いざ鎌倉攻略!
2009年5月6日 南北朝マニア鎌倉の旅(その1)

赤数字がまわった順番です。

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 2009年のGWも最終日。世間はインフルエンザがどうのと騒がしい時でありました。
 ふと思い立ちまして、鎌倉旅行をしてみました。昨年あたりから強烈に「南北朝熱」が再発した上に、大河「太平記」の完全版DVD発売、CSのファミリー劇場や時代劇チャンネルでの再放送などが相次ぎ、我がサイトの「太平記大全」コーナーにもお客が殺到(ってほどでもないけど1.5倍以上にはなりました)という事態になり、いろいろとメールをいただくことも多くなりました。その中で複数の方と「ゆかりの地めぐりなんかもいいですよねぇ」という話題になりまして、「とりあえず関東で手近なところといえば…やはり鎌倉だ!」ということになりまして、ひょいと実行してみた次第です。
  鎌倉に行くのは僕もこれが初めてというわけではありません。小学校の修学旅行も含めて2度は行ってます。ただし「南北朝マニア」になってからはこれが最初 になります。今回は徹底して南北朝マニアの視点から「鎌倉」を見て回ろうと考えたわけです。そのため鶴岡八幡宮も鎌倉大仏も無視!(笑)
 鎌倉と いうと当然鎌倉幕府があったところであり、鎌倉時代関係の観光がどうしても多くなるのですが、実は南北朝時代でも少なからず重要な歴史の舞台となりまし た。そりゃまぁ後醍醐天皇も楠木正成もここに来たことはありませんが、北条一族はもちろんのこと足利尊氏・直義兄弟も人生のかなりの部分をここで過ごして いますし、新田義貞ら新田一族はここを攻略。北条時行も北畠顕家も鎌倉を一時占領してるんです。そして倒幕計画に関与した日野俊基、倒幕の功労者の皇子・ 護良親王は鎌倉で最後を遂げています。考えてみりゃ足利直義も北条時行もここが最期の地でした。
 というわけで、回ってみれば南北朝マニア的にも見るべきところは多い。鎌倉観光メインストリートからは外れた南北朝マニアコースとしてお読みください。

出発駅は北鎌倉駅。あいにくの雨です。鎌倉の名所・円覚寺・建長寺などはこっちから行く人も多く、この駅で降りた観光客は雨にも関わらず結構多かったです。北鎌倉駅から歩く途中で見かけた看板。「ん?大塔宮の身代りさまぁ?あれか、後醍醐の身代わりとして見捨てられたからか?」などとツッコミを入れつつ撮った一枚。この謎の答えはあとで鎌倉宮訪問時に判明します。
最初のお目当てはここ。北鎌倉駅から徒歩5分程度のところにある長寿寺です。近くの建長寺と比べるとてんで地味な寺ですが…
実はこの寺に足利尊氏の 墓があったりします。尊氏の遺骨を納めた墓は京都にありますが、遺髪がこちらに埋葬され「鎌倉の墓」という形にされたそうなんです。彼自身の育った故郷で もありますし、息子・基氏の関東支配の拠点ですからここにも墓をということになったのではないかと。残念ながらこの日は一般客は入れませんでした。
その長寿寺の脇から続く細い道を抜けていきます。急勾配を登ってからまた急勾配で下っていく、雨の日は人間でもスリップ注意なところです。ここは亀ヶ谷坂と呼ばれてまして、鎌倉時代に開削された「切通し」の一つと言われ(確証はないそうですが)、この写真のあたりにその雰囲気がよく残っています。なお、この坂をはさんで北側が「山ノ内」、南側が「扇ヶ谷」。電柱の住所を見て「おお!」と言ってしまう歴史ファンも多いでしょう。ここ足を滑らせればまさにタイムスリップ!(笑)
亀ヶ谷坂をおりて扇ヶ谷の住宅地を抜けていくとあるのが岩船地蔵堂。なんでも源頼朝の娘・大姫の霊を慰めるために建てたとかいう伝説があるそうで。南北朝関連ではありませんが、さりげなくこんなのが町中にあるところが鎌倉らしい。岩船地蔵堂から住宅地の中を歩いていくと、目的地の一つ・浄光明寺に到着。
建武2年(1335)末、北条残党による中先代の乱を鎮圧した足利尊氏は建武政権から独立の姿勢を明確にし、鎌倉に居座ります。ところが後醍醐天皇が尊氏追討の勅命を出すと、尊氏は「私は帝に背く気はない。出家するからあとはみなさん勝手にしろ」と勝手なことを言い出して「もとどり」を切り、ザンバラ髪になってひきこもっちゃった、あのお寺です。
この寺にこもった尊氏は自分が滅ぼした仇敵であり親戚でもある北条一族の菩提を弔っていた…とも言われますが、彼が「鬱モード」に入っていたからともっぱら言われてます。彼がひきこもりを続けるうちに弟の足利直義らが率いる足利軍は連戦連敗、新田義貞軍に箱根まで迫られます。
上の写真は現在の浄光明寺本堂。
さすがにこの本堂は鎌倉以来ではないでしょうが、鎌倉時代当時の境内図面が残っていたことから、この寺が当時の面影をよく残していることも知られています。
ドタンバに追い詰められて出家を中止、一か八かでこの寺から出撃した尊氏は箱根・竹之下合戦で新田軍を撃破、一気に「躁モード」に入り京都へ進撃、そのあと九州まで行ってまたUターンして湊川、という日本史上まれにみる大長征をすることになります。
上の写真は浄光明寺の裏手にある墓地。鎌倉の山腹に横穴を掘って作った墓地「やぐら」があるのが分かります。
… などと思い返せば、この寺は室町幕府誕生のきっかけ、ひいては日本史上の大転換の舞台となった重要な寺と思えるですが、鎌倉市の史跡解説にはその件につい て一言もありません。写真で手前に見える「冷泉為相卿旧跡」の石碑ばかりが目立つ(彼の墓がこの寺にあるんです)。境内には「楊貴妃観音」なんて妙なものまでありましたし(笑)。
「太平記」では尊氏がひきこもったのは建長寺とされているせいとも考えられますが…いや、これは戦前の「逆賊尊氏」観の残滓で「足利」には触れないでおこうとしてるとしか思えないんですよね。南朝側の人物の扱いと比べるとよくわかります。
浄光明寺を離れて、西方向に坂を登り始めます。やがて舗装した道路はなくなり、かなり険しい山道になります。これが鎌倉の「七口」の一つ化粧坂(けわいざか)です。
この写真だとわかりにくいですが、ジグザグに登っていくかなりの急傾斜。うっかり気軽な観光気分で登りだすと痛い目に遭います。ましてこの日は雨でしたから、もうグシャグシャでした(汗)。
「化粧坂」の名の由来については遊女がいたからとか「木生え」から転じたとか諸説ありますが、坂の脇に建ってるこの石碑には「頼朝が平氏一門を処刑した時、その首を化粧したから」との説明があります。
この石碑にはここが1333年5月に鎌倉を攻略した新田義貞軍と金沢貞将軍が激闘を繰り広げた場所であることが明記されています。当時が今と同じとは思いませんが、かなり急傾斜なところで戦ったのは間違いないんじゃないかなぁ…
なお、鎌倉各所で見かけるこの石碑、昭和15年に建てられたものなので西暦ではなく「皇紀」を使い、内容もモロに皇国史観です。
「首の化粧をした」説の出所はこの坂の上の「葛原が岡」が当時鎌倉の処刑場だったことにあります。ここに後醍醐の寵臣として倒幕計画に活躍した日野俊基の墓があります。
密告により討幕計画の首謀者とされた俊基は元弘元年(1331)5月に逮捕されて鎌倉に幽閉され、後醍醐方がひとまず敗北した翌年6月にこの葛原が岡で斬首されました。それから一年もしないうちに新田軍が近くを通過していくわけです。
た だし、実はこの墓が俊基のものという保証はないんです。明治以後南朝忠臣がみんな称揚されるなかで「その時代のものっぽい」墓石を整備してこんな風にまつ りあげちゃったというのが真相です。この墓の周りにこれでもかと顕彰碑がいっぱい立ってます。みんな大正末期から昭和初期のものですね。
墓と顕彰碑ばかりではなく、俊基を神様に祭った葛原岡神社なんてものまであります。この調子で「南朝(吉野朝)の忠臣」たちはみんな全国で神様にされちゃってるんですね。さすがに今はそんな史観は流行らないはずですが、明治以後だろうとなんだろうと一回作っちゃうと「伝統」「権威」になってしまうというわけです。日野俊基の墓の近くにはこんなものが…
絶対わざとだ(笑)。

その2に続く


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