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1999年10月17日

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 ◆今週の記事


◆パキスタンでクーデター発生!

 やっぱり今週のトップニュースはこれでしょう。唐突に振ってわいたような大政変だったが、今にして思うと予兆はあった。
 10月12日、パキスタンシャリフ首相は国軍の最高実力者ムシャラフ軍参謀総長兼陸軍参謀長を突如解任した。この直後(報道で伝えられたわずか一時間後だったという)、軍の各部隊が深夜の町に繰り出し国営テレビ局・ラジオ局を占拠(真っ先に放送局を押さえるのはクーデターの基本なんだな)、さらに首相官邸を包囲し外相など主要閣僚の私邸へも兵士達が殺到、彼らの身柄を拘束した。空港はじめ主要な建物もほとんどがまたたく間に軍によって制圧されていった。混乱らしい混乱もなくやたらに手際のいいクーデターである。かなり前から用意がしてあったってことなんだろうな。翌朝には張本人のムシャラフ参謀長がテレビで演説を行い、全権を軍が掌握したことを国民に告げていた。

 結果からいうとシャリフ首相は読みが甘かったということになるだろう。ムシャラフの首を飛ばしてもまさかクーデターを起こすとまでは思ってなかったということだ。なんでシャリフ首相がムシャラフ参謀長を解任しようとしたかについてはまだいろいろと言われているようだが、どうやら先日来インドとの小競り合いがつづいているカシミール問題が絡んでいたようだ。シャリフ首相はインドとの話し合いによる穏便な解決を望んでいたようだが(実際核実験なんかやりつつもインドからは「良い交渉相手」と思われていたようである)パキスタン軍部は逆に強硬な意見を主張して対立していた(まぁ軍なんてのは本能的にそういうもの)。もっともこう書くとシャリフ首相の方が一方的に「善玉」に見えてくるかも知れないが実のところシャリフ首相もこのところ強権政治が目立ち、首相への権力集中を強行していたことも無視できない。今度の解任劇だってムシャラフ参謀長がスリランカへ訪問するスキを狙って解任し、後任に自分の弟の腹心を据える予定だったのだそうだ。ムシャラフ参謀長は訪問先のスリランカではクーデターの気配などこれっぽっちも見せなかったが(一緒にいたスリランカ人のコメント。まぁ今にもクーデター起こすなんて気配見せる人はいないだろうが)、帰国する飛行機内で自分の「解任」を知るや機内から部下に指令を発し、クーデターを実行した。ムシャラフ参謀長の前任者もシャリフ首相と衝突して辞任した経緯があり、軍は「今度なにかあったらクーデター」と事前に決めていたと言うことなのだろう。

 全権を掌握したムシャラフ参謀長はテレビ演説でシャリフ政権を「国を崩壊に導いた」と非難し「国の崩壊を防ぐため軍は最後の手段として介入した」と国民に告げた。告げられたパキスタン国民の方はと言えば、もともと強権的なシャリフ政権に批判が高まっていたうえクーデターの噂がすでに9月ころからあり、一部に軍の決起を歓迎する空気もあるせいか表面的には別に驚いた様子もなく平静だ。軍事クーデターは22年ぶりだそうだが、その時もほとんど無血で行われたということもあるのかも。「そう変なことはしないだろう」という軍への信頼感もあるようだ。

 当初、軍はシャリフ政権を倒すだけで暫定政権をつくり、すぐにまた民政へ移行すると言われ、新首相の候補者の名も挙がっていた。しかし15日になって軍は全土に非常事態宣言を発し、国会も憲法も停止してしまった。クーデターの指揮者ムシャラフ氏は国家最高責任者の地位につき、大統領(実権はあまりないけどいるんです)の権限はそのままとされた。各州の知事もシャリフ首相よりの人物が多いとして軒並み解任されたようだ。完全な軍政が敷かれたわけで、これからどうなるか不透明になってきた。どうもムシャラフ参謀長自身にとっても当初思ったよりも難しい事態となってきているようだ。
 当然ながら世界各国はこの事態に緊張した。なんてったってパキスタンは「核保有国」だからだ。ケンカ仲間ともいうべきインドはただちに軍隊に厳重な警戒態勢をとらせた。話し合いやすいと思っていた政権が潰れ、強硬派の軍が政権を握ったんだから当然である。最悪の場合限定核戦争ぐらいは想定される事態だ。まぁそこまで行かない程度には冷静な軍部だとは思うが…



◆アメリカ議会、CTBT批准を否決
 
 「CTBT」とは「包括的核実験禁止条約」のこと。内容は読んで字の如しで核爆発を伴うあらゆる核実験の実行を禁止するものだ。現時点の核保有国に都合の良い条約という部分もなきにしもあらずだが、これ以上の核開発や改良(?)に歯止めをかけるという効果が多少期待できるものには違いない。96年9月に国連が採択し、クリントン大統領が真っ先に署名しており、クリントン政権の外交面の目玉とされている。

 ところが。大統領が署名しようと条約の批准には議会の承認が必要なのだが、現在アメリカ上院はクリントン大統領の民主党の宿敵・共和党が多数派。当初から批准は難しいんじゃないかとは言われていたそうだ。そこで民主党と共和党はいきなり白黒つけずに批准をめぐる採決投票をとりあえず延期しようかと協議していた。共和党の一部にも批准に前向きな勢力もあり、一時はほぼ「採決延期」でまとまるところだったらしい。しかし10月8日、共和党保守派の「長老」・ヘルムズ外交委員長(77歳)「絶対に採決延期はしない。否決あるのみ!」とブチ上げてしまい、ほぼ流れが採決に定まってしまった。なんせこの爺さんは共和党のブッシュ前大統領も「信念のチャンピオン」と評したという有名な頑固者でいわゆるアメリカの「孤立主義」の象徴とみなされている人物である。もちろんこの爺さんの意見だけで共和党全体が動いたわけではないが、影響は小さくなかったようだ。かくして13日の採決投票の結果は「賛成48(民主44・共和4)、反対51(共和50・無所属1)、棄権1(民主1…審議が不十分と主張)でCTBT批准は完璧に否決された(批准には3分の2以上つまり67票が必要)

 CTBT外交を進めているクリントン大統領にしてみれば自分のお膝元が「反乱」を起こしたわけで、まさにメンツ丸つぶれ。翌日の記者会見では「新孤立主義の表れだ!」「最悪の党利党略だ!」と怒りをぶちまけていた。確かに共和党の今度の動きは世界情勢なんかお構いなく国内の政治闘争を優先させたと言われても仕方のないところがある。来年には大統領選も控えているからここで一つクリントンのメンツを潰しておこうという考えも無かったとは言い切れない。
 それと共和党ってのは比較的アメリカ保守層の意見を代表しているわけだが、アメリカにおける保守思想には伝統的にこの「孤立主義」がついてまわる。今でこそ世界中に影響を与えまくっているアメリカであるが、逆によそには口を出さずアメリカ国内だけ(あるいはアメリカ大陸内)にひきこもろうという発想がある。この発想はさらに進むと各州レベルにひきこもろうという発想になり、アメリカの連邦政府そのものに対しても敵対的になる。面白いものでアメリカでは「保守」「右」に進めば進むほどその関心対象が小さくなると言う傾向があるのだ(以前CBSの番組でアメリカの右翼特集をみたがまさにそうだった)。「銃を持つ権利」にこだわる層もこれとほぼ重なり合う。
 
 今度の採決に第一次大戦後のベルサイユ条約批准にアメリカ議会が反対した故事を想起する報道も多かった。世界史授業では必ずやることなのだが、かの「国際連盟」はアメリカ大統領ウィルソンが提案したことだったが、実際に出来てみると言い出しっぺのアメリカが議会の反対のために加盟していないという妙な現象を起こしてしまった。ここでも同じ「孤立主義」の発想が背景にあった。

 いちおうこれでもう批准が出来ないと言うわけでもない。クリントン大統領はあくまでCTBTを遵守して核実験を凍結する意向を示しているし核保有各国にもCTBT批准を呼びかけている。「こんどの否決は別に核実験をしていいと言ってるわけじゃない」と強調もしていた。もっとも彼の任期中には批准実現は無理である。ここで面白いのはクリントン大統領が「日本の活躍に期待する」と言っていたことだろう。確かに核保有国でもないし経済力はそこそこあるし「唯一の被爆国」ではあるし、こういう仕事にはうってつけという見方はあるだろう。
 それを受けてかどうかはしらないが、先日クーデターで軍事政権が出来たばかりのパキスタンでは日本の大使が実権を握ったムシャラフ参謀長に面会、民主的政府の早期実現とCTBT批准を要求した。ムシャラフ参謀長は「核については横暴な態度で扱っていくわけではない。CTBTについては十分検討している」と返事していた。下手するとアメリカよりCTBT批准は早いかも知れない(苦笑)。
 



◆新国家名は「パレスチナ」
 
 このネタは実は5月に一度このコーナーで取り上げている。それだけ事態に進展がなかったって事かも知れないが(笑)。
 あまり大きなニュースになってなかったけど、この14日、15日に東京で「第六回パレスチナ支援調整会議」なるものが開かれていた。タイトルをみれば分かるとおり、いよいよ新国家として建設されるパレスチナ国家への各国の支援を話し合う会議である。この会議に出席するため元PLO(パレスチナ解放機構)議長そして現在パレスチナ自治政府の議長であるアラファトさん(70歳)が東京にひょっこり来ていた。よく考えると大変な人が来てたんですよ、ホント。前にも書いたけど現代の「よく生きてると思う人」の上位に位置する人である。まぁ一頃よりは危険はなくなったかもしれないが…でも大きなニュースになっていないところをみると日本側がそれなりに配慮したのかも知れない。

 5月に取り上げたと書いたが、今年の5月4日に「オスロ暫定合意」の期限が切れ、パレスチナ新国家がイスラエルから独立し誕生するはずだったのだ。しかしイスラエルでラビン首相が暗殺されたり強硬派のネタニヤフ政権が誕生したりと紆余曲折があり、アメリカはじめ各国の要請もあってパレスチナ独立は先送りになっていた。しかし今度の来日でアラファト議長は朝日新聞と単独会見を行ったが、この中でなんとか来年には「独立」を実現するつもりだと語っていた。その後イスラエルに穏健なバラク政権が誕生したこともあり話はだいぶ進展してきているようだ。

 ただ依然として大きな問題も残されている。一つはエルサレムの問題。実に十字軍の時代以来の難問だ。ユダヤ人国家イスラエルからパレスチナ国家を独立させることが出来たとしても、聖地エルサレムはイスラエルの首都である。しかしパレスチナ人ひいてはイスラム教徒にとってもこの町は聖地。これをどうにか二重に管轄するとかできないものかとパレスチナ側は考えているらしいが、実のところ難しいだろう。せめて出入りをより自由にするとかするしかないんじゃなかろうか。それとイスラエルが占領地にいまだに入植者を送り込んでいることも問題のタネだ。

 これら全てが解決する目途についてアラファト議長は「来年9月」ぐらいと語っていた。新国家樹立宣言はそれ以後ということになるらしい(ちょっと来年中も厳しいような…)。そして新国家名について「パレスチナ」とすると明言していた。それまでは「パレスチナ民主共和国」というどこか社会主義国っぽい名前があがっていたが、それはやめて単純なものとしたようだ。
 とりあえず第一次大戦以来の「パレスチナ問題」に新たな展開が来年にかけて起こることは確かだな。

◆一年後のコメント
最後の一行、今読むとひじょーに重い。



◆「タンザニアの父」死去。

   これも少なくとも日本では大きなニュースではなかった。しかし妙に気になったのでネタとして取り上げてちょっと調べてみた。
 アフリカ東岸の国タンザニアの前大統領ジュリアス・ニエレレ氏が10月14日入院先のロンドンで亡くなった。享年77歳。白状するがこの名前は亡くなってみて初めて知った。タンザニアという国にしてもだいたいの位置は知っていたものの改めて地図で確認しなければならなかったほど。妙に覚えていたダルエスサラームという町はこの国の首都だったのか、なんて「発見」をようやくしている。歴史を調べてみたがタンザニアってタンガニーカザンジバルという二つの国が連合して出来た国だったんだな〜。このタンザニアのいわば「建国の父」がこのニエレレさんというわけだ。

 ニエレレ氏はウガンダのマケレレ大学卒業後(…この辺の固有名詞はなんか楽しい。向こうから日本語みてもそんな感じだろう)、教師となったが1954年にタンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)を結成してその議長となり、当時この辺りを支配していたイギリスからの独立運動を行った。その後いわゆる「アフリカの年」1960年からアフリカ諸国が次々と独立、タンガニーカも1961年に独立を達成した(英連邦にはとどまっている)。ニエレレ氏は新生タンガニーカの首相となったわけだが、直後にややこしい展開になる。
 地図をみて欲しいのだが、現在のタンザニアの大陸部分がかつてのタンガニーカである。よく見るとそのインド洋沖にちょこちょこっと島がみつかるはず。これがザンジバルだ。小さい島国ながら歴史は古く(11世紀にモスクが建ったそうな)、黒人奴隷をイスラム圏に輸出する基地となりザンジバル(ズバリ黒人奴隷のことらしい)の名もそれに由来する。このザンジバルには国王がいて1963年の独立時にいったん立憲君主制に移行したが、1964年1月に革命が起こり王政は廃止。その後「東側諸国」に接近する急進派と穏健派の対立が起こり、穏健派がお隣タンガニーカとの連合を画策、タンガニーカのニエレレ首相にもちかけたわけだ。その年の4月にタンガニーカ=ザンジバルなる連合国家が誕生し、10月におそらく双方の名前を合体させたタンザニア連合共和国と改称。ニエレレが初代大統領となり元ザンジバル首相が副大統領となって閣僚も双方から出すという形で連合国家を形成していった(今現在どうなってるかはちょっと分からなかった)

 ニエレレ大統領はその後「ウジャマー社会主義」なる政策を進めた。社会主義は分かるとして「ウジャマー」とは何かというと、アフリカのスワヒリ語圏でみられる家族的共同体の生活様式とのこと(どっかの解説の丸飲みです。すいません)。これにみられる他者の尊重、基本的な財の共有、労働の社会的義務といったものを社会主義と結びつけたわけだ(発展途上国における社会主義導入によくあるんだよな、こういうの)。農業の共同化・集団化を推し進めたようだが結果としてはあまり大きな成果を上げたわけではなかったようで、80年代に挫折し市場経済への転換を余儀なくされた。それでも在任中に生活環境改善などに成果があったことから国民からは「タンザニアの父」「先生」と尊敬を集めていたという。85年に引退したが、その後もアフリカ各国指導者の顧問役として影響力があった。つい昨年まで隣国ブルンジの内戦和平の調停に活躍していたそうだ。

 うーん、何気なくこの人の周辺を調べだしたらなかなかに面白かった(っても調べたの二時間ほどですが)。得てして僕らは世界史をやるときこういう国に目が行きにくい。しかしこうしてみるとタンザニアという国から世界史全体にも広がるテーマが見えてくる。どんなに小さな記事だろうとそこに意外なドラマが埋もれていたりするもんです。
 


99/10/17記

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