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2019年10月20日

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◆そして十月になり

 すでに20日も過ぎたので今さらだが、今年も10月になってしまった。今年も残すところ…なんて言葉も出て来る季節だ。
 4月から始まる「年度」というものがある日本では、10月はその折り返しの節目になる。そのため10月は新人事やら新制度のスタートとなることが多い。何といっても今年は消費税率の10%への引き上げがこの10月から行われた。人事、というのも変だが新天皇の即位礼も今月中に行われる。台風被害に配慮してパレードは延期になったけど。

 単なる偶然だが、消費税はそのスタートも天皇代替わりの時だった。消費税が税率3%でスタートしたのはちょうど30年前の平成元年(1989)の4月1日だった。それまでにも同様の税制度は「大型間接税」だの「売上税」だのという名前で導入が計画され、そのたびに選挙で与党候補も野党候補も「反対」を唱えるという珍現象もあったりしてなかなか導入されなかっらが、「消費税」の名前で導入に踏み切ったのが当時の竹下登内閣。ちょうど「リクルート疑惑」も起きたりしたため支持率は消費税率並みのヒトケタ台に下がって(当時いしいひさいちが「ケタシタ内閣」というギャグをやっていた)、消費税導入から2か月後には退陣に追い込まれた。

 消費税率を上げようという方向性はその直後からあった。まず自民党を下野させた細川護熙政権が1994年に唐突に「消費税を廃止して福祉目的の7%の国民福祉をつくる」と言い出し(真夜中の午前1時の会見だった)、どう見ても遠回しな消費税増税だったので猛反発にあって撤回しただけでなく政権そのものも間もなくオシマイになってしまった。
 その後自民党は社会党と組んで政権を奪回、成立した村山富市政権で消費税増税の方向が決まり、それを引き継いだ橋本龍太郎政権の1997年4月から消費税率は5%に引き上げられた。増税というだけでなく景気にも悪影響があったとされ、それが一つの原因となって翌年の参院選で敗北、総辞職することになる。これで「消費増税は鬼門」と見なされたようで、次の消費増税まで17年もかかることになった。

 その17年目というのが2014年4月の8%への引き上げだ。そして次の10%への引き上げがわずかに5年後ということになるんだが、それも何度か延期を繰り返した末だったので、もっと早い予定だったわけで。この二度の消費税アップを実行したのが同じ安倍晋三政権で、ここまでの経緯を考えればこの政権は消費税アップでそれほど影響を受けていない。今度の引き上げも何度かの延期のあとのせいなのか、あるいは国民も順応してしまっているのか、それほど強い反発が起こる気配はあまり感じられない。増税直前の駆け込み需要もそれほどでもなかった感じだし…そうそう、一部でトイレットペーパーがごっそり消えたとの報道があって、日本人はまだ石油危機後遺症を持っているのかと驚いたりもした。
 区切りのいい10%まで来たので、しばらくは動かないんじゃないかと思うんだけど、財界を中心に「次は17%」だの「最終的には25%」だのといった声は相変わらず出ている。


 消費税が上げられた10月1日は、中華人民共和国の建国記念日「国慶節」でもある。毛沢東が北京の天安門上で中華人民共和国の成立を宣言したのは1949年10月1日なので、今年はそれからちょうど70年目の節目ということになる。節目ではあるのでそれなりに大きな祝賀イベントや軍事パレードが行われていたが、日本での報道のまとめ方のせいもあるかもしれないが、思ったよりおとなしい節目祝賀だったように僕は感じた。それが6月以来続いている香港でも大規模デモのせいなのかどうか、正直分からない。
 そもそも香港の大規模デモは6月から始まった。きっかけは「逃亡犯引き渡し条例」、つまり中国から犯罪者などが香港に逃げ込んだら中国側に引き渡すという条例が制定されることになり、それでは亡命した民主活動家を中国に引き渡すことにつながるとして若者たちを中心にデモへと発展したのだった。6月は1989年の「天安門事件」からちょうど30年目の節目というのも大きかった(消費税も含めてホントにこの年はいろいろ多い)。「一国二制度」ということで一応民主的な自治が保たれてきた香港だが、最近は中国側の言論弾圧がじわじわと強化されてきて、香港市民、とくに若者たちには強い危機感があるのは当然だ。

 6月以来デモ活動が続いて、膠着状態になっていたが、9月になって問題の「逃亡犯引き渡し条例」の撤回が香港行政府から発表され、デモ側のひとまずの勝利か?と思ったら、デモは全く収まらず、むしろ規模拡大の様相を呈してきた。問題の条例だけでなく民主的な政治の実現の要求をあくまで掲げて若者たちのデモが続けられたが、さすがにこれを中国はもちろん香港政府もやすやすと飲めるとは思えない。中国政府は武装警官や軍隊をちらつかせて威嚇もしていたし、ホントに天安門事件の再現になりはしないかとヒヤヒヤして見ている。

 そして国慶節のその日に、デモに参加していた高校生が警官に実弾で撃たれ、一時は重体と報じられたが幸い一命はとりとめた。この実弾射撃に怒った学生たちがその様子をイラストで描いたプラカードを掲げて抗議していたが、あれでその高校生が死んでしまったりしたら、それこそ60年安保の時の樺美智子さん状態(日本で唯一のデモ死者として歴史に名が残ってしまった)になっていただろう。政府の弾圧のシンボルとして盛大にその写真が掲げられ、あえて言っちゃうと弾圧の象徴として「利用」された可能性は高いと思う。当時を知る人に聞くと、香港の今の事態はあのころの日本と似ているところはあるようだ。どこまで相似してるかは分からないが、日本の場合は盛り上がった割に結局は沈静化していってるんだよなぁ。

 とにかく香港の方は事態収拾のめどがたたず、香港当局はデモ参加者牽制のために「マスク着用禁止条例」を10月5日から施行しt。この条例は議会(立法会)を通さずに施行されたが、それは「緊急状況規則条例」発動に基づく措置だった。ややこしいがこの「緊急状況規則条例」暴動その他の非常事態の場合は議会を通さずに政策を実行できるという仕組みで、イギリス統治時代の1922年、つまり100年近くも前に制定されたものだ。発動されるのは1967年の暴動以来、ほぼ半世紀ぶりという。事情は調べてないのだが、そのころだと中国の文革の影響でも受けたのかな?

 高校生が撃たれた直後、香港の民主運動家たちはアメリカのトランプ大統領に向けて、香港を助けてほしいというメッセージを発していた。あくまでアメリカの大統領に向けたアピールだったんだろうけど、トランプさんは「壁」を越えて来る移民に狙撃を指示いかねないようなことを言ってる人だし、正直人権問題にはあまり関心がなさそうで…10月1日のその日のツイッターも香港のことには触れずに(型どおりではあるが)中国の節目の国慶節を祝う内容だったし。前にも書いたが、天安門事件のときも当時のブッシュ父大統領はケ小平に書簡を送って問題視しないと伝えていたりするんだよな。アメリカ議会の方は香港の人権状況を確認する法律を通過させたりしてるけど、その前例を思うとどれほど実効性があるのやら。早くも「香港情勢なんて中国との取引材料にするだけなんじゃないの?」という指摘がチラホラ出ている。
 個人的には香港の民主運動を応援してるんだけど、実際のところにっちもさっちもいかない難しい局面になってきた。返還後、それでなくても存在感が低下していた香港だけに、この混乱が長引くと結果はどうあれますます存在感が低下してしまうような。中国政府の方も香港を以前ほど重要視してるようには見えず、だからまだおとなしくしてるのかな…という気もしてしまう。


 10月はイギリスのEU離脱の、一応決められた期限でもある。少なくともジョンソン首相は絶対に10月末で離脱すると言い張ってるが、もうイギリス政界はどっちの方向へ行くやらさっぱり分からない状態。これについてはたぶん次回採り上げることになるだろう。



◆平和でもなく泉でもなく

 作戦名は「平和の泉」だそうな。アフガニスタン攻撃やイラク戦争での米軍の作戦名も「不朽の自由」だの「イラクの自由」だの、恥ずかしくなりそうな名前だったが、今度のトルコ軍のシリア侵攻作戦の作戦名も相当なものだ。戦争の動機に「平和」を掲げるのは古今東西のパターンではあるが、「泉」というのが良く分からん。
 「アラブの春」の流れでシリアのアサド政権に対する各勢力が蜂起(その背後にはアメリカなど「西側」諸国の後押しもあった)、さらにIS(イスラム国)の拡大などで大変な内戦になってしまって以来、隣国のトルコはもともとアサド政権と不仲だったこともあり、親トルコの武装勢力を支援するという形で何度かシリア国内への軍事作戦を実行している。それらの作戦名も「ユーフラテスの楯」とか「オリーブの枝」といった、えらく文学的なネーミングである。いずれにも旧約聖書の香りがするのは、広い意味での「現場」だからなんだろう。

 トルコが特に神経をとがらしているのが、シリア内戦で同国北部、つまりトルコ国境付近にクルド人武装勢力が支配を広げていることだ。イラク戦争の結果、イラク北部では事実上のクルド人国家のようなものができちゃってるし、クルド人を多く国内に抱えて独立運動と戦ってきた歴史があるトルコとしてはシリアにまでクルド人支配地域が確立されてしまうことは悪夢でしかない。先ごろトルコのエルドアン政権はクルド系の市長たちをクルド人武装勢力とつながりがあるとしていきなり解任したが、それも今度の軍事作戦の前触れだったのかもしれない。
 報じられるところでは「平和の泉」作戦は一気に進められ、クルド人の政治家の多くが「処刑」されたとか、一般市民の犠牲もかなり出ているという。こうした事態をアメリカやEU各国は非難しているが、トルコ政府はまったく聞く耳を持たず、むしろEUに対して「我が国に逃げ込んでいるシリア難民をそっちに送り込むぞ」という脅し文句までエルドアン大統領が口にしている始末。アメリカは事前にトランプ大統領が「実行したらトルコ経済を壊滅させるぞ」という脅し文句を言い、実際に鉄鋼などでお得意の「関税攻撃」をかけているが、トルコ側は全く相手にする様子はない。トランプ大統領から「愚かな真似はやめろ」という書簡を受け取ったエルドアン大統領がその書簡を即座にゴミ箱に捨てた、なんて話も報じられている。

 だが、そもそもトルコの侵攻作戦を招いたのは多分にアメリカ側に原因がある。商売人のトランプさんは損得勘定からシリアにいた米軍の多くを撤収させたが、トルコはその空白を突く形で侵攻している。米軍撤収となればそうなることは目に見えていたのに、だ。
 シリアに展開したアメリカ軍は、ロシアを後ろ盾にするアサド政権とは当然敵対関係だし、そもそもISをなんとかしようと派兵したので、反アサドの武装勢力、とくにクルド人勢力を強く支援した。そのアメリカ軍が撤収しちゃうことはクルド人を見殺しにすることではないか、との批判はアメリカ政界では与野党ともにあがっていたのだ。実際、これではトランプさんとトルコ政府が実は示し合わせていたんじゃないかと疑われても仕方ない。
 こうした批判に対するトランプさんのコメントも凄い。「彼らは第2次大戦で我々を支援しなかった。例えばノルマンディーで我々を助けてくれなかった」というミョウチキリンな理由で「見殺し」を正当化したのだ。なんでノルマンディー上陸作戦がそこで出て来るんだか。この調子じゃ日本で何かあっても絶対助けてくれそうにないぞ。最近半ば本気で心配してるのだが、トランプさん、「正気」なのだろうか?

 ところで肝心のシリア政府、つまりアサド政権はどうしてるのかといえば、さすがにトルコに対抗して自国の領土を守るべく軍隊を出動させている。トルコ軍と全面衝突なんて事態はお互いに避けたいと思ってるだろうし、アサド政権緒後ろ盾であるロシアが最近はトルコと急接近という、戦国時代風の離合集散をやっているので、緊張状態ではあろうが破滅的なことにはなるまい…というのが大方の見方ではある。
 で、アサド政権はこの事態になって、それまで敵対していたクルド人勢力を今度は味方して支援する。まさに「敵の敵は味方」「昨日の敵は今日の友」である。どっちにしてもクルド人たちは利用されてるだけで、少なくともシリア領内に独立国を作るのはますます遠のいた感があるなぁ。その意味では実はトルコ政府もシリア政府も利害が一致していたりもする。

 こんなゴチャゴチャやってると、またISが息を吹き返すんじゃないか、ってな危惧も出て来てて、シリア内戦はいつ終わるのやら分からない。ついつい思ってしまうんだが、オスマン帝国にまとめて支配されてた時代の方がこの地域は平和でよかったんじゃないだろうか。オスマン帝国の後継国家であるトルコの首脳に、チラとそんな考えが浮かんでるんじゃないかという気もする。



◆200年後の「最古」

 『源氏物語』といえば1000年前の平安時代に紫式部によって書かれた長編小説で、日本を代表する古典文学。日本人ならまずその名を知らぬことはないだろうが、全部ちゃんと読んだという人はかなり少ないはず。僕だって高校の古典の授業で習ったごく一部の場面しか読んでなくて、あとは漫画「あさきゆめみし」を読んだことがあるというだけだ。実際、本文はかなり難しく、だから著名文学者による現代語訳がいくつも出ているわけで。

 『源氏物語』が書かれてから間もない時期に、それを夢中で読んだのが当時13歳の菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)。そう、『更級日記』の作者である。数えの13歳だから今でいう小6か中1で『源氏』を読めちゃったわけだ。彼女は一冊読んでもう夢中になってしまい、「どうか全巻読ませてください」と神様に祈ったほど。本屋に買いに行け、などとツッコんではいけない。当時は本屋はないし、そもそも印刷・出版というものが存在せず、広く読まれたと言われる『源氏』すらも人の手で書き写された「写本」でしか存在しなかった。そんな時代だから全巻読みたいと思ったら、それこそ神様に祈らなきゃいけないくらいだったわけだ。まぁ菅原孝標女ちゃんの場合は神様じゃなくて伯母さんが、どういう方法を使ったのか不明だが全巻そろえてプレゼントしてくれたんだけど。

 『源氏物語』は紫式部がまず自身の手で「肉筆原稿」を書き、それが字のうまい人に清書されて一応の「完成版」が作られ、それを誰かが書き写して…という流れで広められたと考えられる。しかし清書する前の原稿を、早く続きが読みたいと藤原道長が勝手に持ち出したり(笑)、清書や写本の過程で原稿が紛失したりしていたらしい。紫式部自筆のものはもちろん、当時の写本も現存していない。それどころかそれからおよそ200年もある平安時代の写本自体が現存していないのだが、菅原孝標女ちゃんの回想からすると写本自体はずいぶんあったものと推測はできる。

 現存する『源氏』最古の写本は鎌倉時代初期のもの。それも当時を代表する歌人・文学者であった藤原定家が書写・校正作業を行ったものだ。紫式部の時代からおよそ200年は経っていて、『源氏』の写本は当時色々あったらしいが、そこは人の手による書写なので書き間違いや写し間違い、書き落としなどが多く発生していた。それも200年ぶんの伝言ゲームみたいなもの。大筋の内容は変わらないのだろうが、細かい文章の相違はいろいろあったはず。
 定家は新たな写本を作っただけでなく、当時の写本の数々を比較検討し、「これが紫式部の書いた原本に近い」と思われる本文の復元も行っている。定家が校訂を手がけた写本は「青表紙本」と呼ばれ、あくまで「原文の復元」に重点を置いたため一部に矛盾や意味不明になるところもあるというが、室町時代中期以後はこの定家の「青表紙本」系統が『源氏』の主流とされるようになる。今日『源氏』テキストでもっとも利用されるのはこの系統で全巻がそろっている15世紀の写本だ。

 しかしこの定家が手がけた「青表紙本」もごくわずかしか現存していない。当然全巻作成したのだろうが、今日確認されているのはわずかに5巻のみ。それも5巻目はつい先日確認され、実に80年ぶりの大発見と報じられている。紫式部自身がすでにそうだったわけだが、定家クラスの人の自筆本でも散逸・紛失してしまうものなのだなあ、と歴史文献が生き残ることの難しさを改めて感じてしまう。

 このたび確認された定家写本は、元大名家の大河内家に伝わっていた「若紫」の巻。「若紫」といえば、主人公・光源氏が美少女を見かけて気に入り、やがて誘拐して自らの手で育てて妻にしちゃうことになる、その出会いを描いた重要な巻で、古典の教科書で取り上げられることも多い(比較的当たり障りがなく、印象的だからだな)。そういえば僕も高校時代に教科書で読んだのも「若紫」だった。今回確認された写本は
その重要な巻の現存最古のテキストであることからも注目されているのだ。
 大河内家は三河国吉田藩の藩主だった家で、「大河内松平家」とも呼ばれ、幕府の老中を出した家柄でもある。その子孫である大河内元冬さんが今年の2月の都内の自宅で木箱に納められていた「若紫」を発見、定家の子孫である冷泉家の「時雨亭文庫」に鑑定を依頼した。調査の結果、まさに「青表紙」であることや鎌倉時代によく利用された和紙であること、本文の字体がすでに確認されている4巻きとよく似ていること(本文を書いているのは定家に仕えた女性たちと考えられている)などから、「青表紙本」の一冊に間違いなし、と断定された。なお、当時は身分の高い人しか使わなかった青い墨で注釈の書き込みがあり、これは定家自身の筆だと推測されている。
 いやはや、こういうのが残っているのにも驚くが、それがつい最近まで全く気付かれなかったということにも驚く。元大名家なんて何を持ってるか当人たちも把握できてないんだろうな。だから研究者からは「まだ見つかるんじゃないか」との期待の声もあがっているそうで。

 ところで、大河内家が明治時代に作った目録では、問題の「若紫」は、寛保3年(1743)に、福岡藩主・黒田継高から当時の大河内松平家当主で老中をつとめていた松平信祝に贈られたものと記されていたという。
 あれ?松平信祝(のぶとき)って聞き覚えがあるな。と思ったら、数年前にヒットした映画「超高速!参勤交代」で悪役として登場していたのだ。演じていたのは陣内孝則で、続編「超高速!参勤交代リターンズ」では徳川吉宗打倒の策謀までめぐらせていた。もちろんそんな史実はなく享保の改革を担った忠実な幕閣の一人であって、大河ドラマ「八代将軍吉宗」では西岡徳馬が真面目に演じていた。陣内さんも西岡さんも「太平記」出演組だな。
 一方、贈った方の黒田継高は、大河「軍師官兵衛」の主役・黒田官兵衛の子孫である。しかし、この継高は息子に次々先立たれ、結局血縁もない一橋家から養子をもらい(実質幕府の押し付け)、官兵衛以来の黒田家血統当主はここで絶えてしまうのだった。この継高がどうして信祝に「若紫」を贈ったのか、「若紫」がどうして黒田家にあったのか、想像をめぐらしても何も分からないが、面白い話なのは確か。歴史ばなしってのはいろいろ思いがけぬ方向に話がつながるからおもしろいんだよな。



◆400勝と宇宙遊泳

 近い時期に亡くなり、だいたい世代が同じというだけで全然関係ない二人の人物の生涯を重ねて語るシリーズ。今回は元プロ野球選手で前人未到の「400勝」を達成した金田正一と、旧ソ連の宇宙飛行士で人類初の宇宙遊泳を行ったアレクセイ=レオーノフの二人でそれをやってみよう。


 金田正一が生まれたのは1933年8月1日。出生地は愛知県、現在の稲沢市で、在日韓国人2世として生を受けた。もちろん当時は朝鮮半島は日本の植民地だったので、「外国人」という立場ではなかった。本名は「金正一」なのかな、と勝手に思っていたのだが(読みが「キム・ジョンイル」と同じになってしまう)、実際の韓国名は「金慶弘(キム・ヒョンホン)」といった。
 その翌年の1934年5月30日に、アレクセイ=レオーノフは西シベリアのバイカル湖近くのリストヴィヤンカに生まれた。兄弟姉妹は9人いて、そのうちの8番目の子供だった。なお彼の祖父は1905年の「ロシア第一革命」のためにこの地へ移住したことがあり、彼の父は彼が生まれて間もなくスターリンの大粛清に巻き込まれて逮捕され幸い釈放されるなど、ロシア現代史に翻弄された一家の歴史を持っている(まぁロシアの多くの人がそうだろうけど)

 金田は中学時代から本格的に野球を始め、1948年に享栄商業高校に入学、翌年から2年生でエースとして登板し、この時は県大会準決勝で敗退、3年生となった翌年も準決勝で敗退し、ついに甲子園の土は踏めなかった。だがこの3年生の時に国鉄の名古屋鉄道管理局のグラウンドを借りて練習していたところを国鉄職員がその投球の凄さを目撃、当時国鉄がオーナーだったプロ野球チーム「国鉄スワローズ」に連絡して、スカウトにつながった。当時はドラフト制度も存在せず、金田は県大会敗退直後に高校を中退してそのままスワローズ入り、8月にプロ投手としていきなり活躍を始めている。1950年8月23日のプロ初登板は「サヨナラ押し出し」の敗戦という苦いものだったが。

 そのころレオーノフ一家は、ソ連が旧東プロイセン地域(第二次大戦後ソ連領になった)への移住推奨政策にのっかって1948年にカリーニングラードへ移住した。レオーノフ少年は1953年に日本で言う高校を卒業し、当初は画家を志して、ラトビアのリガにある芸術アカデミーへの入学を考えたが学費が高いため断念、ウクライナの飛行訓練学校に入ってパイロットを目指すことになる。もっとも画家への夢も捨てられず、飛行訓練をしながらリガにも行って絵も学ぶという、「二足のわらじ」の青春時代を送っている。1957年に卒業し、ソ連空軍のパイロットになる。アメリカでもそうだったが、これがその後宇宙飛行士になることにつながるわけだ。

 そしてそのころの金田はと言えば、もう大活躍。入団翌年の1951年9月にプロ野球史上最年少でノーヒット・ノーラン達成。14年連続でシーズン20勝以上をあげるほか、最多奪三振も毎年のよう記録している。1957年8月には初の完全試合達成。押しも押されぬ日本球界の大投手となったが、翌1958年の開幕戦で、この年プロ一年目の長嶋茂雄と歴史的初対決をし、4打席連続三振に打ち取ったが、その時の長嶋のスイングの凄さに「将来の大物」を金田が予感したというのも有名な話。翌1959年には王貞治が巨人入りし、この長嶋・王というスターを抱える巨人に対して金田はカタキ役というか、「巨人キラー」として存在感を増していく。
 フィクションの話になるが「巨人の星」「侍ジャイアンツ」といったプロ野球漫画に長嶋・王と共に金田も登場していて、特にこれらは投手が主役ということもあって指南役的なポジションでよく使われていた。野球ものではないが「鉄人28号」の少年探偵・金田正太郎も金田正一から名前をとったとされていて、それは後年の「AKIRA」の主人公の名前にまでつながっていく。

 このように金田が大活躍しているころ、ソ連は1957年に人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げ、世界に衝撃を与えた。その後もソ連は次々に宇宙開発計画を成功させ、いよいよ人間を宇宙に送り出そうと1960年に宇宙飛行士の選抜を行い空軍パイロットから20名が選ばれた。この中に、最初に宇宙を飛んだ人間となるユーリ=ガガーリンはもちろん、レオーノフも含まれていた。
 そして翌1961年4月12日、ガガーリンを乗せた「ボストーク1号」は地球の周回軌道に乗り、人類初の有人宇宙飛行を成功させる。アメリカも大慌てで有人宇宙飛行計画を進めて後追いし、米ソの冷戦まっさかりということもあって激しい宇宙開発競争が進んでいくことになる。

 1963年6月30日、金田は通算311勝をあげて、ついに日本プロ野球史上最多勝利記録を打ち立てる。しかしこのころからスワローズの経営にフジサンケイグループが関わって来て、それに反発を覚えた金田は移籍を考え始めていた。そして1964年12月に、それまで宿敵であった巨人への移籍が実現、1965年のシーズンから巨人の投手として活躍することとなる。

 金田が巨人に移った1965年の3月18日、ソ連は宇宙船「ボスホート2号」を打ち上げた。その乗員2名のうちの一人がアレクセイ=レオーノフで、彼はこの飛行の途中で人類最初の「船外活動」、いわゆる「宇宙遊泳」を実行する。ほんの12分間のことだったが、このとき人間が初めて、本当の意味で「宇宙に出た」のだった。
 ところがハプニングが起きる。船外活動を終えて船に戻ろうとしたら宇宙服が空気圧で膨張してしまい宇宙船のエアロックに入れない、という事態が発生した。ソ連の国営放送は慌てて実況放送を中断、レオーノフも焦ったとは思うが、宇宙飛行士は事前に無重力状態での訓練も豊富にしているしメンタル面でも慌てない人達である。レオーノフは当初足からエアロックに入る予定だったがそれが不可能と分かると逆に頭から突っ込み、さらに宇宙服内の酸素を放出して膨張を抑え込み、どうにか生還することになった。
 ハプニングは地球帰還時にも起きた。大気圏突入へのプログラムは自動化されていたのだが、軌道を離れるための逆噴射が作動せず、レオーノフたちはやむなく手動で逆噴射を行い、大気圏突入時まで機械船が切り離せない、着陸地点も大幅にずれてしまう、といったオマケもついたが生還を果たした。つくづく宇宙飛行士は強運ってのも大事な要素だな。

 無事に帰ったとはいえ、この「ボスホート2号」の相次ぐトラブルはその後のソ連の宇宙計画をかなり遅らせることになったと言われる。このあたりから先行していたソ連にアメリカが追いつき、追い越す状況となってきて、アポロ計画が順調に進んでいくなか、ソ連は計画されていた月周回飛行や有人月面着陸計画を断念せざるを得なくなる。レオーノフもそれらの計画への参加メンバーに選ばれていたが、国家のメンツがかかっている以上、失敗しては元も子もないし、アメリカの後追いをするのもカッコ悪いし、ということでソ連はそうした計画自体「存在しなかった」という公式見解を貫くことになる。レオーノフ自身もソ連崩壊前に出演した日本のテレビ番組で「ソ連の月面着陸計画はなかった」と言いきっちゃったことがある。

 そのころ金田はというと、さすがに巨人入り後は精彩を欠いて来ていた。肘の故障や二軍落ちといった苦労の末、アポロ11号が月面着陸を果たした年、つまりちょうど50年前の1969年の10月10日に通算400勝を達成するも、それを花道として引退ということになった。
 このころすでに金田は日本に帰化している。そのため在日韓国・朝鮮人の間では評判が悪かった時期もあったらしいが、金田としては帰化した方が選手としての移籍や指導者になるには有利という意図もあったらしい。だが結局1972年に彼を監督に起用したのが、韓国系がオーナーであるロッテ・オリオンズだったあたりは、なかなか単純ではない背景事情を感じさせる。
 しかしロッテはこの1972年にそれまで本拠地にしていた東京スタジアムが閉鎖になり、翌年からは仙台の宮城球場を一応の本拠地としつつも現在の楽天のような完全移転まではせず、各地の球場を放浪する「ジプシーロッテ」と呼ばれる状態になる。またフィクションの話になるが、漫画「アストロ球団」では、そんな状態の金田ロッテが、アストロ球団と対戦している。1974年には日本シリーズも制覇したのだから、あの超人ぞろいのアストロ球団と戦えたのも無理はない(?)のだった。いや、一部で「アストロ球団ってロッテに苦戦してるんだぜ」とネタにされることもあるので(笑)。

 前後してしまうが、1971年にレオーノフは「ソユーズ11号」で再び宇宙に行くことになった。ところが直前にクルーの一人が結核を患っていると判明、急遽バックアップクルーと交代させられてしまう。そしてこの入れ替わった三人の飛行士たちは帰還時に宇宙船から空気が漏れて全員窒息死という悲劇に見舞われてしまう。これについてはレオーノフは自身の強運を感じるより、自分が行っていたら事故自体起こらなかった(原因となったバルブの不調を事前に指摘もしていたという)と大いに悔やんだという。
 金田ロッテが日本一になった翌年の1975年7月15日、レオーノフはようやく二度目の宇宙飛行を果たす。それはソユーズ19号で、アメリカのアポロ18号と宇宙でドッキングするという、米ソ間の「デタント(緊張緩和)」を象徴する宇宙平和利用ミッションだった。7月17日にソユーズとアポロは軌道上で無事にドッキングに成功、米ソの宇宙飛行士たちは相互に表敬訪問し握手しあった。このときアメリカのスタッフォード飛行士が強烈なオクラホマ訛りのロシア語を話したため、レオーノフは「ここには三つの言語がある。ロシア語、英語、そしてオクラホマスキーだ」とギャグを口にした。そしてこのミッションがレオーノフの最後の宇宙滞在となる。

 金田の方は1978年に川崎球場を本拠地に得て「ジプシー」状態が終わるも、成績低迷やら内紛やらでこの年をもって監督を解任されてしまう。以後しばらく解説者・タレントとして活動するかたら、引退した名選手たちの集まり「名球会」を設立してその運営にあたったりもしていた。1989年にロッテ監督に再び就任することになるのだが、その少し前、どおくまんの漫画「怪人(ミラクル)ヒイロ」のプロ野球編に金田(一応カタカナ表記にしてた)が登場、低迷する王ジャイアンツ復活のために、まさかの「ON現役復帰」を提案するというとんでもない参謀役をやっていて、僕自身は「リアルタイムで見た金田」というのがこれだったりする(笑)。

 1980年代のレオーノフは「ガガーリン宇宙飛行士訓練センター」の副所長をつとめたり、宇宙飛行士向けの機関紙の編集をしたりと、後任の育成にあたった。それと同時にもともとの趣味である絵画の方も続けていて、数年前のテレビ番組で彼が絵を描いている様子を見たが、実際なかなかの腕前だ。その時描いていたのは自分が宇宙遊泳をしている場面の油絵だった。
 1981年にSF作家アーサー=C=クラークがソ連を訪問してレオーノフに面会した。当時クラークは映画でも有名な「2001年」の続編となる「2010年」を執筆中で、クラークは作中に出て来るソ連の宇宙船に「アレクセイ・レオーノフ」と命名したいと、その名の当人にもちかけた。レオーノフは「そりゃきっといい船だ」と快諾、小説中で実際にその名が使われ、1984年公開の映画版ではその具体的な姿が拝めることになった。もっとも、2010年どころか2001年までにソ連自体が消滅しちゃいましたけどね(「2001」に出て来たパンナムも同様)
 1991年にソ連が解体されると、それと連動したのかどうか分からないが、レオーノフも引退、得意の絵を描いたり自伝や宇宙開発史の本を書くなどしながら余生を送ることとなった。先述の数年前のテレビ番組では「画家になっていたとしてもミケランジェロやラファエロのようにはなれなかった。宇宙飛行士になったからこういう絵が描ける。もう一度人生をやり直せても、やはり宇宙飛行士になって絵筆をとってるだろうな」と発言していた。

 金田は1989年にロッテ監督に復帰したが、成績は低迷して2年目の1991年のシーズンをもって監督を辞任した。この年をもってロッテ球団も川崎から千葉マリンスタジアムへ本拠地を移すことに決定し、金田は川崎時代最初の監督にして最後の監督になるというめぐりあわせになった。
 その後はそのキャラクターもあって、どちらかというとタレント的な存在感が強かった。某警備会社のCMに長く出演していたが、いつからなのかもうわかんないほど長期間まったく内容が変わらなかったのでそれも妙に印象に残っている。名球会の会長も長年勤め続けたが、独裁的だとの批判も出て2009年に会長を辞任、名球会自体も社団法人五改組したため金田自身は退会状態になっていたという。

 2019年10月6日、金田正一は東京都内の病院で86歳の生涯を閉じた。
 2019年10月11日、アレクセイ=レオーノフはモスクワ市内の病院で85歳の生涯を閉じた。
 何の接点もない(と思う)二人だが、こうして並べて人生を眺めてみると、二人の生きた時代をささやかながら追体験できると思うのだ。


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