ニュースな
1999年10月24日

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 ◆今週の記事

◆ある政務次官の発言騒動

 この一週間の日本最大のニュースはこれになっちゃうんでしょうね。あーアホらし。日本は平和ですね、ホント。
 内容についてはさんざんマスコミで報じられたのでここでの繰り返しは避けたい。そのまんま引用するとこのサイトの品位(うーん、あったかな?)を下げかねないし。またせっかくこの「大スクープ」をものにした「プレイボーイ」誌に敬意を表して、そのまんまの引用を避けたいという気分もある。詳細を読みたい人は「プレイボーイ」を買ってあげよう(もう書店にないかな)

 まずこの「事件」で思ったことだが、この西村防衛政務次官(もうクビになったから「前政務次官」だけど)というオッサンは、自分の発言が載る「プレイボーイ」誌に対する事前知識がなかったんだろうな。名前から単なるエロ雑誌と考えていたに違いない(まぁ実際そういう部分も多いけどね)。しかし以前からこの雑誌、かなりの若者向け硬派記事を毎号必ず入れており、どちらかといえば反権力志向が強烈な雑誌なのだ。同じ集英社の少年ジャンプが時々社会派というか文化事業みたいな企画を組むことと無縁ではないかも知れない。
 今度の西村発言を「確信犯」とか「世論をうかがうためのアドバルーン」という見方が多かったが(所属する自由党の党首が言わせたとの説もあった)、僕のみる限り今度の放言は「西村氏本人の単なる不注意」だと思う。「確信犯」ならもう少し違う場で放言しただろう。「プレイボーイ」ということで彼が読者層を甘く見て言いたい放題、しかも非常にお下劣なネタをふってしまった(それと政務次官に任命されて舞い上がっていたフシもある)。まぁ裏返せば日ごろから彼が考えていることが率直に出ているわけで、その程度の感性の人ということがよく分かるわけだが。聞いたところではこのインタビュー後「プレイボーイ」の記者は「これは大変な騒ぎになる」とすぐ言っていたそうだ。してやったり、というところだろう。深読みすれば初めから「放言」させる目的で彼を対談相手に選んだのかも知れない。西村氏が辞任した直後の単独テレビインタビューをみたが、「取材を受けたときはここまで大きくなるとは思わなかった」と悔しがっており、どうも事前に記事のチェックもしていなかったらしい気配もある。そのインタビューで「気候や風土によって植物が違うように、発言も時と所によって変わる」なんてなことをゴチャゴチャ言っていた(一部不正確)ので、要するに「プレイボーイ」の場を甘く見てつい「口をすべらせた」とは感じているようだ。ハッキリいって「議論を提起する」なんてレベルで話していたとは思えない。「大東亜共栄圏」だの「八紘一宇」まで言ってる所なんて議論じゃなくて酔っぱらいのたわごとにしか思えなかったし。

 さて彼が辞任したことについてはあれこれ意見もあった。西村氏自身は「マスコミが騒いだせいでやめさせられた」と言わんばかりのコメントをしている。「議論そのものを問題だとして封殺するようなことをするな」という趣旨のことも言っていたな。これはこれで正しい。しかしマスコミは騒ぎはしてたけど「辞めろ!」とは直接には言ってなかったように思う。問題だと騒ぐこと自体は勝手でしょう、西村氏が議論をブチあげるこtが勝手なように。それほど議論がしたいのであれば辞めないで国会でその発言を貫けばいいのだ。僕も正直なところ西村氏には政務次官を辞めずにそのまま国会で答弁してもらいたかった。それを「政治運営を混乱させて申し訳ない」という定番のフレーズで逃げるように辞めたのは西村氏ご本人である。日本の政治の悪い癖だ。言いたいことはハッキリ言って議論する習慣をもう少し付けた方が良い。

 もちろんあくまで「辞任」は形の上のことで実質的には首相によって「更迭」されたわけだが、だとすると議論を封殺したのはほかならぬ小渕首相ということになる。それと西村氏がこういう人物だということは前から分かっていたことのはずだが(セクハラ発言では有名だったそうな)、それを今度から「副大臣」扱いの政務次官に西村氏を任命したのも小渕首相だ。やっぱ責任はまぬがれないでしょうな。ついでながらこういう発言だけ強気で元気な人(尖閣諸島行ったのなんて完全なパフォーマンス。同行していた石原慎太郎はマスコミにバレたら取りやめたぜ)が重んじられる傾向は気をつけた方が良いよ、小沢さん。旧日本陸軍の参謀連中を思い出しちゃったな。

◆一年後のコメント
こんなこともあったっけなぁ…その後「失言」に関しては「巨匠」とも思えるお方が首相となったが、この西村さんの発言ほど次元の低いものでは無かったかも。しかしその後もしっかり国会議員やってますね、この人は。



◆インドネシアに新大統領
 
 これはちょっとドンデン返しでしたねぇ。このコーナーでもかなり前からインドネシア政局を見守ってきたが、ここで思わぬ人が大統領になってしまった。もちろんインドネシアでは有名な人なんだろうけど…新しい大統領に選出されたのはイスラム教の指導者で「国民覚醒党」の党首・アブドゥルラフマン・ワヒド氏だった。僕は「やはりメガワティさんだろう」と予想していたクチだ。親娘二代連続大統領はひとまずお流れだ。

 この大統領選は二転三転、なかなか先の読めないドラマだった。一時は与党ゴルカルの党首ハビビ大統領の再選が有力視されたりもしていた。しかしゴルカルの中でもハビビ批判派がおり、それが最大野党「闘争民主党」のメガワティ陣営に流れるなんて話も出ていた。そうこうしているうちにハビビさんがゴルカルの大統領候補として認められず、不戦敗で脱落。この時点で「メガワティ大統領」実現はほぼ決定的と思われた。実際支持者の多くもすでに祝賀ムードだったようでお祝いの横断幕まで出ていたという。ところが国民協議会で投票してみればあららビックリ。「第三の男」などと言われていたワヒド氏の373票に対してメガワティ氏が313票。接戦よりは差を付けてワヒド氏がインドネシア新大統領に選ばれた。結局のところイスラム団体指導者という社会的認知度と信用度、女性大統領誕生への反発などが宙に浮いた与党ゴルカルや中間層の票をワヒド氏に向ける結果となったようだ。またすでに勝利を確信していたメガワティ陣営が他の勢力に高姿勢で応対してしまい味方を減らしてしまったという話も出ている。

 この結果にそれまで勝利を確信していたメガワティ支持派はショックで嘆き悲しみ、一部は怒り狂って暴徒化した。しかし何といっても彼等が主張していた「民主的手続き」をへて出た結果である。ここで騒いでも事態を悪化させるだけだよなぁ…などと眺めていたら、その後の投票でメガワティ女史が副大統領に選出されたのである。しかも対立候補を圧倒的大差で破って。どうもメガワティ支持派の国民の不満を抑える形でとられた政治的操作というにおいがするが…。国民協議会の会場は傍聴席の大騒ぎで、大統領選出時よりもメガワティ副大統領誕生の瞬間の方が盛り上がっていたそうだし(笑)。

 新大統領となったワヒド氏だけど、今年59歳。ジャワで生まれてエジプトやイラクの大学に入ってイスラム法を学んだという優秀なイスラム指導者だ。国民の9割がイスラム教徒という国だからこういう人が大統領になる方がバランスはとれるかもしれない。ただご本人は目もほとんど見えず、健康体とは言い難い不自由な体のようで、大統領としての執務が出来るか不安は残る。その辺を副大統領とうまくやっていければいいんだけどね(将来的には「禅譲」になるんじゃないかとにらんでいる)
 ま、とにかく民主化促進への第一歩だ。

◆一年後のコメント
あれこれ言われてますけど、どうにか保ってますね、ワヒド政権。ってまだ一年しか経ってないわけだが、多難な一年ではあった。現在はアチェーやイリアンジャヤの独立問題をどう処理するかが見物ですかね。
 



◆中国主席の欧州訪問
 
 建国50周年を先日迎えた中国だが、これといった騒ぎも新ネタもない。いささか拍子抜けしたところもある(笑)。せいぜい出てきたのが建国50周年記念の新紙幣がニセ札と疑われてなかなか流通してないってな小ネタだし。そうそう、時期指導者とみられながら天安門事件で失脚した趙紫陽元総書記が80歳になったってのもあった。相変わらず事実上の軟禁状態にあるとか。

 この趙氏と入れ替わって今や中国の最高指導者となっているのが江沢民主席だ。毛沢東以来の中国指導者の中ではどうにも小粒の印象がぬぐえない人で個人の実力の程もよく分からない人だが、少なくとも「気軽にヒョイヒョイ外国に行く」という点では中国歴史上稀に見る指導者だろう(笑)。前近代の皇帝は当然だが、現代となってもたとえば毛沢東なんかはなかなか外に出ない人だった。確かソ連に1度か2度行っただけだろう。アメリカとの国交を結んだ際もニクソン大統領が北京に行っただけだしね。トウ小平はよく出かけた方だが、それでもたまにという程度だった。それが江沢民さんはホントに気が付くとよくあっちゃこっちゃ出かけている人だ。サミットは呼ばれないからいかないもののAPECには必ず来るし、大国から小国までけっこうまんべんなく出かけている(近頃話題のキルギスなんかも最近行ってたな)。今週江沢民主席はヨーロッパから中東まで6カ国をまわるおおがかりな歴訪の旅に出かけていた。

 訪問先のイギリスではちょっとした「事件」があった。例によって人権団体やらチベット支持団体などが沿道で騒いだりしたらしいが(いつも思うことながらなんで欧米人はあんなにチベットが好きなんでしょ)、ブレア英首相との会談では江沢民主席から先に「人権問題」に触れた。その言い方が面白い。「香港返還の経緯からイギリスが中国の人権問題に関心があるのは理解できる」と言ったのだそうだ。前は「アヘン戦争やったあんたらに人権うんぬんを言われたくはない」って感じだったけどね。そして「両国の間では「人権」をめぐる見解に相違があるが、状況は改善している」と言ったとのこと。あれこれ言われる前に自分から先手を打ったというところだろうが、これまでのことを考えるとかなり低姿勢で来た表現だと思う。
 さて「事件」ってのはこのことではないのだ。21日夜にロンドン中国大使館で開かれた江沢民主催の晩餐会に、エリザベス女王以下、英国王室が招かれた。ところがチャールズ皇太子が異例の欠席をしたのだ。本人は「先客との予定があった」と言っているが、イギリス各マスコミは「亡命チベットの指導者ダライ=ラマと個人的に友人関係にあるから出席を避けたのでは」と報じている。なんでもイギリス王室は中国に配慮して公式にはダライ=ラマに会わないことにことにしているそうだが、チャールズ皇太子は個人的に何度か会い、親しいのだそうだ。今度の欠席も一部では「中国への遠回しの抗議なんじゃないか」との観測も出ているらしい。考えられないことではない。波紋を呼ぶのは明らかなんだからかなり意図的なものだとみるべきだろうな。

 このあと江沢民主席は中東も訪問する。ひょっとすると来週のネタになってるかもしれない。大事が起きない限り書きたいネタがあるんだよね。来週にご期待。



◆ある金メダリストと国籍の問題

 まずはニュースそのものから紹介しよう。
 北朝鮮の朝鮮中央通信が伝えたところによると(例によってそれを引用した朝日新聞によると(笑))、北朝鮮のオリンピック委員会はIOCに書簡を送り、1936年のベルリン五輪のマラソンで優勝し金メダルを受けた孫基禎(ソン・ギジョン)氏の国籍を修正するように要求した。そう、彼の国籍は記録上「日本」となっていたのである。これを北朝鮮オリンピック委員会は「これは朝鮮民族に対する許し難い名誉棄損であり、同時にオリンピックの高貴な理想に対する許すことのできない侮辱である」と批判、「国際オリンピックの文書とオリンピックの記念物に、当時から真の民族籍である『朝鮮人』として孫基禎氏を登録するよう丁重に提案する」と書簡で述べたという。IOCがどういう対応を示すかはまだ分からない。

 ベルリンオリンピックの優勝者の名前を刻んだ記念碑の写真を見たことがある。そこには「MARATHONLAUF42495m SON JAPAN」とマラソン競技優勝者の名が刻まれている。ちなみに優勝タイムは2時間29分19秒だ(今思うとのんびりしたもんだったのかな)。朝鮮人ソン=ギジョン選手は日本代表として日の丸をつけてベルリンのマラソンを走り、優勝した。念のため書いておくが日本の五輪関係者は彼を代表にさせまいとあれこれ操作もしたらしいが(日本人の優秀性が崩れるからだ)、何度やっても実力はいかんともしがたく彼を代表としたのだ。表彰式では日の丸があがり君が代が演奏されが、のちのソン氏の書くところによるとそれは「耐え難い屈辱」だったそうだ。彼はその後サインを求められる際には必ず「KOREA」と付け加えていたという。
 当然ながら「日本代表・孫選手」を迎える当時の植民地朝鮮の感情は複雑だった。ある雑誌は「これがベルリンのマラソン優勝者・偉大な我らの息子孫基禎の足」と題して孫の足だけの写真を掲載し、「東亜日報」は表彰台に立つ孫の写真から胸の日の丸を削除して掲載した。このため東亜日報は日本警察の激しい弾圧をうけ、無期限刊行停止処分まで受けている。「日の丸」「君が代」を韓国・朝鮮人が見る際にはそういう感情があるのだということを知っておいてほしい。
 1988年、ソウルでオリンピックが開かれたとき、開会式の聖火リレーで競技場に入ってきたのは当時76歳となっていた孫選手だった。

 さて、こんな背景がある話なわけだけど、なんでまた北朝鮮がいまごろこんな話をブチあげたんだろうか。もちろん文書記録では当時の国籍で書かざるを得なかっただろうが、本人の要求とかがあれば書き改めることは可能だろう。しかし彼自身は韓国にいるわけだし…。
 どうも北朝鮮の韓国への態度軟化アピールの一つなんじゃないかと感じるんだけどね。

◆一年後のコメント
つい先日、この過去記事の最後の一行を見て自分で「おっ」と驚いていた。一年たった今、非常に興味深い動きがささやかなものではあるが、確かに進んでいたことがうかがえる。もちろん春に「南北首脳会談」を公式発表すると言うことは数年前から極秘裏に交渉が進んでいたわけで、この段階ではすでに話がほぼ固まり最終調整ぐらいだったかも知れない。 
 


99/10/24記

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