起こり、ロシア革命の先駆けとなったことで知られる有名な事件のほうだろう。1905年1月22日の日曜日に、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグでデモをしていた群衆が軍隊に発砲され多数の死者を出したこの事件は、「ロシア第一革命」ひいては1917年の「ロシア革命」につながる画期をなした大事件とされている。だから「血の日曜日」と言った場合はほとんどこれを指すのだが、世界史で「血の日曜日」と呼ばれる事件はほかにもたくさんある。
 試みにWikipedia日本語版で「血の日曜日事件」と検索してみると、なんと10件(数えようによっては11件)も列挙されている。英語版にいたっては「Bloody Sunday」と名のつくもので13件もあった。まぁ要するに、本来神聖な休日である日曜日に血の雨がふるとよけいに印象が強いのでみんな「血の日曜日」の名がつけられてしまうのだが。あとロシアの例がそうだが日曜日でみんな休みだからデモや集会が行われやすく、それが衝突や暴動やつながるという見方もできる。

 英語版Wikipediaによると、この「血の日曜日事件」のうち3件がイギリス支配下のアイルランドで起こっている。最初の一つは「アイルランド独立戦争」のさなかの1920年11月21日の日曜日にダブリンで起こったもので、この日の早朝にアイルランド独立を目指す「IRA」がイギリス人14人を暗殺、午後にイギリス軍がサッカー場でアイルランド人群衆に発砲して同じく14人を殺害した、という凄惨な一日だ。僕はIRA創設者の青春を描いた映画「マイケル・コリンズ」でこの日の出来事が再現されているのを見たことがある。
 翌1921年7月10日の日曜日には北アイルランドのベルファストでプロテスタント系住民(イギリス系)とカトリック系住民(アイルランド系)の紛争があり16名の死者を出していて、これが2度目の「血の日曜日」。この年の暮れにイギリスとアイルランドの間で和平協定が結ばれアイルランドは一応独立することになるのだが、それを前にして北アイルランドではその後に続く深刻な紛争を始めていたわけだ。
 そして3度目の「血の日曜日事件」はぐっと時代がくだって1972年1月30日に起きた。北アイルランドのデリーでアイルランド系市民のデモに対してイギリス軍が発砲、ほとんど10代、20代の若者ばかり14名の死者を出した事件だ(なお、報道で「デリー」を「ロンドンデリー」と呼ぶものがみられるのは、かつてこの町がロンドン市の領地とされたことからイギリス側ではそう呼ぶのだそうだ。もちろんアイルランド側は絶対に「デリー」としか言わない)。当時すでに北アイルランド紛争が深刻化しており、IRAによるテロ活動等もあったためイギリス軍側が過剰反応した結果とみられるが、この事件の結果北アイルランドのカトリック系住民の間に反英感情が高まり、IRA志願者をかえって増やし、ますます紛争が深刻化する結果を招いた。
 
 事件から38年も経った2010年6月15日、イギリス政府は1972年の「血の日曜日事件」についてイギリス軍兵士側の非を認める報告書を発表し、政権交代で首相になったばかりのキャメロン首相は「一部兵士に誤った行為があった。政府と国を代表して深く謝罪する」と公式に謝罪表明をした。
 これまでこの事件については発砲した部隊の兵士たちはデモに参加していた武装グループの脅威に対して発砲したと主張しており、イギリスの裁判でも無罪判決が出されていた。しかし長らく犠牲者の遺族から異議が申し立てられており、北アイルランド紛争の一応の和平協定が出来て以後、ようやく1998年に当時のブレア首相によって事件の再調査が約束され、それからまた実に12年もかかってこのたび最終報告が出ることになった。ちと時間をかけ過ぎではないかという気もするのだが、関係者2500人もの証言を集め、260億円の予算をかけたというから、慎重に丹念に進めていたと見るべきなんだろうか。
 報告書では、当時直前にIRAの挑発はあったものの犠牲者の中にIRA関係者は一人しかおらず、しかもその当人も含めて犠牲者の誰も武装などしていなかったこと、警告射撃もなくしかも数名は背後から撃たれていること、事件の証言で兵士がウソをついた可能性が高いこと、などが挙げられ、「民間人への発砲は正当化できない」と結論づけた。その責任は誰にあるのかという点については現場の兵士と出動させた司令官にあるということで、イギリス政府や北アイルランド政府の責任は問えないということのようだ。この報告を受け、北アイルランド検察は関係者の訴追を早急に検討するそうである。

 どこの国でも抱えてる話だなぁ…というのがまず第一印象で、しかもその「公式謝罪」を引き出すには相当な時間がかかるものだということも改めて思い知らされる。



◆王公たちの御結婚

 その昔、フランス革命が勃発したころ、フランスにジャン=バティスト=ジュール=ベルナドットという若き軍人がいた。代訴人の子せがれという庶民出の彼は熱烈なジャコバン派(まぁ簡単に言うと当時における極左集団である)支持者となり、体に「王侯に死を!(Mort aux rois !)」という刺青までしていたという逸話がある。一兵士から将軍まで出世した彼はあのナポレオンとよく似た境遇ではあるのだが(そのためある段階までライバル視もされたらしい)、才能の方はナポレオンに遠く及ばず、しかし野心の方はそれほど見せずに無難に仕事をこなしていたため、気が付いたらナポレオン指揮下で元帥にまでなってしまっている。実はこの出世の裏には彼の妻・デジレ=クラリー、実はかつてのナポレオンの婚約者の存在があり、ナポレオンが自分が捨てたかつての恋人への後ろめたさからその旦那の出世を助けていたフシがあるという。一度ベルナドットがナポレオンの不興を買って軍事裁判にかけられた時にもデジレの内助の功で危機を脱したという話もあり、なんだかこの人の伝記を見てると僕は我が国の山内一豊の存在を連想してしまうのだ。
 そしてこのジャン=ベルナッドット元帥は、いろいろと成り行きがあってスウェーデン国王の養子、すなわち王太子の地位におさまり、気が付いたらまんまとスウェーデン国王に即位しちゃうのである。そのせいか医者に生涯自分の体を診察させず、王様の体に「王に死を」と書いてあったことが判明したのは彼の死んで葬式をする時だった、という冗談みたいな逸話がある(デキすぎてるのでホントかどうか疑われてるみたいだが)
 彼がスウェーデン王室に入り込んだ裏には北方を「身内」で固めようという戦略的狙いと共に、かつての恋人への罪滅ぼしの意識があったナポレオンの意向があったとみられるが、もともとナポレオンとはそりが合わなかったベルナドットは、ナポレオンがロシア遠征に大失敗すると手のひらを返してちゃっかり彼への攻撃に参加し、ナポレオン退位に一役買った。実はフランス王位まで狙う動きまで見せたそうだが、フランス国民には裏切り者扱いされ、さすがにそれは阻止されている。1818年に養父カール13世が死去したのを受けて彼はスウェーデン国王カール14世ヨハンとして王位についた。なお、彼の息子のオスカル1世はナポレオンの皇后ジョゼフィーヌの連れ子の娘を妃に迎えており、なんだか「ナポレオンに捨てられた女たちの怨念」を集めたみたいな血筋となるのであった。そのせいか、ナポレオン時代に成立した王家のうち、21世紀の今日までしっかり命脈を保っている。

 さて現スウェーデン国王はカール16世グスタフである。フランスの代訴人の子せがれから数えて7代目の子孫だ(だから国内で移民排斥の動きが出ると「私も移民の子孫だ」と発言したそうである)。彼の父は1947年に飛行機事故で亡くなっており、祖父が即位して太子にたてられた時はまだ4歳だった。そのため「次の代で最後の国王にしてはどうか」という王制廃止論が当時かなり盛り上がったそうで、それは彼が1973年に即位した時にも再燃した。だが1976年に結婚したシルビア王妃(ドイツ出身で、ミュンヘン五輪で現国王担当の通訳コンパニオンとして知り合った)の国民的人気もあって「あと30年は王室は安泰」というところまで危機を脱したそうである。で、その「30年」も過ぎてしまった2009年の調査によると、王制存続派は6年前の68%から56%へと大幅に減少、逆に王制廃止派は16%から22%に増加してしまったそうだ。
 こういう時に期待されるのが「ロイヤルウエディング」である。6月19日、カール16世グスタフさんの長女ヴィクトリア王女(32)が元スポーツジム経営者のダニエル=ベストリングさん(36)とめでたく結婚式を挙げた。なんでもスポーツジムに通っていたヴィクトリア王女の個人トレーナーをしたことが御縁のきっかけなんだそうで。なお、スウェーデン王室では1980年以降男女を問わず「長子相続」をする原則が決められており、ヴィクトリア王女は「王太子」、すなわち将来の女王陛下と決まっている。夫となったダニエルさんは今後はとりあえず「ダニエル王子(Prins Daniel)」あるいは王太子が保持する称号「ヴェステルイェートランド公爵」と呼ばれることになるそうだ。
 ストックホルム大聖堂で盛大に挙行された式にはベルギー、デンマーク、ヨルダン、リヒテンシュタイン、ルクセンブルグ、モナコ、オランダ、ノルウェー、スペインの国王・大公夫妻が出席、日本から皇太子徳仁親王が、イギリスからは女王エリザベス2世の代理としてその三男であるウェセックス伯エドワードさんが出席していた(ヨーロッパ王族がこぞって出席する中、なんとなく冷たい気がするような…もしかして「格」なんだろうか)。出席VIPのリストを眺めていたらルーマニアとかユーゴスラヴィアとかブルガリアとか、すでに「王国」ではないはずの王族も名を連ねていたので、「元王族」も含めて王族サロンみたいな付き合いがあるんだろうか。 
 ところでこの盛大な結婚式を王室人気の起爆剤にしようという狙いは王室関係者には確かにあったようだが、変なところでケチがついた。王室から関連報道を一括して任されたスウェーデン公共放送「SVT」は、結婚式の映像を貸し出す外国報道機関に対し、「生中継ではなく時間差をつけて(ハプニングが起きた場合に備えた措置だろう)」「映像利用は挙式終了から48時間以内」といった条件をつけた。するとロイター、AP、AFPの三大通信社は「それはスポーツや芸能イベントではよくある条件だが、歴史的ニュースには適用すべきでない」と反発、映像も写真も一切配信を見合わせるという措置をとっている。


 この結婚式に、モナコ大公アルベール2世(52)も出席していた。まだ独身のはずのアルベール大公だが、その横には南アフリカの元水泳選手シャーリーン=ウィットストックの姿があった。二人の婚約が発表されたのはその四日後のことで、このスウェーデン王女結婚式は一足早い「夫婦でのロイヤル外交仕事始め」だったわけである。
 アルベール大公と言えば、ご存じ往年の名女優グレース=ケリーの息子である(そういえばシャーリーンさんもちょっとグレースに似てる)。長年まさに文字通りの独身貴族として知られ、とうとう大公になっても独身を貫いていたが、ついに身を固める気になったらしい。もっとも確認されてるだけですでに二人もお子さんがいらっしゃいますが…世が世なら継承戦争が起こりそうだな。



◆恒例:贋作サミット・ムスコカ編

 カナダはトロント郊外の、日本語みたいな地名のリゾート地に、世界各国の首脳が集まりましたとさ。

加:ようこそ、いらっしゃいませ。今年はオリンピックもありましたし、何かとカナダが話題の年で。
日:はじめまして〜今回から初参加です、よろしく〜
独:あなたのところは毎年顔が変わるわねぇ。
伊:わが国もよくそう言われてたが、最近はすっかり安定してるぞ。
米:あれ、去年あなたのところも民主党政権にチェンジ!したんじゃなかったっけ。
日:イエス、アイ、カン。とうとう前任者は出席できませんで…贋作サミット初の事態で。
英:こちらも今年で政権交代しましたよ〜おたくと同じで連立政権です。
加:さて、新入りの挨拶が済んだところで、さっそく今世界の重大事について討議に入りましょうか。
伊:やはり現在最も重大な問題は、EU諸国の深刻な不安拡大だな。
仏:そーだよな、だいたい前回の優勝と準優勝が一次リーグで敗退だなんて(涙)。
独:あら、うちはEUですけど、しっかり勝ち進んでますが。
英:審判がなっとらん!あれは入っていたぞ!あれさえなければ…
独:ふん、44年前の因果応報よ。(注:本物のサミットで独首相は英首相に「謝罪」したそうです)
日:うちのチームは事前にはボロクソに言われてたけど、勝ち進んだらもう大盛り上がり。勝てばカン軍ですな。
米:うちはそれなりに勝ってるんだけど、いかんせんサッカー自体に無関心だから盛り上がらんなぁ。
加:南米勢は好調だけど、サミットに顔出してないしねぇ。特別ゲストでマラドーナとか呼ぶと面白いんじゃないか。
露:我が国なんて出場もできないんですよ。やっぱアジア枠に入れてもらおうかな。国土のかなりはアジア側だし。
日:そんなことされたら、ますます出場しにくくなるじゃないかっ!(←イラカン)
英:ま、ま、ともかくサミットとしてゴール判定の改善を求める緊急声明を出すというのはどうでしょうかね。
仏:ボールにセンサーでも仕掛ければいいんじゃないの。ラインを越えたらボールが光るとか。
伊:主審が一緒に走ってるのも邪魔だから、選手にセンサーをつけてファウルもオフサイドも自動判定するとか。
独:いや、あんまり機械ばかりに頼るのも。誤審した審判には両耳から同時にブブゼラを聞かせるペナルティを課すというのは。
露:ふん、出場国は盛りあがれていいねぇ。今年のサミットはサッカーの話ばっかりかい。
仏:来年のサミットは我が国なんだな…サミットも毎年出場国の「予選」をやるというのも一興じゃないか。
米:あ、自分は開催国だから絶対出られると考えてるな!
露:だいいちどうやって予選をやるんだ。
伊:首脳の支持率で決めるってのはどうだ?
日:それじゃますます毎年顔を変えなきゃいけなくなるじゃないかっ!(←イラカン)
米:あんたの国の石油会社がオオポカしなけりゃ…
英:八つ当たりしないでくださいよ。
独:まぁそれは冗談として、さっさと切りあげましょうよ。あたし、アルゼンチン戦までには帰らなくちゃいけないんだから。
一同:(イヤミな奴…)


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