ニュースな
1999年10月10日

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 ◆今週の記事

◆インド総選挙あれこれ

 毎度のことらしいがすったもんだのインド総選挙が終わった。選挙期間中政党間の見苦しい中傷合戦もあったし、あちこちの衝突で百数十人だか死者が出たそうだが…
 始まる前はヒンドゥー至上主義といわれる与党・インド人民党に対する批判と、最大野党・国民会議派の総裁ソニア=ガンジー女史(ラジブ=ガンジー首相の未亡人)の人気やらが海外メディアでは大きく取り上げられたこともあり、なんだか与党に不利な結果が出るんじゃないかという予測もあった。しかしフタを開けてみると事実上与党の勝利で野党の敗北。インド人民党は第一党の地位を獲得、核実験の強行などヒンドゥー至上主義と警戒する声も多いバジパイ首相が政権を続投することになった。もっとも単独では過半数をとれないので(総議席545中の182議席)どこか他の政党と連立を組まねばならない。まぁ20党ぐらいの中小の政党が集まった与党連合で300議席近くを確保すつことになるらしい。
 この結果についてパジパイ首相は「人々が安定した政治を求めているという評決が下った」と語り、「選挙の間のとげとげしい言葉は忘れよう。民主主義では野党の役割も大切だ」とそれまでの中傷合戦を水に流して野党への協力を呼びかけていた。まぁ余裕のあらわれなのかな。一方のガンジー総裁は「有権者の評決を受け入れる」と敗北を認める声明を出していた。国民会議派内でもイタリア人であるガンジー女史への反発もあったから、実際戦いづらかったことだろう。

 ところでこのソニア=ガンジーさんの長女でプリヤンカさんという人がいる。当然ラジブ=ガンジーの娘でありインディラ=ガンジーの孫(ついでながらネルーの曾孫)。なんでも顔立ちが祖母のインディラ・ガンジーにソックリで、途中から選挙運動に参加して大いに聴衆を集めたという(というかそのために選挙活動に参加したんだろうな)。つくづくインドでの「ネルー=ガンジー王朝」の人気の根強さを思い知らされる。ソニアさんもそれで国民会議派の総裁をやってるようなもんだけど、イタリア人ってこともあって反発もかっている。ひょっとすると母親に代わってそのうち娘さんの方が担ぎ出されるんじゃないかなぁ。

 そうそう、今度の選挙であの自伝や映画で世界的に有名になった元女盗賊・プーラン=デビさんが国会議員に返り咲いたそうな。 



◆ピノチェト氏、身柄引き渡しか?
 
 ピノチェト氏、とは南米はチリの元大統領である。現在83歳。この人はいまイギリス政府によって身柄を拘束されている。
 さてなんで元大統領ともあろう人が身柄を拘束されているのであろうか。このピノチェト氏は1973年に軍事クーデターによってアジェンデ社会主義政権を打倒し(この背後にはほぼ確実にCIAのバックアップ工作があったと言われる)その後チリに軍事独裁政権を敷き、長らく恐怖政治を行ったことで現代史でも特筆される人物の一人だったりする。むかし「戒厳令下チリ潜入」というドキュメンタリー映画をみたことがあり(歴史映像コーナー参照)ちょっとこの辺の知識を得たことがある。まぁひどいもんなんですよ、ホント。冷戦時のソ連の東欧に対する介入もひどかったが、アメリカのアメリカ大陸内における策謀の数々たるや案外良い勝負なんだよな。

 で、チリはその後1990年にようやく民主化に成功し、ピノチェト氏は大統領をやめたものの上院議員として政界に残った。彼の独裁期間中に数多くの活動家が(そうじゃない人もいたが)秘密警察によって逮捕・虐殺されていたことは国民周知の事実で、彼に対する国民の風当たりは相当のものがあったのだが、軍の存在をバックに彼はたくみに逃げ切ってしまった。しかし、落とし穴があったのだ。そうした攻撃を逃れるためだったのかも知れないがピノチェト氏はイギリスに「治療」のために入国した。するとスペイン当局が「ピノチェトが権力を掌握していた73年から90年までみ行われた殺人、誘拐、拷問などの抑圧行為」を罪状として彼の逮捕・拘束をイギリス政府に要求、イギリスはこれに応じて彼の身柄の拘束に踏み切ったのだ。元国家元首が外国の手によって逮捕されるという非常に珍しいケースで、国際社会の大きな注目を浴びた(しかしそこでどうしてスペインが出てくるのか現時点では詳細をつかんでいない。たぶん亡命者の多くの行く先がスペインにだったこと、スペイン国民がチリに入って行方不明になったケースなどがあったんじゃなかろうか)。当然ながらピノチェト氏本人は「チリに対する主権侵害だ!」と吠えている。

 とりあえず要求どおりとっつかまえてみたイギリスだったが、その扱いをめぐっては二転三転しており、非常に苦慮しているようである。まぁ確かにどんなに酷いことを実際にしていたとはいえ一人の人間を外国が勝手に逮捕・拘束できるのか。またそれをさらに他の国の手に渡しちゃって良いものなのかどうか、法的には問題が生じるところだろう。とりあえずイギリスの法廷は「イギリスが拷問禁止条約に批准した1988年12月以降の拷問などについては訴追可能」と判断し、それに該当する2件の拷問を罪に問うことにした。しかしその後さらに33件を追加、スペイン検察当局はその35件についてイギリスに引き渡しを求めているわけだが、以上のようなややこしい経緯もあってイギリス法曹界では「引き渡しは是が非か」という論争が続いていた。で、どうやらひとまずの結論が出されたようだ。

 10月8日、ロンドンの刑事裁判所は「ピノチェト氏のスペインへの身柄引き渡しを認める」との判断をついに下した。しかしピノチェト氏本人は「チリの元大統領および上院議員として、私は告発されている容疑について無罪であることを宣言する。スペインはひとかけらの証拠も示しておらず、調査もしていない。また私を裁く司法権もない。チリに対する主権侵害である」と吠えて、上告する構えとのこと。そんなわけでまだ最終的結論は出ていないわけだが…
 ま、それにしても法解釈論は別にして悪いことは出来ないモンです。どっちにしてもあんまり良い余生はおくれそうにないな、ピノチェトさん。
  



◆朝鮮戦争で米軍が虐殺?

 戦争の最中というのはホントにいろんな事が起こるものだ。「非日常」なんてもんじゃなく「人間としての常識」そのものが失われることがままある。殺し合いをやっている場なんだから当然と言えば当然なのだが。戦争の最中に何らかの残虐行為が起こるというのはほぼ常識と考えて良い。旧日本軍も凄かったが、その後のベトナム戦争の米軍も悪名が高い。最近のバルカン半島・ルワンダなどの内戦や東ティモール問題でもやっぱりこうした現象が出てくる。僕に言わせればこんなのは民族性なんかではなく(日本軍の虐殺否定論者には民族性論議をしたがる人が多いのであえて書くのだが)そういった異常な状況に人間集団が置かれたとき、どんなことでも起こりうるのだと考えるべきだと思う。
 
 いまそのテーマに触れる埋もれた歴史がまた一つ表面に浮上してきた。朝鮮戦争時、表向き韓国を支援する形で参戦したアメリカ軍(いちおう国連軍だったのだが)が多数の韓国側の避難民を虐殺したのではないかというのだ。時は朝鮮戦争勃発まもない1950年7月。場所はソウル近郊の永同郡「老斤里」。米軍が避難民の中に北朝鮮の兵士が紛れ込んでいるのではと疑い、ひとまとめに避難民数百人をその場で虐殺してしまったというのだ。軍隊が地域住民を虐殺してしまう典型的パターンである。
 この事件については細々ながら韓国では語られていたらしい。しかしその後の政治状況などもあってなかなか表面には出てこなかった。ここにきてようやく現地住民による事件の調査と賠償要求の運動が認知されるようになってきたわけだ(従軍慰安婦問題でもそうだが、だいたいこういうのが表面化するのには時間がかかる事が多い)。これを受けてアメリカ陸軍は今年になって一応の調査を行った。しかし内部の書類の検索調査を行っただけで「証拠は出なかった」としてウヤムヤにしようとしたそうで(どこの国も似たようなもんだな)、かえって事を大きくしてしまった。この一件をAP通信が報じたのだが、ここで虐殺に加わった元アメリカ軍兵士が証言を行ったため、ついにアメリカ政府も無視し得ない事態となってきたのだ。
 
 9月末にコーエン国防長官が「全情報を吟味する徹底調査」を指示、10月5日にはアメリカのルービン国務省報道官が「韓国政府と緊密に協力し、全容の解明に当たる」と明言し事件の徹底した再調査を約束した。もし事件の全容が確認されれば被害者への補償など適切な措置を大統領に進言するとしている。今さらとは言え、いざとなるとアメリカは行動が早いとちょっと感心させられる。もっとも調査には一年以上はかかる見込みで、この話の続報は当分先になる。 



◆ザビエルの右腕再来日。

 たまにはおいらの専門に近いニュースがあるものである(笑)。
 なんとこのたびあのフランシスコ=ザビエルの「右腕」が日本にやってきた。「右腕」は別に例えでもなんでもなく本物の彼の右腕である。もちろんミイラ化してますけどね。右腕さんとしては「初来日」ではなく「再来日」というわけだ。しかも鹿児島に上陸。なかなか粋なはからいである(笑)。その後平戸や山口などのゆかりの地をはじめ、西日本各地で一般公開されるとのこと。うーん、見てきたい気もするが…。

 さて、なんでまたザビエルの右腕なんてものが独立して存在しているのだろうか。まずそれにはちょこっとザビエル個人の「歴史」に触れておきたい。
 フランシスコ=ザビエルはイエズス会の創設者の一人であり、実際その世界でも大変な大物なのだ。彼は当時ヨーロッパで起こっていた宗教改革に対抗する意味もあってアジアへのカトリック勢力の拡大をはかり、インドへ、さらに東南アジアのマラッカへと飛び出した。ここで鹿児島人のアンジロウ(ヤジローとも言われ決定打がない)と会って日本への布教を決意する。そこで中国人海賊「アワン(阿王?)」の船に便乗して鹿児島へとやって来た。これが西暦1949年(ちなみに種子島にポルトガル人が来てから6年しか経っていない)。今年はそれから450周年というわけで、こんなイベントをやっとるわけだが…。
 ザビエルは中国人海賊、要するに「倭寇」の船にのって日本にやってきている。彼を日本に連れてくることになったアンジロウはその後「倭寇」に加わって明へゆきそちらで戦死したと言われている。鹿児島での布教がうまくいかなくなったザビエルは平戸で移るが、この動きには平戸に拠点を構えていた「倭寇王」王直の存在が大きかったという見解もある。とにかくザビエルは「倭寇史」と深く関わる人物なんだよね。彼自身「貿易商人」としての性格があったという意見もあるのだ。

 その後山口や豊後(ここで大友宗麟と会う)などで布教活動を展開したザビエルは、より大きな布教目的地である明へ渡ろうとする。その途上1552年、広東の上川島で病のためにこの世を去った。話によるとこの時、彼の遺骸がいつまでたっても腐らないという「奇蹟」が起こり、ポルトガルの冒険商人メンデス=ピントをビックリさせイエズス会士に変身させることになったそうだ(倭寇史を彩る奇人変人ピント君については「おれたちゃ海賊!」の人名録コーナーを参照)。たぶん塩漬けにするとかミイラ化の処置をとったんじゃないかと思うのだが、その後ザビエルの遺体は「聖骸」としてインド・ゴアのボム・ジェズ教会に安置された。1614年には右腕だけ切り取ってローマに運び、イエズス会の教会に「聖腕」として安置された(あんまし気色の良い話ではないな)。今回再来日したのはその「聖腕」というわけだ。

 種子島鉄砲伝来といい今度のザビエル来日といい、このところ僕の専門である「倭寇史」がらみの450年イベントが連続している。あとは「陳思盻没後450周年(2001年)」「嘉靖大倭寇勃発450周年(2003年)」とか「徐海没後450周年(2006年)」「王直没後450周年(2009年)」と目白押しだ!
 …え?誰もイベントやんない?ハッハッハ、やっぱ僕が論文なり小説なり漫画なりかかなきゃならんようですね、それまでに(^^; )。
 


99/10/10記

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