足利・新田探訪記
2012年3月29日 南北朝マニア両毛地方の旅



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 2012年3月29日、仕事の春期講習にフッと空きができ、以前から訪ねてみようと思っていた足利・新田地方を日帰り強行軍で旅してきました。
 南北朝マニアとしては南北朝の主役ライバル武将である足利尊氏・新田義貞のルーツの地はいつか押さえておかねばならないところでした。ただ念のため書きますと下野国足利荘は足利一族のルーツの地ではありますが尊氏当人は来たことがあったかすらあやしいというのが現在の通説。かつては尊氏は明白に足利出身・在住とされ、歴史小説でも渡良瀬川をはさんですぐ隣が新田義貞の出身地である上野国新田荘ということもあって、この地方で動乱以前の尊氏と義貞が顔を合わせている設定が多かったのですが、1991年のNHK大河ドラマ「太平記」では学界の通説を受けて主役の尊氏は足利の地に少年時代と父の葬儀の時だけにちょっと来る程度に描かれました。
 ただしその大河ドラマ「太平記」、劇中に出てくる鎌倉・京都・千早赤坂城といった見せ場の大規模ロケ撮影はほとんど足利の地で行われています。新田氏や楠木氏の館シーンも太田市内のセットで撮影されていて、あのドラマの「現場」はまさにこの地方だったのですね。戦前は尊氏が逆賊扱いされたため足利の地も何かと肩身が狭かったといい、あのドラマの時は市民も長年の鬱積が晴れる思いでロケにも全面協力し、大いに盛り上がった…とも聞きます。
 一方の新田荘(現在の群馬県太田市の一部)はまぎれもなく新田義貞とその一族のふるさと。「太平記」にも描かれる義貞の鎌倉攻め挙兵の地です。こちらは南朝ということで戦前には称揚されまして、その痕跡を今でもあちこちに見ることができます。
 では、足利・新田地方の強行軍旅行を写真ダイジェストでお送りします。

―その1・足利の旅―

東京から足利方面へ直行するにはやはり東武伊勢崎線が妥当。ということで、太田まで直行してくれる区間急行を利用することに。
「伊勢崎線」と書きましたが、今年の東武はスカイツリーフィーバー状態で、「スカイツリーライン」という名前で大々的に喧伝しています。
東武「足利市」駅に到着。写真奥に見えるのが渡良瀬川にかかる中橋で、これを渡ると足利市街に着きます。つまりこの「足利市」駅は足利市街地のはずれ、というよりは川の対岸にあるわけです。
やや遠回りコースで渡良瀬川を渡ります。向こうに見えるのが先ほど足利市駅から見えた中橋。
吉川英治「私本太平記」や大河ドラマ「太平記」では渡良瀬川をはさんで足利・新田の武士がケンカをする描写がありますが、そんなことを想像しつつ渡って行きます。
足利市街地に入って、JR両毛線の「足利」駅に足を運んでみました。なぜか電気機関車EF60が駅前に鎮座しています。
JR「足利」駅正面から。東京方面へは明らかに東武「足利市」駅の方が近いので電車本数や駅の規模はあちらの方が上なのですが、こちらはさすがに国鉄時代以来の足利市の中心駅ということもあってなかなか風格がある駅舎です。足利市の歴史名所の代表、「足利学校」を近くの歩道橋の上から撮影。一説に平安時代からあったとも言われる日本最古の「学校」で、室町時代に上杉憲実が復興して江戸時代まで栄えました。明治以降は衰退したため写真にある多くの建物は割と最近になってからの再建です。
歴史本や観光ガイドでよく紹介される足利学校の正門。ちゃんと「学校」と大書した額があります。入場料を払って敷地内へ向かいます。足利学校の名物の一つ、「字降松」。なんでも学校の生徒たちが読めない漢字や意味が分からない言葉を札に書いてこの松につるしておくと、翌日にそこに答えが書いてあったという、ケータイカンイングのルーツともいえる木です(違)。
学校のメイン、本堂となる「孔子廟」。足利学校は儒教教育の場でしたから、当然のように孔子が祭られていたわけです。その縁で敷地内には孔子の子孫の中国の方の記念植樹なんてものもあったりします。そういやなぜか東郷平八郎の植樹もあったな。
現在足利市では地域おこしの意味もあるんでしょうが、この足利学校にちなんで子供たちに「論語」を読ませるキャンペーンなんてのもしてるそうですね。
敷地内の隅に「足利学校中興の祖・関東管領上杉憲実公記念碑」なんてものがひっそりと立ってます。本当に隅の目立たないところにあるもんで、気付かない観光客も多そう。
発祥は諸説あるものの室町時代中期に上杉憲実が足利学校を「中興」し、その後の繁栄のもとを築いたことは間違いありません。そもそも彼が実質的な創設者だという見方もあります。
割と最近になって建てたんじゃないかと思うんですが、敷地内には本場中国から贈られたらしき大きな孔子像まで建ってました。こういうところ、今の中国で進められる孔子・儒教キャンペーンと共通するのが面白い。孔子に負けるか、と町中でザビエル像まで発見!なんか手の組み方まで孔子に似てます(笑)。
なんでザビエル?とお思いでしょうが、ザビエルがローマにあてた書簡の中で「坂東の大学」として足利学校の存在に言及しているという縁があるから。それだけなんですけど、まぁ有名人ですからねぇ。戦国時代にはそれだけ足利学校の全国的認知度があったということです。
さて次なる訪問地はもう一つの足利の名所、鑁阿寺(ばんなじ)です。1196年に足利義兼(尊氏の6代前)が創建したとされ、足利氏の氏寺となりました。
現在の境内はもともと足利氏の居館だった場所で、入り口にも「足利氏宅跡」と大きく書かれています。正門の前にかかる屋根付きの橋も面白いです。
鑁阿寺の境内。かなり広い敷地で、正面に見えるのが本堂。ほかに鐘楼・経堂・多宝塔などの建物があり、境内が広いせいで少し閑散とした印象もありますがそれぞれに風格があります。足利氏の氏寺として歴代当主を祭る御霊屋、歴代室町将軍木像もあります。
「私本太平記」では問題の足利家時の「置文」はこの寺にあることになっていて、尊氏がこの寺でそれを読む展開になってますが、あくまで小説のフィクションです。ドラマでは足利貞氏の葬儀がここで行われたことになってました。
鑁阿寺の南側の堀。鑁阿寺の敷地はほぼ正方形で周囲はぐるりと堀に囲まれています。これが鎌倉時代の地方有力武士の居館(ちゃんと防衛も想定した「城」でもある)の雰囲気をよく伝えているとされ、研究上も貴重なものです。日本名城100選にも入っています。このあと「足利尊氏銅像」というのがどっかにあるはずだが…とあちこちウロウロ。なかなか見つからず歩き回るうちに、「尊氏通り商店街」なるものがあることに気付きます。しかし肝心の銅像がなかなか見つからず…
やれやれ、やっと発見。なんのことはない、鑁阿寺正門に向かう大門通りの脇に建っていて、僕は目の前を通りながら見過ごしたのでした。見過ごした原因はこの像の真向かいに古い写真館があり、映画ロケに使われたとの説明が出ていたのでそっちに目がいっちゃったためでした。
この尊氏像は「武将」の銅像としては珍しく衣冠束帯姿。
銅像下には「征夷大将軍足利尊氏公像」とあり、平成2年の建造として由来が書かれています。平成2年といえば大河「太平記」放送の前年で、明らかにそれにタイアップしたものですね。
尊氏と言えば戦前は「最大の逆賊」で、戦後も一部で根強く嫌われる存在。足利市民にとっても少々複雑な存在であり、この銅像を建てるにあたっても「尊氏は足利とは無縁」と一部から強い批判があったとも聞いています。彼の銅像が武将らしからぬ衣冠束帯姿なのも、そういう背景から「乱世の英雄」っぽい姿を避けたものではないかと推測しています。
さて足利市は大河「太平記」のために大オープンセットが作られ当時は観光客でにぎわったそうですが、セットは撮影終了後すぐに撤去されました。当時の名残を唯一残しているのが足利学校近くにある土産物店「太平記館」です。
看板が大河ドラマのロゴと一緒なの、お分かりでしょうか。
「太平記館」の車にもバッチリ大河のロゴが。
「太平記館」の中には「足利尊氏公鎧」が!もちろんドラマで尊氏役の真田広之さんが着用したものです(たぶん。複製かもしれないけど)
しかしその脇に全く様相の異なる戦国期の「当世具足」の解説ボードを置くという意味不明なことをしております(笑)。あ、そこに撮影している誰かさんの影まである(笑)。
しかし店内は足利のお土産品ばかりでドラマとつながりがあるのってこの鎧だけなんですよね。事前に知ってはいましたが、ドラマのファンとしてはちょっと残念。 
しかし、店の裏手のトイレに行きますと、ここにドラマとのつながりが!男性の方は真田尊氏さん、女性の方は沢口登子さんの方をお使い下さい(笑)。
放送当時はシャレとしてはウケたかもしれませんねぇ。今の観光客だと全く分からないかもしれません。

 足利の旅はここまで。本当はもっと回りたいところがあったのですが、スケジュール上やむなく放棄。東武「足利市」駅へ引き返し、駅のコンビニで売ってた「佐野ラーメン味おにぎり」などをほおばりつつ、次は群馬県太田市、かつての新田荘へ向かいます。

その2・新田の旅へ

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