指揮者の系譜 発行人のプロフィール
ときわ会の略歴 主要年表
発行人のプロフィール
- 幼少期
- 私の名は、一法師昌彦と申します。1940年旅順の関東陸軍官舎に生まれました。父の郷里大分で終戦を待ちましたが、父は沖縄で戦死、戦争未亡人となった母は東京杉並区阿佐ヶ谷の祖母の実家に身を寄せ、国立音楽大学に職を見出しました。
- 祖母の家には満州から引き揚げてきた叔母一家も同居、クリスチャンの祖母は孫8人を教会に連れ出し讃美歌に親しませ、年一度のクリスマス会は貧しい中にも賑やかに歌に満ちたものでした。
- 5年生のとき杉並第一小学校オーケストラに入団しチェロを担当したのが音楽への目覚めだったようです。
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- 中学時代
- 1951年国立に移住、1952年国立中学校に入学。2年生の夏休み、地区別活動で影絵の公演にチャレンジ。この時ときわ会を一緒に立ち上げた白井克彦君に出会いました。
- 3年生のとき音楽の先生が病欠し、国立音楽大学から派遣されてきた石河清先生が音楽の授業を代行されました。簡単な輪唱や合唱で進められた授業は,、卒業を間近に控えた子供達をスッカリ合唱の虜にしてしまいました。
- 男子生徒9人が集まり卒業謝恩会で男声合唱を披露し、大喝采を浴びこれがときわ会の第1歩となりました。この9人で「国立常盤合唱会」を立上げ、一法師の母の縁で、国立音楽大学故岡本敏明名誉教授のご理解を得て、会場は音大付属幼稚園を使い、指導者に音大教育科の学生を派遣してくれました。
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- 高校・大学
- 常盤合唱会の立上げと高校進学が同時で、会に国中同期女性も誘って混声合唱団とし、同じ高校に進学した白井君と常盤合唱会をいかに運営するか、よく相談しあったものです。
- 高校は男子校「教育(現筑波)大学付属駒場高等学校」で、音楽は盛んでなかったので、男声カルテットにのめりこんで一年浪人。
- 1959年東京大学に進学し、男声合唱団コールアカデミーに入部。3年生のとき学生指揮者をつとめ故前田幸市郎先生の薫陶を受けました。毎夏国立音楽大学で開講される「夏季合唱講座」を、母の便宜で受講することができ、合唱技術の基礎を学ぶことが出来ました。
浪人時期に常盤会の運営は下級生に任せていましたが、大学でのコールアカデミーでの合唱生活にも慣れた頃、早大グリークラブに入部した白井君とともに再び常盤会の運営方針を構想したものです。
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- 青年期
- 年を経て会は国立中学との人間関係が疎遠になり、国中同窓合唱団として行き詰まりを感じ、1960年、一般市民から会員を募集、又白井君と小学校の同窓で、一法師とも幼なじみで、国立音楽大学に進学した中館輝厚さんを常任指揮者に迎えました。名称も現行の「混声合唱団国立ときわ会」とし、東京都合唱連盟に加入しました。
- 1963年私は「第二精工舎」に入社、白井君は早稲田の大学院博士課程へと進み、社会人として運営に関わることになりました。1965年には、白井君の基本構想をもとに第1回の発表会を開催。私も団内指揮者として1ステージ振らせてもらいました。市民合唱団として充実してきた矢先、1967年に中館さんが急遽ウィーンに留学。中館さんは、安定した指揮者が合唱団の価値を決定づけることを私達に示してくれました。
- その後指揮者の招聘には大変苦労しました。1972年まで鈴木義弘・淡野弓子・故楠瀬一途先生を指揮者にお迎えすることができましたが、定期演奏会はこの5年間に2回しか開催できませんでした。しかし短い在任期間中ではありましたが、合唱における発声の重要性を学ぶことが出来ました。
- 1960年に入会した国中OBで後に中館夫人となる中館(旧姓稲永)栄子さんと国立高校同期の一法師(旧姓前田)由紀子さんが1963年に入会してきました。私が由紀子さんと結婚したのは1967年10月のことでした。以後夫婦生活とともに「ときわ会生活」を続けることとなりました。
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- 壮年期
- 1973年故長井則文先生を指揮者にお迎えしました。魅力的な合唱指導力に加えて、三多摩合唱祭の指導講師を務め、国立に在住する地域的なつながりも、長井先生と「国立ときわ」との出会いは運命的なものでした。選曲,練習体制,年間の行事計画等の方針をよくよく話し合った上で、1986年迄13年の間に「ときわ会モデル」とも言うべき合唱団の運営・育成モデルを完成してくださいました。その「ときわ会モデル」とは以下のようなものです。
・選曲分野 @外国ものA邦人曲B楽しい合唱の3ジャンルを隔てなく。
・愛唱曲 ピース式五万の歌を日常練習に組み込む。
・演奏行事、日常活動の総決算として定期演奏会を継続開催。
・くにたち音楽祭・三多摩合唱祭・東京都合唱祭に継続出演し地域文化に貢献。
・東京都合唱コンクールに継続参加し技術向上に挑戦。
・etc.
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- 長井先生を迎えて5年目あたりから早大の教育業務に専念すべき白井君が運営の中心から手を引く状態となり、会長は木山輝隆さんが受け継いでいました。これまで私は団内指揮者はじめ、技術面の推進に深く関ってきましたが,、前述ときわ会モデルの構築には、私が中心となって規約原案の立案やパートポスト制の創案など運営面で多くの制度設計と実践に注力してきました。
- 1986年,故長井先生は常任指揮者を退任され、後任に荒木泰俊先生が就任されました。新体制を円滑に立ち上げるため、会長を私が引き受け総括運営を預かることとなりました。
- 声楽家である荒木先生には、原則ときわ会モデルを引継いでいただきましたが、1989年に10名近い者が脱会することがありました。又1991年、私が長期入院する事態となり、マネジメントは乱れ、地域に根差した「ときわ会モデル」を目指す私と指揮者を支持するメンバーとの志向の対立から、1995年に会は分裂してしまいました。
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- 中年期
- 分裂して残ったものは6人。その一人木野村さんに団内指揮者をお願いし、長井先生を客演指揮者として再び指導をお願いし、ルネッサンスコンサートと称した第27回定期演奏会を成功させ復興を誓いました。20名に足らない会の勢力を盛り返すため、会員募集に注力し、定期的に演奏会を敢行することで、充実した活動が出来るようになりました。
- ルネッサンスコンサート以来長井先生2ステージ、木野村さん1ステージの分担でしたが、木野村さんにはその後常任指揮者に昇格してもらい、長井先生の配慮でステージ分担を次第に木野村さんに委譲し、2000年2月の第29回定期演奏会では長井先生1ステージ,木野村さん2ステージの分担となりました。2004年の創立50周年記念第32回定期演奏会では34名出演のステージを実現しました。
- マネージメント面では2003年7月に「国立ときわ会規約」を制定、本格パートポスト体制を復活。2006年には「五万の歌」をコピー楽譜から楽譜ソフトで編集し、装丁を統一した「2006年五万の歌」に大改訂しました。
- これまでのマネジメント理念はもちろんときわ会モデルでしたが、この時期唯一違っていたのは常任指揮者が運営に深く関っていたことでした。2007年9月第34回定期演奏会をもって、長井先生が客演指揮者を退任されました。単独指揮者となった木野村さんには音楽面に専念してもらうため、私は指揮者が運営に直接関らないよう進言しました。これは受け入れられなかったため、組織体制の改変に注力しました。
- 退職後の暇に任せて私もいささか教条的になっていたようで、スタッフの方々とは必ずしも意見が合わないことが増えて、会長も辞任する状況となりました。やがて指揮者の責任条項が削除され、会長が会員を除名できる条項を盛る規約改正がありました。2011年の「長井先生を送る会」に共演して頂くOB・OGを私が指揮者に無断で声掛けをしたことが、指揮者を軽視したことになり、会長から除名宣告を受けるに至りました。
- 2012年3月この会をやめました。
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- 初老期
- 「長井先生を送る会」に参集したOB・OGを再組織して、「ときわ会モデル」の継承を決意しました。元会長白井君と同じく創立者の加藤達夫さんと清水嵩夫さんと私の4人を発起人に、2011年7月に「国立ときわ五万の歌の会」を結成しました。常任の指揮者がみつかる年末まで、私を中心に「五万の歌」を復活練習しました。
- 一方、「国立ときわ五万の歌の会」が「混声合唱団国立ときわ会」の名称を引き継ぎ、木野村さんが指揮する合唱団に会名称の変更をしてくれるよう交渉を開始しました。2013年4月、木野村さんが指揮する合唱団(甲)と「覚え書き」を交わし、甲が改名したとき、「五万の歌の会(乙)」が「混声合唱団国立ときわ会」を名乗ることを許容し、両団体が「ときわ」の歴史を引き継ぐことを確認しました。
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- 老年期
- 「覚え書」から3年、2016年4月(甲)木野村さんの指揮する合唱団は「くにたち混声合唱団ときわ」と改名しました。そして1年後の2017年4月、「(乙)国立ときわ五万の歌の会」は、「混声合唱団国立ときわ会」と改名するに至りました。
- 年末には「混声合唱団国立ときわ会コンサート〜五万の歌の会 そして明日へ〜」と題する単独自主コンサートを「いずみホール」で開催し、「ときわ会」62年間の本流に合流した事を実感しました。
- 2018年秋の「一法師夫妻の金婚を祝う会」では、私の63年、妻由紀子の53年の「ときわ生活」を、「ときわ流かくし芸」で賑やかに祝って頂きました。
- 2019年春の叙勲では、白井君がなんと「瑞宝大綬章」なる勲章を天皇陛下から親授されるという大慶事を迎えました。ときわOB・OG13名も参席した「白井会長を祝う会」を開催し、会員挙って再び「ときわ流かくし芸」で、めでたく祝ったことでした。
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- 今後
- 私が60年以上のときわ会体験から学んだ,あるべき運営理念を述べておきます。それはときわ会最盛期に得られた「ときわ会モデル」です。しかしこのモデルは会員規模や年令構成によって柔軟に解釈する必要も実感しました。
改めてこれを一般化してまとめると以下のようになるでしょう。
- (1)ときわ会の目的は,合唱をして人生を豊かにすること。
- 加えて地域文化の発展に貢献すること。
- (2)選曲分野 @外国ものA邦人曲B楽しい合唱の3ジャンルを隔てなく。
- 愛唱曲 ピース式五万の歌を日常練習に組み込む。
- (3)会員が日常活動として,自主的に合唱力の伝承・向上につとめること。
- (4)運営仕事は全会員で分担すること。
- (5)常任指揮者は会が選任し,音楽指導のみを担当する。
- 会の意思決定には直接関らず,会とは対等であり,
- 全会員に対して公平を保つこと。
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- 創立者としては,ときわ会はそんな合唱団でありたいものと思っております。
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ときわ会の略歴
- 創立
- 1955年3月、国立中学8期男子卒業生9名によって、「国立常盤合唱会」と名付けて創立された。創立者は、白井克彦・一法師昌彦・榊修三・清水嵩夫・加藤達夫・清水哲・黒田郁夫・石見量・関紀夫の各氏である。
- 時の音楽教生、故石河清氏の、合唱を中心にした楽しい授業が、この合唱団の創立に決定的な影響を与えた。
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- 国中(現国立一中)同窓会合唱団時代
- 相原末治氏など、国立音大の故岡本敏明先生の弟子たちが無償で熱心な基礎指導に当たってくれた。主要な練習曲は、岡本先生編「コーラスブック」で、混声合唱の基本を学んだ。「コーラスブック」の曲は現在でも「五万の歌」として沢山歌い継がれている。
- 「どじょっ子の会」や「三多摩合唱祭」に出演する機会を与えられ、"演奏する"ことを憶え、合唱団の形が出来てきた。
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- 一般合唱団へ
- 1960年代、創立者と同期の中館輝厚氏を、安定した指揮者として迎えた。又一般から会員募集を始め、地域合唱団へと発展した。東京都合唱連盟に加入、東京都合唱祭にも参加して活動の幅を広げた。
- 1965年、初めての自主コンサート(第1回発表会)を開催。1966-1967年、夏休みに3〜4日の合宿を定例化し集中練習をして、コンサートを定期開催した。
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- 声づくりの時代
- 1968年、中館氏がウィーンに留学後、いずれも声楽を専門とする、鈴木義弘氏、淡野(旧姓大橋)弓子氏と楠瀬一途氏の指導を受ける。鈴木氏のもとで、当時圧倒的な支持を集めていた大中恩主宰の「コール・メグ」とジョイントコンサートを開催。 又1970年から1年間、シュッツ合唱団の淡野氏から、「息」を自覚する合唱の本質を学んだ。楠瀬氏の時代には都民合唱コンクールに初参加し、第2位を獲得した。
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- 長井先生との出会い 「ときわ会モデル」を構築…
- 1973年、地元国立在住の長井則文氏を指揮者に招聘した。専門の声楽はもとより、ピアノを巧みに操り、自ら伴奏するのみならず、音取り支援、楽典の解説、サンプル楽節の演奏などで皆を驚嘆させた。さらに場面に必要な曲を、作詞・作曲・編曲され、その曲数は退任するまで13年間に200曲近い数に上った。
- 「ときわ会モデル」とは以下のようなことです。
・選曲分野 @外国ものA邦人曲B楽しい合唱の3ジャンルを隔てなく。
・愛唱曲 ピース式五万の歌を日常練習に組み込む。
・演奏行事 日常活動の総決算として定期演奏会を継続開催。
1974年〜1986年の13年間に毎年、第6回〜第18回定期演奏会を開催。
・くにたち音楽祭,三多摩合唱祭,東京都合唱祭に継続出演し地域文化に貢献。
・東京都合唱コンクールに継続参加し技術向上に挑戦。
1974年〜1986年の13年間に毎年、第15回〜第28回都民合唱コンクールに参加。
内5回は優勝して「招待演奏」を行った。
・練習 定期練習の他定期で出来ないことをホリデーレッスン(月1回の休日練習)と
春秋の合宿(Small Camp, Big Camp)で補う。
・合唱指導 全練習を指揮者が指導,譜読み段階も指揮者自身で指導。
曲の個別練習を他曲に水平展開し,共通技術として蓄積。
出席率重視。長井先生は定刻に練習開始、指導欠席は殆ど0.
・発声練習 定期練習開始時の集合発声,合宿時の個人練習,発声カルテ。
・伴奏者 団内ピアニスト制。
・運営 規約の制定,パートポスト制,R委員会+S委員会の二院制。
パートポスト制=必要な仕事を7つのポストに分けて、全会員が合唱のパートと
仕事のポストに所属して役割を果たす制度。
S委員会=運営上の会議
R委員会=音楽上の会議
・会員規模 積極的な募集活動で会員60‐80名台を維持。
・意思決定 R委員会に指揮者が加わり審議・決定。
・指揮者の位置付け
指揮者と会員間の独立性,全会員に対して公平を維持。
パートポスト制を尊重し,会の意思決定には直接関与しない。
・親睦活動 打上げ,合宿飲み会と合宿祭,パーティーコンサート。
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- 中堅合唱団として
- 1981年虎ノ門ホールで、創立25周年記念第13回定期演奏会におてモツ・レクを演奏(管弦楽;東京シティーフィル)。
- ロマン派の作品が多かったがグノー・プーランク・コダイ等にも取組む。
- 中堅合唱団として、安定成長を続けるも…。
- 社会の中堅人材として活躍する男声会員の減少傾向が顕著に。
- マンネリ化が進み、長井先生からも会の活力弱体化を懸念される。
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- 新生ときわ会を目指して<
- 1986年、創立30周年記念第18回定期演奏会と、第28回都民コンクールへの招待演奏を最期に、長井先生退任。
- 同年、荒木泰俊氏に新生ときわ会を託す。引き続き毎年定期演奏会を継続できるよう練習に励んだ。
- 1987年〜1984年の8年間に毎年、第19回〜第26回定期演奏会を開催。
- 邦人作品の作曲家田三郎、新実徳英からのレッスンを受ける。
- 1987-1990年の4年間東京都合唱コンクールに再挑戦。
- 1989年に優勝を果たす。
- 1995年1月、世代間や路線の違いから、3分裂して、一瞬解散。
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- ルネッサンスときわ
- 解散の直後、創立の心を継ぐ者6人で、木野村雅子氏を団内指揮者としてゼロからの出発。木野村氏には合唱指導のみならず運営にも深く関わってもらった。
- 1995年9月、長井先生に指揮者復任を懇願し承諾いただいた。
- 1996年5月、長井則文・木野村雅子指揮で、創立40周年記念第27回定期演奏会(ルネッサンスコンサート)を実施。
- くにたち音楽祭と三多摩合唱祭に加えてエクセルガーデンコンサート、芦花ホ−ムコンサート、青春芦花大学クリスマスコンサート、白十字スプリングパーティーコンサートなど、多彩な演奏行事を開催し活動は充実していった。
- 木野村雅子氏は常任指揮者に就任し、長井先生を客演指揮者とした体制で2007年まで3年に2回の割合で定期演奏会を継続した。
- 2003年7月、国立ときわ会規約を制定、本格パートポスト体制を復活。
- 2004年9月、800名のお客様を迎え、創立50周年記念第32回定期演奏会を開催。 翌年4月、盛大に創立50周年記念パーティーを開催。
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- 楽しく、仲よく、上手に 創立50周年を通過点にして…
- 2007年9月、第34回定期演奏会を最後に長井先生が客演指揮者を退任。
- マーキュリー・グリー・クラブから兼松講堂コンサートでの賛助出演依頼、老人ホーム・グランダ東小金井より出演依頼、Waseda125国立イベントに白井総長(ときわ会創立者)の招きで出演、東京シティーコンサートブラスの定演に賛助出演依頼など、多彩な演奏活動が続き、2009年の第35回定期演奏会からは木野村氏が全ステージを指揮した。
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- ときわ会モデルの夕暮れ 混迷の霧が…
- 長井先生の退任後、木野村氏には音楽創造に専念してもらうべく、ときわ会の伝統に従って指揮者が直接運営に関わらない体制を試行した。しかしその試行は否決される。次第に指揮者に意見も言えない雰囲気となり、2010年第36回定演後、退会者が続出。さらに筆者が会長を辞したのち、指揮者の責任条項が削除され、会長が会員を除名できる条項を盛る規約改正があった。筆者はこの合唱団でときわ会の伝統を守ることは困難と考え、2011年7月にときわ会OB・OGを集めて国立ときわ五万の歌の会」を立ち上げた。
- 2012年3月、創立者である編集人が口頭で除名宣告を受けたが、ときわの合唱は「国立ときわ五万の歌の会」に引き継いだ。
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- ゆったり、愉快に、よい音楽を …ときわ会起源の復活…
- 2011年7月、編者は創立者白井・加藤・清水氏らを発起人に、ときわ会OB・OGに呼びかけ、20名弱が参集し、ときわ会OB合唱団「五万の歌の会」を創設し、ときわ会モデルを引き継いだ。
- 一方、木野村氏が指揮する合唱団が改名して、この会が「混声合唱団国立ときわ会」の名称を引き継げるよう改名交渉を開始した。2013年4月、木野村氏が指揮する合唱団(甲)と「覚え書き」を交わし、甲が改名したとき、「五万の歌の会(乙)」が「混声合唱団国立ときわ会」を名乗ることを許容し、両団体が「ときわ」の歴史を引き継ぐことを確認した。
- 2012年、1980年代ときわ会に在籍し、国立に在住する羽田喜久代氏を指揮者に、同じく1975年に在籍していた鈴木素子氏をピアニストに迎えた。くにたち音楽祭・三多摩合唱祭への出演はじめ、鵠沼海岸や白十字でのミニコンサート等の演奏ステージを設けた。2015年には女声合唱団プロムジカくにたちとのジョイントコンサートを期に、一般からの新入会員も受け入れて、30名に迫る会員規模に発展した。
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- 〜五万の歌の会 そして明日へ〜
…名実とも混声合唱団国立ときわ会の本流に…
- 「覚え書き」から3年、2016年4月、木野村氏の指揮する団体は「国立混声合唱団ときわ」と改称した。1年後の2016年4月、「五万の歌の会」は「混声合唱団国立ときわ会」の名称を引き継ぐことになった。
- 年末には「混声合唱団国立ときわ会コンサート〜五万の歌の会 そして明日へ〜」と題するコンサートを「いずみホール」で開催し、「ときわ会」62年間の本流に合流する運びとなった。
- 腕試しに「シニアコーラスTOKYOフェスティバル」に挑戦したものの、入賞を逸して、シニアコーラス界の技術レベルを再認識させられた。後れを取らぬよう改めて技術的な研鑽の必要性を痛感した。
詳しい年表はこちらをどうぞ
お問合わせは :一法師 ipposhi@mua.biglobe.ne.jp まで