ニュースな
1999年3月19日

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 ◆今週の記事


◆石原氏、やはり「シナ」を連発
 
 さて、ここ数週間全国民の話題となってしまった観のある都知事選でありますが。とうとう出馬してしまった石原慎太郎氏、先週でもチラッと触れたことだが、この出馬会見でも例によって「シナ、シナ」と連発していたそうな。もう直んないだろうし直す気もないって事なんだろう。以前テレビに出演の際「もう中国って呼び方の方が普及してるんだし中国って呼んだら?」と忠告されたこともあってその時はある程度理解していたようにみえたのだが。
 
 彼がこの問題を聞かれると必ず言うのが「別に差別用語ではない。中国人も自ら支那と名乗っていたんだ」というセリフだ。今回の会見では「孫文が作った」と完全な事実誤認もやってしまっていたが、いちおう「支那」という単語に本来差別的な意味がないことは正しい。語源は始皇帝で有名な「秦」で、これが周辺諸国で「チーナ」といった名称となり、やがて英語の「チャイナ」へと続いていく。「支那」という表記はインドから入ってきた仏典にある「チーナ」に漢字を当てたもので、確かに「支那」という言葉自体は中国人が作ったことになる。辛亥革命を進めた孫文等が自分達の国を指して「支那」と呼んだことも事実である。

 問題になるのはこの名称を日本人の一部が言う場合、ある程度の中国蔑視のニュアンスがそこに含まれている事が多いということだ。だいたい日本人があの地域を「支那」と一般的に呼び始めたのは明治以降の事で、東アジアの「近代国家」として中国を凌ぐ勢力に成長していく時期に重なってくる。辛亥革命の結果「中華民国」が成立したが、日本は頑としてこの名称を使わず「支那」と中国を呼び続けた。今歴史の教科書に載る「日中戦争」だって「支那事変」である(ついでにいうとこれは「戦争」という扱いすら公式にはしていない)。やはりそこには「中国」でなく何としても「支那」と呼び続けたいという意図を感じざるを得ない。

 それはなぜか。これはもう推測の領域になるわけだけど、日本の指導層は中国を断固として「中華」と呼びたくなかった、これに尽きると思う。東アジアの歴史は文明の中心である「中華帝国」を中心に諸民族がその周辺に配置するという国際秩序の繰り返しだった。中国史を見れば分かることだが、この「中華」は何も漢民族とは限らない。時代が降るにつれ、漢民族以外の民族が「中華」を形成することは多くなる。豊臣秀吉だって自らが「中華」となろうとした節があるし、それを実現しちゃったのが満州族の清朝だ。日本が自ら「中華」たろうとする発想は江戸時代中に育ってゆき、明治になって現実化していったと見る向きもある。そう考えると日本が断固として「中華民国」を認めなかったのは当然の流れとも言える。「支那」と呼ぶとき、それはあくまで漢民族が居住する地域のみを指す言葉となり、それを「中華」と切り離し相対化する効果があるのだ。

 今の中国人全体で「支那」って名称にどういう感触を持っているかはよく知らない(というかその単語自体知らない人も多いんじゃ無かろうか)。ただ日本人でひたすら「シナ」と呼び続ける人を見ていると、どうも意図的に使って「中国」を相対化しているように見えるんだよね。差別って言うよりむしろ「中華コンプレックス」なんじゃないかと思うところもある。どうも保守系というより右翼系の人が好んで使う傾向があり、最近では小林よしのりまでが「シナ」を使い始めている。彼ぐらいだと明らかに「中国」という呼び方の方が耳慣れた世代のはずなので、どうも彼の周辺でそういう単語を使うよう指示する人がいるような気もする。

 ちなみに「中国」って名称ですけど、よく「中華民国」以降の略称だと思ってる方も多いようなので注意。少なくとも僕が専攻としている明代の資料には今と同様な意味の「中国の人」といった表現が多数出てくる。「明」というのはあくまで王朝の「国号」なので一般には使われていなかったようだ。逆に外国からは「明人」と言われたりしてるけどね。

 最後に一つ。「しなそば」って言い方には何やらおいしそうな雰囲気がありましたね。こういうのに差別的な意図は感じませんけど、一掃されちゃったみたいだな。
 

★一年後のコメント★
この「支那」問題は一年前の掲載時にもけっこう議論になったんですよね。我が史劇的伝言板やら中国史MLやらで論議をやったので多少この問題に詳しくなれました。先日も「美味しんぼ」がこの問題を「支那そば」にからめて取り上げていて面白かった。僕はそばの名前まではいちいち変えろとは言わない方針ですけど。この後石原さんはご存じの通りブッチぎりで当選し都知事になりますが、最近はこの手の発言は少し抑えているみたいですね。先日も「法輪功」をNPOとして認めるなと中国が都に言ってきたとき「何様のつもりだ」とか言ってましたけど、結局そのとおりにしてました。もっとも「法輪功」は明らかに宗教団体なのでNPOには出来なかったでしょうけどね。



  ◆チェコ、ハンガリー、ポーランドがNATO加盟

 僕が中学校で地理を習ったときはまだまだ「冷戦構造」って奴が世界を支配していた。今から思えば間もなくそれが崩壊する寸前だったわけだけど…その時学校で習って試験のために頭に詰め込んだ知識からすると、このニュースはとんでもない話なんである(笑)。東欧の旧社会主義国であるチェコ・ハンガリー・ポーランドの三国が何とアメリカ主導の西側軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)に加盟しちまったんだから。

 まぁ気持ちは分からないでもない。この三国はいずれも旧ソ連に軍事的な攻撃を受け民主化を阻止された過去がある。ポーランドなんかは何度となくヨーロッパの地図から抹殺されてるし、ロシアに対しては根強い反感・不信感があるようだ。ハンガリーは「ハンガリー動乱」ってのがあったし、チェコは「プラハの春」を潰された歴史がある。そういえば調印の場に来ていたアメリカのオルブライト国務長官はチェコからの亡命者なんだそうだ。

 いずれも強い動機は「対ロシア恐怖症」なんじゃないかな。いつソビエト・ロシアかロシア帝国だかが復活して拡大しないとも限らない。だからこそこの軍事同盟への加盟をこんなに急いだんだろう。加盟を実現したチェコやポーランドの外相達は「これで安全を確保した」と喜びを語っていたが、一方で各国の国民の間では純然たる軍事同盟であるNATOへの加盟に反対する声も少なくないらしい。現にチェコでは反対・無関心の合計が国民の半数に上るという。「NATOよりもEUだ!」という意見も強いし、それを目指している国が多いのも事実だ。だけどこちらもそう簡単な道のりではなさそうだ。

 ところでこのニュースで僕の興味を引いたのはハンガリーの外相(だったかな)の次の発言だ。「我々はヨーロッパに帰ってきた」と言ったのだ。おおっ、ハンガリーは自分をヨーロッパだと自覚してたのか(笑)。いや失礼、ハンガリー人は人種的にはアジア系のマジャール人だと聞いているので。「ハンガリー」って地名も「フン族」に由来するぐらいだ。言語的なことはよく知らないが、いわゆる「ウラル・アルタイ語系」に分類されていて、日本語と遠い親戚みたいに扱われることもある(今は疑問視されてるけど)。聞いた話ではそんなわけで日本人はえらく歓迎されるとか(笑)。それに何と言ってもハンガリーって東洋と同じで姓を名より先に名乗るらしいんですね。こんな国だから周囲の国からは「蒙古の生き残りめ」なんて差別されることもあったらしいんだけど。
 

★一年後のコメント★
これもこの直後、NATOによるユーゴ空爆が始まってあれこれ議論を呼ぶんですよねぇ。



◆ロシアにも国歌法制化問題が浮上?

 近頃日本では「日の丸・君が代」を国旗・国歌として法制化する方向へ議論が行われているようだが、なんとロシアでも似たような話が出てきてしまった。
 なんでもロシア下院で旧ソ連時代の国歌を「復活」させ「法制化」しようという動きが進み、この調子で行くとホントに可決されてしまうらしいのだ。旧ソ連の国歌ってのは「レーニンの党は我らを共産主義の勝利へと導く!」なんて勇ましい歌詞があるバリバリの「共産党国歌」で、ソ連が崩壊して以後、さすがに「国歌」の座を追われていた。それを下院で多数を占める共産党系の議員達が復活させようと目論んでいるわけだ。このあたり、何となく「君が代」問題と似ていなくもない。

 現在のロシアではグリンカ(19世紀の作曲家)作曲の「祖国愛の歌」の編曲バージョンを「国歌」として使っている。しかし歌詞もないメロディーのみで、しかも法律的に決定されているわけではない。そこに下院の共産党勢力がつけこんだ形になっているわけだ。何でも憲法に触れる重大議題なので可決には定数の三分の二以上の賛成が必要され、これまでなかなか通らなかったとのこと。しかし共産党が「こちらも歌詞は外してメロディーだけにしよう」と妥協案を出したため、どうも可決の方向に動きだしたようである。
…こう考えると「君が代」も歌詞を外せば案外反対は少ないのかも(笑)。

 ところで国歌問題ってのはけっこう世界中にあるらしい。有名なところではフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」だ。詳しい歌詞は知らないんだけど、なんでもかなり乱暴というか好戦的な歌詞が使われているため、国歌の変更を求める運動もかなりあるとのこと。なにせフランス革命の時の軍歌にルーツがありますからね。血なまぐさい時代の雰囲気がモロに出ているってことなんだろう。確か故ミッテラン大統領の夫人もこの運動の支持者だったはずだ。



◆インドネシアは分裂の危機?
 
 昨年の経済危機、それがきっかけとなったスハルト大統領の退陣、と最近騒がしいインドネシアだが、ここにきてあちこちで「独立」の火の手が上がってる。まぁ前からくすぶってはいたらしんだけど、スハルト長期政権の崩壊で一気に表面に吹き出してきたものらしい。
 
 世間のニュースで大きく取り上げられているのは東チモールの独立問題だ。もともとポルトガルの植民地だったところをインドネシア(こちらは元オランダ植民地)が武力占領した経緯があり、また現地に多いキリスト教徒とインドネシアのイスラム教徒の対立という構図もあって、ややこしい事になっていた(独立運動の指導者にノーベル平和賞が贈られたのもこの辺が絡んでるような気がする)。しかしどうやらもう疲れてしまったインドネシアが独立に同意する方向で話は進んでいる。

 ところがそれに呼応したわけなんだろうか、ニューギニア島のイリアン州やスマトラ北部のアチェー州なんかも独立の主張を鮮明にしはじめた。まぁニューギニア島なんて旧植民地の線引きで国が分けられてるのは明らかだもんな。スマトラ島のアチェー州ってのも歴史的伝統のある地域で、大航海時代に進出してきたポルトガルなど西欧勢力に貿易活動で対抗した歴史を持っている(そのため敬意を表して特別州扱いになっているらしい)。考えてみれば「インドネシア」というああいう領域を持つ国家ができたのは第二次大戦後というつい最近のことなのだ。

 こういう「連邦」スタイルの国にはままあることなのだが、基本的にジャワ島=ジャカルタ中心の政策に各地域の不満があるということなのだろう。スマトラ島なんて豊富な資源のもたらす利益をジャワ島に吸い取られているという感情もあるようだ。うまくいっている時はいいのだが、経済的につまづいたりするとこういう不満は一挙に噴き出してきて「分裂・内戦」という事態を引き起こしやすい。80年代後半からこっち、そういう事例をいくつも見てきたもので…インドネシアもどうなるか分かったものではない。うまくまとまってくれると良いんだけどね。
 

★一年後のコメント★
これもその後の展開が面白かった。東ティモールはこのあと大変な混乱が起こった末に独立を実現。その後インドネシアにはワヒド政権が誕生し、対話政策を進めているが、相変わらず地方の紛争は絶えていない。
 


99/3/19記

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