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2019年9月23日

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◆平安京エリアやん

 なにこのタイトル、と分かない人、分かる人で世代がわかりますね(笑)。
 
 「平安京」と言えば現在の京都市。相変わらず使われる「鳴くよウグイス平安京」の語呂合わせで覚える西暦794年に、桓武天皇がこの地に都を移した。それ以前は現在の奈良市にあった「平城京」に都があったが、桓武天皇はまず「長岡京」に遷都するもいろいろトラブルがあって短期で放棄、さらに北の山城国北部の盆地に「平安京」が建設され、以後一時的な例外を除いて1000年以上ここに日本の首都がおかれ続けることとなり、いつしか「平安」がとれて「」「京都」と呼ばれるようになった。今は首都じゃないんだけど名前は堂々と首都を名乗っているわけだ。

 この「平安京」、平城京と同じ唐の都・長安を模して「碁盤のような」と表現される、真四角な全体構造に縦横にまっすぐな道路を引いた、計画的な街づくりがなされた。そのスケールは現在の京都市に重ね合わせてみても分かるように、かなり巨大なものだった。当時の日本の首都としては明らかに釣り合わない巨大さであったことは、結局このサイズが全て宅地化することはとうとうなかったことでも分かる。
 特に平安京の西側、「右京」と呼ばれる地域は(西だと左に思えるが天皇が南を向いた視点かラ左・右と呼んでいる)遷都のころから湿地帯になっていて住みにくく、10世紀までに住宅地としては放棄され空地・農地化してしまった。このため平安時代半ば以後の「平安京」は東側半分の「左京」部分だけになり、南端ど真ん中にあった「正門」の羅城門も崩壊して再建されず、その反対側の北端中央にあった、天皇の居住地であり政府中枢があった大内裏も消滅し、中世には「内野」と呼ばれる野原と化してしまった(ちなみに南北朝時代末期の「明徳の乱」はこの内野が戦場となった)。応仁の乱を経た戦国時代の京都はますます南北に細長い町となって、当時の日本では大都市には違いなかったが、かつての平安京と比べればずいぶん縮小されたものとなっていた。逆に言えば建設当時の平安京は身の丈に合わない計画都市だったということにもなるだろう。同時期に発行され、やがて使用されないので発行自体されなくなった銅銭同様、中国風の律令国家を強引に真似しようとしてたんじゃないかという気もする。

 さて現在の京都市でも通りの名前に「二条」「三条」「四条」といったものが残っているが、これは平安京を東西に横断する「大路」の名前がそのまま残ったものだ。平安京の北端に「一条大路」があり、そこから南へ「二条大路」「三条大路」…と続いて、南端に「九条大路」があった。そのおよそ半分くらいが「九条通り」として現在も生き残っているが、このたびこの九条大路の遺構の一部が初めて発掘、確認されたとのニュースがあった。これまでに平安京の北端、東端、西端の遺構は確認済みで、今頃?と意外なきもしたが、今回の南端の確認で建設当時の平安京の四つの端が全て確認されたことになるのだそうだ。

 昨年末から発掘調査が進められていたのは、かつての「右京九条二坊四町」に当たる区域。平安京の南端中央にある正門「羅城門」からやや西に行った辺りだ。発掘により、東西に延び砂利を敷き詰めた幅約30mの路面と、その北側と南側に溝とが見つかり、これがかつての「九条大路」の遺構だと推定された。またこの南側の溝のさらに南側には砂利と土と盛って打ち固めた高さ15cm、幅3mほどの土壇も見つかり、これはかつて平安京の外郭となっていた「羅城」の一部の遺構だと推定された。「羅城」というのは長安など中国の都市ではレンガを積み上げた高い城壁だが、日本の都ではこうした土壇の上に塀を乗っけただけのものだった。
 やや脱線するが、日本の都市が城壁を築かないことについて「日本は平和だったから」と言ってる人もいるが、加えて予算の都合というのも大きかったんじゃないかな、とその後の平安京の衰退過程を見てると思えてくる。中世には京をめぐって戦争が何度も起こるが、京側が防衛して勝利した例はかなり少なく(先述の明徳の乱くらいかな?)、やっぱり城壁がないからと思うと同時に、そもそも防衛に不向き土地なのかも、とも思う。

 今回の発掘は10世紀初めに作られた『延喜式』にあった平安京の南端に関する記述をもとに調査地点を決定していて、その発掘結果から『延喜式』の記述が正確なものであったことが改めて裏付けられた。『延喜式』では「南の極(きわ)の大路十二丈、羅城の外二丈」という記述があり、九条大路の幅が十二丈なのか、「外二丈」を加えた十四丈なのか議論があったそうだが、今回の発掘で大路の幅が十二丈(およそ36mほど)であることで決着がついた。また「羅城」、つまりは土壇の上のも塀も、少なくとも平安京の南側全体にちゃんと作られていた可能性が高い、という推測もできるという。その後「計画倒れ」になってゆく平安京も、造営当時は少なくとも外枠はかなりしっかり作ってあったんじゃないか、という話である。



◆光の国から微笑みの国へ

 「微笑みの国」といえば、一般的にタイのこと。そしてタイといえば世界でもトップレベルで熱心な仏教国だ。その仏教国で、女子学生が製作した「ウルトラマンブッダ」と呼ばれる絵画が大変な議論を呼んでしまった、というニュースがあった。その絵画の写真を見たが、ウルトラマンというよりウルトラセブンやウルトラマンタロウっぽいスーツを着た仏像が座禅を組んだり光の輪を握ったりしてるポーズのもので、広義の仏教徒を自認する僕(イギリスの教会の人に「仏教徒?」と聞かれて「イエス」と答えてますからね。仏教徒ならイエスじゃなくてブッダといえ、って何を自分でツッコンでるんだ)には「面白いな」と思ったものだが、そこは熱烈仏教国のタイ、保守勢力を中心に大騒動になっちゃったのである。

 問題の絵はタイの東北部にあるナコンラチャシマ県の大学生が製作、同県の商業施設で展示されたのだが、その画像がネットで拡散され「炎上」してしまい、保守政治家らが「罰当たり」と騒ぎ、抗議殺到で展示自体が中止、という事態になってしまったのだ。騒ぎが大きくなると同県知事や大学幹部らが高僧に面会して謝罪するという一幕もあったらしいが、その高僧ご自身も絵を問題ありと感じたんだろうか。

 製作した女子学生本人は「悪者から地球を守るウルトラマンにブッダを重ねた。悪意はありません」と涙ながらに「謝罪コメント」したそうだが、確かに光の国から人類を守るためにやってくるウルトラマンという存在は、ブッダ=釈迦如来(如来とは「真理の世界から来た」という解釈がある)とイメージが重なるのは確か。そういや初代ウルトラマンの造形って、観音菩薩のイメージが入ってるって話があったような…って調てみたら、あの独特の口元表現に観音像の「アルカイックスマイル」が取り入れられた、という話はあるらしい。

 このタイでの騒動、何やら日本で先ごろあった展示中止騒動を連想してしまうが、こちらでもこの問題を「表現の自由の問題」ととらえて作品の支援活動を行う人たちも出てきている。特に芸術家らが「若者の発想の芽を摘むな」と展示中止に抗議、この「ウルトラマンブッダ」の絵4点のうち2点を作者から譲り受けてネットオークションにかけるという動きも起きた。9月11日からネットオークションが開始されたが、翌12日に一気に60万バーツ(約210万円)に跳ね上がり、さらに翌日の13日に200万バーツ(約710万円)の高額で落札となった(別の1点も60万バーツで落札)。このお金は作者の学生の教育支援のほか寄付にまわす予定とのこと。タイでもこういう動きが出て来るというのは結構なことだ。



◆サケて通れぬ問題

 北海道の保守政治家で「アイヌは先住民ではない」なる主張をしている者がいる、というのは以前から聞いていた。北海道の地名の多くがアイヌ語由来であるという事実だけで明らかにタワゴトと否定できる話なのだが、アイヌ民族を「先住民族」と明記した法律ができたのは、実は今年の4月という、かなり最近、というかつい先日の話だったりする。
 その法律の正式名称は「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」といい、報道用語としては「アイヌ民族支援法」という。アイヌ独自の文化の維持と振興のために交付金制度を創設するといった内容の法律だ。この法律でようやく「アイヌは先住民族」と法律に明記されたわけだが、「あれ?以前にそういうこと国としてちゃんと定義してなかったっけ?」と思って、改めて確認してみた。

 まずかれこれ20年以上前の1997年に「アイヌ文化振興法」が成立、施行され、それまでの「旧土人法」を廃してアイヌの伝統や文化を尊重する姿勢が定められ、当時アイヌ出身の国会議員である萱野茂が国会で初めてアイヌ語演説を行う一幕があった(公民の教科書に載ってたこともある)。ただしこの法律ではアイヌを「先住民族」とは規定していなかった。
 それから10年後の2007年に国連総会で先住民族の権利に関する宣言が採択され、日本も賛成に投票した。これを機にアイヌについても「先住民族」であることを明確にしようという動きが出て来て、翌2008年6月に国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆議院・参議院両院の全会一致で採決され、一応ここで日本国内における公的な文書でアイヌを「先住民族」と明確にしたことになる。法律の中にそれが明記されるまでにさらに十年以上がかかったということだが。

 ひと昔前だと「日本は単一民族国」とか「アイヌ民族はほぼ同化した」といった発言をして物議を醸す国会議員がいたりしたものだが、こうした流れの中でさすがにその手の発言は影を潜めたように見える(2008年の国会決議も反対ゼロだもんね)。その一方で「日本会議」のような保守勢力にアイヌの先住民性を認めない、あるいはそもそも現在存在していることすら認めず「アイヌ利権」などという言葉で攻撃する、といった主張がかえって声高に叫ばれたりもするようになった。最初に書いたように北海道では北海道議・札幌市議でそうした発言を繰り返して問題になった政治家も出て来てるわけだ。
 この文章を書いている9月22日には札幌の区民センターで日本会議北海道支部が「あなたもなれる?みんなで“アイヌ”になう?」というタイトルで講演会を行い、報道によればやっぱり先住民族であることを否定し、「アイヌ利権」を攻撃する内容の講演が行われたようだ。この手の人達というのはどこの国でもいるようだが、とにかく自分たちの中にマイノリティーだの異分子だのを目の敵にするんだよな。
 ちょっと脱線するが、たまたまツイッター経由で、「秦の始皇帝はユダヤ人であった」というトンデモ講演の動画を知り、同じ人物がほとんど日ユ同祖論やらユダヤ陰謀論(この両者がなぜか両立するのは戦前以来みられる)のような言説やら、「日本は原爆実験に成功していた」「日本は無条件降伏・敗戦などしていない」といった、日系ブラジル人の「勝ち組」じゃあるまいし、この人は歴史の異なるパラレルワールドの住人なのかと思えるような講演動画を次々見ていたら、やっぱり「アイヌは先住民族ではない」と題する講演動画もあった。一連の講演をしていtのは「新しい歴史教科書をつくる会」やそこから分裂した団体に深く関わった美術史家の田中英道氏。前から変なことを言う人だとは知ってたが、最近はほとんどオカルト歴史の方向にどっぷりになってるんだなぁと面白がってしまったものだ。他にもツッコミどころ満載の歴史観を披露していて、そのうち著書を「てこ歴」で扱えそうな。

 そんな話題も報じられる直前にはこんな報道もあった。
 紋別アイヌ協会の会長が紋別市内の川で無許可でサケを捕獲したとして、9月1日に北海道から道警に刑事告発された。むかし「釣りキチ三平」で覚えた知識だが、どんな川でも漁業権が設定されていて、許可のないところで個人が勝手に釣りをしてはいけないというルールがあり、子の人のケースもそれに当たるのだと思うが、当人は「サケ漁はアイヌが先祖から延々と続けて来たもの」とし、「アイヌを先住民と認めるのなら、国は土地や資源の返還や補償をすべき」との問題提起のためにサケ漁を行ったということだ。
 確かに歴史的に見れば、アイヌ人たちが日本政府の政策によって伝統的生活を改変され、狩猟や漁業の権利を奪われ、同化を強制されてきた。彼らを「先住民族」と認めた場合、そうした歴史を反省し権利等の補償や返還といった議論が出て来るのは当然といえば当然で、「アイヌ文化振興法」が成立してから実際に裁判も起こされてアイヌ側の敗訴に終わっている。今回のケースでもあえて問題提起のためにやってるわけで、現状法律的にはアウトになると思う。

 当人や支援者たちが言ってるように、国際法的には先住民の伝統的漁業権などが認められている例もあるし、先述の今年で来たばかりの「アイヌ民族支援法」でも、アイヌの伝統儀式に使う林産物を国有林から採取することや、伝統的サケ漁の許可についてその円滑な実施ができるよう適切な配慮をする(さすがに許可はいるわけだ)ことなどが定めている。このあたりを法的にちゃんと決めるのが政治の責務だろう。



◆国鉄三大ミステリー70年

 「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれるものがある。別に西村京太郎が書いた小説とか、そういう話ではない(笑)。
 今からちょうど70年前の1949年に相次いで発生した国鉄がらみの事件で、7月5日の「下山事件」、7月15日の「三鷹事件」、8月17日の「松川事件」の三つを指す。
 1949年といえば、日本はまだGHQによる占領下にあった。中国では内戦が共産党の勝利に傾き10月1日に「中華人民共和国」が成立、翌年には北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が勃発するなど、東アジアにおける冷戦構造が「冷たい」ではなく厚い火の手をあげていた時期だ。こうした状況の中で日本国内でも日本共産党が国政選挙で躍進、共産党系の労働組合が強かった国鉄で大量の人員整理が進められるという騒然とした状況の中でこれらの「国鉄三大ミステリー」が立て続けに発生した。このため「GHQや日本政府による謀略説」が当時から根強くささやかれ続けている。

 「下山事件」は当時の国鉄総裁・下山定則が常磐線の線路上で轢死体で発券された事件。これが他殺か自殺かをめぐり、基本的に他殺とした場合に謀略説と結びつくのだが、その謀略説をとった映画なんかも見てみたけど、正直なところこれは自殺説の線の方が筋が通ると思った。自殺でも事件そのものが謀略に利用される、ということはあったと思うけど。
 「下山事件」は誰一人として逮捕されたり裁判になったりはしなかったが、残る二つの事件は容疑者は逮捕され裁判にもなり、そこでまたさまざまな問題が噴出した。こちらは謀略の有無は別にして、日本の警察・司法の、今日でも吹き出すことがある「冤罪生み出し体質」を浮かび上がらせている。

 「三鷹事件」は、三鷹駅構内で運転手のいない電車が暴走、車止めに激突して脱線・転覆し、多くの死傷者を出した事件だ。警察はこの事件を共産党系の組合員らの共同謀議の線で捜査を進め、共産党員10人および党員ではないが国鉄に解雇された直後だった元運転士を逮捕した。しかし裁判では矛盾が次々噴出して一審判決で共産党員たちは不起訴や無罪になっ。ただし元運転士一人だけは有罪とされ無期懲役判決がくだり、高裁では死刑判決になり、最高裁でそのまま確定した(だから共産党つぶしの謀略にしてはアラが多いと思える)
 だが元運転士は無実を訴え続け、当日のアリバイ主張をして再審請求を行い、一時再審への道が開けそうな動きもあったのだが、間に合わず元運転士は脳腫瘍で獄中死してしまった。本人死亡ということで再審は却下され、2011年に息子さんが2度目の再審請求をして父の無実を証明しようとしたが、事件から70年目となる今年の7月31日に東京高裁は再審を認めない決定を下している。

 そして最後の「松川事件」は、福島県内の東北本線松川駅付近のカーブで何者かによりレールが外され、列車が脱線転覆して機関車の乗務員3名が死亡した事件だ。この事件でも警察は当初から共産党系の労働組合員(国鉄および付近の東芝工場の従業員)が犯人との線で捜査を進め、まず以前国鉄で働いていたこともある19歳の少年を別件逮捕して精神的拷問で事件関与の自白を引き出し(捜査員には戦前の特高警察あがりもいた)、「共犯者がいるだろう」と誘導して国鉄・東芝の共産党系組合員たちを逮捕、やはり同様に自白を引き出した。他の冤罪事件でも見られるほとんどお決まりのパターンだ。

 これも裁判では最初に自白した少年も自白は強制されたものとして否認に転じ、そもそも最初から「こいつらに違いない」という線で強引に捜査をしていたから裁判が進むにつれ矛盾が次々と噴出した。それでも地裁の一審は被告人20人全員が有罪(うち5名が死刑)とされ、高裁の二審では17人有罪(うち4名に死刑)で3名が無罪、それから最高裁で二審判決が棄却され、高裁での差し戻し審で全員に無罪判決、それから検察側の上告を最高裁が棄却、ということで1963年に全員の無罪が確定した。事件発生から実に14年も経ってしまっていた。
 この事件では「真犯人」と名乗る人物から、被告人たちの弁護団に加わっていた松本善明(のち共産党の国会議員。いわさきちひろの夫でもある)のもとに手紙が届き、その内容から「本物」との見解も出されていたりもするが、結局真相は闇の中となった。なお、この松本善明氏、奇しくも事件から70年目の今年6月に死去している。

 「三鷹事件」「松川事件」の二つがちょうど70周年ということもあり、この夏には上記の再審棄却のほか関連シンポジウムが開かれるなどチラチラと話題になっていた。僕はまったく気づかなかったが、松川事件については関連資料を補完する福島大学などで、「戦後最大の冤罪事件」とされるこの事件の資料を「世界記憶遺産」に登録しようとの動きもあったが、70周年の今年に実現は無理だと2月ごろに報じられていた。
 そして9月に入ってから、思わぬところでこの事件の名前が浮上した。前回も取り上げた「昭和天皇拝謁記」である。日本の占領期に初代宮内庁長官をつとめた田島道治昭和天皇とのやりとりを克明に記録し一級資料だが、それをスクープとして報じているNHKが、その後明らかになった事実として、昭和天皇が「松川事件」について言及していたことを報じたのだ。

 昭和天皇が事件に触れていた、というだけでも興味深い話なのだが、それが「アメリカによる謀略説」の線での発言であったことはなかなかインパクトがあった。
 1953年(昭和28)11月11日の「拝謁記」によると、この日、昭和天皇が「ちょっと法務大臣に聞いたのだが松川事件はアメリカがやって共産党のせいにしたとかいう事だが」(原文を読みやすくしてますが読みは同じ)と田島長官に言ったというのだ。さらに昭和天皇は「これら過失はあるが汚物を何とかしたというので司令官が社会党に謝罪にいってる」とも言ったという。この部分の発言はいま一つ意味がとりにくいが(「汚物」が共産党勢力を指すといしても意味がとりにくい)、「司令官」とはGHQ最高司令官マッカーサーのことだろうが、それが社会党に謝罪するというのもよく分からない。田島長官自身もこの日の記述はノートの最後の部分なので要約で書いたとしているのでますますよく分からなくなってくるが、この人の記述、特に昭和天皇の発言は相当に忠実に再現して書いているので、こうした発言自体は実際にあったのだろう。

 この部分は「拝謁記の分析にあたっている歴史学者たちにもかなりの衝撃を与えたようだ。昭和天皇が「アメリカの謀略」と言及し、しかもそれは「法務大臣から聞いた」というのだから、法務大臣だっていい加減な噂話、憶測を天皇に言ったとも考えにくいだからやはり事件はアメリカの謀略なのか…という見方をする意見も出る一方で、やはり真偽が明らかではない話なので慎重に扱うべきとの声もあったという。
 「拝謁記」からは戦後も昭和天皇は内奏を受けて思いのほか政治に積極的関与をしようとしする言動がいくつか確認されるが、この一件でも法務大臣から説明を受けて宮内庁長官に語るなど、かなり強い関心を抱いていたことをうかがわせる。もちろん昭和天皇自身、日本の共産化を強く警戒していたからこそ関心を抱いたのだろうが、もしかすると法務大臣委「あれは共産党の仕業なのか」とでも聞いたら、「アメリカの謀略」という答えを受け取った…ということかもしれない。
 あと、この話を昭和天皇から聞かされた田島長官は「初耳にて柳条溝のごとき心地し容易ならぬことと思う」と感想を書いているのも興味深い。「柳条溝」とは正しくは「柳条湖」のことで(「溝」と誤る例は最近まであった)、1931年の「満州事変」のきっかけとなった関東軍の自作自演による満鉄線路爆破の謀略のことを指すが、鉄道と謀略ということで、日本軍が行ったこの前例を想起した、というところが面白い。それに先立つ張作霖爆殺事件(これも鉄道がらみ)についても昭和天皇が「あれを徹底的に追及しなかったのがそもそもの誤り」と評していたことが「拝謁記」に出て来るし、戦前と戦後で鉄道がらみの「謀略」があった…となると確かに妙に印象が重なってくる。
 僕自身はGHQ謀略説には慎重な姿勢なんだけど、元大本営の参謀とかが戦後にCIAの手先になって情報提供したり、彼らだけでクーデターを計画したりしていたこともあるので、もしかしてこの手の鉄道事件に彼らの線が絡んだりしてないかなぁ…と、このニュースを見て思ったりもしたのだ。


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