足利・新田探訪記
2012年3月29日 南北朝マニア両毛地方の旅



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―その2・新田の旅―

さて東武線に乗って「太田」駅までやってきました。駅前にはさすがは地元の英雄。新田義貞の武者姿の銅像が建っています。脇に控えて兜を持っているのは弟の脇屋義助…かな?あのかっこは単なる従者にしか見えませんけど。義貞の背中を見ながら太田駅前の風景。各地へ東武路線が伸びている駅なので規模は大きく、駅舎も真新しいのですが、再発中なのか駅前がえらく寂しい。義貞像の後ろ姿も心なしか寂しげです。
太田駅から西側方面がかつての「新田荘」で、あちらこちらに新田氏ゆかりの地があります。まわっていく手段がないのでテクテクと歩きまわります。
まずは義貞の子で矢口渡で謀略にはまって殺された新田義興の墓があるという威光寺へ。寺じたいは小ぶりなのですが、南朝がらみだとこういう調子で入り口にデカい標識(?)があってすぐ分かります。
威光寺は確かに義興の菩提寺ではあるらしいのですが、ここに義興本人の墓があるというのは若干疑問も。一応寺の北東の小高いところの上にある古い墓がそれと伝えられる、と案内板にありましたので寺の裏手に回って見ると、上の写真のようなものが。たぶん左側のものだと思うんですけど、念のため両方入れてみました。
威光寺から住宅地の中をテクテク歩いて行きますと、デッカい松の木があって、その下に「新田義貞卿誕生地之碑」なんてデカいものを発見。探していたわけではないので驚いて案内板を読んでみたら、ここは「台源氏館」という新田氏の古い居館の跡地とされていて、義貞はここで生まれたんじゃないかな?という話があるそうで。はっきりしない話なんですがこんなデッカい石碑を建てて海軍大将の誰だかの筆で字が書かれているところは戦前戦中の南朝称揚遺跡のパターンではあります。そこから延々5kmほど歩きに歩き…いい加減足が疲れて棒のようになっちゃったころに「生品(いくしな)神社」に到着。
そう、古典「太平記」にも記述されている、新田義貞の挙兵の地であります。こちらは誕生地なんかよりはずっと確か。この神社の歴史説明は神社の事務所に設置されている案内ビデオ(ボタンを押すと再生)がしてくれます。
元弘3年(1333)5月8日、鎌倉幕府に反旗を翻す決意をした新田義貞はこの神社に一族郎党を集め、必勝を祈願してから出陣して行きました。そしてわずか14日後の5月22日に鎌倉を攻め落とし鎌倉幕府を滅ぼしてしまったわけです。
そして義貞はそれっきりこの地へは帰らず、動乱のなか各地を転戦して越前で戦死。義貞に従った一族郎党の多くも異郷の地で死んでいます。そんなことを思いながらこの神社で足休め。
生品神社の境内は、やはり地元の英雄、それも南朝武将ということで、戦前戦後にわたり記念碑がやたらに建てられてます。よく見れば福田赳夫、中曽根康弘といった地元出身の総理大臣たちが揮毫しているものもあります。その中曽根さんの石碑のとなりに「新田義貞公銅像」があるんですが…ご覧のとおり、台座だけです。この台座の上には「太平記」の名場面、稲村ケ崎の太刀投げ入れの場面を再現した義貞銅像があったのですが、2010年2月に何者かに盗まれ、それっきり行方不明になっています。神社の案内によるとさすがに取り返すのをあきらめて再建計画が持ち上がっているようです。
神社の裏手にまわるとある「旗挙塚」。義貞が挙兵時にここに旗を立てたということらしいんですが、どうしてそんなものが分かるのか。歴史人物ゆかりの地にはよくあることですが、後世勝手に「名所」がどんどん作られちゃうということもありまして…ここも最近整備したようですね。生品神社を離れて1kmちょっと南へ歩くと、挙兵当時義貞が居館としていた「反町(そりまち)館」の跡があります。
これも足利の鑁阿寺(旧足利氏居館)と同じで敷地は正方形に近く、周囲に堀がめぐらされています。南北朝時代ののちも戦国期まで城として機能していたようで、堀もかなり残ってます。もっとも現在の堀の一部は道路改修時にかえって広がった、と説明がありました。
さすが新田氏居館、国指定遺跡になっていて説明板があります。隣はたぶん大河ドラマ放映時に作ったんじゃないかと思える「太平記の里」という新田荘の案内図であちこちで見かけます。
なお、この近くに「義貞冠かけの松」という「ゆかりの地」があるそうですが、足が痛いんでもう動かないことにしました(笑)。
もっと離れたところには「勾当内侍の墓」なんてさらにあやしげな「名所」もあります。
足利館跡が鑁阿寺になっているのと同様、反町館跡も「反町大師」というお寺になってます。初詣その他のときには結構人が押し寄せるらしく駐車場ほかスペースがかなり広め。敷地を見ると新田氏もなかなかの広さの居館をかまえていたことがわかります。行きませんでしたが少し離れたところには新田一族の江田氏の館跡も残っています。

もう疲れちゃいましたので、近くを通る市営広域バスに乗って太田駅へ帰ることに。しかし本数は一時間に一本あるかどうかというところだったし待つ場所もなく、時間の許すかぎり痛い足のままバス路線に沿って歩いてみました。結局バスに乗ったのはこの「脇屋入口」のバス停。
そう、この近くに「脇屋」という地名があり、これが義貞の弟・脇屋義助の名字の地なんです。この他にも市内の地図を見ると世良田、江田、堀口、大館、里見、山名などなど、「太平記」を彩る新田武将の名字の地がいっぱい見つかります。
このあとはバスに乗って太田駅へ、太田から各駅と快速を乗り継いで北千住へ…と帰りました。特急「りょうもう」にも心惹かれるものがあったのですけどね。今回はパスと。

 新田の旅もかなり駆け足…というより徒歩でテクテクやってるうちに限界を超えて歩いてしまい、もうこれ以上動けなくなっちゃったんですね。翌日までホントにほとんど歩けない状態になってしまいました(汗)。日ごろ使ってないからなぁ。
 足利・新田ともに回ってみたいけど泣く泣くカットしたところが多いので、いずれ機会があったらそっちをまわってみたいな、と思っております。

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