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2019年11月27日

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◆壁崩壊から三十年

 何度か書いてるが、今年2019年は、平成元年でもある1989年からちょうど30年目。この1989年という年は内外で歴史的大事件が多発した年で、今年がそれらの事件から「30周年」という話題が繰り返されている。例えば6月4日の「天安門事件」がそうだし、つい先日の11月4日はオウム真理教による「坂本弁護士一家殺害事件」発生から30周年だった。他にも「これもこの年だったのか」と気づいて驚かされることは僕でも多い。
 そんな大ごとが多かったこの年、「歴史的」に見て最大の事件は、やはり「ベルリン壁崩壊」になるだろう。1989年11月9日、西ベルリン地区を取り囲んで「東西冷戦の象徴」と呼ばれていたこの「壁」が、いきなりあっけなく崩壊したのだ。当時歴史学徒の端くれに入りつつあった僕などは、「歴史は誰も予想できないほど急に動くことがある」ということを実感したものだ。それくらい「ベルリンの壁」といえば、越えられない壁、分断の壁として半永久的にそのままなのではないかと当時ほとんどの人が思っていたはず。当時僕の知人の一人が下宿に一週間ほどこもってニュース媒体に全く接しなかったため、「壁崩壊」を一週間後に知ってぶったまげていたのも強く印象に残っている(笑)。

 「ベルリンの壁」が築かれたのは1961年のこと。第二次大戦の敗戦国ドイツは東西冷戦のなかで東ドイツと西ドイツに分断され、首都ベルリンは両者で半分ずつ持つことになったが、西ベルリンは東ドイツの中に孤島のように浮かぶ「資本主義陣営のショーウインドウ」となり、東側から西ベルリンへ人の流入が起こった。これを阻止するために東ドイツ政府が西ベルリン地区の周囲に一気に築いたのが「ベルリンの壁」である。この壁を越えようとする者は守備隊によって射殺もOKとされており、多くの悲劇が生まれたものだ。

 壁建設から28年が経った1989年(と書いていて気付いたが、もう壁が存在した時間より崩壊後の時間の方が長くなったんだな)、社会主義陣営の親玉・ソ連がゴルバチョフのもとで体制改革と対米融和を進め、ソ連の体制の「ゆるみ」は、それまでソ連の抑圧下にあった東欧諸国に「解放」のムーブメントを広げていった。ポーランドで自主管理労組「連帯」が政権参画し、ハンガリーではオーストリアとの国境が解放され、東ドイツ市民がハンガリー経由で西ドイツへ行くという動きがすでに8月に起きていた。そして10月には東ドイツで長らく最高権力者であったホーネッカーが解任される。

 すでに東ドイツの政権はガタガタになっていて、東ドイツ市民の西側への流出はあちこちで起きていた。そんな状況のなか、11月9日に東ドイツ政府は市民の国外旅行を認める決定を下すのだが、このとき政府のスポークスマンとして記者会見に臨んだギュンター=シャボフスキー勘違いから(混乱状況の連絡の悪さもある)、「ベルリンの壁も含めて国外に出ていい。それもただちにだ」とTV生中継で発言してしまい、これを知った東ベルリン市民が壁の検問所へ殺到、東西ベルリン間の移動はなし崩し的に自由となり、それじゃこんなものいらない、と市民たちがベルリンの壁を破壊しはじめた。この「壁崩壊」の映像は世界中に流れて「冷戦終結」を強く印象付け(米ソ首脳のマルタ会談で公式に冷戦終結が宣言されるのは12月3日)、翌1990年10月3日にドイツ再統一が実現する。
 ちょっと脇道にそれるが1991年のNHK大河ドラマ「太平記」は第一回冒頭にいきなり「ベルリンの壁崩壊」の映像を持って来て、現代の世界と14世紀の日本とを「激動期」としてくくる、という演出を行っていた。

 それから30年が経った先日の11月9日、ベルリンでは記念式典が行われ、ドイツのシュタインマイヤー大統領、メルケル首相、東欧各国首脳などが参列した。今やドイツを長く牽引しているメルケル首相はもともと東ドイツ出身で、ベルリンの壁崩壊時は35歳。政治家になることなど全く考えてなかったが、壁崩壊の騒ぎを知ってその直後に西ベルリンに入っている(もっともその数年前に西ドイツ旅行は果たしている)
 旧東ドイツ出身者であるだけに、メルケル首相は式典での演説で東ドイツの独裁体制が多くの市民の犠牲を生んだと批判し、犠牲になった人々のことを「決して忘れない」と語った。そして「欧州は人権と寛容のために戦わなくてはならない」と付け加えていた。
 この日、ベルリンのブランデンブルク門ではベートーベンの交響曲第5番「運命」が演奏された。29年前のドイツ統一のとき、同じ場所でベートーベンの交響曲第9番の「合唱」が演奏され、統一の「歓喜」が強烈に印象付けられたものだが、「運命」と来るとかなり重い。「壁」の犠牲者を悼む意味もあるからという選曲なのかもしれないが、現在のドイツが統一から30年が過ぎいろいろと問題も抱えるようになり、特にメルケル首相も口にした「寛容」について一部で深刻な状況になってきている、という背景もあるのかもしれない。

 ドイツは第二次大戦時のナチスがムチャクチャやったもんだから、その反省の姿勢を強く持ち、それが昨今の難民・移民への寛容な態度につながっている…というところもあるのだが、その一方でやはり不寛容。排他的な極右勢力が拡大しているとの話も報じられている。特に歴史問題では西ほどうるさくなかった旧東ドイツでその傾向が強いとされていて、それには経済格差も背景にあるとも言われている。

 その旧東ドイツにドレスデンという都市がある。第二次大戦では連合軍の猛烈な空襲を受けて大変な犠牲を出したことでも知られる。そのドレスデン市議会が「ナチス非常事態?」と題する決議案を賛成39反対29で可決、報道では「ナチス非常事態宣言」と奉じられ、注目された。この決議案は左派政党が提出したもので、同市において活発化している排他的、反民主主義的な政治勢力に対する懸念とその対策を訴えたものだ。
 ドレスデンはドイツにおける有力な極右・反イスラム団体である「西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人」=略称「PEGIDA(ペギーダ)」の発祥地で、なんと毎週のように彼らのデモ活動が行われているという。看板には「反イスラム」を掲げるが、どこの極右でもそうした「入りやすそうな入口」からナチス同様の反ユダヤなど他の少数派排除や民主主義否定の方向を出して来るものだ。
 この「ナチス」まで持ち出した決議案については、提出した左派政党やリベラル系はもちろん賛成、極右政党の「ドイツのための選択肢」は当然反対した。なお、この「ドイツのための選択肢」が9月の地方選挙で得票率28%を得たこともこの決議案の一因となっている。このほか中道右派の「キリスト教民主同盟」も反対にまわったが、これは政党としての立場と共に、恐らく「ナチス」を持ちだしたことへの拒否反応があったのではないかと。

 ナチスといえばヒトラーだが、オーストリアのブラウナウに現存するヒトラーの生家となった建物について、保存するのか、あるいはナチスやヒトラー信奉者の「聖地化」を防ぐために破壊すべきか、という議論が数年前に報じられていた。建物の所有をめぐる法廷闘争の末、2016年から同建物はオーストリア政府の管轄下におかれていたが、去る11月19日にオーストリア内務省はこの建物を警察署として利用する計画を発表した。ここを警察の拠点にしえしまえばナチス信奉者連中の「聖地」になることを防げるだろう、というわけだ。
 建物自体を再利用するのかと思ったら、来月にもEU内で警察署デザインのコンペを行うという話になっていたので、建物自体は取り壊してしまうのだろうか。あるいは外見の改造だけなのか。確かに「聖地化」は懸念されるべきだけど、生まれた人のその後が問題なのであって建物自体に罪はないんだから一つの史跡として残してもいいんじゃないかなぁ…というのはナチスアレルギーが薄い日本人の感覚だろうか。
 その報道を見ていたら、ヒトラーの誕生年は1889年で、ちょうど今年は130年目になるのだった



◆ディープな印パクト

 こちらも「分断国家」といっていい。何かと対立するインドとパキスタンだが、もともとは同じ「インド」の枠内であり、イギリスの植民地支配から独立する際にヒンドゥー教徒多数派地域がインドに、イスラム教徒多数派地域がパキスタンになった(そのうち「東パキスタン」はバングラディシュになる)。当然事情はそう単純にはいかず、お互いに少数派宗教の信者を抱えているし、領有をめぐって争っているカシミール州のように支配層と住民とで宗教が異なったためにややこしくなってしまった例もある。じゃあいつも対立しているかというと、単なる「隣国同士」というよりは、共通性の多い「親戚同士」のような感情が垣間見える時がある。

 そんな両国関係なのだが、インドのモディ首相の現政権がヒンドゥー至上主義を支持母体としてることもあって、最近何かと騒ぎになることが多い。つい先日も長らく自治が認められていたカシミール州のインド支配地域の自治権を剥奪して、パキスタンから「ナチス」呼ばわりされていた。
 11月9日にまた対立に火をつけそうな話が出てきた。インドとパキスタンというより、インド国内の両宗教の問題なんだけど。インド北部クジャラート州のアヨディヤという、ヒンドゥー・イスラム両者にとっての「聖地」をめぐる紛争について、インドの最高裁がヒンドゥー教徒側の事実上の「勝訴」の判決を下したのだ。

 もともとこのアヨディヤのちはヒンドゥー教のラーマ神の誕生地ということで「聖地」にされていたが、イスラム王朝であるムガル帝国時代にモスクが建設され、以来両宗教の紛争のタネになってきた。近年では1992年にヒンドゥー教徒によるモスク破壊活動があってインド各地で紛争が発生、2002年にはイスラム教徒が寺院建設を求めるヒンドゥー教徒らの乗る列車に放火して多数を殺害するという事件が起きている当時の史点。モディ首相も政権獲得時の公約に、この地にヒンドゥー寺院を建設することを挙げていた。
 来ないの最高裁の判決は、一応1992年のヒンドゥー側によるモスク破壊については「違法」と断じつつ、この地の所有権についてはヒンドゥー教徒側にあると認定して、ヒンドゥー寺院建設のための政府系信託機関に土地を譲渡して、寺院建設を実現させることとした。イスラム教徒に対しては新たなモスクを建設するための「代替地」を提供するということでフォロー、という判決なのだそうだ。
 モディ首相はツイッターを通じて判決を評価しつつ、「平和的共存はインド人固有の姿勢」という、らしくないと言えばらしくないセリフを吐いて、イスラム教徒も含めたインド国民に平静な対応を呼びかけていた。それでもニューデリーでは混乱を警戒して公立学校が休校になったりはしたらしい。今のところ激しい衝突といったニュースは入っていないけど、何百年ぶんの話がそう簡単に判決ひとつで解決するとも思えない。

 一方で、少しは明るい話もある。同じ11月9日に、インドとパキスタンの国境をまたいでシク教徒(シーク教徒)が巡礼できるようにインド・パキスタン両国協力で建設された「カルタールプル回廊」が開通し、式典にはモディ首相も出席して、パキスタンのカーン首相に感謝の意を表していたりする。
 シク教というのはインドでは少数派ながら一定の信徒数と影響力をもつ宗教で、16世紀の初めにインド北部のパンジャブ州でナーナクという人物が天啓を受けて創始した。ものすごく単純に説明してしまうとシク教というのはヒンドゥー教とイスラム教が合体してできたインドならではの宗教で、信者の多くはこのパンジャブ州に住んでいる。このパンジャブ州もまたインド・パキスタン両国に分断された形となっていて、聖地となる寺院も両国にまたがっているため、シク教徒は巡礼になにかと不便していたのである。
 ナーナクは1469年11月生まれで、今年は生誕550年の節目にあたる。ナーナクは現在はパキスタン領にあるカルタールプルで晩年を過ごして死去しており、当然ここはシク教徒にとり重要な聖地となっている。インド側にいるシク教徒が重要な節目の年にこのカルタールプルをビザなし越境で巡礼できるようにと国境を越えた「回廊」の建設が昨年始まり、インドとパキスタンの関係改善の材料になるかも、と言われてもいた。一方でパキスタン側がインド国内のシク教徒と結びついてインドを牽制するんじゃないかとの見方もあったりして、ここらへんはなかなか複雑。

 なお、この「回廊」は、インド側のシク教徒の聖地である「黄金寺院」があることで知られるアムリトサルの郊外とカルタールプルを結んでいる(ほんの4km程度とのこと)。アムリトサルは英語では「Amritsar=アムリッツァ」となるというのを読んで、、「あれ?銀英伝のアムリッツァ星域の元ネタ?」と思ったのだが、アニメで確認すると星域の方のつづりは「Amlizer」だったので無関係らしい。いや、「回廊」まで出て来るもんで、銀英伝脳になっちゃってたかな?



◆ホーオーからキョーコーへ

。今から38年前というと、1981年ということになる。この年、当時のローマ法王ヨハネ=パウロ2世が、ローマ法王として初めて日本を訪問した。このとき、どこかの週刊誌に載ってた赤塚不二夫の漫画で、「隣の家にローマ法王が来るんだってよ!」「ホーオー!」というギャグがあったのを妙によく覚えている(笑)。今回の日本訪問はそれ以来38年ぶり、ローマ法王の日本訪問はまだ二度目、ということになる。

 おっと、そうそう。今回の訪日を機に、日本政府はそれまで「ローマ法王」と呼称していたバチカン元首について、「ローマ教皇」と呼び方を改めることを王式に表明した。これにともない、ついこないだまで「法王」と呼んでいた全マスコミもそろって「教皇」に改めた。そんなわけで今回来日したあの人は「フランシスコ教皇」あるいは「教皇フランシスコ」と呼ばれることとなる。

 僕は社会科の講師をやってるものだから、この「教皇」「法王」の呼称問題には長らく悩まされてきた。つまり現在の日本ではもっぱら「法王」と呼んでいるのに、歴史の授業では中世に強大な権力を持ったカトリック教会最高位を「教皇」と呼ぶことになってるからだ。両者、おなじものなんだけど一文字も共通しない。教皇について教えている時に「これは今の法王なんだよな」と説明するんだが、正直ピンとこない生徒が多かったのではないかと思う。その意味では、今回ようやく「教皇」に統一されたことは社会科講師的に結構なことだと思う。

 さて、そもそも「ローマ教皇」とはどういう存在なのか。今さらな気もするけど、簡単に。
 形の上では、最初の「ローマ教皇」は、イエスの一番弟子であるペトロとされる。キリスト教を始めたイエスが磔刑にされ(教義ではそのあと復活したことになってるが)、その後弟子のペテロがローマ帝国各地に布教を進めてゆく。あくまで伝承のレベルだが、ペテロは最終的に帝国首都ローマに入り、ちょうどネロ帝によるキリスト教弾圧にあって、逆さ十字架にかけられて殉教した、とされている。史実はどうあれ、ペテロはあくまで、当時まだ少数派の新興宗教団体であったキリスト教の「ローマ支部長」みたいな立場になったらしい、ということで最初の「ローマ教皇」といっても実態はそんなエラそうなものでは全くなかった。

 その後歴史は流れ流れて、弾圧を繰り返されながらもキリスト教徒は勢力を広げ、4世紀になってキリスト教はローマ帝国の国教にまでなってしまう。そしてローマやコンスタンチノープルといった重要都市のキリスト教指導者(司教)の地位が高められ、やがて東ローマ=ビザンツ帝国がコンスタンティノープルを都として東方正教会を形成してゆくと、ローマ司教はそれに対抗して西ヨーロッパにおいてカトリック教会を形成、その頂点であるローマ司教=教皇権威を教化してゆく。その権威の根拠として「ペテロが最初のローマ司教=教皇」という話が作られ、利用されることとなった。
 西暦800年にフランク王国のカール大帝を「西ローマ皇帝」に戴冠したように、中世のローマ教皇は世俗権力者に地位を与える、承認する役割を担い、絶頂期には「カノッサの屈辱」事件のように国王や皇帝をしのぐ権勢をふるった、というのも世界史の定番で習う話。その権勢はだんだんと衰退していくとはいえ、長い間西ヨーロッパでは教皇は最高権威であり、一定の政治的影響力を保持し続けた。最近僕が見てるスペイン歴史ドラマ「イザベル」とか、少し前に見終えた「クイーン・メアリー」でも、随所でローマ教皇(当人は出てこないが)が主人公たちを権威づける存在として出て来るし、トルコ歴史ドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」でもオスマン帝国の拡大に対抗してローマ教皇がやっぱり随所に登場してくる。

 なんだかんだで長い間政治的影響力を持ち続けたローマ教皇だが、さすはに近代に入って来ると「政治的」な面ではかなり力が衰える、特にイタリア統一後に中世以来の教皇領を失っている。もちろんそれでも世界最大の信者を抱えるカトリック教会の頂点には違いないので宗教的権威はかなり大きいものであり続けている。現在のような「バチカン市国」という世界最小の独立国の元首という立場になったのは、1929年、ムッソリーニ政権と結んだ「ラテラノ条約」によるもので、今年で90周年ということになる。

 さて、今回「教皇」ということでまとまった、この地位の日本語における呼称の件だが、軽く調べただけでは正直よく分からない。
 どうも明治時代には「教父」という訳語を使っていたらしい。ローマ教皇はラテン語では「Papa」だから、確かに適訳だろう。ただ、「キョウフの説教」とか「キョウフのミサ」とか発音するとほとんどホラー作品のタイトルになってしまうな(笑)。「教皇」という訳語は大正時代にチラホラと出て来るそうだが、この「教皇」という訳語がどうやって出てきたのかも気になるところ。
 歴史的経緯を振り返ると、西ヨーロッパではこの地位が国王や皇帝より上位にあるようにも見えるわけで、それで「皇」という字を使うのが適切、ということになったのかな?という推測をしているんだが根拠は今のところない。「教皇」という表現が昔の話、歴史用語としてのみ一般に使われ続けたのも、そういう背景があるからじゃないかな、と考えてるところだ。

 そして「法王」という訳語が生まれて長いこと主流になっていたのは、あるいは「皇」の字を避けたものではないか、という推測もしてるんだが、やはり根拠はない。なんで避けるかといえば、日本に「天皇」の存在があるから。もちろん戦前でも外国にいる「皇帝」についてはそう表現したし、国王に対しても対等関係であるため相手を「皇帝」と呼ぶ例もあるなど、そう「皇」の字を忌避してたたけではないのだが、戦前編纂の歴史の本で中国の皇帝をあえて「王」と表現するといった例を見てるので(この延長上に韓国における「日王」表現がある)、こと宗教がらみだけに避ける意識がはたらいたかも、とあくまで推測。中国ではどうなんだ、と調べてみたら「教宗」という訳語だそうで、これも「皇」を避けている。カトリック信者も多い韓国では日本から入った訳語なのか「教皇」のままだそうだ。
 そんなことを書いていたら、最近ウヨ発言が目立つ某院長がツイッターで「教王」とわざわざ書いているのを目撃したので、意識してる人はやっぱりいるんだな、と思い知らされた。

 日本のカトリック教会では以前から「教皇」という表現が使われていて、前回のヨハネ=パウロ2世来日時にも「教皇」呼称で統一しようという動きがあったが、日本政府は「特に向こうから頼まれてるわけでもないし」と呼称の変更はしなかった。つい昨年芋国会のやりとりでこの問題が出て来て、この時も政府としては同様の姿勢で特に変更する必要なしという態度だった。その時は「グルジア」を「ジョージア」にしたケースは向こうから要請があったから、としていて、一応バチカン側にも聞いてみたが変更する必要な史との回答だった、と答弁されている。
 それが今度の来日を機に、急に「教皇」に塗り替わったのが不思議といえば不思議。僕も書いたように歴史授業でも混乱するし、これを機に…とどのあたりかが考えたのだろうか。日本のカトリック人口は44万人ほどで決して多くはないが(全人口比0.3%)、戦前以来の上流階級に多い傾向があって政界にも少なからずいるからかな…とも思うが、そうなると今度はなぜ今まで「法王」にこだわったかが謎になるんだけど。
 そうそう、外務省サイトで確認したが、日本政府は今回から「教皇」には「台下」という敬称をつけて呼ぶことにしているようだ。宗教指導者には「猊下」という敬称をつけることが多く、「法王」についても「猊下」「台下」ともに使用してきたそうだが、今後は「教皇台下」でまとめるつもりらしい。

 思えば今年は200年ぶりに「上皇」が出現してもいるわけで、今度は「教皇」呼称まで登場して何やら気分は中世である(笑)。教皇来日は新天皇即位に合わせたものという見方もあるし、お互い「権威だけ強くて長い間続いている地位」という共通点はある。「教皇」への呼称変更には、修士号をもつ日本中世史家である今上天皇が何か意向を出したりしたんじゃないだろうな、と冗談半分で思ったりもする。
 なお教皇フランシスコは初のイエズス会出身教皇であり、今年はそのイエズス会創設メンバーだったフランシスコ=ザビエルが日本にやって来てから470周年となる。あまりキリは良くないけど、同じフランシスコさんだし、いくらか縁はあるんだよね。



◆とうとう最長記録更新

 2019年11月20日、日本政治史上の新記録が生まれた。安倍晋三首相の総理大臣在任日数が通算2887日となり、それまで日本憲政史上最長記録だった桂太郎を抜いて、新記録となったのだ。特に大騒ぎになってるわけではないが、平均すると2年弱の在任といわれる日本の総理大臣としては異例の長期政権で、とうとう憲政史上の新記録、少なくともこのことで安倍さんは日本の政治史にしっかり名前が残ることになる。まぁ総理になっただけでもそうだろうけど。その割にあまり大騒ぎになっていないというか、なんかピンとこない感じを多くの人が持ってるあたりも、この総理の特徴という気もしている。

 今さらという気もするが、安倍首相とその一族のここまでの道のりを簡単にふりかえろう。
 安倍晋三首相は1954年の生まれ。父は安倍晋太郎、母方の祖父が岸信介、その弟で晋三さんからみると大叔父に佐藤栄作がいる。
 岸信介は戦前は経済官僚として活躍、「満州国は私の作品」とまで自分の口で言ったような剛腕の人で、東條英機内閣で商工大臣になるも戦局が悪化すると東條と距離を置いてむしろ倒閣に動くなど、あの時代にあってもなかなかしたたかな政治家だった。敗戦後に一時戦犯容疑で逮捕されるも無罪放免となっているのもそうしたしたたかさの結果でもある。
 いろいろあって1956年に自民党総裁選に立候補、石橋湛山に敗れるが、この石橋が健康問題ですぐ退陣したため、岸に首相の座が転がり込んでくる。岸が首相であったのは1957年から1960年まで。この政権は特に「60年安保」で有名で、岸は野党を実力で排除する強硬手段で安保改定を成立させ、国会議事堂をデモの大軍が包囲、死者まで出る事態となった。この当時、晋三さんはまだ6歳くらい、家の中で「アンポハンタイ」と意味も分からず騒いで祖父の顔をしかめさせたと伝えられている(笑)。こうした混乱の責任をとる形で岸内閣は退陣するが、その後も岸は「昭和の妖怪」の異名を捧げられるほど、政界に影響力を保持していた。

 岸の実弟である佐藤栄作が首相となったのは東京オリンピックが終わった直後の1964年11月のこと。それから1972年7月まで、在任日数2798日、戦後最長、戦前を含めても第二位の長期政権となる。政権が長期持った理由には、「スキャンダルはときどきあったけど致命傷にならない」「選挙をそこそこ無難にしのぐ」「経済状況が好調」「強い政敵が不在」といったものが挙げられるが、これ、いずれも安倍政権にも当てはまるんだよな。長期政権の割に支持率もそう高かったわけではなく、特に目立つ政策を実行したわけでもなく、なんとなくの安全運転というところは日本的長期政権のコツなのかもしれない。
 最大の功績とされるのが沖縄返還の実現とか、それと連動した「非核三原則」の決定、それを評価されてのノーベル平和賞受賞ということになるんだけど、実態はいろいろ裏でドロドロした話も多く、当時も今も平和賞受賞については「?」マークがつきまとっている。

 続いて現首相の父・安倍晋太郎の話に移ろう。この人は結局総理にはなれなかったのだが、死の直前まで総理になることが確実視されていた政治家だ。だから安倍晋三首相には「三代続けて総理」のような雰囲気がただよってしまっている。
 安倍晋太郎は衆議院議員・安倍寛の子で、毎日新聞の記者出身。岸信介の娘婿となり、その秘書を皮切りに政界入りした。1958年に衆院議員に初当選、1974年に三木武夫内閣で農相として初入閣、続く福田赳夫内閣で内閣官房長官をつとめて福田派の重鎮とみなされてゆく。中曽根康弘内閣では外相を務めて、竹下登宮澤喜一と並んで次期総理候補「ニューリーダー」の一人に数えられるようになっていた。1986年にこの三人から後継者を決めた「中曽根裁定」で竹下が後継指名され、安倍晋太郎は「その次」と密約されたと言われているが、竹下政権を襲った「リクルート疑惑」に安倍自身も巻き込まれたこと、この時期から健康問題(ガンにかかっていた)が取りざたされるようになったことで、結果的に最有力と言われながらとうとう首相の座を逃したまま、1991年5月に67歳の若さで死去してしまうことになる。

 安倍晋三さんという人の顔を僕が最初に見たのは、安倍晋太郎の死去時のことだったと思う。いやぁ、さすが息子さん、顔がソックリだなという第一印象だった。今思うとそんなに似てたかな、と思うんだけど、目と鼻周りの部品はやっぱり似てるよね。
 晋三さんは父・晋太郎が外相をつとめていた1982年からその秘書をつとめ、早くから後継者と目されていた。結局父の死を受けて地盤を引き継ぎ衆院議員となるのだが、父がすでに「プリンス」呼ばわりされていたように、90年代から早くも晋三さんもプリンス扱いで、祖父の岸信介以来の背景があるためだろうか、その周囲には保守的、というよりかなり右寄りの言動が目立つ人たちが群がっていて、晋三さん自身も保守政治家の「プリンス」扱いされてそうした言動を発してもいた。僕の記憶では、早くもこの時期からこの人に対しては「個人崇拝」と思えるほどの持ち上げをする人たちがいたはず。
 かつての福田派→安部派の流れをくむ森派で早くから将来の総理候補扱いされていて、森喜朗内閣で内閣官房副長官、続く小泉純一郎政権で閣僚経験もないうちに自民党幹事長に異例の抜擢をされ、2005年に内閣官房長官として初めて入閣、そのまま小泉内閣を引き継ぐ形で2006年に内閣総理大臣の座についた。歴代の総理大臣はたいてい外相なり蔵相(財務相)などの重要閣僚の経験があることが多いが、晋三さんは官房長官だけで「大臣」経験すらないまま総理になっちゃうという異例の首相だった(もちろん官房長官経験者が総理になることは多い)。そうした経緯を見ても、安倍晋三さんは最初っから総理に押し上げる流れが決まっていたように思えちゃうんだよな。

 この「第一次安倍政権」は「お友達内閣」などと揶揄され、そのお友達閣僚の一人が「安倍首相万歳」と書いて自殺したり、その後任が顔にバンソーコー貼ったりと不始末が続いて、直後の参院選で敗北、加えて安倍首相自身の健康問題も浮上して、在任ちょうど一年で辞任に追い込まれた。保守・右派業界期待のプリンスだったが、このときはほとんど何もできないままあえなく退陣となってしまった。正直なところ、ここから復活があるとは思わなかったなぁ。
 その後福田康夫麻生太郎と短命政権が続いて2009年の総選挙で自民党自体が下野してしまう。その後の民主党政権の支持低下で政権奪還の可能性が高まると晋三さんは再び首相となるべく2012年の自民党総裁選に出馬、第一回投票では石破茂に敗れるも決選投票で逆転、総裁の地位を勝ち取り、続く総選挙で自公連立で政権を奪還してまさかの総理再就任となった。いったん辞任した人が再び総理に返り咲くこと自体が戦後初のことで、ここでもこの人には「異例」がつきまとう。この時点では国民や自民党内でも安倍さんをすでに過去の人ととらえる見方があって石破さんの方が人気もあったので、それから延々と7年以上継続する長期政権になるとは予想されていなかった。

 ちと大袈裟だが不死鳥のように総理に返り咲いた安倍晋三さんは、序盤ではいきなり靖国参拝を実行するなど「右」寄りな姿勢も見せたが、その後はその方面については割とおとなしくなっている(最近では閣僚の参拝ゼロも多くなった)。集団的自衛権容認の憲法解釈変更というそれっぽいこともやってのけてはいるけど、それ以外では案外「右」方面からは嫌われそうな政策や歴史認識発言をしてるところもある(不思議と安倍さんがやると文句が出ない)。外交面でも最近になって韓国とモメたりはしてるものの、それを除けば総理になる以前の彼からすれば驚くほど「安全運転」をしていて一定の評価をえてもいる。そして「アベノミクス」などと呼ばれる経済政策が一応当たっているらしい(評価はまだ分からんが)ということで財界の支持もあるし国民の支持率もおおむね高めに推移してきている。
 集団的自衛権容認のとき、まだ記憶に新しい森友・加計問題、何度か起こった閣僚の不祥事など、支持率を下げる事態が何度か起こっているのだが、結局致命傷にはならず、ほとぼりがさめると支持率がまた上がって来て選挙もまずまずの結果を出してしまう。これの繰り返しで長期政権になってるところは上記のように大叔父の佐藤栄作の例とよく似ている。また「安倍一強」と言われるように対抗馬が石破さんくらいで、隙あらば総理の座を奪おうとするようなライバルが不在なのも大叔父とよく似ている。

 現在「桜を見る会」のスキャンダルで騒がれているが、いきなり「来年中止」と切り出してウヤムヤにしようとしてるあたり、また何とか切り抜けられるという経験則が働いてる感じもあるし、証拠を速攻で抹殺するとか、結局は森友騒動の時と同じパターンで逃げ切ってしまいそうな。「自民党総裁四選、なんて話まで出てるが、さすがにそこまで延々とはやらんのではないかなぁ、と思いつつも、なにせ「憲法改正」を悲願とする人たちに支えられてる人だけに意地でも続けるという可能性も捨てきれない。この人、当人がどう考えてるかは別、ということが多い気がするんだよな。
 それにしても、「桜を見る会」を報じるワイドショーのどれかで、「出席した芸能人」の例としてデヴィ夫人の証言が紹介され、安倍さんから「祖父がお世話になりまして」とあいさつされ、「お世話になったのはこちらの方で」と返した、という逸話がさりげなく紹介されていたが、何やら「戦後史の闇」を感じさせる会話だなぁ、と僕は思ったものだ。


 ながながと安倍さんに至る一族の歴史を書いてみたが、安倍さんに破られるま総理大臣で最長在任記録を保持していた桂太郎についても触れておこう。
 桂太郎は1848年に長州藩士の子として生まれた。明治維新の時に二十歳、という世代だ。江戸幕府による長州征伐とも戦ったし、戊辰戦争でも東北各所で指揮をとって戦っているが、伝えられるところではイマイチな指揮っぷりであったらしい。その後ドイツに自費留学するも金銭面で厳しくなり帰国(木戸孝允に泣きついたこともあった)、以後は同じ長州の山形有朋の庇護を受ける形で陸軍入りし、その後の人生のほとんどを山県の影響下に過ごすことになる。そのためか、長期政権をやってる割には歴史上の影が薄い。

 伊藤博文内閣などで陸軍大臣を何度かつとめたのち、1901年に内閣総理大臣に就任。これも実力ウンヌンではなく、当初総理になるはずだった井上馨のドタキャンを受けて政治的バランスの結果として担ぎ出された、という感が強い。この桂内閣は日英同盟締結、続く日露戦争という歴史的な事業を推進しているのだが、この戦争のために国民に大きな犠牲を強い、おまけにポーツマス条約の「賠償金ゼロ」という結果に国民が暴動を起こすような事態となったために当時でも桂首相に対する賞賛はあまりなかったみたい。総理大臣といっても実質は伊藤や山県といった長州閥元老たちが政治を動かしていたようなものだから、ということもあるだろう。

 日露戦争後は蔵相や外相、文相などいろいろ歴任しつつ、西園寺公望と交代交代で総理大臣を務めている(桂園時代)。大正に入ってすぐに西園寺公望が山県ら陸軍の意向で総辞職に追い込まれたあと、他にやる人がいないということで桂太郎が三度目の総理就任となった。しかしこうした藩閥政治への批判が政党やマスコミから吹き出し、桂は議会で追及されると議会そのものを停会するなどしたために群衆が国会を取り巻く事態となり、就任から62日で退陣に追い込まれた。この事件を「第一次護憲運動(憲政擁護運動)」と言い、中学以上の歴史の教科書で必ず習う重要事項。このため桂太郎といえば「第一次護憲運動で退陣に追い込まれた総理大臣」という印象が一番強くなっていて、この人が総理在任最長記録を百年以上も保持していたことを不思議に思った中学生も多いんじゃないかと。
 桂の退陣は1913年2月20日で、その年の10月10日に桂は死去してしまう。まだ67歳(偶然にも安倍晋太郎と同じ)。ガンにかかっていたそうだが、やはり退陣事情からかなりガックリ来たのだろう。このころにはいい加減山県の影響下から独立しようと政党結成も画策していたといい、それらが全てパアになってしまったこと(それには山県の意向もあった)で政治生命と自身の生命を絶たれてしまったということかも。最期まで山県の影から逃げられなかった政治家人生ということで、長期政権の割に歴史的評価はあまり高くはない。桂の自伝を読んだ山県が「自分に都合のいい作文」とけなしたなんてこともあったそうで。

 桂太郎、佐藤栄作、ともに長期政権の割に特に高い評価を受けているわけではない。安倍晋三政権についてそう言っちゃえるかどうかは現時点ではまだ断言できないが…とにかく岸も含めていずれも長州、山口県人なんだよな。「桜を見る会」でも山口県人がどっと参加していて問題になってるが(山口「組」の人までいたとかいう話まで出て来たな)、長州だけに長期政権異なりやすいのだろうか。その秘めたパワーを「長州力」と言ったりしないか、などとダジャレで絞めておきます(笑)。


2019/11/27の記事

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