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2020年1月7日

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◆風見鶏の一世紀

 特に多忙だったわけではないはずだが、あれっ、と気は付いたら「史点」の更新が止まったまま2020年へと年越ししてしまった。前回の更新直後にこの人の訃報が入ってきた時は、「こりゃ更新が速くなるかな」と思っていたのだが、それ以外のネタがいま一つ集まって来なかった、というのもあるんだよね。

 11月29日、中曽根康弘元首相がついに死去した。御年実に101歳だった。いつまで経っても元気そうな動静が報じられていたので、死ぬのを忘れちゃってるんじゃないか、改憲実現をその目で見るまでは死なないことにしたんじゃないか、とかいろいろ言われてしまっていたが、亡くなってみると思いのほかあっさり、という印象もある。101歳まで生き抜いたので「首相経験者で最長寿では?」と思っていたら、敗戦直後に一カ月半ほど首相をつとめた東久邇稔彦が102歳まで生きていて、中曽根さん、惜しくも二位どまりだった。主将在職日数では圧倒的に勝ってるけどね、
 
 中曽根康弘が生まれたのは1918年(大正7)。歴史年表では前年に終結した第一次世界大戦の講和条約「ヴェルサイユ条約」が締結された年であり、それと連動する形で朝鮮の「三・一独立運動」、中国の「五・四運動」が起こった年でもある。そんな年に中曽根康弘は群馬県高崎市の材木商の子として産まれている。
 旧制高崎中学(現・県立高崎高校)から旧制静岡高校(現・静岡大学)、そして東京帝国大学法学部へとエリートコースを突き進み、1941年、つまり太平洋戦争開戦の年に内務省に入省して官僚となるが、同年のうちに海軍主計中尉に任官、太平洋戦争を通して海軍の事務方として補給・輸送や設営などに従事、敗戦時には主計少佐となっていた。事務方といっても危険な前線に出たことがないわけではなく、フィリピン戦線で多くの船を撃沈され戦死者が出る惨状を目の当たりにしたこともある。なお、後年首相時代以降の彼を存分にネタにしたのが漫画家・いしいひさいちだが、その漫画での中曽根は「海軍オヤジ」とキャラ付けされ、顔に「錨」マークが入れられていたものだ(笑)。

 敗戦後は内務省に戻るも、間もなく政治家に転身。旧憲法下最後の衆院選となった1947年の総選挙で初当選し、当時の民主党や改進党など保守系野党を渡り歩いて、当時の首相・吉田茂を国会で激しく批判して頭角を現してゆく。昨年の歴史話題の一つとなった昭和天皇の発言記録についてのNHKの番組の中でも、主権回復と同時に天皇は退位すべきではないのかと若き日の中曽根が吉田に国会で質問している映像が紹介されていた。
 1955年の保守合同による自由民主党誕生以後は河野一郎派に属した。またこの前後に戦前以来の政治家にして読売グループ総帥である正力松太郎と結びつき、共に日本の原子力研究の推進を主張、日本の原発政策の始りに一役買っている。この中曽根と正力を結びつけたのが現在も読売グループのドンである「ナベツネ」こと渡辺恒雄で、この時期から晩年まで長く深い付き合いを続けることになる。

 河野一郎死去後に自ら中曽根派を結成、自主憲法制定や防衛力増強などタカ派とされる主張で目立つ存在となってゆくのだが、佐藤栄作首相を鋭く批判していたのにコロッと手打ちして運輸大臣として入閣した時についたあだ名が「風見鶏」だ。中曽根自身は当初から「いずれ必ず総理になる」と公言していて、そのためにはある程度主義主張も引っ込める柔軟性を持っていたという事でもある。
 1970年代に自民党内で総理候補がひしめいた、いわゆる「三角大福中」(三木・角栄・大平・福田・中曽根)の一角に名を連ね、1982年にこの中で一番最後に総理の座に就いた。総理になるにあたっては田中角栄の後押しを強く受け、党人事や閣僚人事で田中派に大きく配慮して、「田中曽根内閣」などと揶揄されていたのは僕自身も記憶にある。もっともその田中が1985年2月に脳梗塞で倒れ、その直前に竹下登が自らの派閥を立ち上げて田中派を分裂させたこともあって、「田中曽根」状態は中曽根内閣の後半にはかなり薄れてしまっていた。

 中曽根内閣といえば、国内的には国鉄の分割・民営化や電電公社・専売公社の民営化など行政改革の断行が目立った政策となる。国鉄を民営化して現在のJR各社に移行させ、サービス面に関してはかなり良くなったことは事実だが、一方で社会党の支持勢力でもあった「国労」つぶしを露骨にやり(これが真の狙いだったと後年中曽根自身が発言したことがある)、分割されたために地方、特に北海道では多くの鉄道路線が廃止になった。民営化の利点ももちろんいろいろあったとは思うが、悪い意味での「企業努力」をした結果としてJR西日本の福知山線事故につながっているという面も見逃せない。中曽根内閣とは関係ないが現在問題を起こしている日本郵政だって同じ民営化の流れで悪い意味での企業努力に走った結果だ。
 中曽根は「戦後政治の総決算」というスローガンを掲げ、8月15日に靖国神社を「内閣総理大臣」として公式参拝して物議を醸し、結局当人も含めて以後の歴代首相もそれは避けるようになるきっかけともなった(小泉純一郎が最後の年に実行した以外は今のところない)

 ちと話が脇道にそれるが、この靖国神社参拝の直前に日航ジャンボ機墜落事故が起こっている。これをモデルにした山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」では中曽根をモデルにした「利根川首相」が登場しており、映画版では加藤剛が演じている。群馬というと利根川源流、というイメージがあるからなんだろうが、いしいひさいちの「大政界」のアニメビデオでも中曽根は「大利根無情」という名前にされていた(笑)。
 「沈まぬ太陽」に話を戻すと、僕は小説の方は全部は読んでなくて映画版からの話になるが、作中で大利根首相(中曽根)の懐刀として旧大本営参謀の瀬島龍三としか思えない人物が出て来て、日航がモデルの「国民航空」の改革に首相の意向を受けて首を突っ込んでくる。瀬島は同じ山崎作品「不毛地帯」の主人公のモデルともされているが、こういう戦中以来の闇を背負ったような人が周囲に出て来るところも中曽根の「らしさ」だった。

 中曽根政権はちょうど冷戦の末期にあたっているが、当時は冷戦終結なんて想像もできず、むしろ対立の再激化が見られた時期だ。アメリカではレーガン、イギリスではサッチャーが指導者となり、「新自由主義」と呼ばれる露骨な資本主義政策を推し進めて、それが今日までいろいろと尾を引き、どっちかというと弊害を多く出してるように感じるのだが、ともかく中曽根政権も流れとしてはこれに乗っかっていた。軍事外交面でアメリカにより追従を進め、「日本列島はアメリカの不沈空母」と発言して物議をかもしたこともあった。その一方で「アメリカには黒人やヒスパニックが多く知的水準が低い」と発言し、猛烈な抗議を受けたこともある。
 日米関係、とくにレーガン大統領との「ロン」「ヤス」とファーストネームの愛称で呼び合う関係は中曽根政権を象徴するもので(今の安倍さんだと「ウラジーミル」だな)、レーガンが訪日した際に自身の山荘に招待して一緒に法被を着て接待する映像は何かといううと繰り返し紹介され多くの人の記憶に残った。もっともこのレーガンから貿易赤字をなんとかしろとせっつかれて「プラザ合意」を行い、急激な円高を招いてその後のバブル経済の原因を作ることにもなった。

 中曽根と言えば、といろいろ思い出す話が多いが、1986年の衆参同日選での圧勝、というのもある。不均衡是正のための選挙法改正の直後だったため「解散はない」というポーズを寸前までとっていて結局解散して衆参同日選を実施したため「死んだふり解散」と呼ばれた。以後も首相は解散に関して嘘をついてもかまわない、ということになっちゃってるのだが、この時期のちの消費税の原型である「大型間接税」だの「売上税」だのの導入が模索されていて、それについても中曽根は選挙中否定し続け「この顔が嘘をつく顔に見えますか」の名言まで放った。これだって次の竹下政権では実行されちゃうわけで。
 この衆参同日選は自民党の記録的圧勝になり、中曽根は総理総裁の任期を一年延長出来た上に、「ニューリーダー」と言われた三人から後継指名をできることになって、強い影響力を残しつつの花道の総理退任となった。日本の歴代首相の中でも長期政権の方であり、歴史に残るといってもいい存在感を残したことも否定できない。総じて「ツイてる」首相だったな、と今でも思う。

 ただ次の竹下政権で「リクルート疑獄」が発覚、自民党の大物政治家の多くがそこに名を連ねたが、中でも一番の大物とみなされたのが中曽根だった。中曽根がこうしたスキャンダルに見舞われるのはこれが初めてでではなく、それまでにも「九頭竜ダム疑獄」「ロッキード事件」と何度か疑獄と言うと名が挙がってきた。この人、この点でも「ツイてる」政治家で、結局このリクルート疑惑の際も静止画像ばかりの国会喚問だの自民党からの一時離党だのを乗り越えて無傷で済んでしまっている。
 ほとぼりがさめたころに自民党に復党、生きているうちに大勲位菊花大綬章を授与され、「大勲位」もあだ名に加わる栄誉を受けたが、いつまでたっても政治的に生臭い人で(この点もいしいひさいちの漫画でよくネタにされていた)橋本龍太郎政権の時に腹心でロッキード事件で有罪となっていた佐藤孝行を強引に入閣させようとしたら世論の猛反発を受けて断念、橋本政権自体の短命につながってしまうという一幕もあった。悲願の憲法改正実現のために自民・民主の大連立を画策していたこともあったっけ。

 かつての中選挙区制では中曽根の地元「群馬3区」は福田赳夫小渕恵三と自民党の首相経験者が三人もひしめき「上州戦争」などとまで言われた激戦区で、前述の「死んだふり解散」の与党圧勝時でも中曽根は同選挙区の2位に甘んじている(現役首相でこの例は他にないらしい)。現在の小選挙区比例代表並立制が導入されると、中曽根は小選挙区は福田・小渕両家に譲らされる形になり、その代わり比例区北関東の第一位の地位を「終身」で約束する、という待遇がとられた。
 しかし2003年、小泉純一郎政権の時に自民党に「定年制」が導入され、「終身」を約束されていた御年85歳の中曽根に小泉首相自身が引退勧告を告げることに。中曽根はこれを「政治的テロ」とまで呼んで反発し、小泉首相との会談では録音テープを隠し持つという挙にまで出て、その執念には呆れつつも恐れ入った覚えがある。こうして政界引退となっても改憲集会に毎年のように顔を見せて相変わらずの執念を見せ続けていたが、気がついたらあの引退からすでに16年も過ぎていたのだった。
 
 中曽根の死去により、首相経験者で存命のうち最高齢は御年95歳の村山富市元首相となった。この人は1924年(大正13)生まれで、首相経験者のうち最後の大正生まれということにもなった。そういや1994年に村山さんがまさかの自民・社会連立で首相に指名された際、中曽根は社会党党首である村山さんへの投票を拒絶したりしてたんだよな。
 社会党と言えば、ちょうど中曽根政権の時に社会党委員長として中曽根と対決し、「死んだふり解散」の衆参同日選で惨敗して辞任した石橋政嗣が12月9日に亡くなり、ネット上では中曽根以上に「まだ存命だったのか」と驚きの声が多く見られた。調べて見ると村山富市さんと同じ1924年生まれの95歳だった。
 社会党から改名した社民党も、どんどん弱小勢力になってしまい、近ごろじゃ野党再編構想の中でついに消滅か、という話も出て来ている。



◆弾劾と離脱と民意と 

 これまた昨年末の話題で少々時期外れになってしまうが、今年2020年の展望上重要な要素になりそうだ。

 12月18日、アメリカ連邦議会の下院は賛成多数でトランプ大統領の「弾劾訴追」を決定した。要するにトランプさんがアメリカ合衆国大統領としてふさわしくない行動をした、だからやめさせよう、という決議なのだが、トランプさんともなるとどの言動が理由になるのか、候補が多すぎてわからなくなっちゃうくらいだが(笑)、この弾劾の直接の理由はいわゆる「ウクライナ疑惑」だ。トランプ大統領がウクライナ大統領に対して軍事支援と引き換えに、民主党の有力大統領候補とされるバイデン前副大統領の息子に関するスキャンダル情報の提供を求めた、とされる疑惑で、トランプさん本人は全否定して「魔女狩り」などと騒いでいるが、政権側から内部告発者も出て、そうした取引を持ちかけた事実は否定しようがないと思う。少し前に騒がれた「ロシアンゲート」の方がいろいろ深刻に思うのだが、直接的に証拠あり、ということでこっちでの弾劾になったということだろう。

 もちろんこの下院の「弾劾訴追」一発でトランプさんが罷免というわけではない。これから上院で弾劾裁判が行われ、三分の二以上の賛成を得れば大統領弾劾が確定する。現在のアメリカ上院は与党の共和党優勢のため、普通に考えればまず通らない。共和党議員から一部造反が出れば…という希望的観測もあるが、その前の下院での弾劾訴追で民主党から3名の造反(つまりトランプ弾劾に反対した)が出て共和党に鞍替えするという事態も起きてるくらいだし、世論調査でも頑強なトランプ支持層にはこんな疑惑も弾劾も影響はないようだ。トランプさんみたいな大統領だと、「大統領らしからぬこと」をやってもそういうキャラだとみんな承知しているので問題にならないという、考えてみれば恐ろしい状況だ。

 歴代アメリカ大統領で弾劾訴追され弾劾裁判にまでかけられたのは、トランプさんで三人目、と報じられていた。前例は南北戦争の直後、リンカン暗殺により大統領に昇格したアンドリュー=ジョンソン、そして「不適切な関係」で記憶に新しい、前回の大統領選挙で奥さんがトランプに敗れたビル=クリントンの二人だ。あれ、リチャード=ニクソンは?と思ったら、彼の場合は「ウォーターゲート事件」で下院で弾劾訴追された直後に辞任している(そのままだと弾劾が成立する可能性が高かったため)ので、この例に数えないということらしい。
 今回、民主党が大統領弾劾訴追を踏み切ったのは、今年行われる大統領選挙をにらんで、トランプ再選を阻止するためと言われている。それはそうなんだろうけど、実際に効果あるかどうかは微妙。さっきも書いたがそもそもトランプの岩盤支持者や共和党支持者にはもともと弾劾自体に反発しているし、民主党支持層にもさほどアピールするようには見えないからだ。ことトランプの話になると好き嫌いで二分されて中間派があまり存在してないようにも思えるし。結局のところは民主党の大統領候補次第ということになるんだろうなあ。今の空気だと最初の当選時同様に「まさか」と言ってるうちに再戦ってことになっちゃいそうな…
 そんな2020年の年明け、トランプ大統領はイラク国内で活動していたイラン革命防衛隊のスレイマニ司令官を殺害する、という挙に出た。イラン側が報復を唱え、トランプさんがそれに対して更なる報復を警告する、という正月からキナ臭い展開に。この殺害作戦はさすがにアメリカ国内でも合法性を問う声があるし、選択肢に提案した国防総省も「まさかホントにそれをやるか」と驚いてる、と報じられていて、まぁやっぱり「トランプらしさ」だなぁと。これがまた大統領選挙にどう影響するのか、どっちに転ぶものやら。


  さてイギリスのジョンソン首相は「イギリス版トランプ」などと言われる人でもあるのだが、こちらは12月12日の大勝負、総選挙に圧勝し、一時の危機を一気に解消して、持論のイギリスのEU離脱「ブレグジット」を一気に加速させ、今年一月中にも離脱を実現する運びとなった。あの国民投票以来グダグダと続いていたブレグジット問題もようやくハッキリとした結果を出すことになる。EU側も正直もういい加減にしろと思っていたようで、総選挙の結果を「歓迎する」と発表していた。

 まあ結局そうなっちゃうのか…と、総選挙の結果には正直暗い気分にもなった。イギリスの皆さん、そんなにEUがイヤなのか、と。もちろん話はそう単純ではなくこれだけ注目される選挙でも投票率は67%程度、残留か離脱かは国民投票の時以来そこそこ拮抗しているのが実態だが、選挙というのは民意が正確に反映されるとは、残念ながらなっていない。特にイギリスは小選挙区制であるため、ちょっとした弾みで一方が地滑り的圧勝を起こしてしまうケースが見られ、今回はそれが保守党圧勝へと流れてしまった、ということみたい。僕も思ったし、実際日本のマスコミで指摘があったが、小泉政権時の「郵政解散」の時とよく似たところもある。思い切った動きをすると「民意」はそっちに流れやすく、選挙の仕組みでそれがより露骨に出てしまうという。上の記事でも触れたが、近ごろの日本郵政をめぐる諸問題を見てると、郵政解散っていったいなんだったんだ、と思うばかりで。
 ただ小選挙区制の仕組みのためとはいえ、一方の労働党がそれまで強いとされた選挙区でも落とす歴史的敗北をくらってしまったのは事実。これについては労働党自身がEU離脱への態度が今一つはっきりしなかったこと(勝利したら国民投票をもう一度、という公約をしていた)、支持基盤の労働者がそもそもEUなどグローバル化に反発があるといった背景は説明される。いくつか労働党地盤の取材を報道で見たけど、なんかアメリカの衰退した製造業地域の労働者たちが「何か変化を」とトランプに投票してるのとよく似た構図になってるような…それでEU離脱して何がよくなるのか、ハタから見てるとさっぱりわからない。
 イギリスのEU離脱が目前に迫ったことで、EU残留を望む声が多いスコットランドや北アイルランドが独立に動いたりするんじゃないか、という観測もある。今のところ大きな動きは出てないようだけど、スコットランドはもしかすると一方的に独立を問う住民投票をやっちゃうかもしれない。スペインのカタルーニャみたいな騒ぎは十分ありえるんじゃないかと。



◆キビの名は

 吉備真備、というと、僕はまず「火の鳥」鳳凰編を思い出す。最初に彼の名前を覚えたのがこの漫画だったからだろうな。この漫画の中では遣唐使で唐に渡って帰国した貴族で、橘諸兄と権力闘争をしている設定だった。史実ではこの二人が特に対立していたわけではないようなのだが…。
 この「火の鳥」鳳凰編はアニメ映画化されているが1時間程度と短い作品になったため(もともとOVA企画だった)、橘諸兄は登場せず吉備真備が彼の役割の分まで演じる形になっていた。この時真備の声を演じたのが大塚周夫、「ゲゲゲの鬼太郎」の名キャラ「ねずみ男」の役で有名な人だ。不思議なことにアニメ化なんて想定もしていなかったであろう原作漫画の方で吉備真備が一コマだけ「ねずみ男」に描かれるというギャグがある。

 吉備真備は古代の「吉備」、現在の岡山県の出身。先年水害で大きな被害を出した倉敷市真備地区、旧真備町が彼の出身地とされ、地名の方が彼に由来してつけられている。地方豪族の出身となると奈良時代の貴族社会にあっては決してランクの高い人物ではない。彼自身の能力も高かったのだろうが、遣唐使として唐に留学したのはそうした出身から出世するための手段、という側面もあったと思う。真備が唐に渡ったのは717年のことで、あの阿倍仲麻呂、それから中国で墓誌が発見され話題となった「井真成」も同じ遣唐使で唐に渡っている。

 真備の唐留学は18年の長期に及んだが、その間どこで何をしていたのかは記録がない。ただ中国の正史『旧唐書』日本伝に、玄宗皇帝の時代の初めに日本から使者が来て「儒教の経典を学びたい」と申し出たので玄宗が趙玄黙という学者を鴻臚寺(外国使節の接待をしたところ)に派遣したこと、またこの使者が帰国に際して唐政府から贈られた餞別の金をすべて書籍に代えてしまったとの記事があり、これが真備のことではないかとする説がある(その直後に阿倍仲麻呂の記事があるが仲麻呂の方が地位が低いようになっているのは矛盾している)

 昨年暮れの12月25日、中国で注目すべき発表があった。2008年に発見され、2013年から広東省深圳の博物館が所蔵している唐の時代の墓誌の末尾に、その墓誌の文字を書いた人物が「日本朝臣備」とされていて、これが吉備真備にほぼ間違いない、という発表だったのだ。
 これは当時鴻臚寺に勤めていた高級官僚・李訓という人物の墓誌で、開元22年(734)6月20日に死去、同25日に埋葬されたと記されている。文章を起草したのは秘書丞の褚思光という人物で、全328字が35cm×36cm、厚さ8.9cmの石碑に刻まれていた。
 その文字そのものを書いたのが「日本朝臣備」なる人物、ということになるのだが、吉備真備はこの翌年に日本に帰国するのでこの時点でまだ唐にいたし、帰国後も書の名人と呼ばれていたこと、先述の『旧唐書』日本伝の記事から鴻臚寺の官僚と深く関わっていたと推測され、その墓誌の文字を書くよう頼まれる可能性が高いこと、そもそも「備」という一字の名前も「吉備真備」を中国風に二文字で「真備」などと名乗っていたからではと推理されること…などなどから、この「日本朝臣備」は吉備真備であろうという話になっているのだ。もちろん推理・推測ばかりで断定要素はないのだが、日中の研究者がおおむね妥当な見解と認めているようだ。

 「日本朝臣備」が本当に吉備真備だとすれば、この墓誌の文字は真備本人の筆跡ということになり、これがまた大発見になる。真備の筆跡と伝わるものが日本国内にいくつか存在はするが、有名人だけにあまりアテにならないのも確かで、この墓誌の文字が真備の「真筆」といて貴重な資料と扱われることになりそう。また現時点で外国で見つかった日本人の手になる文字の最古資料ということにもなる。
 さらにいえば「日本朝臣」という表記も注目される。「日本」という国号使用がいつからなのかは議論があり、『旧唐書』でも「日本は倭国の別種」とか「あるいは倭国自身がその名前が雅でないとして日本に改名した」とか「日本が倭国を併合した」とかいろいろ書かれている。文字資料として「日本」が確認できる最古の例が、先述の遣唐使メンバー・井真成の墓誌にあるもので、彼は開元22年(734)の正月に死去している。そう、今回話題となっている李訓の墓誌と半年くらいしか違わないのだ。井真成墓誌が最古の例なのは変わらないが、李訓墓誌の方は日本人自身が「日本」と記した点で「最古」ということになるだろう。

 吉備真備は735年に帰国し、多くの唐の文物を持ち帰って聖武天皇から重用され、その娘の孝謙・称徳天皇の教育係をつとめたことから彼女からも重用された(そういやNHKドラマ「大仏開眼」で吉岡秀隆の真備、石原さとみの孝謙女帝のペアになってましたね)。しかし地方貴族出身の彼の出世を不快に思う者も多かったようで、反乱を起こした藤原広嗣はその挙兵理由に吉備真備の重用を挙げているくらい。藤原仲麻呂の台頭で真備は九州の地方官に左遷され、752年には遣唐使の副使として再び唐に渡っているが、それは以前留学した経験を買われてのことでもあろうが、厄介払いさせられていたんじゃないかという見方もあるようで。先の留学とは違い、今回は外交使節の主要メンバーとして渡航したので、すぐ翌年に帰国。この帰国する遣唐使船団には鑑真がひそかに乗り込んで執念の日本渡航を果たしたが、同じ船団で帰国しようとした阿倍仲麻呂はベトナム方面に漂流してしまい帰国できなくなってしまった、といったドラマいろいろである。真備は二度の渡航でも無事に帰ってるからなかなか強運な人である。
 帰国後は太宰少弐として大宰府に勤務したのち、70歳の高齢でようやく奈良に帰り、同年の藤原仲麻呂の乱を、唐で学んだ兵法を使って鎮圧するという武勲も挙げている。775年に80歳という当時としてはかなりの長寿を全うしている。なかなかに波乱かつ強運の人生だと言えよう。一説に囲碁を日本に持ち込んだのも彼ということになってるそうで。

 それにしても中国はまだまだ何が出て来るかわからんなぁ、と思わされるニュースだった。



◆あれから四半世紀

 昨年末までにこの記事をアップしようと考えていたら結局年を越し、三が日もとっくに過ぎて仕事初めごろようやく更新となったのだけど、今回はこの四つ目のネタを何にするのかでちょっと困っていた。ニュースがないわけではないが、もう一つ「史点」的に面白くないというか…年の瀬ギリギリに飛び込んできた、カルロス=ゴーン逃亡事件なんて、かなり面白いネタではあったが、現時点では話がどう転ぶか分からないし不明点も多いので、もうしばらく様子見かな。
 そんなわけで、今回は「史点」的にはかなり変わったテーマを取り上げることにした。「ああ、あれからもう四半世紀になるのか」と自分自身驚いたあらだ。なんの話かというと、1994年末に勃発した「32ビット次世代ゲーム機戦争」から昨年末で25年が経った、という話題である。

 当「徹夜城の多趣味の城」で一番最初にオープンしたのは「硬派なPC−FX広場」(現在は「「PCエンジンFX広場」)であった、というのはかなりの古参のお客でないと知らないと思う。僕はもともとPCエンジンの濃いめのユーザーで、その流れでPCエンジンの後継機のPC−FXユーザーになり、そのファンサイトを立ち上げたという経緯があったのだ。それは1997年のことだが、PC−FXの発売は1994年12月23日のことで、つい先日それに気づいて、「四半世紀か!」と今さらながら驚かされたわけだ。

 四半世紀前、1993年という年は、TVゲーム(ビデオゲーム)史において一つの画期となった年だ。この年に入るまでのゲーム機市場は任天堂のスーパーファミコンがトップシェアを占め、セガがメガドライブでそれに対抗、海外市場ではかなりの成功を収めていた。そしてPCエンジンはハドソンとNECホームエレクトロニクスが開発したゲーム機として日本国内ではメガドライブよりはシェアがあるが海外ではイマイチ、という状態にあった。なおスーパーファミコン、メガドライブは共に16ビットCPUのゲーム機だったが、PCエンジンは8ビットCPUながら処理速度の速さ、およびメディアに世界初のCD−ROMを導入して当時としては人目を驚かせる映像・音声演出のゲームを出すことで差別化を図っていた。まぁ詳しい話は「硬派なPCエンジンFX」の各種記事でも読んでください。

 この「三国鼎立」状態のゲーム市場に、1994年から続々と32ビットCPUにCD−ROMメディアを採用した「次世代マシン」が投入され、新規にゲーム事業に参入する家電メーカーも目につくようになる。
 先頭を切ったのは「3DO」。これはもともとアメリカの「3DO社が作ったゲーム機「規格」で、その規格にのっとって各社から3DOマシンが発売され、「ゲーム機のVHSを目指す」などという声もあった。日本では1994年3月に松下電器の「パナソニック」ブランドで「3DO REAL」が発売され、他に三洋電機からも同規格のマシンが発売された。東芝やサムソンも計画だけはしていたが結局出さずじまい。3DOは注目はされたのだけど高価格だったこと(能力的には妥当なのだが以後のゲーム機は本体価格は利益が出ないほど安くして売るようになった)、年の暮れにはさらなる新マシンが市場投入されて埋没してしまったこととで早くも翌年には存在感を失ってしまった。この業界、「後だし」の方が得なことが多いというのも事実。3DOのソフトのラインナップを今になって眺めると、ゲーム以外の「マルチメディア戦略」的なものが多いのも特徴だが、これもあまり成功例がなく、以後はほとんど見られなくなる。

 そしてこの年の11月22日にセガから「セガサターン」が発売される。なにせ同時発売ソフトが当時人気爆発中だった3D格闘ゲーム「バーチャファイター」である。今見るとこの一作目のポリゴンカクカクなキャラたちの姿には時代を感じてしまうが、その動きにはみんな驚いたんだよね。これをかなり早く家庭用に投入、というのがサターンの売りで、この年一番人気のゲーム機といってよかった。
 セガは任天堂とゲーム機戦争を繰り返してきた歴史があり、その都度敗北を繰り返していたが、ここで一気に任天堂を圧倒しようとしていた。任天堂もさるもので「すぐに64ビット機出すぞー」と発表して牽制しており、セガもそれを意識してサターンに32ビットCPUが二つ積んであることを根拠に「64ビットゲーム機」と必死にCMでアピールしたりしていた。サターン開発には日立製作所や日本ビクターも関わっていてそれぞれに互換機が発売されてもいて、家電メーカーの代理戦争みたいに言われていたこともあった。

 サターン発売からおよそ十日後の12月3日、ソニー・コンピュータ・エンタテインメントから「プレイステーション」が発売される。これまた家電大手のソニーがゲーム市場に乱入してきた形だが、知ってる人は知ってるように、実は「プレイステーション」という名前のゲーム機はさらに数年前にソニーと任天堂とで共同開発が進められていた。それは任天堂のスーパーファミコンに接続するCD−ROMマシンだったのだが、結局任天堂側が難色を示してお流れになったのだ。任天堂がこの話を流した理由はCD−ROMというディスクメディアに懐疑的だった(カセットの方が任天堂にはウマミもあった)、実際に発売するとソニー側に主導権を奪われることを恐れたためとか、いろいろ言われている。
 そこでソニーは自ら「プレイステーション」を開発、発売することになったわけだが、こちらは当初からソフトメーカー側の人気・期待が高かった覚えがある。当時僕は色々ゲーム雑誌を読むようになっていたが、次世代機の実態がだいたい出そろったころ、あるゲームクリエイターが「これなら革命を起こせるかも」と発言してるのを見たことがある。そしてプレイステーションは任天堂の天下をついにひっくり返して「革命」を現実に起こすことになってしまった。

 「プレイステーション」は優れた3D処理機能を持ち、開発・販売などの優位性もあって参入メーカーが増えてソフトのバラエティも豊富になり、一見同等性能に見えるが実は2D表示に強く設計されていたサターンをジリジリと切り崩していった。当時奇をてらってる感はあったが確かに人目はひくTVCMがガンガン流され、特にゲームマニアではない層まで取り込んでゆき、とどめはそれまで任天堂マシンでしか出なかった「ファイナルファンタジー」「ドラゴンクエスト」の2大RPGが「プレイステーション」に移籍、発売されたこと。セガは任天堂には勝ったが新入りの別の敵に首位をかっさらわれた形となり、このあと起死回生を図って「ドリームキャスト」を発売するも結局プレステシリーズには勝てずゲーム機事業から撤退することになってしまう。
 そして「プレイステーション」の方は「2」「3」「4」とバージョンアップする形で2020年の現在もシリーズが続いている。近々「5」が出るらしいんだけど、もう初代プレイステーションから四半世紀になってしまうのか、と思うと、これもまた立派な「歴史」であるな、と思う次第。最近はゲーム業界も携帯ゲーム機やスマホゲームに主軸が移ってしまった感もあるけど。

 1994年の話に戻すと、すでに書いたように、この年の12月23日にNECホームエレクトロニクスから32ビットCD−ROMゲーム機「PC−FX」が発売された。32ビット機戦争の一角には違いなかったが、正直なところサターン、プレステの陰で3DOよりも存在感がなかった。売りとしてはCD−ROMゲーム機として歴史を持っていたPCエンジンの後継機として、特に動画再生に強い設計となっていて、PCエンジンCD−ROMソフトに多かったアニメ系・美少女系のゲームに強いような感じはあった。動画再生機能も単なるムービー流しではなく、パッドの入力に応じて素早く動画を切り替えられるという変わった特性があり、ローンチタイトルの一つ「バトルヒート」は「北斗の拳」みたいなアニメを使って格闘ゲームができるという、かなりの変り種だった(どんなものか分からない人はYoutubeの動画などを参照されたい)
 
 しかしゲーム性がイマイチだったし、このシステムをうまく使ったソフトもほとんどなく、結局はムービーを流すばかりになってしまい、それではプレステやサターンでもできちゃう、ということもあってPCーFXは早くからその売りを失い、結局PCエンジンより先にソフト供給が終わってしまった(といってもPCエンジンは最後のソフトが唐突に出た事情があるが)。それでも数こそ多くはないがソフト供給は4年は続いたし、中には無名ながら良質なゲームもあった。個人的に「虚空漂流ニルゲンツ」を遊べただけで元はとった、と思っている(笑)。まぁワカラン人は調べて下さい。
 このPC−FXの失敗もあって、NECホームエレクトロニクスとハドソンは次第に業績が低迷(まぁ理由はいろいろあるが)、現在はどちらも企業としては消滅してしまっている。今年2020年3月にPCエンジンのソフトを数十本えりぬきして一台のマシンにおさめた「PCエンジンミニ」が発売される予定だが、NECホームエレクトロニクスでもハドソンでもなく、コナミからの発売となっている。これはハドソンが末期にコナミの子会社となり、そのソフトの権利もコナミに継承されたため、いまPCエンジン商品を出すとなるとコナミということになってしまうらしいのだが、まぁこれにもまた時の流れを感じてしまうものだ。


2020/1/7の記事

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