いざ鎌倉攻略!
2009年5月6日 南北朝マニア鎌倉の旅(その2)

赤数字がまわった順番です。

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葛原が岡から山を下って中心街へ。ここで昼飯を食って旅の後半は鎌倉駅からスタートです。
しらんうちにずいぶんモダンな駅になってたんだなぁ…市内観光の人力車(なんで?)が雨の中も軽快に走っておりました。
今も昔も鎌倉のメインストリートの若宮大路。このずっと向こうが鎌倉のシンボル・鶴岡八幡宮ですが、今回はパスです。
若宮大路からちょっと外れて裏の小道を歩いていくと、「日蓮辻説法の地」があります。何を根拠にここと断定しているのか分かりませんが(日蓮だっていつも同じ場所でやったわけでもないんじゃないかなぁ)、南北朝がらみではないけど鎌倉史の一場面として撮影。その裏小道を東へ進み、鎌倉の東側の山を登っていきますと、ここに東勝寺跡があります。そう、北条一門の菩提寺であり、元弘三年(1333)5月22日に最後の得宗・北条高時以下北条一門・郎党数百名が集団自決した凄惨な現場でもあります。尊氏の庶子で波乱の人生を送った足利直冬も幼少時この寺に預けられていたと「太平記」は伝えています。
その後寺じたいはすぐ復興したそうですが、戦国時代にはすでに廃寺になっていたのだそうで、現在もまるっきり跡かたもありません。
東勝跡からちょこっとだけ登りますと、そこには「高時腹切りやぐら」なる、いささか不気味な名前の場所があります。
上の写真のように、やぐらの入口には「霊処浄域につき参拝以外の立ち入りを禁ず」との宝戒寺のお達しが掲げられています。宝戒寺とは北条一門を慰霊するために足利尊氏が建てた寺で、ここのすぐ近くにあります。やはりここを管理してるのもその寺なんですね。
宝戒寺のお達しに従い、あくまで「参拝」のつもりで、厳粛な気持ちで接近しましょう。ナンマンダブ、ナンマンダブ。これが「高時腹切りやぐら」です。
もちろん、これが高時が腹を切った現場だという確証はありません。こうした「やぐら」は浄光明寺でも見かけましたし、鎌倉ではそう珍しくもないのでしょう。東勝寺の裏手にあってなんとなく雰囲気があるからそういうことになったんじゃないかと。
大河ドラマ放送当時、この「やぐら」の中から撮影した写真や映像を見たんですけど、ちょっと入るのはこわかったんでやめました(汗)。
東勝寺跡を離れて、十数分程度歩きますと、「二階堂」という地域になります。南北朝マニアには二階堂道蘊でおなじみですね。
その先に鎌倉宮があります。北条一族と鎌倉幕府を滅ぼした中心人物といっていい、後醍醐天皇の皇子・護良親王を神様として祭る神社です。
例によって例の如く、明治以降の南朝顕彰のなかで創建された神社です。広い敷地でよく整備され、駅からバスもしょっちゅうあってアクセスはかなりいい。
冒頭の方で触れた「身代りさま」の謎がやっと解けました。護良親王ではなく、親王の「身代り」になって自害した忠臣・村上義光を祭る「村上社」がこの境内にあるんですね。この「身代りさま」こと義光の木造に触ると身代りになって悪運を払ってくれるんだそうな。まぁいろいろ考えるもので。じゃあ高師直の身代わりで死んだ上山六郎左衛門なんかも候補になりそうな(笑)。
ふと気が付くと両者とも身代わりのおかげでその場の命は拾ったけど結局ロクな最期じゃありませんでした。
鎌倉宮の裏手に入り宝物館などの展示を見るには別料金(300円)とられます。ま、ここは話のタネのために払っておきましょう。ついでにツッコミどころの多い「御一代記」も購入してしまいました(笑)。
料金を払って裏手に行くと「護良親王幽閉の土牢」な るものが展示されてます。護良親王が足利直義に土牢に幽閉され、あげくに殺害されるというビジュアルイメージは古くから横行してますが実は全くの誤解。元 ネタの「太平記」は「土牢」なんて書いてなくて、「土で籠した」つまり壁を土でふさいだ部屋に監禁したのが正しいのです。しかし「土牢」イメージは江戸時 代以来一人歩きしてまして、ついにはこんなものまで「復元」しちゃう。神社のみならず鎌倉市の案内板にも「土牢に九か月幽閉」って大マジメに書いてありま す。
なお、大河ドラマ「太平記」では絵になる見せ場にも関わらずちゃんと考証して土牢ではなく寺の一室で殺害されるシーンになってました。たぶん相当数の年配者から「違う!」と抗議されたんじゃないかと(汗)。
「太平記」によれば護良を殺害した淵辺義博はその首が刀の刃を口にくわえているのを見て恐ろしくなり、近くの草むらに放り出したとされます。というわけで、どうやって特定したのか、「土牢」の近くには「御構廟(御首所)」なんてものまで作られてます(笑)。
まだまだあります(笑)。護良天皇後村上天皇後亀山天皇の分身(?)ということにされてる「御神石」なんてものまで。なおこの神社では「護良」はあくまで「もりなが」と読ませることに固執しているようで「守永親王」との表記もされてます。
このすぐ隣には「五カ条の御誓文」と「教育勅語」が刻まれた石碑までがあります。戦前のものではありません。昭和三十年代に建てられたもので、戦後も執拗にこの手の「南朝皇国史観」にこの神社の関係者がこだわり続けていることがよくわかります。
金を払ってるから言いたい放題言わせてもらいますが、もともと何にもなかったところにカネをとるために「名所」をどんどん捏造しているように見えて仕方がない(笑)。
さらには宝物館まで。護良親王の生涯をたどる絵画、まるで仁王様みたいな護良騎馬像、護良真筆の書状などが狭いスペースにゴチャゴチャに展示されています。
護良の直垂というかなり怪しげな一品も(笑)。貴重なもののはずなのになんか雑然と置かれてます。上に掲げられた「至誠奉公」の額は連合艦隊長官山本五十六の手になるもの。他にも東郷平八郎のものも。ほかにも軍人・政治家の書がゴタゴタと置かれています。写真右には誰が描いたのか確認しそこねましたが近代的記念写真風の護良肖像画まであります(笑)。そしてその奥には明治天皇の肖像(御真影にされたやつ)までが。南朝正統論ここにきわまれりという観がありますが、持明院統(北朝)の子孫の天皇など護良が認めるとはとても思えないんだがなぁ。大河ドラマの堤大二郎みたいに「こは持明院統の暴挙ぞ!」とわめいていそう(笑)。
この鎌倉宮から少し離れた山の上に護良親王の墓までありますが、これだって本物なのかは限りなく怪しい。山登りはもうごめんだったので今回はパスしました。
パスといえば山一つ越えた足利家ゆかりの浄妙寺には尊氏の父・足利貞氏の墓とされるものがあり(位牌は本物があるそうです)、現在は残ってませんがその地にはかつて足利直義の墓もあったと言われています。こちらもチェックしておきたいところでしたが時間の都合でパス。
鎌倉宮からバスで鎌倉駅に戻り、ここから江ノ電に乗ります。この辺は南北朝マニアではなく鉄道ファンの感覚で(笑)。
鎌倉大仏へ行くには「長谷」駅下車です。今回は無視ですが。その次の「極楽寺」駅は鎌倉七口のひとつ「極楽寺坂切通し」のあったところ。やはり新田義貞が鎌倉攻略時に北条軍と激闘を繰り広げた場所です。大河「太平記」でなかなかの規模のロケ撮影による切通しでの激闘シーンが出てきますが、あれは極楽寺坂という設定でした(撮影は千早城攻防戦同様に足利周辺の採石場で行われたと思われます)
その名もズバリ「稲村ケ崎」駅で下車。駅から5分ほど歩くと稲村ケ崎が見えてきます。
極楽寺坂を攻めあぐねた新田義貞はこの岬の周辺が干潟になった時を狙ってこの海岸を突破、鎌倉突入に成功しました。「太平記」では太刀を投げ込んで竜神に祈ったという名場面になってます。「梅松論」でもここの干潟を突破したと書かれているのでおおむね事実なのでしょう。
大河「太平記」でもロケ撮影で再現された名場面となりましたがもちろんここで撮影したわけじゃありません。茨城北部の磯原海岸によく似た地形をみつけてそこで撮影したと聞いています。こうして現地に来てみると違和感があまりないほど良く似ていて驚きますが。
例によってまたこの石碑が。こちらは大正六年に建てたとあります。ここが歴史的な名所であることを示しているのは実はこの石碑だけだったりします。
意外なことに「太平記」の、しかも南朝方武将の名所の割に何にもないんですね。義貞の銅像一つぐらいあってもいいような気がしますが。
鎌倉市としては鎌倉を攻め落した張本人をたたえる気はあまり起きなかったのか。あるいは戦前でも実は義貞は「正成見殺し説」などであまり評判がよくなかったことなどが影響してるんでしょうか…
何やら太刀を投げ込んでるように見えなくもない銅像が見えますが、これは昔ここであった中学生ボート遭難事故の慰霊モニュメント。
正面海上にうっすらと見えてるのが江の島です。江ノ電、江の島と来るとこのあたりが黒澤映画「天国と地獄」の犯人アジトに近いことも分かりますね。あいにくの天気で富士山は見えませんが。
「稲村ジェーン」で知られるようにサーフィンのメッカということで、この日も結構サーファーがいました。
海岸におりて稲村ケ崎に接近してみると…
鎌倉市はいまだにここを突破されるのを恐れているようです。阻止されてしまいました(爆)。
どうしても渡りたい方は太刀を海に投げ込んで潮を引かせて下さい(笑)。
江の島からは湘南モノレールに乗って大船へ。懸垂式モノレールとしてはなかなかの長さを誇ります。「下に何もない」ので高所恐怖症の僕にはちと怖い乗りものなんですが。
途中の「湘南深沢」駅周辺がかつての洲崎、尊氏の義兄・赤橋守時が新田軍迎撃に出陣して奮戦の末自害した地域と言われてます(はっきりしたことは分からんようです)
モノレールで藤沢に帰り、そのまま帰路につきました。なお、この日使用したのはJR発売の「鎌倉・江ノ島フリーきっぷ」で、この地域のJR・江ノ電・湘南モノレールが乗り降り自由になります。

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