ニュースな
1999年10月3日

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 ◆今週の記事

◆東海村の事故に思うところ

 なんせ地元民(というにはかなり遠いが同県)なもので、通常の伝言板でもさんざん触れたネタなんだが…まぁ先週では日本だけでなく世界的なトップニュースだし、やはり取り上げざるを得ないだろう。海外メディアの多くも中国建国50周年を押しのけてトップでとりあげたそうだ。

 今度の事故は日本の原子力産業発祥の地とも言うべき茨城県・東海村で発生した。しかし意表をつかれたのは事故を起こしたのが原子力発電所でなく民間のウラン加工施設だったこと。そんなものがあること自体多くの人が初めて知ったわけだが…。そしてそんなところで「臨界」(=今週の流行語。テレビ各局はそのまま物理学講座になってたな)事故が発生しちゃうとは…。しかもその原因たるや、規定量の8倍ものウランを入れちゃったから(テレビなどで聞く限りでは)というあまりにも素朴なものだからさらに驚かされた。どうも常習的にこうした作業が行われていたようで、「違法」と知りつつ「裏マニュアル」を作成して作業を行わせていたことも明らかになってきた(そのマニュアルすらも破っていたようだが)。効率優先の姿勢がそこにあったことが分かってくるが、扱っているモノがモノである。民間に任せるなら何かチェック機構はなかったんかいな、などなどあれこれ考えさせられる戦慄すべき「人災」だ。
 国際的にも「理屈に合わない」「考えられない」など最大級の疑問符がこの事故に対して向けられている。「技術の日本」の意外な落とし穴ってことでしばらくネタにされることだろう(^^; )。

 事故発生後のドタバタにも酷いモノがあったが(中でも救急隊員に「放射線事故」のことを言わなかったってのは…)、県や政府の対応はまぁまぁ合格と言うところだったと思う。確かに慌ててはいたが、情報を早急に公開し、住民の避難と半径10キロ以内の屋内待避を実現させた。野中官房長官(仕事納めにエラいことになっちゃったね)「のちに過剰反応と言われるぐらいで良い」とか言っていたが、それで正解だったと思う。半径10キロ圏内では自宅待避のみならず商店・交通も全てストップ。まさにゴーストタウンのような光景が現出されたが、これでパニックが起きなかったのだから大したものだ。おそらくチェルノブイリとか前例を見ているから、こういう場合の対応マニュアルがあるんだろう。「我が国が初めて体験する事態」とも言っていたが、それにしては整然と事が運んだ印象を受けた。
 相手が目に見えない放射線であることもあるいはパニックにならなかった一因かも。住民としても「どうにもならないから、上が言ってくることに従った」という空気が見える。黒澤明の映画「夢」で放射能に色を付けるという設定があったが、確かにその方が恐怖を呼ぶだろうなぁ(といっても現実には見えないところがまた怖いのであるが)

 定番だけど、この事故で原子力行政のあり方に疑問の声や不信がまた起こることは避けられない。僕は原発を全面的には否定しないが(否定したら全国民の生活レベルを下げざるを得ない。なんせ全電力の4割が原子力だ)、ちゃんと管理できるシロモノかどうかへの疑問は常につきまとう。なんか他のエネルギー源はないもんかい、とかどうしても思うところ。
 前にも書いたことだが、ヨーロッパではむしろ原発は後退気味である。オーストリアでは憲法で平和利用だろうとなんだろうと核使用を禁止してしまった。フランスは原発大国だが、周囲のそうした動きにいずれは押されていくかも知れない。だがそこでエネルギー源をどこに求めるのか。火力発電だって無限ではないんだし。
 こっから先の問題は科学者の手にゆだねるしかないわけだなぁ。



◆中国建国50周年
 
 中華人民共和国の成立からまるまる50年が経った。中国共産党が天下を取り、天安門の上に立った毛沢東「中華人民共和国が成立した!」と叫んでから50年。その半世紀にはさまざまな歴史の激動があった。
 毛沢東の「大躍進」の失敗と失脚、それが「文化大革命」で巻き返し、事実上中国を「内乱状態」に追い込んだこともあった。国際的には同じ社会主義国のソ連と対立、アメリカと接近し国連の常任理事国として世界のリーダーの一角を担うようにもなった。それで間接的にカンボジアの悲劇なんかも生んでいくわけだが…
 毛沢東の死後、五人組の失脚、トウ小平(いつも思うがトウの字、なんとかしてくれ)の返り咲きと歴史は動く。そしてトウ小平は「改革・開放路線」で「みんなで貧しい中国」からの脱却を資本主義を導入することで押し進めていく。どうにか経済発展を始めたものの矛盾も山積し、それが天安門事件やら法輪功やらに現れている…といったところか。
 毛沢東、トウ小平、と続いた「革命第一世代」はほとんどいなくなり、江沢民という一見大したカリスマもなさそうな人物が今の中国の国家主席であり最高実力者となっている。政策的にみたところトウ小平路線の継続で別に目新しい彼独自の方向は見えてこない。あえて言えば以前より集団指導型になってるのかな、という程度の変化だ。

 建国50周年記念式典では15年ぶり(ちょっと意外)に軍事パレードも行われ、昔毛沢東らも立った天安門の上に中国首脳部が揃って登場した。昔はこれの人物の配置がどうとかで権力の推移を推理したりしたもんだが(ソ連は完璧にそうでしたね)まるでそんな話もなく、見かけはハデだが淡々とした式典という印象を受けた。一般庶民はほとんど立ち入り禁止だったしね。
 目を引いたのは江沢民主席だけ人民服を着ていたと言う点だろうか。他の全員は普通の背広姿だった。江沢民主席は来日したときも宮中晩餐会で人民服を着ていたが、やはり「毛沢東・トウ小平を継ぐ中国指導者」という印象を国民に与えるためなのだろう。
 実際、毛沢東・周恩来・トウ小平ら毎度おなじみの大肖像画がパレードに登場したが、ついに江沢民の肖像画も掲げられたそうだ。最近の中国では個人崇拝は流行らないはずなのだが、ひょっとすると江沢民も個人の権威強化を狙っているのかも。
 …あくまで個人的印象ですけど、前者二人に対して江沢民さんってもう一つ「顔」に品格がないんですよね(単純な美醜ではなく、風格の問題)。まぁ革命と戦争の時代をくぐり抜けた世代とは当然違うでしょうが…。
  



◆タイのミャンマー大使館占拠事件

 日本では東海村の事故の陰となってしまい、ニュースとしては目立たなかったのだけど…。
 10月1日、タイの首都バンコクのミャンマー大使館に、自動小銃や爆弾などで武装した集団が乱入し、これを占拠。大使館員やたまたま来ていた人達(日本人も一名混じっていた)を人質にとって立て籠もった。犯行グループはいずれも学生風の若者ばかり12人ほどで、要求は「タイにいるミャンマー民主化活動家に会わせろ」というもの。彼らは占拠した大使館の屋根にミャンマーの最大野党・国民民主連盟の旗(赤地にクジャク)を掲げており、ミャンマーの軍事政権に反対して民主化活動をやっている学生グループの一派だったことが判明した。
 まぁそういうグループだったこともあって人質への扱いもさほど悪くはなかったし、それ以上の暴力行為にも出ようとしなかったようだ。タイ側も事情は分かったし一応加害者も被害者も「外国」のことであるから(大使館内は「外国」だもんね)、強攻策は採らず相手の要求をほとんど呑んでいた。結局犯行グループの要求通り活動家を彼らに会わせ、ヘリコプターも用意してミャンマー国境地帯への脱出も好きにさせた。犯行グループ側も人質は全員解放し(人質代理としてヘリに乗ったタイの閣僚もあっさり解放された)、まぁいちおう一件落着といったところになった。

 しかしなんでまたこんな騒動を起こす必要があったんだろう、って疑問は残る。そりゃもちろんミャンマーの軍事政権には感心しないが、それに反対する民主化運動はあのアウンサン=スーチーさんを初めとして一応非暴力主義を中心に据えてきた。そうした人達は今回の占拠事件には眉を顰めているという話も出ていた。例のクジャクの旗なんて立てられるのは正直迷惑なところではなかっただろうか。
 どうも今度の事件は民主化活動の中の過激なグループが、世界に自分達の活動を「アピール」するために実行された気配が濃厚だ。タイ・ミャンマーの国境地帯にはこうした学生を中心とした反政府ゲリラみたいのがかなりの数潜んでいるという話も聞くので、この事件もそういった人達によって起こされたものだろう。タイにしてみりゃ迷惑な話だけど。



◆またまた「影の内閣」

 日本の話です(笑)。
 日本での最大野党・民主党は代表選挙も終わって鳩山由紀夫氏が新代表となった。この党、もともと鳩山さんが言い出しっぺだったのだが、覚えておられるだろうか?自民党にいた政界のプリンス・鳩山由紀夫(いちおう首相の孫ではある)が、新進党(ああっ懐かしい)小沢一郎(この人も紆余曲折だな)とあわなくなってくすぶっていた船田元(当時は政界のホープだったっけ)との間に新党結成の話が持ち上がったのが発端だったはず。このため当時「鳩船新党」などと言われていたが、そうこうしているうちに船田元が脱落(…というより「失楽園」にのめりこんでいたようだが)し、これに鳩山由紀夫のまるで似ていない弟・鳩山邦夫が加わり(その後誰かさんが出馬したせいで都知事選で落選。ついてないね)、厚生大臣として薬害エイズ問題に携わり国民に人気のあった菅直人を看板に引きずり込んで「民主党」は成立した。これに加わろうとした社民党・さきがけ(こんなのもあったっけな)の古株は軒並み排除されたりしてたっけ。

 あー長い。後世の歴史家はこの辺の政治状況をどう語るんだろうなぁ、などと田中芳樹みたいな事を書いてしまうほどややこしい。その後新進党が解体してその一部は民主党へ合流(残りは自由党となり今は自民党への帰還を図っている)、民主党はなんだか「寄り合い所帯」を絵に描いたような政党になってしまった(笑)。今度の選挙もその「寄り合い所帯」ぶりがそのまま出たような勢力分布になってましたな。
 ともあれ、こうして振り返ってみるともともとの誕生の原点である「鳩山新党」という状態に戻ったような気もする。そういえば鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎の政党も「民主党」なんだよね。その後当時の「自由党」と合併して「自民党」ができたわけだけど…ひょっとして孫も祖父の呪縛から抜けてないのか?

 しまった、本題を出すまでの前置きが長すぎた。本題はこの民主党がこのたびいわゆる「影の内閣」を発足させたという件なのだ。
 学校の公民で習うとは思うが、「影の内閣」とはイギリスにその典型をみられる習慣で、野党が与党の内閣と同じように勝手に内閣を作り、与党を批判する形で対抗する政策等を出していくもの。うまく政権を奪取できればそのままこれが本物の内閣となることもある。国民は本物と影の両方の政策を見比べてその是非を判断できるわけだ。イギリスのような二大政党制では非常に意味があると言われる。
 で、事実上半世紀近くにわたって自民党が一党独裁を続けてきた日本でも過去に何度かこれを野党が試みたことがある。村山さんの前の田辺氏が委員長だった当時の社会党がこれをやって、新聞に「影の内閣閣僚」の写真入りの広告を出したこともあった。しかし世の中からはほとんど無視され(笑)、その後自民党と手を組んだ村山政権成立で完全に無意味化した。確か新進党もやったような記憶があるが、新進党じたいがアッという間に滅亡したためこれもまるで意味を為さなかった。いずれのケースも無理して「二大政党」を気取ろうとしたとしか思えないんだけどね。
 で、今度は民主党が実行にとりかかった。しかし「影」という言葉がまずいとみたか「ネクスト・キャビネット=『次の内閣』」とかいう言葉が使われている。現時点では菅直人が「官房長官」だそうな。
 問題は「民主党」そのものがいつまで持ちこたえるかって所だろうなぁ。
 


99/10/3記

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