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2019年11月5日

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◆いまどきの即位礼

 去る10月22日、日本の首都東京では天皇「即位礼・正殿の儀」が挙行された。「あれ?五月に即位したんじゃなかったっけ?」と思った日本国民も少なくなかったろうけど、5月にやったのは皇位を継承する儀式(昔の言葉では「践祚(せんそ)」という)、先日やったのは天皇の位についたことを内外に表明する儀式という違いがあり、その性格上、後者の方が盛大に行われる。
 今回は近代初めての生前譲位の皇位継承だったから同じ年のうちに両方が行われたが、昭和から平成に移った前回までは前天皇の死去を受けて即座に皇位継承、その年は喪に服して翌年に即位礼を行う、という手順になっていた。即位礼はやはり祝い事だから間を置く必要があったわけだ。

 それとは別に皇位継承から即位礼までの期間がやたらに空いた天皇もいる。とくに応仁の乱のあと、戦国時代の天皇たちは大変だった。皇位継承(践祚)はもちろんするのだが、即位礼はある程度盛大にやらなきゃならずカネがかかる。そしてこの時期の皇室にはそのカネがなく、一心同体のような存在だった室町将軍にもカネがなかった。そのため即位礼がなかなか挙行できないという事態が実際にあったのだ。

 応仁の乱直後の後柏原天皇という人なんて、皇位を継承してから21年もかかってようやく即位礼を挙行した。21年もたてば当時のことだから下手すると即位礼も挙げないうちに死んでしまいかねない。即位礼を挙げねば天皇として死んでも死にきれない気持ちだっただろう。天皇になってから22年目にようやく献金を集めて即位礼が挙行できることになったのだが、その直前に将軍が管領と対立して京都から出てってしまうという事態が発生、即位礼中止の恐れも出たが、ここでやめてたまるかと後柏原自身が挙行を強行。いやはや執念である。お亡くなりになったのはその5年後のことだ。
 次の後奈良天皇もやはりカネがないため、即位礼挙行まで10年かかった。なにせこの人、自身の直筆の書を売って収入の足しにしていたというほどの貧乏で、官位と引き換えにした戦国大名たちの寄付金(ホントの売官だな)でようやく即位礼にこぎつけたのである。こういう苦労を知ると、天皇ってのも案外大事にされてなかった時代もあるなと分かるわけで、完全に国家が36億円というカネを出してくれる現在の天皇はこの点に関しては幸せと言える。この辺、日本中世史専攻の天皇さんご自身に何かコメントを求めたいのだが、まぁ無理だろうなl。

 ところで今回の即位礼は東京で挙行される二度目の即位礼となる。前にも書いたが、戦前までは皇室典範で「即位礼・大嘗祭は京都で行う」と決められていて、大正・昭和の時はわざわざ京都に行って挙行していた。戦後改正された皇室典範でこの規定がなくなったため、平成そして令和と東京で行われたのだが(代わりに高御座の方がわざわざ東京にくるのだが)、一つにはあれだけ外国の要人が参列となると東京でやったほうが都合がいいということもあるんだろうな。
 即位礼のやり方自体も時代と共に変化している。平安装束が出てきたり古式ゆかしくやってるようにも見えるが、今のスタイルになったのは大正以降のこと。特に天皇と皇后が並んで高御座に登場するなんてやり方は完全に近代の発想だ。
 そして今回はその高御座で覆いが開かれるまで天皇の姿が見られないという「演出」があったが、これは今回初めてのこと。誰が決めたのか知らないが、一部には「天皇の神秘性を高めるためでは」と批判的にみる向きもあった。「演出」といえば始まったころは大雨だったのに儀式中にちょうど晴れて虹がかかり、何やら見事な演出になっていた。「さすが天照大神がご先祖」という声もあったが、気象兵器がどうのとかいう陰謀論が好きな方には格好のネタかもしれない(笑)。  



◆カトリックの大改革

 そういえば天皇の即位に合わせる形で、ローマ法王フランシスコさんが11月に日本に来るんだっけ。
 そのローマ法王がいるバチカンは、12億人とい人類最大の信者を抱えるローマ・カトリック教会の総本山だ。なんだかんだで世界に与える影響力は多大で、現時点ではまだ公式発表されていないが、元死刑囚の袴田巌さんに面会するとの情報があって、これもその影響力を行使しようとしているように感じる。

 さて、そのローマ・カトリック教会が、実に900年ぶりとなる「大改革」に踏み切りそうだ、という報道が流れた。カトリック教会で地域に密着してミサを行うなど信者たちを直接指導する役職である「司祭」について、これまで禁じて来た「妻帯」の容認に踏み切るのではないか、というのだ。報道から正確に言うと「既婚男性が司祭になることを認める」ということのようだが、まぁそう変わらないだろう。まだ決定したわけではないが、10月26日にバチカンで開かれた司教会議で「提言」として採択され、あとは法王の名による公式文書化を待つだけだというから決まったようなものだろう。

 世界の宗教で、特に宗教的指導者の立場にある者に「独身」を強いるのは広く見られる。どこの宗教でも修行にあたっては「禁欲」を求めるのが定番で、聖職者にあたる者は原則的には妻帯など認めないことが多い。日本の仏教界でも基本的にはそうだったが、浄土真宗の開祖・親鸞は公式に妻帯して子をなし、その子孫が教団指導者の地位を世襲してゆくことになったが、これはかなりの例外で、江戸時代までは僧侶の妻帯は公式には認められなかった(こっそりと、ということはあった)。近代以降はどこのお寺も世襲状態になってるから当然妻帯は公認されてるはずだ。

 キリスト教世界ではどうだったのか調べてみると、プロテスタントでは教会にいる「牧師」は妻帯が認められているし、宗派によっては女性が牧師になるケースもあるという。東方正教会では地位の高い聖職者についてはさすがに妻帯を認めないものの、司祭クラスは認めているようだ。そしてローマ・カトリックは司祭についても妻帯を断固認めてこなかった。ついでに言えば女性聖職者についてもいまだに認めようとはしない。
 今回の改革が「900年ぶり」というので調べてみたら、司祭レベルの聖職者についても妻帯を禁じたのは1123年3月にバチカンで開かれた「第1ラテラン公会議」で決定したものと分かった。なるほど、だいたい900年前である。

 「公会議」といえばキリスト教会で宗教上の重要事項を決定するために召集されるもので、そうそう行われるものでもない。世界史の教科書で十字軍を決定したことでおなじみの「クレルモン公会議」なんてのもあったなぁ、と思っていたら、あれはローマ・カトリックでは「公会議」とは認めていなくて、「教会会議」というものに分類されているのだそうで。
 「第1ラテラン公会議」は、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が聖職者の任命権をめぐって争った「叙任権闘争」に決着をつけた「ウォルムス協約」の成立を受けてその翌年に開かれたものだった。「ウォルムス協約」によって聖職者の叙任権は教皇側にあると確認されたため、それを広く認めさせるために教皇カリストゥス2世が公会議を召集した。それ以前の公会議は何と9世紀、しかも当方のコンスタンティノープルで開かれていて、この久々の公会議は西ヨーロッパで開かれた最初の公会議ということにもなる。それはもちろん教皇の権威を西欧キリスト教世界に見せつけるための大イベントであったはずだ。
 そういう事情で開いた公会議だったので、ここでは聖職者の条件や任命手続き、禁止事項などが決定されている。その中に「副助祭以上の聖職者の婚姻や内縁関係の禁止」という項目もあった。今回のカトリック教会の改革派この時以来、ということになるわけだ。

 さて、ではなんで900年の伝統を今さら変えようとしているのか。
 報道記事によると、その司教会議ではアマゾンのジャングルの環境破壊の問題がとりあげられ、その流れでアマゾンの奥地では司祭の成り手がなくて困っており、既婚者でもOKということにしてほしいという地元信者たちの要望が紹介されたとのこと。アマゾンの奥地の司祭というと、「ミッション」って映画があったなぁ、と思い出してしまったが、独身だろうが既婚者だろうが、そういうところまで来る司祭はなかなかいないのではなかろうか。
 実のところ、そうした話の流れを引き合いにして、かねてから「司祭も妻帯あり」にしようというバチカン内での改革意図(法王フランシスコ自身の意向でもあろう)が案外お手軽に会議を通過してしまった、ということなのかも。



すでに教科書に載ってた人

 誰の話かといえば、先日亡くなった緒方貞子さんのことである。日本人として初めて国連機関の一つである「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)」のトップである高等弁務官をつとめ、ちょうど深刻化が始まっていた難民問題に積極的に取り組んだことで評判が高まり、ひところ社会の教科書(公民)にその名が載り、「UNHCR」も出題率の高い国連機関になって社会科の先生として生徒に強調しなきゃいけなくなった時期がある。さすがにご自身が高等弁務官を辞めてからは本人が載ることはなくなったが、UNHCR自体は今も出題率が高い。それは難民問題が最近ますます深刻化してるからでもあるけど。とにかく日本人として国際的に活躍し評価を得た、そうそういない人だったのは確かだ。

 生前、ご本人がどこかのインタビューで「歴史の中に自分の人生があった」という発言をしていたように記憶している。まずこの人の曽祖父が歴史的人物。明治以来の大物政党政治家であり、総理大臣在任中に「五・一五事件」で軍人たちに暗殺された犬養毅が曽祖父なのだ。犬養毅の長女が犬養内閣の外務大臣・芹沢謙吉と結婚し、その娘が外交官の中村豊一と結婚して生まれたのが貞子さん、つまり彼女は犬養毅の「娘の娘の娘」、女系の子孫なのだが、それでも1927年(昭和2)に貞子さんが生まれた時、「貞子」と命名したのは犬養毅当人だったという。犬養が凶弾に倒れたのは1932年のことだが、貞子さん一家は父の勤務でアメリカに行っており、事件のことや曽祖父についての記憶はないという。

 貞子さんはアメリカの学校に通い、その後生涯にわたって連絡をとりあうアメリカ人の友人もできた。そのあと父の豊一氏が今度は中国の福州総領事に転勤、一家は中国に引っ越す。おりしも盧溝橋事件で日中全面戦争となり、父の豊一氏は水面下で中国国民政府と和平交渉をする係で、日本の外務省幹部と方針をめぐってモメるなど、いろいろ大変な立場であったらしい。少女時代の貞子さんはその事情を詳しく知ることはなかっただろうが、難しい外交用語をよく耳にする環境に育ったことは、その後の人生に大きな影響を与えていたようだ。
 中国との戦争が泥沼のまま太平洋戦争に突入、その前に一家は帰国し、カトリックだった貞子さんはミッション・スクールの英心女学校に通い始める。校長も外国人、アメリカ人のシスターも多い学校だったが、さすがに戦争中は圧力が強まって教師たちの一部が「敵性外国人」として追放されたり、軍人による授業や勤労動員なども行われていたという。
 戦争最後の年になると東京は空襲に見舞われ、貞子さんの家の近所も数軒が焼け、大火傷した子供も出た。貞子さんは「友人もいるアメリカがなぜこんなことを?」と素朴に疑問を感じ、これがその後の学者としての研究テーマにつながってゆく。

 戦後になって大学の英文科に進学、卒業後はアメリカの大学院に進んで、政治学で博士号を取得する。博士論文の研究テーマはずばり「満州事変」だった。それって歴史学の範疇ではと思ったが、当時は時代も近い話だし、政治学的な視点かラ切り込んだものなのだろう。書籍一冊ぶんもある内容で(当然全部英文)、実際に本にもなってあちらでは満州事変についてのポピュラーな研究書とされているという。
 貞子さんが満州事変をテーマに選んだのは、「なぜこんな戦争が起きたのか」という疑問への答えを出そうとしたものだった。ちゃんと読まないとその内容は分からないのだが、そんな暇もなし。ただ、結論が「こうして日本には『無責任の体制』が成立した」というものだと聞くと、相当に的確な視点で事件をまとめたものだとは分かる。
 その後は国際基督教大学や上智大学で教授や講師をつとめている。ここまでなら彼女は国際派の優れた政治学者にとどまっていただろう。

 貞子さんが緒方姓なのは夫が緒方四十郎という人だったからだが、この四十郎さんの父親が緒方竹虎。今年の大河ドラマ「いだてん」をご覧になってる人は分かるだろう、主人公の一人・田畑政治の上司でリリー・フランキーが演じている朝日新聞政治部部長(おち主筆)である。戦後は政治家に転身して自由党総裁、自由党と民主党の「保守合同」により自民党を作る立役者の一人にもなって副総理までのぼった。「いだてん」には犬養毅も登場していたし、緒方貞子さんが見ていたかどうかは分からないが、不思議と縁のあるドラマではあったのだ。
 ついでに書けば、緒方竹虎の祖父は、あの「適塾」の蘭方医・緒方洪庵と義兄弟になる縁があり、それで「緒方」姓を名乗るようになったという話で、これまた大河「花神」や「陽だまりの樹」などの歴史物とつながってくるから面白い。

 貞子さんが国連と関わるようになったのは1968年のこと。戦前以来の女性運動家で参院議員をつとめていた市川房枝が突然前触れもなく緒方さんの自宅を訪れ、「国連の日本代表に加わってほしい」といきなり頼みに来て、貞子さんも「あれほど驚いたことはなかった」というほど唐突な話だった。市川房江は代表団に女性を誰か入れるべきと人探しをしていて、国際的で英語力抜群の貞子さんを推薦されていきなりおしかけたということらしい。貞子っさんは迷いもあったが、参加を承知し、初めて「国連」という国際政治の現場に足を踏み入れることとなった。

 その後、1975年が国連で「国際婦人年」とされたことを機に、民間人女性を日本の国連公使に起用しようという話が持ち上がり、緒方貞子さんがそれに選ばれた。この国連公使を皮切りにユニセフ執行理事会議長、日本政府のカンボジア難民実情視察団団長(これが難民問題と関わるきっかけだったのかな)、国連人権委員会日本政府代表、国連人権委員会ビルマ人権状況専門官などを経て、1991年に「国連難民高等弁務官」に就任する。
 1991年といえば湾岸戦争が勃発した年だ。このときイラク北部にいるクルド人がサダム=フセイン政権に弾圧されていて難民となっていた。なんとその数180万人である。このうち140万人を隣国イランが受け入れたが、残り40万人はトルコに入国を拒絶されイラク国内で「難民」状態になっていまった。トルコが拒絶した理由は、もちろん国内にクルド人を抱えていて、この時期ではまだまだクルド人たちの独立武装活動が国内で盛んだったからだ。この上さらに何十万ものクルド人難民なんて冗談じゃない、というところだったんだろう。

 UNHCRもこのクルド難民への対応には困っていた。当時の国連での一般的見解では「難民」というのはさまざまな事情で国外に逃げざるを得なくなった人々をさすので、このようにイラク国内にとどまっている人々は「難民」ではない、ということになってしまうのだ。UNHCR内でも彼らを「難民」として扱って救済すべきか否かかなり議論になったという。
 そのとき、決断を下したのがトップである緒方貞子さんだった。難民キャンプを直接訪れるな現場を見て実情を知ることを重視した緒方さんは「介入することに決めました。なぜならUNHCRは被害者たちが国境を越えているかとうかにかかわりなく、被害者たちのもとに、そして側にいる必要があるからです」として救済活動に踏み切る断を下したのだ。これにはそれまで初の女性、しかも(あえて言うが)初の東アジア人のトップということで軽く見ていたUNHCR職員たちも驚き、かつそのリーダーシップに敬服するようになったという。
 緒方さんが下した決断はその後のUNHCRの方向性を決めたとまで言われ、冷戦構造崩壊のなかで各地で多発する難民問題にUNHCRは積極的に関与するようになり、緒方さんも「頼れる人」ということで再選、再再選されて2000年まで10年間、難民高等弁務官をつとめあげた。調べてみると10年間同職をつとめたのは他にもう一人、現在の国連事務総長であるグテーレス氏がいるだけだった。

 難民問題の原因は、そもそも内戦や紛争にある。UNHCRはあくまで難民を救済する組織なのでそれ以上のことには本来は首を突っ込まないのだが、緒方さんはユーゴ内戦の際には難民高等弁務官として初めて安全保障理事会でスピーチし、紛争解決を求めた。安保理というところは結局は大国の思惑で動くものなので効き目はそれほどなかったのだが、緒方さんは安保理への働きかけを続けた。また、結局は「人びと、人間がそこにいるということが重要で、国が威張ってどうこうする時代ではない」として、これまた今や公民教科書でおなじみの言葉になってきた「人間の安全保障」という主張を強く打ち出すようになる。
 小泉政権時代に外相起用、なんて話もあったがさすがに辞退し、日本の国際協力団体「JICA」の理事長をつとめて、UNHCRのやり残しの仕事をしてもいた。そして2019年10月22日に92歳の生涯を閉じたのである。


 そして緒方さんが亡くなった前後、彼女も深く関わったクルド人が、またもや世界の注目を集めていた。イラク国内ではなくシリア国内のだけど。ここでもやはりトルコが、クルド人勢力の拡大を阻止するためにシリア領内に侵攻、という込み入った事態になっている。前回も書いたように今度はシリア政府がクルド人と結びついて軍隊を展開、一部でトルコ軍と交戦との報道もあったが、とりあえず全面衝突ということにはならなそうな感じ。
 そしてそのシリア、米軍撤退がそういう混乱を…とか言われていたら、10月26日に米軍特殊部隊が襲撃作戦を実行し、IS(イスラム国)の最高指導者バグダディの暗殺に成功した。さんざひどいことをやった男だとは思うんだが、妻たちも殺され、息子たちと共に自爆の最期。と聞くと、彼もまた「ダディ」だったんだな、と哀れを催すところもある。その遺体は墓の「聖地化」を警戒して、オサマ=ビンラディンと同様に「水葬」にされたという。
 このところ弾劾されかかっていていいところのなかったトランプ大統領派大はしゃぎだが、バグダディ一人の死で物事があっさりおさまるとは思えないんだよなぁ…。簡単なことではないが、緒方さんも晩年に強く言っていた「人間の安全保障」という言葉をかみしめたい。



◆首里のお城が焼け落ちて

 6時ごろだったと思う。眼が覚めたので寝ぼけた頭のまま枕元のスマホを手に取り、画面をつけてみたら何やら「速報」が入っていた。よく読めば、「首里城が火災」とある。「ええっ!」とビックリして頭がパッと覚め、記事を読んでみたら闇夜の中で首里城正殿が盛大に燃え上がっている写真が目に入ってきた。「こりゃえらいこっちゃ!」と思ったものの、眠かったのでまた寝た(汗)。その後ちゃんと起きてからニュースをハシゴして見て、その日一日はこの件ばかり追いかける感じになってしまった、
 このパターン、最近のデジャブがあるような…と感じていたら、そうそう、今年四月のパリのノートルダム大聖堂火災の時も寝覚めのスマホで第一報を見てビックリしたのだった。いずれもその町の象徴的かつ歴史的建造物で、出火原因もどうやら電気系統らしいというところまで欲にている。焼失直後にさっそく再建・復元話が持ち上がり、早くも多くの寄付金が集まっている…というところも共通している。

 だが首里城の方は、かつての琉球王国の王城そのものというわけではない。今回焼け落ちた首里城の正殿などの建物群はちょうど30年前の1989年(平成元)に復元工事が始められ、1992年にひとまずの完成をみたもの、つまりかなり最近の建造物なのだ。火災直後に一部報道で「世界遺産が…」と言われていたが、首里城などの復元建造物は世界遺産には含まれていない。それでも大規模で象徴的な建物であるのは間違いなく、日本各地にある復元城郭同様に沖縄だけでなく世界的にも重要視された建造物には違いない。

 ひとまず完成した直後に1993年の大河ドラマ「琉球の風」のロケで使用され、第一回冒頭の盛大な儀式シーンや、後半の薩摩に降伏するシーンで効果的に使われていた。「復元新築」なのも当時の再現だからそう違和感はなかったし、大河では「花の乱」でやはり焼失して復元された金閣を使ったロケシーンの例もある(そんなこと言い出すと昭和の建築物の大阪城は秀吉時代の外観として過去に何度も使われている)。「琉球の風」の首里城シーンは、今となっては「往年の姿」を伝える貴重な映像資料となってしまったわけだ。
 焼失直後の報道で初めて知ったが、復元作業はその時に終わったわけではなく、細かいところも含めて作業はその後もじっくりと進められていて、全ての作業が終了したのは、なんと今年一月のことだった。ようやく完成したと思ったら、その年のうちに焼失という、まさに「積んでは崩し」の事態だったのである。再建計画が早くも持ち上がっているが、「30年以上かかる」と言われるのも納得だ。

 首里城の歴史を眺めてみると、何度か焼失と再建を繰り返している。まぁそれは東大時大仏殿をはじめ日本の歴史的建造物の多くにもいえることだが。
 もともと沖縄本島には三つの王国があり、そのうちの中山国の尚巴志が1429年に統一して「琉球王国」を建国する。首里城は最初はその中山国王の居城として歴史を歩みだし、15世紀前半からは琉球国王居城として大がかりなものに建て替えられたものと推測される。しかしそれから間もない1453年に王位争いの「志魯・布里の乱」のために最初の焼失となってしまう。すぐに再建が始められ、3年後の1456年に朝鮮の漂流民による目撃情報が「朝鮮王朝実録」に記録されていて、その内容からするとその後の首里城の姿(つまり先日焼失した姿)はほぼこの時にできたいたことが分かる。「琉球の風」は16世紀末から17世紀初頭までを描いたものだから、あの復元首里城をロケに使うのはそう間違ってはいないわけだ。

 江戸時代に入って1660年に首里城は二度目の焼失となり、11年もかかって再建されている。さらに1709年に三度目の焼失となり、薩摩藩から木材の提供を受けるなどしてなんとか再建している。
 明治時代に入って「琉球処分」により琉球王国は滅亡、王家も東京へ移住して、王城でもなくなった首里城は放置状態になって一時はかなり荒廃が進んでしまったという。大正時代ごろの写真が残っているが、確かに復元されたものと比べるとだいぶ「くたびれた」感じに見える。さすがに保存をしようという運動も起こり、大正の末に県社として「沖縄神社」が創建されて、首里城正殿はその社殿に流用され、伝説的琉球創健者とされる源為朝から歴代国王を祭る施設となって修復もされ、やがて国宝にも指定された。
 そして太平洋戦争末期の沖縄戦。首里城の地下壕に日本軍の司令部が置かれたこともあって、首里城は米軍の艦砲射撃の雨をくらって四度目の焼失となった。これが1945年のことだから、ひとまうの再建までほぼ半世紀かかってしまったことになる。もちろんそれは戦後30年近く沖縄がアメリカの占領下に置かれ、返還後も再建への条件が整うまでが大変だったということだ。

 そういう歴史をたどっているだけに、再建だろうが復元だろうが、沖縄県民にとって首里城の焼失は大きなショックであるはずだ。沖縄県がかつて琉球王国として独立していた歴史の象徴でもあり、戦災からの復興の象徴でもあった。2000年の沖縄サミットでも首里城をバックに主要国首脳が記念撮影し、観光の目玉、シンボルとしても大きな存在だった。失われてしまうとその存在の大きさがなおさら分かる。
 再建は当然の流れだが、いろいろと困難も指摘されている。まず材木の問題。江戸時代中にもそれで苦労していたようだし、前回の再建時も日本国内では材木が調達できず台湾から取り寄せたという。今回は台湾でも困難では…という話もある。首里城に限らず、日本各地の大型木造建築物は何かあったら材木不足という問題を抱えているのだそうだ。屋根をおおっていた地元の土を使った瓦も再現が難しいとの話もあり、この文章を書いてる当日にも瓦業者らが「焼け落ちた瓦のうち再利用できるものはばるべく使ってほしい」という要望を出した、という報道もあった。瓦の色についてはつい最近、米軍の撮影したカラー映像から戦災焼失前の首里城は赤瓦ではなかったことが分かったりもしてるそうだが。
 
 不幸中の幸いは、首里城に保管されていた歴史的文化財の多くが、耐火性の保管庫のおかげでとりあえず焼失はまぬがれていた、という点だ。まったくの無傷かどうかはこれからの調査を待たねばならないが、一時絶望視もされていたので、ちょっと救われた思い。
  僕はまだ沖縄に行ったことはなく、行く機会があったら当然首里城も訪れるつもりだった。訪れる機会のないうちに焼失という事態になってしまったが、再建された首里城を訪れる機会を楽しみにしたいものだ。


2019/11/5の記事

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