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2010年11月21日

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◆今週の記事

◆大統領たちの秘史

 このところ、だいたい毎年そうなのだが、「史点」は秋以降作者のスケジュールの都合もあって更新が滞りがち。結局今回も一ヶ月ぶりの更新になってしまった。まぁ幸か不幸か4つネタを拾うのに苦労するほどだったのだが…おかげで今回の話題もちと古いものが多くなってます、すいません。

 さてもう一ヶ月近く前に報じられた話題なのだが、1963年にケネディ米大統領が暗殺された直後、大統領職を引き継いだばかりのジョンソン大統領までがあやうく射殺されかかっていた、しかも大統領を守るはずのシークレットサービスの手によって……という、ちょっとしたコントみたいだが一歩間違えればシャレにならなかった秘史が、その当人の回顧録により明らかになった。
 回顧録を出したのは元シークレットサービスのジェラルド=ブレーン氏(78)。1963年11月22日にケネディはテキサス州ダラスでパレード中に狙撃され死亡(この狙撃をめぐってあれこれ議論があるがここでは省く)、死亡確認直後に規定にのっとり副大統領のジョンソンが大統領に昇格、移動中の大統領専用機「エアフォース・ワン」内で宣誓式が行われた。その宣誓式の直前、ジョンソンは大統領の暗殺という事態におびえたのか「これは陰謀だ、みんな狙われる」とトイレの中でわめていたとの証言がある。
 問題の「事件」はその翌日、11月23日未明に起こった。そのときジョンソン邸の外で警備にあたっていたブレーン氏は、暗闇の中から不審な足音が聞こえることに気付き、すわと銃を構えた。そして相手の姿が見えたところでその胸に照準を合わせて発砲の態勢をとった。ところがその相手とはほかならぬジョンソン大統領ご本人。状況は良く分からないのだが、とにかく未明という時間に大統領当人がなぜか家の外に出てきていたようなのだ。幸いブレーン氏は発砲はせず、お互いしばし黙り込んで向かいあった。ブレーン氏によると「大統領の顔から血の気が引いていくのが良く分かった」そうである。ジョンソンはそのまま何も語らずに家に入っていったという。
 ブレーン氏はこの時の恐怖(発砲していればアメリカは二日連続で大統領を殺されていた)の記憶にその後長い間さいなまれ、この瞬間の悪夢を見続けたそうである。前日にケネディ暗殺という大事件があって警備員も神経過敏になっていたのだろうが、ジョンソンも自宅とはいえこんな状況下のそんな時間にノコノコ外に出てくるとはあまりにも不用心だったのではないかと。


 不用心な大統領は他にもいた。クリントン前々大統領が2000年ごろ、「核攻撃命令用の暗証番号の記されたカード」を数ヶ月間紛失していた、という事実をヒュー=シェルトン元統合参謀本部議長が回顧録で明らかにした。
 その暗証番号を記したカードは、その形状から「ビスケット」と呼ばれているという。大統領から核攻撃の命令を受けた側が、命令を下したのが大統領本人であることを確認するために使うものだそうで、安全上の理由から暗証番号は定期的に変更されるとのこと。そのカードの所在をどういうわけか(シェルトン氏自身も理由は書いてない)クリントン大統領も側近も数ヶ月にわたって知らず、「紛失」してしまった時期があった。カードの所在は国防総省高官が毎月確認することになっていたが、クリントン大統領と側近は「所持している」と口頭で答えてすましていた。その後は国防総省高官がカードをきちんと目視確認することに改められたそうだ。シェルトン氏はこの事実を「とんでもないこと」と表現しているそうだが、現実の核攻撃にはカードだけでなく何段階もの手順があり、仮に第三者がカードを入手したとしても核攻撃を実行するのは不可能だとされている。
 実はクリントン大統領がこの「ビスケット」を紛失していたと判明したのはこれが初めてではないというから驚く。7年前にも退役空軍中佐が「1998年ごろに大統領はカードを紛失していた」と暴露していたことがある。ホワイトハウスだってそんなに広いわけじゃないんだからカードの一枚ぐらい探して見つからないのか、という気もするのだが、クリントンさんといえば下半身の方のルーズさでは有名なひとだったからなぁ…。
 冷戦時代以来、いざ核戦争になったという場合に大統領が核攻撃の命令を下す、いわゆる「核のボタン」を常に身近に置いているという話は聞くのだが、冷戦も終わってからは存外アバウトな扱いになってるのかもしれない。それはそれでそう悪くない意味で「平和ボケ」といってもいいと思うのだが、まだ冷戦続行中(一応デタント期ながら)のカーター元大統領は、この「ビスケット」をスーツのポケットに入れたままクリーニングに出してしまった「疑惑」がささやかれているそうで。


 「ビスケット」と聞くと、プレッツェルをのどにつまらせて危うく「頓死」しかけたブッシュ前大統領を思い出す。この人もおバカな話題に事欠かなかったお方だが、8年も大統領職を無事つとめおおせ、このたび回顧録「決断の瞬間」を出版した。その内容についてあれこれと話題が奉じられている。
 中でも注目されたのは、ブッシュ前大統領最大の作戦にして最大の愚行といっていい「イラク戦争」に関する部分。イラク戦争は彼が大統領に就任した段階から「既定路線」だった可能性が高いとみられるが、2001年の911テロとその「報復」としてのアフガンでの「対テロ戦争」とイメージを意図的にゴッチャにしたうえで、開戦の大義名分は「サダム=フセインが大量破壊兵器を隠している」ことにあるとしていた。で、結局その「大量破壊兵器」とやらはどこを探しても見つからなかったのもご存じの通り。当時産経新聞の一面コラム「産経抄」が開戦時には「大量破壊兵器がある」という大義名分を掲げて開戦を支持しておきながら、ないと分かると「そもそも戦争に大義なぞない。小欄はずっとそう言っていた」と開き直って(?)失笑を買っていたものだ。
 その大量破壊兵器だが、ブッシュ政権はイラク側が持っていないことを百も承知で難癖をつけたのでは?との疑惑も当時からあった。ただし今回の回顧録では少なくともブッシュ前大統領当人は「大量破壊兵器がある」と確信していたとし、「大量破壊兵器が見つからなかった時のショックと怒りは、誰も経験したことのないものだろう」などと書き、この件については「今でも気分が悪くなる」として彼なりに苦悩したようなことも書いているという。しかしあんたは勝手にウジウジと苦悩してればいいが、その戦争で死に追いやられた大量の人々(その後のイラクの混乱も含めれば膨大な死者が出ている)にしてみれば浮かばれない話である。
 「なんでフセインは大量破壊兵器があるかのように虚勢をはったのだろう?ドイツやフランスに開戦はないと誤ったシグナルを送られたのだろうか」サダム=フセインに同情すると同時に、当時開戦に反対したドイツとフランスの首脳にかなりの反感も見せている。とくにシュレーダー独首相(当時)については、当初は開戦に賛成するような姿勢をみせたくせに態度を変えたと書き(これについてはシュレーダー氏当人から抗議が出ている)、シュレーダー政権がブッシュ氏を「ヒトラー」よばわりしたことについても「ドイツ人からヒトラーよばわりされるほど侮辱的なことはない」と激しい憤慨をつづっているそうで。


 そして現在のオバマ大統領もこのたび著書「of Thee I Sing/A Letter to My Daughters(君を歌う/娘たちへの手紙)」を出版した。こちらはもちろん回顧録ではなく、娘向けにアメリカ史上の偉人13人の事跡を語る絵本である。執筆自体は大統領になる前に済んでいたと公表されている。
 選ばれた13人とは…ジョージア=オキーフ(1887-1986、女性抽象画家)アルベルト=アインシュタイン(1879-1955、相対性理論の物理学者)ジャッキー=ロビンソン(1919-1972、黒人初の大リーガー)シッティング=ブル(1831-1890、アメリカ先住民の指導者)ビリー=ホリデイ(1915-1959、黒人女性ジャズ歌手)ヘレン=ケラー(1880-1968、視覚聴覚を失った福祉事業家)マヤ=リン(1959-、中国系アメリカ人の建築デザイナー)ジェーン=アダムズ(1860-1935、ノーベル平和賞受賞の女性運動家)マーティン=ルーサー=キングjr(1929-1968、ノーベル平和賞受賞の黒人運動指導者)ニール=アームストロング(1930-、月面に最初に降りた人)セサール=チャベス(1927-1993、メキシコ系の労働運動家)エイブラハム=リンカーン(1809-1865、第16代米大統領)ジョージ=ワシントン(1732-1799、初代米大統領)とまぁ、実にバラエティに富んだラインナップ。オバマさんが何かと口にするワシントンやリンカーンら有名大統領から、各方面で活躍した男性女性、それとアメリカにおけるマイノリティにもまんべんなく目配りをしていることがうかがえる。
 このうち「シッティング=ブル」はいわゆる北米インディアンの有名人で、あのカスター将軍率いる「第七騎兵隊」がインディアン軍相手に全滅した「リトルビッグホーンの戦い」に際してインディアン側の宗教儀式を行った人物として知られる。史実では戦闘そのものには参加してないのだが、いつしか「カスターの敵役」として有名になってしまったという。今度の本で彼がどういう風に書かれているのかは知らないが、この人物を選んだことについてアメリカ国内では一部から疑問の声があがっているともいう。



◆大仏様のおひざもと

 さて、そのオバマ大統領はAPECで来日中にわずか20分だけだが鎌倉大仏を訪問した。その映像を見て「天然パーマ同士だな」などとバカなことを考えていた僕であるが、話題はそっちの大仏ではなく、奈良の大仏さんの方である。

 明治36年(1903)から、奈良の大仏殿は7年がかりの解体大修理を受けていた。その際、1907〜1908年に大仏のひざ下に足場を作るために掘ったところ、そのうち三ヶ所か刀や鏡、水晶玉等の宝物が埋められているのが見つかった。これは寺院を建てる時に「地鎮」の意味合いも込めて埋める「鎮壇具」と見られ、1930年に「東大寺大仏殿金堂鎮壇具」として国宝に指定された。そして発見から一世紀以上も経ったつい先日、この「鎮壇具」のうち二本の刀が、もともと東大寺の正倉院に納められながら西暦759年(天平宝字3年)に持ち出され、そのまま行方不明になっていた刀であることが判明したのだ!10月25日に生駒市の元興寺文化財研究所保存科学センターが発表した。
 そんな時代にもちゃんと「持ち出し記録」があったことにも驚かされたが、それから1251年も経ってからその所在が分かったというのも驚き。もっとも時間的スケールとは別に、空間的スケールでは東大寺の境内のあっちからこっちへ移したというだけのやや狭い話になるのだが。

 756年(天平勝宝8年)に光明皇后は夫の聖武天皇の四十九日に合わせて、聖武天皇の生前の愛用品などの宝物を東大寺に献納した。これが正倉院宝物のルーツとなる。その後光明皇后は聖武天皇の遺品などを3度にわたり正倉院に納めている。正倉院に納められた品物は「国家珍宝帳」と呼ばれるリストに記録されており、その持ちだし記録もばっちり記録されている。その「珍宝帳」の「大刀類」の筆頭にあった「陽宝剣」「陰宝剣」の二本が759年12月26日に持ち出された記録が残っていたのだ。
 正倉院から品物が持ち出される例はけっこうあったらしく、中にはそのまま戻らなかったものも多い。面白い例では764年の藤原仲麻呂が反乱を起こした際に正倉院に所蔵されていた武器類が多く持ち出され、その現物の多くが戻らず代用品で「返却」されているというのもあるそうで。光明皇后が持ち出した陽陰二本の宝剣もそのまま行方不明になっており、まさか戦いに使ったとも思えないので長い間謎となっていたわけである。
深夜の大仏殿 で、このたびその明治時代に見つかった「鎮壇具」の刀剣を、元興寺文化財研究所保存科学センターでエックス線調査してみたところ、一本に「陽剣」という文字があるのが確認された。「じゃあ陰剣もあるんじゃないか?」と研究員がもう一本を調べてみたところまさにドンピシャだった。かくして問題の二本の宝剣は大仏のひざ下に1150年ばかり埋められていたことが明らかとなったのである。

 宝剣を正倉院から持ち出し、大仏のひざ下に埋めたのは光明皇后当人であったと見られる。彼女はこの持ち出し日からおよそ半年後の天平宝字4年6月7日に亡くなっている。宝剣をわざわざ持ち出して大仏のそばに埋納した理由についてはいろいろと推測されているが、彼女自身先が長くないことを悟って、国家鎮護や自身と亡夫の死後の冥福を祈ったものではなかろうか。
 正倉院から持ち出された宝物でまだ所在がわからないものは他にもあり、今回のケースと同様に大仏の周辺に埋められている可能性もある。明治の発見時にも大仏の周辺を全部掘って調べたわけでもない。東大寺としても「それ奈良、非破壊検査などを駆使して周辺を調べてみよう!」と大乗り気だが、埋めた側からすれば大仏だけにホットケよ、という声も出そうだ(笑)。



◆後世へ文化を伝えよう

 大げさなタイトルをつけて見たが、単にまとまらない話題を「文化」をキーワードに無理やりまとめただけである。

 「死海文書」と聞くと、「エヴァンゲリオン」がすぐ連想されてしまう昨今であるが、実在する「死海文書」とは1947年にイスラエルの死海のほとりの洞窟から羊飼いらによって発見された羊皮紙やパピルスに書かれた古文書群で、紀元前2世紀から紀元後1世紀までのユダヤ教の教典類(つまり旧約聖書に関わるもの)を多く含んだものだ。恐らく1世紀のローマ帝国による「ユダヤ戦争」の際に神殿から持ち出され隠されたものではないかと見られている。
 キリスト教成立以前の『旧約聖書』の姿を知る上で重大な発見とされ、基本的に今日使われている「聖書」がほぼ古代の形のまま伝えられていることを証明する内容なのだが、なにせ2000年も前のもの、保管している側も劣化を恐れてなかなかその全容を一般公開しなかったこともあって一部に「実は『死海文書』にはキリスト教解釈の上で非常にマズいことが書いてあるため、バチカンなどが内容を極秘にしているのだ!」といった陰謀説みたいなものもささやかれてきた。もっと凄くなるとオカルト、SF的な発想と結びつくこともあり、それをネタとして使った一例が「エヴァンゲリオン」ということになる(「死海」っていう響きがまた、いかにもソッチ系なんだよね)
 
 さてそんな事情がある「死海文書」の全てをデジタル画像化し、インターネット上で公開するというプロジェクトが発表されたから、興味のある人の間ではちょっとした騒ぎになっている。それもイスラエル考古学庁と、今をときめくgoogleの共同プロジェクトというあたりが「今風」である。すでにこれまでは博物館でしか拝めなかった美術品や、国会図書館などに行って申請しなければ手に取ることさえできなかった書籍が自宅のパソコンからネット経由で簡単に見られるようになったアマチュア研究家にはすこぶる便利なご時世、「死海文書」もその流れというわけだが、たぶんそれでもオカルトじみた陰謀説は消えないだろうな、と予測している。


 ユネスコ(国連教育科学文化機関)といえば最近は「世界遺産」の登録でおなじみだが、それとは別に「無形文化遺産」というものもやっているそうで。「世界自然遺産」も「世界文化遺産」も「もの」そのものだが、歌や踊りなど自然や人工物と同様の「保存」が利かない文化をこの「無形文化遺産」という枠組みでくくるのだそうだ。例えば日本からは能楽や歌舞伎、雅楽などがすでにこれに登録されている。
 しかし「無形文化」だけに自然遺産や文化遺産とはまた違った基準、はっきり言っちゃえばかなり甘い基準で選考されており、そのリストを眺めていると、ぶっちゃけ「なんでもあり」な状況になっていることがわかる。ユネスコの言うところによると、決して優劣を競うわけではなく、あくまでユネスコの基準に照らして「コミュニティーを代表する無形文化遺産かどうか」が判断の基準なんだそうだ。
 つい先日の11月16日から19日までケニアのナイロビで開かれていたユネスコの政府間委員会で新たに「人類の無形遺産の代表的な一覧表」に登録されたものを調べられる限りで並べてみると…

 「結城紬(つむぎ)」(茨城・栃木の絹織物)「組踊」(沖縄舞踊)「ベルギーのカーニバル」「中国の鍼灸医療」「北京の京劇」「鷹狩り」(アラブ諸国、スペインなど)「スペインのフラメンコ」「フランス料理」「コロンビアのマリンバ音楽」「韓国の伝統歌曲」「アゼルバイジャンの手織り絨毯」「メキシコの伝統料理」「イラン・カシャーンの伝統絨毯」「地中海式ダイエット」(地中海周辺地域の栄養摂取法だそうで)「モンゴルのナーダム祭り」「トルコのオイルレスリング祭り」

 こんな調子で全部で46個が今回登録されたという。報道によると直前にリストアップされた候補は47個なので、何か一つ「落選」したらしいのだが、それが何かは分からない。今回注目なのは初めて「料理」が「無形文化遺産」扱いされた点で、なかでも「フランス料理」についてはフランス政府が活発なロビー活動を繰り広げていたという。だが料理も含めてしまうと世界中の料理がみんな登録しちゃうことになりかねず、そこまでユネスコがする必要があるのか、という声もあるそうで。
 実際ユネスコも大変らしく、日本が候補として推している「なまはげ」は今回は審査先送りにされてるそうである。なんかこの調子だとうちの地元の「どんど焼き」なんかも十分候補になりそうな気がする。



◆倭寇図巻に「兄弟」がいた!

 ここでは少々話題にするのが遅れてしまったのだが、このニュースは僕にはかなりショッキングだった。なにせ一応僕の専攻は「倭寇史」なんだから。
 「倭寇」って何?という話は当サイトに「俺たちゃ海賊!」という倭寇専門コーナーがあるのでそっちを参照されたい。もっとも16世紀の「後期倭寇」がメインだし、途中で放り出してる状態なのであんまりオススメできるものでもないんだが、一応の参考にはなると思う。

 その「倭寇」の話が書籍やTV、はたまた教科書などで紹介される時、きまってビジュアルイメージとして使われるのが「倭寇図巻」と呼ばれる絵画史料だ。東大史料編纂所が所蔵しているこの史料は1923年以前に入手したものとされるが、絵巻そのものについている題名は「明仇十洲台湾奏凱図」となっている。「仇十洲」とは16世紀前半に活躍した有名画家・仇英のことで、その仇英が明軍による台湾遠征を描いた…ということになっているのだ。だがこれは「なんでも鑑定団」でもおなじみの、書籍や絵画でよくある「有名人の作にかこつけた偽物」というやつ。絵巻の内容を見ると明らかに明軍の遠征ではなく、海の彼方からやってきた海賊たちを明軍が討伐する模様が描かれており、しかもその海賊たちの姿は頭に月代(さかやき)を剃り、日本刀とおぼしき武器を持っていることから「倭寇」を描いたものであることは明白だ。そのため日本ではもっぱら「倭寇図巻」の通称で呼ばれるようになっている。

 明軍と倭寇の戦闘の場面はよく紹介されているが、それ以外の場面については見たことがない人も多いだろう。2001年に東京国立博物館で開かれた東大史料編纂所の蔵出し展示会「時を超えて語るもの」で、この「倭寇図巻」の実物が展示され、僕もここで初めてこの図巻の全容を拝んで感激したものである(展示会の分厚いパンフレットにもその全編の画像が掲載され、しかも表紙までこの「図巻」だった)
 この図巻は日本の絵巻物と同じようにストーリー仕立てになっており、スクロールさせてゆくと一枚絵につながって描かれた場面が移り変わってゆく仕掛けになっている。まず冒頭は海の彼方から次第に倭寇の船が接近してくる様子が描かれ(アニメ的演出!下図参照)、やがて二隻の大型船が接岸し倭寇たちが上陸、偵察行動をしながら進撃し近くの屋敷を襲撃、放火、略奪を行う。沿岸住民たちの避難の様子も描かれ、やがて明軍が出動して海戦が行われる(ここが有名な部分)。そして最後は近くの都市と軍の要塞が描かれ、そこから明軍が整然と出陣して行く模様が描かれている。
倭寇図巻冒頭
 さて研究史をふりかえると、倭寇には14世紀を中心とする「前期倭寇」と16世紀を中心とする「後期倭寇」の区別がなされ、前者は南北朝動乱と連動した日本人多数派の集団、後者は戦国時代および中国・西洋人勢力も入り乱れる「大航海時代」と連動した中国人多数派の集団と性格づけられてきている。もっとも僕自身もそうなのだが「前期」「後期」に明確に区別するのではなくむしろ連続性に着目し、民族や国境をまたいだ人間集団として倭寇を再定義しようという研究動向もある。
 それはさておき、この「倭寇図巻」は唯一の「倭寇絵画史料」ということもあって前期も後期も問わず「倭寇」といえばこの絵が使われているが、描かれている「倭寇」の中に火縄銃らしきものを手にしている者がいることから16世紀半ばの「後期倭寇」を描いたものとするのがほぼ定説だった。だが「そうだろう」という推測だけで断定できなかったのも事実なのだ。それにこの「図巻」の出どころや制作時期・制作意図も不明で、良く知られている割にわからないことだらけの資料でもあった。

 先ごろ毎日新聞が「倭寇:中国にも絵巻 共同研究で謎解明へ」という見出しの記事を掲載、専門業界から遠ざかっていた僕などは「ええっ!!」と驚かされるような内容だった。なんと「倭寇図巻」とソックリな絵巻が北京の中国国家博物館にあったというのだ(2007年のシンポジウムで中国側研究者から明かされた)。中国側にあったものは「抗倭図巻」と呼ばれており、日本のものに比べるとかなり痛みが激しいものの、船の位置など一部の違いを除いてほぼ同じ構成になっているという。
 それだけでも驚きだが、東大史料編纂所がこの機会に「倭寇図巻」を赤外線で撮影してみたところ、今年6月になって絵の中に出てくる船の旗が白く塗りつぶされており、その下に「弘治四年」という年号が書かれていたというからさらにビックリ。「弘治」という年号は日本と中国の両方にあり、中国では明の1488年〜1505年に使われていたもので、それだとすれば「弘治四年」は「1491年」となる。だがそれは後期倭寇以前の時期であり、日本の「弘治四年=1558年」であればまさにドンピシャ、いわゆる「嘉靖大倭寇」のほぼピークの時期にあたる。そもそも「倭寇」の船の旗に書かれている年号なのだから日本の年号と見た方がいいわけだ。実際に倭寇の船に日本年号を書いた旗があったとは考えにくいが、図巻の書き手が「日本っぽさ」を出す意図でわざわざ書いた可能性が高いと思う。
 そして9月に中国の「抗倭図巻」のほうも赤外線撮影してみたところ、旗のところに肉眼では確認できなかった「日本弘治三年」の文字があることが確認された。これで二つの絵が正真正銘の「倭寇」、それも後期倭寇の大ピークである「嘉靖大倭寇」をテーマにしていることが明白に証明されたわけだ。

 だが新たな謎も生まれてくる。「図巻」両者は同じ工房で製作された可能性が高いとみられているが、なぜ日本年号に一年の差があるのか。そもそも倭寇の時期の日本年号を書き手はいかにして知ったのか(この時期倭寇対策で日本研究が進み、日本へ調査に行った中国人も少なくないとはいえ…)。また日本にある「倭寇図巻」ではなぜその年号が塗りつぶされ消されていたのか(「仇英作」に見せかけるため画商が工作した可能性が高いと感じるけど)。そしてこうした絵巻物を制作した意図は何なのか、またその制作時期は?などなど、興味は尽きることがない。
 11月12日に東大史料編纂所で日中共同の研究会が開かれ、それに合わせて「倭寇図巻」と「抗倭図巻」の複製の公開展示も行われる予定と記事にあったのだが、こちらは他の仕事で忙しくてそっちには首を突っ込めずじまい。続報が気になるところだ。


2010/11/21の記事

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